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第15話『煉獄を視たことはあるか』

―――**―――


「やっぱり帰った方がいいですよ……!!」

「ええいっ、うるさい!!」


 弱音を吐き出すたび、前を行く先輩は怒鳴り返してきた。


 ようやく“この場所”に入り込めたというのに、今帰るとは何事か。

 そんな言葉を、後続の男は何度も聞いた。


 汗が滴る。足は重い。徐々に強くなってきた土埃は身体中に鉛のようにへばり付き、そろそろ本格的に砂嵐と呼べそうだった。

 埃と砂で目や鼻が塞がり、ほとんど景色も匂いも分からなかった。


 進むたびに五感を失い続けているような恐怖を覚えるが、それでも、確かに先輩の言う通り、自分たちは何も成し遂げてはいない。

 この秘境に入るために買い込んだ食料や防具、無理を言わせた馬車など、諸々の費用は馬鹿にならないのだから、先輩の言うことももっともではある。


―――ファクトル。


 頭かすっぽりと分厚いフードを被ったふたりの男たちがいるのは、“世界で最も危険な地帯”だった。


 足場は油断すれば身動きが取れなくなるようなゴツゴツとした岩場。

 道、と形容できるかどうかは微妙だが、今歩いているのはだだっ広い通りは、険しい岩山に挟まれている。もしかしたら岩山ではなく、地面に空いた亀裂に砂が詰まっているだけなのかもしれない。

 次第に埋まるようになった足を抜き差ししながら進むと、強い風が吹き込み、どっぷりと砂を被せられた。


 劣悪な環境であるこの場所には、もちろん街はおろか人間すらいない。


「これ以上はぜっっったいまずいですって!! 俺、明日当直だったのに……!!」

「馬鹿野郎!! これだけほったらかしにされているんだ、何かあるかもしれないだろう!!」


 先輩の言葉は確かに正しい。

 ここにはまともな人間ならば近づきもしない。

 裏を返せば、何を見つけても“発見”となるのだ。


 貴重な鉱石や、もしかしたら古代の遺産などもあるかもしれない。

 そうなれば、一攫千金になり得る。


 だが、日をまたいでの探索を続けているが、見つかるのは岩、岩、岩。

 目も開けてられないほどの砂嵐で、日も高いはずなのに薄暗かった。

 このままでは自分たちが発見される側になってしまうかもしれない。


「そろそろ魔物も出るかもしれないですし!! やっぱり危険ですって!!」

「お前は魔術師隊だろ!! 何とかしろ!!」

「勘弁してくださいよ!! この場所に先輩入れるのばれたら、その魔術師隊もクビになるんですから!!」

「だから見つけたらお前にも半分やるって言っているだろう!! それでトントンだ!!」


 叫ばなければ声も届かない。

 先輩は、体力だけはあり、ずんずん進んでいく。


 学生時代の名残で、先輩には逆らえなかった。

 後輩は魔術師隊に入ってからも、好奇心旺盛な先輩の気まぐれに付き合わされていた。

 今回の職権乱用はかなりのレベルだろう。クビと言ったが、下手をすればそれすら生ぬるい処分が下される可能性すらある。


 何しろ場所が場所だ。

 何せ、この場所は。


「1匹!! 1匹でもいたら帰るって約束ですよね!?」

「分かっている!!」


 分かっていない。後輩は確信した。先輩がそう言って、分かっていたためしがない。


 翌日早番だと言ったのに、朝まで酒に付き合わされたこともあった。

 貸した金も、有耶無耶にされ、翌月あったときにはすっかり忘れていたことすらあった。

 とにかく、先輩は、そう言った困った男なのだ。


 だが今回は、今までの先輩から被った迷惑の中でも次元が違う。


 そもそも、この場所を担当する魔術師隊の仕事は、ほとんどが後方支援だ。

 魔物とひとりで戦うことなどまずない。常に“隊”として行動することが最重要視されている。


 先輩は度胸があり、体力もあるが、魔術の方はからっきしである。

 すなわち、戦うのは後輩ひとりということになる。


 そういった事情を何度説明しても、先輩は魔術師という職の理解を履き違えているらしい。

 どうも、自分が飲みの席で漏らした、僅か1、2年で魔導士まで駆け上がったという人物の話が良くなかったらしい。


 だが。


「……」


 後輩も、口ではそう言っていても、この場所には興味があった。

 魔術師隊に配属されて4年。この場所に入れる権限を有しているほど、同期の中では出世頭だ。


 自信も、ある程度はある。この場所の魔物も何度か倒したこともあるのだ。

 深く入り込みさえしなければ問題ない。

 侵入を許されていないこの場所でも、それなりに自分の力は通用する。


 だから、たった1匹。

 それだけなら、ちょっとした冒険で済む話だ。

 懲りない先輩を少し危険な目に遭わせて、灸を据えたいという気持ちもある。


―――それが多分、よくなかったのだろう。


「!? 何か言ったか!?」

「え!?」


 先輩が、振り返って大声を上げた。

 何も言っていない。後輩は大きく腕を交差して首を振る。先輩には何かが聞こえたのだろうか。


「……!」


 神経をそばだてようとすると、それに及ばず、分かりやすく大地が揺れた。

 ズシン、ズシン、と規則的に、足を埋める砂が跳ねる。


「下がって!!」


 後輩は、先輩のフードの首を掴むと、強く引いて前へ出た。

 魔術師としての危機感が、即座に臨戦態勢を整えさせる。

 砂嵐の中目をこじ開け、正面を睨み、いつでも攻撃を放てるよう手のひらに魔力を集中させる。


 すると。

 とうとうほとんど日の光を遮り出した砂嵐の向こう、両脇の岩山が途切れている地点から。


 “ぬっ”、と何かが頭を出した。


「!?」


 笑ってしまうほど、現実離れしていた。

 見上げるほども高く険しい岩山の“中間地点”ほどの高さに、巨大な顎が現れた。


 二足歩行の化け物だった。

 恐竜で言うところの、ティラノサウルスのような姿。

 泥色の身体に、肥大化した顎は岩山すら呑み込むほど重々しい。

 両手は、胸の前で爪を鋭く尖らせるも、何もかもが巨大過ぎでむしろ鋭利には見えなかった。


「ガ―――、ガルドン!?」

「逃げるぞ!!」


 1匹でも出現したら逃げる。

 珍しくも約束を守ってくれた先輩に、後輩は一も二も無く従った。


 後輩は、矮小なたくらみも、自信も、プライドすらかなぐり捨てて、一心不乱に先輩と走った。

 こんな浅い場所にガルドンが出現するとは異常事態だ。

 あの化け物は、この禁忌の地の中ですら危険視されている凶悪な魔物だった。


「っ!!」


 後輩は、先輩の手を引き、持てる魔力のすべてを注いで走り続けた。

 だが、背後からまた、ズシン、ズシン、と規則的に大地を揺らし、岩山の隙間に侵入したガルドンが接近してくる。

 砂場に埋もれる足を抜き差ししながら死に物狂いで駆け続けるも、あまりにあっけなく振動が近づいてくる。


 身体中の血の気が引く。前へ進めている気がしない。息が切れる。すでに限界を迎えていた。

 ズシン、ズシン、と明確な死の匂いが迫ってくる。

 食われるか、踏みつけられるか。


 下らない企てをしていた過去の自分を殴りたくなる、いくら後悔してももう遅い。

 この場所に興味本位で入るなど、正気の沙汰では無かった。


「―――ギッ、ガァァァアアアーーーッ!!!?」

「ひっ―――」


 突如、ガルドンの咆哮が上がった。

 至近距離で爆風を浴びたような衝撃に、後輩は先輩もろとも吹き飛ばされて頭から砂に埋まり込む。

 いよいよ死を迎えるのだと半狂乱になって身体を起こし、せめて一矢報いようと不格好に構えてみた。


 眼前には、やはり、ガルドンの強大な顎があった。

 豆鉄砲にもなりそうにない魔術を放とうとする自分の手が、後輩が最後に見る光景になる。


 そのはずだった。


「……。ぅ……、……、……?」


 ガルドンが動かない。

 震え続ける手を掲げたまま、後輩は固唾を飲んで見守った。

 何が起きているのか分からない。


 だが、少しだけ血が回った頭が、疑問を浮かべた。

 先ほどのガルドンの咆哮が、断末魔のように聞こえたのは、気のせいだろうか。


「…………せ、先輩。ぶ、無事ですか? ……せ、先輩?」


 ガルドンを正面に捉えたまま、後輩は同じように倒れている先輩の様子を探った。

 振り返ると、同じように力尽きている先輩が、呆然とガルドンを見上げている。


 “いや”。

 “ガルドンよりずっと上を見て”、身体中の血の気を引かせていた。


「―――っ、っ、っ、っ、っ、っ」


 見えたのは、巨大な山だった。

 いや、山ですら比較にもならないかもしれない。


 何せ今、巨大なガルドンの背後から、“その首に噛み付いているのが山脈だった”。

 その奥。いや、目の前。いや、やはり奥。

そこに、その山脈を伸ばしている、遠近感が完全に狂う“何か”があった。


 このファクトルの岩山と比べても、ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈と比べても、あるいはこの世界のあらゆる自然物と比べても、別次元の巨大な“何か”。


