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第14話『儚い景色(後編)』

―――**―――


 サーシャ=クロラインが最初に明確な攻撃を仕掛けたのは、モルオールだった。

 同じ魔王直属のリイザス=ガーディランを討伐したという、ヒダマリ=アキラ率いる勇者様御一行。

 関心が向くのは道理だった。


 人々は悩みを持つ。

 その悩みは自分を蝕み、だから逃れようと挑み、悩み、自分だけの答えを出す。


 “だから思い通りになる”。


 サーシャにとってはいつも通りの光景だ。

 どれだけ小さくてもいい。

 その場に遭った悩みを“解決してあげようとすれば”、結果として望み通りになる。

 モルオールの魔術師隊の副隊長、カリス=ウォールマンは、まるでチェスの駒を動かすように操られ、ヒダマリ=アキラ一派に襲撃を仕掛けてみせた。


 仕掛けは十全。“駒”は、十分に相手の戦力を削り、十分すぎるほどの情報をサーシャにもたらした。

 あとは、精も根も尽き果てた彼らに襲撃を仕掛けるだけ。

 その、はずった。


 戦場となった空洞すべてを塗り替えるほどの力の波動。

 無限をも感じさせる魔力。

 およそ人間に許されるはずの無いその壮絶な光景に、サーシャは満身創痍のはずだった獲物を取り逃さざるを得なかった。


 そうして、“思い通りにならなかった”。


 屈辱的なその結果に、サーシャはしかし努めて、努めて冷静にヒダマリ=アキラ一行を付け狙うことになる。

 探り、図り、謀り、そのときは訪れた。


 罠の口は間もなく閉じる。

 そしてようやく、“思い通りになる”。


 何者も、逃れようなく。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 目もくらむような銀の世界。

 天井、地面、壁、その総てが魔力の光で照り返しむせかえるほどの熱気が湧き上がっている。

 ヒダマリ=アキラは、しかし、身震いした。

 触れれば切れる、心の底が凍えるような空気に、身動きが取れなかった。


 現れたサーシャ=クロラインという魔族は、美しかった。

 かつて遭遇した同種であるリイザス=ガーディランの魔人のような強大な身体つきと違い、サーシャはより一層人間に近しい姿をしている。

 背中に垂らした金の長髪も、身に纏う薄い黒いローブも豊満なボディラインを際立たせ、貌の造形も出来過ぎなほど整い、妖艶に笑う。

 あの女神にも勝るとも劣らないほどの、絶世の美女だった。


 その浮世の存在とも思えるサーシャ相手に、ゆったりとした所作で、半分閉じた眼を向けるマリサス=アーティが、目の前にいる。

 アキラは、目の前の存在が生物としての本能的に恐ろしくなった。

 彼女は、ひりつくほどの熱気の中、その半分の眼に、極寒の殺意を宿している。


 今の彼女の纏う気配は、冷気は、サーシャ=クロラインという魔族などより一層、人外のそれだった。


「フリオール」


 無限とも思えた、しかし息を吐く間もない一瞬の静寂を、マリスが破った。

 アキラも幾度となく助けられている、マリスが操るその力は、解明さえされていない“魔法”だという。

 “自分が宙を舞うのに不都合な外部干渉”を打ち消し、空中で対象の身体を意のままに操作できる。

 魔力を纏った彼女は、月が昇るようにゆっくりと浮かび上がり、流れるような所作で両手を掲げた。


「レイディーッ!!」

「ッ―――ディセル!!」


 その一瞬で、アキラは理外の戦場に迷い込んだことを理解した。

 瞬きする間もなく、マリスの放った目に追えない“何か”が、サーシャが展開した“何か”を吹き飛ばす。

 爆風で身体が吹き飛んだような錯覚を覚えて、ようやくアキラは我に返った。


「っ、っ、はっ、離れるぞ―――って、いねぇ!?」


 先ほどのルーファングのときとは比較にならない戦闘領域の拡大にようやく離脱を決断したアキラが振り返ると、頼もしき仲間たちはとっくの昔に離脱していたようだ。

 見ればこの広間の入り口付近まで移動し、各々更なる爆風に備えて身を屈めている。

 一も二も無く駆け寄ったアキラは転がるようにして身を屈めると、恐る恐る振り返り、自分の判断が誤ってなかったことを確信した。


「っ―――」


 ドッ!! という爆音が轟き続けた。

 何かが吹き飛び、吹き飛び続け、何かが砕け、砕け続ける。


 マリサス=アーティという高速飛行物体は、宙を縦横無尽に飛び回っていた。

 閃光のような速度で飛び回る彼女の軌跡は、光の壁のようにすら見える。

 そして上下左右ありとありとあらゆる位置から、サーシャに向かって銀の矢を息継ぐ間もなく放ち続けていた。

 その一撃一撃が、一撃必殺の威力を誇る。

 さながら戦闘機のように弾丸を放ち続けるマリスは、人間が有する攻撃性能を遥かに超越していた。


 対してサーシャは、流石の魔族とでも言うべきか、その攻撃を凌いでいるようだった。

 マリスも操っているのを見たことがある、銀の盾のような魔術を展開し続ける。

 マリスの言う通り、リロックストーンなるマジックアイテムの影響を受けているのか、その場からの移動は出来ないようだ。

 だがそれでも、生存不可能な領域に存在し続けるサーシャ。


 マリスもサーシャも、アキラが認識できる領域の存在では無かった。


「―――ディアロード」

「!」


 理外の存在が、また理外の行動を起こした。

 マリスの猛攻に慣れてきたのか、攻撃に転じたサーシャが魔法を放つ。


 瞬間、高速で移動していたマリスの周囲に、蛍光灯のような銀の棒がいくつも展開する。

 マリスの銀とは違い、ぎらつくようなその色の棒は、マリスを閉じ込めるように前後左右にずらりと並んだかと思えば、瞬時にマリスとの間隔を狭めていく。

 檻のようなその魔法に、マリスは先ほどのまでの速度が嘘のようにピタリと止まると、鋭く腕を振る。


「ディセル―――」


 マリスが“爆発した”。

 マリスの周囲にサーシャが放った銀の棒の魔法が“閉じる”と、それぞれが強く発光して爆発する。

 サーシャの魔法は、あのリイザス=ガーディランの魔術のように、触れてはならない爆弾のような特性を持っているらしい。

 魔族の魔力で発動したその魔術は、マリサス=アーティを確かに捉え、目もくらむような閃光と共に発動した。


 だが。


「……化け物って言われたことない?」

「よく言われるっすよ」


 戦況は何も変わらなかった。

 盾の魔術を展開し、サーシャの魔法をやり過ごすと、マリスは再び戦闘機となってサーシャに猛攻を仕掛ける。

 銀に光る土煙の戦場は、再び閃光と轟音に支配された。


「…………」


 アキラは目にも追えないマリスを、それでも可能な限り目で追った。

 変わらずマリスが優勢だ。

 理不尽なほどの攻撃を浴びせ続けられ、サーシャはなかなか攻め手に回れない。身動きが取れないというのも響いているのだろう。

 そんな相手に、マリスは微塵にも攻撃の手を緩めない。


 マリスは今、完全に怒っている。

 姉であるエリサス=アーティを手にかけようとしたサーシャ=クロラインという存在。サーシャは、人が当然に持つ悩みを利用して、他者を意のままに操る魔族らしい。

 エリーがマリスに対してコンプレックスを持っていることをアキラは知っている。そして当然、マリスも知っているのだろう。双子でも、あるいは、双子だからこそその根は深い。


 アキラは、実のところマリサス=アーティという少女のことを把握し切れていない。何に喜び、何に悲しみ、何に怒るのか。

 だが、少なくとも彼女は、そうした感情を利用する相手に怒れる人物であってくれた。そしておそらく、エリーにとって、マリスにとって、“よりによって”の感情を利用されたのだ。


 縮小していった自分の怒りは、マリスに気圧されただけではきっと無いのだろう。

 きっとマリスも、同じ理由で怒っている。

 適材適所だ。この敵に、最も怒りをぶつけていいのは、半端なアキラなどより、マリサス=アーティなのだろう。

 絶対的な戦闘力を誇るマリスの適所は、いつも通り多すぎるような気もするが。


「……大丈夫そうか?」


 戦場に意識を置きつつ、アキラは避難してきた仲間たちに視線を向けた。

 サクがここまで運んでくれたのだろう、彼女の腕の中で、エリーはぐったりとしていた。

 意識の無いエリーに、ティアが泣きそうな顔で治癒魔術を放ち続けている。そのお陰か、多少はエリーの顔色が良くなってきたような気がした。峠は超えてくれているだろうか。

 重症そうなのは他にはエレナだった。鋭い目つきで戦場を見ているが、魔力不足はかなり深刻のようだ。それでもアキラよりはずっと戦闘を追えているように見える。彼女も言ったことだが、魔族が出現したとまでとなると、いよいよマリスがいなければ詰んでいたかもしれない。


