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第16話『オンリーラブ(前編)』

―――**―――


 来た。すぐに分かった。

 このファクトルは、庭なのだから。


「……ふ」


 “その存在”は、形だけの苦笑をした。


 数日前の物見遊山の侵入者ではない。

 本格的な“当たり”が、このファクトルに足を踏み入れた。


 世界を脅かす存在を打倒せんと、才気溢れ、希望に満ち溢れた存在が立ち上がる。

 華々しい活躍を繰り広げ、そしてそれは見る者すべての心を打つ、美しい物語だ。


 ゆえに、笑い、嗤う。


 ようやく終わる。


 この、下らないチェスゲームが。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


「? にーさん?」


 馬車の操縦席と言えば聞こえはいいが、所詮は野晒しだ。

 ヒダマリ=アキラが馬車の中から這い出るように先頭へ出ると、出迎えたのは、鬱陶しくも肌に纏わりつく砂風と、しかしそんな場所でも平然と馬を操る半開きの眼だった。


 昼を過ぎたばかりのはずなのに、日の光が砂埃で遮られて薄暗く思える。

 今自分たちが走っているのが山岳地帯なのか単なる砂漠なのかも分からない。断続的に

馬車は揺れ、時折大きく跳ねるようなこともあり、乗り心地は最悪だ。だが、歩こうともすれば所々に空いている亀裂に足を取られ、あっという間に遭難しているだろう。

 休憩を取ったばかりだというのに馬たちもすでに疲労を溜めているようで、可哀そうだとは思うが、本当に馬車に乗っていてよかったと思った。


 アキラたちは今、魔王の牙城があるという禁忌の地、ファクトルを訪れている。

 だが、マリサス=アーティは、いつものように眠たげに見える眼で、なんてことの無いように馬を淀みなく操っていた。

 “数千年にひとりの天才”と言われている彼女は、どこにいても、どのような状況でも、何をしていても、当たり前のように、普段通りの佇まいだった。


「もう起きたんすか?」

「寝辛くてな」


 アキラはマリスの隣に腰を下ろし、ちらりと馬車の中を振り返った。

 “七曜の魔術師”が共に行動している狭い馬車の中は、女性しかいないのだ。

 年齢も近しい女性たちと出逢い、共に旅をしていると無邪気に喜んではいたのだが、狭い馬車の中で混じって寝ていられるほどアキラの神経は太くない。


「強引にでも寝た方がいいんじゃないっすか? 昨日も寝てないんだし」

「まあ、そうなんだけどな」


 時間の感覚があやふやになるが、ファクトルに侵入してから1日ほど経過していた。

 昨夜アキラは仲間ふたりと夜の番を務めており、本日休養日である。

 有事の際は寝ていようが何だろうが叩き起こされることになるだろうが、長丁場になりそうなファクトルの探索では少しでも体力を温存しておくべきであろう。

 頭では分かっているのだが、どうにも遠慮が先に来てしまう。

 アキラは、自分がこの場所が日常の延長線上にあるものだと感じていることを、改めて自覚した。

 加えて。


「魔物、見かけたか」

「いや、見てないっすね」


 マリスと並び、ぼんやりと景色を眺める。

 至る所に岩山のような隆起があったり、どこまで深いか分からない亀裂が入っていたりと荒れ放題の大地だが、見渡す限り、砂、砂、砂。


「魔物が出現するのって、まだ先なのかな」

「そうみたいっすね。……にーさん、襲撃されたいんすか?」


 そういうわけではないが、そういうわけでもある。

 変化の無い景色の中、時間や距離の感覚も薄れ、おまけに魔物どころか生物も見ていない。

 まさしく全く刺激の無い砂漠を延々と進んでいるようで、あっという間に注意も散漫してしまった。

 不謹慎なのだろうが、定期的に魔物が襲ってきてくれれば意識も変わっていたかもしれない。


 聞いたところによれば、この辺りはまだ魔物の出現率が低いらしい。

 というより、この辺りまでくると魔術師隊や魔導士隊が駆除するそうだ。

 マリスたちに見せてもらった、ほとんど空白のファクトルの地図で、辛うじて地形が書いてあるエリアは、比較的安全、ということなのだろう。

 地図で見るとあまりに小さいエリアだったが、休み休みとはいえ馬車で1日以上かかる距離があのサイズとなると、ファクトルの全貌は途方もないほど広大ということになる。

 自分たちはこんな探索を後何度繰り返すことになるのだろうか。気が重い。


「ふぅ」

「……にーさん、寝た方がいいっすよ。魔物が出ないなら、こういう生活に慣れる機会だと思った方がいいんじゃないっすか」


 欠伸と思われたらしい。

 アキラは適当に相槌を打ちつつ、さり気なく自分の右手に視線を走らせた。

 注意が散漫になりつつあるとはいえ、アキラの胸の奥には、しこりのようなものがあった。


 たとえファクトルが広大だとしても、いずれそのときは来るだろう。

 ヒダマリ=アキラが有する“具現化”。

 物語の最初からこの手にあった、あらゆる敵を滅する終点の力。

 とある意地から使用を控えていたが、またこの力を使うときが近づいている。


 この力なら、きっと。

 だが、この力は。


「……風、強くなってきたっすね」

「……っぷ」


 マリスの呟きで我に返ると、彼女の言葉がそれを呼び込んだように、砂が舞い上がり、視界が一気に悪くなった。

 口の中に砂が溜まる。砂風が馬車や岩を鋭く叩き、大地の亀裂からはおぞましい獣の叫びのような音が響く。

 日の光はほとんど遮断され、背筋を冷たい汗が撫でた。


 マリスの言う通り、身体を休めるべきだろう。

 散漫している注意も、つべこべ言わずに身体の中に叩き込むべきだ。


 ここが、この旅の終着点なのだから。


―――**―――


「―――」


 寝ているときは本当に静かだ。

 エレナ=ファンツェルンは、いつもは騒ぎ続けているアルティア=ウィン=クーデフォンの寝顔を冷めた目で眺めながら、乱れていたタオルケットを適当に直してやった。

 首を寝違えそうなほど不自然な態勢で寝入っているティアの表情はしかし穏やかで、馬車が跳ねて寝具がはだけても起きる気配が無い。彼女の風邪の引きやすさに一役かっていそうな特徴だ。

 エレナは縛り付けた方がいいかと思案しながら、ティアの格好を直した。この場所でいつも通り体調不良になることは許されない。


 馬車が揺れる。大きく跳ねる。そのたびに、積み込んだ食料からちゃぷちゃぷと水の音が響いた。

 その横には、馬車の壁に背を預け、自らの長刀を抱え込むようにして眠っているサクがいる。あどけないティアとは対照的に、触れれば切れるような雰囲気を持つ彼女は、臨戦態勢を整えているようにも見える。これもまたティアとは対照的だった。

