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第8話『描けていた世界』

―――**―――


「たっ、隊長ーーーっ!!」


 その声に呼ばれ、イオリは肩ほどまでの黒髪を揺らした。

 無機質に物が並んだ執務室。イオリのこめかみ辺りの小さな飾りのついたヘアピンが、この部屋唯一の華やかさだった。

 黒い眼を手元の分厚い資料から正面に向ければ、重厚な木製のドアが、外からの駆け足に呼応して揺れている。


 また、彼女か。

 イオリは苦笑し、再び手元の資料に目を落とした。

 資料には、各地方の事件の見出しがリストアップされている。


 ここのところ立て込んでおり、ひと月ほどため込んでしまったそれらのニュースは、この北の大陸モルオールだけのものに留まらず、全世界の大きな事件が取り上げられている。


 一応は毎日目を通しているモルオールの事件は読み飛ばし、特に南の大陸シリスティアのニュースに入念に目を通し、肩を落とした。


 “あの事件”は、現在も未解決だ。

 何十年、何百年も前から時折発生する、失踪事件。

 依然として手掛かり不明なそれは、魔族が介入しているとまで考えられており、世界規模で見ても、伝説とまで言えるほどの大事件だ。


 まだ、か。


 イオリは小さく呟き、あとはざっと目を通す。

 軍事国家の政治の動きや商業都市のプロモーション。未だに何の話をしているか分からない企業の新商品の情報を一目で不要と判断し、ぱらぱらとめくっていくと、とある事件でイオリは手を止めた。


 アイルークの主要都市のひとつ。ヘヴンズゲート。

 神の一撃が民を救ったらしい。


 神が力を見せたという話は聞いていたが、こうした話題は定期的に発生している。

 あまりに気に留めていなかったが、まさかアイルークの事件だったとは。

 発生したのは、およそ一週間前らしい。


「……!」


 そこからアイルークの記事に重点的に目を通していき、イオリは眉をひそめた。


 およそ1か月前。

 こちらもアイルークの主要都市、クロンクランで魔物が街に侵入したという事件があった。サーカスに紛れて侵入してきたらしいその魔物たちは、魔術師隊や居合わせた旅の魔術師の尽力で無事討伐されたらしい。

 そういえば数週間前、大きな荷物を運ぶ旅団を見つけたら、入念な検査をしろという国からの伝達がイオリ率いる魔術師隊にあった。


 イオリは細かな記事を探し出し、そしてさらに眉をひそめる。


 その魔物の群れは、謎のオレンジの閃光によって救われた、とあった。


 これは。


「隊長!? いるんですか!?」

「……ああ」


 外からの足音がピタリと止まったかと思えば、ガンガンとドアが叩かれる。

 ため息交じりに応答すると、勢いよくドアが開け放たれた。何度もそうやって開かれているこのドアは、壁に痛烈に激突し、ドアノブの形が確固たるものになっていく。

 この部屋を仕事用にあてがわれたときにはなかったはずのその傷は、すべて目の前の少女によってつけられたものだ。


「隊長……! いるならいるで出てきてくださいよ」

「サラ。今日僕は休暇を取っているんだよ」


 このサラという少女は、イオリが朝見たときは、魔術師隊のローブをぴっちりと着こなし、よく手入れされた金色の長い髪も丁寧に服の中にしまい込み、くるりと大きな眼が愛らしい、家柄通りのお淑やかな女性だったはずなのだが、その僅か数時間後、つまりは現在、慌てて駆けてきたのか服は乱れ髪は飛び出し、声の明るさを裏切らない、賑やかな有様になっていた。

 サラ=ルーティフォンは、立場上イオリの部下である。

 もう2年の付き合いになるが、ふと気づくと彼女はいつも、イオリの前で息を弾ませているような気がする。

 サラは、座ったままのイオリにむっとした顔を作った。


「そう言われても、呼べって言われたんですよ、カリス副隊長に!」

「はあ」


 せっかく休暇を取って溜まり込んだ“宿題”を整理しようとしてみればこれだ。

 休暇を圧迫されるのが、この世界の国仕えの宿命なのか。

 あるいは万全な策をとりたがるカリスの性格ゆえだろうか。

 ともあれ、今日の休暇は流れそうだ。イオリは資料を閉じ、机の脇にどけた。


「魔術師隊として、かな。ローブは必要そうだったかな?」

「ああ、そうっぽいです!」


 イオリはもう一度ため息を吐き、部屋の隅のラックにかけたローブに緩慢に近寄った。

 黒を基盤としたローブは、イオリが普段来ているワイシャツと紺のスカートをすっぽりと隠すほど大きい。だが、腰のあたりをベルトで止めれば、イオリの身体のぴたりと張り付き、実に動きやすくなる。

 なかなかに機能的な服ではあるが、これを着た以上はもう真剣に職務に励まなければならない。


「ほおう」

「……何かな?」

「いいえ、なーんでも」


 サラはイオリの姿に僅か息を呑んだ。イオリがその服を纏うたび、サラはいつもどきりとする。

 イオリが纏った制服は、サラが着る魔術師隊の服とは僅かに違う。胸にこのモルオールのエンブレムが小さく刺繍で縫われた隊長用の礼装である。

 イオリの話では機能的なものや着心地は変わらないらしいが、その小さな印の重さをサラには想像もできなかった。


 イオリは、サラと歳はほとんど変わらない。互いに今年19になる。

 だがサラは、その服に加えて、イオリの落ち着き払った表情や、仕事で何度も見てきた思慮深さ、あるいはその雰囲気そのものとも言える彼女の様子を見ていると、自分の年齢に対する自信が無くなってくる。

 桁外れの魔力を有し、魔術師隊に合格してから僅か1年ほどで魔導士にまで到達しているこのイオリという人物は、サラにとって、あるいはこの世界の基準からして、まさに異次元の存在だった。


 ただ、そんな立派な隊長様だが、サラには今のイオリが何を考えているかは少なからず分かった。


「隊長。そう面倒そうな顔しないでくださいよ」


 端から見れば立派な隊長様の佇まいをしているが、サラには、カリス副隊長からの呼び出しを明らかに億劫だと思っているのが見て取れた。

 この隊長と副隊長は実力的には雲の上の人物ではあるが、そのふたりはもちろん人間で、そしてだからこそ不仲であることは、サラに限らずほとんどの隊員が知っている。

 サラ自身、カリス副隊長から指示を受けたとき、あまりいい気持ちはしなかった。


「そうだね。サラが敬語を止めてくれれば、僕もやる気を出すさ」

「まーた“僕”……。なんで、自分のこと“僕って言うんですかー?」

「……深い意味は無いよ。前にふざけて使ってみたら“好評”だったみたいだから、かな」

「?」

「まあ、人の口調を気にし過ぎていても仕方ないさ。サラの敬語はくすぐったいけど」

「そりゃあ、イオリが隊長様ともなればねぇ……」

「はあ。さ、行こうか」


 ふたりして部屋を後にし、魔術師隊の宿舎の廊下を歩き始めた。

 サラの隣を歩くイオリは、威風堂々と肩で風を切り、横顔も凛々しく、完全無欠に見えるのだが、多少、妙なところがある。

 それが“あの後遺症”だと考えると、軽微なことだとは思えるのだが。


 イオリとの出逢いは、2年前だ。

 森で魔術の鍛錬をしていたサラは、気を失って倒れていたイオリを発見した。

 ワイシャツにリボン、紺のスカートと、モルオールの気候からしても危険度からしても軽装過ぎる出で立ちの少女を揺すり起こしたときの悲鳴は、今でも覚えている。


 指先も凍える気候なのに、全身から発汗し、目を真っ赤に腫らして涙を流し、近くにいたサラをあらん限りの力で抱きしめてきた。

 あの怯え切った表情をサラは今でも覚えている。悪い夢から覚めたばかりの赤子のように泣きじゃくるイオリを、サラはしばらく抱き支えていた。


 当時は魔物に襲われたのだと判断し、一時的にサラの家で保護したのだが、そのときもイオリは“酷かった”。

 食事も喉を通らず、気が触れたかのように突如泣き出すことなど日常茶飯事で、いつでも何かに怯えるように身体を震わせていた。

 サラの両親はそんな少女を同情的に受け止め、介護を続けてくれたが、もしイオリが我を取り戻すのが後少し遅かったら、国に任せることになっていたかもしれない。


 そのときの両親の判断には、サラは感謝している。

 そのおかげで、サラにとって、立派な隊長で、大切な親友ができたのだから。


「隊長。もっと急いでくださいよ!」

「サラが敬語を止めたらね」

「隊長が一人称を改めたら、一考します」

「それは個人の自由じゃないか」

「ならこっちもそうですよ」


 街の規模にしてはいささか大きな魔術師隊の宿舎の廊下に、ふたりの不毛な言い争いが木霊した。サラの家でも、こうしてあれやこれやと話しながら広い廊下を歩いた気がする。


「……それで、カリスはなんて?」

「え? あ、ああ。そうそう。魔物が街を襲ってきたらしいです」

「またか」


 イオリは多少足を速めてくれた。有事である。

 このモルオールでは、そうした出来事は日常茶飯事だ。


「対処できそうにないのか? カリスが?」

「それが、カリスさんは、イオ……、隊長を呼べ、と」

「ふうん」



 思わずカリス副隊長の言葉そのままに口を滑らしそうになったが、手遅れだったとサラは思った。せめて表面上は問題の無いようにするのが部下の仕事だ。ただ、イオリはとっくに理解していて、理解していて見逃してくれた。


「…………急いだ方が良さそうだね」

「いや、副隊長は神経質なんですよ」


 冗談めかして言うも、イオリの表情が険しくなったのが分かった。

 遅れて、サラも確かに妙な悪寒を覚える。

 わざわざ休暇中のイオリを呼び付けるのは単なる嫌がらせかと最初は思っていたが、よくよく考えると、カリス副隊長にしてみればイオリに借りを作ることになるのだ。

 不仲とはいえ、少なくとも実力だけは、イオリもカリスもお互いを認め合っている。

 サラからしても、ふたりとも共通して、緊急時はそうした私事を挟まない頼れる上司だ。


 つまり、カリス副隊長は、状況を把握した上で、本当に必要だからイオリを呼んだことになる。


「ちなみに、魔物はどこを襲っているのかな?」

「ええと、確か、ウォルファールです。ほら、港町の」

「……?」


 険しい表情をしていたイオリが、我に返ったように顔を上げた。

 そして困惑の色を瞳に浮かべ、その場でピタリと立ち止まった。


「隊長? ……イオリ? イーオーリー?」

「…………急ごう」


 ようやくサラが言っていたように、頼れる隊長様は、駆け出してくれた。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


「お疲れさまです、副隊長。それに……、た、隊長!?」

「状況を報告しろ」


 モルオール第19魔術師隊副隊長、カリス=ウォールマンは、慌てふためく部下に重々しい声で返した。

 きっちりと固めたオールバックの髪形をかき上げなおし、度の強い眼鏡を指で押し上げ、鋭い眼光でカリスは眼下の街を見渡した。

 カリスはつい先ほど、街を見渡せる小高い丘に馬で到着したばかりだった。

 大分出発が遅れたはずのイオリが“自己手段”で僅かばかり先に到着したのは気に入らないが、今は有事である。

 思考の隅に押しやり、即座に状況把握に努めた。


 だが、確かに魔物が現れているようだが、報告よりもずっと少ない。

 どこかに潜んでいるのだろうか。


「現在、魔物は8割ほど討伐されているようです。住民の避難は継続していますが、街の被害も一部を除き軽微で、死傷者も現在のところ出ていません。あとは残党処理となります」