 こちらの状況を考えれば離脱するべきのような気もした。サーシャが逃がしてくれるかは分からないが、ルーファングとやらの戦闘も超えて全員状態が悪い。

 だが、そう考えると、またふつふつとサーシャ=クロラインという存在そのものへの怒りがこみ上げてくる。

 アキラは沸き立つ怒りに、拳を握り締めた。だがそれも、マリスには及ばないのだろう。

 多少は目が慣れてきて、時折見えるようになったマリスの横顔は、変わらず底冷えするほど冷たかった。


 どの道、サーシャがあの場所から動けないというのは本当のようだ。

 防いでいるだけで見事と言えるが、マリスの優位は変わらない。

 魔族を撃破できるのであれば、情けなくもなるが、このままマリスに討伐してもらった方がいいのだろう。


「…………イオリ」

「……何かな」


 多分、かすれ声だった。戦場の爆音に紛れるように呟いた言葉を拾ってくれたイオリは、同じように戦場を眺めながらアキラの隣に並び立った。


「いや、なんだろう、な。ええと」


 今度は聞こえなかっただろう。

 言葉が上手く出てこない。アキラの頭に何かが引っかかり、それを探ろうとアキラはより一層戦闘を追った。


 リロックストーンとやらの制約によって動けないサーシャ=クロライン。

 いよいよ防戦一方で、マリスの攻撃を辛うじて防ぎ続けている。

 このままいけば、マリスが討伐するだろう。


 だが、やはり、引っかかる。

 マリスは規格外の存在だ。次元の違う力を持っている。

 だがそれを防ぐ魔族もやはり、別次元の存在なのだろう。


 そんな存在が、“この展開を予想できなかったのだろうか”。


 人の悩みを利用するというサーシャ。

 ありがちな心を読む力でも有しているのだろう。

 あのサーシャが自分たちに狙いを定めたのはモルオールのカリス副隊長のときからのようだ。それからもそれなりに旅を続けている。こちらの内情を探る機会はそれだけ多かった。

 となれば、当然マリサス=アーティという規格外の存在を知っていたはずだ。


 マリスがここまでの力を有しているとは思わなかったのか。

 だが、それならば何故、諦めて離脱しないのか。リロックストーンとやらの仕組みは知らないが、勝ち目が無いのであれば元の場所に戻ってしまえばいい。


「……アキラ、どうしたんだ?」


 応答の無いアキラに、イオリが眉を寄せる。

 だが、アキラの鼻腔にこびり付く戦場とはまた違った危険な香りが、言葉を詰まらせた。


 言ってしまえば、嫌な予感がする。それだけだ。

 だが、それを説明できる気がしなかった。


 考えろ。

 いつも答えに辿り着かない自分の浅い思考でも、感じ取った感覚は本物だ。


 そもそもあのサーシャという存在がやったことは何か。

 エリーを狙い、あるいはエレナにも囁き、危険な秘術に導いた。

 カトールの民の恐怖を煽り、何故かこの場所に自分たちを集めた。

 元は小さな魔物にマジックアイテムを使い、強大な魔物に変貌させた。

 そしておそらく、この洞窟を崩すように魔物に指示を出したのもサーシャだ。


 狙いはエリサス=アーティ。

 それなのに、改めて考えると行動が無秩序に思える。エリーを狙うなら、自分たちを集める必要などまるでない。

 考えたくはないが、導いた通りに秘術をやり遂げた方が、彼女の生存率は下がるのだから。


 ならば、狙いは。


「レイリス!!」


 一向に変わらない戦闘に変化が生じた。

 防ぎ続けるサーシャに業を煮やしたのか、マリスは下級魔術から中級魔術へ切り替え、一度に射出する銀の矢の数を増加させる。

 唸るように幾十、幾百の銀の閃光が暴れ回ってサーシャに襲い掛かる。

 だが、それでも守りに徹する魔族の防御は固いのか、また防がれていた。


 嫌な予感も手伝って、アキラにも焦りが生まれる。

 サーシャはいつまで凌ぐつもりなのか。

 だが、そこでアキラはマリスに視線を向けた。


 あれだけの殺意を持っていたマリスは何故、今まで下級魔術に頼っていたのか。

 激昂しても冷静に戦力分析をしていたのだろうか。


 あるいは。

 “彼女も無意識に魔術を小出しにしていたのか”。


 アキラは無意識に、見慣れた銀に輝く洞穴の天井を見上げる。

 アキラの危機感がピークに達するのと、それは同時に起こった。


「―――づっ!?」


 マリスの飛行速度が極端に落ちた。

 嵐のように襲い掛かっていた彼女の閃光は途切れ、目まぐるしく飛び回っていた彼女の身体はふわふわと宙に浮くだけとなる。


「……器用ね、本当に起用。魔族と戦闘しながら、“別のこと”に魔力を避けるなんて」

「―――ディセル!!」


 サーシャが放った銀の棒の魔法を、マリスは辛うじて凌いだ。

 だが、マリスは先ほどのように攻撃には転じられず、頼りなくふわふわと宙を舞うことしかできていなかった。

 マリスの表情には困惑の色が浮かんでいる。

 だが、アキラには、おぼろげに何が起きたのか理解できた。できてしまった。アキラが無意識に、前提としていたものが、覆ったのだ。


「……嘘でしょう、その顔。本当に分かってないみたいね。じゃあ、やっぱり初めてなのね。……“魔力が切れるとそうなるのよ”。―――ディアロード!!」

「づっ」


 再びマリスを囲う“檻”が展開する。

 反射的に手をかざして防ぐも、その衝撃にマリスは宙を舞った。万全の彼女であれば微動だにしなかったはずの攻撃に吹き飛ばされるのは、彼女の状態を明確に表していた。


「あら、本当に嘘でしょう。まだ耐えるのね。……ふふ、素敵よ素敵。“あなたかこの洞穴のどちらかは崩れると思ったのに”」


 納まり始めた土煙の中、久方ぶりにまともに姿が見えたサーシャは妖艶に嗤う。

 そのサーシャからアキラたちを庇うように、マリスはふらふらと宙を漂い、ゆっくりと下降してきた。

 身体は小刻みに震え、マリスは未知の感覚に襲われている。


 アキラはいよいよもって自分の愚かさを痛感した。

 なにが無限の魔力か。マリサス=アーティも人間だ。当然、限界だって存在する。

 マリスはここに来てからずっと戦い続けていた。

 いや、それどころか今なお“崩れていたはずの洞穴”を支え続けているのだ。

 理外のものだろうが、理外の中で、秩序がある。

 自分と縁遠い存在だと諦めなければ、分かるはずのことだったというのに。


「ち。日輪月輪にはあんまり触りたくないんだけどね……。言ってらんないか」


 マリスの様子に、エレナが毒づいて立ち上がろうとした。

 “戦況”を最も理解しているのは彼女だ。

 マリスが限界を迎えたとなると、あの魔族に対抗する必要がある。

 エレナは周囲から魔力を取り込むことが出来るはずだ。マリスに比べれば余力はある。

 マリスに負担をかけた分、ここから先は、自分たちが魔族に挑まなければならない。


「“さあどうなるでしょうね”。―――ディアロード」

「なっ……!?」


 サーシャが呟くと、眼前一杯に大量の銀の棒が展開した。

 マリスの姿が一瞬で見えなくなる。

 この魔法は、言わば出現場所を問わない爆弾だ。

 サーシャはこの洞穴中に展開したのか、四方総てが銀の棒に囲われる。


「ティア!! 伏せてろ!! ―――っ、らぁ!!」


 何も考えずにマリスとの戦闘を見えていたわけではない。

 どうせこのあと接近してくる。アキラはエリーとティアに被害が及ばないよう踏み出すと、複数本まとめて斬り飛ばした。

 ドンッ、と身体の芯から揺さぶられる衝撃があった。だが、単発の威力はさほど無い。幸いにも誘爆もしないようで、大した脅威では無かった。

 だが、斬り割いた先、まだまだ銀の棒が壁のように押し寄せてくる。

 それを見たサクが即座に動いた。遅れれば遅れるほど銀の棒は迫ってくる。疾風が衝撃に弾かれたアキラの脇を抜けて駆けていく。

 触るだけで爆発するのであれば彼女にとっては対処が容易なのだろう。アキラの挙動ひとつに対して二手三手動けるサクは、手当たり次第に駆け回って銀の棒を斬り割き、接近を許さない。


