表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/17

第9話『迷子が迷い込んだ迷路』

―――**―――


 物語は美しい。


 数多の物語は光を放ち、人々の目を惹きつけ、輝かせる。

 そして世界を光で包み込むのだ。

 だから世界は優しくできている。


 “考えていいのはそこまでだ”。


 ヒダマリ=アキラは律するように念じた。

 難しく考えて、光を暴いてはならない。


 光があれば影がある。そしてそもそも、光を生み出す何かがある。そんなことは分かっている。

 だから仕掛けがあるなんて、そんなことは当然で、そして誰もが知っていることで、それでも、見ないふりをすることは出来る。


 茶番と言われても、愚かと言われても、それが無意味なことだとは思わない。

 幼少の頃から、自分は何度も輝いた世界を見てきた。

 そして幼少の頃、自分は見たではないか。秘密を暴こうとして壊れた世界を。


 目を閉じて、深呼吸して、頭の中を空にして、目を開く。

 そうすれば、キラキラと輝いた世界が目の前にある。


 だから自分は、今のままでいい。


 だけど光に影が落ちると、自分はそれに流されてしまう。

 だから今、必要なのは、踏み留まれる力だ。

 力さえあれば、光にしがみ付くことができる。


 そのはずなんだ。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 ヒダマリ=アキラは、固く閉ざしていた目をゆっくりと開けた。

 目に飛び込んできたのは、土色の鱗の巨大な背。


 状況把握がやや遅れた。

 ホンジョウ=イオリが操る召喚獣、ラッキーの背に乗っていたアキラは、いつの間にかまどろんでしまっていたらしい。


「フリオールとファロート。時空を狩り取るように外部の干渉を選択遮断できる魔術と速度上昇の魔術……、いや、魔法か。こういう使い方もあるんだね」

「ファロートの方は負荷が大きいからあんまり使いたくなかったんすけど、ラッキーは大丈夫だったみたいっすね」

「ああ。流石に疲弊はしているけどね」


 眼下から、小難しい話をしているふたりの声が聞こえた。

 黒を基調としたローブをぴっしりと着込んだ魔導士であるイオリと、だぼだぼのローブを羽織ったマリサス=アーティは、会話のレベルは合うらしい。


 どうやらすでにリオスト平原とやらには到着しているらしい。

 マリスが何かをしたらしく、ラッキーの背に乗っての移動は暴風や寒さをほとんど感じず、アキラは大移動をした実感のないまま、のっそりとラッキーの背から降り立った。


「……アキラ様?」

「いや、大丈夫だ」


 ふらついたら、着いてきたサクに手を差し伸べられた。

 その手も取らずに大きく息を吸うと、アキラはゆっくりと吐き出す。マリスの魔法に守られていたときよりもずっと冷たい空気が胚を満たしたが、アキラはほとんど何も感じなかった。


「にーさん、酔ったんすか?」

「……多分、そんなとこだ」


 妙に落ち着かない、しかし静かな感覚に、アキラは目を背けた。

 これ以上は考えるな。

 今は、目の前のことに集中するべきだ。


「…………寂しいところだな」


 アキラはぽつりと漏らした。

 一方を森林に、三方を岩山に囲まれたその平原は、草木はほとんどなく、足元の土も砂のようにざらついていた。

 森林もアイルークのような青く茂るものではなく、冷風をそのまま通すようにやせ細っている。

 何とも辺鄙な自然の一ヶ所に過ぎないのであろうこの場所は、しかしやたらと広かった。

 名前が付くのも頷けるほど広大な平原は、そしてそれだけに、何もないことが物寂しさを助長させていた。


「フリオール」

「?」


 瞬間、アキラたちの身体に、シルバーの光が纏わり付き、溶け込むように薄れていった。

 すると、今まで吹き付けていた冷風が遮断される。

 先ほどのラッキーの上でも覚えた感覚にアキラが視線を向けると、マリスは首をマントに埋めていた。


「マリス?」

「寒いっすよね、ここ」

「……流石だよな、マリス。ありがとう」

「?」


 首をかしげるマリスを見て、アキラは軽く自分の頭を小突いた。

 違う。自分はいつも、もっと大げさだった気がする。

 やはり駄目だ、これ以上は引きずるな。

 輝いた世界は、輝いた瞳にしか飛び込んでこない。

 アキラはもう一度大きく息を吸った。


「……、っし」

「今度はどうしたんすか?」

「魔物、いるんだろ? 気合い入れなおしただけ」


 明るく楽しく、笑え。

 この世界の優しさに存分に甘えろ。

 それがきっと、ヒダマリ=アキラだ。


「あれ。そう思ってたけど、魔物いなくね?」


 せっかく気を張って見せたのに、だだっ広いだけの平原に薄れて消えていってしまった。

 魔物がいるとイオリから説明を受けていた気がしたが、今この場にいる危険生物は強いて言えばイオリのラッキーだけだ。


「イオリ、ここ本当に魔物がいるのか?」

「おかしいね。いつもは出迎えがあるんだけど」

「ああ、多分自分のせいっすね」


 なんてことの無いようなのんびりとした声を聞いて、アキラは思い出した。

 マリサス=アーティはその有する魔力から、魔物に恐れられる人間である。

 最近依頼では別行動だから感覚は薄れていたが、そもそもその辺りの魔物が何体いようと、マリスがいる時点でほぼすべて封殺されるのだった。


「流石だ! マリス!」

「? にーさん、どうしたんすか。さっきからなんか変っすよ?」

「……悪い。今俺、自分を見失っている気がする」

「……」


 自分は一体どうやって、どんな口調で、マリスに接していただろう。

 ヒダマリ=アキラという人間を、アキラは本当に理解していないのかもしれない。

 自分がどういう人間か分からない。分からないから、揺らぐとこれほどまでに自分を見失う。


 やはり、確固たる力が欲しい。

 それこそあの銃を必要としないほどの、“自分”という存在を形作る力が。


「ラッキー、お疲れさま」


 イオリが周囲を警戒しながら、ラッキーの額を撫でた。

 するとラッキーは小さく呻き、身体をグレーの光と化していく。

 そしてその光は、地面に吸い込まれるように消えていった。


「具現化、なのか?」

「ん? いや、そんな大げさなものじゃないよ。ラッキーは召喚獣さ。……ええと、大地の精霊とでも言えば分かりやすいかな?」


 大分表現をアキラよりにしてもらっていることは分かった。

 生物を生み出す方が難しいような気がするが、イオリの口ぶりでは召喚獣は具現化よりは難易度が低いらしい。

 そんなことを考えているうち、ラッキーはとうとう完全に姿を消した。


「ラッキーって名前、お前が付けたのか?」

「……別にいいだろう? 本城家では代々、ペットにはラッキーって付けているんだから」


 イオリはむくれた表情を作り、颯爽と歩き出した。

 向かう先は、最も近い岩山らしい。森林の対面に当たるそれは、左右の岩山よりもずっと背が低く、崖とでも表現した方がいいのかもしれない。


「そもそもここ、どういう場所なんだ?」

「ここはよく、この辺りの魔術師隊が演習に来ている場所、といったところかな。あそこには魔物の巣があってね。定期的に駆除はしているんだけど、ちょっとするとまた増えている。随分居心地がいいみたいだね。僕らの休憩所も、あの中のひとつさ」


 イオリの説明は淀みなかった。演習で使うから、魔術師隊としての回答があらかじめ用意されているのかもしれない。

 視線を追うと、確かに崖には蜂の巣のように穴がいくつか空いている。こうした形状の巣は今までの旅の中幾度も見てきた。

 ああいう洞穴には依頼でも無ければ近づかないことにしているのだが、自分たちは今、カリス副隊長を探しに来ているのだからそうもいかない。見渡した限り、いるならあの場所だろう。


 イオリが魔物を警戒して離れた場所に降り立ってくれたおかげで、随分と距離があった。

 淡々と歩きながら、次第に口数が減っていく。

 そうしていると、マリスの魔法でも遮断できない寒さが、アキラの背筋を撫でてきた。

 黙っていると、余計なことを考えてしまう。


 アキラの隣を歩くマリスは、相変わらず半分の眼をぼんやりと前へ向け、足音ひとつ立てずにとぼとぼと歩いている。

 アキラとは歩幅が違うはずなのに、無音で平然と同じ速度で進む彼女は、改めて現実感が無い。

 ただ、それはいつも通りだ。


 気になるのは、あるいはマリス以上に無音なもうひとり。


「なあ、サク。寒くないか?」

「……、え。いえ、マリーさんのお陰で」


 アキラとの会話もそこそこに、サクは再び、前を歩くイオリの背中を見据えた。

 港町を離れたときもそうだったが、彼女の様子もおかしい。

 普段、彼女は確かに口数が少ないが、それでも面々を眺め、小さく微笑んでくれていると思っていた。


 それなのに今は、一度気付いてしまえば、これほどに。

 小さな違和感が積み重なり、アキラの脳裏を侵食してきた。


「おし。元気出していこうぜ。俺さ、こういう会話が無いのが耐えられない」

「にーさんほんとにどうしたんすか……?」


 今思えば、こういうときにこそティアが隣を歩いていればアキラの目に映る影を払拭してくれたかもしれない。

 彼女が残った港町は、今頃魔物の襲撃以上に賑わっていることだろう。


「アキラ。悪いけど、もう着いたよ。ここだ」


 イオリが見据えた先は、案の定蜂の巣と化した崖だった。

 近づいて改めて見ると、穴は思った以上に大きく、今にも崩壊しそうな気さえした。

 しかし、所々の穴には人が通れるほどの石垣や階段が建設されていて、丈夫に造られているようだ。このいくつかは魔術師隊が休憩に使っているという。

 人と魔物の手が加わった歪なこの崖に、自分のような中途半端さをアキラは感じた。


「外見は蜂の巣だけど、中は蟻の巣だ。そしていくつかは行き止まりだけど、基本的にどこから入っても奥の空洞に続いている」

「……! なあ。あそこ、馬が停まっている」

「ん? そうだね。やはりカリスは中にいるようだ」


 岩山の近くに小屋があり、その周囲を囲う柵に1頭の馬が繋がれている。

 人気も無いこの場所には不自然にも見えるその馬を、イオリは眉ひとつ動かさずに眺めていた。


「行こうか」

「待った」


 迷わず足を踏み入れそうになったイオリに、サクがようやく自発的に口を開いた。

 声色は荒く、ほとんど睨むような視線になっているのは、やはりアキラの気のせいでは無いらしい。


「中は広いのか?」

「……ああ。本当に蜂の巣みたいでね。だだっ広い穴がいくつもあって、細い穴でつながっている」


 以前見たスライムの岩山のような形状なのだろう。

 あまりいい思い出は無いのだが、サクの様子に、アキラは一刻も早く中へ入りたくなった。


「それなら二手に分かれるのはどうだ? 奥の部屋を目指すのではなく、“探索”、なんだろう?」

「…………そう、だね。その方が効率はいい」


 サクの言葉は鋭かった。

 ほとんど提案ではないそれは、あまりに理にかなっている。それこそ、イオリが気づかなかったとは思えないほどに。

 アキラは気づかなかったように、顔を上げた。


「そうそう。サクの言う通りだな。……よし、じゃあ俺は、」

「にーさんは自分と一緒にいた方がよさそうっすよね」


 すっとマリスが隣に立った。

 魔物の対応も治癒も可能な彼女が同行するのは心強い。

 だが、アキラは許可を求めるようにサクを見て、後悔した。


 いつもはひと悶着あるチーム分けに、互いをけん制するように視線を交わすサクとイオリからは、何故か一切の反論が無かった。


―――**―――


「いだっ!? いだだだだだだっ!?」

「な、ん、で、私を呼ばなかったのよ?」

「エ、エレナさん、待った待った!! 顔の形変わってません!?」


 大体の魔物は、エレナ=ファンツェルンが握り潰して抹殺した。

 その手が今、アルティア=ウィン=クーデフォンの顔を掴み上げている。

 一言二言で済む話を、吐いた息が白いとかなんとか朝起きたときのちょっとした出来事から語り出すという暴挙に及んだティアにも比はありそうだが、代償が人体の変形ではあまりに酷だった。