「なに?」


 カリスは鋭く報告した部下を睨んだ。

 報告を受けたときは、魔物の大群が押し寄せ、この街の者では対処しきれないと判断されていたはずだった。

 この港町は、規模は小さいが、海路という意味では重要拠点である。それだからこそ隊長にまで救援要請をしたというのに、目の前の部下はすでに緊張感も無い。

 この街の魔術師隊の能力は把握していたので、報告に誤りがあるとは考えにくかったのだが、カリスが聞いた話とまるで違っていた。


「……隊長。申し訳ありません。休暇中に」


 流石にこれは自分の落ち度であろう。

 背後でサラと共に街を眺めていたイオリに振り返った。

 面白くは無いが、この場合は情報に踊らされた自分が悪いことになる。


「……? 隊長?」


 嫌味のひとつでも飛んでくるかと構えていたカリスに、イオリは何も言わなかった。

 いつものように遠くを見るような瞳を携え、変わらず街を眺めている。

 ぼんやりとしているとも見えるが、イオリのそれは違う。何も捉えていないようで、すべてを捉えているようにカリスには思えるのだ。

 そして事実、そうした様子を見せるときのイオリは、恐ろしいほど正確で、あらゆる事件を解決に導いてきている。

 例え目の上のたんこぶであったとしても、その姿は、カリスがイオリを隊長と認めている理由のひとつだった。


 以前。皮肉の意味も込めて、カリスはイオリに、何故そうも先を見透かしているかのような行動がとれるのかと聞いたことがあった。

 イオリは、苦笑交じりに、奇妙なことを言い出した。


 “未来を視た”。


 普段は理路整然としているイオリの冗談は、こちらの皮肉に対する嫌味かと思い、そのときは何を馬鹿なと思っていた。

 だが思い返すたび、あるいは新たな事件に直面するたび、カリスが思い起こすのはそのときのイオリの言葉だった。


 事実、彼女は常に大局を読み切っている。

 属性は違うのに、あたかも話に聞く月輪属性の予知能力が、彼女には備わっていると信じてしまいそうな出来事が今までもいくつもあった。

 それも、カリスがイオリのように10も離れた年下の娘を隊長と認めざるを得ない理由である。


「……っ」

「?」


 遠くを見るような瞳をしていたイオリの表情が、僅かに曇った。

 妙な悪寒を感じてカリスがその視線を追うと、遠方の町の入り口に、魔物の群れが確認できた。

 思ったよりは数が多く、危険な魔物の存在も確認できる。もし部下の言葉が本当で、8割ほど討伐済みというのであれば、元の勢力は確かにこの街の魔術師隊では対応不可能であろう。

 だがその群れも、各所で戦闘不能の爆発が起こっている。


「!」


 その群れの中、一瞬、シルバーの閃光が走ったのが見えた。

 魔術師隊が戦っているのかと思っていたが、月輪属性などという希少種は在籍していない。

 やはり状況把握が必要なようだ。カリスは足を進めようとし、止まった。

 状況は把握できた。

 この魔物の群れの討伐に、自分たちは出る幕がなさそうだ。


「あ、れ。あの人……は?」


 予知能力ではないが、サラにも見えたのだろう。足を止めて、呆然と眺めていた。

 間もなくあの魔物の群れが、全滅する未来が。


 紅い羽織の女性が一瞬で魔物との距離を詰めたかと思えば、イエローの閃光が稲光のように走り、魔物たちは気づく間もなく命を狩り取られている。

 身体の大きな魔物がいきり立ち、腕を振り上げたかと思えばスカーレットの光が爆ぜ、軽々しく吹き飛んでいった。

 遠方で魔術を発動させようとしていた魔物は、どこからともなく飛来してきたスカイブルーの閃光に貫かれる。

 密集した魔物の群れには輪があった。その輪の中央にはライトグリーンの光がたびたび光り、その輪が移動するたびに拭われるように魔物の姿が消滅していく。

 逃亡を図ろうとした僅かばかり賢い魔物たちもいたようだが、まるで大都市の防衛装置のような正確さのシルバーの矢によって、ただの1匹もそのエリアから離れることは許されていない。


 そしてその奥。

 唯一の男性が、動きの鈍った魔物を切り裂き、曇り空の下、オレンジの光が輝いた。


「……ゆ、勇者、様?」

「ああ、そうらしい」


 日輪属性。

 月輪属性以上の希少な存在は、この街どころか大陸中探したって見つかりはしない。

 各属性の仲間を連れたあの旅の魔術師たちは、“勇者様御一行”なのだろう。

 この港町を訪れたのも、ヨーテンガースへ向かうつもりだからなのかもしれない。


 嬉しい誤算というやつだ。

 危機に瀕したこの街は、どうやら彼らが救ってくれたらしい。


「え……、え……、え」


 サラが息を漏らす。

 カリスも部下の前ではなければ、もう少し取り乱していたかもしれない。


 “勇者様御一行”は確かに強かった。

 このヨーテンガースの魔物の群れにあの少人数で対抗できているのだから。


 雑多な種類の魔物の群れの中、相性という影響を受けないらしい日輪属性の勇者の一撃は、効率がいい。攻撃範囲内の敵を選ばずに斬り飛ばすことができている。

 そして、同じく近距離で戦う火曜属性と金曜属性の術者も、動きは熟練者だ。目を離していても安心して魔物の相手を任せていられる。

 遠距離から魔術を飛ばす水曜属性の少女の攻撃はまずまず、と言ったところだが、それでも盤石な白兵戦のフォローとして申し分は無い。


 だが。


「……」


 カリ。

 そんな音がイオリから聞こえてきた。

 ちらりとカリスが視線を向けると、イオリが親指の爪を噛み、眉を寄せていた。

 何か妙なことがあるたび見せる、彼女の癖だ。

 その彼女の視線は、カリスと同じ、“あのふたり”に向いている。


「……隊長。あのふたり、どう思われますか?」


 おそらく自分と同じことを思っているであろうイオリに、あえて聞いてみた。


 先の4人は、確かに魔物と戦闘をしている。

 だが、残る木曜属性と月輪属性の少女ふたりは、魔物の群れを、“蹂躙していた”。

 吹けば飛ぶように、何も抵抗できず爆発していく魔物たち。

 戦闘は入り乱れているが、カリスにははっきりと状況が見えていた。

 あのふたりだけが、突出して強い。

 それこそどちらかひとりでもいれば、この地帯の平和が永久に約束されると思えるほどに。


「あれ、すご……」


 モルオールの魔術師は実力者揃いである。

 サラにも状況は見えているのであろう。

 視線は戦闘ではなく蹂躙の方へ向いていた。


 日輪属性の者も貴重だが、その存在がいて、それ以外に目が行くことなど最早奇跡だ。

 蹂躙を続けるふたりの顔を、カリスは見たことも無い。

 あんな存在がモグリでこの世界にいるとは。


「隊長?」

「……いや、なんでもない」


 口ではそう返すも、イオリは目を泳がせたまま蹂躙を眺め続けていた。

 カリスはふと思い当たった。


 眺めただけでも分かる。

 恐らく、あのふたりは、カリスはおろか、この地方最強の隊長よりも戦闘力は高い。

 そうなると、年頃も近しいイオリとしては面白くないのかもしれなかった。


 少しだけ胸が空いたような気がしながらも、カリスは丘を降り始めた。いつまでもここで呑気に眺めている場合ではない。

 呆然とするイオリを気遣いながら、サラもついてきた。


「なんであんな人たちが……、なんで今まで」

「“わけあり”、というやつだろう。ともあれ、魔術師隊として礼はすべきだ」


 いつもよりずっとゆっくり丘を下って街へ向かう。

 仕事中にここまで緩慢な動作をしたのはいつ以来か。


 だが仕方がない。

 すでに魔物は全滅してしまっているのだから。


―――**―――


「いやいや、びっくりしまし―――むぐっ!?」

「エレねー、最近早いっすよね、それ」

「私は国家の安静に協力しているだけよ?」


 エレナががっちりと口を掴んだティアの顔が、どんどん青くなっていく。

 アキラは見慣れた光景となったその様子を、大層居心地の悪い部屋でぼんやりと眺めていた。


 到着するなり魔物の群れの強襲を受けた”勇者様御一行”は、その討伐が終わった直後に駆けつけてきた魔術師隊に、ウォルフォールの魔術師隊の支部に案内されていた。


 通されたのは木造の小規模な部屋で、部屋の奥の隅に唯一の置物である観葉植物が置かれた質素な応接室だった。

 部屋の中央には膝ほどの高さの机が置かれ、それを挟んだ長いソファーにアキラたちは3人ずつ座っていた。

 奥の社長席のような机には指を組んで目を瞑っている女性が座り、対面の出口のドアの両脇には分厚い眼鏡の男性と金髪の女性が姿勢を正して直立している。

 魔術師隊の者と思われる3人は、誰も言葉を発さない。


「……なあ。俺たち、良いことしたはずだよな?」

「そ、そ、そのはず、よ」


 隣のエリーに囁くと、同じく緊張しているらしいエリーが辛うじて返してきた。

 対面のエレナやマリスは、神を前にしても変わらなかっただけはあり、いつも通りの様子だが、妙に重い雰囲気の場所に連れてこられると、アキラは何故か、怒られるような気がしてくる。これは日頃の行いのせいなのだろうか。


「そろそろ話を始めてもらいたいのだが」


 そんな様子を見ていてくれたのか、サクが鋭い目つきのまま最奥の少女に視線を投げた。

 ドアの両脇に立つふたりとはここに通される際、僅かな言葉を交わしたが、奥の女性、恐らく最も偉いと思われる女性は何ひとつ言葉を発さない。

 目を瞑っているかと思えば、ときおりこちらを見渡し、また目を閉じる。

 何かを考え続けているようだ。

 ただ、それにしても、この場でその席に座るにしては、若い。


「た、隊長」

「……あ、ああ、すまない」


 ドアの脇に立った女性が、まるで助けを求めるような声を出した。

 どうやら隊長の第一声を待っていたらしく、この重苦しい雰囲気に耐えかねていたのは彼女の方も同じらしい。


「ようこそモルオールへ。……と言った方がいいのかな?」


 ようやく事晴らし言葉を発した隊長とやらは、やはりそれきりじっとアキラたちの様子を見つめてきた。

 まるで何かを見定めるような目の色だった。


「……隊長。ご気分が悪いようでしたら、私が」


 今度はしびれを切らした様子で、眼鏡の男が1歩前へ出てきた。

 あの隊長よりもずっと年上だろう。苛立っているように見えるのは気のせいだろうか。

 その男は、隊長の言葉も待たず、理知的な表情で一礼した。


「改めまして。私はモルオール第19魔術師隊、副隊長のカリス=ウォールマンです。街の危機を救っていただき、“隊を代表して”お礼申し上げます」


 そのカリスの後ろの女性が、僅かにむっとしたのがアキラには見えた。

 この隊も、何やら面倒な事情を抱えているらしい。


「“勇者様”とお見受けしますが、お名前を伺ってもよろしいですかな?」

「……あ、えっと」


 だが、アキラはそれ以上に気になることがあった。


「ヒダマリ=アキラです」


 自己紹介が続く中、アキラは、また奥の机で何かを考え込んでいる少女を眺めていた。

 眉を寄せ、どこか硬い印象を受けるあの女性は、やはり若く見える。

 道すがら、モルオールの魔術師隊の隊長となると、魔導士なのだと赤毛の少女に教えてもらった。

 つまり、彼女は魔導士だ。

 想像していた魔導士という存在から逸脱しているあの若い女性に違和感を覚えるのは自然なことなのかもしれない。

 だが、感覚として、それ以上の妙な違和感がアキラの頭から離れなかった。


 見たことも無い顔、聞いたことも無い声。

 それなのに、何か親近感のようなものを覚える。

 強いて言えば、サクに逢ったときのような感覚だった。


「そうなのですか……。サラ」

「はっ、はい!」


 サラと呼ばれた少女の大声で、アキラの思考は遮られた。

 いつしか話が変わっていたようだ。


「ええとですね、港はしばらく閉鎖するようです。魔物の被害が思ったよりも出てしまったらしく」

「……え? う、う、う、うわわわわわわっ!?」


 どうやらこちらの行き先の話をしていたらしい。

 サラの言葉に、ティアが机の下に潜り込もうとするように身をかがめた。

 魔物の掃討をするときに、エレナがティアに、今から使う港だけは死守しろと厳命していたのをアキラは覚えている。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