「アキラたちは右方を頼む!! エレナはふたりを守ってくれ!!」


 口早に叫んだイオリは短剣を抜き、銀の棒を迷うことなく斬り飛ばした。

 サクほどの速度は無いが、彼女は銀の棒を、その爆発をものともせずに処理していく。

 魔力的な影響を受けにくい土曜属性を有するイオリにとっては、魔術攻撃に周囲を囲まれたところで何の脅威も感じないのだろう。

 ちらりと横目で見ると、エレナは億劫そうに自分たちが打ち漏らした銀の棒を手で払いのけていた。魔力影響を受けにくいどころか吸収さえする木曜属性のエレナにとっても、魔族の攻撃とはいえ大した問題にはならないらしい。


 気付くといつも、周囲が自分よりもずっと上手くやっている。

 慣れ親しんだ光景に歯をくいしばって耐えると、アキラは強引に斬り込んで爆風に身を躍らせた。

 こうなってくると気がかりなのは姿が見えなくなったマリスだ。疲弊したマリスは、この銀の棒をやり過ごせているだろうか。


「……!?」


 銀の棒の処理を続けるアキラの耳に、激しすぎる爆音が聞こえてきた。

 音は次第に衝撃となり、接近してくる。


 痺れ始めた腕に構わず銀の棒を斬り飛ばしながらアキラは身構えた。

 サーシャが次の手を打ってきたのかもしれない。

 だが、目の前の銀の棒の壁が“向こう側から吹き飛ぶと”、見知った顔が、いや、知らない顔が姿を現した。


「にーさん!!」

「マリス!?」


 アキラの胸に飛び込んできたマリスは、慌てた様子で周囲を伺う。

 目を見開き、荒い呼吸を繰り返すマリスは、ようやく状況を把握できたのか、いや、できなかったのか、困惑した様子で面々を見渡した。


「マリス、マリスおい、大丈夫かよ!?」

「はっ、はっ、はっ、なっ、なん、で……」


 彼女は、限界を向かえていた。

 いつもの漆黒のマントも至る所が焦げ付き、彼女の身体は、異常なまでに軽かった。


「なん、で……、“無事、なんすか”?」

「え……?」


 彼女は、突貫工事のようにこの洞穴に展開した銀の棒をまっすぐ突き破ってここまで現れたようだ。

 ひとつひとつの威力は知れていても、そんな行動を取れば爆風が息継ぐ間もなく身を襲う。

 ただでさえ疲弊していたマリスがそんな無茶な行動を取ったのは、“アキラたちの身を案じてのことだった”。


「!! 天才ちゃん!! あんた今すぐ休みなさい!!」

「は、は、ははは、ははははははっ!!」


 エレナの怒声と、サーシャの狂ったような笑い声が響き渡る。

 サーシャは美しい。

 その美貌を惜しげも無く晒し、この上の無い悦楽を感じているかのようなその笑みは、異常なまでに醜かった。


「そうよ、そう。私を殺したい。私を自分が殺したい。……自分以外では殺せない。だから自分以外は私に殺される。……“だから思い通りになる”」

「! マリサス!! この洞穴はいつまで保つ!?」


 イオリが叫んだ。

 アキラが抱えるマリスは、ほとんど力が入っていないようだった。

 熱に浮かされたようにアキラを見上げる彼女の半分の眼の色は、上からは分からない。


「エリサスたちに秘術をそそのかしたのは何があっても最奥に辿り着かせるため。カトールの民に依頼を出させたのは時間差で僕たちをここに呼び込むため。洞穴を崩したのはマリサスに、そう、マリサスに維持させるため―――“マリサスが狙いだったのか”……!!」

「は、ははっ、そう、そうよ、はは、ははははははっ!!」


 サーシャは耳障りに嗤い続けた。

 アキラもようやく理解した。マリスはすでに限界を超え、いつ倒れ込んでもおかしくは無い。

 マリスを挑発するような手法を取ったのも、この状況を作り出すためだった。

 そして彼女が倒れれば、“ついで”に、自分たちはこの洞穴に生き埋めとなる。


「光栄に思いなさい。惚れ惚れするわ、あなたの“このフリオール”。洞穴すべてを支え続けるなんて。1秒1分、どれほど魔力を消耗するのかしら? まあ、これくらいは出来ないと、計った甲斐もないけれど」

「……! あのときのはテストか……!!」


 サクが睨んだ。重い辺りがあるようだ。

 マリスが当たり前のように支えているこの洞穴は、超常現象とも言うべき事象である。だがそれすらも、サーシャにとっては想定通りのことだったらしい。


「ああ、もう駄目、駄目、笑っちゃう、嗤っちゃう。愉快過ぎで狂いそう。ほらほら続けましょう、マリサス=アーティ。今まで気にもしなかった自分の限界を迎えた可愛いマリスちゃん。そうしなきゃ、“そんな雑魚たちは私に殺されちゃうんでしょう”?」