 すでにウォルファールを襲った魔物たちは全滅し、エリーたちは現在、提供された魔術師隊支部に戻ってきていた。

 最初にここを訪れたときに通された部屋では、港町を奔走し、そして置き去りにされたらしい面々が勢揃いしている。たった3人だけなのだが。

 そのことに最も機嫌を損ねているエレナは、息も絶え絶えなティアを開放しながらも、足を組んで獰猛な視線を窓の外へ投げた。


「どうします? あたしたちもリオスト平原ってところに行った方がいいんじゃ?」

「魔物の騒ぎの修復で、街中駆けずり回っている隊員たちに送ってもらえって? 頼めるわけないじゃない。とっとと港を修復してもらわなきゃならないんだし。ねえ?」

「うわわっ!?」


 ティアが顔を守りながら身をすくめた。

 それほど恐れるなら何故エレナの隣に座るのか。再三酷い目に遭っているのをエリーはよく目撃するが、ティアはやたらとエレナに懐いているように感じる。

 ティアの行動が謎なのは今に始まったことではないが、その甲斐あってかエリーは以前よりもエレナのことが分かるようになってきた。

 彼女は欲望にも、そして恐らく目的と定めたものにも、まっすぐなだけだ。


「はあ」


 エレナの言う通り、魔術師隊の人に頼むのには気が引ける。そして彼らの案内が無ければ、そのリオスト平原へ向かうことは出来ないだろう。

 アキラたちがあのイオリの操る召喚獣で空を飛んでいったと聞いたときは耳を疑ったが、魔導士ともなると、空を飛ぶ程度は出来るのかもしれない。


 魔導士。

 エリーの憧れて止まない目標だ。

 だが自分が合格した魔術師試験のさらにその遥か先の存在でもある。

 一体どのような研鑽と経験を積めば到達できるのか。

 聞けばイオリは、エリーとひとつしか違わないらしい。


「あの、みなさん?」


 ノックと同時に聞こえてきた声に、エリーは疲労で崩れていた姿勢を正す。

 声を返すと、魔術師隊の服を僅かに乱したサラが、ゆっくりと入ってくる。

 どこか元気が無く、エリーと同じように疲れが溜まっているようだった。


「街は?」

「は、はい。現在被害状況も大体確認し終わっていて、隊としては、報告書を作るだけにはなっています」


 エリーは居心地悪く立つサラのために、半身動かしてソファを開けた。

 我が家のように振る舞うエレナと見比べると、ますます申し訳なさを覚える。

 ふと、窓の外を魔術師隊の誰かが駆けていった。どこかから大声も聞こえる。

 魔術師隊たちはまだまだ働いているようだ。

 それならば何故、サラはここにいるのだろう。


「……いいから座りなさい」

「はい」


 エレナに促され、サラはようやくエリーの隣に腰を下ろした。

 横顔から覗く顔色を、エリーは知っている気がした。


「……どうかしましたか?」

「い、いえ」


 緊張とは違うそれを、エリーは何度も見たことがある。鏡でだ。

 今も街では慌ただしく魔術師隊が駆けている。サラは後は報告書を作るだけと言っていたが、救援活動に魔物が出現した原因の調査と、まだまだやることは山積みだろう。

 それなのに、サラがここにいる理由が、エリーには分かってしまったような気がした。


「……お払い箱?」

「っ」

「エレナさん……!」


 サラの口元がきゅっと結ばれたのをエリーは見逃さなかった。

 無遠慮な言葉にエリーは思わずエレナを睨んだが、それで解決しないことをエリーが一番よく知っていた。


「……その、先輩に言われたんです。疲れただろうから休憩してこいって……。は、はは。その、多分、そういうことなんでしょうね」


 一番たちが悪いとエリーは思った。

 僅かにではあるが、この街の騒動で、エリーはサラの動きを見た。

 憧れの魔術師様ではあるし、それなりに力があるようだったが、それでも、マリスやエレナ、そしてあのイオリは愚か、他の隊員たちと比べると見劣りするというのが正直なところだ。

 そして、そのことをサラが一番理解している。

 だから人の好意にすら、裏を感じてしまう。労わる言葉でさえも、毒のように身体を蝕むのだ。

 本当にたちが悪い。今のエリーとまったく同じなのだから。


「この件はイオ……、隊長に任されたんですけどね。でも、私にはちょっと難しかったみたいで」


 おどけて言ってみているようだが、乾いた笑いだった。

 エリーは見ていられなかった。何を言おうにも届かないし、届いたとしても、傷の舐め合いになりそうだった。


「世の中そんな悩みだらけね」

「エレナさん……!」

「だってさ、私もそうだったし。……そうだし」


 エレナから小さく漏れた言葉に、エリーは口を閉じた。

 彼女が払った代償を聞いたのは、つい先ほどのことだ。


「サラだっけ。そんな悩み、誰でも持っているわ。それこそどっかの天才ちゃんも。あんたんとこの隊長も。でも、今を何とかできる力があるから、当面悩んでないだけでしょう」


 サラに言っているように聞こえて、エリーは自分に言っているように聞こえた。

 あるいは、エレナが自分自身に言っているのか。

 少なくとも、エレナのそれは、中傷とは思えなかった。


「“だからこそ”精々悩んで悩んで苦しみなさいな。それを忘れたらそれこそ終わりよ」


 エレナの瞳は、サラを捉えているようで、誰も捉えていないように見えた。

 あるいは全員捉えているのか、それとも、ここにはいない誰かを捉えているのか。

 正面から見ても何も分からない。

 もしかしたらあのとき、彼女はこんな表情で海を眺めていたのかもしれない。

 そしてエレナは、ようやくいつものように、妖艶な笑みを浮かべた。


「ま。当面悩みたくないなら力があればいいのよ。私みたいに、暴力的なまでの、ね」


 エレナの粗暴な言葉が、どうしようもなく、悲哀に満ちているような気がした。


「はあああ……、エレお姉さま。マジかっけー……、ひっ!?」

「別に掴みかかりゃしないわよ。お茶淹れるだけ」


 エレナが立ち上がり、大仰な動作で部屋の奥の給湯所に歩いていった。


「あんたも、他人事じゃないでしょ」


 エレナが前を通りながら小さくティアに呟いた言葉は、エリーには上手く聞き取れなかった。


―――**―――


「っ―――」


 魔物を両断したサクの死角から、隙を縫って犬型の魔物が飛び込んできた。

 ファングレスというこの魔物は、群れで行動し、知能が低いわりに連携に長けた攻撃を行ってくる。

 ゆえに、その行動は想定内。

 サクが応戦しようと視線を走らせると、ビュッ、とファングレスの横腹に1本のナイフが突き刺さった。

 銀の食器のような小型の投げナイフは、土曜属性特有のグレーの魔力を迸らせ、サクは即座にその場から離脱した。

 直後に響く爆発の理由は、考えるまでもない。


 洞穴のひとつに入ると、サクの背後に立つイオリの言葉通り、蟻の巣が広がっていた。

 手を伸ばして飛べば指先が触れるほどの穴がまっすぐに伸び、その途中には曲がりくねった横穴が空いていた。横穴に入れば巨大な空洞が広がっていた。

 雨風を凌げる空洞は存外に暖かく、確かに人にとっても魔物にとってもいい住処なのだろう。

 広さも申し分なく、建物数件は入るほどで、それこそ今のように魔物の群れが待ち構えていても存分に戦える。


「!」


 サクが魔物を切り裂くと、またその隙を縫うように魔物が駆けた。

 しかし狙いはサクではない。

 1歩離れた位置に立ち、ナイフを投げていたイオリへ突撃を繰り出していた。


 しかし一閃。

 イオリはまるで動じず、ローブの中から二振りの短剣を取り出して突撃してきた魔物を切り裂いた。取り出された短剣は束の部分がワイヤーのような紐で結ばれた、一対のもののようだ。

 取り出したついでと言わんばかりに、接近を試みていた魔物を魔力で強化した短剣で撃破していく。

 武具強化型と言えばサクも同じなのだが、イオリのそれは僅かに用途が異なった。

 サクが魔物を物理的に斬り割くのに対し、イオリは短剣で切り付け、そこに魔力を流し込んで撃破しているらしい。

 土曜属性は魔力的な防御に長ける属性だが、攻撃に回れば雷のような衝撃が相手を襲う。

 生身にそれを流し込まれては耐えようもないであろう。


 空洞に生息していた魔物の全滅を確認すると、サクはイオリに歩み寄っていった。

 どうやらここには、探し人である副隊長のカリスはいなかったらしい。


「それが基本戦術か?」

「ああ。どうも僕は魔術を飛ばすのが苦手でね。遠距離攻撃は媒体が無いと大した効果が無いらしい」


 近接では二対の短剣。

 遠距離では投げナイフ。

 そして切り札の召喚獣。


 イオリの戦闘スタイルは、サクが確認しただけでも多種多様だった。

 今も魔物に接近して戦っていたサクに合わせて戦い方を随時切り替えていたような印象を受けた。

 流石に魔導士というだけはある。


 だが、そんな戦力など、今サクが覚えている違和感からすればどうでもよかった。


「それにしても凄いね。速度は魔導士の僕をゆうに上回っている。……いや、それどころかモルオールにもそうはいないかもね」

「旅を続けるなら、これくらいは出来なくてはな」

「はは。流石に“勇者様御一行”だね」


 イオリは冷静な表情のまま、サクに背を向けた。

 そしてサクは、ぴったりと、その背に刀を向けた。


「……何、かな?」


 振り返りもせずに、努めて冷静に、イオリは手を上げた。

 あくまでポーズにしか見えないその様子も含め、サクは眉を潜めた。

 この人物には、やはり、強い違和感を覚える。


「私は、信用できない者と共にいるのは抵抗がある」

「……ああ。それならそうなれるように努力するさ」


 ゆっくりと振り返ったイオリの瞳は、相変わらず奥が見通せなかった。

 首元に当たるようになったサクの愛刀の切っ先を前にしても、彼女に動揺は見えない。

 彼女に中途半端な駆け引きは通用しないらしい。


「イオリさん。……私の名前を言ってみてもらえるか?」

「…………」


 イオリが目を閉じた。

 そこでサクは、半分諦めた。


「私の名前は、サクだ。……“サクラ”じゃない」

「僕は、そう言っていたかな?」

「ああ。聞き間違いではない」


 きっぱりと言って逃げ道を潰した。

 だが、イオリが開いたその瞳は、こうやって刀を向けても、殺気が無いことはばれているのか、冷静そのものだった。

 だから彼女は、この後に続けるべき会話を考えることができてしまう。

 せっかく余計な邪魔が入らないように、ふたりだけになったというのに、無駄に終わりそうだった。


「そうだな、うん」


 そして彼女は、回答を見つけてしまったようだった。


「僕とアキラは同じ世界から来た。それは昨日、簡単に話したよね」


 アキラもそう言っていた。

 サクは慎重に頷いた。


「僕がこの世界に来たとき、“幸運”にも、こんな噂を聞いたんだ。かつて僕たちと同じ世界から来た者の末裔が、あらゆる豪族を守護し続け、今では大層な武家を築いている、とね」

「……!」


 背筋が冷えたのをサクは感じた。

 やはりイオリは、“それ”を知っているらしい。

 だが一体どうやって探り当てたのか。それこそイオリの言うように、相当な幸運でも無ければ到達しない事柄のはずだった。


「その人物は、どうやら僕たちの時代の人間ではないらしくてね。僕らにとってのこの異世界と、元の世界との時間的な繋がりは分からないけど、少なくとも大昔の人間らしい。でも、せっかくだから調べ続けた」