 このふたりは、昨晩アキラと共に、夜の番を務めていた。

 そしてこのふたりは、言い方は悪いが、エレナが直接脅しつけたふたりだ。


 ファクトルの危険さ。

 認識の甘さ。

 危機感の欠如。


 偶然なのかもしれないが、そうした話をしたから、気を張って初日の夜の番を率先して務めたのかもしれない。

 だがそれでも、エレナの懸念は晴れない。


 気を張り過ぎてもかえって悪い結果になる。

 よく言われることだ。本当に戯言だと思う。


 気を張って、気を張って、気を張り続けて、それが僅かにでも途切れたとき、そこに待つのは惨めな末路である。

 ファクトルは、そういう場所なのだ。


 そしてそれは、“ファクトルだから”というだけでそうなのである。

 ファクトルに出現する通常の魔物だけですら、この場所を禁断の地とするに足りるのだ。

 ヨーテンガースの北部で話に出る、ヨーテンガースの洗礼すら生ぬるい。


 今、“それに加えて”、この地には魔王の牙城がある。

 当然いるのは魔王だけではなく、魔王直属の魔族も出現するであろう。


 この面々の旅で出遭った魔王直属は2体。


 1体はリイザス=ガーディラン。

 アイルーク大陸で出遭った、“財欲”を追求するその存在は、ヒダマリ=アキラの具現化で撃破した。


 もう1体はサーシャ=クロライン。

 ヨーテンガース大陸で出遭った、“支配欲”を追求するその存在は、マリサス=アーティの具現化で撃退した。


 僅か2体だ。


 先日宿泊した魔術師隊の支部でも、ほとんど情報は集められなかった。

 未だ魔王軍の勢力は、謎に包まれたままである。


 そして、もう1体。

 エレナが知っている魔族がいる。


 その存在も、“まだ”この場所にいるかもしれない。


 ガバイド。

 出遭ってどうするつもりかと訊かれたら、殺すと即答できる相手だ。

 そして、その脅威は。


「……」


 だからエレナは、ひたすらに身体を休めた。

 勝率を―――あるいは、“生存率”を少しでも上げるために。


「イオリさん。魔物はそろそろ出ますか?」


 就寝組に気を遣った小さな声が聞こえた。

 横目で眺めれば、エリサス=アーティが毛布にくるまりながら、落ち着きなく馬車内を見渡している。

 ファクトルに入って数時間程度はいつもの調子だったが、次第に馬車内を支配し始めた重苦しい雰囲気にあてられているのだろう。


「油断はできないけど、まだ調査済みのエリアのはずだよ。……何もないなら、休息に徹しよう」


 そんなエリーの言葉にホンジョウ=イオリが短く返した。

 イオリは、魔導士としての経験からか、重すぎず、軽すぎず、神経を研ぎ澄ましているようだった。

 イオリの事務的な言葉に、エリーは気落ちしたように言葉を飲み込んだ。

 しかしその瞳が揺らぎ、また落ち着きなさげに馬車を流し見てはイオリで止まる。

 エリーは“別のこと”が気になっているように落ち着きを取り戻さず、そしてイオリは、そんなエリーの様子を察しつつも休息に徹していた。


 助かったと言えるだろう。

 この地で、少なくとも半分は“警戒”してくれている。


 エレナ自身、マリス、イオリ。そして恐らく、アキラもそうしてくれているはずだ。

 他の面々は、“緊張”はしているが“警戒”はしていない。

 ひとりは怪しいが、彼女たちもふざけているわけではなく、いたって真面目だろう。

 今さら何を言っても、“そういう領域の力”を持っていなければ伝わるはずもない。


 だが幸いにも、戦局に影響のある4人が“警戒”してくれているのであれば、結果には響かないだろう。

 戦力差が極端に歪なこの面々の旅は、結局のところ、そういう旅なのだ。


 ガタゴトと揺れる車輪と、砂風が馬車や岩を叩く音と、食料の水音と、小さな寝息。

 重苦しい空気の中、馬車は前へ前へと進む。


 エレナにとっても最終目的地であるかもしれないファクトル。

 待ちに待った、自分のすべてがかかった場所になるかもしれない。


 だが、エレナはどうしても、こう思ってしまう。


 宿敵の首より、何より。

 “恐怖を無事に持ち帰りたい”、と。


―――**―――


「やっぱり俺、変わったのかもしれない」

「? 何がですか!?」


 そんなにキャッチャーな呟きだったろうか。

 日中も砂埃のせいで薄暗かったファクトルに、本当の夜が訪れていた。

 アキラはパチパチと燃える焚火の向こう、目の前に肉でもぶら下げられた獣のように食いついてくるティアの元気さに、素直に尊敬した。

 時折休憩は挟んでいたものの、劣悪な環境のせいで平衡感覚は未だにおかしい気がするし、移動していただけなのに立つのも座るのも億劫になるほど疲れが出ている。

 そんな過酷な旅の中、にこにこと笑うティアはいつにも増して輝いて見えた。


「いやさ。まず、体力。俺、もっと眠気に弱かったような気がするんだよ」

「あはは、アッキー。あっしが言うのもなんですが、多分どこかでいきなり来ます」


 今日も一日の大半を移動に費やした。

 特に何かがあったわけでもないのだが、何となく眠る気に慣れず、アキラは結局ほとんど寝ていない。昨日は夜の番を務めたのだから、1日超眠っていないことになる。

 だが、眠気はいつまでも襲ってこなかった。

 ティアの言う通り、倒れ込む寸前なのかもしれないが。


「まあそうなんだろうけどなぁ……、眠くならない。それと、あとは心も。今、馬車の中もあんま気にならない」

「おおっ!! アッキーが悟りの境地に!」


 今、馬車の中では女性陣が身を清めていた。

 随分と大げさな食料の中には、砂ばかりのファクトルで行動するとなると何かと入用になる、普段使い用の水も含まれている。

 それを使っている彼女たちは、当然今、服をすべて脱いでいるであろう。

 厳戒態勢が引かれ、アキラを外で待機させ、ついでに見張りのティアを設置し、彼女たちは今頃しばしの休息を取っていた。

 時折小さく高い声や、水音が聞こえてくるが、意外にもそれらが自らの欲情を駆り立てないことにアキラは驚いていた。

 元々覗きをするような度胸は無いが、今の自分は、思ったよりも意識を魔王へ向けているのかもしれない。


「なあティア。お前はいいのか? 見張りはともかく、お前だってさっぱりしたいだろ」

「あはは、あっしは後で使わせてもらいます。…………皆さんと一緒だと、……へへ。気後れしまして……」

「は?」

「アッキー。女性にもいろいろあるんです」


 遠い目で、乾いた声がティアから漏れた。

 アキラは深く触れないことにして、拾ってきた木の枝をくべる。

 ファクトルの中には稀に枯れ枝のようなものが落ちていることがあるが、これらは本当に木材だろうか。燃えれば何でもいいのだが、そもそも植物を滅多に見ない。

 あるいは。

 人知れずファクトルに入り、命を落とした冒険者たちの荷物か何かだったのかもしれない。


「……アッキー。眠った方がいいですよ」


 ぼうっとしていると、ティアが、目を細めて見つめてきていた。

 そんなに疲れた顔をしているのだろうか。


「今日はよく言われるなぁ、ついにティアにまで」

「ついにとは?」

「分かるだろ」

「うぐぅ」


 あえて厳しめに言うと、ティアは唸り、しかしそれでも噛み付いてきた。


「アッキー。あっしは今日、しっかりばっちりお休みしました。ぐーすかぴーすかしていましたよ。もういっそ、何だったら今日も夜の番ができます。というかしましょう。させてください。あっしは今日の夜、絶対に眠れません…………あれ?」


 言っている途中で何を言いたいのか分からなくなったのか、あるいは自らの状態を把握してしまったのか、ティアは頭を抱え出した。

 表情がころころ変わるのが良く見える。声量もあるが、焚火を挟んでいるのに、ティアと話しているとずっと近くにいるような気がした。


 彼女はいつも通りだ。日常の延長。

 最近アキラの脳裏にふと過るそれは、心地よく、そして悪寒だった。

 そんな気持ちを覚えると、アキラはふと、右手を眺めてしまう。


 いよいよここが、旅の終着点。そんなことは分かっている。

 だが、日常の延長に過ぎないと言われれば、アキラは納得してしまうのだ。

 あのホンジョウ=イオリは言った。自分たちは“恐怖”を覚えていないと。

 それを得られる機会のほとんどは、この右手が拭い去ってきてしまったのだ。


 マリスや、エレナ、そしてアキラに警告した当の本人であるイオリ。

 彼女たちはそれぞれ備えているように感じる。

 自分が最もパフォーマンスを発揮できる状態というのを維持しているように思えるのだ。


「……警戒、か」


 小さく呟き、アキラの背筋が冷えた。

 妙な焦りがある。焦れないことに焦っている。

 アキラはそのこと自体にまさに恐怖を覚えていた。

 まるで取り残されているような、しかし取り残されているのに、自らの心は達観しているような、悪寒。

 もしかしたら眠れないのは、その漠然とした恐怖が膨らんでいる精神状態のせいなのかもしれない。


「―――アッキー。私は警戒していますよ」


 ティアが、静かに呟いた。

 ぼんやりと眺めて遠のいていた右手が、急に目の前に現れたような錯覚がした。


「いやいや、実はですね、前にエレお姉さまに怒られちゃいまして。まあ、つまり、ちゃんとしろ、ってことなんでしょうけど」


 ティアの表情は、妙に穏やかだった。

 怒られた、というより、叱られた、の方が正しいような表情だった。


「今も多分、エレお姉さまに言われる域には達していないんでしょう。私はきっと、“全然ちゃんとできていない”。変わらなきゃいけないって、薄々分かっているんですけどね」

「ちゃんとしてたろ。実は昨日、お前が夜の番で寝落ちするかどうかサクと賭けてたんだが、起きてたし」

「あはは。……ちょっと怒りそうです」

「サクは賭け事強いみたいだ」

「めっちゃ怒りそうです」


 むくれ始めたティアをなだめるように手を上げると、彼女は頬を膨らませた。

 いつも通りの表情。日常の延長。

 似たようなことを考えていたのか、ティアは、しかし警戒していると言った。


「難しいですよ、アッキー。どうすれば警戒できるんですかね? 頑張っているつもりなんですけど、いっぱい食べて、いっぱい寝て、いっぱい騒いで。いつも通りでいることが、私にとっての警戒になるって信じたいですが」

「……なるんじゃないか。人それぞれだ」

「あはは、そうかもしれませんね」


 自分を見失いつつあったアキラの口が、無責任な言葉を吐き出した。

 だが、目をキラキラ輝かせて話すティアを見ていると、正しい言葉だったような気もしてくる。

 ティアももしかしたらアキラ同様、正しい警戒の仕方が分からず、迷いの中で焦っているのだろうか。

 あるいは、アキラがそう見えたから、彼女はこんな話をし出したのかもしれない。それは考え過ぎだろうか。

 ティアを見ていると、どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか分からない。もしかすると、すべて本気で、彼女はいつでも真剣なのかもしれない。

 いずれにせよ、アキラの気持ちは少し軽くなった。


「まあ、とにかく。あっしが言いたいのは、アッキーもちゃんと寝ないと駄目ですよ。さっぱりして、ゆっくりしていれば眠れます。……あ、あはは。何だったら一緒に水浴びしますか? きゃはっ」