「……! マリスにも“囁きやがったのか”……!?」


 マリスが今、決死の覚悟でアキラたちの元へ来たのは、この銀の棒の魔法をアキラたちでは対処できないと考えたからだ。

 残り少ない魔力を絞り出し、肉体的にも負傷して、死に物狂いでアキラたちを守りに来た。

 実際は、自分たちでも十分に対処できた攻撃だった。

 それでもマリスは、いつも通り、まさしく魔法のように、すべてを自分でやり遂げようとしたのだ。


 旅の中、マリスは常に完璧な戦果を上げていた。

 そして今回も、当たり前のようにすべてをこなしてきている。

 樹海の魔物の戦闘から始まり、洞穴総てを支える魔法、ルーファングとの戦い、アキラたちの治癒に、サーシャとの連戦。

 当然あるはずの限界を意識させない彼女は、きっとひとりで戦い続けてきた。


 そんな彼女からすれば、特にアキラなど、民間人と変わらないだろう。

 多少は力をつけたと思っていたというのに、超人たるマリスから見れば、微々たる変化でしかない。


 そんなアキラは、もちろんマリスには信用されないのだろう。

 ともすれば、見下されているかもしれない―――


「……?」

「……、へえ。……気づけるのね、日輪属性は便利ね」

「っ、てめぇ……!!」


 黒い思考を弾き飛ばすようにアキラは怒号を上げた。

 今のがサーシャの“囁き”とやらか。


 まるで連想ゲームだ。

 物事に表と裏がある以上、考えようとすれば黒い思考に辿り着く。

 マリスもそうだ。サーシャに囁かれ、無駄に消耗させられた。


「“支配欲”」


 サーシャはうっとりと、自分の欲を口にした。


「誘導したい黒い思考に、“本人が辿り着く”その光景は、何度見てもたまらない」


 マリスの肩を、力強く抱き寄せてしまった。壊れないだろうか。


「さあ、どうするの? 逃げる? お勧めよ。私は十分楽しませてもらったし」


 安い挑発だった。サーシャの狙いはマリスをはじめとする全滅だ。

 冷静に考えれば逃げるべきなのだろうが、サーシャに多少は誘導されているのか、逃げる気がまるで起きない。


 本当に、“助かる”。


「……イオリ。一度くらいは見たいって言ってたよな」

「ア、アキラ……?」


 策を尽くしたサーシャ。エリーやマリスを陥れた。

 自分が抱いている感情が、最早怒りかどうかも分からない。

 燃えるような何かが身体を突き動かし、頭の中は酷く冷たかった。


「あら? 見せてくれるのかしら? 勇者様のお、ち、か、ら」


 マリサス=アーティという最大の障害を越えたサーシャは、一層飄々としていた。

 だが、やはり知らないらしい。

 こちらの“最強カード”の存在を。


「……殺す」


 アキラの手のひらが、オレンジの光を放ち始める。

 久しぶりの感覚だった。

 やはりこの力には、絶対の信頼を寄せていい。


「な、なに……?」


 サーシャの表情が僅かに強張った。

 マリスさえも退けた凶悪な魔族。その力は常軌を逸したものである。

 だが、その理外の中にも、明確な格付けが存在する。


 これから始まるのは単純作業だ。

 物語にすらならない、下らない殺戮行動。


 気になるのはせいぜい、サーシャが戦闘不能の爆発をするときのことだ。


「イオリ。あいつが今から死ぬ。何とかしてくれ」

「あら? ずいぶん強気ね」

「好きに言えよ。本当に下らない終わり方するからな」


 そこで、つ、と、裾を引かれた。


「……いいっすよ、にーさん」

「マリス?」


 抱きかかえたままだったマリスが、ふらつきながら身を起こした。

 そしてよろよろとアキラの隣に立つ。


「……。ふ、そうね、そうね、マリスちゃん。まだまだやりたいわよね?」

「にーさん。自分、本当にそういうつもりじゃないんすよ」


 サーシャの挑発を、マリスは聞いていなかった。

 顔を伏せ、マリスはぼそぼそと呟く。


「旅をしてきて、本当に分かった。自分は、誰かと組むのは向いていない。自分でやった方が、ずっと早いから。……でも、信頼して無いとか、そういうことじゃないんす」

「……あ、ああ」


 アキラの、怒りのような何かの感情は、またマリスに止められた。

 エリーがアキラを衝撃的に突き動かす少女だとするならば、マリスは逆に、アキラを落ち着かせる少女のような気がした。


「やり過ぎなのか、やらな過ぎなのか、そういうことが、自分には分からないんすよ。……だから、どうしたって、勝手に見えるかもしれない。でも、それは周りを嫌っているわけじゃないんす。みんなにも、分かって欲しい。……“自分が異常”。それは分かってるんす」


 天才と言われる妹を持つエリーの悩みをアキラは知っている。

 だが、天才と言われる本人の悩みは、アキラには想像もできなかった。彼女も何かに苦しんでいる。

 その片鱗に触れられたような気がして、アキラは言葉を失った。


 そして。


「だから、にーさん」

「……!」


 アキラはまた、凍り付く羽目になった。

 ずっと見えなかった、マリスの半分開いた眼。

 疲弊し切っているはずの彼女のその瞳には、かつてないほどの活力と、毒々しい殺意が浮かび上がっていた。


「今からの“これ”は、にーさんたちを信用してないんじゃなくて……」

「マ、マ、リス……?」


 アキラは今日一番の恐怖に襲われた。

 銀に輝く洞穴の光が、マリスの周囲で不自然な気流を作り始める。


「“これ”は、個人的な報復なんす」


 マリスが掲げた小さな右の手のひらに、漂う光が凝縮していく。

 魔術攻撃かとサーシャが一瞬身構えるも、集まる光はマリスの手の中に留まり続けた。


 未知の行動。だが、アキラにとっては“既知”だった。


「アキラ、離れろ!!」


 ぐいと身体がイオリに引かれる。

 アキラもその場に立っていることの危険性だけは理解できた。


 今から起こるのは―――理外の“何か”だ。


「“具現化”……!! できるとは思ってたけど」


 イオリに強引に引かれた身体は、流れるようにエレナが庇ってくれた。

 多少は回復したらしいエレナは、先ほどのサーシャの攻撃よりもマリスの行動を警戒する。


 流れる光は徐々に規則性を持ち、マリスの手に“何か”を形作っていく。

 それはそうだ。

 ヒダマリ=アキラが出来るのだ。マリサス=アーティに出来ないわけがない。

 自他共に認める異常者―――マリサス=アーティ。

 彼女もまた、理外の世界の格付けでも、遥か上位の位置に座している。


「―――、」


 マリスが手を握れば、まるで最初からそこにあったかのように、“杖”が現れた。

 彼女の身の丈ほどのそれは白銀で、先端に天使のような純白の翼が広がっている。

 先端には三日月を模した鋭利な深い銀の鎌が備わり、形状だけなら槍とも表現できそうだった。

 だが、そんな凶器など、鈍いアキラの頭にすら警鐘を鳴らすおびただしい魔力の前では、装飾品以外の意味を持たない。


 あまりに精緻で、美しく、そして、あまりに危険なその杖を、マリスは構えた。


「―――レゴルトランド」


 アキラにとって、自分以外の“具現化”を見たのは初めてだった。

 マリスは、普通の杖では自分に耐え切れずにすぐに壊れると言っていた。

 あの杖こそが、彼女の膨大な魔力を受けても損壊しない、唯一無二の彼女の装備なのだろうか。


「…………“固定ダメージタイプ”?」

「違うっすよ。“魔力依存型”っす」


 その超常現象を前に、サーシャは眉を寄せ、マリスはのんびりと応じる。

 操るアキラも、“具現化”というものについてはほとんど知らない。


「あっさり言っているけど、それじゃあ意味ないこと分かってる? 限界なんでしょう?」


 一方で、サーシャは“具現化”にも見識があるのか、余裕を持ち始めていた。

 マリスの“具現化”は、魔力に依存して力を増すもののようだ。

 疲弊しきったマリスにとっては、今さら出しても気休め程度にしかならないのかもしれない。

 だがマリスは、まるで気にせず、それどころか先ほどのアキラのように、“すでに戦闘が終わっているとさえ思っているようだった”。


「嘘じゃないっすよ。ちゃんと依存する。……だからほら、“魔力ならあるじゃないっすか”」

「―――ディアロード」


 マリスの異様な雰囲気を感じ取ったのか、サーシャは先手を打った。

 またもマリスを囲うように銀の棒を出現させ、間をおかずに即座に収縮させる。

 だが、そんな攻撃は、“ついでに凌がれた”。


「―――、」


 マリスが軽々と杖を振ると、マリスを襲っていた銀の棒の檻は愚か、周囲に漂っていた銀の光さえ消失した。

 この洞穴は今までの戦闘の結果、魔力が充満している。

 だが、マリスの振るった杖が、そのすべてを吸い込むように消失させた。


「……危なかったっすね。洞穴にかけたフリオールも消しかねなかった」


 呟くマリスに、サーシャの表情が変わった。

 サーシャは理解したのだろう。自分が放った魔法が、周囲の魔力が、どこに消えたのかを。

 マリスの持つ杖の先端の三日月が、半月に近づいたように見えた。


 マリスは、その先端を、サーシャに向けた。


「エレねーみたいに自分の力には変えられないっすけど、杖の力には変わるんすよ」


 ヂヂ、と、杖の先端が、稲光のように光を漏らす。

 サーシャが鋭く足元を睨んだのがアキラには見えた。


「レゴルトランドは、“魔力ブースター”。ちゃんと依存する……少ない魔力でも、“十分殺せる”―――」

「っ―――」


 サーシャが、全力で足元のリロックストーンを踏みつけた。


「レイディー」


 銀の光が、音も無く洞窟の銀の岩盤を撃ち抜いた。

 アキラのような世界を飲み込むような砲撃とは違い、槍のように鋭い、レーザーのような一閃。

 たかが低級魔術のそれは、あまりに静かに、通過した物体を消失させて走っていく。

 ヨーテンガースを囲うベックベルン山脈すらも貫いていったかもしれない。


「……逃げられた、っすね」


 マリスの冷え切った眼は、サーシャが直前に砕いたリロックストーン向いていた。

 砕けて大地に溶けるように消えていくそれを、感情の無い表情で見つめながら、ゆっくりと息を吐き出した。


「……戻った方がいいっす。そろそろ、支えきれなくなる」


 自分の銀一色になった世界で、マリスは小さく呟く。


 大騒動となった、魔族の襲来。

 その結末は、あまりにあっけなく、静かだった。


―――**―――


「―――、」


 それを聞いたのは、久しぶりだった。


 浅い眠りに就いていたらしい。

 月明かりだけが窓から差し込める宿の自室で、アキラはゆっくりと目を開けた。


 サーシャ=クロラインを退け、戻ってきたカーバックルは、拍子抜けするほど呑気な街並みで出迎えてくれた。

 すべてが夢だったのではないかと思うようなアキラたちの激闘も、彼ら彼女らの知らない場所で起き、知らない場所で終わったことだ。

 だが、そのときに覚えた、胸の芯に纏わりつく、苦々しい毒のような感覚が、まどろんでいたアキラにもまた、現実感を伴って蘇ってくる。

 アキラは身体をベッドから引き剥がし、自分の身体を強引に立たせた。

 まだ、聞こえる。


「―――、」


 暗闇に慣れた目で、無表情のまま部屋を後にした。

 部屋を出ると、妙な解放感を覚えた。あまり居心地の良くない部屋だった。殺風景で、狭く、ベッドも硬い。この宿の外観からして、やや寂れていたような気がする。魔王の牙城の傍ということもあり、この街の宿泊施設はあまり優れてはいないのかもしれない。それとも、この宿がたまたまそうなだけなのだろうか。