「……魔導士試験の勉強も両立しながら、か?」

「疑り深いね。でも、“そうでなければありえない”、だろう?」


 そう言われればサクは頷く外ない。

 どれほど確率が低かろうと、あり得るかもしれない可能性のひとつだった。


「そしたら数年前、その武家の娘が勘当されたという事実を知った。理由は、……流石に調べきれなかったけどね」


 サクは刀を下ろした。

 これ以上の追求は無意味だ。

 彼女は決して尻尾を掴ませない。自分の名を“間違えた”ときが彼女の唯一の隙だったのかもしれないが、今となっては“理由”を作り上げてしまっている。


「もういいかな?」

「……ああ。無礼なことをして悪かった」

「そうでもないさ。僕が悪い」


 イオリはそう呟いて、背を向けて歩き出した。

 サクも刀を仕舞い、静かに続く。


「でも、信用してくれると嬉しい」


 前を歩くイオリの声は、先ほどの冷静な声より暖かく感じ、それでいて、どこか寂しげだった。


「どうも僕は周りの理解を得るのが下手でね。元の世界でもあまり“友”といえる存在がいなかったくらいなんだ」

「それはその、運の……いや、“勘の良さ”が原因か?」

「そんなところさ。……まあ、こんなふうに言い訳ばかり上手くなってね。でも器用なわけじゃない。卑怯なんだ」


 イオリも今の説明を、サクが納得しきっていないことは分かっているのだろう。

 だが、こんな自虐的な言葉が、むしろ彼女を信頼させるものになることに、彼女は気づいているのだろうか。

 気づいているのだとしたら、サクの手に負える相手では無かった。


「確かに、“隠し事”はある。多くは語れない」

「!」


 駄目押しのように、イオリは白状した。


「だけど、これだけは信用してくれ」


 くるりと振り返ったイオリは、サクの目をまっすぐに捉えてきた。

 その瞳の奥は、やはり見えない。

 だが少なくとも、真摯に面と向かって話しているとは思えた。


「僕は、味方だ。それだけは信じてくれ」


 元々サクが持っていた不信感は、名前の件だけだ。

 話してみて、それ以上に、イオリへの違和感は強まった。


 しかし、今のイオリの言葉だけは信用してもいい気がした。

 甘すぎるかもしれないが、この表情を演技で浮かべられる人物が騙そうとしてきたら、そもそもサクではどうにもならないような気がした。


「……分かった」


 主君に倣って、深く追うことをサクは諦めた。

 イオリは新たな仲間。

 それだけを考えた方が、気が楽だった。


―――**―――


「らぁっ!!」


 マリスは自分を追い越し、魔物の群れに突撃していくアキラの背を見守った。

 彼が剣を振るうたびに、薄暗い照明装置の光を超えたオレンジの閃光が広い空洞を満たし、魔物が戦闘不能の爆発を起こす。

 その爆発に巻き込まれることもなくアキラは疾走し、次の魔物へ向かっていく。


 洞穴の中はマリスが思っていたよりもずっと広く、そして中にいた魔物は、思っていたよりも数が多かった。

 このモルオール大陸に来て魔物の強さは上がっている。やや知性の高い魔物も散見されている上に、定期的に駆除されているらしいとはいえこの場所は魔物の巣穴でもあるとなると、ここは、アイルーク大陸にいたときでは考えられないほどの危険区域のようだ。