「エレねーのせいでノイローゼになりかけてるじゃないっすか」

「でも、“魔導士ともあろう方”ならなんとかできるんじゃありませんか? 私たち、とても急いでいるんです」


 そんなティアやマリスを見もせずに、エレナはカリスに媚びるような視線を向けていた。

 小さく身体を竦ませ、視線を誘導するように整った指先を可愛らしく胸の前で組ませる。もしエレナが立っていれば、カリスにしな垂れかかっていたかもしれない。

 カリスが喜びそうな言葉を選んだのか、カリスの表情がピクリと動いたのだから多少の効果はあるようだ。


 だが、久しぶりに見るエレナのその仕草も、アキラは遠く見ていた。

 やはりどうしても、奥に座るあの隊長が気になる。

 何かが違うのだ。だが、それが言葉にできない。


 すると。


「すまないが」


 見過ぎたかもしれない。アキラが視線を逸らす間もなく、彼女は立ち上がった。

 そしてアキラと視線がぶつかると、神妙な顔をして目を細めた。


「アキラ。君と話しがしたい」

「へ?」

「隊長!! 言葉を選んでください……!!」


 カリスが怒鳴るも、彼女は気にせずアキラだけを見据えてきていた。

 妙な雰囲気がある。

 年頃の女性に話しかけられ、喜べなかったのは初めてかもしれない。


「えっと、俺?」

「ああ。ふたりだけで、だ。……カリス、サラ。すまないが、少しこちらの方々の相手をしていてくれないか? 向こうの部屋を使わせて欲しい」


 言うが早いか、彼女はアキラに視線を向けたままドアへ向かった。

 ついて来いということらしい。


「ちょっと、大丈夫なの?」

「あ、ああ、多分」


 エリーに頷き返し、アキラは彼女の後を追った。

 彼女に付いていくことが、この違和感を拭い去る唯一の方法のように思えた。


―――**―――


「とりあえず、座ってくれ」


 先ほどよりさらに小さい部屋に通され、アキラは言われるがままに椅子に座った。

 ここは応接間というより会議室なのだろう。

 長細い机をいくつかの木の椅子が囲んでおり、腰を下ろすと先ほどのソファーの感触とは違って冷たく硬かった。

 その向かい、同じように腰を下ろした少女は何を考えているか見通せない冷静な瞳をアキラに向けてきていた。


「向こうのこともある。手短に用件だけ伝えよう。……先に、いや、そうだな」

「?」


 冷静そうに見えて、しかし口を開くと言い淀む。

 何かをするたび、別の懸念が見えてきて、結局身動きの取れない人間のそれだった。

 自分の持つ情報の整理が出来ていない、この世界に来たばかりのアキラと同じような状況に見える。


「ええと、まず、名前を聞かせてくれないか?」

「…………、そう、か」


 胸を張れたことではないが、混乱することにかけて、アキラは得意である。

 救うつもりで、話題を提供した。

 だがそれすらも彼女には悩みの種だったのか、再び目を伏せる。

 しかし小さく頷くと、今度こそアキラの眼を柔和な瞳で捉えてきた。

 作られた表情だとアキラは思った。


「……いや。今まで重苦しく接していてすまなかった。君たちの戦いを見て、深く感銘を受けていてね」


 表情を緩めたまま、彼女は微笑んだ。


「ぼ……、僕はモルオール第19魔術師隊、隊長のホンジョウ=イオリだ」

「……!」


 その一人称に、アキラの身体がピクリと動いた。


「“僕”……?」

「あ、ああ……。おかしいと思うかな?」

「い、いいと、思います」


 イオリがため息を吐いたのが分かった。

 だが、それでも、根は単純だからだろう、アキラの気分は高揚した。


 女性がその一人称を使うと喜ぶ人は大勢いるとアキラは思う。

 アキラも当然そのひとりだ。


「ええと、イオリ、さん?」

「イオリで構わないさ。君は勇者だろう」

「お、う」


 妙な懸念をしていたのが馬鹿らしくなってきた。

 ここは優しい異世界なのだ。

 あの神に出逢ってからずっと、胸の中で何かがくすぶり続けていたが、やはりアキラにとって都合のいい世界で、出逢いも素敵なものばかりと考えるのが基本なのだろう。


「それより」

「?」

「他に、気づいたことは無いかな?」

「他?」


 アキラの表情が緩んだのを察したのか、イオリも悪戯を思いついたような表情を浮かべていた。

 だが、まともに考えていないことも伝わってしまったのか、アキラの答えを待たず、イオリは机の上に置いてあったペンと紙を手繰り寄せた。


「……アキラ。君の名前をここに書いてみてくれるか?」

「? あ、ああ、いいけど」


 久しぶりのペンの感触に、おぼつかない手つきで言われた通りに名前を書く。

 書き終えた後に気づいたが、アキラはこの世界の文字が書けない。

 だが、アキラが何かを言う前に、イオリは紙を引き寄せ、今度は彼女が何かを書き始める。


 この儀式に何の意味があるのだろう。

 アキラが怪訝な表情でイオリを見ていると、彼女はすっと顔を上げた。


「勿体付けていても仕方ないか。……アキラ、僕の名前を言ってみてくれないか?」

「え? イオリ、だろ?」

「フルネームで、さ」


 イオリは紙をアキラに見せてきた。

 その瞬間に、答えが分かった。


「“本城伊織”。これが僕の名前だ」

「……え」


 この異世界に来て、アキラはご都合主義そのままに、言葉が離せ、文字が読めていた。

 見たことのない文字でも、不思議と“意味”が頭に入り込んでくるのだ。


 だが、今目の前にあるそれを読むのに、そんな補正は必要なかった。


 “日溜明”の隣に記されたその名前は、“本城伊織”。

 つまりは。


「どう接するか迷っていたけど……、さっさと言えばよかったよ。君も“そう”なんだろう?」


 イオリの言うそれが、“ここを異世界だと捉えているもの”だとアキラが理解するのに、時間は必要なかった。


―――**―――


「あれ?」

「はい! あっしならここにいます!!」

「うん、見えてるけど」


 応接間に戻ってきたエリーは、ソファーから元気よく立ち上がったティアに向かえられた。

 アキラがあのイオリというらしい女性と共に呼び出されたあと、結局エレナが粘ってみたが、港の使用は物理的に不可能だった。

 一応港町を守ったことになるエリーたちは、特別にこの魔術師隊の支部を提供してもらえ、今はあてがわれた各々の部屋に荷物を置いてきたばかり。

 そのはずなのに、いつの間にかティア以外の面々は姿形も見えなくなっていた。


「みんなは?」

「はっ! エレお姉様はお買い物に、マリにゃんとサッキュンはお買い物に行くと言っていました!」


 びしっと敬礼し、役目を果たしたと満足げな表情をティアは浮かべた。

 同じことをしているはずなのに、それぞれ分けていったのは、つまりエレナは遊びに、マリスとサクは旅の必需品の買い出しに行ってくれたということだろう。

 ついでに言うなら、エリーが誘われなかったのは、この目の前の騒がしいティアの面倒を任されたということなのかもしれない。


「じゃあ、あいつは?」

「ああ、アッキーならイオリンのところへ行きました」


 よくもまあ出会ったばかりで妙な愛称を付けられるものだ。

 ティアのこれは今に始まったことではないが、今度の相手は魔導士様だ。

 エリーが1度落ち、1年越しで何とか合格した魔術師試験。魔導士は、そのさらに先の先の存在だ。

 エリーにとってはまさに雲の上の人物なのだが、ティアの人との距離の詰め方には関係が無いらしい。


 だが、そんな魔導士様の呼び出しとはいえ、エリーは少しむっとした。

 あの男の様子がおかしいのも今に始まったことではないが、あのイオリという女性のことをやたらと気にしていたのは見ればすぐに分かった。

 一体ふたりで何の話をしているのだろう。


「……あのー、エリにゃん」

「なに?」

「お暇なら、あっしと依頼を受けに行きましょう!」

「暇って……、ちょ!?」


 言付けを指示され、鬱憤が溜まっていたのかもしれない。

 駆け出さんばかりの勢いのティアに手を引かれ、エリーは渋々ついていった。


 ティアが旅に加わってひと月あまり。気づけばいつもこんなことをしている。

 依頼を請けて仕事をする、というのが物珍しいのか、疲れを知らないように依頼所と現場を往復する。

 時間の許す限り、エリーの班とマリスの班の両方に参加しているのだからかなりのものだ。

 彼女が旅についてきたときはどうなるものかと思っていたが、その甲斐あってかティア自身の力も随分と付いてきているように感じる。


 “七曜の魔術師”を集め、魔王を倒すという胡散臭い話に、あのアキラですら少しは訝しんだというのにティアは使命に燃えまくり、今日も今日とて元気に駆けていく。


「……はあ。ま、いっか」


 お約束のような出来事。

 確かに妙な違和感はあれど、お約束なだけに、ある種の納得感がある。

 これはあの男の思考に毒されているのだろうか。


 犬の散歩のように、手を引いてティアの速度を制御しつつ、エリーは妙な思考を振り払った。


―――**―――


「2年も前から……!?」

「ああ。森で倒れていたところを、あのサラに救われてね」


 変わらぬ冷静な様子で、イオリは手元のカップをすすった。


 荷を下ろしたアキラは、再びイオリを訪ねていた。

 改めて通された部屋は、シンメトリーを意識しているのか完全な中央に机が置かれ、それを挟んでアキラとイオリは椅子に座っている。

 部屋の両脇に置かれた本棚にも、完全に種分けされて本が並んでいた。

 奥の事務机の上も整頓され、曇り空が見える窓の淵にも埃ひとつないようだ。

 神経質さを思わせる部屋だった。


 あのカリスという副隊長の部屋らしい。

 この街はあのカリスに一任しているらしく、この魔術師隊の支部にはイオリの部屋は無いそうだ。

 貸してもらえたのは、アキラが勇者様だからなのか、それともイオリが隊長だからなのか。


「それからサラの家に保護してもらえてね。勉強もさせてもらったよ。本当に感謝してもし足りない」


 当時を思い出すように微笑んだイオリの表情に、ようやくアキラは自分が覚えていた違和感の正体を見つけた。


 イオリは、その容姿が、雰囲気が、アキラの元の世界の女性と同じなのだ。

 エリーやエレナたちとは微妙に違い、妙な親しみやすさを覚える。

 強いて言うなればサクが近いが、イオリはそれ以上である。


「ん? どうかした?」

「いや、なんでも」


 見つめ過ぎたようだ。口にするのも気恥ずかしい。

 それに、長く海外旅行をしていて、日本食を食べたときのような感じと言ったら、イオリは絶対に怒るような気がした。


「ええと。でもさ、そう。魔導士、なんだよな? すごくね?」

「そうでもないさ。どうやらこの世界は優しいらしくてね。“特権”とでも言うべきか、僕は魔力がかなりあったらしい」


 ヒダマリ=アキラは日輪属性。

 ホンジョウ=イオリは魔導士。

 それが異世界来訪者に与えられる特権だというなら、やはりこの世界は優しいのだろう。


 だが、イオリのその言葉が、アキラには謙遜だとはっきりと分かった。


 旅の道中、エリーやマリスに魔導士というものがどういう存在なのかを聞いた。


 まず、魔術師になるための魔術師試験。

 記述式から実技と試験範囲はかなり広く、そして深いらしい。

 そしてその合格者は魔術師隊に配属され、そこで多くの経験を積むことになる。


 だが、そこからエスカレーター式に魔導士になれるかと言えば、そうではないらしい。

 魔術師試験が霞むほど範囲は広く、より実務的な内容も組み込まれることになる。知識でどうこうなるものでもなく、魔術師隊での実績も問われることになるそうだ。


 そうした実力、知力、実績をすべて問われるのが魔導士試験である。


 実力や実績は世界の優しさとやらの魔力の高さでどうにかなったとしても、試験の方はどうしようもない。

 アキラやイオリのような異世界来訪者にしてみれば、未知の学問に挑まなくてはならないことになる。

 そちらの方は、どうあってもこちらの世界の住人に大きく優位が傾くことになるのだ。