 結論の出ない疑問を無責任に思い浮かべ、やはり答えが出ないまま薄暗い廊下を進んでいく。


「……、―――、」


 この宿屋に着いたばかりのとき、ゆっくりと歩いてもギシギシと鳴る床は、最初は建築物としていかがなものかと思っていたが、次第に気にもならなくなってきた。

 そうなると、あの居心地の悪い部屋にも順応できるような気がしてくる。

 そういうものなのだろう。

 アキラはぼんやりと、この異世界で過ごした最初の夜を思い出す。


 あのときも、こうして薄暗い廊下を歩いていた。


「……―――、」


 廊下を進んでいくと、階段に辿り着く。

 アキラにあてがわれた部屋がある2階から、3階の客室を静かに通り過ぎ、立ち入り禁止の4階を超え、登っていくと外気が頬をくすぐった。

 階段を昇りきった先、両開きの扉の片方が半開きになって、そこから月光が漏れている。

 この先は屋上だ。


「―――、」


 屋上に出ると、少女が、いた。


 小さく胸の前で手を合わせ、屋上の縁に登り、すっと広がる町並みを見下ろしながら。

 彼女は透き通るような声で歌っていた。

 髪ごと羽織った漆黒のマントをはためかせ、町の中央にある、天高くそびえる塔に正面から向き合い、月下で、祈るように。


 旅の中、何度も見た光景のはずだった。

 だが、慣れたとは言っても、何故かこの光景だけは、何度見ても胸を打つ。

 まるで自分の時間が奪われて、時が止まったかのようだった。


「…………、うるさかったっすか?」

「……いいや」


 彼女は静かに振り返り、申し訳なさそうに目を伏せた。

 アキラは心から否定する。

 彼女の歌声は、優しく、夜の闇に溶けるようだった。


 彼女は、マリサス=アーティは、まるで重力など存在していないかのように、ふわりと縁から降り立った。

 そしてとぼとぼとアキラに歩み寄ると、扉の横の壁を背に座り込む。

 アキラも、あのときと同じように、その隣に腰を下ろした。


「……マント。直したのか?」

「いや、買ってきたんすよ。魔術で編まれた法衣。そういう店が遅くまでやってて良かったっすよ」


 マリスは軽くマントの中で手を動かした。

 新調したマントはいたく気に入ったらしい。暗い表情の中に、小さな喜びが見えた。


「……あいつは、大丈夫だってさ。多分今もティアたちが診てくれてる」

「そうっすか」


 マリスは、安堵の息を吐いた。やはりエリーの部屋には戻っていないらしい。

 アキラは面会謝絶をくらい、ふて寝していたのだが、マリスはきっと、自分の意志でそうしている。

 街に戻ってくるなり、マリスは別行動をとっていた。戦闘でぼろぼろになった身なりを整えるためと言っていたが、その心情を、アキラたちは何となく察していた。


 マリサス=アーティは、はっきりと、自分を“異常”だと言ったのだ。


「……なあ。あの唄、何なんだ?」

「え?」

「ほら、よく歌ってるけど……、その、上手い、というか、綺麗、っていうか、そう思っててさ」


 アキラは視線を高い塔に向けたまま呟いた。

 マリスが良く歌っているその唄は、何度も聞いているはずなのに、不思議と歌詞の一節すらそらんじられない。

 マリスが歌って、初めて形になるようなその唄は、この世界に訪れた日に最初に聞いたものだ。


 旅に出て、宿に滞在しているときは迷惑を考えて控えているようだが、時折こうして聞かせてくれる。

 夜の闇に溶けるようなその優しい歌は、聞こうと思えば聞こえ、聞こうと思わなければそれまでだ。今まで誰からも苦情の類が来たことは無かったように思うから、そう思うのはきっとアキラだけではないだろう。


「“おまじない”、っすよ」

「おまじない?」

「そう……。“いつこうなってしまったんだろう”。……そういうときに、歌う、唄」


 マリスは高い塔を眺めていた。

 いや、彼女の目は、それを飛び越え、樹海を進み、西にそびえるベックベルン山脈を捉えているのかもしれない。

 そこにあった避難所は、すでに崩壊している。

 そして、それだけでなく、避難所の背後に構えていた山脈の一角が、“たかが下級魔術”に貫かれ、崩落していた。

 大層な騒ぎになり、明日にでもヨーテンガースの魔術師隊がこぞって調査に訪れるかもしれない。

 だが、その魔術師隊の中の何人が、今日の出来事を推測できるだろうか。


「……本当は、使いたくなかったんす」


 マリスは懺悔するかのように呟いた。


「“具現化”。あの杖は、極小の魔力ですら、あんな威力の魔術を放てるようになる」


 今日初めて見た、マリサス=アーティの有する“具現化”。

 レゴルトランド。

 白銀の杖は、微量な魔力をもとに、地形を変えるほどの魔術を放って見せたのだ。


 あるいはアキラの“具現化”よりも危険な代物かもしれない。

 何しろ所有者が所有者だ。

 魔力が枯渇していたマリスが使ってすらあの威力なのだ。

 もし、彼女が万全の状態で操れば、それこそ不可能など存在しないほどの魔力が生み出されることになる。

 平常時でさえ、マリスの魔力は常人の尺度では測れもしないというのに。


 アキラは自分が、旅を通して、多少は成長してきたと思いたい。

 少しでも周りに追いつこうと、それなりに努力はしてきたははずだ。

 だが、マリサス=アーティは異次元だ。

 彼女にも限界があると知り、微かに見えたと思った背中が、また一瞬で霞んで消えた。


 こんなことが、きっと、昔から繰り返されていたのかもしれない。


「特に、ねーさんの前では、絶対に使わないつもりだったのに」


 アキラがぼんやりと思ったことを、マリスも考えていたようだ。


 先の先。そのまた先。ただでさえ手も届かないほど上にいる存在が、自分よりもずっと早く登っていく。

 ただの他人なら羨望を向けるかもしれない。

 だが、双子の妹が、自分の半身がそうであれば、何を思うだろう。

 おぼろげには想像できるが、同時に、部外者が想像できると言ってはいけないもののような気がした。


 今回、そうした感情をあのサーシャ=クロラインという魔族は利用した。

 だが、例えそうであっても、エリーのコンプレックスは、マリスが生み出したものである。


「……エレねーも、きっと“できるはずだった”。でも、我慢してた。多分、他にも手はあったはずだった。でも、自分は我慢できなかった」

「いや、流石にあれは、俺だって抑えられそうになかった」


 あのサーシャ=クロラインの挑発的な貌を思い出すだけで、身体は震え、八つ裂きにしたい衝動に駆られる。

 もし今目の前に現れたら、アキラは感情そのままに、“具現化”で消滅させるかもしれない。


 だが同時に思い出す。

 “具現化”を操り、サーシャを退けたマリスの表情を。

 取り逃したというのに、マリスは何の感情も浮かべていなかった。

 おこがましいかもしれないが、アキラには理解できた。


 アキラの“具現化”も、結果以外、何も生み出さない。ただの作業だ。感情を覚えることなどありようもない。

 アキラは勝ち方にこだわれる立場ではないが、虚しいだけだ。


 常人が、必死に努力して、汗と涙と血を流し、死に物狂いで挑む敵でも、何の感慨も無く排除できる。

 アキラやマリスが有する“具現化”は、そういう力だ。

 そういう力だと理解しておかなければならない。


 マリスは、顔を伏せた。

 彼女の半開きの瞳の色が、一層見えなくなった。


「そう、なんすよ。……我慢できなかった。“なら、何故そもそも我慢していたのか”。そんなことばかり浮かんでくる。“何も気にしなければいい結果になる”。でも、いざやってみたら、……。……ああ、今日は妙に息苦しいっすね」