 砂嵐の向こうに見える巨大な、膨大な影。

 視認すらできない頂上は、見上げる気すら起きない。

 その巨体は日光すら完全に遮断し、世界は夜に塗り替えられた。


「か……、か、“亀”……」


 後輩は、冷静さを取り戻し、発狂しかけた。


 四足歩行の巨獣。

 音も無く首を伸ばし、あのガルドンを背後から咥え、赤子のように振り回している。

 その別次元の存在の姿形は、確かに“亀”だった。

 ここまでの接近に、何故気付かなかったのか。

 あるいは“あれ”はずっといて、自分が景色の一部と誤認していただけだったのだろうか。

 いや、“世界”の一部と誤認していたのかもしれない。


「―――、」


 “それ”を視認する日は、来ないと思っていた。

 後輩の所属する魔術師隊には、ほとんど情報すら降りてこない。

 自分たちが支援する魔導士隊のメンバーすら、“かえって”意識していない、領域外の存在。


「―――、」


 ついに息絶えたガルドンが、岩山を消し飛ばすほどの爆発を起こした。

 後輩は、その常軌を逸した大爆発が眼前で起こっても、何も感じなかった。

 目の前の存在にとっても、それは、大海に小石を投げ込んだ程度だった。


「―――にっ、逃げろ逃げろ逃げろっっっ!!!!」


 先輩の叫びで、後輩は我に返った。

 尽き果てたと思った身体は、ガルドン以上の危機に疲労を忘れ、暴れるように逃亡を始める。

 まるで離れていないような錯覚に襲われるも、身体中の細胞が停止を許さなかった。


「走れ走れ走れっ!!!!」


 事実、その“世界”に比すれば、離れられていないだろう。

 だが、幸いにも、“それ”はこちらには関心を示していないようだった。


 緊急事態だった。

 後輩は、即座に職場に伝えなければならないことができた。

 この事態の前には、自分のクビなど安いものだ。それどころか、忘れ去られるかもしれない。


 亀とは形状以外、何ひとつ比較にならない、別次元の存在。


 “巨大生物移動要塞”―――ルシル。


 それは、このファクトルの地に存在するという、魔王の牙城だった。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


「報告があったのは一昨日のことです」

「場所は?」

「目撃されたのは、我々の呼称でDブロックと呼ばれる地帯です。地図で言うと……、ここ。この防衛支部からファクトルに南下して、およそ30キロほどでしょうか」

「現在地は?」

「分かりません。すぐに調査部隊を派遣しましたが、すでに跡形も無く消えていました。痕跡も、この砂嵐では調査が困難でして」


 “勇者様御一行”が到着したのは、“ファクトル”と言われる未開のエリアに近しい、魔術師隊の支部のひとつだった。


 ファクトルというエリアは、ヨーテンガースの南部にある広大な未開の地であり、諸悪の根源である魔王が牙城を構えている禁断の地である。

 ファクトルの境には、魔王の脅威をファクトルから出さぬようにするためにも、防衛支部とさえ呼称される魔術師隊や魔導士隊の施設が無数に点在していた。

 その未開の地には、まともな人間はおろかヨーテンガースの凶悪な魔物たちすら近づかないらしい。

 到着したここ、第7支部は、普段は“むしろ”平穏な支部であるらしいが、今ばかりは厳戒態勢が引かれていた。

 絶えず足音が響き渡り、時折、どこからか怒鳴り声も聞こえてくる。


 ホンジョウ=イオリは、そんな魔術師隊の慌ただしさに懐かしさを覚えながらも、喧噪の中、自分たちの対応をしてくれている目の前の魔術師の男に素直に感謝した。

 自分たちの来訪など、無視されるどころか支部に入ることすら許されなかったかもしれない。


 現在。

魔王の牙城が出現したという異常自体が発生している。


「それで、発見したというふたりは?」

「重症です。昼夜逃げ回っていたようで……、戻ってこられただけでも奇跡かもしれません。未だに憔悴しきり、ほとんどまともな精神状態ではありません」


 “魔王の牙城”。この支部の一員が、それを身近に見たという。

 巻き込まれた民間人もいたらしい。本当によく生きていられたものだ。

 イオリとしては、当人たちから詳しい話を聞きたいところだったが、まともに話が出来る状況ではないだろう。


 イオリは、ホワイトボードに張られたファクトルの地図に視線を移した。

 “詳細でない詳細地図”。魔術師隊の支部の近くは辛うじて地形が記載されているが、少しでも深部になると、ふざけているかと思われるほど何も描かれていない地図だった。

 その一部、恐らく魔王の牙城を見たという男の話から推測で記載したのであろう、出現ポイントに×マークが記載されている。

 丁度、地形の記載が無くなる地点だ。本当にその場所に出現したのであれば、この支部からぞっとするほど近い。

 イオリは額に手を当てた。無数にある支部から、よくここを引き当てたものだ。


「……ところで、ホンジョウ=イオリ氏、ですよね?」

「ん? あ、ああ」

「ご高名はかねがね。勇者様と共にこの地を訪れてくれたことを、深く感謝いたします」

「……力になれるなら」


 男がほっとしたような表情を浮かべた。

 確か、ライグと名乗っていたと思う。魔術師ならぬ魔導士らしいが、それなりに若く見えた。ひょろっとした風体に、手足が長い。どちらかというとディスクワークが得意そうな男だった。

 だが、ヨーテンガースは他の大陸と比べ、魔術師の質が高いという。ライグもまた、一流と言われる魔術師であろう。

 そんな精鋭が集うこの支部ですら、この事態は危機的状況なのだ。

 魔術師隊の内情をそれなりに把握しているイオリには、他の面々よりも事情がずっと重く見えていた。


「……はぁ。……イオリンかっけーですね。あっしもああいう感じになれるでしょうか……へぅっ」


 サクは、振り上げた拳を下げた。

 イオリとライグから少し離れ、椅子に腰掛ける残る面々を考えると、自分の役どころだと思ったのだが。


 余計な茶々を入れそうになったアルティア=ウィン=クーデフォンを小突いたのは、エレナ=ファンツェルンだった。

 他の3人はこの支部で他の支度を進めてもらい、情報収集に当たったのはサク、イオリ、ティア、エレナの4人である。

 サクは、イオリだけが唯一の良心だと思っていたのだが、意外にもエレナが大人しい。

 長い脚を組み、腕を組み、のけ反るように座るエレナは相変わらず偉そうに見えるが、退屈な話に抜け出しもせず、その瞳が鋭い。

 あのエレナがこうしている様子を見ると、話に聞くよりもずっとファクトルが異質な場所なのだと感じられた。


「……すまない。“ルシル”というのは?」


 どうにも乗り遅れているような感覚を味わい、サクはイオリたちに口を挟んだ。

 イオリに任せようかと思っていたが、このままではエレナにすら劣るような気がした。


 振り返ったライグは、今さらの質問にも嫌な顔ひとつせず、代わりに重い表情になった。


「“巨大生物移動要塞”ルシル。魔王の牙城です」


 魔王。

 今まで散々聞いてきたはずの言葉が、この地では妙に重く感じた。


「常軌を逸した巨大さです。“亀”のような形状。ファクトル内を闊歩し、“ファクトルの魔物ですら蹂躙する”」

「闊歩……、蹂躙、って、魔王の“牙城”なんだろう?」


 ヨーテンガース南部の大半を占めるという禁断の地、ファクトル。そこに魔王の牙城があるという噂は聞いたことがあったが、それが“移動”するという話は初めて聞いた。いや、聞いたとしても、サクは信じなかっただろう。

 だが、目の前のふたりは、それを現実のものとして受け止め、暗い顔をしていた。


「おそらく、召喚獣の類だろう」


 イオリの声色は、硬く感じた。


「“ルシル”という存在は、魔導士になったときにようやく聞いたよ。移動する要塞。そのせいで、魔王の位置を特定できない」


 非現実な話が、現実のものとして存在している。

 ファクトルという地は未開の地だ。見渡す限り、そして見果てぬ先も、砂地が広がり、劣悪な環境だという。

 だが例えそうだとしても、確かに魔王の牙城が不動のものであれば、ヨーテンガースの優秀な魔導士たちが大挙して攻め入ることができる。それこそ、“勇者”という存在に頼らずともだ。

 しかし、非現実なことに牙城が移動するとなると話が違う。

 現実的に、広大な劣悪な地を大人数が攻めても、それだけ食料をはじめとする荷物も増え、費用など考えられもしない。


 砂交じりの風が窓を叩いた。今にも砂嵐が起こりそうだ。

 こんな劣悪な環境に入るのであれば、どうしても少数精鋭が求められる。


「“キャラバン”、という手も考えられたそうです」


 主に商人が、大量の積み荷を持って大人数で移動することであろう。

 居住する勢いでファクトルに多人数で立ち入って、魔王の牙城の探索を行ったらしい。

 試してみてはいるようだ。

 だが、ライグの背後に張り出された、ふざけているとしか思えない真っ白な地図がサクの目に再び移った。


「ですが、移動速度に乏しく、ルシルを見ることもかなわず魔物に襲われ全滅したと……」


 かかった費用も尋常では無かっただろう。

 ここをはじめとする魔術師隊の支部が、ファクトルの監視に留まることしかできないのは、試行錯誤の結果なのだ。


 非現実な相手だ。

 地に足を付けて太刀打ちできる相手ではない。


 ゆえに、彼らは、世界は待っているのだ。

 まさに夢物語のように、魔王を打倒できる少数精鋭の“勇者様御一行”を。


 だが、その“勇者様御一行”も、自分たちだけではない。

 すでに何組も、その夢を現実にできるはずだった“勇者様御一行”がファクトルに足を踏み入れているらしい。

 しかし、未だに魔王の脅威は終わっていない。


 彼らは、“神話”にはなれなかった。


「……ですが。ですが、あなたたちなら……!!」


 沈んだ空気に気づいたのか、ライグ慌てたように顔を上げた。

 表情は硬いが、しかし、瞳の色は強く感じた。


「我々ファクトル担当の魔術師隊や魔導士隊は、“勇者様”を無慈悲に死地に送り出す部隊と噂されていますが、そんなことはないのです」


 そんな噂をサクは初めて聞いたが、口には出さなかった。


「“希望”になります。明日の命も分からないような場所で待つ我々には、勇者様の誕生に本当に縋っていて……!!」

「あ、ああ。分かっている」


 これほど劣悪な環境で、彼らは一体何度裏切られたことだろう。

 だが、緊急時でも、自分たちをここに通し、状況の説明をしてくれた。彼らにとっては精一杯の支援なのかもしれない。


 確かに彼らは、そして世界は、“希望”を待っているのだ。


「ファクトルへの通行許可は出しておきます。それでは、御武運を」


―――**―――


 ヒダマリ=アキラは、背中に備えた剣をガチャガチャと鳴らす風と戦いながら、ファクトルの大地を眺めていた。

 高く登る太陽の下、巻き上がる砂の向こう、地続きの国の国境のように塞がれた柵の先、世の果てにまで続くような広大な荒野のさらに向こう、山岳地帯のようにも砂漠にも見える、分かりやすく分かりにくい劣悪な自然が広がっている。