「はは、はははははは」

「嘲笑、ですか……?」


 焚火が小さく音を鳴らした。

 星も見えにくい空を見上げると、身体が眠気を覚える。


 緊張を解くのはまだ早い。だが、身体を休めるという選択肢が出てきてくれたようだ。

 少しだけ少なくなった焦りを、しかし消えないように保ちながら、アキラは大きく息を吐く。


 メンバー間の戦力が歪。それは今さら言っても仕方ない。

 だが、遊び半分で来た者は誰ひとりとしていない。


 普段通り、しかし正しく警戒し、正しく焦り、そして前へ進んでいく。


 そうすることで、この旅は、“神話”になるのだ。


―――**―――


「―――ラ、アキラ」

「……?」


 意識がゆっくりと覚醒する。

 ガタゴトと揺さぶられる中、身じろぎすると身体がパキリとなった。

 お世辞にも寝心地のいいとは言えない馬車の中、それでも少しでも惰眠を貪ろうともがくが、ようやく自分が今いる場所を思い出し、アキラはゆっくりと目を開ける。

 馬車の中は薄暗く、慣れた目は、すぐに目の前のイオリの顔を拾った。


「アキラ、起きてくれ」

「……、うわ。かんっぺき寝てた」

「それはいいんだけど、起きてくれ。そろそろ到着する」


 随分と同じ体勢でいたらしい。

 身体を伸ばすだけで身体中に違和感を覚える。

 どうやら神経が立っていただけで、身体の方は疲労が溜まっていたらしい。


「おはよう。良く寝ていたね。……体調は?」

「……ああ、問題ない」


 身体を伸ばしながら馬車内を見渡すと、各々が座り込んでいる中、エリーとサクだけがいなかった。

 今日の馬車当番はサクで、エリーはその付き添いだろうか。

 眠気に任せて目を閉じたくなったが、どうやらそういうわけにはいかないらしい。


「到着って、どこに?」

「“地図の白紙の部分”だよ」


 やはりそうらしい。

 いよいよ自分たちは、魔術師隊の調査がほとんど及んでいない場所に足を踏み入れかけている。

 イオリはあえて語らなかったが、つまりは、魔王の牙城が出現したという場所も目と鼻の先ということになるだろう。

 そう考えると、このタイミングで身体を休めたのは正解だったのだろう。にまにまと得意げに笑っているティアが視界に入る。昨夜彼女と話したのも正解だったらしい。


「警戒しなさい」


 ぽつりと、乾いた声が聞こえた。

 眠りかけている身体がびくりと跳ねたような気がする。

 エレナは、神妙な顔つきのまま、鋭い視線をアキラに、いや、恐らくは全員に走らせた。


「こんな場所まで来たってことは、何が起きてもおかしくない。そうでしょう?」


 エレナはアキラとイオリを一瞥し、そしてマリスを睨むように見つめる。

 マリスは音も無く頷いた。

 彼女たちの“警戒”は、寝起きの身体でも感じ取れた。

 アキラは強引に身体中を覚醒させる。


 この数日で、散々言われたことが脳裏に浮かんだ。

 いくら警戒してもし足りない。

 このファクトルは、最悪の危険地帯。


 だから。


「全員馬車から降りろ!!」


 外からサクの怒鳴り声が聞こえた。


―――こんなことが突然起こるのも、自然なことなのだろう。


「っ―――」


 最も早く反応したのはマリスだった。

 座り込んでいたマリスが弾かれるように立ち上がったかと思えば、馬車の分厚い布を突き破るほどの速度で外に躍り出る。

 アキラの意識が追い付いたのは、翻った馬車の布の先、マリスが両手を振り上げたときだった。


「出るわよ!!」

「ぐえっ!?」


 エレナが隣に座っていたティアの襟を乱暴に掴み、そのまま外に跳び出て行く。

 アキラもイオリと競うように駆け出すと、外は眩いばかりの銀の光に包まれていた。


「―――フリオール!!」


 馬車から出るなり転がり込んだアキラは、自分たちが岩山に囲まれた自然の通路にいたことに気づいた。

 ファクトルの地形は代り映えも無く、どこまで進んでもまるで実感が湧かない。少し戻れば数日宿泊した魔術師隊の支部に戻れそうだ。

 だが、あの日常からは完全に切り離されていることを確信する。

 マリスが両手を掲げて発動した魔法は、馬車の上空、十数メートルはあろうかという大岩の落下を止めていた。

 エリーとサクも、馬車から緊急避難したのか倒れ込んでいる。

 マリスが止めていなければ、アキラたちは馬車ごと押し潰されていたであろう。


「なっ、何がっ……、って、いっ!?」


 アキラが状況把握をする間もなく、馬車が駆け出した。

 操縦者を失った馬たちは、生存本能から脇目も振らずに駆け出していく。


「くっ」

「ほっとけ!!」


 反射的に追おうとしたサクを、エレナが怒鳴って止めた。

 エレナは馬車などに目もくれず、ギロリと大岩を、いや、その先を睨みつけていた。


「そんなのどうでもいいわ!!」

「……!!」


 食料をはじめとする積み荷が馬車と共に離れていく。これだけ荒れ放題の大地で操縦者がいなければすぐに横転してしまうだろう。

 だがそんなものは後回しだ。

 エレナが睨んでいるのは、両脇を囲う岩山の中腹付近。

 そこには、同じようにこちらを睨みつけているような、数体の影があった。


 いや、数体ではない。わらわらと、わらわらと、その背後にも黒い影が続々と現れている。


「ガァァアアッ!!」

「づ!?」


 その方向は、岩山で増幅し、地鳴りのように鳴り響いた。

 アキラが視認し切るよりもずっと早く、異常なほどの大群が、俊敏に跳び降りてくる。


 身体中が黒い体毛に覆われたゴリラのような姿。アイルークやこのヨーテンガースでも見たクンガコングやガンガコングと同種なのだろう。

 だが、姿形こそ似ているが、それぞれの体長が3メートル近くある。

 アキラよりもずっと大きく、そしてずっと早いそれらは、次々と岩山から飛び降り、あっという間に広大な自然の通路を埋め尽くしていく。


「ランガコングだ!! 総員、囲まれるな!!」


 イオリが叫び、マリスが岩山を落石の魔法を解除した。

 揺れる大地が開戦の合図のように、アキラも剣を抜き放った。

 未だ意識ははっきりと研ぎ澄まされていない。だが、すぐにでも集中しなければこの場で死ぬことだけは分かった。


 突如として落下してきた大岩。

 砂嵐でまともに前も見えない劣悪な環境。

 左右の足が同じ高さにならない荒れた大地。

 考えるまでも無く凶悪な魔物の大群との遭遇。


 直前まで馬車で眠っていたアキラにとって、突如として日常から切り離されたような恐怖を覚える。


「―――っ、うっ、わっ、わっ!! うっ、後ろっ、後ろに!!」


 ティアが叫んだ。

 反射的に振り返ったアキラの視界に入ったのは、入りきらない“何か”だった。

 自分たちが進んできたと思われる岩山の道の向こう、そこから、“ぬっ”っと巨大な影が現れた。

 ティラノサウルスにも似た巨獣。肥大化した大顎。岩山よりもずっと堅牢な泥色の肌。

 単純な巨大さだけでもアイルークで見た巨大マーチュやマザースフィアに匹敵する。

 魔術師隊の支部で聞いた、ガルドンという化け物が、“当たり前のように姿を現した”。


 前方にはランガコングの大群。

 後方にはガルドン。

 どちらか一方でも手に余る異常事態が、何の予兆も無く出現していた。


 この場所は、“これほどなのか”。


―――“ファクトルが始まる”。


「進むぞ!!」


 サクが叫び、全員がそれに応じて駆け出した。

 この世のものとは思えない巨獣が出現している後方より、エレナが殴り掛かっている前方の方が安全地帯である。


「ち―――」


 ランガコングに接近したアキラは、その体躯に撃破を諦め、剣をコンパクトに振った。

 魔力で威力を増すのではなく、魔力を相手の身体に残す攻撃方法。

 同種と思われるガンガコングには通用している、その、土曜属性のイオリから学んだこの攻撃方法は。


「―――!?」


 コンマ1秒。

 一瞬の足止めにしかならなかった。


「スーパーノヴァ!!」


 直後、アキラが足止めしたランガコングに、スカーレットの光が叩き込まれた。

 目を焼かれるほどの閃光を眼前で受け、それでも目をこじ開けていたアキラは、エリーの拳の向こう、唸るランガコングが腕を振り上げたのが見えた。

 これでもまだ、足りていない。


