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第13話『儚い景色(中編)』

―――**―――


 この世界での日々を過ごしてきて、ヒダマリ=アキラは、自分が多少なりとも変わってきたのでは、と思うときがある。


 厳しい鍛錬や人への接し方など、元の世界では耐え切れなかったり億劫に思ったりしたことも、自然にこなせるようになってきたような気がしてきた。

 具体的に言えば、依頼という形で請ける仕事は、しっかりとやり遂げることが当然と思うようになったし、依頼主のこともちゃんと敬うことにしている。

 これが手に職を持つということなのかもしれない。

 ひとつひとつの依頼に真摯に向き合って遂行していくと、疲れはするが、それなりに達成感というものも味わえる。

 自分も少しは、大人になれているということなのだろうか。


「なあ。今日はもうあがらないか?」

「にーさん」


 子供を叱るような色をマリスの半開きの眼の奥に見つけた。

 樹海の中、背中でガチャガチャと鳴る剣は耳障りだし、湿度の高いじっとりとした空気にシャツが汗でべたついて、不快指数が高い。

 延々と歩き続け、いよいよ日も傾き始めている。

 今はヨーテンガースの気候に助けられているが、日が落ちれば風邪をひくような悪寒がしていた。

 一方で、隣を歩くマリスはだぼだぼのマントを纏い、涼しい顔つきでとぼとぼと歩いていた。

 多少は体力が付いたと思いたかったのだが、マリスの様子を伺うと自信が無くなってくる。それとも彼女は、何らかの魔術でも使っているのだろうか。


「いやさ、流石に遠すぎないか? このままいくとマジで夜になるぞ。俺らが帰ってこなかったら、みんな困るじゃないか」

「それはそうっすけど、それ、自分たちの前でよく言えるっすね」


 マリスが根に持っているのはあの港町の出来事だろう。あのときは、アキラたちも日をまたぐ依頼だと知らず、マリスとサク、そしてティアは港町で夜通し待つ羽目になったらしい。


「それに、距離自体はそんなに大したものじゃないっすよ。魔物の邪魔が入りはしてるっすけど」


 道すがら、時折思い出したように魔物に出くわすことがある。

 確かに多少の時間は取られるが、アキラにとっては代り映えのしない景色の中の刺激にはなる。

 マリスがいるとなれば身の安全は保障されているようなもので、そして案の定大体はマリスが撃破しているのだからほとんど時間はかからない。

 彼女にとっては“ヨーテンガースの洗礼”とやらも縁遠いものなのだろう。


「まあ、もう少し行けば麓っす。そこに休憩できる場所もあるし、そこなら“遠吠え”っていうのが聞こえるんじゃないっすか?」

「“遠吠え”、ねえ」


 ひたすら樹海を歩かされたせいで、もうずいぶん前のようにさえ思う。この依頼の依頼主、カトールの民の族長、カルドの言葉を思い起こした。

 遠方に見える山脈の麓から、妙な“遠吠え”が聞こえ、それ以来、魔物という存在がより一層恐ろしくなったという。

 アキラたちは、とりあえずはその“遠吠え”とやらの原因を探るべく、カルドの言葉に従って、その場所を目指していた。

 だが、ひたすらに歩かされ、戦闘以上に疲れ果てているのに、あのとき感じた妙な感覚は拭えない。


「これでますます妙ですね」


 背後の警戒を担当していたサクが、アキラが思っていたことを言ってくれた。

 振り返ると、彼女もまた、マリス同様疲れを顔に浮かべていない。

 僅かばかりの意地から、アキラは表情を正した。


「これほど離れているなら、彼らが怯える理由が分かりません」


 ここまで来るだけでもどれだけ歩いてきたことか。

 例えカルドの言う通り、この先に“遠吠え”をする魔物がいたとして、それが危険な存在だとして、それが何だという話である。

 マリスがいるお陰で感覚は麻痺しかけているが、ヨーテンガースの魔物はそもそも危険だ。

 ここまでの道中でも、普段なら絶対に近づきたくないほど凶暴な魔物に出くわしている。

 対岸の火事どころの騒ぎではない距離の魔物のせいで、あそこまで怯えるというのも腑に落ちない。

 あまり深く考えたくないと思いながらも、油断をすると、幾度となく嫌な予感が浸食してきてしまう。


「ま、とにかく行ってみないと分からないだろ」

「? にーさん、やる気出たんすか?」


 マリスの言葉は聞こえないふりをして、重くなっていた足を強引に前へ進める。

 今はお仕事中である。

 姿勢を正し、まだまだ先に見える山脈を見上げたところで。


 影が落ちた。


「? って、―――あ」

「―――やっと見つけた!!」


 その巨大な影から、見知ったふたりが降り立った。


 最初にこれで楽が出来ると思い至ったアキラは、自分のことがより一層嫌いになった。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 どこかで、パキリ、と音が響いた。

 理解はできない。何かが“進んだ”ということが、感覚的に分かった。


「ヒ、ヒュー、ぎっ、―――やっ、あっ」


 まともに言葉が発せない。

 歯が砕けるほど食いしばっても、何も分からない。

 逃れようと蠢くも、自分が今どこにいるのかすら分からなかった。


「ぎぃ、ぃ、ぃ、がっっ」


 エリサス=アーティは、自ら望んだ儀式に“襲われていた”。

 生まれてから今まであったはずの頭や四肢がどこにあるのかも感じ取れない。すべての骨は砕かれ、全身の皮膚は鋭い痛みが波も無く走り続ける。

 正常な感覚はすでに消え失せ、強制的な気絶と覚醒の狭間で焼かれていた。


「ひっ、へっ、びぃっ」


 うめき声は言葉にならずに醜い断末魔が口から漏れ、身じろぎひとつするだけで身体中にすり下ろされるような激痛が走る。

 身体をねじ切られ、乱雑に繋がれ、また切り刻まれ、自分という存在が根底から破壊されているような圧倒的な恐怖に襲われていた。


 今まで自分が感じていた痛みは、痛みですらなかったと思い知らされる。

 旅を始めて数多の強敵に遭遇し、そのたびにこの身を襲った衝撃など、この地獄のような辛苦の足元にも及ばない。


「戻りなさい。その調子じゃ外に出るわ」


 身体中から発汗し、泣き喚き、それでもとにかく逃れようと、もがき続けると、冷徹な声が聞こえた。

 誰かいる。その人なら助けてくれるかもしれない。

 涙なのか涎なのか分からない何かと地面に頭をこすり付け、エリーは心の中で強く祈るが、しかし救いの手は差し伸べられなかった。


「……じ、し、じ、ぬ」

「……」

「あっ、あああ、ああああがあっ」


 何も考えられない。このままでは狂ってしまう。自分に捧げられるものであればすべて捧げるから、今すぐこの地獄から救い出して欲しい。

 生存本能からか、目の前に垂れた救いの糸を掴もうと、最後の気力を振り絞って意識を覚醒させると、エリーは必死に顔を上げた。


「エ、エ、レ、」

「戻りなさい。……やるからには最後までよ」


 ぼやけた景色の中、その“誰か”の顔を見て、ようやくエリーは自分が何故こんな地獄に落とされたのかを思い出した。


 他ならぬ自分が望んだのだ。

 記憶が混濁し、今までの出来事が時系列もバラバラに頭に浮かぶ。


 これは“力”を手に入れるための儀式だ。

 そしてその儀式には段階があるという。

 5ヶ所に配置した魔具が順番に砕けるまで続き、そして1ヶ所砕けるたびに痛みは増すという。

 エリーは芋虫のように這いずり回り、自分を囲う5ヶ所の魔具を見た。

 今砕けているのは、1ヶ所だけらしい。


「ぃやあ、あ、やああああああっ!!」


 多分もう、エリサス=アーティという人間は壊れてしまったのかもしれない。

 泣きじゃくり、地べたを手足で叩き、仰向けになったりうつ伏せになったりして暴れ回った。終わりの見えない地獄の中、身体中を泥だらけにしながら、狂ったように泣き続けることしかできなかった。


「あ、あ、あ……、へ、へあ」

「……」


 だから、エリーは、本当に自分が壊れていると思った。

 蠢いて、恐らく中央と思われる方へ這う。何をしたところでこの地獄の苦痛が和らぎはしない。

 だがそれでも、外の方がずっと怖いと感じてしまった。

 この地獄からなす術もなく逃げ出すことの方が、何にも勝る恐怖のように感じる。


 そう感じた理由はもう分からない。

 だが今、どれだけ無様な姿を晒し続けようとも、ここにい続ける必要があると強く感じる。


 恐らく中央と思われる場所に近づけたエリーは、何の気休めにもならないが、身体を丸める。

 破壊し尽くされた自分の中の、ちっぽけな残滓を、楔のようにこの場所に突き立てた。


「……」


 エレナ=ファンツェルンは、目の前の惨状を、目を乾かせて眺めていた。

 自らが描いた儀式の状態を入念に確認しながら、魔力の流れが弱まったところを探し、魔力の込め方を調整する。

 コアロックが壊れたところは、やはり多少の変化があった。全体から均等に当たるようにするのがベストなのだろうが、急ごしらえの道具たちだ、それなりに荒はある。その調整は、臨機応変にやっていけばいい。

 エレナが膨大な魔力を有するとしても、この儀式に要するのに必要な、純粋な魔力を放出し続けるというのは骨が折れる。身体中から力が抜けていくような感覚を味わっていた。

 だがそれでも、神経を張り巡らせ、儀式の進行を淡々と進めていく。


 努めて事務的に儀式を執り行おうとするも、どうしても視界に入ってしまうエリーの様子がエレナの記憶を呼び起こさせてしまう。

 芋虫のようにのたうち回り、痛覚という痛覚が鋭く刺激し続けられ、高熱に苛まれたときのように視界も思考も狂い、今まで生きてきた自分の感覚すべてがすり潰されていくような感覚。