 通常の者であれば、全過程を終わらせるのに10年かそれ以上。一生なれない者すらいる。

 だが目の前のホンジョウ=イオリは、そのすべてを2年でパスしたことになる。


「やっぱすごいだろ、それ」

「そうでもないさ、僕からしてみれば必死に順応しようとした結果、ってだけだからね。……それに、運もよかった」


 イオリからは優雅ささえ感じられる。

 優等生の余裕のような気がして、その対極に位置するアキラは居心地が悪くなった。


「それより。アキラ、君の話を聞かせてくれないか?」

「……俺は、別に、だよ」

「それこそ、だろう? 君は勇者として活躍し、こうしてここまで来ているんだから」


 イオリは身を乗り出すようにして、アキラを見据えた。

 アキラは、たまたま落ちた村で勇者様として崇められ、流されるままに旅を続けてきただけだ。

 そう考えると、イオリのように、何の裏付けも無い、張子の虎だ。

 興味を持つ彼女には悪いが、アキラには語って聞かせるような話は持ち合わせていなかった。


 ホンジョウ=イオリはこの世界に訪れて2年だという。

 対してアキラは、1、2か月程度だ。

 確かに差はあるのだろう。

 だがアキラには、自分が2年後、イオリのような能力と地位を手に入れる姿がまるで見えなかった。


 ヒダマリ=アキラという勇者は、この世界を順調に旅している。

 旅の道中仲間を得て、それこそRPGのように、打倒魔王を掲げている。


 だがそれは、本当にヒダマリ=アキラの力だろうか。

 ほとんどの戦闘をごり押しで進んできたアキラは、自分に宿るものは何かと問われると、答えを返せない。

 この旅に意味自体はあるだろう。ヘヴンズゲートで見たような、あの大衆を救う旅なのだろうから。


 物語のように旅は順調に進み、キラキラと輝いている。

 その日々を、世界の優しさが零した雫だけを拠り所に、アキラは漫然と過ごしてきた。

 だがそうだとするならば、アキラの価値とは何なのだろう。


 仲間全員が向いているのは、アキラではないことはもう分かっている。

 アキラの、あの力だ。

 そうであるならば、あの力は、一体。


「アキラ?」

「……い、いや、何でもない」


 最近ずっとそうだ。

 あの力のことを考えると、妙な思考に支配される。

 物語を楽しむだけの自分が決して踏み入れてはならない陰りが、すぐ目の前に在るような悪寒がするのだ。


「俺の話は、まあ、いいだろう。それよりさ、」

「アキラ、頼むよ。君の話が聞きたいんだ」

「?」


 単なる雑談だと思っていた。

 だが、イオリは焦ったように妙に食い下がる。

 その必死な表情が、優しい世界を暴こうとする侵略者に見え、アキラは即座にそんな妄想を打ち消した。


 ホンジョウ=イオリは、2年足らずで魔導士となった天才で、一人称が僕の、新たな登場人物。

 他の仲間にしたって、それ以上は踏み込んだことは無い。

 裏など、無いはずなのだから。


「頼むアキラ。君の旅の軌跡を、僕は知りたい」

「……」


 イオリの食い下がりに、アキラは息を吐いた。


 ホンジョウ=イオリは理知的で、聡明だ。

 そんな彼女が、アキラの経験した旅を見たら、どういう形をしているのか。

 そんなことを思ってしまった。


 アキラは拳を作って胸を抑え付けた。

 大丈夫だ。

 例えイオリが見ても、アキラと同じく、ご都合主義の旅が行われたに過ぎないという、結論になるはずなのだから。


「……分かった。まずは」


 陰るはずなどない。アキラは念じながら、記憶を追った。


 まず、リビリスアーク。

 塔から落ちたアキラは、双子に出逢った。

 そして姉のエリーと婚約することになり、妹のマリスにも協力を仰ぎ、魔王討伐を志すことになる。

 勇者の試練とやらで向かった岩山で、異常事態である巨大マーチュと戦うことになり、そこでアキラに眠っていた勇者の力が目覚め、具現化の銃が事態を解決する。


 次は、サクだ。

 アキラが長らく滞在していたリビリスアークに、勇者の被害に遭ったとサクが訪れ、決闘を申し込んできた。

 そこに乱入してきたアシッドナーガと戦闘し、再び銃の力で撃退する。

 そのあとは、消し飛んだマーチュの岩山を超え、スライムの山も吹き飛ばし、強引とも言えるルートでクロンクランに到着。


 エレナと出逢ったのはそのときだ。

 クロンクランを襲ったマザースフィアを銃の力で撃破し、オーガースという魔物は、エレナが容易く葬り去った。


 肩の痛みを最後に経験したのはこのときだ。


 そのあとアキラは朝の鍛錬に真面目に顔を出すようになり、エリーに魔術を、サクに剣術を学ぶ。


 そしてティアと出逢い、赫の洞窟で魔族のリイザス=ガーディランを撃破する。

 最後は、ヘヴンズゲートで神との面会だ。


 カリ。


「……?」


 アキラが要約した話を聞いて、イオリは爪を噛んでいた。


 そしてまた、必死に思考を進めている表情を浮かべている。

 アキラは、そんなイオリの様子を祈るように見つめていた。

 頼むから、これまでの旅に影を落とさないでくれ、と。


「……は、都合よすぎる、ってか?」

「……」


 あえてアキラは言葉にした。

 振り返ってみると、やはり今までの旅は、まさに物語のように都合のいい展開が続いている。イオリもそう感じただろう。

 だからこそ、彼女から、どうしても聞きたくない言葉が出てくるような気がした。

 彼女の口からはっきりと、何か裏がある、と聞くことだけは避けたかった。


「…………いや、そうではないさ」

「へ?」


 だが、イオリから帰ってきたのは、アキラの予想に反していた。


「確かに都合のいい話だと思うけど、その推測は意味をなさない」

「どういうことだよ?」

「“君はそういう星の元に生まれた”。そう考えるだけで十分じゃないか。何しろ異世界に来るほどだ、それくらいの偶然の乱立は起こり得るだろう。まさに君を主人公とした物語のようにね」


 まるで答えをとっくに用意していたように、イオリは捲し立てた。

 だがその言葉だけで、アキラは胸を撫で下ろした。

 最近自分が支配される黒い思考を退けられる言葉を、彼女の口から聞けただけでも救いになる。


「月輪属性が“時”を司るのに対して、日輪属性は“刻”を司る。そういうことなんだよ」

「? 同じじゃねーか」

「言葉が難しいな、日輪属性が刻むのは、時間の“時”じゃなくて、“刻”だ」


 自分の物語が肯定されて気が楽になったのに、イオリは妙なことを言い出した。


「君が巻き込まれた騒動や、君の仲間たちとの出逢い。それらは、君がその場所に行った“時間”に起こったことじゃない。“君がそこにいることを条件”に起こったこと。僕はそう考えている」


 イオリの見解は、アキラは非現実的なものだと思った。

 つまりは、あらゆる出来事は、必然的にアキラが経験するようになっていた、というものだ。

 例えばアキラがクロンクランへ行かなければ、エレナはあの日時にあの場におらず、サーカスの騒ぎも起こらなかった、と考えることになる。


 だが、そう考える方が、物語というものは成立する。

 物語の主人公が仲間と出逢うことは運命づけられている、と。


 イオリの言葉で肯定されていくご都合主義。

 待望だったはずのそれが、しかしアキラは怖くなった。


「それに、君はここでも“刻”を刻んでいる。君たちが探している“最後のピース”。土曜属性の魔術師が、今君の目の前にいるんだからね」

「!」


 イオリがあっさりと言った事実に、アキラは顔を上げた。

 ホンジョウ=イオリは、土曜属性の魔術師。

 イオリが仲間に加われば、“七曜の魔術師”が全員揃うことになる。


 しかしそれほど自分が驚いていないことにアキラは気づいた。

 そんな予感はしていた。

 そしてイオリの口調も、同じようにあまりに軽かった。

 ただ話を進めるためだけに発されたように。


「お前さ、よく俺たちが探していたことが分かるな」

「君らを見ていれば分かるさ。それより、」


 やはりイオリは何かを急いでいた。


「マリサス、そしてエレナ。彼女たちのことを詳しく聞かせてもらえないかな?」

「……さっき話したろ」

「いや、より詳しく聞きたくて。…………純粋な興味だよ。あのレベルの者が存在する、と純粋に受け止めるには、僕はこの世界に染まり過ぎていてね」


 それが本題か。

 流石にアキラもイオリの言葉が上っ面のものだけだということには気付けた。

 本当の狙いはそこに在る。


「なんなら、“俺の力”も、か?」

「っ」


 勿体付けていても仕方がないと言ったのはイオリの方だ。

 彼女が知りたいのはアキラの物語ではなく、物語の“異物”の方らしい。

 となれば、イオリがこの先に何を言い出すかも想像できた。


 マリスやエレナは大切な仲間だ。

 だが、あのふたりが超人であることもまた事実で、アキラの力も“同じジャンル”に分類されることもアキラは理解していた。


「……そうだね」


 しばしの間。

 イオリの方も開き直ったのか、今度こそ瞳に迷いは無かった。


「君の言うように、この物語が何らかの形を成しているなら、その3つは不自然だ」


 避けようとしていたのに。避け続けてきたのに。

 イオリのはっきりとした口調に、アキラは陰りが増してきたのを感じた。


 この物語が、勇者が旅を通して成長し、仲間と出逢い、魔王を討たれるものだとする。

 そうだとするなら、展開が早すぎだ。


 あの力たちは旅に多大な貢献をしているがゆえに、成長を阻害している。

 以前エリーも指摘していたことだ。


 そして、その歪さが、決定的に目立ったのは。


「……」


 アルティア=ウィン=クーデフォンという少女との出逢い。


 アキラは“陰り”に侵入していった。

 ティアを邪険に思っているわけではない。だが、言い方が悪くなるが、現段階で戦力的に不安定な彼女が仲間になる意味が分からない。


 確かにティアは急成長している。治療役が増えたのは望ましいことでもある。

 だが、あの“数千年にひとりの天才”マリサス=アーティが存在している時点で、戦力補給は不要である。


 もしこの物語が、最速で魔王を倒す物語だったとしたら、ティアが現時点で仲間になる理由が分からない。

 同行者は自分たちと同等か、それ以上の力をもっているべきなのだ。


 そして一方で、この物語が勇者の成長を通じて魔王を倒す物語だとしたら、アキラの具現化はそれを大いに阻害している。


 ご都合主義。

 お約束。

 そう思って旅を続けてきているのに、存在する要素がちぐはぐで、アキラの拙い手ではそれを綺麗に並べることが出来なかった。


 物語などないとしたら都合の良すぎるこれまでの旅が陰り、物語があるとしたらアキラの具現化やティアの存在が陰る。

 どちらを立てればいいのだろうか。


「アキラ?」

「……い、いや、なんでも、ない」


 気づくと、イオリが心配そうに顔を覗き込んでいた。

 それほど今の自分は、死にそうな顔でもしていたのだろうか。


「今日はもうこの話はよそうか。……あまり深く考えない方がいいかもね。正直なところ、“僕も総てが分かっているわけじゃない”から」

「……?」


 その言い回しが妙に気になった。

 イオリは、アキラが見たくない陰りの中の何かを知っているのではないだろうか。


「さて、とりあえず目の前のことを気にしよう」


 そう言って、イオリは立ち上がり、部屋の隅に備えられた給湯所に歩み寄っていった。

 お茶を淹れながら、彼女は振り返りもせずに言った。


「“何かが起こるだろう”」

「? 何か、って……?」

「君は“刻”を刻む日輪属性の勇者。そう考えるなら、何か、起こりそうじゃないか?」

「何を言いたい?」

「言った通りの意味さ。君がここを訪れたなら、何か事件が起こる。……ああ、君を責めているわけじゃない。君が訪れなければ、それは勇者に選ばれなかった事件としていずれは発生するんだろうからね。だけど、この場所は君に選ばれた。つまり、ここで“刻”を刻む。そうは思わないか?」