「づ、だらぁっ!!」


 考える間も惜しんでアキラはエリーから学んだ攻撃方法でランガコングに剣を放つ。

 鎧のような筋肉相手に腕が痺れるほどの衝撃を受けるも、際限なく魔力を込め、力ずくで剣を振り切った。


 念願叶ってようやく斬り飛ばせたランガコングの生死は確認できなかった。

 斬り飛ばした巨体はあっという間に群れの中に埋もれていく。

 そんな、僅か1体を迎撃する間に、周囲はランガコングたちに埋め尽くされていた。

 そして背後からは、ズシン、ズシンと規格外の巨獣と近づいてくる。

 ふたりがかりで、死力を尽くして挑んだというのに、状況は圧倒的に悪くなっていた。


 通用しないにもほどがある。

 頭がまるで追いつかない。

 他の味方の位置はまるで分らない。

 ただ、少なくとも確かなのは、合流できたエリーと離れたら、どちらもランガコングに一瞬で殺されるということだけだった。


「―――フリオール!!」


 ランガコングの雄叫びと、ガルドンの足音が飛び交う戦場で、澄んだ声が聞こえた。

 身体中が銀の光に包まれたかと思うと、重力を忘れたように浮かび上がる。

 身体に纏わりついていた鬱陶しい砂風や戦場の熱気すら遮断され、アキラとエリーの身体はランガコングの頭上に運ばれていた。


「マリ―――」

「行くっすよ!!」


 見れば仲間全員が銀の光に包まれて浮かんでいる。

 マリスは眼下のランガコングの大群を一瞥すると、その頭上を飛び越させるように全員を運ぶ。

 ランガコングたちはすべて飛び降りてきたのか、岩山に魔物の姿は見えない。

 マリスはそれを待っていたのだろう。目も覆いたくなるほど足元を埋め尽くすランガコングたちも、流石にこの高度には届かないようだ。


 だが、背後から迫る巨体は話が別だった。


「ィィィギィィィァァァアアアーーーッッッ!!!!」


 その雄叫びだけで、岩山が崩れかけた。

 遥か上空と表現できるこの高さでも、背後のガルドンにしてみれば獲物を口に収めるのに丁度いい高さに思える。

 マリスは速度をさらに上げ、追ってくるガルドンから7人全員を引き離していく。

 高速で過ぎ去る景色の中、誰ひとりとして消えた馬車の行方を追わなかった。


 アキラは未だ痺れる手で剣を強く握り込んだ。

 全員の表情は見えない。

 だが、誰ひとりとして、マリスのお陰で窮地を凌げたのだと安心していないことだけは分かった。

 ファクトルは、始まったばかりに過ぎない。


「っ、いっ、一旦下ろすっすよ!!」


 急ごしらえだったのか、マリスの魔法はいつものように長続きせず、ガルドンやランガコングの群れからある程度の距離を取った途端、アキラたちは乱暴に大地に降ろされた。

 岩山で囲まれた広大な道も終わりに近づいている。その向こうは開けた場所になるのだろうか。


「走れ!!」


 着地と同時、アキラは叫んだ。

 背後からは未だランガコングやガルドンが追ってくる。


 全員が一心不乱に走った。

 荒れ果てた大地に、足を進めるだけで身体が揺さぶられる。

 背後からの雄叫びや振動に頭が割れるほど痛い。


 一体なんだ、この場所は。

 これが、“当たり前”だとでもいうのだろうか。


 ひたすらに逃げる。

 足を取られて転げても、例え足が折れても、死に物狂いで逃げるしかなかった。

 岩山を超えた先、光が差し込めているあの場所を目指して。


「止まれ!!」


 先行していたサクが叫び、そして、言われるまでも無く全員の足が止まった。

 岩山を抜けると、荒野が広がっていた。

 変わらず波打つように荒れた大地がだだっ広く広がり、太陽が焼き尽くすように照り付けている。

 そして、舞い上がる砂埃の向こう、接近してくる“波”が見えた。


「……、うそ、だろ」


 今来た道に引き返し、ランガコングの群れやガルドンと戦う。

 目の前の光景は、その選択肢が容易いとさえ思わせた。


 その波は、当然のように、群れだった。


「ア……、アシッドナーガ……!?」

「それだけじゃない!!」


 エリーとイオリが叫んでいる。

 かつてリビリスアークを襲ったアシッドナーガという魔物をアキラは知っている。

 太った竜のような姿に、毒々しい膿のような瘤を身体中につくり、牙や爪が攻撃的に鋭い魔物。それは、記憶通りの姿をしていた。

 それが、見える範囲で10体前後。

 そして、それが“群れ”の“たった一部”だった。


 サーシャが襲ってきたときにも見た、銀の体毛のオオカミのような魔物、ルーファング。

 爪や尾、牙や角、多手多足、あらゆる生物の特徴が融合したようなキマイラのような化け物。宙に浮く槍のような物体は時折傘のように開いて闇のような漆黒の中身を晒し、両腕が肥大化した二足歩行の怪物は鬼のような角のある赤い顔で睨みつけてくる。空には稲光のような霊体が不自然な接近を繰り返し、分かりやすい龍も翼をはためかせて急速に接近してきた。


「トッグスライム、パースガルもいる!!」


 イオリが叫んだそれが何なのか、アキラは考えようともしなかった。

 見えるだけで数十種。

 そして各種、十数体以上の大群が、広大な大地を撫でるようにまっすぐにこちらに押し寄せてきていた。


 現実離れし過ぎている光景に、思考が固まりかける。

 脳裏に、イオリの言葉が蘇った。


『煉獄を視たことはあるか』


 進めば地獄、退路は無い。


「ちっ」


 まず、エレナが飛び出した。

 完全に囲まれる前にアシッドナーガに飛び掛かり、その巨体を殴り飛ばす。

 その振動で、アキラは我に返った。

 そうだ、動かなければ、どの道背後のランガコングやガルドンに殺されるだけだ。


「―――アキラ!!」


 剣を構えたアキラに、イオリが叫んだ。

 魔物たちを牽制しつつ、鋭くアキラに視線を送ってくる。


「……」


 そうだった。

 例えこんな状況でも、自分たちは“無事でいられるのだ”。


 アキラは剣をその場に突き刺した。

 先ほどのランガコングで証明できてしまった。

 ヒダマリ=アキラの剣など、このファクトルでは何の役にも立たなかったのだと。


 アキラは歯を食いしばって駆け出した。

 まずは前方の未知の魔物の大群からだ。


 これが、これだけが、唯一ヒダマリ=アキラを勇者たらしめる。


「っ!?」

「エリーさ―――」


 見えていた景色が、変わった。

 視界の隅にあったはずの赤毛が消える。


 自分と同じように駆け出していたエリーが、ファクトルの大地に足が取られている。

 サクが駆け寄っていくが、エリーの足は、割れた大地に挟まれていた。


 背後からはランガコングたちが迫ってくる。

 前方に撃てば、エリーたちは間に合わない。

 だが、背後を先に撃とうにも、エリーたちを巻き込むことになってしまう。


 どうする。

 どうすれば。


「―――“いや”」


 エリーを救わなければならない。


―――“そう想ったじゃないか”。


「アキラ!!」

「っ―――フリオール!!」


 イオリの叫びと、聞き慣れないマリスの大声。

 アキラがその右手を、エリーに伸ばした瞬間、“視界が消えた”。


「!?」


 まるで土中に潜ったかのような光景だった。

 身体を覆う銀の光の外、身の回り総てを砂嵐が覆っている。

 一寸先すら見えないほどのそれは、最早砂嵐の域すら超えていた。

 あれだけ世界を覆い尽くすかのように見えていた魔物の大群すら1匹たりとも見えはしない。

 辛うじて分かるのは、自分が手を伸ばしたエリーと、至近距離にいるサクだけである。


 アキラは右手に溜めていた魔力を握り潰した。

 この“兵器”は総てを消し飛ばす。“消し飛ばしてしまう”。


 これは、まずい。

 “誰がどこにいるのか分からない”。


「っ、べっ!!」


 エレナ=ファンツェルンは砂嵐の中、口に含んでしまった砂を苦々しく吐き出した。

 この砂嵐が致命的な問題になることは即座に分かった。

 方向感覚も失い、誰がどこにいるか分からないようなこの状況、アキラは具現化を使用できない。

 マリスの体勢が整うまで適当に魔物の接近を抑え付け、安全地帯からアキラの具現化で片を付けるつもりだったのだが、この急な砂嵐のせいでマリスは防御に回らざるを得ず、アキラは攻撃方法を失った。