 映画のような景色だった。

 元の世界、日本という小さな国から来たアキラにとって、膨大に広がる大地というものには未だに慣れない。

 あの山の向こうには市街地が連なっていてくれるような気さえする。

 だが、地図で見たところ、アキラの視界の中には、Dブロックと呼ばれる場所すら入っていないらしい。


「……ぶ」


 口に入り込んだ砂を吐き出し、目を擦り、それでもアキラはファクトルを眺め続けた。


 ついに来た。

 魔王の牙城があるという、ファクトルに、今、勇者がすべてを賭けて挑む。


 そう思いたかったのだが、そんな感情はほとんど浮かんでいなかった。

 特別なことは無く、日常の延長のような気さえする。


 打倒魔王を志し、旅を続けてきた。

 だが、思い返せば、この旅は、順調だった。順調すぎた。


 確かに、面白くないことはいくらでもあった。

 悔しさや怒りに、感情が揺さぶられたこともある。


 “だがそれだけだ”。


 戦闘においては、未だかつて危機的状況に陥っていない。

 圧倒的な後ろ盾が存在したまま進んできた旅は、あまりに小手先で、ファクトルの広大な地を見れば見るほどちっぽけに思えてくる。


 アキラはおもむろに、背中の剣を抜いてみた。

 先ほど手に入れたこの武器は、かなりの上物らしい。この支部では“勇者様”といえども過度な支援はしないらしいが、気のいい魔術師の男に押し付けられた一品である。

 剣の価値など分からぬアキラでも、妙に手触りの良さは感じるし、先ほど振るったときにも違和感なく扱えた。

 だが、似たような武器の中から1本渡されただけなので、どうやら大量に発注した武具の中のひとつに過ぎないらしい。


 服も、特に変わっていない。Tシャツにジーンズ、そして適当に掻い繕った上着。

 中に仕込んだ防具の窮屈さと重さには多少は慣れたが、どうにも暑苦しくて鬱陶しい。


 武具も、防具も、旅を始めたときから、何も変わっていない。

 せいぜい、伸びた髪を整えたとき、染め直すのも面倒で、控えめな着色をしていた髪が元の黒に戻っているくらいだ。


 心構えくらいは、多少は変わってくれているだろうか。

 食い入るようにファクトルを眺めても、巻き上がる砂は何も教えてくれなかった。


「……ぶ」


 砂を吐き出す。そしてまた、ファクトルを眺める。

 不安になるほど日常の延長にいるアキラは、何故か、ファクトルから目が離せなかった。


「やっとだ」


 砂と一緒に、口から何かが零れた。


「……にーさん、ここにいたんすか?」


 そこで、のんびりとした声が聞こえた。

 魔王の牙城の直前ですら、日常を感じる。

 そんなアキラより、彼女の方がずっといつも通りに見える。


 マリサス=アーティは、だぼだぼのマントを風にたなびかせ、とぼとぼと歩み寄ってきた。


「マリス。どうしたんだ?」

「いや、にーさんを見かけて。……挨拶は終わったんすか?」

「ああ、正直疲れたよ」


 ここに到着し、身分を明かしたアキラを待っていたのは、この支部に集まった各員への挨拶だった。

 天候を見たり、準備を整えたりと、自分たちはこの支部にしばらく滞在する必要がある。

 “勇者様御一行”の代表者として、各所で仕事をこなしている魔導士や魔術師に挨拶回りをすることになったのだ。


 しかし、思った以上に熱烈な歓迎を受けたと思う。

 緊急事態らしいにも関わらず、その多くに歓迎してもらえ、あれだけの人に握手をしたのは生涯初だった。

 未だに手が痺れている。


「この大陸のこんな場所まで来たら、“自称”なんてほとんど外れるんすよ。それも“勇者様”の仕事っす」

「プレッシャーはやばかったけどな……」


 以前、勇者はほとんど自称と聞かされ、面白くないものを感じたアキラだったが、改めて考えるとそれでよかったのだと思う。

 立ち寄る街や村で同じような目に遭っていたら、今頃ストレスで胃に穴が開いていたかもしれない。


 それほど、“勇者様”という存在はこの世界で待ち望まれているのだろう。


 ふと、以前出逢った、リリス=サース=ロングトンという少女を思い出す。

 彼女は、世界の期待を、そして果たすべき義務を正面から受け止めていた。

 今、彼女は何をしているのだろうか。

 もしかしたら、自分たちよりも早くファクトルに入ってしまったのかもしれない。


「でも。緊張はしてないんすね」

「…………」


 半分の眼が、アキラの顔をじっと見てくる。マリスのこうした様子はよく見る気がする。

 ひんやりとするような感触が、胸の中を通っていった。


「にーさんだけじゃないみたいっすけど。みんないつも通りっすね。……良いことなのか、悪いことなのか」

「良いことだろ。ぎっちぎちに緊張するよりは」


 中身が無い言葉だと自覚した。

 その緊張感が無い理由を、アキラはよく知っていた。


 “3枚”。


 アキラはまたファクトルを眺めた。日常の延長にある、終焉の地。

 それを前に、この“勇者様御一行”の緊張感の無さ、言い換えれば余裕とも入れる理由は、“3枚の最強カード”の存在だった。


 ひとつはエレナ=ファンツェルン。

 彼女の力の底が未だに見えない。

 命を賭けて自己を強化する秘術の成功者であるらしい彼女は、この旅の中、敗北どころか苦戦というものすら存在しなかった。

 圧倒的な身体能力を誇る木曜属性の術者であり、同時に、触れただけで相手を殺す凶悪な魔術すら操る。


 底が見えないと言えば、もうひとつ、マリサス=アーティの力である。

 数千年にひとりの天才と言われる月輪属性の術者。

 数多の魔物にすら恐怖され、軽々しく敵をせん滅する戦闘能力以上に、飛翔、治癒などまでこなす“異常”な存在。

 先日、マリスを討つためだけに魔族が襲い掛かってきたというのに、彼女は強引に撃退して見せた。


 そして。

 最後のひとつ。ヒダマリ=アキラの“具現化”である。


 総てを消滅させる日輪属性の魔術を瞬時に放つ。

 あの神が、プロミネンスと呼称していた。

 今やノーリスクで放つことが出来るこの力は、アキラが異世界に来たときから存在し、そして、打倒せなかった敵、打ち破れなかった状況は、無い。

 この先も、この銃の力で討てない敵など存在しないだろう。


 利用者だからか、アキラにはこの“具現化”の力に妙な確信があった。

 底が見えないマリスやエレナ。そのふたりですら、この絶対的な力には対抗できない。

 “回避”や“吸収”なども許さないのだから。


 唯一の欠点と言えば、“利用者”だった。


「……にーさん。どうしたんすか?」

「いや、風強くなってきたなって思ってさ」

「そうっすかね?」


 アキラは渋い顔を強引に取り繕った。


 この“具現化”は、今、“とある意地”から使っていない。

 散々頼りにしてきたが、アキラは未だにこの“具現化”と真面目に向き合えていなかった。


 成長の阻害。伏線の消滅。結果だけを生み出す。

 出所も、未だに不明のままだ。


 そしてそれらを、アキラは、あのホンジョウ=イオリと共に、世界の“バグ”と呼んでいる。

 この世界はご都合主義に彩られている。

 異世界に魔法に、勇者に魔王だ。

 それらは物語のように、秩序を持って並んでいるはずだったらしい。


 だが、いよいよ旅は終着点。

 このまま魔王を倒し、“バグ”だらけの物語は完結する。

 総てが無秩序のまま、終わってしまうだろう。


「……そういえば、にーさん」

「ん?」


 さり気なく建物に戻ろうとしたアキラを遮るように、マリスがとぼとぼと前を塞いだ。

 半分の眼で見上げてくるマリスを見返すと、その瞳の中が、少しだけジト目になっているような気がした。


「ねーさんと、何かあったんすか?」


―――**―――


「うぅぅ~……」


 エリサス=アーティは、短くなった赤毛をガシガシとかき、お世話になる魔術師隊の支部内をうろついていた。

 世話しなく駆ける魔術師隊たちの忌避の視線を背中に受けながら、目的無く廊下をずんずんと進んでいく。


 先ほどまでは良かった。

 憧れである魔術師隊の支部にお世話になることになり、間借りする部屋に人数分のベッドやら毛布やらを運び込み、携帯食料やファクトルの移動用に馬車を手配し、忙しくも充実した時間を過ごしていた。

 しかし、この旅を通し、そうした下準備を任さられることの多かったエリーは手際よくそれらを終えてしまい、こうして日課に戻ることになったのだった。


 もっと忙殺されたかった。


「むぅぅぅ……」


 唸り声が口から漏れたような気がすると、前の方から歩いてくる魔術師がぎょっとして道を開ける。

 エリーにとって、魔導士は勿論魔術師は尊敬すべき相手だ。

 彼ら彼女らはあの難関の試験を突破して、立派に職務を全うしているのだから。


 そんな羨望の相手を一瞥もせずに廊下を進むと、エリーはまた頭をガシガシとかいた。


 1週間ほど前だろうか。

 エリーにとって大事件が起こった。


 あの日、日中に起きたことは、正直よく覚えていない。

 身に降りかかった激痛やら苦痛やらで発狂しそうになり、生死の境をさまよっただけのことだ。

 あのことについては、魔族の介入があったとはいえ反省すべきことなのだろう。

 深く反省すべきだし、忘れることは出来ない。


 だが、あの日を思い出そうとすると、というより、日々のふとした瞬間、どうしても、その日の夜のことが頭を埋め尽くしてしまう。


 とっても綺麗な星の夜だった。

 隣にいる彼との距離は、物凄く近かった。

 見つめ合っていると、吸い込まれそうになった。

 きゃー。


「ぎゃぁぁぁあああ…………」


 びくりと周囲の魔術師が足を止めた。

 視線を向けると、おびえた表情で駆けていってしまう。

 忙しそうだ。自分にできることがあるなら何でも言って欲しい。記憶が飛ぶほどこき使い倒してもらいたい。

 最近、少しでもひとりの時間が出来ると、エリーはこうして悶絶していた。


 あのとき自分は何をしたのか。というより、何もせずに、流れに身を任せそうになった。……と、いうように、彼からは見えてしまっただろうか。それは勘違いだ。あの日は、心身ともに消耗して、意識がもうろうとしていた。夜だから騒ぐのもどうかと思った。あと眠かったりした。