 涙と涎で顔をぐちゃぐちゃにしながら全身から発汗し、乱れに乱れ、いずれは自ら死を望むほどになる。

 エレナ自身も経験している想像を絶する苦痛だ。

 生物としての防衛本能か細部の記憶は抹消したが、思い出そうとするだけで未だに身体が震える。


 エレナのときは、たったひとりだった。

 看取った者もいない中、どれほどの悲鳴を上げたのか。そういう意味ではエリーは不運で、あるいは幸運だ。

 他人に見られるだけで自尊心が破壊されるような無様な姿を晒すのは不運であるが、幸運なことに、失敗したらその姿が晒されないように埋葬してもらえるのだから。


 この儀式の失敗は、死を意味する。

 だが、成功しても結果は同じなのかもしれない。

 今までの自分はいなくなる。


 あるいはそれは力を得ることだけでなく、この儀式に自分という自分が徹底的に破壊され尽くされ、文字通りに新しい自分に成り代わることになるほどなのだから。


 エレナは目を細める。

 もしかしたら自分も、あのときから、壊れてしまっていたのかもしれない。


「……!」


 次のコアロックが光を強めた。儀式は次の段階へ進む。

 死に体のエリーには聞こえないだろうが、エレナは身体を震わせ、小さく呟いた。


「……ふたつ目。来るわよ」


―――**―――


「っ」


 ヒダマリ=アキラは、歯を食いしばり、前を睨みつけていた。

 つい先ほど幸運にもイオリが現れ、徒歩よりもずっと高速の空の世界で、しかしアキラは、目的地が一層遠くに見えていた。


「マリス!! 本当にあそこなんだよな!?」

「わ、分からないっす!! でも、それなりの場所っていうと、当てがあるのはあそこの避難所だけだからっ!!」


 マリスが制御してシルバーに輝くイオリの召喚獣、ラッキーの背は、どれほど速度を上げても搭乗者は安定して乗り続けることが出来る。

 普段はありがたいマリスの補助魔術ではあるが、今はそれがかえって逸る感情をいたずらに宥めてくるようで、鬱陶しくさえ思ってしまっていた。


 現在向かっているのは、エリーとマリスの故郷があるらしい山脈付近である。

 奇しくもそれはアキラたちが請けた依頼の目的地と同じ場所ではあったが、アキラの頭からは依頼のことなどすでに消し飛んでいた。


 合流してきたイオリたちから聞いたのは、ティアが盗み聞きしたという、エリーとエレナの会話だった。

 なんでもこの世界には膨大な力を得られる秘術というものがあるらしい。エリーはそれを試みようとしているという。

 ご都合主義万歳と笑っていたかったが、どうやらこの世界でもそこまで上手い話はないらしい。


 代償は、死。

 最初は何を馬鹿なと思ったが、イオリの口早な説明やマリスの様子で、アキラの胸の奥から奇妙なほどの激情が湧き上がってきた。


「……エレナ」


 アキラは苦々しく呟いた。

 過去、エレナもその秘術に挑んだという。彼女は成功したようだが、それはまさに例外中の例外らしい。

 それなのに、彼女がその秘術とやらをエリーに施そうとしているという。

 アキラは酷く裏切られた気持ちになっていた。

 確かに彼女には冷徹な部分もある。アキラにかけてくる甘い言葉も、からかっているだけだともいい加減に分かっている。

 だがそれでも、アキラは彼女のことを信用していた。


 未だにただの勘違いで、彼女たちを見つけ出したら真っ当に依頼をこなしているだけだと信じたい。

 しかし、湧き上がる感情が、楽観的な思考をすべて押し潰してきた。


「アッキー、その、私、すみません、どうすればいいか分からなくて、」

「お前も何で止めなかったんだよ!?」


 ティアの声に、アキラは怒号を返した。びくりと小さな身体が隣で震え、ティアはそれきり口を閉ざした。

 ティアがその話を聞いたらしい。自分がその場にいたら、怒鳴り込んででも止めていただろう。

 だがそう考えて、アキラはまた歯を食いしばった。


 八つ当たりでしかない。

 きっと自分は、もっと前にそれに気付けたはずなのだから。


 朝のエリーの様子を思い出す。

 彼女の様子を見て、自分は何を考えたか。

 彼女は言っていた。自分との婚約が無くなったら魔王を倒そうと思うかと。

 妙な質問だと思った。いつしかアキラは、この旅が続くことは、エリーがいるのは、当たり前のことだと思っていたらしい。だがエリーは、その大前提が覆ることを考えていたのだ。

 そしてそんな様子を思い起こしてしまうからこそ、イオリたちの話があるいは彼女たち以上に信憑性が高いと感じ取ってしまっていた。


 あのとき彼女に真摯に向き合っていたら、こんなことにはなっていなかったかもしれない。

 また自分は、何もできない。


「イオリ!! もっと飛ばせないのかよ!?」

「もっ、もうすぐだ!! マリサス!! どこで降りればいい!?」


 マリスの指示を仰ぐイオリに、アキラは胸を強く叩いた。

 マリスとイオリに運んでもらっているのに、口を開けば要らぬことを怒鳴るばかりだ。

 何もできない。出来ることは余計なことだけ。

 また自分のことが心底嫌いになる。


「!」


 日が傾き、夜のとばりが訪れ始める。

 薄暗い朱に染まる背の高い木の向こう、険しいベックベルン山脈の絶壁に、ぼっかりと開いた大穴が見えた。

 ラッキーがそのまま入り込めそうなほどの大穴が、距離を置いてふたつほど開いている。

 ほとんど睨むようにマリスに視線を送ると、彼女は記憶を辿るようにやや表情をしかめ、小さく頷いた。


「っ、と、アキラ!!」


 イオリは流石にそのままラッキーで突撃するわけにもいかなかったのか、ふたつの大穴の中間付近でラッキーを着陸させた。

 そのイオリを飛び越すようにラッキーから降りたアキラは、鋭く視線を走らせる。


「マリス!! どっちだ!?」

「えっ、ええと、」

「中は繋がってんのか!?」


 マリスが記憶を辿ろうとする。彼女がこの地にいたのは随分と幼いときのことらしい。思い出そうとしても思い出せないのかもしれない。


「確か、いや、そうだ、繋がってないっす。基盤が緩いとかで」


 居ても立ってもいられず、アキラは右の洞穴に向かって駆け出した。

 ベックベルン山脈に近づけば、またあのゴズラードとかいう魔物が現れるかもしれないが、アキラは迷わず駆け寄っていく。

 いざとなればこの岩山ごと吹き飛ばしてやればいい。もうひとつの洞穴とつなげてやれば、エリーたちを見つけやすい。


「て、手分けして探そう!!」

「自分はにーさんと!! みんなはあっちに!!」


 背後で誰かが騒いでいる。

 アキラはその音を置き去りにするように、暗闇の洞穴に飛び込んだ。


 空には、不気味なほど巨大な満月が浮かび始めていた。


―――**―――


 目的地がたったひとつの依頼は各所に散らばった。

 ここはヨーテンガースの大樹海。

 怖い怖い魔物が巣食う。


 ちゃんと信頼できると、“あなたが思った”人に請けさせなさい。


 ほらそこに、丁度いい場所がある。

 人里離れた緊急避難所。

 魔物だって大していない。


 例え魔物がいたとしても、自分がいれば安全だと、“あなたは思う”でしょう?


 みんな自分が思う通りに考えて、行動する。

 それは紛れもなく、自分で出した答えになる。


 だからすべて正しくて、だから“すべて思い通りになる”。


「来た……、来た……」


 耐え切れず、歓喜の声を漏らしたが、どうせ聞こえやしない。

 避難所のひとつの最奥。基盤の緩さが原因で、もうひとつの洞穴は繋げられなかったらしく、岩壁に阻まれている。この岩壁が崩れたら、この洞穴そのものが崩れるだろう。

 その柱とも言える岩壁の向こうでは、獣のような醜い叫び声が響いている。

 こちらの音など届きやしない。こちらはそちらの心地よい音が聴こえるけれども。


 その秘術の苦痛は常軌を逸している。

 だけど、逃げてはいけない。

 逃げてしまえば、望むものは手に入らない。

 それは紛れもなく、あなたが選んだものなのだから。


 だからすべて正しくて、だから“すべて思い通りになる”。


 つり上がる口元が抑えられない。


「……もう少し耐え続けて。耐え切れなくてもいいけれど」


 “その存在”は、笑い、嗤い、囁いた。


―――**―――


「っ、だ、はあ……」


 エレナはふらりとよろめいた。立ち眩みだ。

 儀式の最期の段取りをようやく終え、後は見守るのみとなったのだが、鈍い頭痛と共に視界が白黒する。


 段取りなどと格好の良いことを言ったが、エレナが賄ったのは儀式に必須である膨大な魔力だ。

 濡れた木に火を点けるかの如く、思っていたより反応の鈍い魔具に延々と魔力を流し続け、安定するまでほぼ全力で力を籠め続けた。品質に拘らなかったのは自分だが、あの宝石店の店員に文句のひとつも言いたくなってくる。


 もしかしたらここ数か月で本気を出したのはこれが初めてかもしれない。

 久々に感じる魔力による疲弊に、しかし爽快感も達成感も無かった。


「…………は。そっちはこんなもんじゃないわよね」


 中央から少し離れ、雑に座り込むと、いつもなら滴る間もなく拭き取る汗をそのままにし、エレナはその中央の存在を努めて冷静に眺めた。


 それは、死体にしか見えなかった。

 乱れに乱れた赤い髪を、深く刻まれた苦悶の表情を、千切れかけた下着姿の身体中を、涙や汗やらで泥まみれにし、暴れに暴れて人が取り得ない格好で倒れ込んでいる光景は、端から見れば“そういう事件”の後、捨てられた被害者にすら見えてくる。