 マリスは自分に襲い掛かる魔物を狂いなく魔術で撃ち抜きながら、半分の眼でアキラの戦いをじっと見ていた。


 ヒダマリ=アキラは、随分と強くなっている。


 依頼であまり組まなかったせいで、彼の成長をつぶさには見てこられなかった。

 だが少なくとも、マリスの記憶では、アキラは魔物の群れに突撃していくような勇気を持ち合わせてはいなかった。

 そして飛び込んだ上で魔物を即座に撃破できる戦闘力も、撃破と離脱を判断できる経験値も同様だ。


「レイディ―」


 小さく呟き、マリスは遠方からアキラを狙おうとしていた魔物を撃ち抜いた。

 アキラもその魔物は把握していたのか、マリスの方にちらりと視線を送って軽く頷いてくる。


 胸の奥が温かくなったような気がした。

 戦闘中にこんな感覚を覚えたのは初めてだ。


 今までマリスは、敵をほぼ一撃で葬ってきた。

 マリスにとって戦闘とはほとんど一方的に攻撃を続けて、気づけば相手が倒れているという、単なる作業でしかない。


 そしてヒダマリ=アキラもマリス同様に、敵を一撃で倒す術を有している。

 だからこそマリスはその力を淡々と使えばいいと考えていたのだが、今のアキラの姿にこれほど見せられるとは思わなかった。

 強いて言えば、姉が魔術師試験を突破したときにも似たようなものを感じた。


 不遜にしか聞こえないであろうし、あるいは嫌味ととらわれることを理解しているが、マリサス=アーティは、成長というものを実感できたことがあまり無い。

 最初から膨大な魔力を有しており、叶わぬことなどほとんど無かったため、何かに対して必死に努力して、挑み続けるという経験をしていない。


 それゆえか、今の光景から目が離せない。

 もしマリスが、あるいはアキラが、本気で戦えば、今頃この洞窟は制圧し切っているであろう。

 だが今、アキラが戦っていることが無駄だとはマリスには思えなかった。


 それはきっと、彼の成長が、自分の目に、キラキラと輝いて映っているからだろう。


 日輪属性で、具現化を有するヒダマリ=アキラ。

 その力だけしかなかったアキラは、今や別の道を見つけている。

 それでも。


「……『スタートに過ぎない』、ってやつなんすかね」

「はあ……、はあ……、へ? なんか言ったか?」

「なんでもないっすよ」


 遠距離攻撃の優位性か、結局はマリスが大半を倒すことになっていたが、この空洞の魔物は全滅した。

 息を切らせて戻ってくるアキラの腕に触れ、マリスは治癒魔術をかける。

 反射的にやってはみたものの、アキラはほとんど負傷していなかった。


「にしてもここ、なんかマジで変なところだな。灯りもあんのに魔物もいるし」

「イオリさんが言ってた通りみたいっすね。人が使ったり、魔物が住んだり。色々都合よくつかわれているみたいっす」


 所々に照明具が設置された洞窟は、確かに魔物がいるのが不自然なほど加工されていた。

 道も歩きやすいように削られて慣らされており、いくつかの空洞は崩落を防ぐためか天井にまで手が入っている。

 椅子か机か、あるいはベッドかと思われる残骸もあり、ここで生活した人間もいたのかもしれない。

 魔術師隊の演習とやらがあった直後には魔物がいなくなるが、またすぐにここをねぐらに魔物が集まってくる、というサイクルをこの洞穴は繰り返しているのかもしれない。


 ただ、マリスが最も気になっているのは、最初ここに着いたときから、照明具に灯りが点いていたことだった。

 ここまで大規模な照明具はアイルークでは見たことが無かったが、各照明具はどうやら連動しているらしく、ひとつを点ければすべて灯るらしい。

 となると、やはり奥に誰かがいるのは間違いないようだ。


「でもにーさん。強くなってるっすね」

「お、マジで?」


 治療が終わり、意気揚々と次へ進むアキラに、マリスはとぼとぼと着いていった。

 薄暗く、不気味な気配が漂い続ける洞窟の中、アキラの明るい声が響く。

 だが、戦闘で気が紛れたのか、先ほど平原で感じた不自然さは無くなっていた。

 彼は、何かに悩み、迷っていたように思える。

 それがマリスの分からない成長の一部だとしても、彼には今のように気楽に笑っている姿がよく似合う。


「……にーさん。やっぱり強くなりたいんすか?」


 具現化を抜きにして。

 言外に含めた意味を正しく感じたのか、アキラは申し訳なさそうな顔で振り返った。


「ああ。……まあな」


 最初から最強の力を持ち、それを行使してきた彼。

 姉は快く思っていないようだが、異世界から来たばかりの彼にとって、その力は大きな拠り所だったはずだ。

 その力に背を向けることを彼は選ぼうとしている。


 マリスが有する膨大な魔力は切っても切り離せないが、具現化は違う。使いたくなければ、出さなければいいだけなのだから。

 マリサス=アーティには絶対にできない選択肢を選べるアキラを、マリスは少しだけ羨んだ。

 そして同時に、彼が選んだ道がどういう未来に結び付くのか、どうしても近くで見届けたいと感じた。


 ようやく姉の言っていたことが分かったような気がした。

 戻ったら、姉に相談してみるのもいいかもしれない。

 彼の補助に回り、成長を促すことはマリスでもできる。求められれば応じるが、今の彼なら、自分に頼り切るということもしないだろうと感じた。


「マッ、マリス……!!」


 早速悲鳴のような声が聞こえた。

 マリスはほとんど反射的に彼の前に回り、はっとする。求められると応じてしまうこと自体が、もしかしたらよくないことなのかもしれない。


「?」


 元の大きな道に戻り、進んでいくと、最奥が近いのか、徐々に道は単調になっていた。

 この道では魔物たちもほとんど現れない。騒ぎを起こし、道が崩れて困るのは、人も魔物も同じだ。魔物もそれを理解しているのだろう。

 だが今、確かに奥で何かが蠢いた。


「なん、だ……?」


 構えながら恐る恐る構えを取る背後のアキラを守りながら、マリスはじっと奥の影を探る。

 すると、奥から二足歩行の泥人形のような魔物が現れた。

 アキラの背丈ほどのそれらは4体ほどで、なんの凹凸も無く、単純に人型を模しただけのような飾り気も特徴も無い存在だった。

 口が無いから当然かもしれないが、それらは何も言葉を発さず、横並びで近づいてくる。

 そうかと思えば、マリスたちから一定の距離を保ち、ぴたりと止まった。


 いや、これは、魔物と言うより。


「な、なんだあれ。マリス、あれ、なんて魔物だ?」

「……分からないっす」

「……!」


 この回答は今日2度目だ。アキラにも伝わっただろう。

 マリスの知る限り、こんな魔物は存在しない。


「しょ、召喚獣、ってやつか? イオリが?」

「いや、イオリさんの召喚獣はラッキーだけのはずっすよ」

「じゃあ敵ってことかよ……、4体もいるんだけど……、って、い!?」


 見据えた先、横並びで立ち止まった泥人形たちの背後から、また、4体の泥人形が同じように歩いてきていた。

 先に現れていた泥人形の後ろまで歩いてくると、まるで隊列を組むかのようにぴたりと止まる。

 計8体の泥人形が並んだが、それもまだ収まらなかった。さらにその奥から、影が蠢き、同じように歩いてくる。


「……マ、マリス。マリスさん。滅茶苦茶嫌な予感がするんですけど」

「全部揃ったら襲ってくる、なんてことが起こりそうっすよね」

「……やる、か」


 マリスはこくりと頷いた。

 何のつもりか知らないが、相手の行動を最後まで見届けているほど暇ではない。


 アキラがマリスを追い越し、剣を構えて駆けていった。


「らぁっ!! ―――は!?」


 マリスの目から見ても、アキラの攻撃自体に隙は無かった。

 だが、アキラの接近に何の反応も示さなかった泥人形たちは、剣が捉えるその刹那、一糸乱れぬ動きで背後に跳び、最小限の所作で攻撃を回避する。

 マリスも一瞬決まったと思うほどの攻撃を回避した8体の泥人形たちは、奥から現れてきたさらに8体の泥人形と合流し、いよいよ軍隊のような隊列を組んでいた。

 ここまで統率された大群の敵をマリスは見たことが無い。

 嫌な予感に素直に従い、マリスは腰を落とした。


 道を埋め尽くすようになった泥人形たちは、またもその地点で無言を貫くのかと思いきや、16体が揃うのを待っていたのか、今度は一斉に身を屈める。


「にーさん!! 来るっすよ!!」

「あっ、ああ!!」


 言うが早いか、泥人形たちは隊列を保ったまま突撃してきた。

 今度はアキラが迎え撃つ形になり、泥人形の突撃に応じて剣を振るう。


「らぁっ!!」


 横一閃。

 敵の属性を問わない日輪属性の剣の一撃は、前方4体の泥人形をまとめて斬り飛ばした。

 だが。


「―――!?」


 アキラの身体が泳いだ。

 振るった剣の勢いそのままに、アキラは倒れ掛かる。

 アキラが捉えた泥人形たちは、僅か1撃で身体を崩壊させ、脆く崩れ去っていく。

 最初の4体は囮だったのだろう。全く抵抗の無い敵に力いっぱい剣を振り抜いたアキラは、息継ぐ間もなく突撃してくる残りの泥人形に反応しきれない。


「っ、にーさん!!」


 すべて反射で行った。

 身体を崩したアキラに、マリスはシルバーの光を纏わせ、強引に引き寄せた。

 それと同時に手を突き出す。

 今まで倒してきたモルオールの魔物も強力ではあるが、この泥人形たちは毛色が違い過ぎる。

 戦い方を考えて行動する、最も面倒なタイプの敵だった。


「レイリス!!」


 洞窟内をシルバーの閃光が鋭く走った。

 残る泥人形と同じ12本の魔術は、狂いなく泥人形たちに向かっていく。


「!」


 だが、マリスの攻撃は、すべての敵に届かなかった。

 マリスの魔術を見た瞬間、泥人形たちは突如として立ち止まり、1列目と2列目のそれらが身を守るように手を交差させる。

 一時的に耐久力も上げられるのか、丁度全滅させるつもりで放ったマリスの攻撃を、泥人形は8体を犠牲に凌ぎきってみせた。

 土煙が巻き上がる中、最奥の4体が未だこちらに向かって突撃してくる気配を感じる。


「っ、やっろ!!」


 その土煙にアキラが突撃していった。

 土煙の中かすかに見える残る泥人形たちに、オレンジの光を灯した剣が振るわれる。

 残った4体が囮ということも無いだろうと、あえて最初の反省を活かさず力いっぱい攻撃を繰り出したアキラの剣は、確かに泥人形を捉えた。

 だが。


「レイリス!!」


 マリスの嫌な予感はそのまま的中した。

 アキラの判断はある種正しくはあったが、それすら泥人形たちは読んでいたのか、残る4体は隊列を組んでいなかった。

 まとめて斬り飛ばそうとしたアキラの剣は僅か1体のみを捉え、残る3体は回り込むようにアキラを囲っていた。


 マリスが守る余地も無いほど強く放った魔術を3体の泥人形へ放つと、すべての泥人形はただの土塊のように崩れ落ち、洞窟の地面に溶けていった。


「はあ……、はあ……」

「大丈夫っすか? にーさん」

「た、助かった。マリス。……やっぱすげえな」


 立ち上がりながら呟くアキラの表情は見えなかった。

 だがその声色に、あの泥人形を見たとき以上の嫌な予感がした。

 妙な焦燥感にかられたマリスは口を開こうとしたが、それよりも早く、アキラはいつも通り軽薄そうに笑って見せてくる。

 そんな表情を見ると、マリスはこれ以上何かを言う気にはなれなかった。


 補助に回ろうと思った矢先、彼に危機が迫ったのを見て、自分の身体が勝手に動いてしまった。マリスにとっては当たり前のことを当たり前のようにしただけなのだが、アキラが囮の4体と最奥の1体の計5体を倒したのに対し、マリスは11体である。

 今度こそアキラも分かってしまったのかもしれない。マリサス=アーティという存在は、勿論誰よりも上手く誰かの手助けができるのかもしれないが、そもそも誰かの補助をする意味が無いということに。

 姉にはとっくに見抜かれている。

 自分がどれほど彼の成長を見届けたいと思っても、それを塗り潰してしまうのだ。


「マリス」

「……」

「マリス?」

「……なんすか」

「いや、さっきの奴ら、なんか妙に戦い慣れてなかったか、って思って」

「……確かに。“戦われていた”って感じっすね」


 マリスは気を落ち着けながら、土煙が漂う泥人形たちがいた場所を見た。

 近接の敵に対する1列目の囮。そして応用を利かせてきた4列目。マリスが一撃で葬ったとはいえ、防御行動を取った2列目3列目も、何らかの考えのもとに行動していたのだろう。

 ああした行動を取る魔物もいなくはないが、いずれもその辺りにいる魔物とは一線を画す存在たちだ。知能を持つ魔物というのは、それだけで脅威であり、その上で戦闘に技巧を凝らしてくるとなると相手の一挙手一投足に必要以上に気を配る必要も出てくる。


 そして、相当な連携が取れていたあの召喚獣と思われる存在たちは、明確な殺意のもとに襲い掛かってきた。

 つまりは召喚獣の使役者が近い場所にいる可能性が高く、それなのに、自分たちを攻撃してきたとなると、魔物と誤認しているわけでもなさそうだった。

 やはり嫌な予感がする。

 自分たちは、人を探しにここに来ただけのはずだというのに。


「! また来やがった……!!」

「……本当に複数召喚できるみたいっすね」


 再び奥から、泥人形が4体横並びで歩いてくる。

 召喚獣には様々な召喚方法があるという。

 マリスの見立てでは、この泥人形たちはそれぞれ独立して行動する、複数召喚によって呼び出された存在たちだ。

 先ほど16体も撃破したというのに、奥からまだまだ泥人形たちは兵隊のように歩いてきていた。

 1体1体は大したことないが、あの数に連携を取られるとなると魔物なんかよりもずっとたちが悪い。

 こうなってくると術者自体を即刻叩くべきであるのだが、その場合、最早マリスが突撃を仕掛け、一掃することになってしまう。

 そしてそれは、アキラの具現化の出番とも言える。


「……なあ、マリス。さっきラッキーにかけていた、速度上昇の魔術。俺にも使えるか?」


 泥人形たちが歩み寄ってくる中、アキラは剣を手放していなかった。


「ファロートのことっすか? あれは結構負荷が……。それに、慣れてないと頭が追い付かないっすよ?」

「なら認識能力も上げるとかできるか? ……は。頼り過ぎか?」


 求められれば、大抵のことは出来る月輪属性。

 当然、アキラの要求を叶えることはマリスにはできた。


 泥人形たちは、先ほどと同じように、一定数集まらないと攻撃してこないのか、あるいは別の作戦でもあるのか、先ほどと同じように無言で並んで立っている。


「……それこそ負荷が高いっすよ?」

「やるしかないだろ……!!」


 アキラはマリスの目をまっすぐ見据えてきた。

 そんなことをされたら、マリスは断れない。


 マリスの力を使って、アキラを一時的に強化する。

 そうすれば確かにあの泥人形たちを撃破することは可能だろう。


 だが、それをするならそもそもマリスが戦えばいいだけの話である。

 マリサス=アーティは、より安全に、確実に、あの泥人形たちに一切の抵抗を許さずせん滅することができるのだから。アキラはその後ろから自分の身だけを守りながらついてくればいいだけなのだ。


 今までの自分ならその選択肢を選んでいたと、マリスは思う。

 だが、今のマリスは、アキラが求めてくるそれを、無意味なことだとは思わなかった。

 ほとんどマリスに頼ることと、完全にマリスに頼ることは違うのだ。


 それはきっと、次に繋がる何かになる。

 今のアキラはそれを求めていて、それをまっすぐ見据えているような気がした。

 マリスには決して見えないそれは、彼の目にはどう映っているのだろうか。


「……了解っす」

「助かる」


 どれほど負荷が高かろうが、アキラは構わず求めてくるだろう。

 マリサス=アーティはそれを求める彼の要求を拒めない。


 彼は、止められないのだ。


「いくっすよ、にーさん!!」

「ああ!! 頼む、マリス!!」


 マリスは勢いよく腕を振った。


―――**―――


「やっぱりここだったみたいだね……!!」


 イオリの良く通る声が響く広間を、サクは注意深く観察した。


 サクとイオリが到着したのは、この洞窟で見た中で最も大きい広間だった。建物はもとより、もしかしたら自分たちが泊った宿舎が庭ごとそのまま入るかもしれない。

 道中イオリが説明していたここには、洞窟に入るときに見た穴のほとんどがつながっているらしい。元はこの巣を作った大型の魔物が鎮座していたという。


 魔術師隊の休憩所として最も使っているのもこの広い空間らしく、各所に人の手が入り、地面には腰掛のような岩も点在しており、最奥にはモルオールの魔術師隊の所有地とでも言うように、イオリたちの服にも刻まれている巨獣の大きな瞳を模したエンブレムの団幕が飾られている。


 そしてその団幕の下。

 最も大きな岩に腰掛け、糸の切れた操り人形のように項垂れている男がいた。

 声が届いているのかいないのか、イオリと同じ魔術師隊の服を纏い、じっと地面に視線を落としている。

 サクも昨日会った、探し人であるカリス=ウォールマンは、髪は乱れ、ずれた眼鏡もそのままに、沈黙を保っていた。


「カリス!! ……今日の勤務態度について、話したいことがある」


 隣のイオリが、ぐっと息を呑んだのが聞こえた。

 これほど魔物が闊歩する洞窟の中、魔術師隊の副隊長がたったひとりで座っている。

 その異常事態に、サクはいつも以上に神経を尖らせた。


「何故」


 ぽつり、とカリスが声を漏らした。

 身体を震わせ、ぼそぼそと呟き、次第にそれは大きくなっていく。


「何故……、何故。こんなことに……」


 はっきりと聞こえた声からは、強い悔恨を感じた。

 だがカリスは、強い意志を持つように、顔を上げて睨みつけてきた。


「何故、お前ひとりじゃないんだ。イオリ……!!」


 カリスの顔を正面から見て、サクは寒気を覚えた。

 瞳は三白眼、ほほはごっそりと削げ、顔面は蒼白。色彩が奪われた唇を震わせ、凍死直前の人間のようにも思えた。

 昨日話したばかりだというのに、僅か1日で、人はそこまで憔悴するものなのか。

 だが、カリスから迸る殺気から、正常ではない活力を確かに感じた。


「カリス。……何があった?」

「よりによって、勇者様を巻き込むなんて……、これで、俺は、俺は……」


 まるで成立しない会話の中、カリスの負の感情だけをひしひしと感じた。

 サクは周囲の穴を伺う。アキラとマリスは、まだ到着していない。


「これは俺とお前の問題だ……。それなのに、図々しくも勇者様を連れてくるなんて……。よくも俺に手をかけさせたな……!!」

「!」

「……大丈夫。アキラたちなら、きっと無事だ」


 ぴくりと刀に手が伸びそうになったところを、イオリが止めてきた。

 アキラたちは今、カリスが仕掛けた何らか罠に襲われているかもしれない。

 確かに今、彼にあのマリサス=アーティが同行しているとなればどうにかなるとは思えないが、それでもカリスの異様な雰囲気に、サクの頭から嫌な予感が離れなかった。


「……色々聞きたいことがあるけど、まともな会話はしてくれないらしいね。でも、ひとつ聞いておくよ。カリス、何が狙いだ?」

「仕方ない……。これは仕方ないんだ……。イオリ。お前を、殺す……!! そこの女も、勇者様も、知られた以上は……!!」


 途切れ途切れに聞こえる言葉に、サクは目を細めた。

 どうやらカリスは、このイオリの殺害を企てているらしい。昨日の様子を見ても、あまり良好な関係ではないとは思ったが、そこまで拗れているようには見えなかった。


 そして、そのために、こんな場所までひとりできたのかもしれないが―――穴があり過ぎる。


 そもそもカリスを探しにきたのは、港町が突如襲われたからである。

 そしてイオリがここに来たのは、ほとんど偶然に近い。何しろ隊を束ねる者として、街に残る可能性の方がずっと高いのだ。

 召喚獣のラッキーを有するイオリが探しに来ることも考えられなくはないが、そんなものはほとんど賭けでしかない。

 もしカリスの狙い通り、イオリをたったひとりでここにおびき寄せたいのであれば、別の日に別の方法で呼び出した方がずっと確実だ。

 実際、イオリがここにきているということ自体はカリスの目論見通りにはなっている。

 だが、仮にサクでは想像もできないほど緻密に計算された前々からの計画だったとしても、少なくともサクなら、“勇者様御一行”などという面倒な連中がいるときには絶対に決行しない。