 いろいろと頭の中で言葉を作ってみたのだが、わざわざ言うのもどうかと口がまともに開けない。もっと言うと、あれ以来まともに顔を合わせることが出来ない。

 ただ、屋上に行って、眠くなっただけの話で、まあ、確かに、なんというか、気遣ってくれたような気もして、星が綺麗で。


「…………ぅ」


 頭の中がものすごく、ピンク色になっている気がする。


 ヒダマリ=アキラという人物との“因縁”は、彼がこの世界に訪れた日から始まっている。

 エリーと彼は“婚約者”ということになっているらしい。

 それを破棄するという馬鹿げた理由で、とうとう魔王の牙城の目前まで来てしまった。


 それだというのに自分ときたら。

 いや、“アキラときたら”、目的を、忘れているのではないだろうか。


 まあ、ただ、最近の彼は、実力はともかく意志が強くなっている気はする。

 あんなに頼りにしていた“具現化”を使わないとまで言ったのだ。

 それに、一緒に強くなろう、とも言ってくれた。

 その、嬉しかった。


「…………」


 今すぐ部屋に戻り、ベッドに飛び込み、転がり回りたくなった。

 エリーは頭を抑える。いつもあの男は頭痛の種だ。


 それだというのに、アキラは相変わらずというか、いつも通りのような気がする。

 あの日、自分が去ったあともしばらく屋上にいたらしく、翌日の早朝の鍛錬にもちゃんと遅刻してきた。

 エリーも同じく遅刻してしまい、面々はエリーの体調を気にしてくれたが、ルールはルールと罰ゲームで町を一周アキラと走ったのだ。

 そのときも、アキラはこちらの様子を特に気にもせずに走っていた。

 正直、腹が立った。何か、もっとこう、何かあると思ったのに。

 ついでに言えば、あのあと軽く整えたこの髪にも一言くらいあるだろうと思う。


「……ふ、ふぅ」


 エリーは強引に息を整えた。

 これ以上深みにはまると危険な気がする。だが、手遅れのような気もしてきた。


 いよいよ魔王の牙城の前だ。いい加減、こうして悶々としている場合ではないはずなのだ。

 日が経つごとに時間が短くなっているのがせめてもの救いだった。


 とにかくやることを探した方が建設てきであろう。

 イオリたちは、今この支部で起こっている異常事態の詳しい話を聞き終えた頃だろうか。

 ならば自分もそちらの話を聞かせてもらいにいこう。


 そう思い、エリーは顔を上げ、そもそもここはどこだと周囲を伺おうとすると、踏み出した足が固まった。


「……!」


 エリーは、踏み出した足に綺麗にロールを描かせ、腰を落とし、機敏に物陰に飛び込んだ。

 今、自分が下ろうとした階段の下から、洗練された魔術師たちの足音とは違う、いかにも呑気な気配を感じた。鼻歌だったかもしれない。


 物陰からこっそりと様子を伺うと、よりによって件の男が、子供のように2段飛ばしで階段を登ってくる。

 どうやらここは2階らしい。3階では、イオリたちが情報を集めてくれている。

 てっきり3階に向かうのだろうと様子を伺っていると、アキラは何を思ったのか2階で立ち止まりやがった。迷ったのかもしれない。

 エリーは特徴的な赤毛を物陰からはみ出させないことに意識を集中させつつ、アキラに今すぐ登れと念を送ってみたが、どうにも彼は困ったような表情で周囲を伺い続けていた。


 このままだと発見される。

 まずい。


「……」


 いや、まずくない。

 別に、あれは、そういうことじゃない。だから、まずくない。


 エリーは軽く身なりを整える。

 たまたま彼に会うだけだ。それだけの、ことだ。

 下手に意識してしまうのはもうやめるべきである。


 エリーは短く息を吸って足を踏み出した。

 そんなところで何をしているのかと聞かれたら、怒鳴り返してやればいいだけのことである。


「アキラ」


 エリーは踏み出した足を、再び鋭く物陰に飛び込ませた。

 階段の上から、よく聞く落ち着いた声が聞こえた。


「イオリか。あ、やっぱ上だったか。……話は終わったのか?」

「ああ。ついさっき。そっちも?」

「まあな。腱鞘炎になりかけた」

「はは。僕も入隊したときはそうだったっけ。……日本だと、ボディランゲージは多くないからね」


 先ほどアキラがひとりでいたときよりも、エリーはずっと出にくくなった。

 あのふたりが話していると、いつも感じる壁だ。

 日本。

 アキラとイオリのふたりは、異世界の同じ国にいたらしい。


「まあ、とりあえずはお疲れさま。本番はこれからだけど、頼りにしているよ、勇者様」

「……なんだその手は。お前は俺の話を聞いていなかったのか」


 差し出した手をあっさりと引き、イオリは苦笑する。

 理路整然とした端正な顔立ち。立ち振る舞いも大人びているイオリは、魔導士でもあり、エリーにとっては仲間ながらも憧れの存在だ。

 だがそうしたイオリは、時折、とても柔らかく笑うことがある。


 そして逆に、そんなときのイオリには、ふたりには、エリーは強い壁を感じるのだ。


「そうだ。エリサスとマリサスは? 一緒だったんだろう?」

「いや、適当に分かれたよ。マリスには会ったけど……、あいつはどこいったんだろうな? まだ部屋の準備とかしてんのかも」

「そうか……。まあ、大丈夫かな」


 ふたりが会話していると、妙な焦りが生まれてくる。いっそ聞かない方がいい。

 だが、今さら物陰から出るわけにもいかなかった。

 エリーは途端に自分が惨めに思えてきた。


「それで、そっちの話はどうだったんだ?」

「詳しいことはあとで話すけど……、出発は少なくとも3日後以降になりそうだ。砂嵐が酷いらしくてね」

「ついてないな」

「いやいや、やることは沢山あるよ。準備期間にしては短い方さ。この辺りの足場にも少しは慣れられるといいんだけど。……“本番”、だからね」

「そうか。……そうだな。いよいよだ」


 その言葉は、エリーの胸を突いたような気がした。


 いよいよ、である。

 リビリスアークの孤児院にいた頃は、夢にも思っていなかった魔王討伐。

 今や自分たちは、世界の希望を一身に背負った“勇者様御一行”なのだ。


 魔王の討伐。

 “神話”にしか存在しない出来事を、自分たちの手で起こさなければならない。


「―――そうだ、アキラ」

「……!」


 アキラの気配が変わる。

 エリーは、ふたりとの間に、より一層の壁を感じた。


「“バグ”の話か?」

「……近い」


 “バグ”。

 ふたりが話しているとき、時折聞こえてくる言葉だ。

 どうにもふたりには、エリーが知らない、“共通認識”がある。

 それは、異世界の話とはまた別の匂いをエリーは感じていた。


「実は君を探して降りて来たんだ。……話がある」

「場所を変えた方がいいか?」

「ああ、来てくれ」


 そう言って、イオリは階段を降りていく。それに続くアキラの様子は、登ってきたときとは別人のようだった。


 きっと、それに着いていってはならないのだろう。

 エリーは直感的にそう思った。


「……」


 後を追った。


―――**―――


「きゅぅ……」


 サクの隣で、ベッドの上に液体のように伸びきる生物から、脳疲労からの奇声が聞こえた。


 魔術師隊の支部であてがわれた宿舎の部屋は、エリーたちが準備をしていてくれたようで、狭く埃っぽいながらもベッドだけは小奇麗だった。

 3人部屋で、座りながらドアに手が届くほど窮屈だが、用意してもらえるだけありがたい。なにしろこの支部の周辺は、ファクトル近辺というだけはあって町どころか人、それどころか通常の魔物すら見かけないほど閑散としていた。


「……しかし、本当に“証”とやらは必要だったみたいだな」


 サクは武具の手入れのエリアを確保しながら、窓の外の様子を伺った。砂が舞い上がり、野宿など考えられないほどの環境だ。

 直近の町からここに来るまで半日以上はかかっている。この場所に泊めてもらえなければファクトルに入るための準備などまともに出来なかっただろう。


「“七曜の魔術師”。……こうした支部が管理しているとなると、ファクトルに入るにも許可は必要だったようだし」


 隣で、先ほどまでの話の内容が難しかったのか知恵熱すら起こしかけているかもしれないアルティア=ウィン=クーデフォンも、この支部内ではヒダマリ=アキラの水曜の魔術師として認識されている。