 すでに喉も枯れたのか悲鳴は上がらず、よく見ると、時折痙攣したようにぴくりと指先が動いていた。

 どうやら今は気絶しているらしい。だが、すぐに休む間もなく強制的に覚醒させられ、また容易く意識が消し飛ぶほどの苦痛を徹底して浴びせかけられるのだ。


 だが、エレナはそんな彼女に、一切の同情はしていなかった。

 選んだのは彼女だ。そして選んだ彼女の周りには、それが実行できる環境が整っていた。

 幸運だと思うこそすれ、不幸などとはエレナは“思ってはいけなかった”。


 例外も多分にあるだろうが、そうした幸運な存在が、歴史に名を刻んでいることはままあるのだから。


「めでたしめでたし、ってね」


 魔力の疲弊はかなり深刻らしい。

 熱に浮かされたような頭のエレナ、弱弱しく笑って呟いた。


 多くの物語は、数多の苦難の果て、誰もが認めるハッピーエンドで締めくくられる。

 その苦難が糧となり、物語の中、最後に大いに笑う彼ら彼女らは、多くの者たちの希望となるのだ。


 だから、今の苦痛は、未来の成功につながっている―――とは、ならない。


 彼ら彼女らが希望となるのは、実際に苦難に苛まれている者が多いからだ。

 そして、ハッピーエンドに辿り着ける者は、無情にも、ほとんどいない。


 美談として語られるのは、成功を収めた者たちの苦難でしかなく、そうでない多くの者たちの苦難は、勿論ただの苦痛でしかない。


 では今、エリサス=アーティを襲う苦難は美談になるだろうか。

 客観的に言えば、確率が高いのはこの地で彼女を埋葬する未来だ。

 いずれは魔物か何かに掘り起こされ、餌になるのが現実味を帯びて目の前にある。

 今現在、“それすら望んでいるかもしれない”ほどの苦痛に苛まれている彼女は、未来辿り着くことは出来ず、彼女の挑戦は犬死にしかならないだろう。


 そしてそれは、他人事ではない。


 エリーがどういう結果になろうが、魔王の牙城は目前である。

 自分たちの苦難は、果たして美談になるだろうか。

 語られることも無い犬死になってしまうだろうか。


 ふと、港町で、あの小さな子供が似たようなことを言っていたのを、ぼんやりと思い出した。


「……!」


 儀式の進行を知らせる、3つめのコアロックが光を強めた。

 聞こえることも無い呟きが、先ほどのように機械的に口から漏れた。


「3つ目。来るわよ」


―――**―――


 異様なほどの激情が身体を突き動かしていた。

 全力で駆け続け、手も足も痺れ始めているほどなのに、より一層前へ前へと疾走する。

 ヒダマリ=アキラは、自分の行動を理解することが出来なかった。そしてそんな疑問すら瞬時に揉み消され、身体は突き飛ばされたように進み続ける。


 到着した洞穴は、人が数人は横並び出来るほど大きい通路が続いていた。

 自らが発する頼りないぼんやりとした灯りを手に、アキラは足元も見ずに駆け続けた。

 だが、いくら急いでも前へ進んでいる気がしない。

 不思議と風も匂いも感じない。いつしか自らが灯す光すら認識できなくなってきた。


 自分という存在が浮かび上がり、世界から切り取られたような感覚を覚えるも、暴れるように進み続ける。

 今の自分にできることは、たったそれだけだと思い込んでいるように。


「―――、っ!?」


 グンッ、と強い力で身体を引かれた。

 アキラの光など押し潰す銀の光が身体を纏い、全力で駆けていた身体が真後ろに吹き飛ばされる。

 辛うじて残った認識力が、引かれる寸前、眼前に淡い光の刃物のようなものが光ったことだけを捉えていた。


「レイディー!!」


 直後に走ったのは確かな銀の光だった。

 引かれるアキラを鋭く追い越し、アキラが直前までいた地点を直撃する。

 聞き取りにくい、掠れたような声が聞こえ、そこでようやくそこにいたのが魔物だったと確認できた。


「大丈夫っすか? にーさん」


 ほとんど衝撃も無く着地したアキラの背後で、いつもの半開きの眼が見上げてきていた。

 だが今日は、妙な凄みを感じる。

 その瞳にい抜かれて、アキラは呼吸を思い出したように息を吐いた。


「マ、マリス、い、今の」

「……メロックロスト。珍しいっすね、月輪属性の魔物っすよ」


 小さな破裂音のような件の魔物の戦闘不能を響かせてきた。

 マリスの声に、冷や水を浴びせかけられたように冷静になったアキラは、たった今、自分がその魔物に殺されかけたことを知る。

 だが、その恐怖を握り潰し、また足を踏み出そうとしたところで、マリスの半分の眼がアキラの方をじっと見てきた。

 相変わらず感情の読み取りにくい彼女の表情だが、アキラは自分が殺されかけたとき以上の恐怖を覚えた。


「マ、マリス、助かった。危なかったよ。だから、行こう」

「…………そうっすね。でも、多少は慎重に」


 恐る恐る声をかけると、マリスはぞっとするような横顔を見せた。

 熱がこもっていないどころか、周囲を凍り付かせるような冷酷な気配を、前方にまた現れた複数体の魔物に向けている。


 身体が金縛りにあう前に、アキラは剣を引き抜いた。


「……な、なあ。なんで魔物がいるんだ?」


 いつものことだが、マリスと話すと妙に冷静に慣れる気がした。

 多少は落ち着いたアキラの頭は、目の前の魔物たちに眉を潜めさせた。


 ひと抱えほどの球体に白いテーブルクロスをかけただけのような奇妙な存在がいくつか浮いていた。

 手も足も無く、その周囲に淡く光る鎌のような武具が共に浮かび漂っている。

 霊的な存在を思わせる目の前の存在たちは、マリスが言うところによると、メロックロストという月輪属性の魔物らしい。

 そのメロックロストたちは、こちらを認識しているのかいないのか、襲い掛からず相変わらず漂っている。

 もしかしたらアキラがかかったように、近づいた者にだけ襲い掛かる習性でもあるのかもしれない。


「ここって避難所なんだよな。何でも魔物がいる? もしかして、ここじゃないのか?」

「……いや」


 マリスは一瞬だけ目を瞑り、また目の前の魔物を睨む。

 というよりも、その先を捉えているようだった。


「……やっぱりここで合ってるみたいっすね。ねーさんたち。変な感じが奥からするし……。でも、だったら何で魔物がいるんすかね。侵略し尽くされているわけでもなさそうだし」


 先ほどの横顔は気のせいだったのか、マリスは目の前の魔物たちに注意を向けたまま軽く周囲を眺めた。

 アキラも、もしかしたら初めてかもしれない、自分たちがいる場所の様子を探る。

 壁はやや自然のままだが、所々が木材などで補強されていた。足場もかなり慣らされており、暴れるように進んだアキラが躓かなかったほど整備されている。

 随分進んだような気もするが、空気もそれほど薄くなっておらず、魔物が巣食う洞窟特有の異臭も無い。

 目の前の魔物たちがいなかったら、確かにここは避難所として適しているように感じた。


 そしてマリスが言うに、月輪属性の魔物は珍しいらしい。


「……“遠吠え”の魔物」

「……!」


 神妙な顔をしたマリスがぽつりと呟いた。


「そういえばそもそもここ、自分たちが請けた依頼の現場なんすよね。それが関係しているのかも」

「……また起きているのか。“妙なこと”が」

「まあ、行くしかないんすけどね。……でもにーさん、今度は慎重に」

「あ、ああ」


 念を押して、マリスはまたとぼとぼと歩き始めた。

 目の前に魔物がいるのに、端から見れば無防備に彼女は進み、彼女が通る頃にはメロックロストとやらはすべて四散していた。


 取り出したままの剣は、何の役にも立たないまま仕舞われた。

 逸る気持ちを抑え、アキラはマリスの後を追う。


 先ほどのまでの激情はようやく収まり、マリスの背を追うアキラは、しかし今度は別の悪寒に苛まれ始めた。


 妙なことが起こっている。


 目下探しているエリーたち。

 彼女は力を得るために、とある“儀式”を行うらしい。

 だが、アキラは思う。エリーはそれほど力に貪欲だっただろうか。

 数か月の付き合いだ、彼女を理解しているとはとてもじゃないが言うことは出来ない。

 ただそれでも、少なくともアキラよりずっと常識的にものを考えられる。


 あるいは、実は自分は、ここまで共に旅をしてきた彼女のことを何ひとつ理解していなかったというのだろうか。


 エリーのコンプレックスは知っている。

 前方を歩くマリサス=アーティは、このヨーテンガースという旅の終点でさえ安定して強大な力を発揮する“数千年にひとりの天才”。

 そんな妹を持つエリーの劣等感の大きさを、アキラは理解できていなかったのかもしれない。


 しかし、そんなエリーたちが訪れたのは、自分たちが同じ日に請けた依頼の現場だった。


 この依頼もやはりきな臭い。

樹海に生き、生業としている民族が、遠方のこの岩山から聞こえる遠吠えとやらに震えが上がり、テントの外に出ることさえできなくなっていたのだ。

 特殊な魔物でもいるのかもしれないと楽観的に考えていたが、考えれば考えるほど強い違和感が鼻腔を掠める。


 異変と異変が重なっているこの場所。

 ここまでの旅で経験した、“刻”とやらの影響だろうか。だが、その“刻”を予知で視たらしいあのホンジョウ=イオリは、何も知らない風であった。

 であれば取り越し苦労で、単なる偶然なのだろうか。


 否定はしきれない。だが、納得が出来ない。

 そんな妙な悪寒が、頭にこびりついて離れなかった。


 目の前のマリスは、自分が考え着くようなことなどとっくに思いついているかもしれない。

 あるいは、思いついた上でなお、アキラを襲う悪寒程度など彼女の前では些事に過ぎないのだろうか。


「……なあ、マリス」

「……しっ」


 我慢できずに口を開くと、マリスがアキラを手で制した。

 また魔物が出たのだろう。

 今度こそは役に立とうとアキラは剣を引き抜いた。


 毎度のことだが自分が酷く矮小に思える。

 今の自分は、感情のまま洞窟に飛び込み、勝手に危機を迎えて救ってもらっただけの存在だ。年下の女の子に庇われているというのも、相変わらず何とも格好がつかなかった。


「……任せろ」


 鬱陶しくも頭に纏わりつく悪寒を振り払うように、アキラは慎重にマリスが睨む先に近づいた。

 見ると、薄ぼんやりと、また何やら球体の存在が、ふわふわと浮かんでいた。


「なんだ……? さっきと微妙に違うよな」

「……パールスフィア」


 ぼそりとマリスが呟いた。

 先ほどのメロック何とかと違い、目の前の完全な球体の魔物はパールスフィアというらしい。

 以前、アイルークのサーカスがあった町で大量発生した何とかスフィアと同種に見えるが、目の前の存在は手足も、そして顔すらも無く、銀の光をぼんやりと纏って浮かんでいた。


 相変わらず魔物の名前とやらは頭に入ってこない。

 だが、討伐する対象には変わらないだろうとアキラは不用意に刺激しないようににじり寄る。


「やるぞ……!!」

「ま、待った!! にーさん、パールスフィアはっ!!」


 珍しくマリスの焦った声が聞こえた。

 往々にして、こういう場合はろくなことが無い。

 大人しく指示を仰ごうと振り返ると、マリスの背後、また、ぼんやりと銀の光が浮かんでいた。


「っ―――」


 マリスも背後の魔物の接近は瞬時に察していた。

 しかし、先ほどのように鋭く魔術を放つことなく、警戒しながらアキラに身を寄せてきた。


「マ、マリス? どうした?」

「パ、パールスフィアはそこらの魔物と違うんすよ……、野に放つような魔物じゃなくて、魔族が目的を持って生み出す魔物っす」

「や、やばいことは分かったが、倒すんだよな? ……ん? 目的?」


 マリスの気配が鋭くなったのが分かった。これも珍しい。

 そして、それと同時、今までぼんやりと浮かんでいただけのパールスフィアが、宙で回るような仕草をした。まるで周囲と自分をこすり合わせているような動きに比例し、ぼんやりとしていた銀の光が徐々に強さを増し、時折、稲光のように瞬いた。


