ナイフの記憶
私はナイフ。
物に魂や意識があるのか、なんて無粋な物言いは遠慮願いたい。
私はこうして確かに存在するのだから。
さて、私は一人の職人の手によって作られた。
今から百数十年前の事だ。
職人とは言うものの、彼は数あるうちの一人に過ぎなかった。
しかし、心血注ぎ私を作り上げる様は他の職人には見られないだろう。
私は彼から産まれたことを誇りに思っていた。
彼も同じ気持ちだと思う。私を手に取り眺める彼の微笑みがその証だ。
だが、いつまでも手元に置いておくわけにはいかない。
巣立つときは来るものだ。
店に並んだ私を購入したのは釣りが趣味の男だ。
魚の腹を裂くのに良さそうだと話していた。
もっと小さいナイフでも十分な気がするが、気に入ったのだろう。
今なら生臭くなるのは御免蒙りたいと思うところだが、当時の私は若かった。
売れていく他の刃物を見送り、夜、店が閉まった後
明日こそは・・・・・・いや、一生売れないんじゃないか、と不安を抱いていた。
購入されたときはそれはそれは打ち震えるような喜びが胸を満たしたものだ。
太っている上にだらしない生活かつ、不衛生な男だったが
私の手入れを怠ることはなかった。
私は彼が最初の所有者ということもあり、好きになった。
彼も同じ気持ちだったと思う。
どこへゆくにも常に一緒だった。
ある日、彼は池にボートを浮かべ釣りを始めた。
小さなボートだ。
彼が酒瓶に手を伸ばすたびに右へ左へと揺れて波紋を作った。
緑色の酒瓶を口に咥え、喉を鳴らす。
今日は四本いくかな。
私がそんなことを考えていた時、彼はうっと声を漏らし、酒瓶を置いた。
偶然にも瓶の中の酒と彼の釣り糸の先の波が同調した。
彼は立ち上がり釣り竿を振り上げた。
「これはデカいぞ、主だ! 主だな!」
彼は興奮し、そう言った。私もそうだと思った。
緑色の池の中から姿を現したのは子供一人を丸呑みできそうなくらい大きな鯰だったのだ。
「汝、なぜ我を釣る? よいか、我らの祖先、皆同じ。
世界は海から生り、人魚と半魚人から魚が産まれ、人が産まれた
海もまた別れ、そして我らはこの池で再会を――」
大鯰は彼にそう訊ね、そしてペチャクチャと取り留めのない話をし続けていた。
が、大鯰の言葉は彼に通じない。
大鯰は優雅に髭を動かしていたが、次第に落ち着きを無くし「いやだ、いやだああああああ」と大暴れした。
竿がしなり、彼の巨体とボートが揺れた。
そして、私が彼のズボンのポケットからスルッと落ちた。
あ。
と、私は終わりを察し、短く儚い走馬灯を見た。
が、池に落ちる寸前、彼が手を伸ばし私を掴んだ。
代わりに釣竿が池に落ちた。
そして大鯰は落ち着きを取り戻したのか
「我、海に帰りたい」とぼやき、姿を消した。
彼は鼻から大きく息を吐き、私を見つめた。
そして少し考えた後「まあ、仕方ないさ」と笑顔を見せ
私を突き出た腹とズボンの間に挟んだ。
その夜、彼は酒場で大鯰を釣り損ねた話を陽気に話した。
みんなはあの池にそんなのはいない、嘘だと言うが私が証人だ。
彼もそう思ったのか私を見せびらかし、そして自慢した。
酒を呷り、私という武器を手にしていたこともあるだろう
かなり気が大きくなっていた。
そして・・・・・・流れ者との喧嘩が始まった。
きっかけは些細なことだ。取り立てるほどのことでもない。
問題は喧嘩の最中、私が彼のズボンにウエストに挟まれていたことだ。
嫌な予感はしていたのだ。
そしてその予感は的中した。
喧嘩相手が私を彼のズボンから引き抜き、カバーを外して彼を刺したのだ。
私はそのまま線を引くように彼の体内を切り裂き、そして引き抜かれた。
私の刃に乗った血が飛び散り、壁に斑点をつけた。
彼は膝から崩れ落ち、そして二度と起き上がることはなかった。
私は警察に押収され、そのまま保管庫の中でしばらく過ごすことになった。
彼には身寄りがなく、私を引き取る者がいないのだろう。