「らぁっ!!」


 ほとんど勘で、苛立ち紛れに前方の影を殴り付ける。

 微かに聞こえたのは魔物のうめき声と爆発音だった。


 だが、事態は好転していないが、最悪の状況というわけではない。

 この砂嵐は魔物の方も想定外だ。お互いに混乱のただ中にある。


 とりあえず、誰でもいいから合流しなければ。


「……!」


 砂嵐の僅かな隙間に、シルバーの発行体を見つけた。

 小柄な少女。間違いない。


「―――ひっ、ひぃぃぃっ!?」


 詰め寄って襟首を引くと、口から心臓が飛び出たような悲鳴が聞こえた。


「っ、エッ、エレお姉さま!?」

「しっ」

「―――ぐえっ!?」


 見つけたティアの口を強引に塞いだ。

 そしてそのまま力ずくで引き寄せると、自分たちがいた位置に何かが振り下ろされる。

 視認はほとんど出来ないが、声を頼りに襲い掛かってきた魔物だろう。

 種類によってはどうかは知らないが、少なくともこの砂嵐でこちらを見失っている魔物もいる。叫び声を上げたりしなければやり過ごせる魔物もいるのだ。

 時折砂嵐に紛れて戦闘音が各所から届いている。魔物の同士討ちも始まっているのかもしれない。


「―――ふぅ」


 ティアを口ごと強引に抑え込みながら、エレナは周囲を睨んだ。

 冷静になれ。

 ティアと合流できたのは幸いだった。

 マリスとイオリは離れた場所にいたはずだが、あのふたりは問題ない。

 そして、エリーとサクはアキラの近くにいた。


 窮地と思われた局面だが、この砂嵐のお陰で切り抜けられる可能性もある。


 問題は、どうやって合流するかだ。

 マリスの魔法は、自分たちを砂嵐から守るためだけに展開されたようで、先ほどのように空には浮かせられていない。

 魔法の理屈は知らないが、マリスもこちらの位置を見失っているかもしれない。

 ならば魔物ひしめく陸路を進む必要がある。

 だが、開けた大地は広大で、誰がどこへ進んでいくか分かったものではない。

 今ならまだ、全員それほど離れた位置にはいないはずだ。

 何か、合図のようなものがあれば。


「……!」


 そこで、エレナの耳に、この砂嵐の中でも轟く地鳴りのような音が聞こえた。

 ズシン、ズシンと規則正しく聞こえるそれは、自分たちに追いついた先ほどの巨獣、ガルドンのものだ。


「全員!! あの足音から“まっすぐ逃げなさい”!!」


 聞こえているかは分からない。

 怒鳴るように声を荒げてエレナは前進した。


 ガルドンのサイズは規格外だ。大挙して現れた魔物たちとすら比較にならない。

 ならばこの足音は、少なくともガルドンの位置は知らしめる。

 曖昧な目安だが、最低限、あの岩山から離れる方向へ全員を誘導できるかもしれない。


「っ―――だらぁっ!!」


 ティアを抱きかかえたまま、エレナは目の前の大きな影を殴り飛ばした。

 先ほどのランガコングだったような気がする。いよいよこの場所は大混戦だ。


 冷静になれ。

 また自分に言い聞かせる。

 ここを乗り切れれば、自分たちはきっと“恐怖”だけを持ち帰れる。


 ファクトルでは、“この程度のこと”は何の前触れも無く起こり得るのだと。

 ある種望み通りの展開に、エレナは楽観も悲観もせず、ただ神経を研ぎ澄ました。

 ここさえ乗り切れば、きっと。


「―――!!」


 駄目、だった。

 エレナはぴたりと足を止める。

 抱きかかえていたティアをその場に落とした。ティアが何かを叫んでいるが、まるで聞こえない。


 ギリ、と、口に飛び込んだ砂を噛み潰した。

 拳はいつしか自分の手ごと潰すように握り締められ、身体中が震え出す。


 研ぎ澄ましていた神経が、砂嵐の僅かな切れ目に、最も見つけてはならない―――見つけたかった“存在”があった。


 湧き上がるのは、明確な殺意。


「ガ、バ、イ、ドォォォオオオーーーッッッ!!!!」


 エレナは脇目も振らずに駆け出した。

 意図せず立ち塞がってしまった魔物は無残に殴り飛ばされる。

 さながらアキラの銃の光線のように、砂嵐も魔物も総てを突き破って一直線にエレナは駆けた。

 身体が、脳が、細胞ひとつに至るまで殺意に塗り潰されていく。


―――景色はすべて、砂嵐に染まっていた。


―――**―――


 たった1度の襲撃だった。

 それが、現状を招いた。


「シュー、シュー、シュー」


 口を開こうものなら砂に埋め尽くされて窒息するだろう。

 歯を食いしばり、強引に唇を開け、それでようやく呼吸が出来る。

 マリスの魔法はとうに切れ、刃物のようにさえ思える砂嵐が身体中を襲ってきていた。


 ヒダマリ=アキラは、何もかもが砂で埋め尽くされる世界を延々と歩いていた。

 ほとんど目も開けられない。開けたとしても、何も見えない。

 歩行速度は、普段の半分にも満たないだろう。

 今襲われれば、ファクトルどころかアイルークの魔物ですらアキラは抵抗できない。


 総てを投げ出し、座り込んでいた方が楽になれるかもしれない。

 だが、今それは許されなかった。


 右手にはエリー。

 左手にはサク。


 3人は、互いの顔も見られず、会話も出来ないまま、延々と歩き続けていた。

 だが、誰かひとりでもその場に座り込めば、全員がその場で諦めてしまうような危機感がアキラの身体を突き動かす。


「ッ、ブッ」


 もう何度繰り返したか、口に溜まった砂の塊を吐き出した。僅かにでも口を開いたせいか、先ほどよりも砂が口に入ったような気さえする。


 身体を襲う砂嵐に身体の水分がすべて奪われている気さえする。

 晒した顔の感覚は、とっくに無かった。


 歩いている方向は正しいのか。

 同じ場所をぐるぐると回っているだけではないか。

 いやそもそも、歩いていると思っているのは自分だけで、その場に立ち尽くしているだけではないだろうか。

 両手に感じる他者の体温だけが、辛うじて狂いそうになる頭を踏み留まらせてくれる。

 だが、それほど近くにいるというのに、絶望的なほど孤独を感じた。


 これは夢ではないのか。

 つい先ほどまでいたはずの馬車の中で、自分はまだ眠りに就いているのではないのか。

 心にいくら問いかけても何も返ってこない。


 足はもうほとんど動かない。肌は感覚を失っている。時折石でも投げられているように頭を砂が打つ。

 地獄のような責め苦に遭い、終わりの見えない世界の中で、アキラの思考は黒く塗り潰されかけていた。


 だが、それでも、この手を離してはならないことだけは感じていた。


「……!」


 左手が引かれたような気がした。

 朦朧とする意識の中、アキラの足は導かれるまま左に動いた。

 右手には自然と力が入る。

 この両手には何があったのだろうか。もう分からない。


 また終わりのない地獄のような歩行を続けると、ふいに、砂嵐が止んだ。


「……?」


 左手が強く引かれる。誰かが倒れ込んだようだ。

 引きずられるままにアキラもその場にばたりと倒れ込むと、もうひとり、誰かが倒れ込んできた。

 耳に詰まった砂のせいか、何も聞こえない。身体中の感覚が無かった。

 だが、辛うじて、自分たちが洞穴のような場所に倒れたことに気付けた。


 ここは自然物か、あるいは魔物の巣か。

 外では未だ砂嵐が暴れ回っている。

 だがいずれにせよ、この場所から動くことは、今度こそできそうになかった。


 アキラは息も絶え絶えに、同じく倒れ込んでいるエリーとサクの姿を捉え、意識を手放した。


―――**―――


―――それはすぐに夢だと分かった。


 小気味のいい包丁の音。ボウルに溜まる水の音。笑い声。

 自分は柔らかいソファに寝転び、微睡みの中にいた。


『疲れちゃった?』


 誰かが、屈託のない笑みを浮かべて、近寄ってくる。

 その顔が、好きだったはずだ。

 だがその顔は、何故かぼやけている。


 そうだ。もう顔もほとんど覚えていない。

 父が現れた。自分を挟んで彼女と座る。

 居心地のいい空間だった。


―――ここまでだ。


 これは夢だった。

 だから、終わらせるべき場所が分かった。


 深追いしない。

 光は影を作るなんて当然のことなのだろう。だから、光だけを見て、引き返せ。


 そうでなければ―――“いや”。


 そうしてしまったから―――


 ヒダマリ=アキラは目を覚ました。

 ここから何かを持ち帰ることは、許されない。


「認識が甘かった」


 場所も分からぬ狭い穴の中、最初に切り出したのはサクだった。


 洞穴というよりも魔物か何かの衝撃で空いただけの空洞とでも言うべき狭い空間で、3人は肌が触れ合うほど近く座り込んでいた。

 外では未だに狂気の砂嵐が暴れている。

 現れた大群の魔物が今どうなっているかなど興味も無かった。


「砂嵐もだが、魔物も、そのレベルも、全部、全部だ」


 奥歯を噛みしめるサクの言葉には、アキラもエリーも何も言えなかった。


 認識の甘さがある。警戒が足りない。

 散々言われていたことだった。

 だが、後から考えてすら、想像しろということさえ無理がある。


 時間も分からないが、ほんの一瞬前まで、自分たちはのんびりと馬車で移動していたではないか。

 それが僅か一瞬で散り散りになり、今や半数以下だ。


 頭のどこかで、何らかの襲撃があっても7人なら対処できるだろうと高をくくっていたと言われれば否定できない。

 突然の落石、周囲を埋め尽くしたランガコングの群れ、規格外の巨大さを誇るガルドン、大挙して襲い掛かってきた多種多様な魔物、凶悪な砂嵐。

 異常自体が立て続けに起こり、未だに夢だったのではないかと思いたくなるほどだった。


 これが、ファクトルだというのか。


「他のみんなは、合流しているのだろうか……?」

「してる。してなきゃ困る」