 その光景が、どうも。

 戦闘不能の魔物が発する、爆発寸前の光のように見えるのだ。


「っ、ま、まさ、か……!!」


 示し合わせたように、前方も後方も、現れたすべてのパールスフィアが瞬いた。

 アキラは反射的に天を見上げた。

 こうした状態になった魔物からは一も二も無く逃げ出すのが定石だが、ここは洞穴である。

 逃げようにも逃げられないのも事実だが、こんな場所で複数体が同時に爆発でも起こそうものなら、洞穴そのものが崩れ落ちる。


 そして、津波の予兆のように、パールスフィアたちが纏う光がその球体の身体に吸い込まれるように、消えた。


「ディセル!!」

「―――っ」


 ぐいと身体を引き寄せられた。

 思わずマリスの腰に抱き着くように倒れかけたアキラは、自分たちの周囲に、より色の強い銀の壁が現出していることに気づいた。


 その、瞬間。


「づ―――!?」


 一瞬目を焼かれたかと思った。

 薄暗い洞穴は光に包まれ、通路の岩が氷菓子のように砕けていく。

 だが、最前席にいるアキラは、その衝撃をまるで感じなかった。まるで元の世界のテレビか映画で、爆発シーンが流れているような感覚を味わう。

 マリスが発動したのは何らかの防御魔術なのだろう。リトルスフィアの小さな身体からは想像もできないほどの強大な爆撃も、そよ風ひとつ届きはしない。


 だが、問題はそれだけではない。

 洞穴どころか岩山自体の破壊がありありと見えた。

 このままでは生き埋めだろう。それどころか、この山にはサクたちも、そして探し人のエリーたちも同じように入っているのだ。


「っ、フリオール!!」


 パニックになりかけたアキラは、その声が聞こえて、自分が妙に冷静になったのに気づいた。眼前の現実離れした景色がまるで他人事のようにさえ思えてくる。まるで、夢の世界に捕らわれたような感覚に陥った。マリスといると、たまに味わう感覚だ。

 とうとう目の前の景色は銀一色で染まり、何ひとつ視認できない。

 何もできず、熱に浮かされたようにぼうっとしていると、徐々に、光が収まり。


 “元の洞穴の通路の中にいた”。


「…………は?」


 目がチカチカする。擦ってみると、少しはマシになった。

 だが、おかしいのは、自分ではなく、目の前の光景だと気づいた。


 アキラは、壁も、天井も、自分たちが歩いてきた道も、パールスフィアの爆発で消し飛んでいく光景を特等席でしっかりと見ている。

 だが今、目の前には、銀の光を纏っていることだけが違う、先ほどまでと全く同じ光景が広がっていた。


「……パールスフィアがいるってことは、やっぱり異常っすね」

「マリス? ぶ、無事か、……何を」

「パールスフィアは爆発専門の魔物なんすよ。生まれた意味も、生きる意味も、完全に戦闘用の魔物。……そんなの、何もないところに現れないっす」


 両手を付き出していたマリスは、ゆっくりとその手を卸し、だぼだぼのマントに仕舞った。

 だが、彼女の身体にも銀の光が纏わりつき、今なお魔法を使い続けているらしい。


「…………こ、ここを、支えているのか」

「崩れさせるわけにはいかないじゃないっすか」


 マリスは静かに呟いた。

 注視すると、自分たちの周囲の壁や天井には不自然な細かい亀裂が入っていた。

 銀の光が接着剤のように岩を、いや石を、いや、もしかしたら土埃をつなぎ止め、洞穴の形状を保たせているようだ。

 いや、これほどとなると、最早新たに作り出したとさえ言っていいかもしれない。


 そしてその規模はアキラが見えている範囲に留まらない。

 あの壮絶な爆発がもたらした被害は、下手をすれば岩山全体に広がっている。


「さっきと逆っすけど、にーさんの言った通り急いだ方がいいっすね。儀式以前に、ここは危険っす」

「あ、ああ」


 背筋にぞくりと冷える何かが走った。

 天才という話は聞いていた。その規格外の力をアキラは今まで幾度となく見てきている。

 だが、目の前のマリサス=アーティという人物が、手を伸ばせばすぐにでも触れられる距離にいるこの人物が、今、現実の存在と思えなくなった。

 アキラは未だ夢の世界に捉われていて、マリサス=アーティはその世界の住人と言われた方がまだ理解が出来る。

 元の世界から見れば、空想そのものと言えるこの異世界のことをアキラはまだまだ知らない。だがこの人物は、その空想の世界の中でさえ、理外の存在であった。


 自分の理解の及ばない、その、さらに先の先の世界の住人。

 隣に立っているだけで、まるで自分の方がこの場にいてはいけない存在のような気さえしてくる。

 そして、そんな存在と共に長年暮らしていた姉がいる。


「にーさん?」

「……悪い。急ごう」


 浮かされたようになっていた頭を振り、アキラは駆け足になったマリスに続いた。

 いずれにせよ、マリスがいなければ自分たちはここで落石に遭い、全滅していた。感謝すべきなのだろう。


 軽く胸を叩き、アキラは銀に輝く世界で足を進めた。


―――**―――


「これは……?」


 ホンジョウ=イオリは吹き鳴らそうとした指を下ろし、銀の世界を注意深く観察した。


 突如として轟音が響いたのはつい先ほどのことだ。

 続く地鳴りに洞穴の倒壊を予期したイオリが召喚獣を呼び出そうとしたところで、銀の世界に包まれたのだった。


「彼女だ……!」

「……マリサス、なのか」


 身を伏せていたサクが立ち上がり、表情を険しくして周囲を伺っている。

 騒動の最中投げ捨てられた松明はくすぶり転がっているが、最早光源など必要が無いほど周囲は光り輝いている。


「…………」


 イオリは慎重に輝く壁に手を当てた。

 銀の光はまるで抵抗なく、岩肌の感触が伝わってくる。周囲を伺うと、衝撃の影響だろう、いくつか亀裂が入っていた。だが、この銀の光がまるで接着剤のように隙間に詰め込まれ、あるいは元の壁よりも安定させている。