 淡々とした彼女の言葉は、論理的であり非論理的でもある話だった。

 だがイオリの言うことも分かる。

 今まで立ち寄った村とは違い、ここはホンジョウ=イオリという存在がいる場所だ。

 仮にこれが何かの物語だとすれば、ここで何かが起こることになる。

 サクも、エレナも、そしてティアも、出逢ったときには“何か”が起こっているのだから。


 だが、イオリの妙に確信めいた声色が気になった。


「さっきの港襲撃は?」

「あれは序章に過ぎない。……僕はそう思う」


 そう付け足している割に、やはりイオリは確信しているように見えた。

 イオリの顔を見たとき以上の違和感を覚える。


 アキラにとって重要そうなことをさらりと言う割には、物語の形が歪なことには執着している。

 同じ世界からやってきたはずなのに、何故こうも自分とイオリは違うのだろう。


 やはり彼女は何かを知っている。

 だが、アキラにそれを聞く勇気は無かった。

 今これ以上陰りに足を踏み入れたら、自分の世界が崩壊してしまうような危機感を覚えた。


「……」


 イオリはアキラの分のお茶も淹れてくれているようだ。

 だがその背を、アキラは冷ややかな瞳で見つめていた。


 彼女が、信用できない。

 初めてだ。歳が近しい女性に出逢って、こんな感情を抱くのは。


 思春期を抜け切れていないアキラは、女性との出逢いにいつだって胸躍っていたではないか。

 エレナのときだって、多少は不審に思いながらも、結局は嬉しさの方が勝ったのだ。

 だがこのイオリには、あのエレナとはまた違う、それよりももっと深い怖さを覚えた。


 この恐怖を覚えたのは、陰りに侵入したからだろうか。

 だがその恐怖を拭うには、再び陰りに侵入しなければならないような気がした。


「とにかく」


 お茶を運んできてくれたイオリは、慣れた手つきでアキラのカップに注いでくれた。

 飲んだ記憶がほとんど無いのに、いつしかカップは空になっていた。


「備えていてくれると助かる。みんなにもそう伝えておいてくれ」

「……なあ」


 それでも何故か。

 このホンジョウ=イオリという女性との出逢いを、アキラは避ける気にはなれなかった。

 だから少なくとも、彼女が一体何者なのかだけは知りたかった。


「本当にこれが何かの物語みたいになっていて、俺が主人公なら、お前は一体何なんだ?」


 イオリは目を細めた。

 その瞳の色は、どこか寂し気で、そして妙に儚かった。


「……君に巻き込まれた登場人物。“わがまま”な、ね」


 その表情は、アキラの心の奥にとくりと落ちた。


―――**―――


「ち」


 副隊長のカリスは、纏っていたローブを強引にベッドに投げ付けた。

 ようやく本日の業務を終え、現在はプライベートな時間だ。部下もいない。実直である必要はなかった。


「ふう……」


 ローブを投げつけると、ほんの少しだけ憤りは収まった。

 ベッドから落ちて丸まったローブの皺を丁寧に伸ばし、形を整えてラックにかける。

 すべての物が整然かつ機能的に置かれたカリスの部屋は、書物や仕事の資料がどれほど多くとも、広く見えるように整頓されていた。


 ここは勇者様が寝泊まりすることになったウォルファールの港町から僅かに離れた村の、隊員の宿舎だ。

 この地方の魔術師隊には、担当者であるカリスの部屋は多く用意されているが、この部屋にはあまり来たことが無い。

 この辺りに来たときは、基本的に居心地のいいウォルファールで過ごしているからだ。

 しかし、大して広くもないウォルファールに、イオリが手元に置きたがるサラを含め、計8名もの人間が寝泊まりすることになったのだから、カリスは追い払われる形となってしまった。

 自分は勇者様のために、南の回復を急かし、一日中尽力していたというのに。


 そんな処遇を受けている原因は、言うまでも無く、カリスにとって目の上のたんこぶであるあの隊長様のせいだ。

 希少な月輪属性まで仲間に加えているあのヒダマリ=アキラは、すでに“証”を持っているに値する勇者様である。

 将を射んとする者はまず馬から、というわけではないが、カリスが勇者様の仲間の信頼を勝ち取っている間に、あの女はいきなり勇者様を懐柔していたのだ。

 これでは、勇者様の視点から見て、この魔術師隊で最も評価が高いのは間違いなくあのイオリだろう。

 勇者様へは最大限への敬意を、という“しきたり”に実直に従っていたというのに、これではやっていられない。


 そしてその上で、イオリは言い出した。

 勇者様の要請で、自分も旅に出るというのだ。


 その大義名分があれば隊長職であろうがそれが可能である。

 何しろ魔導士としての判断でもあるのだ。基本的には許可されるだろう。


 だがカリスには、イオリが隊長職という責務に耐えかねて、気ままな旅をしたいだけのように聞こえたのだ。

 そしてその繰り上りで、カリスは隊長に昇格することになるであろう。

 その繰り上がりで、だ。それもまた気に入らなかった。


「ふぅ、ふぅ、」


 気を静めながら、カリスは乱暴にラックから酒の瓶を取り出した。

 そしてグラスを握り潰すようにつかむと、溢れるのも構わず乱暴に注ぐ。

 丁寧過ぎるほど手入れされた白いカーペットに染みが出来るも、今日はまったく気にならなかった。


 機械的に注いではあおり、いつしか瓶から直接飲むようになった。


 あのイオリという女は、いつもそうだ。

 カリスの僅かな隙に付け込むように立ち回り、手柄を立てる。

 あの聡明さに、若い女性の下で働くということに抵抗がある隊員も、ある程度従順だ。


 そんなサラをはじめとする隊員たちには分からないだろう。

 “あれ”はそんなものではない。

 単なる聡明さでは説明できない“何か”がイオリにはあるのだ。


 だからこそ、カリスもイオリを。


「……ち」


 認めざるを得ない。そう思いかけた思考を、ぐいとあおった酒が流した。


 カリスはイオリの経歴を調べたことがある。

 だがその一切は謎に包まれているのに、サラの実家であるルーティフォン家の推薦で魔術師隊への入隊も滞りなく進められたらしい。

 疑わしい。疑わしすぎる。


 別に身元不明など、このモルオールでは珍しいことではない。

 魔物に村を滅ぼされる者も多いのだ。

 そこから魔術師を目指したものなど溢れるほどいる。彼女もそのクチなのだろう。


 そして有能であれば、魔導士になり、国を守れる。

 たたき上げで魔導士になれるのであれば、大したものだ。十分に称賛にあたいする。それこそ港町の自分の部屋を提供できるほどには。


「……」


 またぐいと酒をあおった。

 今日は妙に怒りが収まらない。


 イオリと初めて出会った日のことは今でも思い出せる。

 新設の隊に配属されると知って、カリスは嬉々として本部へ足を運んだ。

 魔導士である自分が配属されるのであれば、その地位は当然隊長であろう。


 当時他の魔導士と比べて成績が伸び悩んでいたカリスにとって、その話は目から鱗だった。

 だが同時に、それはカリスの適正を理解してもらえた上での配属だと思った。

 カリスの実力が活かされるのは、前線ではなく、知力を活かした後方支援。つまりは、管理職である。


 新設する隊となれば、ゼロから作り上げられることを意味し、潔癖なカリスにとって最高の部隊が用意されていた。


 だが、飛び込むように訪れた隊長室では、すでにすべてを見透かすような瞳の少女が座っていた。

 カリスに役職を告げ、別の部屋へ案内するイオリの背中を今でも覚えている。

 そして、もしかしたら自分は、単に厄介払いされただけではないか、と邪推したことも。


 そこからカリスは、いつしか隊長の地位に実力で就くために、死に物狂いで働いた。

 しかし国は、いつでも完璧な結果を残すイオリしか見ていない。

 このまま行けば、イオリは異例の早さで魔導士隊に入ることになっていただろう。


 それなのに、カリスが欲した地位をイオリはあっさりと捨て、旅に出ると言い出したのだ。


 気に入らない。

 どうしても、許せない。


「……?」


 カリスはそこで、自分の思考に違和感を覚えた。

 いいではないか。

 こんな苦渋は今までもあった。

 あくまで事務的に、イオリを送り出し、今度こそ隊長としてこの隊を自分が率いればいいだけの話である。


 イオリのことは気に入らないが、実力は認めている。確かな結果を残すのだ。

 そして彼女には将来性がある。あの若さで魔導士となれば、世界の希望とも言える。そんな彼女を更なる高みに上らせるため隊長とし、その補助のために経験豊富な自分をあえて副隊長の座に付かせたのだと考えれば、色々と辻褄が合うのだ。