いや、もし子供がいたとしても父親を殺したナイフを引き取りたがりはしないだろう。
私にはどうすることもできなかったとはいえ仕方がない。
ここが私の牢獄。
罪の色である赤い血を身に纏ったまま私は終わりが来るのを待った。
ただひたすら閉じられた段ボールの箱の中でずっと。
一度買われた身だ。自分に価値があることが証明された以上
もう待つ事は苦ではなかった。
しかし、彼の肉の感触が忘れようとしても忘れられないのが苦しかった。
漂う血の香りが薄まり、その色がくすんでも私の身を焦がし続けた。
それから数十年後、私は保管庫から出された。
処分の時が来たのかと思ったがどうやら違うらしい。
悪徳警官の小遣い稼ぎのようだ。
尤も彼を悪く言うつもりは毛頭ない。
彼は久々に私の体を磨いてくれたのだから。
まあ、それは私を高く売り払うためだったが。
私は意外と高く売れたようだ。
ホクホク顔で去るその警官を見送る私とその購入者。
その男はギャングだった。
血気盛んな若者。曲芸師にでもなった気分なのか
私を手のひらで回すと、落としそうになり前のめりになった。
ヒヤヒヤさせてくれるものだ。
彼は私をコートの内ポケットに入れると靴音響かせ鼻歌混じりに夜道を歩きだした。
彼は私を曰くつきのナイフだと仲間に自慢した。
事実ではあるから私もとやかく言うつもりはないが
彼が話すたびに私が殺した人数が増えていくのはどうにも困ったものだ。
ただ、口が達者なだけあり、明るい男で、仲間にも町の者たちにもそれなりに
親しまれていたようだ。
彼は争いが嫌いなようで私を冗談以外で人に向けることはなかった。
時々一人、木箱の上に座り、私を取り出しては太陽の光を当ててくれた。
話しかけてくることもあった。
無論、私は応えられはしなかったが。
代わりに、彼の顔を刃に綺麗に映してやろうとピンと背筋を伸ばした。
ある夜、部屋で彼が私を取り出し、月の光に当てた。
初めてのことだった。
彼は泣いていた。
もうすぐ他の組織と抗争が始まるらしい。怖かったのだ。
だが、私にはどうすることもできない。
争いを止めることも彼を守ることも。
それができるのは人間だけだ。
無論、争うこと自体も。
彼は手のひらでくるりと私を回した。
きっと大丈夫さ、と私は彼にそう言ってやりたかった。
抗争が進むに連れ、彼の地位は上がっていった。
私を懐に入れ、果敢に銃で敵を撃ち続けたその働きからと言うよりは
単に彼の上司を含む敵味方多くの死者が出て、繰り上がったのだ。
そしてある夜、彼はボスと仲間たちと共に敵のボスのもとに襲撃に出た。
これで全てが終わると彼は計画実行の前に私に話していた。
ここまで生き残ったのはお前のお陰だと。
しかし、私はただ彼の懐の中にいるだけ。
彼が命危ないところで私を使い反撃、相手を刺し殺す・・・・・・なんてことは一度もなかった。
にもかかわらずその扱い。
どうやらいつの間にか彼の中で私は曰くつきのナイフから
幸運のナイフへ地位が上がっていたようだ。
無論、私にそんな力はない。
ただ、そうであって欲しいと私は欠けた月に願った。
車を止め、銃を構えた彼らは素早く敵のボスが隠れているという住居に侵入した。
古びた屋敷だった。歩けば床がしなり、音がところどころに開いた穴から夜空に逃げていくような。
静かだった。とても。
物音を立てないように彼らは息を潜めて進んだ。
だが、それは敵も同じだった。
静か過ぎるその理由は敵が息を潜め、待ち構えていたからだ。
罠。気づいたときには遅かった。
廊下を進む中、立ち並ぶ六つのドアが開けられ
そこから飛び出した敵が銃弾の雨を彼らに浴びせた。
嫌な音だった。とてもとても。
彼の肉を抉りながら進む銃弾の音を私は最も近くで聞かせられたのだ。
彼らは全滅した。
私はただのナイフでしかなく、月もまた、ただの月でしかなかったのだ。
三人目の所有者は女性だった。