 この様子であれば、アキラたちが向かった方も、もしかしたらこの岩山全体かもしれないが、すべて同じように銀に輝いているだろう。

 イオリは、その道に明るい魔導士として断言できるが、これを実現することは“不可能”だ。

 だが、それが今目の前にある。


「こ、これ、え、ほんとにマリにゃん、ですか……、え」

「……彼女ならできる」


 同じように伏せていたティアが、そのまま恐る恐る周囲を伺い、地鳴りが響いたとき以上に動揺していた。

 魔導士のイオリが呑み込めない事態なのだ、ティアが目を白黒させているのも分かる。

 だが、サクは妙に確信していた。


「以前、彼女とふたりで組んだ依頼のときだ。……似たようなことがあった」

「それは、僕たちがアキラ以外の“勇者様”と依頼をしていたときの?」

「ああ」

「そういえばあのとき、おふたりとも遅かったですよね。あっしが待ちきれずに寝ちゃうくらいでした」


 確かにあのときの話をイオリもあまり聞けていなかった。

 こちらの方が大きな事件に巻き込まれたせいで、魔術師隊への説明や事後処理に奔走し、仲間内でももっぱら話し手に回ることになっていた。

 サクたちも積極的に話そうとしなかったから情報収集を横着していたが、そちらの方でも何かあったらしい。


「いや、依頼自体は大したことは無かった、と思う。場所はここと似たような洞窟だった。奥にいる魔物を倒してくれ、というものだ」

「……まさか」

「ああ。その途中だ。どこかで魔物同士でも争ったのか、今のように突然洞窟が崩れて……、そして、今のように防がれた」


 サクからしてみれば2度目の光景らしい。

 イオリは自分の横着を恨んだ。

 自分たちの方が大きな事件ではあったらしいが、もう片方ではこんな“奇跡”が起こっていたという。


 “不可能を可能にする属性”。

 イオリの“予知”はもちろん万能ではない。

 月輪属性というものは、これほど常軌を逸しているというのだろうか。

 あるいは、“彼女”そのものが、だろうか。


 そしてもうひとつ。


「…………先を急ごう。妙な感じがする。こんな事故が短期間で頻発するなんて、そっちも奇跡的な確率だ。……それに」


 銀に光る洞穴の先を睨み、イオリはナイフを取り出した。

 そして狙いを定め曲がり角へ向けて投げる。すると、魔物の短い悲鳴が上がり、小さな破裂音が届く。


「魔物がいるのもおかしい。……ここは避難所なんだろう?」


 あまり使われていないようだが、避難所となればそれなりの魔物対策が施されているはずである。

 それにも関わらず、進行速度が大きく削られるほど魔物が出現するというのも妙な話だ。


「イオリさん」


 背後に続くサクが、神妙な声色で言った。


「伝え忘れていた。実は私たちは、ここにいるらしい魔物を倒せという依頼を請けているんだ」

「……大量発生しているのかな?」

「いや、違う。なんでも、その、遠吠えをする魔物を、だ」


 妙に歯切れの悪いサクの言葉に、イオリは目を細めた。

 一連の騒動の中で見落としかけていたが、そもそも妙なことはとっくに起こっていた。


「そういえば、イオリさんたちはどうして私たちがあの場所にいると分かったんだ?」

「僕たちは依頼書頼りに行動したんだよ。まず、依頼主のカトールの民を探し出したんだ。そこで、」

「……彼らに会ったのか」

「……そこで、何故か口を閉ざしがちな族長から、苦労して話を聞き出したんだよ」


 最初に違和感を覚えるべきはあそこだった。

 イオリはティアと共に大慌てで向かったカトールの民の野営地を思い出す。

 テントが乱立し、一見賑わっているようで、誰ひとり外では顔を見なかった。

 無人かと思いもするような閑散とした野営地を練り歩き、探りに探ってようやく族長らしき人物と出会うまでにどれほど時間を取られただろう。


「ようやく聞き出せたのは、君たちがベックベルン山脈へ向かったということだけ。急いでいたからね、依頼の細かな話なんて聞いていられなかったんだよ」


 イエスかノーで聞かなければほとんど会話にもならなかった。

 だが、このヨーテンガースの樹海で生きる者にしては、来訪者のイオリに妙に怯え、精神状態が不安定だったように思える。


「ならイオリさん。直接出会ったなら感じたと思うが……」

「……ああ。確かに、カリスに似ていた」


 脳裏に掠めた嫌な予感。

 サクが言わんとすることが分かってしまった。


 不審な態度を取るカトールの民。敵意なら部外者に対して多少なりとも抱くだろうが、少々度を越していたように思える。

 絶対ではない。だが、腑に落ちない。

 そんなあやふやな感覚を、今日だけで何度も味わっている。


「……そう、か」

「……?」


 小さく呟き、イオリは拳を震わせた。

 手のひらには、じっとりと汗が滲んでくる。


 “そうだった”。


 何もかもが不確かで、あやふやで、嫌な予感だけが頭を過り、“そしてそれ以上の悲劇が起こる”。

 それを、自分は、“視ていた”。


「……本当に急ごう。これは、本格的にまずそうだ」

「待て」


 イオリが駆け出そうとしたところで、サクの強い口調が止めた。

 振り返ると、銀に輝く世界の中で、サクは鋭く射抜くような視線を向けてきている。

 カリスのことを思い出したお陰で、それが、刀を向けられたあのときと同じ色であることはすぐに思い出せた。

 あるいは、そのとき以上、だろうか。


「イオリさん。本当にいい加減にしてくれ。何か分かったんだろう? だったら、それを教えてくれないか」

「……」


 サクから向けられているのが、敵意だけでないことにも気づけてしまった。

 緩まりそうになる口を、イオリは強く結んだ。


「少しでもいい。何かが起きているなら、何かが分かったなら、それを伝えてくれないか。そうでなければ、私たちは何もできないだろう?」


 悲しい声色だった。

 イオリが視た予知の話は、アキラにしかしていない。そんな自分は、彼女たちからどう見えているのか。

 少なくとも、同じ打倒魔王を目指す仲間だというのに、蚊帳の外のような気分を味わうだろう。

 サクは真面目な少女だ。その歯がゆさを、真正面から感じることになる。

 そしてそれは、怒りや悲哀に繋がるだろう。


 イオリは目を細めた。魔術師隊にいたときも同じようなことは幾度もあった。

 自分はあのときから、やはり何も変わっていない。


「イオリン。私もお願いします。確かにそうですよ、こんなのばっかじゃ、イオリンも……」


 ティアの声は小さかった。だが、強く感じる。

 初めて聞く声色かもしれない。また、口元が緩みそうになった。


「私だって、その、少しは分かります。きっとイオリン、何か大変な感じなんですよね。私じゃきっと分からないことだから、聞かない方がいいと思ってました。……でも多分、私はこのままじゃいけないって思うんです。ちゃんと向き合わないと、イオリンたちがもっと大変になるんだって」


 いつもからから笑っている彼女でも、流石に感じ取っている。

 いや、誰にでも分け隔てなく関わろうとする彼女だからこそ、こうした不協和音には敏感なのかもしれない。

 手を差し伸べようとして差し伸ばせないというのは、どれほどの苦痛なのかは他ならぬイオリはよく知っていた。


「…………今は、急ごう」

「イオリン……!」


 “予知”のことは話せない。

 イオリは拳を強く握った。

 この“予知”は、強力な“呪い”のようなものだとイオリは思っている。

 未来を知るというのは、自分に対する“束縛”だ。

 視たものに従うのか、逆らうのか、それを都度都度考えなければならなくなるのだ。

 この2年、イオリはその“呪い”と戦い続けてきたのだ。

 彼女たちに話せば、その苦を背負わせることになる。本当はアキラにだって話したくは無かった。


「…………」


 いや、と、イオリは拳をほどいた。

 それも結局言い訳なのかもしれない。


 多分自分は、怖いのだろう。

 未来を知って、勝手なことをして、この世界に“バグ”を生み出したことを彼女たちに知られるのが。

 その非を晒す勇気が無いから、それらしい理由をつけて、誤魔化して、嘘を吐く。

 いっそ楽になってしまった方が良いのかもしれない。


「エリにゃんが大変なことになっているのに、そんなの無いですよ……!!」

「……。……!」


 そこでふと、イオリは目を見開いた。

 先ほどまであれほど鬱陶しく襲ってきた魔物の襲撃がぴたりと止んでいる。

 揺らぎかけた思考を強引に引き戻し、鋭く周囲を警戒した。

 自分に対峙するように立つふたりは、変わらず神妙にこちらの様子を伺っている。

 今まで、あれだけ急いでいたにも関わらず。


 これは、“やはり”。


「“サーシャ=クロライン”……!!」

「……?」


 イオリは苦々しく呟いた。呟かずにはいられなかった。

 同時に予感は確信に変わる。


 苛立ちながら、イオリはふたりの前で強く手を叩いた。


「ふたりとも真剣に聞いてくれ。今、僕たちは“攻撃”を受けている」

「イオリン……?」

「な、なにを」


 ふたりが戸惑うのも無理はない。

 ふたりは自分で考えて、自分でイオリに強い懐疑心を持っただけなのだから。


「悪いが話は後だ。今すぐエリサスを探しにいくよ。“全滅したくないなら従ってくれ”」


 ふたりの視線を押し返し、イオリが前を向いた途端、奥から魔物の群れが接近してきた。


 見計らったようなタイミングだ。

 “これ以上の時間稼ぎは無理だと思ったらしい”。


 これは、間違いなく“あの魔族”が介入している。


―――**―――


「やっぱりあんたたち、か……」


 銀の光に照らされた洞穴を進み続けると、うねるような曲がり角の先、ひとりの女性が辟易したような表情を浮かべて立っていた。


「エレナ……!」


 銀とは別の薄ぼんやりとした光を背に、探していた人物は不敵に笑う。

 熱に浮かされたような感覚を振り払い、アキラは詰め寄るようにエレナに歩み寄った。

 感情そのままに掴みかかろうと仕掛けるも、しかし、彼女の様子に足が止まる。

 彼女は普段の不遜な態度ではなく、憔悴しているように見えたからだ。


「急に崩れ始めたと思ったら……、光るし。まあ、あんたがいると思った、わよ」


 エレナはアキラの背後のマリスを見やり、また壁に身体を預ける。

 足元もおぼついていないようだ。

 だが、憔悴しながらも、まるで悪事がばれたような表情を彼女は浮かべていた。

 察しの良い彼女のそういう様子で、アキラは拳に力が入る。

 どうやら聞いていた話通りのことが起こっているようだった。


「……あいつはどこだ」


 当然見当はついている。

 だが、エレナの口から直接聞きたかった。あるいは聞きたくないことなのかもしれない。


「奥よ。……私もちょっと無理し過ぎちゃってね、休憩中」

「…………本当に、やっているのかよ」

「は。……そういう聞き方するのね。事情は分かっているくせに。あーあ。色んなところでした話だし、誰かしら聞き耳でも立てていたのかしら」

「…………」


 エレナの表情が見えなくなったような気がした。

 アキラは目を擦り、短く息を吐いてエレナの背後、ぼんやりと紅く光る洞穴の先を睨んだ。

 これ以上エレナの前にいると、いよいよ自分の感情に名前が付けられなくなりそうだった。


「待ちなさい」


 エレナが声だけで止めてきた。冷酷にさえ思えるほど低い声だった。


「行ってどうする気?」

「……止めるに決まってんだろ。強くなるのかどうか知らないけど、命に関わるんだろ」


 今度はエレナが短く息を吐いた。


「あの子は理解した上で選んだのよ。そんなの個人の自由でしょう。それを止めようっていうの? 打倒魔王を掲げる勇者様が」

「…………だけど、いや、それでも」

「私たちがこれから行くところは仲良しこよしって次元じゃ話にもならない場所なのよ? それなら今賭けに出るのは悪い話じゃないじゃない」


 勇者の責務。諸悪の根源とやらの魔王との戦闘は目前に迫っている。そんなことは分かっていた。

 きっと生半可な力ではエレナの言う通り話にもならないだろう。善は急げというわけではないが、どの道命をかけるならば早い方がいいのかもしれない。

 だが、エレナが何を言っても軽い言葉にしか聞こえなかった。

 理に適っているように思えて、聞いているアキラも、そしてあるいは言っているエレナも、中身の無い言葉だと感じてしまっているように。


「……なんで」


 アキラは自分の声が震えていることに気づいた。

 とっくに分かっていたことだったかもしれない。

 エリーとエレナが企てたことを聞いたとき、自分でも信じられないほどの激情が胸を襲った。

 焦燥、不安、怒りも覚えた。

 いつものように楽観的に、何とかなると思い込むことすらできなかった。

 だが、もしかしたら自分が最も感じていた感情は、悲哀なのかもしれない。


「止めてくれなかったんだよ」


 あのエリーが端から聞くだけで愚かなことをするとは思わなかった。

 そしてそれと同時に、エレナにも、そんな愚かなことをする仲間を止めてくれるだろうという信頼を置いていた。

 アキラはこの異世界に来てまだ数か月しか経っていない。彼女たちと出逢ってから共に旅をしたのも短い期間だ。

 この世界の常識を知っているとも言えないし、彼女たちのことを知り尽くしているとはもっと言えない。

 だがこの旅を通して、ほんの僅かでも彼女たちと同じ時間を共有して、多少は意思疎通できていると思っていた。


「……ふ、ふふ。私が……、そんな人間に見える?」


 エレナ=ファンツェルンという人物のことを、ヒダマリ=アキラはほとんど知らない。

 彼女が自分たちの旅に同行しているのも、彼女自身の目的のためにアキラたちの力を利用しようとしているからだ。

 だが、そんな登場人物紹介の一文のような関わりではなく、もっと根柢の部分に何らかのつながりがあるとアキラは信じたかった。


―――“また”、なのだろうか。


 自分はまた、表面上だけ眺めて、無邪気に喜んで、その裏にはびこる闇に眼を背けていたのだろうか。

 また自分は、目の前で壊れる世界を見ることになってしまうのだろうか。


「……見たかった」

「……」

「止めて、欲しかったんだ」


 それでもその表面上の何かにしがみ付くように、アキラは声を絞り出した。

 あれだけ力が入っていた足は宙に浮いているようにおぼつかない。

 自分はどんな表情を浮かべているだろう。何もかもが分からなくなり、力なく振り返ると、エレナは、表情を歪ませて、アキラを睨みつけてきた。


「エレ、ナ……?」

「止めて、欲しかった、です……って?」


 息も絶え絶えなエレナの、しかし強い瞳は、アキラを射抜くようだった。だが、その感情がまるで見えない。もしかしたら先ほど自分も、同じ表情を浮かべていたのかもしれない。


「“私”が止めるわけにはいかないでしょう。……同じ方法で力を手に入れた私が。はっ、『命を賭けるなんて駄目よ』って? 『あんたが無理しなくても私らがいれば何とかなる』って? 『私は出来たけどあんたは無理だから止めなさい』って? 言えるわけねぇっての」