 気に入らないとはいえ、今までもずっと、そう考えてきたではないか。


「……」


 いや、許せない。

 空になった瓶を転がし、新たな酒に手を伸ばす。

 ついに腰が砕けて、カリスはその場に座り込んだ。


 このままイオリが旅に出る。

 あんな奇妙な存在を、このまま行かせていいのか。

 なんでもいい。

 どんな手段でもいい。

 あの女に、何か。


「……何か、……なに、か」

『そう、お辛いのね』

「……?」


 酔いが回り切ったカリスの頭に、心地よい声が溶けるように入ってきた。


「あ、ああ……、なに、か、なにか、」


 カリスはうわ言のように呟き、顔を上げる。

 力がほとんど入らない。だらしなく口を開き、呆けた顔で見上げると、そこに、ひとりの女性の顔があった。

 ここは飲み屋だったろうか。


「……?」

『ほら、楽になさって』


 カリスはゆっくりとベッドに背を預けた。

 身体が一気に楽になる。

 この声に従ったからだろう。


 ひんやりと心地よい手が頬に添えられた。

 気持ちがいい。

 このまま眠ってしまいそうだ。


「あら、駄目よ。……まだあなたは考えなければならないことがある。そうでしょう?」

「っ……」


 そう言われてカリスが目を開き、はっと息を呑んだ。

 雪のように透き通った肌。身に纏った黒いローブから覗く、輝くように薄白い肌に、金の長髪を垂らした女性は、カリスの良いが薄れるほど美しかった。

 ふっくらとした唇が、昼に見た勇者様の仲間のエレナよりも妖艶に微笑んでいる。


 そういえば、ここは自室だったような気がする。

 彼女はどこから入ってきたのか。

 鍵は、


「ほら、お口が」

「ぅあ……?」


 目の前の女性が、カリスの口元の酒を拭ってくれた。

 思考が遮られる。


「さあ、何かを考えないと」

「あ……、あ」


 ふと視界に、空になった酒瓶がいくつか転がっているのが見えた。

 自分は一体何をやっているのか。明日も仕事があるというのに。

 だがそんな懸念も、霞がかって消えていく。


 今すべきは、この女性の言葉に従うことだ。


 考える。


「あなたの方が、彼女より優れている」

「そ、う……だ」


 あれだけ酔いが回っていた頭に、1本の線が引かれたような気がした。

 イオリより優れていることを証明できれば、自分の溜飲も下がる。

 だが、それはどうやって


「それには、あなたの強さをみせればいいの」

「……そ、う、か」


 自分が考えるよりも先に、女性は答えを示してくれる。

 泥酔している自分より、よっぽど頼りになった。


「そのためには、屈服させて、無残に」


 ホンジョウ=イオリを殺す。

 だが、そんなことをするのは。


「大丈夫。あなたの方が、ずっと強いわ」


 自分が気にしたことはそれだったか。

 だが確かにそうだ。イオリは強い。

 しかしこの女性は、自分の方が優れていると言ってくれる。


「やり方を考えるの。それが得意なのでしょう?」


 そうだ。

 攻略不可能な相手は、むしろカリスの得意分野だ。

 そう考えると、イオリなど取るに足らない存在である。

 何を気にしていたのだろう。戦闘力も、仕事も、自分の方が有能だというのに。


「……いや、ちが……、う」


 最後に残った理性が、思考の邪魔をする。

 イオリは優秀な魔導士だ。彼女の存在は、一応は先輩の自分にとって誇らしいことのはず。

 それを殺すというのは。


「合っているわよ。あなたは素晴らしいもの。彼女はあなたよりずっと劣っている。そんな相手に、ずっと邪魔をされていたのでしょう?」


 そうだ。

 イオリなど、些細な存在に過ぎない。だがその些細な存在が、カリスの邪魔をしているのだ。

 それは許しがたいことである。


「大丈夫。私も協力するわ」

「あ……ぇ……?」

「大丈夫。大丈夫だから」


 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。


 カリスの頭の中で何度も溶け込むように響いた。


「ぁ、ぁぁ」


 最後に、自分の口がか細くそう呟いたのを感じ、カリスは意識を手放した。


―――**―――


 ティアが加わって下位2名が村1周分のランニングが課せられる、早起き勝負。

 サクが起こしてくれたのにも関わらず、寒くなってきた気候のせいで2度寝したのがたたり、アキラは久しぶりにペナルティを受けていた。


 かじかんだ手を懸命にさすりながら、アキラは白い息を弾ませた。

 昨日、あの大量の魔物を討伐した後だというのに依頼を請けに行ったらしいエリーとティアの2位争奪戦は、僅差でティアが破れ今に至る。

 隣では、朝とは思えないほど目を開き、何が面白いのかにこにことしながら元気に駆けるティアは、今日も絶好調のようだ。

 ウォームアップに過ぎない今、アキラの歩幅に合わせてわたわたと駆ける姿からは、どこかで電池が切れそうな危うさも同時に感じるのだが。


 潮風が撫でる港町は、それなりの規模があるが、しかし廃れた木造の建物が目立つ。

 漁業の存在のお陰で、この時間でも町が起き出しているのは新鮮だった。

 魔物の被害に遭った場所まで様子を見に行こうと思ったが、街の反対側のようで、断念した。流石に1週は出来そうにない。ある程度で切り上げても許してもらえるだろう。


「……、」


 爽やかな朝の空気を感じながら、しかしアキラの思考は陰りに覆われていた。

 昨日イオリと話していた懸念が浮かび続け、昨日もほとんど寝られていない。


 いつものように何も考えず、あるがままを受け止めるようにしていたかったのに、進み出した思考は抑え込むことが出来なかった。


 例えば隣を走る、アルティア=ウィン=クーデフォン。

 ヘヴンズゲートからここまでの旅路で、彼女は急成長している。

 モルオールに近づいて、魔物の力や依頼の難易度は格段に増し、かえってそれが彼女の血となり肉となっている。

 レベルの低い状態で大量の経験値を注ぎ込まれ、一気にレベルが上がるという、あたかもゲームのような現象だった。

 そしてティアほどではないにしろ、アキラも、そしてエリーもサクも、同じく実力を大きく伸ばしている。


 だがそれは同時に、場違い、という言葉が当てはまってしまう。

 ティアひとりでは、そしてアキラひとりでは、こんな経験は積みようもない。

 無理難題と思われる依頼を見ても、何の抵抗も無く引き受けてきた結果がこれだ。

 依頼は主にエリーやそれについていくティアが受けてくるが、全員“危険”ととらえる水準が徐々に狂い始めている。

 何があっても、“その程度”としか捉えていないのだ。


 否定派のエリーも、無意識に、自分たちが有する“3つの異常”を前提に考えるようになってきている。


 昨日の大量の魔物の群れに対しても、軽々しく飛び込んでいったのは、いざとなれば、という気持ちがあったことはアキラ自身否定できない。

 そして事実、恐らくマリスとエレナがいなければ、あの魔物たちの破壊の爪痕は今も街のいたるところに残されていただろう。


 何かが歪だ。

 だがそれは分からない。

 アキラが縋っていた何かがが失われる危機感の正体を探るためには、やはり、陰りに侵入する必要があるのだろうか。


「……」


 優しく見えていた世界が、この曇り空のように陰っていく。

 この世界の優しさに、アキラは甘えるだけ甘えてきた。

 だがいよいよ、考えなければならないときが来てしまっているのかもしれない。


 エリーは、アキラと婚約したため着いてきた。

 マリスは、姉に着いてきた。

 サクは、アキラを主君として着いてきた。

 エレナは、目的が似ているから着いてきた。

 ティアは、人の役に立ちたいと着いてきた。

 そしてイオリは、元の世界の者同士と、着いてくると言い出した。


 端から見ればそれだけの出逢いである。


 だが、アキラは彼女たちとの旅を通し、少なからず彼女たちのことが分かってきた。

 彼女たちはゲームのキャラクターなどではなく、ちゃんと考えて行動する人間なのだ。

 だからこそ、アキラは今度こそ、きちんと向き合わなければならない。


 違和感を覚えるのはティアだけではないのだ。

 アキラと婚約中のエリーや、同じ異世界から来たイオリはともかくとして。


 まず、マリス。

 彼女はアキラたちを見送ってもいい立場だった。

 理由は知らないが、魔術師隊から何度も勧誘を受けても断り続けてきたらしい。

 姉と共にいることを望んだのかと思ったが、エリーと共に魔術師試験は受けていないのだから答えはそれではない。

 そうなると、彼女はそもそも、その力をふるう気はまるで無かったのではないだろうか。

 いや、根本的に言えば、あれだけの才能を、何故あの田舎で腐らせていたのか。


 次に、サク。

 彼女は何故、アキラに決闘などというものを挑んできたのか。

 自分のことを多く語らない彼女のことは、アキラは未だに分からない。

 だが少なくとも、あんな野蛮なことを強行するような、思考が飛ぶ少女とは思えなかった。

 素性もよく知らない。彼女にそのことを聞いてみても、いつも適当にはぐらかされてしまう。

 その伏線をアキラは未だ回収できていないのに、魔王の牙城は目前だ。


 そして、エレナ。

 彼女もまた、実力の大きく離れた存在に何故着いてきたのか。

 エレナなら、ひとりでもガバイドとやらを探し出していたのではないだろうか。

 路銀の工面ひとつとっても団体で行動するのはマイナスとは言わないがプラスでもないだろう。

 少なくとも、アキラたちの実力不足に旅の進行スピードを著しく削り取られているはずだ。

 ティアのことを考えたときにも思ったが、最短を目指すのであれば、仲間は同等以上が要求される。

 それを定義として考えるのであれば、エレナにとって、自分たちは不要な存在だ。

 同じく異物であるアキラの具現化やマリスの存在があったからこそ成立している関係とも言える。


 今までこの旅を漠然と捉えていた。

 だが、改めて見ると、なんと歪な形をしていることか。


 そして歪さをものともせず、旅は、物語は強引に進んでいく。

 その理由が何かと聞かれれば、誰もが口を揃えてひとつの結論を出すであろう。


 ヒダマリ=アキラの具現化。


 アキラにはあまりに不釣り合いなあの銃の力が、違和感も歪さも押し流して旅を進めさせる。

 エレナも、あの力に利用価値を見出したから着いてきているのだろう。


 やはり大きく歪んでいる。


 考えるべき問題は、大きく分けてふたつ。


 ひとつは、ご都合主義の存在。

 そしてもうひとつは、それを前提に考えた場合の、この多すぎる“バグ”だ。


 だがそれと向き合うことは、アキラにとってキラキラと輝いていたこの世界に背を向けることになる。


 描けていた世界。


 その崩壊が、眼前に迫っているのだろうか。


「っ……」


 心の底から震える。

 この陰りに触れ続けることがどうしようもなく怖い。


 強引に思考を中断し、アキラは胸を抑え込んだ。

 これ以上は考えるな。

 世界は優しい。今までだってちゃんとできていた。いつも通り、へらへら笑っていればいい。

 昨日からこんなことを繰り返してしまっていた。

 踏み込んで、陰りが身体を包むと、慌てて逃げ出す。


 本当に自分は成長しない。


「……アッキー。あれって何だと思います?」

「へ?」


 隣で走っていたはずティアの姿が消えたかと思えば、後ろで立ち止まり、神妙な顔をして遠くの空を指差していた。


 アキラは暗い思考を追い払い、目を凝らしてティアの見つめる方向を眺める。

 曇り空の先、僅かな黒い点が見えるが、まるで視認できなかった。


「お前目いいな……、あれじゃね、気球とかが飛んでるんじゃね?」

「でもあれ、なんかたくさんあるんですけど」

「え……? じゃあたくさんの気球とかが飛んでるんじゃね?」

「アッキー。もしかしてあっしのこと、馬鹿だと思ってたりします?」


 コメントはできなかった。

 ティアはむくれながらもじっと空を見つめ続ける。

 そしてふと、アキラの記憶が蠢いた。


「なあ、なんか似たようなこと無かったっけ。あれってなんだったっけ」

「あ、ですです。あっしもそう思ってたんですよ。確かあっしの街で……。! もう答え分かった!!」


 ティアが叫び、アキラも気づいた。

 あれは、“群れ”だ。


「てっ、敵襲だぁぁぁあああーーーっっっ!!!!」


 ペナルティは中断だ。

 アキラは叫び回るティアの手を引き、一目散に来た道を戻った。


―――**―――


「!?」


 突如として開かれた宿舎の扉に、エリーはびくりと身体を硬直させた。


「ふたりとも、サラを見なかったか!?」


 魔術師隊の宿舎の庭を借りた早朝の鍛錬中。

 現れたホンジョウ=イオリはこんな時間からすでに魔術師隊のローブをきっちりと着こなしていた。

 これが魔導士というものなのだろうか。欠伸を噛み殺しながら身体を動かしていたエリーとは違い、すでに意識は覚め切っているようだった。


 昨日、アキラからこのイオリが仲間に加わるという話をされた。

 エリーも魔導士であるイオリの加入を大いに歓迎したものの、アキラの話では彼女も同じ異世界来訪者らしい。

 アキラの隣に当たり前のように涼しい顔で立っていた昨日の様子を思い起こすと、エリーは何故か、妙な危機感を覚えた。


 だが、そんな様子だったイオリは今、昨日とは想像もできないほど慌てた様子で、息を切らせていた。

 明らかに様子がおかしい。


「サラさんを探しているんですか? それなら、」

「何かあったのか?」

「……あれ、隊長?」


 何事かとイオリに歩み寄ろうとすると丁度そのサラが建物の陰から姿を現した。

 エリーたちの朝の鍛錬に付き合ってもらっていた相手だ。


「サ、サラ……? なんでここに?」

「え? いや、なんか目が覚めちゃって。隊長もいなくなってたし。目が覚めたついでに街の様子でも見に行こうとしたらエリーさんたちを見つけて……。……イオリ?」


 イオリがサラの肩に両手を付き、大きく息を吐いて脱力した。

 エリーはイオリの焦った表情が一気に安堵の色に変わったのが見えた。サラから聞いたが、ふたりは仕事以外でも付き合いがあるらしい。

 だが、それにしても不可解なイオリの様子に、エリーもサクも、そして当事者のサラも、怪訝な表情を浮かべることしかできなかった。


「…………あの、イオリ? どうした、の?」

「い、いや。……すまない。そう、先ほど伝令があった」


 サラから1歩離れ、顔を上げたイオリは、昨日エリーが見た凛々しい顔付きに戻っていた。

 そして視線を鋭く東の空へ向ける。


「サラ=ルーティフォン」

「……、え。あ、はい!」

「現在……、いや、もう見た方が早いか」


 イオリは“あれ”を伝えに来てくれたのだろうか。

 エリーの目にももう見えている。

 イオリが指さした先、曇り空の下、異形の群れが黒い塊となって接近してくる。

 あのヘヴンズゲートで見た、赫の大群と同じだった。


「……き、昨日より多い……!」

「サラ。隊員たちを叩き起こしてくれ。即時厳戒態勢だ」

「はい! そうだ、副隊長も呼ばないと、」

「あちらにはもう人を向かわせている。サラはとにかくこの街の戦闘準備を急がせてくれ!! 僕は、」


 イオリが言い終わる前に、サラは駆け出した。

 判断が早いのは流石にモルオールの魔術師といったところだろう。

 そしてイオリはエリーたちに、そして遠方から駆け寄ってくるふたりの影に鋭く視線を走らせた。

 言われずとも分かっている。

 エリーも眠気はとっくに覚めていた。


「エリサス、“サクラ”。協力を頼む!!」


 イオリはそれだけまくしたて、街の東へ駆け出していった。


―――**―――


「どっ、どうなってんだよ!?」


 アキラは目の前の正体も分からない魔物に剣を振り下ろし、戦場の中叫んだ。

 自分たちが見えていた空の魔物たちはほんの一端だったらしい。陸路を進む魔物も同等以上におり、今や港町ウォルファールは異形の群れでごった返していた。


 アキラたちは魔物の接近を目撃していたこともあり、すぐさま戦闘に入れたのだが、魔術師隊の揃いが芳しくない。昨日魔物の群れが現れたとはいえ、そこまで主要な町というわけではないのか、昨日現れたイオリたちの魔術師隊の面々は、早朝のこの時間では集まっていないそうだ。