彼の懐を漁った敵対ギャングの一人が妻への手土産にしたのだ。
尤も、殺した敵から奪ったものとは言わずに
刃が鈍くなった包丁の代わりに使うと良いと渡したのだが
それを知らない女は喜んで彼にキスをした。
それからの日々は平穏そのものだった。
私が切るのは食材の類だけ。
時々切る、肉類には少々嫌な記憶が奮い起こされたが
彼女は丁寧に私を扱ってくれた。
思えばここまでの所有者全員、私の手入れを怠ることはなかった。
そう考えると幸運に恵まれていたとも言える。
あの日までは、だが。
彼女は私を額に当て、ごめんなさい、ごめんなさいと謝り続けた。
多分、私にではない。
血に塗れた私が見下ろす先にいる彼女の夫に向けての謝罪だろう。
仕方がなかったように思える。
やらなければやられていた。
が、これで彼女ともお別れ。
また牢獄、証拠保管庫送りかと思ったのだがそうはならなかった。
慌しく家に入ってきたのは警官ではなく、彼女の弟だった。
弟は私を彼女の手から奪い、その血を拭いた。
そして男の死体を袋に詰めると私を上着のポケットにしまい
袋を抱え、車を走らせた。
死体遺棄。文句を言うつもりはない。
一緒の袋に入れられなかっただけ感謝したいくらいだ。
もう死体も血の臭いも嫌だった。
男は山の中に埋められ
私は彼女の弟と共に川のほとりで月を眺めた。
彼の震えが手から伝わった。
私は二人目の所有者の事を思い出していた。
人間の男はよく月を見て泣くのだろうか、と。
私は死体が見つからないようにと彼と一緒に月に願いはしなかった。
どうせ叶わない。なら願うだけ損だ。
私は放物線を描き、川の中へ。
これで私の旅も終わり。そう思った。
だが、そうはならなかった。
四人目の所有者は最も奇特な男。
大きく強力な磁石を川に投げ込み、出てきた「お宝」を
インターネットで公開するということを生業にしていた。
錆び付いた私を手にした彼はさも興奮した様子で
大げさにカメラの前に私を晒した。
どうせ、用が済めばまた川に投げ込むのだろうと思っていたが
彼は私を持ち帰り、なんと洗いはじめたのだ。
柄を取り外し薬品に漬け、スポンジで擦りまた洗い、ヤスリと砥石で磨き・・・・・・。
それを繰り返して私はかつての輝きを取り戻した。
だが、それだけではなかった。
私自身も知らなかったが私の銘の部分には職人の、私の産みの親の名前と作品番号が刻まれていたのだ。
私を磨き上げた彼は、その場で震えながら尻餅をついた。
そして彼はどこかに電話をかけ始めた。
それから少しして、私はオークション会場に移された。
どうやら私は最大にして最悪のギャングのボスを刺し殺したナイフとしてかなり有名になっていたようだ。
そう、妻に私をプレゼントし、そして刺し殺されたあの男はギャングのボスだったのだ。
月日が経ち、結局見つかったあの男の死体から、その妻が私のことを話し
警察はその特徴から元の所有者があのギャングの若者であったことを推察した。
彼が自慢気に町の者に話していたことが幸いしたようだ。多くの人間の記憶に残っていたらしい。
そしてそのナイフがかつて警察の保管庫から消えたものだとわかり
その元所有者である釣り好きの男が購入した店を突き止めた。
私の親である職人はとうの昔に寿命を迎えていたが
生前彼がそう周囲にしきりに話していたことから私は彼の最高傑作と呼ばれ落札。
この博物館のショーケースの中にいるというわけだ。
天窓の向こうに月が見える。
私の願いを聞き届けはしなかった月だが
最も付き合いの長い友として全てを水に流すとしよう。
彼もそれを了承したかのように
窓から差し込んだ光が私を照らす。
馴染み深い。川の中でも感じていた光だ。
今思うと私はこの光に寂しさを癒されていた気がする。
月の光に照らされた私の横の説明文には歴代の所有者の名前が並んでいる。
彼らと共にこの記憶はこの先もきっと語り継がれていくだろう。