 エレナは一気にまくし立てた。堰を切ったようなその言葉たちは、ずっと前から用意されていたかのように思えた。

 彼女は壁伝いにずるずると座り込み、甘栗色の綺麗な髪をガシガシとかいて顔を伏せた。


「つい、よ。ついあの子の前で、何の気なしに話しちゃったこと、あの子がそんな真剣に受け止めるなんて、分かるわけないっての……」


 お節介にも人の心を開く日輪属性のスキルでも発動しているのかもしれない。

 始めて聞くエレナの声色に、アキラは何も言えなかった。

 エレナ=ファンツェルンも、その“儀式”とやらを行った。そしてその成功例として、膨大なまでの魔力を手に入れていた。

 そんな彼女が、同じことをしようとした人間を見たらどう思うか。いや、エレナ=ファンツェルンは、“どうすべきか”を考えた。

 自分にできたことに挑戦する者がいて、それを止める権利が最も無いのは、その当人なのかもしれない。


 そしてその方法を、つい、エリーに漏らしたというエレナ。エリーがどう思うか、どれほど強く思ってしまうか想像もできずに。

 アキラは自分の額に拳を当てた。

 アキラがエリーやエレナのことが分からないように、エレナもエリーのことは分からないのだ。


「……止めて」


 ぼそりとエレナは呟いた。

 顔を伏せているエレナから、先ほどアキラが彼女へ向けていた感情を向けられている気がした。


 アキラもエリーの様子がおかしいことは感じていた。

 だが、何もできなかった。いや、しなかったのかもしれない。


 ほんの些細な言葉でも良かったかもしれない。

 もう少しだけ、彼女との時間を作れば良かったのかもしれない。

 そうすればエリーもそこまで思いつめることも無く、何かが変わっていたのかもしれない。

 だからエレナから強く言われているような気がするのだ。


「私でも、そこの天才ちゃんでも、言っていいことじゃない。でもアキラ君、最近そうよね……。“具現化”を使ってないあんたなら、言葉も届くでしょう」


 止めていいのは、お前しかいなかった、と。


「……行ってくる」


 ごくりと喉を鳴らし、アキラはエレナに背を向けた。

 きっと自分はどうしようもなく愚かだから、あらかじめ知っていてもエリーを止められなかったかもしれない。エレナの怒気のような何かは、八つ当たりのようなものだ。エレナだってもちろんそれは分かっている。

 そして、アキラ自身を支配していた黒い感情も、同じ八つ当たりなのかもしれない。

 だがアキラは、ほんの少しだけ救われたような気がしていた。


「ああ、そうだ」

「?」

「まだ生きちゃいるけど、結構酷いことになっているから、あんまり見ないであげなさい」

「は?」


 エレナの声が、優しく聞こえたような気がした。


 その、瞬間。


「―――っ!?」


 突然の爆音に身体中が飛び跳ねた。

 よろける身体を、岩壁を殴って強引に押さえつけると、反射的に頭上を見上げる。

 また崩壊かと身構えようとするも、周囲の銀は変わらず強固に崩壊を防いでいた。


「っ、」


 弾かれるようにアキラは駆け出した。

 一瞬だけ見えたマリスの表情は強張っていたように思える。


 現在この洞穴はマリスの力によって支えられている。

 何が起ころうと崩壊することは無いだろう。


 だが、そうだとするのならば、今の振動、そして、岩が崩れるような轟音は何なのか。

 そしてそれは、寄りにもよって紅い色が漏れる奥から聞こえてきたのだ。


「ここか!?」


 奥の間に飛び込んだアキラは、紅と銀が混ざり合った土煙をどっぷりと浴びた。

 強引にこじ開けた瞳が、だだっ広い空間を捉える。

 ここが避難所なのだろう。

 無駄と分かりつつも腕を振り回して煙を払い、エリーの姿を必死に探す。

 “儀式”とやらが何をしているかは知らないが、単純に事故現場でしかないこの洞穴からは即座に脱出しなければならない。


「!?」


 目を凝らしていたアキラは、それらしいものを見つけた。

 部屋の中央付近。マジックアイテムと思しきいくつもの宝石が、魔法陣のようなものを描いている。

 そしてその中央、いや、“その上”。

 下着姿で泥だらけになり、意識を失っているようでだらりと手足を下げて項垂れているエリーが、“宙に浮いていた”。


「は……?」

「グ―――」


 呆気にとられたと同時、ぞくりとするほどの寒気が身体を襲った。

 “銀”に輝いて浮かされているエリーが、そのままふわふわと宙を舞って離れていく。

 それを視線で追えば、避難所の岩壁が吹き飛ばされたように崩壊し、その奥は巨大な空洞が広がっていた。

 そしてその穴、吸い込まれるように飛んでいくエリーの向こう、崩壊した壁の穴いっぱいに、巨大な眼光がこちらを睨みつけていた。


「ま―――」


 それでもアキラは反射的にその眼光へ駆け出した。

 ようやく見つけたエリーが離れていくのを見て、またあの激情に突き動かされる。

 壁の穴の向こうのその眼光の主は、アキラなどひと呑みにできそうな牙の生えた大口を覗かせると、しかしすっと身を引いていく。


「マッ、マリス!!」


 状況の理解がまるでできないままアキラは叫んだ。

 エリーはそのまま岩壁の向こうへ浮いていく。

 そしてエリーが通ると、まるで時を巻き戻しているかのように土煙も、そして崩れて散乱した岩が浮かび上がり、もともとそうであったのだろう元の岩壁を作り出す。

 あっという間に、この広間からエリーの姿だけが連れ去られた。


「離れて!!」


 室内は銀一色に染め上げられた。

 マリスが駆けながら腕を振ると、直ったばかりの岩壁だけ銀の光が消え去る。

 その部分だけ魔法を解いたのだろうか。

 この洞穴の中で唯一眼前の岩壁だけが崩壊していたことを思い出したように、また土煙を上げて崩れ去っていった。


「なに、が、何が起きてんだ!?」

「わっ、分からないっす!! でも、“干渉された”!! 今自分がやったみたいに、自分が支えている洞穴の、一部を一瞬だけ崩されたみたいっす!!」


 何やら高度な何かが起こっているらしい。

 理解することを放棄し、アキラは勢いそのままに隣の洞穴に駆け込んだ。

 するとまた、だだっ広い空間が姿を現す。

 どうやらこの最奥の間は分厚い岩壁で2分されていたらしい。

 エリーとエレナがいた元の部屋と、エリーが連れ去られてアキラたちが駆け込んだ空間はほとんど同じ大きさのようだった。

 基盤の関係か何かでつなげることが出来なかったのであろう避難所は、今、マリスの操る魔法によって本来目指すべき巨大な洞穴となっていた。


「―――!?」


 そして、目先の光景が目に飛び込んできて、アキラは硬直した。

 つながった隣の間。アキラの正面の上に、泥で汚れた赤毛が見える。

 先ほどこの広間に吸い込まれていったエリーは、建物数階分ほどの高さにある岩の窪みに、まるで鳥の餌か何かのようにうつ伏せに寝転ばされていた。

 その乱雑な扱いにアキラはまた激昂しそうになるも、生物としての本能が強引に身体を抑え付けた。


 すぐにでも近づきたいエリーの手前。

 そこに、巨大な銀の生物が門番のように立ち塞がっていた。


「……こいつ、は……?」


 動物の種類で言えばオオカミだろう。

 だが、4足歩行でもその高さは4、5メートルは下らない。

 全身を覆う体毛は、洞穴の輝きに勝るほどの純銀。まるでその1本1本が刃物のように鋭く逆立っている。

 身体の比率からして妙に口が大きく、覗かせる牙は人体ほどの太さもあり、地面に穿つ爪も合わせ、全身が凶器で構成されているようだった。

 涎を垂らし、いかにも獰猛そうな睨みを利かせるその貌には、何故か額に、銀に輝く身体に比べれば醜くも見える泥色の宝石のようなものが埋め込まれていた。


「……ル、ルーファング……っす……!!」

「――――――ゥゥゥゥゥゥオオオオオオオオオオオオンッッッ!!!!」


 その聲で、洞穴が消し飛んだかに思えた。

 吠えたルーファングとやらはギロリとこちらを睨み、獲物に飛び掛かる寸前にしか見えなかった。


「こ、こんなのがいんのかよ、ヨーテンガースって……」

「こんなとこにいるような魔物じゃないでしょ……、月輪属性の化け物よ……!?」


 ふらつきながらも追いついてきたエレナの言葉で、アキラはようやくこの場での“異変”を思い出した。

 カトールの民が恐れていると言った、“遠吠え”の魔物。

 こんな化け物に吠えられたら確かにテントに閉じこもりたくなる気持ちも分かる。

 だが、そこで、アキラはまた違和感に襲われる。

 周囲を伺い、自分たちが入ってきた通路、そして、この広間にもあるもうひとつの通路を睨む。

 こんな巨大な化け物は、一体どこから入り、どこから出ていくというのか。


「にーさんたち!! 自分が相手をするっす!!」

「―――、」


 一瞬でマリスの姿が遠くなった。

 マリスはアキラとエレナを魔法で飛ばしながら、単身ルーファングに突撃していく。

 より一層濃くなった月輪の銀に視界が焼かれるも、アキラは自分がやるべきことをすぐに察する。

 今はマリスとルーファングの戦いから迂回して、エリーを救出するべきだ。


「おい!! 大丈夫か!?」


 駆け出しながら、高所で寝転ばされているエリーに呼びかける。

 しかし応答は無く、彼女はピクリとも動かない。

 “儀式”とやらの影響だろうか。一刻も早く彼女の安否を確認したいが、それよりも戦場と化しているこの空間から引き離す方が急務に思えた。


「おいっ!!」

「ぐっえっ」


 すぐに壁をよじ登ろうとしたアキラの襟を、エレナが強く引いた。

 首が締まるが目の前に、ルーファングの凶器の体毛の尾が振り下ろされたのでは文句も無い。

 たまらず一時離脱すると、ルーファングはまたマリスに集中したようだった。先ほどのは偶然ではなく、エリーに近づいたゆえのけん制だったらしい。


「……今は無理ね。離れるわよ」


 万が一にもこの男が勝手な行動を取らないようにとしているのか、エレナは襟をつかんだままアキラを引いた。

 だがエレナはいつもよりもずっと力が弱く、時折足元がふらついている。

 儀式とやらで何かをしていたのか、エレナは随分消耗しているようだ。

 かえって逆らう気が起きず、アキラは後ろ髪を引かれる思いで続いた。


「あの天才ちゃんが来て助かったわね……。流石にこんなに狭いとこであんなのとやり合うのは手間よ」


 マリスとルーファングとやらの交戦は激しさを増していた。

 銀の発行体となったマリスは宙を飛び交いルーファングに光弾を降り注ぎ続けている。

 対してルーファングもその巨体で機敏に操り、牙を、爪を、尾を振り回し、マリスを責め続けていた。

 マリスの移動速度やルーファングの巨体から、あれほど広く見えていた空洞が窮屈に思える。だが双方限られた空間をすべて使い潰すかのように暴れ回り、高密度の戦場が作り上げられていた。