 たどたどしいマリスの呟きは、アキラの耳にはよく聞こえた。

 強大な力を行使し、敵を退けた。だがそれゆえに、何も得たものは無い。サーシャにあれほど覚えた怒りすら、マリスは矮小なものだと感じてしまったのだろう。


 この異世界に来て、アキラは最初から最強の“具現化”を所有している。

 まるで漫画やアニメの世界の主人公たる力を得て、有頂天になっていた。

 だが、旅を続けて、それなりに戦えるようになった今、改めてあの力を使ったら、自分は何を思うだろう。

 少なくとも、鍛錬で剣を振るう回数は減るだろう。日々の研鑽が、馬鹿馬鹿しくなっていく。エリーに利用を制限されたのもそれが理由だ。


 それどころか、いずれは共に旅をしてくれる仲間すら不要なものだと思い始めかねない。

 極論かもしれないが、人の感情というものは不確かなのだ。アキラは特に、自分の決意や意思が軽いものだと理解している。

 やれ異世界だ、やれ魔王討伐だとはしゃいでいただけの自分ならそうはならなかっただろう。だが、旅を通し、実際に魔王の被害者たちを見て、それなりに使命感というものも宿っている。この使命感すら一時のことかもしれないが、より一層強まれば、魔王討伐を第一に考えかねない。

 その先に待っているのは、きっと孤立だ。

 周囲を拒絶する。それはつまり、本当は拒絶されているのは自分になるのだ。

 想像するだけで身が震える。あれだけ特別な力だと無邪気に喜んでいた自分が別人のように思えてきさえした。


 “異常者”に出遭うより、自分が“異常者”になる方がずっと怖い。

 強大過ぎる力の行使は、怖いのだ。その第一歩を踏み出してまった気がして。


 マリサス=アーティは、先輩で、きっと後輩だった。

 マリスはきっと、アキラがこの異世界に来るよりもずっと前から、“その領域”に辿り着いていた。

 だが、アキラよりもずっと優れていたから、その領域の力を使うまでも無かった。

 彼女は聡い。アキラと違い、その領域の力を使った先に何が待つのか、おぼろげにでも勘づいてしまっていたのかもしれない。

 名前の付けられないその感情に、ただただ虚しさを感じているのだろう。


「……今日は本当に助かった」


 その虚しさは、きっとアキラの方が詳しい。簡単だ。過去の自分を思い出せばいい。

 そんなときに自分ならなんと言ってもらいたいか。

 上手く言葉にできる気はしないが、心情を吐露し続けるマリスの言葉を遮りたかった。


「まあ、いつもそうだけどな、マリスにはずっと助けてもらっている」


 いつも心のどこかに、アキラは自分がこの場に居ることを間違えたような感覚を抱えていた。

 まるで昔やったゲームで、世界を自在に行き来できる移動手段を手に入れてしまい、随分と先のダンジョンに迷い込んでしまったときのような、比率が恐怖に傾いた期待と不安。確かそのときは、雑魚敵ですら圧倒的に強く、あっさりと全滅したような気がする。


「俺はさ。それなりに頑張っているつもりでも、全然だ。でさ、頼りなくて悪いけど、俺は“勇者様”らしい」


 “異常者”。

 マリスが自らをそう言った。

 アキラも、一歩間違えれば単なる“異常者”となっていた。

 そんなとき、何よりも怖いことがある。


「身体とか魔力とか鍛えなきゃいけないことはまだまだ山積みだろうし、この世界のことだって正直よく分かってない。それなのに、もうすぐ魔王の牙城なんだろ? 笑っちまうよな、本当に。……だから」