 サクの言葉に噛み付くようにアキラは返した。

 砂嵐で分かりづらいが、まだ日は沈んでいないように見える。

 自分たちがこんな空洞を見つけられたのはほとんど奇跡だ。だが、他のみんなも同じようにこの砂嵐と魔物をやり過ごしているのだと信じなければ、それこそ発狂しそうだった。


 逸れたのはマリス、エレナ、ティア、そしてイオリの4人。

 胸が圧し潰されるほど不安になる。

 砂嵐が少しでも収まれば、アキラはすぐにでもこの洞穴から飛び出して探しにいきたかった。


「……ごめん」


 意識を取り戻すなり黙り込んでいたエリーがぽつりと呟いた。


「邪魔……、しちゃったでしょ、あたし」

「いや、それは、」

「は、はは、ほんっと最悪……、足場悪いって散々言われてたのに……、信じられない……、最悪……」


 エリーは膝を抱えて震えていた。ぶつぶつと呟いている自己嫌悪の言葉は、自分に対する呪詛のようにすら聞こえる。

 あのとき、アキラの右手が掴んだのがエリーではなく、あの銃なら、確かにすべてが片付いていたかもしれない。


「約束のせい?」

「……違う」

「邪魔?」

「違う……!」


 肉体的にも精神的もエリーは追い詰められているようだった。

 あの決定的な瞬間、砂嵐の直前、エリーが浮かべた表情がアキラの脳裏に浮かび上がる。

 右手を指し伸ばした瞬間、恐怖と安堵が複雑に入り混じり、そして、自分が何をしてしまったのか悟った、悟ってしまった、寂しい表情だった。


「どっち道、砂嵐でわけ分からなくなってたよ」


 まるで気の利いていない言葉だということはアキラにも分かった。

 肝心なときにもこんな言葉しか吐き出せないとは。自己嫌悪に陥る。


「……イオリさん、あんなに叫んでくれてたのにね」

「だから、もう気にすんな」

「約束を破ってくれって、頭まで下げてたのにね」

「……聞いてたのかよ」


 盗み聞きでもしていたのだろう、エリーはあのときの会話を知っているらしい。

 それならば、より一層、彼女は知ってしまっているはずだ。


 ヒダマリ=アキラが最強サイドに移動することをイオリは願った。

 そして同時に、この面々の戦力が、現状どれほど歪な形をしているのかをはっきりと言っていた。

 この旅で、きっと誰もが感じながら、そして誰もがはっきりと口に出すのを避けていた、現実を、エリーは聞いていたのだ。


 だからきっと、思ってしまう。

 足を引っ張ってはならない相手の邪魔をした、と。


「―――ごめん」


 乾き切った声だった。

 アキラは、イオリにも、そして確かに、エリーにも、あの銃を使わないと約束した。

 それを守り続けて、ここまで旅を進めてきた。


 だとするのならば。


「……俺のせいだ」


 アキラは呟き、右手を握り締めた。

 アキラは思う。あのとき躊躇したのは、やはり自分のせいであると。


 約束があろうがなかろうが、具現化はアキラの意思で現出する。

 具現化の使用を避けることを選んだのはアキラだ。


 そして、具現化の使用を控えた旅は、短くはあったかもしれないが、本音を言えば、自分の成長を実感できてしまった。成長していると、勘違いしてしまった。

 あの最強カードを使うまでも無く進められる旅の中、アキラは、自分に何かできると勘違いしてしまっていたのだろう。

 もしかしたら先ほどの窮地でも、具現化を使わずとも切り抜けられると心のどこかで思ってしまっていたのかもしれない。

 有事すら見極められないほど愚かだというのに。


「謝るなら、俺だ。……ほんとに何やってんだ、って話だよな」


 もう少し体力があれば、岩の壁を力一杯殴り付けたかった。

 そもそも魔王討伐を目指したのも、あの力があったからだ。

 そうだというのに、周囲を巻き込んで、いざというときに使えないとは。

 結果、こんな事態に陥った。


「……なあ、俺、使っていいよな」


 次にアキラの口から出たのは、そんな自分の矮小さをひた隠しにする、最悪の言葉だった。

 エリーを責めるつもりはないというのに、こんな自分からは、こんな醜い言葉しか出ない。


「うん……」


 エリーからは、乾いた声が返ってきた。

 散々旅をして、成長してきたはずのアキラが口にしたのは、その旅を無意味にするような言葉に聞こえるだろう。

 言ったアキラも、胸の奥でどす黒い何かが蠢くのを感じた。


 自分は、彼女に、こんな顔を浮かべさせることしかできないというのか。

 エリーはあれほど、アキラのために、成長を促してくれたというのに。


「……なあ」


 アキラは、小さく呟いた。

 魔王をアキラの具現化で倒す。

 それは、旅の初めから分かり切っていたことでもあった。

 だが、その旅が、その旅での日々が、それで終わりであることを許そうとはしなかった。


「魔王を倒したあと、なんだけど」

「?」


 自分は、エリーから多くのものを学んだ。

 なんだかんだ言っても、エリーはアキラのことを真剣に育ててくれた。

 彼女はきっと、アキラの先を見てくれていた。

 そんな魔術の師に対して、自分が返せるのは、自分の中にある意思を示すことだけだ。


「―――魔術師試験、受けてみたい」

「……は?」


 ようやく顔を上げたエリーは、呆気にとられたような、何とも間抜けな表情を浮かべた。

 間抜けを見るとこうなるらしい。


「お前も忙しいんだろうけど、合間合間で、勉強の方も教えてくれないか?」

「いいよ……、無理しないで」

「……いや、違う。多分、そうじゃない」


 言葉を漏らしたときは、きっと、沈み切ったエリーに手を伸ばしたかっただけかもしれない。

 だが、口に出すと、思ったよりも腑に落ちた。

 魔王を倒す勇者の物語。その神話の後。自分が何をしたいのか、その先の想いが、ぼんやりと見えてきた。


「俺さ、魔術師になりたいんだ、と思う。勉強して、資格とって、それで、いつかは魔導士に」

「……」


 この世界に落とされて、混乱の中進んできた旅は終盤を迎えている。

 短いながらも世界を旅して、この世界で生きることがどういうことなのか実体験として感じ取ってきた。

 アキラは、その感覚を、形にしたいと感じていた。


 高い壁だろう。

 何せあのマリスに勉強を教わっていたというエリーですら1度落ちているというのだから。

 だが一応、アキラも元の世界で大学受験を経験している。3流と言われても仕方のない大学ではあったが、それでも合格しているのだ。

 本気で取り組めば出来ない話ではないだろう。

 誰に無理と言われても、この世界での未来を目指したいと強く思う。


「だから、さっさとみんな見つけて、魔王なんてとっとと倒して、全員で戻って……。は、時間が惜しいな。……だから、俺、あの銃使っていいか? 早く終わらせないと」


 エリーは、目を伏せた。身体が僅かに震えている。

 ようやく顔を上げた彼女は、精一杯の呆れ顔を浮かべて、笑ってくれていた。


「―――だから、使っていいって言ったでしょ?」


 ようやく、彼女の声が聞こえた気がした。


「2年はみといて」

「魔導士になるのにか?」

「冗談でも言わないで。“魔術師試験”の第一部よ。試験は二部構成なんだから」

「そんなまさか」

「合格どころか記念受験できるようになる頃には、あんたより若い人結構多いかもね」

「何で最初は落ちる前提なんだよ……。ま、まあ、でも、やる、かあ」


 エリーはアキラより年下だ。そして彼女は今年魔術師試験に受かっているという。

 周りも年下だらけで、上司もそうなるかもしれない。

 最悪、エリーがアキラの教育係になっていることもあり得る。

 それは今と変わらない気もするが。


「あたしも忙しいだろうしねぇ……、どうしよっかな」

「そこは頑張ってもらうしかないな」

「あれ。なんかあたしの方が大変な目に遭う気がする……」

「受験生が一番大変なんだ。周りの苦労なんて安いもんだろ」

「受験生サイドの台詞じゃないでしょ……。それに、あたしでいいの? 多分勉強の教え方は下手な気がするし」

「いや、お前がいい、っ」

「へっ、へぇ……」


 ものの弾みで出た言葉に、エリーはジト目を向けてきた。

 だが、今さら訂正しようとは思わなかった。

 そして、アキラは自分の意志に、不純なものが混じっているような気がしてくる。

 もしかしたら自分が見ていた未来は、ただ魔術師になるというだけでなく、あの孤児院で、そんな生活を想像していたからなのかもしれない。


 この旅は、彼女との婚約破棄が目標だったはずなのに。


「―――こ、こほん」


 そこで、咳払いが聞こえた。

 心臓が口から飛び出たかと思った。


「……ああ、すみません。んんっ」


 わざとらしく喉を鳴らしたサクは、気まずそうに視線を外していた。

 少し顔に生気が戻ってきているような気がする。

 外の様子を探ると、いつの間にか砂嵐が少しだけ収まっているような気がした。


「サ、サクはどうするんだ? ほら、魔王を倒したあと」


 気まずさを払うようにアキラは口を動かした。

 だが言って、改めてサクを見ると、確かに気になることではあった。


「そうですね……。私はアキラ様の従者ですから」

「……あ。そ、そうだな……」


 背筋を伸ばした凛とした様子で、顔付きだけは神妙になったサクは、顎に手を当てた。

 そんな様子の彼女を見ると、アキラの方が従者のようにすら思えてくる。


「ま、まあ……。そうですね。『“勇者”ヒダマリ=アキラ』に仕えているということであれば、魔王を倒したあとは……」

「ああ、いいよ、それで」


 この奇妙な主従関係も、魔王を倒すまでの方が正しいような気もした。

 この世界に来て間もなかった頃、サクが従者になったときは無邪気に喜んだものだが、サクという人物を知れば知るほど、自分にそこまでの器が無いことに、アキラはとっくに気づいていた。