 暴れ回るルーファングの周囲は、地面も岩盤も、まるでバターのように斬り割かれている。接近しようともすれば、アキラなど一瞬でバラバラにされるであろう。

 その直近にいるエリーは、気を失っているのがむしろ功を奏しているようで手を伸ばせば届くほどの至近距離にある極限状況の被害には遭っていないようだった。

 それがむしろ、アキラの中の激情を暴れさせる。


「……儀式は中断されたみたいね……。良かったかどうか分からないけど。……アキラ君」

「……!」


 上げようとした手がエレナに鋭く掴まれた。

 ほとんど条件反射で動き出した右手を掴んだエレナの力は弱いのに、握り潰されるほど痛く感じた。


「やるつもり?」

「……だってよ、これは流石に」

「“せめて”あの天才ちゃんに任せなさい。まだ大丈夫でしょう。……意味が分からないとは言わせないわよ」


 エレナには、目の前の壮絶な光景が追えているのだろうか。

 今にも巻き込まれそうに見えるエリーはマリスが上手く立ち回っているお陰で被害を受けていない。

 エレナの見立てでは、マリスには幾分余裕もあるのかもしれない。

 だが、その域に達していないアキラにしてみれば気が気では無かった。

 だからこそ、その領域すらをも超越する力を行使したくなったのだ。


「ち……。好きにすれば」


 何かを思い出したように舌打ちし、エレナが手を離した。

 だが、アキラは手を動かせなかった。


 今ここであの力を使うと何が起こるか。

 それは今までの旅が教えてくれている。


 何のリスクも無く結末を迎えられる。

 ヒダマリ=アキラが有する具現化の銃は、ただの1度も裏切られたことのない絶対的な力だ。

 しかし、望んだ結果を得続けたはずこの旅は見事に歪んでいる。


 世界の“バグ”を生み続けたちぐはぐな旅。

 完璧な結果だけが並び続けたその奥で、アキラの知らない何かはいつだって始まって終わっている。

 エリーとエレナが怪しげな儀式とやらを強行したのも、きっとその奥での出来事だ。

 滲み出てきたその影を、また完璧な結果で覆い隠すつもりなのか。

 ヒダマリ=アキラは、完璧であればいいと楽観的に笑っているような人物のはずだ。


 だが、エレナの、表面だけを捉えていたら伝わらないであろうその言葉に、ずんと腕が重くなった。


「―――ラッキーッ!!」


 甲高い指笛が響いた。

 そしてルーファングの足元が隆起し、地響きと共にグレーの光が何かを形作る。


「ふたりとも!! 無事か!?」


 振り返る間もなく、魔術師隊のローブがアキラの真横を通過した。

 アキラが1歩も踏み出せなかった領域に躊躇なく飛び込むと、その勢いのまま出現した巨獣に飛び乗り、ルーファングに組みかかる。


 一瞬の間に起こった出来事を頭では理解しつつも身体が動かなかったアキラは、辛うじて、ゆっくりと振り返る。

 するとそこに、ルーファングと相対するイオリと行動を共にしていたサクとティアの姿を見つけた。


「な、何が起きているんだ!?」

「あっ、あのオオカミがいきなり現れたんだ!! 儀式は止めた。あとはあいつを助けないと……!!」


 捲し立てるように説明して、アキラはまた1歩戦場へ歩み寄った。

 イオリが加勢に来てくれたおかげか、戦闘の危険領域が狭まったように感じる。

 ふたり相手に行動範囲を制限されたらしいルーファングは動きを鈍らせ始め、マリスの攻撃が今まで以上に被弾していた。


「……ぼちぼちチャンスね。ま、どうせあの娘が何とかするでしょ」

「エレお姉さま……!!」

「後にしてくれる? 遊んでる場合じゃないでしょう」

「ううう……!! はっ、そうですそうです、エリにゃん!! エリにゃーん!!」


 ティアが息を切らせたままさっきほどまでのアキラのように倒れたエリーに呼びかけた。だがやはり応答は無い。

 ティアは焦り続けるが、アキラには少しだけ余裕が生まれた。

 エリーは先ほどまで今にも巻き込まれそうな位置で倒れているのを見ていたのだ。容体は依然として気がかりだが、物理的には格段に安全になった今、不用意に動きさせしなければ無事に保護できる。


「私が行ってきます。この距離なら……」

「いや、待った……!!」


 駆け出そうとしたサクをアキラは止めた。

 今までピクリとも動かなかったエリーの身体が、新たに銀の光を纏うと、ゆっくりと浮かび上がる。

 一瞬びくりとしたが、見ればイオリがルーファングの注意を引いた僅かな間に、マリスがエリーに向けて手を向けている。

 予想通り、浮かび上がったエリーの身体は戦場を大きく迂回して、アキラたちの元へ高速で接近してきた。


「っと」


 飛んできたエリーは、エレナが脱いだ上着で包まれるように受け止められた。

 一瞬だけ見えたエリーの顔や身体は泥に染まり、苦悶の表情を浮かべて浅い不規則な呼吸を繰り返していた。


「……だ、大丈夫なのか……!?」

「さあ。……で、あんまり見ないであげてって言ったでしょう」


 エリーの身体を庇うように抱きかかえると、エレナは次に、餌でもやるかのようにティアに突き出した。

 大興奮のペットのように跳びかかったティアは、泣き声なのか何なのかよく分からない奇声を上げ、攻撃と見紛うような治癒魔術をエリーに向けて放ち始めた。


 ひとまず窮地は脱せたのだろうか。

 いずれにせよ何の力にもなれないアキラは、必死に治療を続けるティアの背を祈るように見つめることしかできなかった。


「アキラ様」

「……どうした?」


 ようやく一息付けたアキラに、サクが歩み寄った。表情は暗く、鋭く、周囲を警戒しているように見える。

 背筋が冷えるような彼女の様子に、アキラもつられて声のトーンを落とした。


「あれが遠吠えの魔物ですか?」

「まあ、そうみたいだな」


 依頼主が指定した場所にいた巨大な魔物。

 あれが依頼のターゲットで間違いはないだろう。想像していたよりもずっと分かりやすい物理的な脅威だ。エリーを救出した以上、一旦依頼など無視してこの場から離脱するべきかもしれない。

 いかにマリスが支えているとはいえ、この洞窟は崩壊しているようなものだ。戦闘不能の爆発を考えても、未だに危機的状況ではあるのだ。


「他には?」

「は?」

「他には何か妙なことは起こりませんでしたか?」


 アキラの懸念とサクが考えていることは違うらしい。

 ルーファングに注意を向けつつも、サクは未だ洞窟の隅々まで索敵するように視線を走らせている。


 妙なこと。

 整理は出来ないが、この洞窟に入ってから妙なことは立て続けに起きている。

 いや、今日は1日妙なことが起こり続けていると言ってもいいかもしれない。


「“サーシャ=クロライン”」

「?」


 サクが呟いた、恐らく人名と思われる単語に、アキラは首を傾げた。

 サクはこちらを伺うようにじっと見て、恐らくはアキラの反応に首を傾げた。


「なんだよそれ」

「……アキラ様もご存じなかったですか。先ほど、イオリさんがそう口走りまして。私たちが、“攻撃”を受けている、と」

「イオリがそう言ったのか」


 アキラはルーファングと戦闘を続けるイオリに視線を走らせた。

 召喚獣を操り、こちらまで被害が及ばないように立ち回る彼女の背からは何も読み取れない。


 サーシャ=クロライン。

 イオリはその存在を警戒していたという。となれば、“予知”の情報だろうか。


「……魔術師隊の知識ってやつかもしれないな」


 一応のフォローとしてそう呟き、サクの視線にはあえて気付かないふりをして、エリーを治療しているティアの様子を伺った。まだ安心できないのか、彼女は未だ全力に近い魔力をエリーに注いでいる。マリスとイオリがルーファングを抑えているうちに、ティアにはこのまま治療に専念させた方が良さそうだ。