 会話もまともにできず、行動も支離滅裂なカリスに、サクの頭の奥で得体の知れない何かが蠢いたような気がした。


「もう、やるしか……ない……!!」

「!? なんだ……!?」


 のっそりとカリスが立ち上がったと同時、大広間に地鳴りが響いた。

 自分たちとカリスの中間の地面がグレーの光を纏ったかと思えば、所々が隆起し、人型の高さまで膨れ上がっていく。

 初めて見る現象にサクが構えると、イオリに腕で制されて下がらせられる。

 気づけば岩が転がっていたばかりの空間に、数十、数百の泥人形が現れた。


「……な、なんだこれは、あの男の魔術か……!?」

「カリスの召喚獣だ……!!」


 その数は最早この洞穴で掃討してきた魔物の数を超えていた。

 そして、暴れるばかりだった魔物たちとは違い、その泥人形たちは、岩の上に立ったカリスの演説でも聞くかのように規則正しく整列する。


 揺れが収まると、軍隊とも言えるほどのそれらの大群は身じろぎひとつせずに立ち、巨大な空間は不自然な沈黙に包まれた。

 召喚獣というものも、そして魔導士というものもサクは理解していないが、これだけの数現出できる人間が存在するとは到底信じられない。


 しかし今、目の前で、憔悴した様子のカリスが、無限を思わせる泥人形たちに向けて、手を上げた。


「ラドウス。……殺せ」


 その瞬間、すべての泥人形が同時にくるりと振り返った。

 そして暴力的なまでの数の敵は、サクたちに身構える。


「……イオリさん。彼は、これほどに……?」

「いや。流石にこれほどではなかったよ……!!」

「……やるか……!!」


 泥人形たちが動き出す前に、サクは地を蹴った。

 足を止めていたらあっという間に囲まれる。

 飛び込む先は、壁際の先頭の泥人形だ。いくら速度に自信があっても、奥に切り込みでもして囲まれれば、袋叩きにあってしまう。


「っ!?」


 イエローの一閃。サクが抜き放った愛刀は、隅の泥人形を斬り割いた。

 だが、想像以上に手ごたえが無い。まるでそこには最初から何もなかったかのように、その泥人形はグレーの光を漏らしながら消滅していく。


「サクラ!! それは―――」

「!」


 サクは瞬時に離脱し、襲い掛かってきた他の泥人形たちから距離を取る。

 離脱間際にけん制で放った刀は、今度は弾かれた。


 このラドウスというらしい召喚獣は、見た目は全く同じでも、それぞれ個性があるらしい。

 見た目に特徴が無いのも作戦の内なのか、実際に斬るまで敵の硬度が推測できない。

 攻撃を放つたびに考えさせられる相手は、今までの敵よりもずっと戦いにくいが、囲まれさえしなければサクは即座に離脱できる。


「……流石だね」

「その名で呼ぶのは止めて欲しいんだが」

「ああ、すまないね」


 一方イオリは、投げナイフを主体にラドウスを攻撃していた。

 囮であろうとなかろうと、イオリの攻撃は的確にラドウスを撃破していく。

 近距離攻撃よりは効率がいいのであろうが、ナイフにも限りがあるだろう。実質無害な囮役ではなく、攻撃役のラドウスを見極めて戦わなければあっという間に尽きてしまう。

 何しろ数が規格外すぎる。


「イオリさん!! 彼は、まさか……!!」

「ああ。早く止めないと……!!」


 これほどの数の召喚獣を、カリスは操れなかったとイオリは言った。

 それはそうだ。こんなことが出来るのであれば、カリスひとりで魔術師隊を名乗れるほどである。


 だが事実、目の前には膨大な数の召喚獣が現出している。

 ならば今、カリスは通常のプロセスではない対価を払っていることになるのだ。


 魔術の対価は、魔力、時間、そして生命だ。

 本来操ることのできないほどの量の召喚獣を瞬時に現出させたとなれば、カリスが今捧げている対価が何かはサクにも分かる。


「……」


 泥人形の区別がまるでつかないサクは、退路を維持しつつラドウスを片っ端から斬り割いてく。

 だがそのほとんどは抵抗の無い囮だった。もしかしたら本命は、ほとんどイオリの方へ向かっているのかもしれない。


 カリスの命を懸けた猛攻に襲われ続けるイオリは、とうとう短剣を取り出して戦い始めていた。


 何があればここまでの恨みを買うというのか。

 いや、最早まともな思考でカリスの現状を推し量ることに意味はないのかもしれない。

 魔導士にまでなる人間が、ここまで自暴自棄に行動するなど、最早日常の延長線上にはないように思えた。


「彼に何があった!? 何かに操られているのか!?」

「直接訊いた方が早そうだ……!!」


 イオリは、同じ隊の部下を、サクよりもずっと理解しているのだろう。

 見れば彼女は、ラドウスたちを撃破しながら必死にカリスの元へ向かおうとしていた。

 瞳には、怒り、焦燥、不安、恐怖の色が入り混じり、冷静な彼女の代わりに叫び声を上げているように見える。


 サクには、その様子が、底知れぬホンジョウ=イオリという人物の根幹に関わるような気がした。

 彼女は、自分に、信頼して欲しいと言っていた。


「―――っ」

「サクラ!?」


 安全圏から攻撃を仕掛け続けていたサクは、イオリに纏わりつくように集まっていたラドウスに詰め寄って斬り割いた。

 それだけであっという間に他のラドウスたちに囲まれるが、陣形を整える暇は与えない。追い払うように愛刀を振り抜き、イオリから距離を取らせる。

 ここまで接近するとなると多少のリスクは払うことになるが、これ以上見ていられなかった。この先にイオリを向かわせることが、解決の近道なら迷う必要もない。


「イオリさん。ここは任された」

「……ひとりで大丈夫か?」


 サクはこくりと頷いた。

 近くのラドウスを追い払ったことで、イオリには僅かに余裕が生まれる。

 そしてその余裕があれば、イオリには出来ることがあった。


 イオリは一対の短剣を束ねて左手に持つと、右手の指で輪を作る。

 その意図に気づいたサクは、距離を取った。


「ラッキー!!」


 イオリが叫びながら指笛を響かせた直後、彼女の足元が先ほどの隆起とは比べ物にならないほど膨れ上がった。

 グレーの魔力を迸らせ、形作られたそれはイオリの操る召喚獣ラッキー。

 獰猛さを思わせる嘶きと共にラドウスたちを押し退けて現出したラッキーは、イオリを背に乗せ、野太い四肢で大地を踏み締める。


「僕はカリスへ向かう!! ここは任せた!!」

「ああ、行ってくれ!!」


 サクの声に後押しされ、イオリはラドウスで埋め尽くされた先、岩の上に立って全体を見渡すカリスを睨んだ。


「カリス!!」


 高くなった視線の先、変わらず睨みつけてくるカリスを捉え、イオリはラッキーを進撃させた。

 統率が取れているとはいえ、ラドウスは戦闘にはさほど向いている召喚獣ではない。

 イオリの召喚獣の暴力的なまでの突撃には、成す術なく蹴散らされていった。


 イオリの知るカリスの召喚獣は、複数召喚が可能なタイプではあるが、この数を現出させているとなれば対価は生命に及んでいるであろう。

 こうなればカリスの肉体的な安否など気遣っている余裕はなく、このままラッキーの突撃で早期決着を狙う他なかった。


「―――ラドウス!!」

「!?」


 途端、イオリの視界が遮られた。

 カリスが叫んだ直後、目の前にラッキーにも勝る大地の隆起が現れる。

 突如として現れた障害物に激突した衝撃に、イオリは即座に土曜属性の魔力で身体を覆った。


「ぐっ!?」


 交通事故のような衝撃をラッキーに全力でしがみ付いて耐えた直後、先ほど隆起した大地から大木のような腕が伸びてきた。

 その2本の腕はラッキーの肩を掴むと、押し返そうとしているのか大地を揺らしながら力をかけてくる。


「ラッキー!! 押し返して!!」


 イオリの叫びに呼応するように、隆起した大地は徐々に形を成していく。

 その姿は、やはり先ほどまでと同じ表情が無い泥人形。だがそれは、足元に大量に蠢く人形とは違う、巨人のような大型の召喚獣だった。


 召喚獣は術者の魔力やその召喚方法で多少は姿が変わる。

 この大型のラドウスは、イオリも見たことが無い、カリスが全力で召喚した際のラドウスの真の姿なのだろう。

 ラッキーから感じる負荷を察知し、イオリはこの大型のラドウスが、力だけなら自らの召喚獣よりも高いと判断した。

 こんな巨人を召喚しつつも小型のラドウスを大量発生させているとなると、いよいよカリスが対価に捧げた命の総量が致死に至っているようにすら思える。

 焦るイオリは短剣を抜き放ち、ラッキーの肩を掴んでいる腕に駆け寄った。


「クウェイル!!」


 押し合いは不利と判断し、イオリは大型のラドウスの腕に短剣を突き立て、魔術を放った。

 土曜属性は、他の魔術の影響を最も受けにくい、揺るがない属性である。

 ゆえに、魔術や魔力を有した敵に触れると、魔力の流れを拒絶し、力が強まれば強まるほど、その反発を促進する。

 同じ土曜属性の召喚獣とはいえ、短剣を媒体に直接身体の中に送り込めば、そこから雷のような衝撃が全身を駆け巡ることになる。

 バラバラと身体を崩し始めた巨人相手であれば、ラッキーの突進を凌ぐことなど出来はしない。


「かっ―――!?」


 魔術に集中していたイオリの胸が、鋭い一閃に貫かれ、身体が弾き飛ばされる。

 ラドウスに突き刺していた短剣は、繋がっているイオリの腰に刺さっていたもう1本に引かれ、ラドウスから抜き放たれる。

 ラッキーの上を転がったイオリが胸を抑えながら顔を上げると、先ほどイオリがいた場所に、目をぎらつかせたカリスが彼の武器である鉄の棍を構えて立っていた。


「苦しめ……、苦しめ……!!」

「ひゅー、ひゅー、っ、か、はっ」


 棍で胸を突かれたせいで、イオリはまともに呼吸が出来なかった。

 もし喉を突かれていたらと思うとぞっとするが、もしかしたらカリスは、言葉通り苦痛を与えるために、わざと外したのかもしれない。


 カリスらしい戦術だった。

 召喚獣は強力ではあるが、それをそのまま使うだけでなく、時に有効な囮として戦術に取り入れる。

 巨人のラドウスを現出させたのは、自分の身を隠すことと、イオリの意識をそちらに向けさせることが目的だったらしい。


「そうだ……、そうだ。俺の方が、……優れている……!!」

「っ」


 呼吸を整える間もなく、カリスはラッキーの上を鋭く走ってきた。

 辛うじて構えた短剣は、カリスが振るった棍に弾かれ、今度は鳩尾を鋭く突かれる。


「グ―――」


 手は痺れ、身体に力が込められないほどの吐き気が襲ってきた。

 イオリは顔を歪めながら、それでも何とか立ち上がり、構えを取る。

 カリスは、変わらず狂気に満ちた顔でイオリを睨みつけてきていた。


 強い。

 カリスとまともに戦ったことは無かったが、それでもイオリの想像以上にカリスは強かった。

 魔力を含んだ総合力ではイオリに分があるが、体技や技術力、そして魔術師としての経験値は元々カリスの方が上である。

 発狂しているかのように荒々しく襲い掛かってくるカリスは、しかし戦いにおいては冷静に、その技術を存分に発揮していた。

 幸いにも足元のラッキーとラドウスの押し合いは、先ほどのイオリの攻撃のお陰か均衡を保っている。だが、小型のラドウスたちが集まり始めている。いずれ背にも上ってきてしまうであろう。