「そうですね。……武器。鍛冶屋に興味があります」

「……あ、悪い。待った」


 流れから、こんな話に及んだことに、アキラは待ったをかけた。

 将来の夢を語らい、いよいよ店を持ちたいなどという話も出てきた。

 危険な香りがする。具体的には、丁寧に旗を立てているような気がしてくる。


「…………、いや、悪い。それで?」

「……い、いえ。止めておきましょう。先のことよりこれからどうするかを考えた方がいい気がします」


 サクもアキラの様子を察してくれたのか、苦笑して外に視線を向けた。

 話をしていると気が紛れるものなのか、全員、多少は精神的には回復できたのかもしれない。


「こういうのはどうだ? 砂嵐が止んだら、俺が銃を空に向かって乱射する。日輪属性の光を見れば、マリスたちは俺たちを見つけられるんじゃないか?」

「そうね……。あんまりさっきの場所から離れてないだろうし、みんなも同じように近くに隠れてるだろうし」

「いや、待ってください」


 サクが改めて周囲を伺うように外に視線を走らせた。


「近くにいるのはマリーさんたちだけではなく、あの魔物たちもでしょう。また襲ってくるかもしれません」

「それでも、倒せるぜ?」

「い、いや……、そ、そうよ。エレナさんとティア、マリーかイオリさんと逸れていたら、走ってくることになるわ。そんな中であんたがあの銃を使っていたら……」


 陸路は凄惨たることになるであろう。

 空を飛べるマリスかイオリであれば合流できるであろうが、エレナたちは大群の魔物と、アキラの光線が飛び交う死地を進むことになる。


「くそ……、合流場所とか方法とか、決めとけばよかったな」

「あ」


 そこで、サクが声を漏らした。


「覚えていませんか? あのとき、……多分、エレナさんの声だったような気が。……“あの足音から逃げろ”という大声が聞こえました」


 アキラとエリーは顔を見合わせて首を傾げた。

 どうやら聞こえたのはサクだけだったらしい。


「足音って、あのガルドンとかいう魔物のか?」

「ええ、多分」


 それならばアキラも耳に残っている。

 あれだけの大群が押し寄せ砂嵐に襲われても、背後から大地を揺さぶり接近してくる巨獣の足音は確かに鳴り響いていた。

 そして、エレナが言ったという、それから逃げろ、とは、“前へ進め”という意味になる。


「じゃあ、俺たちが来た岩山のエリアから前へ進めば」

「ええ、大まかですが、合流できるかもしれません。この辺りを改めて探索して、見つからなければそちらに向かいましょう」


 流石にエレナだ。あの乱戦でそこに気を回せるとは。

 少なくともエレナ自身はそちらに向かっているだろう。

 それどころか彼女なら、この砂嵐の中でさえ強引に進んでいそうで怖かった。


「どの道、もう少し休みましょう。砂嵐が収まるまでしか休めないと思った方がいいかもね。交代で見張りはした方がいいけど」

「飯とか水とかどうする?」

「……はあ」


 エリーがため息交じりで、身に纏った砂対策の分厚いローブの中に手を入れた。

 腰にポーチでもついているのか、ごそごそと探る。

 その様子が、いつもだぼだぼのマントを纏う彼女の妹と瓜二つだった。


「一応少しは身に付けといたわ。馬車襲われたらまずいって思って」

「おお、流石……、ってあれ、俺だけ?」

「他の人も同じことをしていましたが」


 見ればエリーもサクも、携帯食料と水筒を用意している。

 アキラは、他の仲間たちの身が突然安全に思えてきた。

 このファクトルで最も死にやすいのは、恐らくアキラだ。

 そのアキラが生きているのだから、彼女たちも無事のような気がしてきた。


「ほら、あたしの分けてあげるから」


 簡素なパンと水を渡され、情けなさからアキラは泣きそうになったが、幸いにも乾いた目からは何も零れなかった。


―――**―――


 余計なことを。


 いや、その方が都合がいい部分もある。

 だが、その場合は。


 静寂の空間の中、“その存在”は身じろぎひとつせずに座っていた。


 過去の出来事、今の事象。

 それらが作り出す未来は無数に枝分かれし、ありとあらゆる結末に辿り着く。

 そしてそのすべては、あまりにあっけなく想定される。


 念を押して、再度検討。抜け漏れが無いかの見直しは、瞬時に終わる。

 だが依然、慎重に“進行”させていく。



 “この場所”は安全地帯である。

 だが、全幅の信頼は置かず、あくまでフラットに、辿り着き得るすべての未来を読み切る。


 誰にも気づかれることは無く、“進行”させねばならない。

 そうでなければ、終わらない可能性がある。


 この、“下らないチェスゲーム”が。


「―――、」


 敵は強大である。

 慎重に、確実に。


 なにしろ―――この“英知の化身”が挑むのは、“あの存在”。


―――**―――


 結論として、何も見つからなかった。


 大地を埋め尽くすように現れた魔物も、アキラがどこかに突き立てた剣も、そして仲間も、砂嵐のあとには何ひとつ残っていなかった。


 アキラたちがいた狭い洞穴は、想像以上に元の場所から離れていなかった。

 延々と歩いて辿り着いたと思っていたのだが、砂嵐が収まって大層見通しの良くなった荒野は、その洞穴の目と鼻の先にあった。

 あの大群がこの洞穴に気づかなかったのは本当に奇跡だったのかもしれない。


 魔物の出現には最善の注意を払いながら、同じような洞穴が岩山に無いか数時間ほど探してみたのだが、いよいよ探索を諦め、計画通りこの岩山を背にして前へ進むこととなった。


「……」


 何かを話す気にはなれなかった。

 少し進んだだけで、身体中がすでに疲れ果てていることに気づく。エリーとサクも同じだろう。

 夜の番を交代で務めたアキラは、休憩のふたりが泥のように眠っている姿を見ている。アキラもきっとそうだったのだろう。

 狭い空間で女性ふたりと夜を明かすことになったのだが、そんなことがまるで気にならないほど、アキラは夜の記憶がほとんどない。

 自分たちが今、日常から切り離された場所にいるのだと改めて実感できた。


 照り付ける灼熱の太陽と、平衡感覚が狂うほど荒れ放題の大地が、歩くだけで体力をごっそりと奪ってくる。

 幸いにも魔物は出現していないが、それでも神経は過剰に削られていく。

 何も無い大地を進むと、時間の感覚も薄れていった。

 時折、進路が逸れていないか岩山の位置を確認するのが、唯一の刺激だった。


 昼頃に出発し、無限にも思える時間歩き続けていると、日が傾き始めた。

 それでも誰も何も言わず、黙々と足を動かし続ける。


 この前進は、ほとんど“祈り”に近かった。

 移動能力に長けるマリスかイオリに合流できなければ、このファクトルから離脱することすら叶わない。

 この先で彼女たちに合流できなければ、魔物が手を下すまでも無く野垂れ死ぬ。

 もしそれが叶わなければ、ファクトルで生きる魔物が頼りにするはずの水源や食料の調達方法を知る必要も出てくる。だが、そんな悠長なことをこのファクトルが許してくれるとも思えなかった。

 何かを頼ることしかできない前進は、呪いのように足を重くし、視界を歪ませた。


 時折、強い風が吹くときがあった。

 そのときは決まって3人で手を繋いで身を強張らせる。

 そしてそうなっても、誰も口を開かなかった。

 体力温存以上に、口を開けば弱音が出て、それが全員に伝播するという共通認識を持っていた。


 ゴールも分からない。いつ心が折れてもおかしくは無い、延々と続く前進。

 それでも、口に含んだ砂を噛みしめ、足を動かし続けた。


 今アキラたちにできるのは、信じ切ることだけだった。


「……!」


 どれほど歩いてきただろう。

 広大な大地を進んだ先、再び山岳地帯が見えてきた。

 日はすでに沈み、星が光り始めたファクトルは、急激に気温が下がり、息が白くなる。


 そこで、遠方の岩山に、一筋の光が見えた。


「み、見たか……?」

「え、ええ……!!」


 アキラたちは身体の疲弊を忘れて駆け出した。

 重い足は何度も荒れた大地に取られたが、転げそうになるのも気にせず駆け続ける。


 あの岩山の麓に、確かに見えた。

 自分たちがよく知る、シルバーの光が。


「おーーーいっ!!!!」


 潰れたと思っていた喉からは想像以上の声が出た。

 魔物に位置を知られようが知ったことか。

 切望していた光景に、全力で声を張り上げ大きく手を振る。


 銀が一層激しく光り、何かの爆発音が聞こえた。

 そして、その銀の光はふわりと浮かび上がり、アキラたちに接近してくる。


「マリスーーーッ!! ―――うおっ!?」


 想像以上の速度で接近してきた銀の光は、眼前で急停止した。

 昨日別れたばかりなのに、もう何年も会っていなかったようにすら感じる。

 半分閉じた眼の顔が、アキラの目の前に現れてくれた。


「よ、良かった、にーさ―――」

「マリーッ!!」

「ぎゅぅっ」


 エリーがマリスにあらん限りの力で抱きついた。

 ほとんどタックルのような攻撃を受けたマリスは、酸素を求めるようにパクパクと口を蠢かせる。


「マリー。よかった、よかった……!」

「ね、ねーさ、く、く、首、が、……た、たす」

「会えてよかったよ、マリス」


 アキラはようやく出会えた救世主の命を救うべく、エリーの腕に手を置いて落ち着かせながらマリスの顔を覗き込んだ。

 最愛の妹と再会できたエリーの感情は理解できる。それどころかエリーがそうしていなかったら、アキラもマリスに抱き着いていたかもしれない。

 それほど、自分たちは限界だった。


「……、こ、こほ。……ねーさん、それに、サクさんも無事だったんすね」

「ああ、何とかやり過ごせた。マリーさんも無事でよかった」


 エリーから解放されたマリスは服装を正すと、また半分の眼で周囲を見渡した。

 それが何かを探しているような仕草なのは、気のせいであって欲しかった。


「……マリス、今のは戦闘か?」

「そうっすよ。……もう片付いたっす」


 アキラはマリスが飛んできた岩山の方の様子を伺い、眉を潜めた。

 戦闘があったと思われる場所は、ぞっとするほど静かだった。


「……それで、他のみんなは?」


 聞く前に、答えが分かってしまったような気がした。

 マリスは、後ろを気にする素振りも見せず、半分閉じた眼をさらに細めた。


「自分は、ひとりっす」


 マリスの話はこうだった。

 マリスはあの砂嵐に巻き込まれた瞬間、直前まで放とうとしていた飛行の魔法を切り替え、身を守る魔法を全員に展開したらしい。

 だが辛うじてできたのはそれくらいで、砂嵐が景色を塗り潰し、全員を見失ってしまったという。

 自分の魔法の対象すら見失うあの妙な砂嵐は、マリスでさえ不可解で、魔物か何かが発生させた攻撃の可能性すらあると考えたらしい。

 だが、それでもアキラ同様、魔物も味方も入り混じる砂嵐の中、無差別に攻撃することもできず、とにかく合流しようとしばらくは砂嵐の中を歩き回っていたそうだ。


 マリスは時折出くわす魔物を撃破し、ひたすらに自分以外の銀の光を探す作業を延々と続けていた。視界が途絶される砂嵐の中、出遭った瞬間に殺されるマリスが歩き回っているという状況では、むしろ魔物の方が煉獄を味わったかもしれない。