 いくら相手の考えを読んだところで、その感情は否定できない。

 アキラだって、異常な力の使用を控えたのは、エリーに言われて渋々だった。

 だからせめて、伝えたい。


「マリスが必要だ。そしてそれは、魔王を倒したその先も。悪いけど付き合ってくれないか。教えてもらいたいことは数えきれないほどあるんだから」


 例え“異常者”だとしても、孤独にはしない。

 それだけが、アキラが伝えられる精一杯の言葉だった。


「…………。にーさん」


 伝えたかった想いは届いただろうか。

 相変わらず感情の読めない、抑揚のない声で、マリスが呟いた。

 いつの間にか顔を上げ、高い塔をぼんやりと眺めている。

 横顔は、同じ顔の人物を知っているのに、彼女のそれはより幻想的に見えた。


「にーさんの夢って、……相変わらず“アレ”なんすか?」

「何故その話になる」


 胸と胃が痛くなった。

 最近、本格的に戯言と処理されたようで、話題にもされなくなったアキラの夢。

 それは、ハーレムを目指すというたわけた夢だ。

 熱に浮かされているときならまだしも、平常時には刺激して欲しくない。


「……あ、ああ」


 だが、アキラは肯定する。

 嘘は吐かない。


「なんでハーレムがいいんすか?」


 音で聞くとより一層恥ずかしくなってくる。

 その夢自体に興味を持たれたのは初めてだったかもしれない。

 初めて聞かれた気がする。


 男の夢。

 そう言ってしまえば一言だ。

 元の世界で読み漁っていた小説が、そういうものが多かったから、憧れて。それも理由だ。

 だがそもそも、アキラがそうした作品を特に好んだのには、もしかしたら、“あの出来事”が理由かもしれない。


「…………。元の世界の話になるんだけどさ」


 正直なところ、まるで理論的ではない。

 適当に取り繕って、取ってつけたような空想話をした方が、まだマシだとアキラは思う。


「俺の家、というか母親が、料理教室をやってたんだ。趣味が高じたとかで、家とか改造してさ」


 また板で小気味良く動く包丁。水がボウルに溜まっていき、時折、この世界にはないレンジが鳴る。

 そんな幼いときの音が、アキラの耳に良く残っている。

 改造したダイニングキッチンの奥のソファーで、近所の主婦たちの背中越しに、分かりもしないのに母親の授業を行儀よく聞いていた。


「そこの生徒のひとりに、アカリさん、って人がいてな。俺もよく遊んでもらってたっけ。授業そっちのけで」


 短い髪に、子供のように笑ったときに見える白い歯が印象的な女性。

 当時あまり理解していなかったが、大学を卒業したばかりだった彼女は、家業を手伝っていたそうだ。


 もしかしたらあれがアキラの初恋だったかもしれない。輝いた女性だった。


「母親も、俺の世話を任せられて丁度良かったのかもしれない。アカリさんは生徒の中でも一番親しかった。授業の日じゃなくても、一緒に遊びに行ったりもしたっけな」


 本当に楽しい思い出だった。

 子供心に、いつでも笑っていられる人は素敵だと感じていたのを思い出す。

 きっとアキラのせいでだろうが、料理の腕は芳しくなく、母によく注意されていたような気がする。

 それでも彼女は明るく笑っていて、アキラを盗み見ては照れくさそうに頬をかいていた。


「……その、アカリさん、って人がどうかしたんすか?」

「……」


 追憶を続けるのを拒みたくなってきた。

 楽しい思い出は楽しい思い出でいて欲しい。

 だが、アキラは記憶の奥に足を踏み入れた。


 “それ”のきっかけは、妙によく覚えている。

 季節も天気も思い出せないが、あのときは確か、母がお菓子作りか何かを教えていたような気がする。


「俺の親父。特殊な仕事しててさ。よく家にいたんだ。……それで、たまたま手が空いたのか、気まぐれで教室に入ってきたんだよ」


 父は、明るくも礼儀正しいアカリとすぐに打ち解けたようだった。

 それから、ソファーに座って遊んでいたアキラを挟んで、父がアカリと話す光景を見るのが増えていく。


 ときにはアキラを連れて、外に遊びに行ったこともあった。

 ときにはアキラを連れて、仕事部屋の掃除をしたこともあった。


 どうやら彼女が大学で専攻していたものが、父の仕事と似通った部分があったらしく、よく気が合っていて、会話も弾んでいたように思う。

 その内容については、当時のアキラは愚か今のアキラすら理解できない。

 だが、当時の自分は、アカリと遊ぶ時間が削られたことに不満を持ちつつも、それ以上に、近寄れなかった父の仕事部屋に入れたことに達成感のようなものを覚えていたと思う。


 まるで家族が増えたようだった。

 父と母、そしてアキラとアカリの4人で出かけることも多くなった。


 そして、ときには。

 父とアカリのふたりで、どこかに出かけることもあった。


 それでも、アキラにとってはキラキラと輝いていたと思えた。


「…………それって」

「……、まあ、そうなんだけど」


 マリスは察したようだ。


 父とアカリが親しくなってから、どれくらいの時間が経っただろう。

 夜、父が出かけているとき、アキラは母にそれとなく聞かれた。

 普段、父とアカリはどういう様子なのかと。


 アキラは何も考えず、とても仲がいいと、無邪気に答えた。


 そこで、幼いながらも、アキラは妙な危機を感じた。何か、最終確認のようなものをされたようだった。

 すでにある程度の調査と、確信は済ませた後だったのだろう。


 背を向けた母に、アキラは多分、何か静止の意味を持つ言葉をかけた気がする。

 待って、だか、止めて、だか。

 おぼろげだが覚えていない。

 だが、振り返りもせずに母が漏らした言葉は、耳にこびりついて離れない。


 無理。


「ぶっちゃけて言うと、不倫だった。それが原因で、俺の親、離婚したんだ」

「……」


 次にアカリを見たとき、あの輝くように笑う彼女は、泣いていた。

 いるように言われた寝室から抜け出して、ガラス戸から客間の中を覗いた光景では、母がアカリと、それに並ぶ父に向って何かを怒鳴っていたのを覚えている。

 部屋の中にいる人たちは、キラキラと輝いていた世界の住人たちは、いつの間にかアキラが知らない人たちになっていた。


 そして、アカリを見たのはそれが最後だった。


「諸々慌ただしい感じになって、それで、どっかで聞かれたよ。俺はどっちの子になりたいか、って」

「……どうしたんすか?」

「親父、って答えたよ。母親が、色々壊したんだって思ってさ」


 問い詰められるように、色々な説明をされたような気がする。

 だが幼いアキラは答えを変えなかった。

 キラキラと輝いていた世界を壊した犯人が、母親だと確信してしまっていた。


 子供ながらに思った。思いたくは無かった。

 どれほど輝いて見える光景でも、あっさりと崩壊するのだと。陰りが潜んでいるのだと。


 儚い景色。


 今はもう、黒い闇に覆われた記憶の奥で、鈍い輝きを漏らしているに過ぎない。


「親父に引き取られてから、母親にも、アカリさんにも会ってない。ここに来る前は、親父とふたり暮らしだったんだ」


 流石に事態が事態で、アカリもアキラたちに会うのを止めたようだ。引っ越しもしており、今アキラたちが住んでいる場所も知らないだろう。


 この異世界に来たとき、元の世界で自分の身に何が起きたのかアキラは覚えていない。

 軽い記憶喪失を患っている。そのお陰かどうかは分からないが、元の世界への関心が多少は薄れているようだ。

 だが、あえて望郷の念に捉われるとするならば、父は、そして母やアカリは、今頃何をしているだろう。


「正直今思うと、親父が悪い。……だけど、今さら言えないよ。離婚したあと、母親の悪口を言った俺を、すごい剣幕で怒ってたから、なおさら、な。……どうした?」

「いや、重い。重いっす。そういう話になるとは思ってなくて」

「……悪かったな」


 他人からすれば重い話なのだろう。

 だが当事者のアキラは、壊れた家庭の中、それが当たり前の人生を歩んできた。

 幸い、トラウマというものにはなっていない。

 なにしろ、そのときは人生の一大事だとはまるで思わず、楽観さえしていたのだから。


 気付かないまま、色々終わっていただけだ。


「でも」


 それでも、幼いときに感情で受け止めたものというものは存外に厄介なのかもしれない。

 アキラの思考は、趣向は、頭でどれだけ否定しようとしても、それに引きずられてしまう。


「俺は親父を選んだ。というより、母親を選ばなかった、ってことなんだろう。当たり前だけど、離婚を言い出したのは母親だった。だから思った、みんなで仲良くしていればいいのに、って。……そのせいかもしれないな。そういうことを思うようになったのは」