 生命を対価に捧げ続けるカリスを一刻も早く止めなければならないというのに、状況は悪化の一途を辿っていた。


「そうだ……。イオリ。お前は隊長の器じゃない。……俺が、俺が一番相応しい。そうだ……、そうだ……」

「カリス……」

「それなのに、お前なんかが隊長になるから、俺は、俺は、こんなことに……。最悪だ……、最悪だ……」


 あるいはそれは、イオリに言っているのでは無いのかもしれない。

 呪詛のように呟くカリスの言葉は、悔恨に満ち溢れていた。


 だがそれでも、イオリはギリと歯を食いしばった。

 カリスの呟きに、イオリは耳も、そして胸の奥も痛くなる。


 カリスは今、イオリを殺そうとしている。

 だが、イオリは、カリス=ウォールマンが、そんな人間ではないことを知っている。

 イオリに不満を持っていたとしても、微塵にも影響させないほど職務には実直で、類まれなる技術を持つモルオール大陸の中でも指折りの優れた魔導士だ。


 そんな彼がここまで変わってしまった理由。

 それをイオリは知っていた。その一端を、自分が担っているのだから。


 2年前。

 突如イオリは日常から切り離された。


 元の世界には両親も、そして愛犬もいて、深い交友の相手はいなかったとはいえ、学校生活もそれなりに充実していた。

 だがそれでも、この異世界に訪れたイオリが最初に思ったことは、元の世界に変えることではなく、この世界で生きていくことだった。


 魔法や魔術、神族や魔族など、物語の世界にしかいないような存在たちは、当時16だったイオリの関心を大いに引いた。

 自分のことを現実主義だと思っていたのに、ここまで未知の世界というものに憧れていたとは、イオリ自身驚いた記憶がある。

 元の世界への愛着も、都合のいいことに所々記憶が飛び、日々の中でさらに埋もれていったのも手伝ったかもしれない。


 そして。


 自分に宿った力に、名前を付けられたのはそれからずっと後のことになる。


「……カリス。“そんなことは分かっているさ」


 イオリは声を震わせながら、カリスを見据えた。


「前に、僕に“予知能力”があるって言ったことがあったよね。……あれは、本当だ」


 この“隠し事”は、カリスにだけ届けばいい。

 遠くで戦うサクには聞こえないだろう。


 この異世界のスタート地点で、右も左も分からなかったイオリに起こった不思議な現象。

 この“隠し事”は、辿り着いた、ひとつの可能性だ。


「“尊敬する君”にはちゃんと伝えておこう。僕は、異世界から来た。そのとき、未来を視たんだ。今から何が起こるのかを」


 理由は全く分からない。そして視たのはそのときの一度きりだ。

 だが、イオリは確かに見た。

 夢だとは思えないほどリアルな、長い長い物語を。


「“その予知によれば”、隊長だったのは君だよ、カリス。僕は、副隊長だった」


 カリスの身体がピクリと動いた。予知能力のことを話したのはカリスだけだ。

 何故そうも先を見通せるのかと、カリスに訊かれたことがある。

 そのとき彼は冗談だと受け取ったようだが、イオリはそれなりに真摯に彼と話したつもりだった。


 そもそもイオリが魔導士試験の勉学と並行しながらも、召喚獣をこの精度で使役できるのも、その予知で視たカリス=ウォールマンという人間の技術力に触れたからだ。

 魔導士として、そして恩師として、カリスのことをイオリは誰よりも尊敬している。

 だから予知で視た彼に倣って研鑽を積み、彼に倣って魔術師隊を率いることができるほどの能力を身に着けた。


 そして、その予知のすべてをイオリは記憶できたわけではないが、大きな節目は覚えている。

 大きな町が魔物の被害に遭うタイミング。危険な魔物が出現するポイント。

 イオリは大きな事件であればあるほど、先回りして対処できた。


「そんな予知夢というようなものを視た理由はまるで分からない。……“僕はすべてを知っているわけじゃない”からね。だけど、君が解決するはずだった事件も、僕は先回りした。……してしまった。その結果がこれだ」


 イオリに対して劣等感を向けるカリス。

 カリスが優れているからこそ、イオリの異常性をより敏感に察知してしまったのかもしれない。

 こんなカリス一面は、イオリの予知に、もちろん登場していない。


「だからこそ、仮説は立てられたよ。やっぱりそうなんだと、思ってしまった」


 イオリは拳を握り、恩師を正面から捉えた。


「―――僕が視たのは、きっと、物語の“あるべき姿”だ。僕が僕の予知通りに行動していたら、こんな“バグ”は起こらなかった」


 視えた予知に、イオリは抗って行動してしまった。

 そこには多少の私利私欲はあったかもしれない。


 だが、最も重要だったのは、その物語の結末だった。

 途中までキラキラと輝いていた世界は、最後の最後、“黒く濁って終わったのだ”。


 だからイオリは、その結末だけは避けるように行動しようとした。

 予知で視えていた未来を歪ませるために、要所要所で予知に背く行動を取り続けたのだ。


 アキラには話せない。

 ヒダマリ=アキラという勇者も、イオリは予知で視た存在だ。

 そしてそんな彼は、そうした世界の陰りというものを極度に嫌う。

 実際に出逢った彼も、それは変わっていないように思えた。


 イオリが視た予知が世界のあるべき姿だとしたら、自分はただひたすら影を作ろうとしていた存在でしかない。


 そしてその甲斐あってか、現に、“色々とおかしなことが起こっていた”。


「色々と“バグ”が多いのも、僕が責任の一端を担っているんだろうね。そのせいで、君はそんなことになってしまった。自分でやったことなのに、こんなにも後悔している。……本当に僕は、わがままだ」


 こうなっては最早、イオリの視た予知はほとんど意味をなさないように感じていた。

 ヒダマリ=アキラの一行がこの地を訪れたのが決定的だったのか、あるべき世界の筋書きから、大きく離れてしまっている。


 事実イオリの視た予知では、今自分に牙を向けているのは、“サラ=ルーティフォンのはずだった“。

 イオリに対する劣等感が増大し、彼女が襲い掛かってくるはずだったのだ。

 だからこそ昨日サラの行動には目を光らせていたのだが、世界を弄ったせいで、今はカリスが“被害に遭っている”。


 相手は違えど、ここでの戦いが発生するのは決まっているようで、つまりは“刻”の出来事であると言えるかもしれない。

 イオリに対して負の感情を持った相手が、殺意を向けてくるという物語を避けられることは出来ないということなのだろうか。


「……は。僕は本当に人望が無いね。どうあっても人には恨まれるらしい。……本当の友人が出来ないわけだ」


 だが、どれほど胸が痛もうが、イオリは歯を食いしばって前へ進まなければならない。


「だけど、もう止まるわけにはいかない。世界を“バグ”だらけにしておいて、放り出すわけにはいかないんだ。そして、“視えてしまった未来”を変える。それがきっと、僕が予知を視た理由だ」


 もうこの世界は、イオリが予知で視たあるべき姿をしていない。結末を変えたくとも、その結果、世界自体が崩壊しては意味が無い。

 だからこそイオリはこの2年、執拗に力を求めた。それこそ、魔導士に、魔術師隊の隊長になるほどまでに経験を積んで。

 歪んだ世界となったとしても、結末に辿り着くことが出来るように。


「―――そういうことは、言って欲しかった」

「!」


 そこで、シルバーの光に包まれたひとりの男がラッキーに飛び乗ってきた。


「……ア、アキラ……?」

「はっ、はっ、はっ」


 ヒダマリ=アキラは、ラッキーの上で睨み合うふたりの間に割って入った。

 これで平静を装えていれば格好がついたのかもしれないが、ほとんど呼吸もままならない。

 マリスにかけてもらったファロートという魔術の効果は、アキラの想像を超えていた。自分では到底なしえないほどの速度と攻撃力を有する上、上げてもらった認識能力は強力で、敵を認識した次の瞬間には剣を振り抜いている。