 ともあれ、斬れども斬れども数の減らない魔物を相手に、しばらくは援軍を待ちつつ戦い続けるしかなかった。


「っ!」


 名前も知らない犬型の魔物をオレンジの閃光で斬り捨て、アキラは町を睨んだ。

 潮風がそよぐ平穏な街並みは、すでに爆風と魔物の異臭に包まれている。

 昨日自分たちが守った町は、一手遅れるごとに破壊されていく、目も背けたくなるほどの戦場と化していた。


 現在地もほとんど分からない中、アキラは昨日の魔物たちの行動を思い起こす。人間の重要施設だと理解しているのか、妙に港の破壊を行おうとしていたように思えた。

 果たして今、港は無事だろうか。


「シュロート!!」


 スカイブルーの閃光が走り、空を行く魔物を打ち落とすのが見えた。

 だがそれも、ほんの一部の魔物に過ぎない。それどころか残る空の魔物の数体が、地上からの攻撃を防ぐべく、滑空態勢に入っていた。


 アキラは即座にティアに駆け寄ると、応じるように魔物に剣を振り切った。

 気づけばティアとも離れてしまっていたが、こうなると固まっていた方がいい。


「アッキー! ありがとうございます! これマジでどうします!? 昨日の弔い合戦ですかね!?」

「知るかぁっ!!」


 叫びながら、走り回りながら、ひたすらに魔物を切り裂いていく。

 強力な個体は存在しないようだが、とにかく数が酷い。油断して取り囲まれでもすれば無事では済まないだろう。

 魔物とはある程度の距離を保ちつつ延々と攻撃していくしかなかった。

 こうなると。


「シュロート!!」


 アキラの隣のティアがまたも魔術を撃ち出した。

 撃破には及ばずとも傷を負った魔物にはアキラが詰め寄り止めを刺す。


 立ち回りに気を配り続ける必要のある戦いでは、遠距離攻撃が出来るティアの存在はありがたい。

 決定打にかけるのであればそれをアキラが遂行すればいいのだ。


 どくりと鼓動が鳴るのをアキラは感じた。


 大丈夫。ティアは必要な存在だ。

 物語は優しくできている。


 だから。


「! アッキー!!」

「いっ!?」


 空の魔物がまとめて急降下してきた。

 アキラはおろかティアでもさばき切れない。

 退路を探すと、偶然なのか、陸の魔物も四方から突撃を繰り出してきた。

 逃げ場を失ったアキラに、雪崩のように魔物が襲い掛かってくる。


「……!?」


 アキラが必死に活路を探そうと身を捩った瞬間、目の前の魔物が消し飛んだ。

 どこからともなく飛来してきたシルバーの閃光が、目の前の魔物どころかアキラたちを囲っていたすべての魔物を的確に撃ち抜いていく。

 こんなことが出来る人間は、ひとりしかいない。


「マリスか!?」

「遅れたっす!!」


 他のすべての時が止まったかのように、目の前にマリサス=アーティが空から高速で降りてきた。

 そしてアキラがその顔を認める間もなく、マリスは腕を振り、シルバーの閃光を四方八方に射出する。

 空気を撫でているようにしか見えない彼女の所作で、まるで箒で掃くように異形の群れが消失していった。


 多少は戦いに参加できるようになったからだろうか。

 アキラはマリサス=アーティの力を、本当の意味で初めて見たような気がした。


 次元が違う。

 今までアキラとティアが撃破した魔物の数など、瞬きする間もなくマリスは超えていく。

 知性の低い魔物すら理解できるのか、彼女が現れた途端、身体を縮こまらせるものや、離脱を試みるものすらいるほどだった。

 そしてそんな様子の魔物すら、マリスは区別なく、過不足なく、淡々と撃破していく。


「……妙に数が多いっすね」


 マリスが手を下ろすと、いたるところで、思い出したように魔物の戦闘不能の爆発が響いた。

 マリサス=アーティが現れてほんの数分程度だろう。

 魔物が埋め尽くしていたこのエリアの安全が、完全に確保される。

 それが、数千年にひとりの天才がもたらした戦果だった。


「すご……、すごすごですよ、マリにゃん!」

「……ねーさんとサクさんはどこにいるんすか?」

「イオリンと一緒のはずですが……、あ、エレお姉様はどちらに?」

「向こうで別れたっす。港を見に行く、とか。エレねーひとりいれば、向こうの方は安全っすからね」


 そしてそんな異物は、もうひとりいる。

 エレナが向かったという港の方でも、こんな光景が繰り広げられているのだろうか。

 ティアのように無邪気に目を輝かせることは、今のアキラには出来そうになかった。


「ジェルースにメロックロスト。それに、パーウルまで……、珍しいっすね。月輪属性の魔物がいるなんて」


 どれが何で、何がどれなのか。

 見える範囲の魔物がすべて消えた今、アキラにはマリスの言葉は何も分からなかった。

 今まで、ただ強いとしか認識していなかったマリス。背筋が冷えるのは、やはりアキラが足を踏み入れてしまった陰りのせいなのだろうか。


「にーさん?」

「あ、いや、何でもない。マリス、助かったよ」

「……無事でよかったっす。じゃあ、次っすね」

「おし……!!」


 アキラは気合を入れるように自分の顔を張った。

 マリスの半分の眼に不審な色が浮かぶ。


 余計なことは考えるな。自分は今まで通りにしていればいい。

 アキラはマリスに力強く笑い返し、顔を上げた。


「っててててててっ!! ななななななんだあれ!? ボスですかね!?」


 毎度ながら突如ティアが叫び出した。

 何事かと身構えると、ティアの指差した先、遠くに建物ほどもあろうかという巨獣が闊歩していた。


 ゴツゴツとした岩肌。以前討伐した巨大マーチュのように鼻が突き出た、四足歩行の竜種のような出で立ち。

 覗く牙は鋭く、四肢は野太く、その鋭くも強固な爪で地面を掴み、1歩進むごとに大地を震撼させた。

 背中には巨体に似合った力強い翼が生え、太く長い尾の先まで棘のような立て髪が伸びていた。

 見るからに関わってはいけない魔物のようだった。


「……世界、終わったな」

「アッキー!? マリにゃん!! あれっ、あれっ、来てます来てますこっちに!! 何あれ!?」

「……分からないっす」

「え?」


 マリスの言葉に、アキラは目を見開いた。

 彼女が回答できない事柄がこの世界に存在するとは。

 それだけに、あの存在への恐怖がアキラの中で一層膨れ上がった。


「でも」


 だが、アキラやティアと違い、落ち着き払った声のマリスは、冷静に巨獣を眺めていた。


「あれ。魔物倒してないっすか?」


 アキラもマリスに倣って巨獣を眺めると、確かに遠方で、魔物の戦闘不能の爆発が発生し続けているように見える。

 太い爪や長い尾で数体まとめてなぎ倒しているのは、先ほどアキラが切り裂いた犬のような魔物だった。


「……み、見境なく暴れている、なんてことはないよな?」

「うーん……。いや。でも、あれって多分」


 マリスが分析を進めるも、巨獣はこちらに向かってこず、建物の陰で見えなくなってしまった。

 向かった先でも、戦闘不能の爆発音が聞こえてくる。

 本当に魔物を倒しているようだった。


「みっ、みなさん!!」


 そんな巨獣と入れ替わるように、背後から息を弾ませた声が響いた。

 振り返れば昨日も会った魔術師隊のサラ=ルーティフォンが、髪をかき乱して駆け寄ってきていた。


「サラさん、っすよね?」

「よ、良かった、無事だった……!!」


 街中を駆けずり回っていたのだろうか。

 魔術師隊のローブのあちこちに返り血や煤を被り、息も絶え絶えなサラは、膝に手をついて息を整えている。


「あ、あの、イオ、……た、たい、ちょう」

「え?」

「隊長、見ませんでしたか!? こっちの方に、いるとおも、って」

「……! もしかして」

「ちょちょちょっ!! 戻ってきた戻ってきた戻ってきた!!」


 今度こそ、こちらの存在を認識しているようにまっすぐ鋭い眼光を4人に向け、巨獣は大地を揺らして接近してきていた。

 サイズは巨大マーチュよりも遥かに小さいが、覚える威圧感はあるいはそれ以上に思える。

 剣や魔術でどうこうできる相手ではない。


「……下がってろ」


 止むを得ない。

 アキラは剣を仕舞い、右手に力を込めた。


「あああっ!! ラッキー!!」


 だが、そのアキラを追い越し、サラが巨獣に向かって走り出した。

 何がラッキーなのかは知らないが、正気を失っている人間の方がもう少しまともな行動を取る。


「じっ、自殺願望ですか!?」

「ち、違いますよ!? 隊長っ!! 隊長ーーーっ!!」


 慌ててサラを呼び止めようと駆け出したアキラの耳に、巨獣の重々しい足音まで聞こえてきた。だが、随分と接近してもサラはなお駆け続けていく。

 しかし、そんなサラを認めて、巨獣は足を止めた。


「! サラ!! それに、アキラたちも」


 今まで目が行っていた巨獣の顔から視線を上へ逸らすと、そこには隊長服に身を包んだイオリが座っていた。

 イオリはその高さから躊躇なく飛び降り、目の前に降り立ってくる。

 アキラは訳も分からずマリスを見ると、彼女はようやく納得したような表情を浮かべていた。


「ああ。やっぱりこれ、召喚獣なんすか」

「そうらしい」

「! あ、サッキュン!」


 ここまで近づいて、ようやくアキラも様子が分かった。

 どうやらイオリとサクは、自分たちと同じように行動を共にして、魔物の討伐をしていたようだ。

 そしてこの巨獣は、マリスの言う通りであれば“召喚獣”らしい。

 ゲームではよく見たが、アキラにとってこの異世界では初めて見る存在だ。


「そっ、そうですよ! 隊長、こんな街中でラッキーを出すなんて正気ですか!?」

「流石にこの数じゃ、加減なんかしてられないさ」


 汗を拭いながらイオリはさらりと言った。

 ラッキーと名付けられているらしい召喚獣は、近づいてみると改めて巨大だった。

 2階建ての建物はゆうに超えているだろう。

 こんな巨体が闊歩すれば当然の結果なのかもしれないが、ラッキーが通った道は、先ほどマリスが魔物を討伐していた場所と同じように、魔物は跡形もなく消えていた。

 だが、眼前に降り立った主人たるイオリを目で追って、大人しく待つ様子を見ていると、微妙に愛嬌のある顔付きをしているような気もしてくる。

 味方だと認識していれば、の話だが。


「てかお前、馬鹿みたいに強いじゃねぇかよ」

「……そういうことは、もう少し言葉を選んでもらえれば素直に喜べるんだけどね」


 イオリは呆れた顔を浮かべるが、アキラは素直に感心していた。

 これが魔導士という存在の力なのか。

 今まで関わってきた事件で、あまり魔術師隊が活躍するところを見てこなかっただけに、エリーやマリスが言う魔術師隊の力はピンと来ていなかった。

 だがこうなってくると流石に認識を改めざるを得ない。


「そういえば、ねーさんはどこっすか? イオリさんたちと一緒だって聞いたんすけど」

「エリサスとは向こうで分かれたよ。ラッキーの近くに何人もいても意味が無いからね」


 アキラは改めてラッキーを見た。

 確かにこんな巨獣が暴れたら、味方なんて気にしていられないだろう。

 こんな巨獣の近くで戦えるのは、尋常ならざる速度を持つサクくらいだ。


「……?」


 そう思って、サクに視線を投げたアキラは、眉をひそめた。

 サクは、じっとイオリを見据えている。ほとんど睨むようになっている目付きのサクは、アキラが視線を送っても、口を開かない。