 しかし、結果は実を結ばなかった。

 いつまで経っても砂嵐は納まらず、マリスは結局視界が開けた場所を探して前へ進んだらしい。

 どうやらマリスにもエレナの声は届いていたようだ。


 そしてせめてもと、道中の魔物を徹底的に討伐し、昨日の晩は、今、アキラたちが到着した洞穴で待機していたそうだ。


「本当は、昨日の場所を探しにいったりしたかったんすけど」


 マリスが昨晩過ごしたという洞穴は、アキラたちが見つけた洞穴より幾分広かった。

 自然にできたというより、もしかしたら魔物の巣だったのかもしれない。

 その魔物の気配すら感じない洞穴で、マリスは落ち着いた様子で座っていた。

 そして、ローブから水を取り出し、アキラに手渡してくれる。

 サクが言っていた通り、こうした事態に備えていなかったのは自分だけなのかもしれない。


「自分も目立つ行動は避けたくて。……実際、少し外にいただけであの大群っす」

「さっきのか?」

「あれだけやったら流石にしばらくは近寄らないと思うんすけど」


 どれだけの大群で、そしてマリスはどれだけのことをやったのかは聞かなかった。

 だが、流石にというべきか、マリスはこのファクトルの中でもその力を十分に発揮している。

 ここまで歩いてきたアキラたちが魔物に襲われなかったのも、マリスがあらかじめ討伐してくれていたからなのだろう。


「それで、これからどうする?」


 マリスに合流できたのは幸いだったが、未だ残る3人は見つかっていない。

 エレナ、ティア、イオリの3人は、ここよりもさらに先に進んでいるのだろうか。


「移動速度なら流石に自分が1番のはずっすよ。あんな横殴りの砂嵐の中、イオリさんだって飛ぼうとは思わないっすよ」

「……だよな」


 昨日の夜から一日中、マリスはこの辺りで仲間の到着を待っていた。

 マリスがあの砂嵐の中ここまでこられたのは、外部影響を遮断する魔法を操れるからだ。

 その術を持たない他の面々は、アキラたちのようにどこかに隠れて砂嵐が収まるのを待つしかない。


 つまりは、今マリスがいるこの場所が、“前”の限界値。


「でも、にーさんたち、出発したの大分遅かったんすよね?」

「ああ、出発するときには昼は過ぎてた、と思う。……昨日の場所も、結構探してみてたしな」


 となると、アキラたちが“後ろ”の限界値なのかもしれない。

 その前後が出会ったというのに、欠けたままだ。


「気づかず通過しただけかもしれない」


 アキラは声が震えないように言葉を押し出した。

 ほとんどだだっ広い荒野を歩いてきたが、呆然と歩いていただけだ。

 それに、少しでも方向が逸れればマリスがいることに気づかずここよりさらに先に行っている可能性もある。

 案外近くにいるかもしれない。


「エレナたちはこの岩山のどこかにいるんだ、探さないと」

「……そうね」


 あまりに希望的観測なアキラの言葉に、エリーは小さく返した。

 サクも頷く。

 昨夜共にいた3人は、暗く沈むことの恐怖を良く知っていた。


「確かにそうっすね。……でも、ひとつだけ。言っておかないといけないことがあるんすよ」


 マリスはローブの中から四角く折りたたまれた用紙を取り出した。

 それは、このファクトルを現した、何とも役に立たない地図だった。


「ここ。……自分たちがいるここって、一応“魔王の牙城”が出現したと思われる地帯なんす」


 忘れ切っていたわけではない。

 だがそれは、アキラがほとんど意識の外に追い出していた事実だった。


 ファクトルに、心身ともに削られた。

 仲間とも逸れてしまった。


 劣悪な環境。膨大な魔物。凶悪な砂嵐。

 だが、それは所詮、この場所を禁忌の地とする理由の一部でしかない。


 ここには、“魔王の牙城”があるのだ。


「ま、まあ、何日も前のことっすけど」


 最後に小さく付け足したマリスも、楽観はしていないようだった。

 いくら情報が古くとも、この近くにいる可能性があるだけで、警戒してもし足りない。


 ここまで来て、アキラは“魔王”という存在そのものに恐怖を覚えた。


 ファンタジーの世界の住人。

 諸悪の根源。

 それは、今現実に、自分たちの近くにいるのだ。


 いくら自分の持つ具現化の力を信じていると言っても、不安材料には事欠かない。


 この世界を脅かす魔王とは、果たしてどういう存在なのか。

 かつて、ヘヴンズゲートで出逢った神、アイリスは言っていた。


 “英知の化身”ジゴエイル。


 言葉で聞くと、謀略でも企てることに長けていそうだ。

 そうであるとすれば、この状況は。


「ね、ねえ……?」

「……」


 エリーに話しかけられても、アキラは考え続けた。

 本来ならイオリが適任だろうが、彼女は今ここにはいない。

 ならば世界の歪さを知っている自分が考えなければならないことだ。


 “英知の化身”が考えること。

 いや、魔王が狙うこと。

 セオリーで考えれば、勇者を倒すことだ。


 そうなってくると、あの砂嵐もいよいよもって怪しく思えてくる。

 あの異常気象のせいで自分たちは離れ離れになってしまった。

 マリスも、あの砂嵐には不可解なことが多いと言っている。


 となれば、もしかすると、自分たちはすでに魔王からの“攻撃”を受けているのかもしれない。

 背筋が一層冷えてくる。

 姿の見えないエレナたちは無事だろうか。


「―――!!」

「しっ」


 マリスが突然灯りを消し、声を上げそうになったアキラを制した。

 何をと思ったのも束の間、突如、ドドドと地鳴りが響き、揺さぶられる洞穴内にパラパラと石の粒が降ってくる。


 アキラは息を殺し、暗さに慣れていない目で洞穴の外を睨んだ。

 星明りにぼんやりと照らされた外は、砂埃が舞い始めている。


 地震かと思いたかったが、その原因は、あまりに分かりやすく現れた。


「ぃ―――」


 突如、狭い出入り口が怒涛の黒い影に塗り潰された。

 右から左へ、無数の影が、まるで昨日の砂嵐のように高速で通過し続ける。

 大気も大地も暴れるように揺れ動き、洞穴を、すぐにでも崩れそうなほどの衝撃が襲った。


 あの影は、魔物の群れだ。

 正体はまるで視認できないが、大中小様々なサイズの影が、昨日の“波”のように、あらん限りの力を持って疾走していく。

 この岩山だけでどれほどの数がいたというのか。

 だが、そのどれもが、こんな小さな洞穴など目もくれず駆け続けていく。

 まるで魔物の百鬼夜行のようだだが、その様子は、生物としての本能をむき出しにし、霊的な要素は微塵にも見えなかった。


「ま、魔物……? なに、なにが!?」


 ほとんど叫ぶようにエリーが声を荒げた。

 最早声などまともに聞こえない。疾走する魔物たちも、まるで気にしていない様子だった。

 それが、いよいよもって、この大群の疾走の恐怖を駆り立てる。

 このファクトルの凶悪な魔物たちが、何をしているのか、感じ取れてしまった。


 この大群は、“逃げている”。


「まさか……、嘘だろ!?」


 ついに魔物の疾走が過ぎ去った。

 巻き上がった砂埃が星明りに照らされる。

 アキラはふらふらと立ち上がり、ゆっくりと外へ向かった。


 そして、何故か確信していた。

 この直感は、悪寒だと。


「――-ギ、ギィィィイイイアアアーーーッッッ!!!!」


 洞穴から外に出ると、この世のものとは思えない方向が轟いた。

 この咆哮は、未だに耳にこびり付いている。

 同じ固体かは分からないが、あの巨獣、ガルドンだ。


「……。…………」


 砂まみれになりながら、アキラはぼんやりと空を見上げた。

 そこには、やはり、あの悪夢の巨獣、ガルドンが視界に入る。


 ガルドンは、先ほど逃げていったあらゆる魔物たちとすら比較にならないほど巨大で。


 そして、矮小だった。


「―――、」


 土煙が舞うファクトルの大地。

 乾いた大地に、あまりに頼りない星明りが差し込めている。

 ぞっとするほどの静寂に支配された、その場所。


 その、数百メートルという、“僅かそれだけの距離”の先。


 そこには―――“世界”があった。


 全長は計る気にもなれない。

 物体とさえ認識できぬほど眼前一杯に広がるそれは、まるで異次元への境界のようにさえ思えた。

 以前見た巨大マーチュすら比べ物にならず、アキラの身体などノミにも及ばないかもしれない。


 仮に生物に例えるのなら、話通り、“亀”、だろうか。

 背中と形容できるかは分からないが、その部分には、連峰が聳え立ち、伸びる首も山脈とすら形容できた。

 その山脈は、小さな何かを咥えているようで、どうやらそれは先ほどのガルドンらしい。以前もガルドンが襲われたという話を聞いたが、どうやらそういう習性というわけではなく、そもそもガルドンほどの巨獣で、ようやくこの存在に認知されるというだけなのかもしれないと、アキラは他人事のように思った。


 これほどの距離にいて、これほど注視しているのに、その全貌も、その特徴も、頭の中に浮かんでは消え、その非現実的な光景に、認識がまるで追いつかない。理外過ぎて、焦りすら浮かんでこない。

 神話の、『世界を体現する巨大な樹木・ユグドラシル』という存在が思い浮かぶが、まさしくそうした、人の理を超えた“何か”がそこに在った。


 呆然としていると、この“世界”のどこかで、いよいよ力尽きたガルドンがグレーの光を放ち、戦闘不能の爆発を起こした。

 大爆発だったはずのそれは、大海に小石を投げ込んだような些細な衝撃をその存在に与え、一瞬だけ目の前の“世界”を照らす。

 それでも、その存在の全貌の百分の一も見渡すことは出来なかった。


 ふつふつと、冷え切った身体から焦りが生まれ、嫌な汗が浮かび上がってくる。

 今、眼前に広がる光景ですら、この存在の上半身程度に過ぎない。

 目を凝らしても捉え切れないほど遥か遠方まで、この存在の身体は伸びているようだ。


「ぅ……」


 隣に、人の気配を感じた。

 どうやら全員出てきたらしい。

 しかし誰も言葉ひとつ発さず、アキラの隣に並び、アキラのように、呆然とその異次元の境界を見上げることしかできなかった。


 自分の目で見たもので、ここまで信じることに時間がかかるものがあるとは思わなかった。この異世界に来て、魔法との出会いや巨大な魔物との遭遇すら乗り越えてきたというのに。

 そして、こんな存在の接近にまるで気づかなかったことも、信じることは出来なかった。


「……?」


 ガルドンを“喰い殺し”、その存在の首がゆっくりと縮小し始めた。

 やはり亀のようにするすると仕舞われていくその首を呆然と見ながら、アキラはようやく気付いた。


 “音”が無い。

 それどころか、まるで気配が感じられない。


 先ほどガルドンが捉まったときもそうだった。

 これほどの巨大な存在が取る一挙手一投足から、アキラは何も感じられない。

 こんな存在が動き回ればそれだけで暴風が巻き起こり、岩山は吹き飛び、ファクトルはとっくの昔に更地になっているはずだ。

 そしてそもそも、そんな巨大な存在は、“存在してはいけない”。自重を支えきれずに崩壊するはずなのだから。


 理解が追い付き、しかしその途端、その理解から離れていく、その存在。

 光景も、理解も、その総ての遠近が狂うような感覚に、アキラは足元から崩れ落ちそうだった。

 だが、そうした存在すら、この世界においては許されるのかもしれない。

 この世界に、“魔法”という存在によって。


 今。

 目の前に、“無音”で高速移動する“世界”が存在する。

 魔術師隊も、魔導士隊も、これほどの巨大な存在の行方を見失い、推測しか立てられないほどの機密性に優れた、それ。

 人はおろかヨーテンガースの魔物ですら入ることを許されない、凶悪で劣悪なファクトルを、我が物顔で縦横無尽に闊歩する、それ。


 “巨大生物移動要塞”―――ルシル。


 それは、このファクトルの地に存在するという、魔王の牙城だった。


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