 だがその結果、アキラは身体中がバラバラに崩れるほどの陣痛と、直接脳を握り潰されているような頭痛に常に苛まれていた。


「……い、いつ、から?」

「ずっと近くにいた。ラッキーに乗ろうとしていて人形を倒していた」


 ほとんど呂律が回らなかった。

 アキラが一瞬だけ視線を投げたラッキーの下では、泥人形が48体土に溶けるように消えていく。視界の隅で、イオリがその惨状に眉を潜めたのもアキラには分かった。

 視界は霞み、荒い息は治まらず、それでも意識したことが直接頭に入ってくるような全能感に、アキラは息も絶え絶えに笑った。


「はっ、はっ、俺、今、スター状態だから」


 事実アキラは、ラッキーまでほとんど止まらずに駆け抜けてきた。

 泥人形たちの連携は凄まじく、あらゆる技巧を凝らしていたと思うのだが、ほとんどアキラの記憶には残っていなかった。

 目の前の事象と、自分が考えたことと、その結果。今なおそれらがめぐるましく頭の中を駆け巡っているが、今のアキラの頭の中には更なる情報が怒涛の勢いで入り込んでくる。

 傷は負っていないが、今にも倒れ込みそうだった。

 やはり自分は、実力以上の力を使うと苦痛を強いられる運命にあるらしい。


「……勇者様……!!」


 だが、今は倒れ込むことは出来ない。

 目の前のカリスの風貌は、アキラの記憶から大きく変わり果てていた。

 そしてアキラを認識し、しかしその上で、彼から漏れる殺意が変わっていないこともすぐに分かる。

 この男は泥人形の召喚獣の使役者でもある。制圧する必要がある敵なのだろう。


「……なあイオリ」


 カリスに油断なく構えながら、アキラは呟くように言った。

 イオリの言葉は聞こえていた。

 まだ完全に信じることは出来ないが、イオリは未来を視たという。

 そして彼女はその未来に背き、世界の形を変えてしまったことに責任を覚えているらしい。

 だがもし、それが本当だとしたら。


「……お前の視た未来。あるべき世界とやらで―――俺は“具現化”を使えたか?」

「……」


 マリスの魔術は身体を蝕み続ける。

 だが、アキラはその確認だけはしておきたかった。

 自分が結論付けた、最大の“バグ”である、あの銃の存在を。


「……いや。君はそんなこと、できなかったよ」

「そっか……」


 アキラは少し肩を落とした。

 勇者の力だなんだと喜んでいたあれは、やはり、イオリの言うあるべき世界とやらには無いらしい。


「だったら俺は、お前よりもずっと責任がある」


 イオリは“バグ”を作り続けていたという。

 だがそんなもの、きっと可愛いものだろう。巡り巡って何らかの影響が出ているかもしれないが、アキラに比べれば些細なもののはずだ。


 何しろアキラは、物語の形も、伏線も、想いも、あらゆるものを蹂躙してここまで進んできてしまっているのだ。

 アキラを苛ませる世界の陰り。それを“バグ”というのであれば、自業自得という他ない。


 アキラの具現化も、イオリの予知能力も、未だ出所は分からない。

 だが異世界来訪者であるこのふたりに授けられた特殊なその力たちは、一体何のためにあるのだろうか。

 見つからない答えを追おうとし、しかしアキラは首を振る。

 少なくとも今、自分にできることはひとつしかない。


「ならもう使わない……!!」


 それが世界の陰りを作るというなら。

 それが“バグ”の温床であるなら、今のアキラは距離を取ることを選択する。


 マリスの力で強化されて、一時的に気が大きくなっているだけかもしれない。

 だけどそれでもよかった。

 言葉にすれば、少なくとも、自分は多少それを守るようになるだろうから。


 そうすることで、世界は優しさを取り戻す。


「……せっかくだから、1度くらいは見ておきたかったな」

「!」

「ラッキー!!」


 イオリが短剣をしまい込み、ラッキーの背に手を当てた。

 魔力を流して強化したのだろうか、今まで拮抗していた巨獣たちの押し合いが、一気に優位に傾く。

 それを阻止しようと、眼前のカリスはぎらついた目のままで腰を落とした。


「アキラ。僕はこれから、ラッキーに意識を傾ける。……君は、」

「……ああ」


 未だカリスは、ぶつぶつ何かを呟いている。

 彼の身に何が起こったのかは知らない。

 だが、眼光を開き切り、憔悴した様子のあの男が、昨日見た様子と重なり、どうしようもないほど痛々しく思えた。


「あんな彼は、もう、見ていられない」

「……分かった」


 アキラは1歩踏み出した。

 それに応じるように、カリスは手にした棍を構え、突撃してくる。


「らぁっ!!」

「―――っ!?」


 アキラが迎撃に飛び出した瞬間、カリスが目を見開いた。

 サクに並ぶのではないというほどの速度で接近したアキラは、強化された力にあかせて剣を振るう。

 単調ゆえに避けようのない剣撃は、カリスを受けた棍ごと弾き飛ばす。


「ギッ―――」


 うめき声を上げたのは、ラッキーの上から弾き落とされたカリスではなく、その一撃を繰り出したアキラだった。

 一挙手一投足が身体中を蝕み、視界が赤く染まっているような気さえする。

 マリスが使用を控えていたのはこの反動があるからなのだろう。

 下手をすれば廃人になりかねない激痛に、それでもアキラは歯を食いしばった。


「―――っ!!」


 アキラは落ちていったカリス目掛け、ラッキーから飛び降りた。

 すでに足元には泥人形たちはいない。

 離れた箇所でサクと合流したマリスが順調に撃破してくれている。

 意識を僅かに向けただけで、彼女たちの戦いの詳細が頭を埋め尽くすも、それを強引に振り払ってカリスに斬りかかる。


「ぶ―――っ!?」


 接近した瞬間、カリスが棍を振り抜いた。即座に回避するも、先の一撃は牽制に過ぎず、直後腹部を突かれる。

 カウンター気味に受けた攻撃にアキラが転げると、カリスは詰め寄り、棍を鋭く振り下ろしてくる。


「ち―――」


 マリスの魔術が無ければアキラはピクリとも動けなかっただろう。

 強引に転がり回って回避すると、しかしカリスは距離をなおも詰め、アキラに体勢を整える間を与えず攻撃を繰り返す。


「って、つっ、強っ!?」


 剣をコンパクトに振り、棍を弾いてようやくアキラは立ち上がれた。

 即座に応戦しようと構えを取るも、カリスは距離を取って隙の無い構えを取っていた。


 一手動いただけで袋叩きにされかけたアキラが動きを鈍らせると、カリスは鋭く突撃してきた。

 アキラが剣では抑えにくい突きの攻撃を主体に棍を放ち、防戦一方にさせてくる。


「ちょっ、まっ、待てって……!!」


 何をしようとしてもカリスはアキラの動きを的確に封じ、攻撃が許されなかった。

 これが魔導士というものなのだろうか。

 大量の召喚獣を操り、疲弊しているはずなのに、マリスの力で強化されたアキラは防戦一方だった。


 そして、攻撃をさばき続けるだけでもアキラの身体は軋みを上げ続ける。

 早速使わないと宣言した具現化の力に魅力を感じる羽目に陥ったが、アキラは雑念を振り払った。


 これは世界の“バグ”とやらなのだろうか。

 こういうときは、勇者は相手を圧倒すべきではないだろうか。

 現状その勇者は、勇んで戦いを挑んだ上、比喩なく殺されそうになっていた。


 高まった認識能力が、泥人形の大群を倒し終わったマリスとサクを捉えた。

 そして、巨人のような泥人形も、イオリによって制圧されている。


 気づけばこの戦闘は、完全にアキラ待ちになっていた。


「っ―――」


 アキラは力いっぱい地を蹴って、カリスから距離を取った。

 カリスは棍を突き出しながら突撃してくる。


「少しくらいは―――」


 身を捩ると、カリスは棍を横なぎに振るってきた。

 アキラは剣を掲げて応じる。

 このパターンは何度も見た。攻撃の衝撃に体勢を崩されたアキラは、そのあとに続くカリスの連撃に再び手を封じられる。

 カリスも想定通りだろう。


 だが。


「!?」


 カリスの放った一撃には、ほとんど何の抵抗も残らない。

 振り抜いてしまった棍が、持ち主のいない剣を弾き飛ばす。

 カリスもそうするとは思わなかっただろう。まさか戦闘中に、武器をあっさり手放すような者がいるとは。


 剣を犠牲にしたアキラは、身を屈めて攻撃をやり過ごすと、ようやく動きを鈍らせたカリスに踏み込んだ。

 抵抗の無い敵に攻撃すれば隙が出来る。さほどアキラも経験させられたことだ。


「―――かっこつけさせろ!!」


 マリスの魔術によって急加速したアキラの拳が、カリスの顔面を捉える。

 眼鏡が粉々になるほどの衝撃に、カリスの意識も根こそぎ狩り取った。


「……アキラ。攻撃するときに喋ると、舌を噛むよ」

「はっ、はっ、……まじで今だけは格好つけさせてくれよ」


 命からがらだったが、アキラはようやくカリスを制圧することができた。

 身体中が軋みを上げ、頭痛はピークに達している上、イオリの酷評と散々ではあったが、アキラの気分は爽快だった。


 自分は初めて、強敵相手に、あの銃の力を使わなかったのだ。

 マリスの補助に頼り切りはしたが、アキラ自身の戦闘の可能性を感じられた気がした。

 このまま研鑽を積めば、具現化無しで、本当に勇者と認められる日がくるかもしれない。


「にーさん!!」

「ん?」


 カリスに弾き飛ばされた剣を拾いにいこうとすると、マリスがわざわざ飛翔して、全力で接近してきた。


「今すぐ座って!! じっとして!!」

「へ? なん―――」


 マリスの顔が眼前に現れたと思えば、アキラの視界は暗転した。

 身体に纏わっていた安心感のある“何か”が消えていくのを感じる。


 そして。


「っ、ぅっ!?」


 耳から何かが吹き出し、目玉は抉り出されるように疼き、身体の骨という骨が弾き飛ぶ。

 そんな感覚を同時に受け、アキラはその場に崩れ落ちた。


 魔術の使用中に感じていた頭痛や身体の痛みは、代償ですらなかったらしい。

 一瞬、アキラは自分が何者なのかすら分からなくなった。

 激痛と表現できるかも分からない未知の苦痛の中、気絶と覚醒を強制的に繰り返させられ、視界が赤や黒に面白いように変わる。

 当初具現化を使ったときの代償である脱臼など比較にもならない。

 頭の中からすべてが消え去り、アキラは身体を跳ねさせるだけの物体となった。


「…………が、が、が、」

「にーさん!!」


 それでも。

 その身動きひとつ許されない地獄のような激痛が、ほんの少しだけ和らいでくる。

 僅かに戻った視力が、目の前の影を拾った。

 そのまま身を任せていると、色の無い世界で、その影は、自分を抱きしめてくれていることが分かった。

 自分は彼女に、何かを伝えなければならないような、そんな気がした。


「……か、勝った、……勝った」

「分かってるっすよ。分かってるから、じっとして」


 選んだ言葉はあっていただろうか。

 だが、徐々に意識がはっきりしてきたアキラは、それゆえに今度は正常な痛みに苛まれる。

 しかしそれすらも急速に和らいでいった。


 ようやく戻った視界は、シルバー一色に染められていた。

 アキラに抱き着くように触れ、マリスが際限なく放出してくれている魔力は、この広い空洞すべてをシルバーの魔力で覆い尽くしている。

 あまりに膨大で、強力で、アキラ自身、昨日は異常だと思ったその力は、しかし今、何よりも美しく思えた。


「……あ、あり、が、とう。マリ、ス。た、たす、か」

「大丈夫。大丈夫っすよ」


 未だ治療を続けてくれるマリスは、泣きながら、ようやく微笑んでくれた。

 彼女に強化を願い、無茶をして倒れて、やはり彼女に救ってもらう。物語だとしたら、これほど都合のいいことも無いだろう。

 それほどまでに、世界の陰りになりかねない力を持つマリス。

 だがアキラは今、目の前で泣いているひとりの少女に、純粋に感謝し、安堵した。


 誰が何を言おうが、マリサス=アーティという少女に出逢えたことは、アキラにとって。


「イオリさん。どうかしたのか?」

「……いや」


 膨大なシルバーの魔力に包まれた世界。

 マリスの後ろに並び立つイオリが、未だ鋭い目つきで空洞内を見渡していた。

 意識を手放しかけているアキラは、その視線を追おうとして、マリスに咎められた。


「……マリサスに、気圧されたのか」


 イオリはそう呟き、倒れたカリスに歩み寄っていく。

 覚えた違和感は、アキラの意識と共に、薄れていった。


「何でもないよ。……これで終わりだ。帰ろう」


 こうして、単なる人探しだけだったはずの探索は、幕を閉じた。


―――**―――


「それじゃあ、もう分からないってことか?」

「ああ」


 アキラの質問に、イオリは淡泊に応えた。

 柔らかい来客用のソファに座り込んでくつろぐアキラとは違い、イオリは最奥の机で手元の資料を流れるように読みながら、ときおり何かを書き込んでいる。


 アキラは、一昨日イオリと出逢った応接室を訪れていた。

 昨日の諸々の事件からひと段落つき、港町は未だ痛々しい傷跡を残しているも、この早朝でもどこかからは人の声が聞こえてくる。

 活気付いているとまではいかないが、この街も徐々に元通りになっていくのだろう。


 結局、港は数日の間は閉鎖らしい。

 だが、アキラたちが物理的にこの街に留まらなければならないこと自体は、イオリにとって都合がよく、今日もイオリは引継ぎの準備を淡々と進めている。

 この部屋を訪れて、せわしなく働くイオリの邪魔になりそうだとアキラは思ったが、彼女は快く迎え入れてくれた。

 アキラの相手など、彼女にとっては片手間で出来るのだけなのかもしれないが。


「今この時点でも、僕が視た予知からもう随分と逸れてしまっているみたいでね。……まあ、あまり役に立ちそうなことは言えないと思う」

「……そうか」


 アキラにも教える気はなかったらしい話だ。イオリもあまりその話を深掘りされたくはないのだろう。

 イオリは、自分が“バグ”を作った者と考えているのだからなおさらだ。


 そしてその結果の歪みは実際に昨日起こったという。

 イオリの話では、昨日の自分たちが戦ったのはカリスでは無かったそうだ。

 それ以上は語ってくれないイオリだったが、少なくとも、予知通りの事件は起こらなかったという事実はアキラも認識する必要があると話してくれた。

 未来に何が起こるか分かればいくらでも手を打てるのだろうが、そのつもりで備えていて、裏切られたら余計な被害が出るだろう、と。


「ところでアキラ。身体は大丈夫なのか?」

「…………正直言うと、座っているのもきつい」

「それにしては随分早起きだね。日も昇ったばかりだよ」


 柔らかいソファの上なのに、身じろぎするだけでアキラの身体に痺れたような痛みが走る。単なる筋肉痛と思えれば気が楽なのだが、鈍い頭痛を患ったり、ときおり視界が霞んだりと、あまり楽観できる状態では無いらしい。