 イオリの計らいもあったようだが、この支部に自分たちがスムーズに泊まれたのも、かつて言われた“証”、つまりは七曜の魔術を揃えていたからだ。

 この支部も、それほど余裕があるようには見えない。何もないままこの場所を訪れていたら、物見遊山だとでも思われて門前払いを食らっていたかもしれない。

 対外的な証明というのは、こういう見知らぬ土地でも生きてくるということなのだろう。


「ま、そうね。ということは、おめでとう。これでお役御免ね。ティア、帰り方分かる?」

「エレお姉さまっ!?」


 ティアが飛び起き、よたよたと立ち上がる。

 エレナ=ファンツェルンは、それを底冷えするような視線で制し、ベッドの上で足を組んだ。彼女もまた、この支部ではヒダマリ=アキラの木曜の魔術師として認識されている。

 ただ、サクとしては、エレナのことをほとんど知らない。

 アキラによく絡み、ティアによく絡まれているのを見るが、この旅でも彼女はほとんどひとりで行動しているように思う。

 見た目通りというのもはばかれるが、金銭よりも自分の欲望を優先するタイプで、宿でも高くていい部屋に泊まりたがる。

 そんな彼女からすると、こんな足も満足に伸ばせないような狭い部屋に宿泊するのが気に入らないのか、いつにも増して機嫌が悪そうだった。

 と、サクは思っていた。


「……これが最後の機会よ。戻りなさい」


 だが、エレナは神妙な顔つきのまま呟いた。


「ほんとのこと言うと、あの正妻も。……もしかしたら、そこのアキラの従者も」

「……!」


 サクは手入れをぴたりと止めてエレナを見返した。

 言い返したくなるような言葉だったが、エレナの口調がそれを許さなかった。

 彼女の声はどこまでも冷たく、しかし優しさを感じた。


「あんた、足場が悪いの慣れてるわよね?」

「……ああ。タンガタンザはそういう地形が多い。ファクトルでも問題なく動けるとは思う」


 西の大陸、タンガタンザ。サクの出身地だ。

 広大な大地のタンガタンザでは、砂漠のような地域もある。

 むしろ足場の悪い方が、敵の動きが鈍る分、サクにとっては得意な環境ですらある。


「それで、ぎりぎり。……そんな気がするのよ」


 エレナの言わんとすることは分かっていた。


 “力不足”。

 この旅で幾度となく痛感してきた事実だ。

 サク自身、それを否定せず、むしろ克服しようと日々を過ごしてきたつもりだ。

 だが、具体的に解消できたと思える日は、ついぞ来なかった。


「私やアキラ。……それに、あの天才ちゃんと魔導士は、……多分、大丈夫。“常軌を逸して強い”もの」


 エレナの評価は、不遜でも何でもない。ただの事実である。

 ヒダマリ=アキラには、あの壮絶な銃がある。

 マリサス=アーティには、あの膨大な魔力がある。

 エレナ=ファンツェルンには、あの暴力的な力がある。

 ホンジョウ=イオリには、あの強大な召喚獣がある。


 今までの旅が立証している。

 彼らは、ヨーテンガースの魔物に、それどころか“魔族”とすら渡り合える戦闘能力を有している。


「でも、私たちが今から入るのは、その“常軌を逸して強い”が“普通”になるところ。……世界最強の危険地帯よ」


 ヨーテンガースは、存在する魔物は他の大陸と比較にならないという。

 他の大陸で1体出現すれば深刻な事態になる魔物が、この大陸では群れを成して行動しているのだ。

 だが、“そんなヨーテンガースの魔物ですらファクトルには近づかない”。

 アキラではないが、ファクトルは、まさに異世界とでも言うべき領域であるらしい。


「楽勝が、惨死に。辛勝が、惨死に。引き分けが、惨死に。ファクトルは、そういう場所なのよ」


 エレナが、子供に言い聞かせるように呟いた。

 その口ぶりが、サクの背筋を、ぞわりと撫でた。


「エレナさん。……ここに来たことがあるのか?」


 聞こえなかったのか、エレナはベッドを降りて立ち上がった。

 砂が窓を叩く音が、妙に耳障りに感じた。


「ねえ。さっきのライグって人の言ってたこと、覚えてる?」

「あ、ああ」


 あの魔術師隊の男は、自分たちに色々と説明をしてくれた。

 ファクトルが未知の領域だっただけに、随分と助かったように思える。

 そして、彼は、言っていた。

 自分たちは“希望”なのだと。


「それじゃあ、それ聞いて、“怖くならなかった”?」

「……?」


 エレナの言葉の意味が分からず、サクは眉を寄せた。

 ティアも、首をかしげてエレナを見上げている。


「……そう」


 エレナはサクたちを流し見て、応えを受け取ったかのように、部屋の外へ向かった。

 また砂が窓を叩く音がする。


「忠告は、したわよ」


 エレナが去り、ドアが閉まり切るまで、サクは一言も発せなかった。


―――**―――


 日は高く、風は納まりつつある。

 だが、舞い上がった土埃が鬱陶しく、薄暗ささえ感じた。

 そう思うと、風が大人しくなっているのは、明日の未明付近から起こるという砂嵐の予兆とさえ思われた。

 そのせいもあってか、魔術師隊の建物の影は深い闇に覆われているようで、眼前に広がる禁忌のファクトルよりも、ずっと恐ろしく感じる。


「……俺さ、実はさっきもここにいたんだよ」


 そんな漆黒の闇の中、アキラは耐え切れずに口を開いた。

 隣、ではなく、正面に立つイオリは、苦笑する素振りをしたが、その表情はまるで笑っていないことにアキラは気づき、そしてイオリ自身も気づいているようだった。

 空気が一層、乾いてきた。


「そういやさ、出発するときは盛大にパレードでもしてくれんのかな? いろんな人に激励されたし」

「いや、見送りくらいならしてくれるだろうけど、それは無いよ。彼らにとって、僕たちは希望ではあるけど、“唯一の希望”ではないからね」

「はは、勇者様だってのにな」

「まあ、不自由なく泊めてもらって、天候の様子を見させてもらえるだけでもありがたいさ」


 空々しい会話だった。

 ここまでの道中、イオリから収集してきてくれた情報を共有された。


 この広大なファクトルを高速で移動する魔王の牙城であるという、“巨大生物移動要塞”ルシル。

 にわかには信じがたいが、異世界に来訪したアキラにとっては今さらである。

 そしてそのルシルが、つい先日この支部の近辺で目撃されたそうだ。アキラが挨拶回りをした魔術師隊の面々が慌ただしかったのも、どうやらその緊急事態の対応に追われていたらしい。その合間を縫って相手をしてくれたのだから、やはり十分以上にもてなされているのかもしれない。

 ただ、説明をしてくれたイオリの表情は暗かったように思えたが、アキラは、申し訳ないことに、ほんの少しだけ胸が躍っていた。


 巨大な存在が移動するというのはそれだけで単純に恐怖ではあるのだろうが、異世界らしいと言えば異世界らしい。

 勇者が巨悪に挑むというのは、多少は成長したとしても、素直に、ロマンがあると思ってしまう。


 だから、目の前のイオリとの温度差を、アキラは敏感に察していた。


「……話ってなんだ?」


 やはり耐え切れなくなって、アキラは切り出した。

 このイオリの様子だと、楽しい話題だとは流石に思えない。

 となると、“バグ”がらみだろうか。


「アキラ。君に頼みがある」


 アキラは思わず身構えた。

 言葉は、砂埃の中でもはっきりと聞き取れた。

 彼女の声には、真剣さを、真摯さを感じる。

 そして、彼女は、“懇願”していた。


「“約束を破ってくれ”」


 砂の音が、ずっと遠くなった気がした。

 ただ彼女の言葉だけが、アキラの中で響いた。


「な、なに、を」

「アキラ。さっき僕の話を聞いて、“怖くなかったか”……?」

「え?」

「凶悪な魔物。過酷な地形。巨大な魔王の牙城。そして、僕たちがこれから挑む諸悪の根源、“魔王”。その話を聞いて、君は“恐怖”を覚えたか?」


 アキラは身体を硬直させた。

 確かに信じられないような話だった。今から挑むとなるとなおさらだ。

 だが、もし、自分が覚えた感情を素直に言うのであれば。


「驚愕はしたかもしれない。……いや、もっと簡易に、“驚いた”、かな」

「……あ、ああ」


 ずばり胸の内を言われ、アキラはくぐもった声を返した。


 凶悪な魔物や過酷な地形というのは、体験するのは極力遠慮したかったが、心の中ではそういうものだと覚悟していた。それがお約束だ。

 そして、移動する魔王の牙城。

 確かに、魔王の牙城というのは不動なイメージを持っており、それが動くというのは寝耳に水だった。


 “だが、その程度だ”。


「きっと、多分、みんなそうだ。その事実に、……いや、“その程度のこと”に驚きこそすれ、恐怖までは感じないだろう」

「……イオリ、もしかして怖いのか?」


 イオリは、アキラに視線を合わせてきた。

 そしてじっと見つめてくると、観念したように息を吐いた。


「怖い」

「……?」


 はっきりした口調だった。

 そのせいなのか、アキラはその言葉に、危機感は覚えられなかった。


「……イオリ。怖がってたってしょうがないだろう」

「それは違うよ。……“事実”を“事実”としてしか受け取れないならコンピュータでも出来る。そこに感想を抱かないなら、人間である必要は無いよ」


 イオリの言葉は、何かを訴えているようだった。

 アキラは胸の内を突かれるような感覚に陥る。


 これまでの旅路で、アキラはある意味、そうした“感想”を抱かないようにしてきたのを覚えている。

 魔物との戦闘が最も顕著だろうか。いかに魔物とはいえ生物である。それを切り裂くのはまともな感性を持ったままだと気が滅入る。

 だが、それだけでなく、日常生活の方でも、アキラは何かについて、深く考えるのを避ける癖があった。

 深追いすれば、どれほどキラキラと輝いていても、陰ることを知ってしまっていたからだ。


 そして、その癖が裏目に出たのは、まさしくイオリと出逢ったとき。

 気付けば、すべてが歪に見える世界に取り残されていた。


「みんな麻痺している。道中迫ってきた脅威に対して、怒りや驚愕は覚えているが、最も大切な“恐怖”を感じていない」


 それは事実だった。

 怖いと思ったことが無いわけではない。だが、あまりにも些細なことだったように思う。

 もしかしたら、いよいよ魔王の牙城の目前に来たというのに、妙に緊張感が無いのもそれが理由なのかもしれない。

 マリスも似たようなことを言っていた。

 それはそうだろう。


 この旅の道中、敵に“恐怖”を覚えたことが無い。


「“いざとなれば”」

「……!」


 イオリの言葉が、何を示しているのかはよく分かった。

 この旅は、大きな後ろ盾があり続けたのだ。危機感など育ちもしない。


「はっきり言うのも避けたいけど、……マリサス、エレナ。彼女たちがいれば、何が起きてもどうとでもなる。潜在的に、みんなそう思ってしまっている」

「……っ」

「それに、アキラの力もだ。僕は見る機会が無かったが、聞いている限り、“そのふたりすら”上回るかもしれない。それこそ、この場で乱射しているだけでファクトルを消し飛ばせるほどなんだろう?」

「……ああ」


 アキラは素直に答えた。

 仮定の話だが、確かにあの銃の力であれば、ファクトルに入ることなく魔王の牙城を撃ち抜ける可能性すらある。

 魔物も、魔族も、あるいは大地も、世界も、そして、伏線も、想いも蹂躙してしまうあの銃。

 あの“具現化”を現出させたときに感じる確信は、未だ胸の中にある。


「……なら、僕はいっそ、今すぐにでもそうしてもらいたいくらいだよ。……相手の手が分からないから下手に動かない方がいいんだろうが、……それでも、ファクトルに入らなくて済むなら悪くない」