「それよりサラ。戦況は?」

「あ、はい。他の町に泊まっていた隊員たちも到着しまして、魔物の規模は大幅に縮小しています。……隊員たちの尽力もありますが、その、エレナさんが……」

「エレねー朝もめちゃくちゃ機嫌悪そうだったっすからね……」


 どうやら事態は好転しつつあるが、今もこの街のどこかで魔物たちは蹂躙されているのだろう。

 昨日、イオリが仲間になると言い出してから、エレナは機嫌が悪い。

 エレナは水曜属性と土曜属性はそれだけで嫌いと言っていた。どこまで本気か分からなかったが、どうやらアキラの想像以上には本当らしい。


「あ、そ、それより。それよりもです。ほっ、報告します!」

「?」


 サラが思い出したように敬礼した。


「カリス副隊長の救援要請に向かった隊員の報告ですが、その、不在だったようです」

「不在? カリスが?」

「え、ええ。今日は休暇ではないはずなんですけど」


 イオリの表情が変わった。

 カリスとは、昨日会った几帳面そうな男のことだろう。

 自分とは明らかに相性が悪そうな相手だったが、それだけに、仕事に来ないというのは確かにおかしいと、不本意ながらアキラも思った。


「それが昨夜、リオスト平原に向かったのを見た、という情報もありまして」

「……」


 どこかで、魔物たちの爆音が聞こえる。

 どこかで、誰かの叫び声が聞こえる。


 そんな中、イオリは爪を噛んでいた。

 癖なのだろうか。アキラも昨日見た、イオリが何かを深く考えているときの仕草だ。

 その様子に、アキラも妙な焦燥感にかられた。


「あの、あの、リオスト平原ってどこにあるんですかっ?」

「ああ、えっと。リオストラの、……私たちの本部がある街の、西にある平原で、山岳地帯まで続いた広い……」

「サラ」


 サラの説明を遮って、イオリは重い声を出した。

 考え事は終わったらしく、そしてそれはどうやら楽観できる事態では無いらしく、イオリの表情は険しい。


「その話は道中できる。僕は今からそこへ向かうよ。魔物も多い地域だ。……何か、嫌な予感がする」


 ちらりとイオリがアキラを見てきた。

 どうやら昨日の話の“刻”が関係している事件の可能性があるらしい。


「……ここはもう大丈夫だろう。サラ、君が指揮をとってくれ」

「へ? え? わ、私が!? ちょっと!」


 サラの言葉も聞かず、イオリはラッキーを見上げた。巨獣はそれに応えるように頭を下げる。


「……アキラ。君も来てくれないか? ラッキーならすぐにそこへ向かえる」

「ああ。分かった」


 イオリの言葉は、断られるとは思っていないような口調だった。

 断る理由も無い。

 巨獣に近づくことの抵抗を抑え込み、思ったよりは従順そうなラッキーをよじ登った。

 ラッキーの高い背中から見た町の景色は、いたるところで煙が上がっているも、もう魔物は数えるほどしかいないように思えた。


「私も行っていいか?」


 沈黙を守っていたサクが口を開いた。

 そしてイオリの返答も待たずに軽い身のこなしでラッキーを上ってくる。

 イオリは何も言わずサクを迎え入れたが、アキラは表情が硬いサクが妙に気になった。


「魔物がいるなら、治療できる人はいた方がいいっすよね」

「ふっふっふっ。あははは。マリにゃんお任せください。このティアにゃんことあっしが……、って、ちょっ!?」


 マリスがティアを追い越してふわりと浮かび、ラッキーの背に乗り込んだ。

 慌てたティアがラッキーに駆け寄ろうとするが、いよいよイオリから待ったがかかった。


「すまないアルティア。これ以上乗ったら飛べそうにないんだ」

「悪いなティア。このラッキー4人用なんだってさ」

「……その翻訳に意味があったのか聞かせて欲しいところだけど」


 イオリは凛々しい横顔を、空へ向けた。


「ラッキー。いけるかな?」

「グルルッ!!」


 イオリに呼応し、ラッキーが唸った。そしてその翼を大きく広げる。

 その振動に、ティアが尻もちをついて転んだ。

 あまりに哀れに見えたので、アキラは拳をティアに突き出した。


「ティア!! この街を頼む!!」

「はっ!! おっ、おうさっ、私にっ、ま、か、せ、」

「―――、」


 ティアの言葉を最後まで聞き取ることは出来なかった。

 ラッキーが暴風を起こしながら翼をはためかせ、アキラは、異常なまでの浮遊感に襲われた。


―――**―――


「はあ。ここまでわらわらいたら、いちいち加減なんてしてらんないわ」


 エリーが到着したそこは、最早街の体を成していなかった。


 サクたちと別れ、一番の気がかりだった港へ向かった先、エリーの目に飛び込んできたのは地獄のような光景だった。

 港の岸壁はクリームのように抉れ、防波堤の残骸が波にさらわれて浮かんでいる。昨日エリーが見たはずの港を表す大きな標識も、近くにあったはずの廃れた小屋も存在ごと抹消されたようにすっぽりとなく、足元に転がっている焦げ付いた木片に、辛うじて読み取れる何らかの文字が印されていた。

 そしてその中央。まるで隕石でも落とされたかのように大地が陥没し、天候の悪さで荒れる波が断続的に流れ込んできていた。


 そんな様子を素知らぬ顔で眺めている人物は、小さく欠伸をすると、つまらなそうに鼻で息を吐いた。

 彼女の元へ行くと、いつもこんな光景が広がっている気がする。


「……エレナさん」

「あら?」


 声をかけたのは何のためだったろうか。

 見つけた仲間へのものか、あるいは、彼女が自分を魔物と誤認しないための自己防衛のためか。


「……大丈夫でしたか?」

「はっ、冗談じゃないわよ。ここに来てみれば案の定。こいつらまたみなと壊そうとしてたのよ?」


 エリーの意味の無い言葉に、エレナは髪をかき上げた。

 既に存在しなくなった魔物に悪態を吐く彼女の方が、冗談のような存在だった。

 普段はマリスと組んでいるエレナの力をエリーはほとんどまともに見ていない。

 だが、何度見ても、やはり彼女が異次元の存在なのだと認識させられる。

 エリーは、歩き心地が悪い大地をそれでも何とか踏みしめ、異物に近づいていった。


「い、一体何をしたんですか……?」

「はあ。寝起きでやるもんじゃないわね。あんまりわんさかいるもんだから、面倒臭くて“具現化”なんてしちゃったわよ」


 身体がびくりと動いた。

 そんなエリーの様子に気づいているのか、エレナは大股で荒れた大地を歩き、また欠伸をしながら海を眺めた。


「……なによ?」

「“具現化”……。できるんですか?」

「できないなんて言ったことあったかしら?」


 目も覆いたくなるような魔物の大群は、ほぼすべて沈静化していた。

 どこかから魔術師隊が戦っている音が聞こえるが、エリーが何かをしても大して変わらないだろう。間もなく掃討は終わる。

 そしてそれは、今目の前にいる人物が、何事も無いかのように、大量の魔物を抹消したからだった。


「強くなりたい?」

「……!」


 エレナが海を見たまま呟いた。

 遠くを捉えるように、あるいは、エリーの心情を見透かすように、エレナは冷めた瞳で荒れた海を眺めている。


「正直な話。私、強いでしょ?」

「……ええ」


 反論の余地は無かった。

 この人物が、その言葉を吐き出すのは、不遜でも何でもない。

 エリーからはどうしようもないほど遠い、ただの事実だった。


「あんたの妹もぶっ飛んでるけど、私はああいう天才じゃないわ。……じゃあ、何で強いと思う?」


 エレナとこんな会話をしたことは無かった。

 彼女の力の裏側を、エリーはまるで知らない。いや、知ろうとはしなかった。

 生まれてから、ずっと近くに、最初からそういう人物がいたからだ。

 その理由を追うことは不毛だと、エリーの骨髄に刻まれている。

 だが、エレナは自分が天才ではないと言う。


「私さぁ。シリスティアにいた頃、解決したい事件があったのよね。でもさ、10かそこらのガキが何とかできる話じゃなかったのよ」


 エレナの故郷の話を聞いたのは初めてだった。

 エレナが、今のエリーよりもずっと幼かった頃の話。

 想像しがたい彼女の話を聞き洩らさないように、エリーは必死に耳をそばだてた。


「そんなとき、見つけたのよ。身体に大量の魔力を押し込んで、強引に魔力の“器”を広げる方法」

「え……」


 エリーから漏れた声は潮風にさらわれていった。


「まあ、下手したら死ぬんだけどね。いや、下手したら、とかじゃないか。大体死ぬらしいわ」


 エレナの口調は一切変わらなかった。

 だがエリーは、その言葉が心の奥に入り込んでくるのを感じた。


「ま、私はその成功例ってわけ。正直、何年も修行して強くなる、なんてのが嫌だった。そういう人間だもの」


 エレナの背中が小さく震えた。

 エリーはその背中が、先ほどよりもずっと遠くに見えた。


「努力家にはふざけんな、って話なんでしょうね。あっさり強くなっちゃえるんだから。でもさ、時間を使って強くなるか、命を使って強くなるか。どっちがいいかなんて、人それぞれでしょう」


 エレナは髪をかき上げた。

 いつも大仰に振る舞っているエレナ=ファンツェルンという人物は、その対価を、とっくの昔に払っていたらしい。


「やりたきゃやってもいいけど、正直お勧めはしないわ」


 目の色が変わったように見えたのか、エレナは横目で制するようにエリーを見てきた。

 心に落ちた言葉を振り払おうと頭を振ったが、どれだけ拒もうとしても、エリーはエレナの言葉を拒絶することが出来なかった。


「それに、色々制約があるらしいわね。特定の場所で、特定の方法で。それに、風土的な問題なのか、地元じゃないとまず成功しないとか。よく知らないけど。今さらアイルークに戻るってのも面倒だし」

「アイルークじゃないんです。あたしたちの地元は」


 エレナに並び、同じように海の遠くを眺める。

 忘却の彼方にある“そこ”での思い出は、両親の表情と、その訃報を受け取ったときの感情だけだ。


「……ヨーテンガース出身なの?」

「生まれは、ですけど」


 エレナは少しだけエリーを見たが、またすぐに興味を失ったように視線を海に戻した。

 そしてぽつりと、エリーが今、最も聞かれたくなかった質問をしてきた。


「やるの?」


 言葉を返せなかった。

 分からない。分からないが、今までの自分の返答が、その答えになってしまっているような気がしていた。

 それをやってしまえば、今まで自分が培ってきたことは、成功しようが失敗しようがすべて無駄になる。

 だが、エレナの言うその“方法”が、頭の中で、なんとも甘美に響く。


「…………寒。そろそろ戻りましょうか。風邪ひきそう」


 エリーの返答を待たず、エレナはいつもの調子で歩き出した。

 遠くにエリーの故郷がある海にも、自分がもたらした常人には不可能な破壊にも、何ひとつ興味を示さないかのように背を向け、のんびりと歩いていく。

 そんな彼女は、過去、大きな事件に立ち向かったらしい。

 エレナの遠く見える背に、エリーは恐る恐る声をかけた。


「……エレナさん」

「なに?」

「その事件、解決できたんですか?」


 エレナは、僅か足を止め、一言だけ残してそのまま歩き出した。


「……その失踪事件は、今も続いているわ」


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