 マリスの治療を受けたのだからいずれは復調するのだろうが、あまり経験の無い感覚に、後遺症が残ったらと身を竦ませたのも何度目か。

 だがそれでも、この身体は、この時間に起きることを覚えていた。


「朝の鍛錬。参加しなくてもいいと言われていたのに、随分と勤勉だね」

「……お前ほどじゃないだろ。まさかとは思うけど、昨日から寝てないとかじゃないだろうな」

「……」


 イオリは応えなかった。

 わざわざ応接室に閉じこもるように資料を運び込み、今なおペンを進める彼女の表情はやつれていた。

 黙々と仕事を進めるイオリは、何かに取り憑かれているようにも見える。

 彼女がそうまでする理由を、アキラは推測できる。


「……なあ。お前が予知で視た未来と違うことが起こった、ってだけなんだろ?」

「ん?」

「だから、そんなに責任感じなくても」


 イオリの手がぴたりと止まった。

 彼女が今やっているのは引継ぎ作業だという。

 となると相手は、主に副隊長であるカリスということになるだろう。というより、カリスの仕事とも言えるものだ。

 昨日の騒ぎで彼の処遇がどうなるかは知らないが、少なくとも、引継ぎは引継ぎ先がいなければ成立しない。

 それが組織として対応というものなのかは分からないが、イオリのやっている仕事量は、ひとりの人間だけのものだとは思えなかった。


「いや。それでも、カリスがあんなことになってしまったのは、僕の責任だよ。僕の作った“バグ”の結果で、世界が壊れたからだ。きちんと償いはする。だから、カリスの仕事は僕がやらなくちゃ」


 イオリが辛そうに見えるのは、疲労のせいだけではないだろう。

 だがアキラは、イオリがそこまで責任を感じる必要はないと感じる。


 イオリは未来を視たという。

 だが、それに背いたところで、所詮それは起こらなかった未来でしかない。

 それこそパラレルワールドのようなものだ。


 だがそこから逸れただけのことを、イオリは世界を壊したとまで言っている。

 それともただ、イオリが尊敬しているらしいカリスの豹変に、アキラの想像以上に堪えるものがあったのだろうか。


 そして、そのことについてだけでも、アキラには未だに整理できていないことがあった。


「なあ」

「ん?」

「……いや、何でもない」


 聞こうとして、アキラは諦めた。

 答えが返ってくる気がしなかったからだ。


 アキラは昨日カリスに突かれた胸をさする。


 あのカリス=ウォールマンという男。

 彼の身に一体何があったというのか。

 後で聞いた話だが、命を対価にまで捧げてイオリを襲ってきたという。

 生命を対価すること自体、限られた者にしかできないらしいが、それ以上に、そんなことをする人間など、当然ほとんどいないらしい。

 そしてそこまでして、魔術師隊内でそんな騒ぎを起こす人間がいるなど、あり得ないと言い切ってもいいだろう。


 彼の身に何があったのか。

 イオリが語ってくれないその未来では、その伏線は回収できたのだろうか。

 そしてそこでは、彼女はこんな表情を浮かべてしまっていたのだろうか。


「昨日も言ったけどさ。やっぱ、ほとんど俺のせいだと思うんだよ」

「……そう言ってくれていたね。でも、」

「だから、そうだな。なんか手伝えることあるか? 責任取るって言うなら、俺も付き合うよ」

「じゃあ、アキラ。この仕事、変わってくれるかな?」

「…………………………………………よし。任せろ」

「わ、分かったアキラ、冗談だよ。だから、止めてくれ」


 イオリが向けてきた字で埋め尽くされた紙に手を伸ばそうとしたら、イオリは顔を青くして庇った。

 ほとんど頭を通り過ぎていっただけのその資料が何を意味しているかは、アキラにはもちろん分からない。

 それでもむくれた表情を作ると、イオリは呆れたように肩を落とした。


 だが、小さくても、苦笑でも、多少は笑ってくれたことに、アキラの気は少し楽になった。


「まあ、気を遣ってもらってありがとう。元の世界で逢っていたら、そうだね、気が合っていたかな?」

「その話は止めようぜ。今じゃこっちが現実だ」

「ああ、やっぱり気が合いそうだ」


 イオリはまた、小さく笑う。

 明らかに優等生に見えるイオリは、アキラと住む世界が違うような気がしたが、彼女は何故かそう感じるらしい。

 疲労がたたって適当に言っているだけかもしれないが、苦笑交じりに笑うその表情に、アキラは、多くを語らない彼女の本当の一部を見たような気がした。


「本当のこと言うとさ」


 いよいよ辛くなってきたのか、イオリは資料を机に投げるように置くと、目頭を強くつまんだ。

 流石にこれ以上仕事を続けるのは無理があると気づいたらしい。


「昨日の出来事は忘れたいほどだけど、僕はずっと待っていたのかもしれない。ああいう劇的な“変化”を」


 予知では起こらなかったという、イオリに殺意を向けてきた、カリスとの戦い。

 望まない戦いだったとしても、その変化自体を彼女は求めていたという。


「何故か視えた未来。その終着点を変えたくて、この2年間、奔走していたんだ。だけど、変わったのは自分の身の回りの小さな環境だけ。ずっと不安で不安で仕方なかったよ、自分の行動に、果たして意味があるのかどうか」


 イオリが最も硬く口を閉ざすのは、その“終着点”とやらだ。

 分かっているのは、彼女の行動は、すべてそれを変えることに繋がっているということだけだった。


「だけど昨日、ようやくはっきり形に現れた。少しは希望を持てたよ」

「あんまりいい変化じゃなかったみたいだけどな」

「……いや、カリスのことだけじゃない。君たちがこの場所に来てくれたこともだよ」


 希望を持ったというイオリ。だが、彼女の浮かない顔が、それを言葉通りに受け止めることを許さなかった。


 ホンジョウ=イオリという女性に出逢って、アキラは、この世界に確かな影を感じた。

 ご都合主義。お約束。まるで物語のような数々の出来事の裏に、何かを感じずにはいられなかった。

 切り離そうとしてもまとわりつくこの悪寒に、アキラなどよりずっと聡明なイオリは、2年間も付き合い続けている。


「だけど」


 イオリは、口元を歪めた。


「昨日の出来事。それは確かに変化だったけど、より確信したことがある。……やっぱり、僕が視た未来の方が、“世界のあるべき姿”だ。だけど今、現実に、そこから逸れる“バグ”の存在がある」

「……俺の具現化もだよな」

「出所も分からないんだってね。自己防衛なことを言うつもりはないけど、僕以外にも、そして君自身以外にも、“バグ”の担い手はいる気がする。……それも、運命を捻じ曲げるほどの圧倒的な、ね」

「……ひとり、心当たりがいる」


 アキラは物語の陰りを嫌う。

 見ないで済むなら目を背けたい。

 だが、それを最初に感じさせた存在が、アキラの心の中に立ち続けていた。

 圧倒的と言われれば、すぐにでも思い当たる存在だ。


「ちなみに、それは?」


 イオリにも伝わっているだろう。

 一昨日、アキラはイオリにも、その出逢いのことは話している。


「アイリスとかいう、“神様”だよ」


 沈黙が訪れた。

 イオリは顔をしかめ、いつしか爪を噛んでいた。


 ご都合主義で、お約束で、だからこそ不自然なこの世界の出来事。

 運命の担い手は、この世界では“実在”するのだ。


「でもさ。自分で言っていてなんだけど、おかしくないか? 神様ってどっちかって言えば、運命を守りそうな気がするんだけど」

「……確かに、ね」


 イオリも同意見だった。

 点在する“バグ”は、世界のあるべき姿を犯す存在だ。

 だが、世界があるべき姿であることは、神にとっては望ましいことである。

 何故なら世界のあるべき姿とは、一様に、“正義”と定義されている存在にとって都合のいいもののはずなのだから。


「でも、それならもうひとり容疑者がいる」


 イオリの口調は完全に犯人捜しだった。

 アキラは身を乗り出しながら、その存在の可能性に思い当たった。


「“魔王”」


 世界があるべき姿であることにメリットを受けるのが神だとしたら、当然、デメリットを受けるのはその対極ということになる。


 アキラは思わず右手を見た。

 未だに謎に包まれているヒダマリ=アキラの具現化。

 現状最も“バグ”を生み出していると思われる、伏線も想いもすべてを蹂躙する絶対的な力。


 もし“バグ”を望むのが魔王と考えるのであれば、その力の出所も、当然同じということになる。

 だが、そうだとしたら。


「だけど、それにしても妙なんだよ。“勇者”に強大な力を与えるなんて、魔王にとって何の意味がある?」


 イオリはすでに考えを進めていた。

 実際に具現化に何度も助けられてきたアキラは、彼女の言葉には完全に同意できた。

 多少の力ならまだ分かる。だが、この具現化の力は、それこそ常軌を逸している。


 アイリスという神は言った。

 今の魔王は、英知の化身。何を企んでいるか分からない、と。

 アキラには想像もできないような謀略が存在しているのではないかと勘繰ってしまう。だがそれでも、アキラの具現化はどんな謀略があったとしても塗り潰すほどなのだ。


「神が“バグ”の作り手だとしたら、メリットが無い。魔王が作り手だとしたら、やり過ぎ。……だったら、……、……、駄目だ。流石に限界みたいだ。ヒントも少ない」


 イオリの目の焦点が合っていないことに気づいた。

 徹夜で仕事をしていた上に、余計に頭を使わせてしまったらしい。

 生気が無い表情で立ち上がると、イオリはふらつきながら、歩み寄ってきた。


「すまないアキラ。また話そう。……僕は、」

「ああ、寝ろって。……お疲れ」


 口を開くのも億劫になってきたのか、イオリは頷いて、そのまま部屋を出ていった。

 アキラはそれを見送って、行儀悪く足を投げ出しソファに寝転ぶ。

 イオリほどではないが、アキラも身体の調子は悪かった。


「“バグ”、か」


 頭痛と眩暈に苛まれながら、アキラは意味も無く右手を天井にかざしてみる。


 整理して考えると、今目の前にある“異常”はひとつ。


「……いや」


 アキラは呟いた。

 異常の数は、“ふたつ”だ。


 出所の分からない不思議な力は、アキラの具現化だけではない。

 ホンジョウ=イオリの予知能力も、まさしく降って湧いた“異常”である。

 それがあったからこそ、彼女は世界に“バグ”を作り始めたのだから。


 イオリはそれに気づいていないのだろうか。

 いや、彼女のことだ。気づいていて、そしてとっくに考えを進めているだろう。

 だが聞いたとしても、彼女は語らないような気がした。


「……」


 アキラはぼんやりと考える。


 ふたつの“異常”。

 共に異世界来訪者に与えられた力と言ってしまえばそれまでだが、与えたのは誰なのか。

 それらは、物語の中にはあってはならないはずの明確な異常だ。


 アキラの具現化は、神にとっても魔王にとっても不都合である。それは先ほども結論付けた。


 イオリの予知の方はどうだろう。

 世界のあるべき姿を彼女に見せると何が起こるのか。

 神にとって、未来を守らせる役が必要だったとする。

 だが、イオリはその終着点を避けたいと言っていた。そう考えるような奴に未来を視せれば、やはり“バグ”は生み出される。

 望み通りにはならないことは、神にはもちろん分かるだろう。

 ならば、魔王にとってはどうか。


「……だめだ」


 まるで整理が出来ない。

 あらゆる疑問が一気に沸き上がり、それが“お約束”に対しての疑問なのか、“バグ”に対しての疑問なのか、アキラの頭では分別も出来なかった。


 それでもアキラは勇者として、足を止めることを許されない。


「…………」


 アキラは自分というものを持っていなかった。

 今まで深い考えも持たず、漫然と日々を過ごしていただけだったのだから。


 そんな人間が訪れたのは異世界。

 言葉だけは通じたとはいえ、右も左も分からない中、目の前の出来事に目を輝かせることしかできなかった。


 そしてその世界は陰りを見せ始めている。

 突如、いや、きっと徐々にだったのだろう、複雑さを増し、どれが伏線で、どれが無意味な杞憂なのかすら分からない。


 迷子が迷い込んだ迷路。


 そんな中で、迷子は、アキラは、一体何が出来るというのだろう。


「……考えるのは、やっぱ……、慣れない、……な……ぁ……」


 釈然としないまま終わった今回の騒動を思い返そうとするも、アキラはいつしか寝息を立てていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