「お、おいおい」

「そこで、だ」


 イオリは冗談を切り上げるように顔を上げた。

 だが、その言葉のすべてがふざけて言ったわけでは無いように感じた。

 物語を崩壊させ、この場から魔王を討つ。“それが魅力的に感じる”ほど、彼女はこの世界の住人だった。


「僕は、ファクトルに入ることに恐怖を覚えている。……それこそ、今すぐ逃げだしたいくらいに。……だから、“約束を破って欲しい”」


 イオリが言っていることの意味が、アキラには分かった。


「アキラ。君はモルオールで僕に言ってくれたね。……もうあの銃は使わない、と」


 確かに言った。

 先日、エリーにも宣言したことだ。

 世界の“バグ”を作り続けるあの銃。人の想いすらも消し飛ばしてしまうあの銃。

 “具現化”を使わない約束は、とうとうここまで守り切られた。


「アキラ。ファクトルで温存なんてできやしない。“いざとなれば”の場所なんだ。どうかためらわないで欲しい。一瞬遅ければ、最悪の事態になる。僕も、きっとマリサスも、エレナも、警戒しているはずだ。せめて僕たち4人は、危機感を持っていなければならない」

「……」


 イオリの“勇者様御一行”への評価は、完全に二分していた。だがそれは、誰もが口に出さないことで、誰もが思っていることなのだろう。


 4人には、メンバー内の危機感を、常に掃ってきた、掃い続けてきてしまった力がある。

 力半分でさえ解決できないことは無い。


 だがファクトルは、その4人が全力で戦わなければならない場所である。


 危機感が欠けた今の状況を改善するのは難しい。

 だからイオリは、せめて戦力の拡充をしたいのだろう。

 物語のあるべき姿、“バグ”の存在。そんな綺麗事を言っている場合ではない。

 例え総てを壊そうが、メンバーの最弱サイドにいるアキラを、最強サイドへ移動させる必要がある。


 それが彼女の“懇願”だった。


「……なあ、イオリ。お前はここで、何かを視たのか?」


 そこまで恐怖するイオリに、アキラはおずおずと聞いた。

 未来を視たという彼女は、アキラが知らない何かを知っている。

 まともに話してくれたことは無いが、しかし彼女は、意外にも、口を開いた。


「アキラ。……君は、煉獄を視たことはあるか?」

「煉獄?」


 小さい声だった。だが、はっきりと聞き取れた。


「生と死の狭間。業火に焼かれ、一歩でも進めば地獄が待つ。退路は無い。そんな場所を」


 あるわけがない。

 日本でぬくぬくと育ち、この異世界に来ても、それこそ危機感を覚えられぬほどの後ろ盾に支えられたアキラに、そんな機会は起こり得なかった。


「イオリ、お前は、」

「やはり多くは語れない。だけど、頼む。ためらわずに力を発揮してくれ。手遅れにならないように」


 アキラの言葉は遮られた。

 自分の言葉が、存在が、空を舞う土埃のように軽く感じた。


「―――頼む」


 拳を握り締め、イオリは頭まで下げてきた。

 身体が震えているように見えるのは、きっと気のせいでは無い。


「……わ、分かった」


 せめて強く地を踏み締めて、アキラは頷いた。

 自分の立場が、勇者という存在が、恐ろしく重く感じる。

 あるいはこの旅の中で、初めて感じた重さかもしれない。


 風が、さらさらと強くなっていく。

 頭を下げたままのイオリが、また、語りかけてくるような気がした。


 煉獄を視たことはあるか。


―――**―――


「……! あ、ねーさん。どこに行ってたんすか?」

「……」

「?」


 ノックもせずに部屋に戻ってくるなり、ベッドに頭から倒れ込んだ姉に、マリスは首を傾げた。

 ここ最近、エリーの様子がおかしいのは感じていたが、今日はいつもよりも酷いらしい。


 3つベッドが並んだだけの質素な部屋で、マリスは陣取った窓側のベッドで地図を広げていた。

 先ほど別室にいったら、情報収集を務めてくれていたサクたちがいたのだが、話を聞きに行ったアキラの姿は無く、代わりにこのファクトルの話を聞かせてもらえた。イオリの姿は無かっただが、彼女たちはアキラを見ていないそうだ。

 話自体は概ね把握できたのだが、アキラに上手く説明できる自信が無い。何しろ渡された資料がほとんど空白の地図だけなのだ。

 そうしたことが得意そうなエリーの帰りを今か今かと待っていたのだが、マリスはさっそく、部屋から出たくなってきた。

 姉から、妙なオーラを感じる。


「具合、悪いんすか?」

「違う」

「あー、ええと、買い忘れとかあったんすか?」

「ない」

「……」


 乾いた言葉にめげず、マリスは息を短く吸って吐いた。

 多分、今から自分は、藪の中に入ることになる。


「……そういえば、にーさんどこに行ったんすかね?」

「知るわけないでしょ」


 冷えた言葉が返ってくる。

 やはりこれだ。


「ねーさんたち、また何かあったんすか?」

「…………」


 無言が返ってきた。

 触れなければいいのだろうが、実の姉だ、放っておくのもはばかれる。

 そしてこういうとき、大体原因はヒダマリ=アキラだったりする。


 うつ伏せのままのエリーを眺めながら、マリスは口元を歪めた。

 自分たちは何をやっているのだろう。

 ここはどこだ。魔王の牙城があるファクトルだ。


 ついにそんなところまで来たというのに、まるでアイルークの孤児院にいるときのようではないか。

 エリーのこの様子に、マリスは名前を付けられる。


 無気力に倒れているようで、しかしぴりぴりとした雰囲気を感じる。

 爆発寸前の火山のようだが、臨界点に達する前にしおしおと納まり、膨れては萎みを繰り返す。


 これは、拗ねている。


「出発は3日後になりそうっす。あとでイオリさんからも話を聞いておいた方がいいかもしれないっすね」

「聞いた」


 淡泊な言葉しか返ってこない。

 マリスは眉を寄せる。


 本当は危機感を持って欲しいのだ。

 確かに、アイルークの孤児院にいた頃は“魔王”というものは非現実的な存在だ。実感が無くて現実感を持てと言う方が無茶かもしれない。

 それに、魔王と言えども魔族である。この旅の中で討伐できてしまっているし、直近ではマリスひとりで撃退した相手でもあるのだから、エリーの視点からすれば強力な敵ではあっても異次元の化け物では無いのかもしれない。

 事実マリスも、先日の一件で、“魔族”という存在の力はある程度把握できたと思っている。


 だが、例えそうであっても、油断は禁物。危機感というのは重要だ。

 警戒心と言い換えてもいい。

 旅を通して力を蓄えてこられたものの、この面々にはそれがまるでない。

 戦闘になりさえすればみな集中できるだろうが、現状を見ていると不安が募ってくる。


 だが、だからと言って、かける言葉も見つからなかった。

 その危機感を取り除き続けてきたのは、他ならぬマリスたちなのだから。


「……自分は、にーさんを探しに行くっす。もしかしたら部屋に戻ってるかも」

「止めなさい」

「じゃ、じゃあ、散歩に……」


 ほとんど同じだが、それだけ告げて、マリスは足早に部屋を後にした。

 部屋から出られて、ようやく呼吸が出来た気がする。


「……」


 マリスが出て行った部屋で、ドアが閉まる音が虚しく響いた。

 エリーの頭の中では、それ以上に乾いた言葉が繰り返し流れている。


 こっそり盗み聞きする真似になってしまった、アキラとイオリの会話だ。


 面々に緊張感が無い。

 そんなことは分かっている。よくないことだ。


 自分たちは力不足。

 それも分かっている。よくないことだ。


 自分たちに直接言わないまでも、イオリたちがそういう懸念を持っているのはよく分かる。辛いものはあるが、それをエリー自身認めて、乗り越えようとしてきたのだ。今さら言われても取り乱しはしない。


 何より、エリーは“そういう感情”を利用された張本人だ。

 人の悩みに“囁きかけ”、黒い思考に誘うあの魔族、サーシャ=クロラインは未だ生存している。いつまた同じ罠にかかるか分かったものではない。

 力不足の問題については、せめてサーシャの問題が解決するまでは深く思い悩まない方がいいだろう。


 だから、頭で繰り返し聞こえるのは、アキラの言葉だった。


「……誰にでも言ってんじゃない」


 顔を枕に伏せたまま呟いた言葉は、濁って部屋に響いた。


 アキラは言った。あの銃の力はもう使わない、と。

 きっとそれは、力不足の問題に思い悩んでいたエリーのために言ってくれた。言ってくれたと、思っていた。

 彼の負担になるような後ろめたさは確かに感じた。だが、それでも素直に言ってしまうと、そういう気遣い自体は、嬉しかった。

 だがそれは、彼にとっては、使い古された宣言でしかなかったらしい。

 とっくの昔に、あのホンジョウ=イオリに言っていたことを、口に出しただけだった。


 あの、ホンジョウ=イオリに、だ。


「くぅぁあああ……」


 呻いた。

 別におかしくは無い。

 彼は特段意識するまでも無く言っただけなのだろう。


 ただ、それに自分は勝手に喜んで、ついでに言えばこの数日も落ち着かず、心が躍るような、温まるような浮ついた気持ちになっていたようなだけの話だ。


 酷く惨めな気分になった。

 勝手に自分が舞い上がっていただけという、裏切られたような、ぬか喜びをさせられたような、ぐちゃぐちゃとした感情が頭を巡り、ベッドの上でのた打ち回る。


「これはあれね。そう、囁かれていたのよ。そう、そうよ……、ふふ、ふふふ」


 今すぐ過去の自分を殴りにいきたくなった。その消したい過去は、サーシャの被害に遭っていた自分ではなく、この数日のへらへらと浮ついていた自分で更新されていた。


「……!」


 芋虫のようにのたうち回っていたエリーの耳に、澄んだノックの音が聴こえた。

 強引に身体を起こし、辛うじて座り込んだエリーは、溢れ出る混沌とした感情を飲み込み、応答する。

 すると、ある意味今、最も会いたくない相手が現れた。


「ああ、エリサス。ここにいたのか。マリサスは?」

「……さっき、散歩に行きました」


 この部屋は双子の姉妹とイオリが泊まることになっている。

 エリーにとって、イオリは仲間であり、それ以上に尊敬する相手でもあるが、少しだけ気が重くなったような気がした。決して嫌っているわけではないのだが。


「そうか。話があったんだけどね」

「すみません。引き留めておいた方が良かったですね」

「いや、いいんだ。戻るまで待つよ」


 “危機感”の話だろう。

 エリーは表情には出さずに曖昧に笑った。

 対照的に、イオリは柔らかく笑って自分のベッドに座り込んだ。横から見ても、彼女は凛々しく、端正な顔立ちをしている。彼女に羨ましさを感じるのは、魔導士ということだけでは無かった。益々惨めな気持ちになる。