 放っておけばいいのに、母は父とアカリの関係を深追いした。

 そのせいで、アキラの世界は大きく濁った。


 幼少のアキラは、あの出来事をそう受け止めてしまった。

 目の前の世界は儚いのだ。それは、深追いしてしまうから、儚いのだ。

 探せばどんなものにも陰りがある。


 ならば、ほどほどの距離にいれば、輝いた世界で笑い続けることが出来る。


 だから、今のアキラの感情も、それでいいのだと言う。

 軽薄と思われようが、深追いはしない。できない。

 子供の思考かもしれないが、みんなで仲良くしていればいい。


「……血、なんすかね」

「親が親なら、ってな。でも、今さら、な」


 マリスの軽口に苦笑して、アキラも苦く笑った。他人が聞けばこんなものだ。

 価値観はもう変えられないかもしれない。

 誰かひとりを選ぶというのは、選ばなければならないというのは、とても怖いことだ。


「にーさん」

「ん……?」


 マリスは、半分閉じた眼で、じっとアキラを見つめてきた。

 遠く見えた横顔と違い、マリスの顔が、ずっと近くに感じる。

 マリスの香りが鼻腔をくすぐるようだった。


「それ、今も変わってないんすか?」

「……あ、ああ。だから、今さら、だ、から……」


 マリスが目を伏せる。

 満月の夜、音が消えたような気がした。


「もし」


 マリスが呟くように言った。


「もし自分が秘術を受けようとしていたら、にーさんは止めてくれるっすか?」

「な、何言ってんだ」

「だから、今日みたいに、脇目も振らずに、必死になってくれるのかな、って」

「……い、いや、マリスは必要ないだろ?」


 深くは聞かず、素直に答えた。

 だが、応えるべきものを間違えたとは思った。


「にーさん」


 マリスは音も無く立ち上がった。

 アキラは座ったまま、声を出さず、呼吸すら止めて、それを見守った。


「……できれば自分は、太陽は月だけを照らして欲しい」


 マリスの口調はいつも通りに感じた。

 だがアキラは、自惚れかもしれないが、その言葉の意味が理解できてしまった。


「でも、他の星も、きっとそう思っている」


 喉が潰れる。身動きが取れない。

 何かが壊れるような感覚を味わい、薄暗い屋上が、漆黒の闇に捕らわれていくような錯覚をした。

 “それ”は、輝きから遠ざかることなのだと、アキラの中に愚かにも刻まれているのが実感できてしまった。


 マリスはアキラの答えを待たず、新調したマントをはためかせ、背を向けた。


「話してくれてありがとう。自分はもう寝るっす。流石に眠くなってきて……」

「……あ、ああ、お疲れ」


 アキラが辛うじて吐き出せた言葉を受けて、マリスは足早に去っていった。

 座ったままマリスの背を見送って、アキラはようやく息を吐く。

 心臓が止まったような気がしたが、どうやら気のせいらしかった。


「……」


 ひとり残った屋上で、アキラは巨大な満月を見上げた。

 この世界にもある衛星。自ら輝いているように見えるが、この世界にもある太陽が見えないところから照らしている。

 だが、それは、夜空に浮かぶ他の数多の星も同じことだ。

 ぼんやりと見ていれば美しいと言える夜空が、アキラは見続けることが出来なくなった。


「……、―――、」


 視線を落とし、正しいかも、惜しいかすらも分からないマリスの唄を、うろ覚えで口ずさんでみる。

 ずっと分からなかった唄なのに、今は妙に上手く歌えている気がした。


 “いつこうなってしまったんだろう”。

 そんな唄だと、彼女は言っていた。


「……え。嘘。あんただったの……?」

「いっ!?」


 本当に心臓が止まりかけた。

 終わると思っていた長い夜。その屋上に、同じ顔の少女が現れた。

 今一番会いたくなかった相手かもしれない。


 現れたのはエリサス=アーティ。

 今回、魔族の被害を特に受けたマリスの姉だった。


「っ、っっ、お、おま、え」

「驚き過ぎよ」

「と、というか、え。起きたのか、……え、大丈夫か?」


 白い布の病人着を纏ったエリーは、拍子抜けするほど普段通りの様子だった。

 彼女は変わらず驚いた表情でアキラに歩み寄ると、たまたまなのかそういう癖が出来ているのか、マリスがいた場所とは反対側のアキラの隣に座り込んだ。


「ええ、まあ、大丈夫。なんか思いっきり看病されてたみたいで、むしろ元気有り余ってる感じ。眠ってられなくなったわ」

「ティアには感謝しとけよ。本当に付きっ切りで診てくれてたんだから」

「……聞いたわよ。ちゃんと明日お礼言わなきゃって思ってたところで、唄が聞こえてきたから……まさかあんただとはね」

「本当にそう思うか?」

「ううん。そんなわけないか。マリー、いたの?」

「ああ、ついさっきまでな」


 アキラは自分の鼓動が高まったのを感じていた。

 自然に話せているだろうか。いや、あれだけのことがあったのだ。自然に話している方がおかしいような気もする。

 エリーが普段のように接してきて、自分もそれに引きずられているような感覚だった。


 風が吹いた。

 エリーが何気なく、手の甲で赤毛を肩から後ろに払う。その勢いが僅かに強く、髪が一層風になびいた。


「……お前、髪切った?」

「…………本当に見てない?」

「何の話だ」

「ううん、別に。……エレナさんに感謝しなきゃ」


 膝を立てて抱え込んだエリーは、深く息を吐く。

 背まで伸びていたエリーの髪は、いつの間にか肩ほどまでになっていた。

 だが、髪の長さが変わっても、些細なことだと思えるほど、エリーは先ほどまでいたマリスとまったく同じ顔をしている。


「……目を覚ましたらエレナさんがいてね。全部教えてくれた」

「……」


 エリーは塔を眺めながら呟いた。

 同じ顔。同じ視線。

 それなのに、エリーの横顔は、マリスとは対照的に、近く感じた。


「あたしは“攻撃”されていたみたいね。それも、“魔族”に。ああ、今思うと震えてくるわ」


 エリーはカラカラと笑っていた。

 近く感じる横顔が、乾いているのが見ていられなかった。


「だって、ねえ、聞いてよ。ギャンブルにもならないような秘術で強くなれる、って。死ぬかもしれないどころか、ほぼ死ぬ、って感じよ? ……あたしの夢、孤児院を継いでお母さんたちに楽をしてもらうことなのに。まったく、冗談じゃないわよ。大体、」

「……でも」


 アキラはエリーの言葉を遮った。

 サーシャ=クロラインという“魔族”は人を操る。エリーはそんな魔族の被害者だ。

 偉そうかもしれないが、同情すべき相手なのだろう。


 それでも、酷かもしれないが、自分たちは認めなければならないことがある。


「少しは思っていたんだろう?」


 操られた部分はあったとはいえ、エリーがそう思ったことは否定できるものではない。

 思考の裏を取り、思い通りに操るサーシャ=クロライン。確かにあの魔族なら、それこそ本人が思いもしないような答えを他人に出させることが出来るのかもしれない。

 だがアキラは、今回の出来事がエリーから遠く離れた答えだったとは感じなかった。


 エリーは、悪事がばれたように短く息を吐き、俯いた。


「うん」


 アキラは、今日初めてエリーの声を聞いた気がした。


「あーあ。あんたに“具現化”使うなって言っといて、何やってんだろうね、あたし」

「……悪かったな。止められなくて」

「別にいいわ。期待してないし」


 嘘だと思った。

 今日の朝、彼女はアキラに、きっと助けを求めに来てくれていた。

 それを見逃したのはアキラだ。

 あんな事態になると予測するのは無理だろうが、もう少しに気かけるべきだった。

 後悔しても始まらない。

 だがもしあのとき、エリーの話を真剣に受け止めていたら、彼女にこんな顔をさせることは無かったかもしれない。


 命を賭けるほどではないのかもしれないが、遠く離れた存在に追いつくための力は、彼女が昔から切望しているものだ。

 眠れなかったのは、過剰な看病だけが理由ではないだろう。


「だめだめだぁ、ほんとに。もう、……酷い、酷いよ。だって、ああ、ほんとにだめ。言い訳しか出てこない。ごめん、ごめんね。こんなあたしでも、何とかなるんだって思っちゃってさ。でも、それすらだめで。……正直言うと、こんなことしでかした今も、ちょっとあの秘術には惹かれてる自分がいるし。でもそれで迷惑かけて、また似たようなことになったらって思うと……、死にたくなる。なんなんだろうね」


 捲し立てたエリーは、膝を抱えたまま顔を伏せた。泣いているのかもしれない。

 アキラの属性は人の心を開くという。散々恩恵を受けているが、アキラは自分の属性が恨めしく思った。

 エリーは何度も、息の塊を吐き出すような深いため息を吐いていた。でも、そうしても自分の中の汚物を出し切ったとは思えないだろう。いつまでも残る苦い感情だ。


 魔王討伐の旅の中、エリーも、強くなろうと思ってくれている。

 だから、サーシャに操られたというのも言い訳にしか思えない。その感情は、当人だからこそ否定できないのだ。

 だが、期待して、勝手に行動して、裏切られて、失敗して、周りに迷惑をかけて、結局助けられて。

 エリーにとって最も起こって欲しくないことが、今日、すべて起きた。


「……なあ」


 アキラは右手を見つめた。

 そういえば、ちゃんと言ってはいなかった。


 こんなとき、自分が出会ってきた作品の主人公たちは何を言うのだろう。

 きっと彼ら彼女らは、諭すように上手く導くことができるのだろう。

 キラキラと輝いた世界の住人たちの行動は、アキラには到底真似できない。

 だが、何かは出来ないだろうか。


 落ち込む人への接し方は、大まかに分けて3つある。

 その人物より高いところに立ち、聖者のように導くこと。

 その人物と同じところに立ち、親族のように支え合うこと。

 その人物より低いところに立ち、道化のように笑わせること。


 道化になるしかなかったかつてと違い、今は、同じ場所に立つことが出来ているだろうか。


「お、俺はもう、“具現化”を使わない」


 モルオールでイオリに言ったときとは違い、自分の口から出てきた言葉が、呪いのように重く感じた。だが、不思議と悪い気はしなかった。

 散々頼りにし続けて、今なお精神的な支柱になっているあの最強の力。

 あの力は、今日見たマリスの力すら凌駕しているだろう。


 身の丈に合わない。成長を阻害している。

 エリーの言葉が、より一層身体に沁み込んでいくような夜だった。


「舐めプってわけじゃない。お、俺には扱い切れないからだ。それに、勇者の武器は剣って決まってるし」


 上手く言葉が出てこない。

 取り繕ったような言い訳ばかりが浮かんできて、それをそのまま口から出しているだけだ。

 それでも、彼女に何かを伝えたかった。


「だからさ。その、一緒に強くなろう、ぜ?」


 たどたどしく、それでも言い切った。

 アキラが同じ場所に立っていたところで、エリーにとって、何の慰めにもならないかもしれない。彼女を取り巻く問題はまだまだある。


 だが、マリスのときと同じように、エリーにも孤独でいて欲しくは無かった。


「……だからさ、その、―――っ」

「……」


 何とか言葉を繋げようとエリーに顔を向けると、彼女の顔が目の前にあった。

 エリーは顔を上げていたらしい。


 同じ姿。同じ顔。

 ずっと近くに感じるのも、先ほどと同じだった。


「……」

「……」


 僅かにでも動けば触れ合いそうなほどの距離。エリーの大きな瞳の中に自分の姿を見つけられそうだった。マリスとは違う香りがする。鼓動が高まる。口の中は乾き切っていた。


 エリーは、動かずにいた。

 生気を取り戻し、紅く見える彼女の唇が、本当に近い。

 彼女が何かを待っているように感じるのは、気のせいだろうか。


 このまま自分が直感に従えば、もしかしたら。


 “たったひとり”を見ることになる。


「……っ」


 アキラは、動かなかった。


「……………………あ、危ない」


 ぺしり、とアキラの額にエリーの手が当たった。


「か、顔近いわよ、あんた」

「お、ああ、わ、悪い、っつ」


 エリーはアキラの額置いた手に力を入れ、そのまま立ち上がった。

 そしてあっさりと背を向けて歩き出す。

 その後ろ姿も、先ほど全く同じものを見たような気がした。


「あたし、そもそもマリーを探してたんだった。お礼言わなきゃ。……そうそう、あんたにも忘れてたわ。……ありがとね。それと、ごめんなさい」


 アキラが何かを言う前に、エリーもまた足早に屋上から姿を消した。


 時が動き出したように背筋に冷たい汗が流れる。

 呼吸がぎこちない。


 またもひとり残された屋上で、アキラはまた、夜空を見上げた。


「……、―――、」


 アキラはまた、妙にしっくりくるようになったマリスの唄を真似てみた。

 今度は誰を呼び寄せてしまうだろうか。

 脱力して座り込んだアキラは、確認する気にもなれなかった。どうにでもなればいい。


 “いつこうなってしまったんだろう”。


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