 そんな彼女からは、先ほどまで語っていたはずの“恐怖”とやらは感じ取れなかった。

 もしかすると、自分たちに“危機感”を持たせるのを諦め、むしろ不安を与えないように振る舞ってくれているのかもしれない。


「出発は3日後になりそうだよ」


 それは何度か聞いている。だが、わざわざ言うのも億劫で、エリーは頷くだけで返した。

 この狭い部屋に寝泊まりするのは、天候に恵まれるまでの間らしい。


「と言っても、長丁場になるかもしれない」

「?」


 だが、イオリの話には続きがあった。


「あとでみんなにも話すけど、とりあえず目的地を決めて、そこまでを往復するように探索するんだ。食料にも限りがあるからね。馬車の手配はどうだった?」

「あ、はい。やっておきました」


 ファクトルは広大だ。

 しかも魔王の牙城は“移動”するという。

 今までの旅のように一方通行とはいかないだろう。

 この支部を拠点として、少しずつ調査を進めていくことになる。


 そう考えると、改めて、七曜の魔術師を集めるという“証”を達成していたのは正解だった。

 宿代としていくらか必要だったが、現在いち旅の魔術師でしかない自分たちが、この支部を利用できるのは形だけでも“勇者様御一行”を名乗れるようになっているからなのだから。


「だけど、エリサス。“1回ごとに本番だ”。それに、最初に行くのは目撃証言があった場所なんだから」

「分かってますよ」

「?」


 少し棘のある口調になったのは自覚できた。

 要するに、イオリは自分たちに足りない“危機感”を嘆いている。

 本来恥じるべきなのは自分の力不足なのだが、今の精神状態では許容できなかった。

 やはり今の自分はおかしい。

 だからエリーは、そのはけ口として、最適な答えを見つけた。


「そういう鼓舞って、“勇者様”の仕事だと思うんですけどね。どこほっつき歩いてんだか」

「はは。まあ、アキラはそういうことには慣れないよ」

「ええ、そうですね。変なことを言いました」


 エリーは重ねて同意した。

 自分で言っておいてなんだが、あの男はそういうことに向かない。

 そして、それを知っているのは、イオリだけではない。


「……エリサス。もしかして、疲れているのかな?」

「いえ」


 いよいよイオリの表情が怪訝なものになってきた。

 エリーは何とか元の精神状態に戻ろうとするも、何度も失敗していた。

 イオリの言う通り、ここまでの長旅で、本当は疲れ切っているのかもしれない。

 だから、イオリと話しているのが面白くなく感じていて、そして、そんな自分に嫌気が差している。


「まあ、今はゆっくり休むべきだよ。……いよいよだ」


 イオリが何を言っても、エリーの気持ちは沈んだままだった。

 確かに休むべきかもしれない。ファクトルの探索は過酷なものになるだろう。

 だが、そういうイオリは、姿勢を正し、いつでも凛としている。気を張っている、と言った方がいいかもしれない。放っておいたら、また何らかの仕事をこなしていそうな気さえする。

 そんな彼女の言葉は、エリーにとって“情報”でしかないような気がした。心で受け止められず、“感想”を抱けない。

 余所余所しさとも言い切れない、だが、壁を隔てた安全圏のような場所からの言葉は、耳に入っては抜けていってしまう。


 もし。

 イオリが、アキラと共にいるときのように話してくれたら、彼女の言葉は響くかもしれないのに。


「―――エリサス」


 今の自分の表情が分からない。

 だが、イオリは訳を聞かないでいてくれたまま、ぽつりと呟いた。


「この旅はいつまで続くんだろうね」


 いつの間にかイオリは、彼女にしては珍しく、姿勢を崩していた。

 ベッドに座ったまま壁に背を預け、指を組んだ手に視線を落としている。


「そろそろ話してみたくてさ。……この旅の終着点を」


 もしかしたらそれは、独り言に近いのかもしれない。

 イオリは遠い目をしているように見えた。


 ただ、終着点と言われると、エリーが思いつくのはひとつだけだ。


「もうすぐ、じゃないですか。……“魔王討伐”」


 するとイオリは、出来の悪い生徒に向ける教師のような笑みを浮かべた。


「そうだね。後世に残る僕たちの旅は、きっと魔王討伐までだろう。今までの伝承も、そこまで伝えられている」

「だったら……」


 言いかけて、エリーは口を閉じた。

 少し、思うところはある。


 今までの99代までの勇者の物語。

 華々しく物語を彩った彼ら彼女らの魔王討伐の旅。

 だが、実際に今、自分たちがそうなるとしたら、物語はそれだけではないはずだ。

 今生きている自分たちの物語は、本を閉じれば終わるものではない。


「“神話”の終着点はそこだろうね。……だけど僕たちは、そのあとどうなるのかな。いったいどこまで続くんだろうね」


 彼女が言う旅は、エリーが感じていたよりもずっと深く思えた。

 人生そのものと言い換えてもいいかもしれない。


「このファクトルが、最後の目的地。それくらいの覚悟で行くべきなんだろう。……だけど、欲が出てきているのかな、その先が気になるんだよ」

「魔王討伐の、後……」


 この旅は、時間にしては短かった。

 エリーにとって、アイルークの孤児院にいた時間の方がずっと長い。

 だが、この面々での旅は、とっくに自分の一部になっている。

 魔王討伐という荒唐無稽な目標を掲げ、がむしゃらに進んできた自分たちは、もうすぐそれを失う。

 その先に待っている自分を、エリーは想像できなかった。


「イ、イオリさんはどうするんですか? 魔王を倒し終えたら」


 思わず、焦って聞いていた。

 今のイオリは、エリーが感じたことが無いような様子だった。

 ただの雑談なのかもしれない。だが、初めて本心で話してくれているような気がした。


「…………。そうだね。魔術師隊に戻るかもしれないな。その先までは流石に考えてないけど」


 その言葉で、エリーは何故か胸を撫で下ろした。

 イオリはこの世界で生きていくことを考えている。そう聞くと、妙に胸が軽くなった。


「エリサスは?」

「あ、あたし、は、えっと、そうですね……」


 前は簡単に答えられていたはずの夢が、口から出ていかなかった。

 魔術師隊に入り、素敵な出逢いをして、いずれは孤児院を継ぐ。

 漠然と思い描いていた夢は、いつの間にか形が変わっているような気がする。


「ふ。やっぱりアキラと?」

「っ」


 びくりと身体が震えた。精神がようやく正常に戻ってきたらしい。感情が跳ねた。


「ほら、婚約しているって」

「そ、それ、誰から、誰が漏らしたんですか……!?」

「アキラから聞いたよ」


 あの男。

 エレナに散々からかわれてから強く口止めしたというのに、どこまで口が軽いのか。

 本人も知られたくないような話だろうに、よくもまあイオリに話したものだ。


「“魔王討伐の報酬”。それで破棄するって聞いたけど」

「……使いますよ」


 低い声で肯定した。この旅の前提だ。今さら覆るものではない。

 だがその反面、イオリに内心むっとした。

 彼女が聞きたかったのは、結局のところ、自分とアキラが婚約を解消するかどうかだったのだろう。


「……そうか。じゃあアキラはどうするんだろうね」

「え?」


 イオリの続く言葉に、エリーは予想が裏切られた。

 言葉だけを捉えればわざとらしくも思える。


 だが、イオリの口調は、アキラを“完全な他人”と扱っているように思えた。


「同じ異世界から来た僕は、幸いにもこの世界で生活する術を持っている。でも、彼はそういう器用さは無さそうだ」


 アキラ曰く、この世界は異世界来訪者に優しいらしい。

 だがその優しさは、魔王を倒したあとも続いてくれるのだろうか。


 確かに、魔物を倒す旅は続けることは出来る。

 魔王を討ったとしても、世界中の魔物が消えるわけではない。町や村には依然として被害が出る。

 イオリが魔術師隊に戻れるように、魔王を倒しても、魔物との戦いは終わらない。


 そうした“旅の魔術師”を生業とする人々もいるが、何しろ“あのアキラ”だ。

 例え壮絶な力を持っていたとしても、誰かしら傍にいなければ3日で野垂れ死にしてもおかしくは無い。


「こんなのはどうかな? 魔王討伐の報酬。それを、アキラを元の世界に戻す、なんてことにするのは」

「っ」


 彼の未来設計を頭の中で組み立ては崩していたエリーは、不意を突かれて息を止めた。


「そ、そんなの」

「いやいや、そういう解決方法もあるんじゃないかって思ってね。アキラがこの世界から去れば、婚約なんて当然解消できる。彼も元の世界の生活に戻る。万事解決じゃないかってね」

「それは、…………その、そうなんだろうけど、本人が嫌がりますよ。あいつ、この世界好きみたいだし」


 エリーは食らいつくように言葉を吐き出した。

 確かに、イオリの言うことも分かる。

 異なる世界を行き来する方法など何ひとつ分からない。

 だが事実、この世界には異世界来訪者という存在が認められている。

 それを考えると、その移動には神族が介入しているとしか考えられない。

 ならば、その神族に願うのはありだ。


 だがアキラは、この世界を本当に楽しんでいる。

 やれご都合主義だなんだと騒いでいるのは鼻に突くが、いつも、笑ってくれている。


「でも、彼が勇者でなくなれば、この世界の優しさは彼に向くかどうか分からない。安定した職に就くというのもいいかもしれないが、少なくとも魔術師隊は難しいかもね。失礼だとは思うけど、彼が試験を突破できるとは思えない」


 それについては、まさに失礼だろうが、完全に同意できる。


 これまでの旅で、アキラは成長し、ある程度の知識は吸収している。

 だが、あくまで実践向きで、むしろ魔導士試験の方の趣旨に近い。

 単純な基礎学力を求める魔術師試験はアキラに相性が悪すぎる。

 そしてもっと根本的に、彼はこの世界の文字が書けない。


「短絡的なアキラはすぐには分からないだろう。だけどもし、予想通りになってしまったら、彼はいつか後悔する」

「そんなの、分からないじゃないですか」

「そう、可能性の話だからね。だから、“後悔するのもあり得るだろう”。歴代勇者の中には神族に願いを叶えてもらって幸せな人生を送った人もいたそうだけど、その特権の使い道はもう決まっているんだろう?」


 エリーはイオリに責められているように感じた。

 自分たちは、本当にばかげたことにその特権を使おうとしている。

 心に決めたときは、人生すべてが賭かった重大案件だったはずなのだが。


「それに」


 イオリは、ごくりと喉を鳴らした。


「僕もそうだけど、元の世界の記憶は曖昧だ。まるで、元の世界への愛着を損なわせるように。……もし、それを取り戻したら、アキラは―――」

「かっ、関係ない話です!! あたしには!!」


 想像以上の声が出た。

 思わず立ち上がったエリーを、目を丸くしたイオリが見上げてくる。

 恥ずかしさがこみ上げ、今にも走り出したくなってきた。


「……す、すまない、そういうつもりじゃ」

「あ、いえ。あたしこそ、その」


 イオリは今気づいたように姿勢を正した。

 狭い部屋が一層気まずくなってくる。


「やっぱり相当まいっているみたいだ。……僕も疲れているのかもしれないな。忘れてくれ」


 深い意味はきっと無かっただろう。

 だがエリーは、イオリとの会話で、胸の奥をかき回されたような気がした。


 見えもしない、しかし着実に近づいている未来。

 エリーはそれを考えるのが、どうしようもなく怖くなった。


「どうもエリサスくらいしかこういう話を出来ないと思ってね。すまなかった」

「いいんです、本当に。ちょっと、……いえ」

「?」


 口を噤んだ。少し、嬉しかったかもしれない。

 イオリとこういう話をしたのは初めてだった。


 確かに、イオリにとってみれば、ティアがやたらと絡んでいるのは別として、アキラを覗けば一番話しているのは自分だ。

 イオリにとってこういう話をする相手はエリーが適任なのかもしれない。


「……あ、あの」


 そこで、エリーはひとつ気になった。

 イオリも異世界来訪者だ。

 彼女が口にした通り、元の世界の愛着が削り取られているのかもしれない。

 それがもし、魔王討伐した未来、蘇ることがあれば、彼女の選択はどうなるのだろう。


「イオリさんは、元の世界には?」


 イオリはすでに落ち着きを取り戻していた。

 エリーからの問いに、顔色ひとつ変えなかった。


「僕は、帰らないよ。多分ね」


 エリーの問いの真意を分かっているような様子だった。

 今の感情が、魔王討伐のあとも続くかは分からない。だが、イオリはそれを踏まえた上で答えているような気がした。


「この世界には、……そう、2年もいたんだ。むしろこっちに愛着もある。……サラもいるしね」


 サラというのは、モルオールで出会った魔術師だ。

 イオリの部下でもあり、そして、親友でもあるらしい。


「でも、元の世界にはご家族もいるんじゃないですか?」

「ああ、両親がいるね」


 軽い口調だった。

 イオリの中の天秤が、どちらに大きく傾いているかそれだけで分かる。


「……あ、あいつが、帰るとしてでもですか?」


 エリーは禁断の扉を開いたような気がした。

 興味と後悔が入り混じる。


 エリーから見て、アキラとイオリの距離は近い。

 そしてそのときのイオリは、より一層自然に見えるのだ。


 思えば面々を見渡せば、誰もがアキラに惹かれている。

 その理由も、想いの名前も、共通したものではないかもしれない。


 だが、なのか、だから、なのか。

 エリーは、アキラとイオリの様子に、胸が締め付けられるような感覚を覚えていた。


「……多分、勘違いしているよ」

「え?」


 イオリは、苦笑していた。

 よく見る表情だ。だが、何かが違うような気がした。


「アキラとはよく話す。それに、面白いと思うのは確かだ。元の世界でも会ってみたかった、とは思うくらいに」


 イオリは、苦笑したまま、表情を変えない。


「でも。僕はさ、……多分」


 日が落ちてきたのだろうか。

 狭く、埃の匂いのする部屋が、一層暗くなった気がした。


「アキラのことが、嫌いなんだと思う」


―――**―――


 結局あれから、エリーがアキラとまともに話す機会は訪れなかった。


「馬車って誰か操縦できるのか?」

「自分とイオリさんが交代で……、ああ、サクさんもできるんすよね?」

「ああ、多少はな」

「じゃあ3人で交代っすね」


 3日後。

 “勇者様御一行”はファクトルに続く荒野に立っていた。

 聞いていたより大したことがなかった砂嵐もすっかり晴れ、早朝の日差しは、先ほどまで暗い室内で荷造りしていたエリーの目には厳しかった。


 馬車の操縦などいつの間に覚えたのか、自らの妹に幾度となく覚える誇らしさを頭の隅に追いやり、エリーは馬車に積み荷を積んでいた。

 砂対策の分厚い外装や、大きく丈夫な車輪、4頭の馬が備わった立派な馬車だが、中は7人と積み荷で狭苦しそうだ。早速支部の部屋が恋しくなってくる。


 自分たちは、今からこれに乗って禁忌の地、ファクトルに入ることになる。

 ようやく実感が湧いてきたのか、エリーは大きく息を吸い込み、まとわりついてきた砂のせいでむせ返った。


「わああ……、わあ……!! あ、あの、ちょっとやってみてもいいですかね?」

「ねえ、縄は無い? ちっちゃい子供ひとり縛り上げられるくらいの」

「エレお姉さま!?」


 馬車の操縦席に食いついていたティアに、エレナが冷え切った声を突き刺している。

 ティアのことはエレナに任せるのがいいだろう。彼女が馬車の操縦席に乗ろうとしたらまさに縛り上げて欲しい。


 エリーは最後の荷物を積み終わると、今度は砂を吸い込まないように息を大きく吸って吐いた。


「……ふー」


 口を閉じていないと、すぐにじゃら付いた舌触りを感じる。

 ぱらぱらと、砂が頬を打つ。

 息を吸うのも億劫だ。


 集中しないと。


 思い思いの準備をしている面々を横目で眺め、エリーは呟いた。

 いざ出発となった今、少しは面々の表情も強張っているようだが、最高潮には達しえない。


 面々の向こう、支部の建物の前で、数人の魔術師たちとイオリが話していた。

 質素な見送りだが、魔術師たちからはぴりぴりとした空気を感じる。彼らにとって、ファクトルに入るというのはそういうことなのだろう。

 それなのに、こちらはまるで、観光にでも行くような雰囲気だ。


 そしてそれは、エリー自身もだった。

 今は、魔王討伐より―――魔王討伐“など”より、3日前のイオリの言葉が耳に残って離れない。


 集中しないと。

 エリーはまた強く念じた。


「よし、出発だ」


 話は終わったのか、イオリが自分たちの元へと駆けてきた。

 その後ろでは、魔術師たちが少ない声援を上げている。

 エリーは会釈して、軽く自分の頬を叩いた。


「アキラ」

「……」


 近寄ってきたイオリは、アキラに目配せをし、頷かせた。

 あのときの話の確認だろうか。

 やはりイオリの様子を見ていると、3日前の言葉が分からなくなる。


「さあさあいよいよですね!! アッキー!! 出発前に!!」

「へ?」


 さっそく馬車に乗り込もうとしていたアキラを、ティアが止めた。

 眠ろうとでもしていたのか、アキラは面倒くさそうに振り返る。


「士気を挙げていきましょう!! さあさあ、勇者様のお言葉だぁっ!!」


 ティアはピクニック気分の代表格だろう。

 エリーも鼓舞自体の重要性は感じるが、ティアの表所が晴れ晴れとしているせいで、宴会の前座のようにすら見えなかった。


「ううん……、ええと……」


 一応、全員の視線はアキラに向いた。

 だが、誰ひとりとしてその場からわざわざ動かず、呆然と言葉を待っていた。


「か、勝つぞっ」

「……」


 しばしの沈黙が場を支配した。

 何も考えていなかったことが浮き彫りになるようなアキラの言葉だったが、エリーは何も思わなかった。そもそも何も期待していない。


「おっ、おおおぅっ!! おうさっ、私にっ、ま、か……-――っひぃぃぃいいい!? エレお姉さまっ、今は良いじゃないですかーーーっ!!」

「黙りなさい」


 唯一の味方になりそうだったティアすら、掴みかかろうとしたエレナから命からがら逃げ出していく。

 嫌になるほどよく見る光景だ。

 全員が全員で、“日常”にいる。


 こんな場所だというのに。


「……はあ。ま、行きましょうか」


 エレナが呟き、馬車に乗り込んだ。

 面々が、それに無気力に続く。

 あるいはそれが緊張ゆえの沈黙だったら、望ましかったのかもしれないが。


「ま、いいか」


 エリーも馬車に乗り込んだ。

 こうした緊張感が無いのも、もしかしたら自分たちの特徴というやつなのかもしれない。

 そう考えると、普段通りに、普段通りの力を振るえるような気がして、少しだけ気が楽になった。


 話によると、今回は探索だけで終わるかもしれないのだ。

 移動するという魔王の牙城は、とっくの昔に目撃証言のあった場所から去っているだろう。

 随分と積み込んだ食料も、7人で消費していればあっという間になくなるはずだ。これらが半分になったら、またこの場所に戻ってくることになる。


 だから、エリーの注意は、むしろ別に向いていた。

 他の面々も似たようなものだろう。


 だから。


「行くよ」


 最初の操縦を務めるイオリが、乗り込んだ面々に声をかける。

 面々は、思い思いに、ばらばらに、それに適当に応じる。


 緊張感のない面々。


―――それが多分、よくなかったのだろう。


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