「とりあえず、この場所を守ろう」


 感情なくそう言って、アキラは格好だけ剣を構えた。サクは短く息を吐き、それに倣ってくれる。

 他の皆が、イオリの持つ秘密を訝しんでいることは当然気付いていた。そして、その秘密を共有するアキラに対しても懐疑心を持っていることも同じくだ。

 “サーシャ=クロライン”とやらのことは本当に知らないのだが、何を言っても信じてはもらえないだろう。

 だが、それは自業自得だ。サクたちは責められない。

 それゆえに、アキラ自身が彼女たちの分まで警戒する必要がある。


 アキラは米粒すら見逃さない気持ちで洞窟内に視線を隅々まで這わせた。


 眼前ではルーファングが暴れ回り、マリスとイオリを執拗に攻めている。

 だが、あらゆる状況に即座に反応するマリスと、動きを予測できているのか先手を封じ続けるイオリを前に、思うように動けていないような気がした。

 超常的な力を持つふたりを前に消耗を続けるルーファングだが、妙に粘り強く、依然として予断を許さない状況にあった。

 獣を模した魔物だからか、あるいは魔力を身体能力の向上に注ぎ込んでいるからか、動きは機敏で、マリスもイオリもあと1歩が攻め切れていない。

 それでも、遅かれ早かれ決着は見えている。この消耗戦が行きつく先は決まっているようにも思えた。

 だが、相手が月輪属性とあっては何をしてくるかまるで分らない。

 月輪属性を有する魔物はごく少数で、アキラもほとんど見た覚えは無いのだが、1番知っている月輪属性の人物の影響で、あまり相手にしたくは無かった。


「……?」


 そこで、アキラの視界に、先ほどまでエリーが倒れていた壁の窪みが入った。

 寝そべっていたエリーが戦闘の被害を受けないほど、随分と高い。


 ルーファングはそもそも何故、あの場所にエリーを運んだのだろう。


 “いや”。


 妙な違和感を感じ取り、アキラはまた戦場を眺めた。

 ルーファングは月輪属性の魔物なのだろうが、今までそれらしい魔術を操っていなかった。

 もしかしたらマリスはそれを警戒して慎重になっているのかもしれない。

 だが、どれほど戦っても、すべての魔力を身体能力に注いでいるようで、行動が一辺倒になっている。

 隠し玉として何らかの魔術を用意しているのか、あるいは、“そもそもそんなことをルーファングは出来ないのか”。


「オオオォォォーンッ!!!?」


 アキラの思考が嫌な予感に支配されかけた瞬間、けたたましい雄叫びが響いた。

 びくりとして見ると、いつの間にかイオリが召喚獣の背から跳び、ルーファングの額に短剣を突き立てている。

 咆哮ではなく悲鳴だった叫びが途切れると、ルーファングの額から、イオリの短剣に砕かれた濁った泥色の宝石が砂粒になって落ちていく。

 あの宝石が急所だったのだろうか。

 ルーファングは最後の抵抗とばかりに暴れ回るも、振動と共に倒れ込んだ。


「―――ここを離れよう!!」


 即座に叫んだのはイオリだった。

 止めを刺した手ごたえがあったのだろうか。だが、その表情は微塵にも緩んでおらず、役目を果たして溶けるように消えていく召喚獣を背後に必死に駆け寄ってきていた。

 倒れたルーファングは、痙攣しながら、身体に今まで以上の銀の光を纏い始めている。


 完全に戦闘不能となったらしい。

 となれば、今度こそ考えるまでも無く、この場からの離脱が求められていた。


「―――全員、動かないで!!」


 飛翔しながら接近してきたマリスが腕を振ると、アキラたちの身体にも銀の光が纏わりつく。

 ここからの離脱はマリスに任せた方が賢明だろう。彼女なら、それこそルーファングが爆発する前に洞窟の外に自分たちを運び出すことすらできる。


 いつにも増してマリス頼りの1日だったような気がした。

 結局何もできなかった自分に嫌気が差すも、いつものことだと笑えない言い訳を心の中で呟いて、アキラは身を包む銀の光に身を委ねた。


「わっ、駄目です今動かしちゃ!!」

「!? ―――待て!!」

「んなこと言ってる場合じゃないでしょう」

「とにかく今は―――、……!?」


 合流した全員がマリスの力で飛ばされる直前の混乱の中、アキラは、サクが叫んだのを聞き取った。

 そして彼女の視線を追ったアキラの目に、奇妙な光景が飛び込んでくる。

 マリスもそれに気づいたらしく、浮きかけていたアキラの身体は、再び地面に降ろされた。


「……なんですか……、あれ……?」


 異様な光景に、ぽつりとティアが呟いた。

 本来なら、爆発直前の魔物など見たくもない。

 だが、今、爆発するはずの死骸から目が離せない。


 大爆発を起こさんとしているはずの、あれだけ巨大だったルーファングが、何故か、“縮んでいた”。


「……こんなこと、あんのか……?」


 巨大だったはずのルーファングは、まるで風船が萎むように収縮していった。

 尖っていた牙や爪は丸みを帯び、剣のように逆立つ銀の体毛も穏やかに収まっていく。体躯も四肢もやせ細り、身体を纏う魔力の光は淡く、次第に見えないほどになっていた。まるで成長を真逆に再生しているかのようなルーファングは今や子犬程度となり、今や先ほどまで覚えていた恐怖を微塵にも感じない。


「戦闘不能の爆発って、ああいうもんだっけ……?」

「…………、……、いや、そんなわけないっすよ。変、っすね」


 分かっていて聞いた呟きには、マリスが反応鈍く返してくれた。

 戦闘不能の爆発なら、アキラはこの世界に来たばかりのときに最前列で見学している。

 どれほど消耗しても、魔物は戦闘不能になった途端、その状態で爆発するらしい。


 事象だけ見れば、ラッキーではあるかもしれない。

 最後であって欲しい奇妙なことは、起こるはずの大爆発ではなく、見た目通りの小さな破裂音で済んだことだった。


「ちっ!!」

「!?」


 小さな破裂音よりもずっと大きな衝撃が走った。

 身体を休めていたエレナが地面を砕くほど強く蹴り、冷え切った瞳でルーファングが破裂した場所を睨みつける。


「エ、エレナ?」

「はっ、そうよねぇ、そうよねぇ。ヨーテンガースまでくれば、“こういうこと”も起こるわよねぇ……!!」


 先ほどまで憔悴しきっていたエレナは、今、活力に満ちていた。

 いや、それほど清廉なものではないかもしれない。彼女の瞳は、燃えるような憎悪一色に染まっている。


「あのきったない宝石は、“ライド―グ”っていうマジックアイテム。雑魚に埋め込んでも、命と引き換えに数分程度力が増す―――」


 エリーとエレナが執り行っていた儀式と似たような効果を持つマジックアイテムということだろうか。

 となると、先ほどの異様な光景は、イオリが砕いたことで、ルーファングからその膨大な力が取り除かれた結果なのだろう。

 エレナは先ほどまでのアキラと同じように洞穴内に鋭く視線を走らせると、苦々し気に呟いた。


「―――“ガバイド”の発明品よ……!!」


 アキラの身体中が痺れる。

 彼女がその名前が発されたとき、燃え上がるほどの殺気が漏れた。


「エレナ。悪いが……」


 そんなエレナを諭すように、イオリが静かに歩み寄った。

 ルーファングの爆破を凌いだからか、イオリの声にはいつものように余裕がある。


「……“ここにいるのはガバイドじゃない”」


 そう思ったアキラだが、イオリの横顔を見て認識を改めた。

 エレナとは違う。だがイオリも、何故か同じように怒気を孕んだ冷ややかな目を洞穴の奥に突き刺していた。


「いい加減に出てきてもらおうか。もう“分かっている”。カリスのときもそう。カトールの民もそう。さっきの僕たちにもそう。……そしてきっと、エリサスもそうなんだろう。全部、全部だ―――君が“囁いた”んだろう?」


 コン、と。洞穴の奥、天井から、小さな石が転がり落ちた。

 さり気なく、しかし存在を主張するかのように。


 この洞穴は、現在マリスの力の支配下にある。

 石が落下することすらあり得ない。


 アキラの嫌な予感が、これ以上ないほど膨れ上がる。


「―――何故、あなたは分かっているのかしら?」


 その小石からだろうか。

 “どこか”から、甘ったるい声が聞こえた。

 きっと女性の声なのだろう。


 それと同時に、霧とも粒子ともつかない、ぼやけた“何か”が小石から噴き出すように立ち昇る。

 色は、銀。

 しかしそれは、洞穴を支えるマリスの鮮やかな銀とは違い、ぎらつくように禍々しい。


「……下がっていろ」


 サクが短く口走った。すでに手は愛刀を握っている。

 ティアは大人しくエリーを庇いながら下がり、エレナは怪訝な表情のまま指をコキリと鳴らす。

 何の変哲もない小石にしか見えないそれを前に、この場の全員が戦闘態勢を整え始めていた。


「……答える気はないよ」


 イオリが攻撃的な口調のまま、短剣を抜いて構えると、ぼんやりとしたその“何か”は、漂いながら、徐々に、人の形を取り始めた。

 先ほどのルーファングが縮んでいく光景よりもずっと奇妙な“何か”だった。

 まるで一瞬意識を失っていたかのように、いつの間にか“誰か”がそこにいる。


「……“魔王様直属”」


 甘い吐息のような声が響く。

 金の長い髪。雪のような肌。身体のラインが浮き上がるほど薄い黒のローブのみを纏うそれは、恐らくは女性だった。

 細い眉に、長いまつ毛。ぎらつくような銀の瞳が妖艶に微笑むと、身体が浮かされるように安定感を失っていく。

 かつてあった神の容姿にも匹敵しかねない。

 まるでマリスのような夢の世界の存在に思えたが、決定的に違うのは、相対しているだけで心の奥にどす黒い悪寒が生まれることだった。


「サーシャ=クロライン。……見つかっちゃったわね」


 “魔族”。

 魔族という存在で思いつくのは、あの“赫”の魔族であるリイザス=ガーディランだ。

 だが、まるで魔人のようだったリイザスと違い、優れ過ぎている容姿を除けば、人間と言われても信じるほどの姿だった。


 そして気配も別種である。

 リイザスのように焼き石が弾けるような危機ではない。サーシャは、沼に沈んでいくような漫然とした危険性を醸し出しているような気がした。


 イオリはこの魔族の名を口走ったらしい。


 だが、そんなことはどうでもいい。


「…………お前が何をやったって?」


 より人間に近い姿だからか、思ったよりも楽に言葉が吐き出せた。

 こみあげてくる恐怖を飲み込み、アキラは1歩近づく。

 イオリが手で制してくるが、気にもしなかった。


「あら? さっきそこの娘が言っていたみたいだけど?」


 思ったよりも軽い口調が返ってきた。

 人間と同じ姿で、同じ言葉を発しているのに、先ほどとは違い、強烈な違和感と嫌悪感が鼻をつく。


「……お前がこいつに何かしたのかって聞いてんだよ」


 サーシャは顎を上げて微笑んだ。肯定ということだろう。

 ぎらつく瞳を怪しく光らせ、挑発的な態度を取るその姿。

 殺伐とした気配のアキラを前に、サーシャは、何ら悪びれる様子無く平然と立っている。

 それが、自分でも驚くほどの怒りを膨れ上がらせてきた。


「まあ、どうでもいいけど、あんた何か知ってんのよね? ガバイドについて知っていること、洗いざらい話してもらいましょうか。……って何よ?」


 アキラは詰め寄ろうとしたエレナを手で制した。

 以下に怒りが昇ってこようとも、目の前の不穏な雰囲気は感じ取っている。

 リイザスもそうだったが、敵である自分たちを前にしても何ら問題と思っていないその様子。

 実際に、この世界の常識としては、“魔族”というのは規格外の存在らしい。

 下手に動けば何が起こるか分かったものではない。


 いざとなれば。


「お前は何をした? ……何が狙いだ?」


 右手の感触を確かめながら、アキラはサーシャに問いかけた。

 後ろで倒れているエリーのこともある。襲ってこないのであればティアにはこのまま治療に専念してもらっていた方がいい。

 もっと言えば、この場所からすぐにでも離脱して、エリーを安全な場所に運ぶべきである。

 “魔族”を前にそんなことが可能なのかは分からないが、アキラではない誰かなら、何かを思いつくかもしれない。


 単なる時間稼ぎではあるが、純粋な疑問でもあった。

 この魔族は何が狙いなのか。

 あの“財欲”を求めるリイザス=ガーディランは宝物庫にいた。

 だがこの場所は、何の辺鄙も無い避難所である。

 目的があって姿を現したとしか思えない。


 サーシャが、ふ、と嗤った。


「人間ってさぁ」


 貌を妖艶に歪ませ、吐息のような声が漏れた。


「誰しもが悩みを持っているじゃない。……危険から避けたい、強くなりたい、多かれ少なかれ、ね」


 エリサス=アーティ。そして、カトールの民

 彼女たちのことを言っているのだとアキラは容易に連想できた。


 サーシャはさも面白そうに、あるいは得意げに嗤う。

 リイザスと言葉を交わしたというエリーからも聞いた覚えがある。

 出遭った魔族は、自分の考えを歓喜して披露するものらしい。


「私がやったのは、そんな悩みを解決してあげようとしただけよ。悩んで、考えて、必死になって、何かにしがみ付いて……、“だから私の思い通りになる”」


 ぞわりと身体が震えた。

 嗤うサーシャの美しい瞳の色に、本能的な嫌悪感を覚える。


「私はほんの少し、“囁きかけるだけ”。そうするだけで、簡単に、本人にとっては思った通りに……、私の思い通りになる」


 思考への介入。

 それが、サーシャが操る力ということだろうか。

 あのカトールの民も、常日頃から樹海の魔物には恐怖を覚えていただろう。

 サーシャはそれを増長させるように“囁いた”ということだろうか。


 だが、アキラはもう、ほとんどサーシャの言葉を聞いていなかった。


「本人はいたって大真面目。誰もが自分のために、私のために動き回る。ふふ、まるで献身的な奴隷ねぇ。……ああ、“支配欲”こそ、最高の快感よ」

「……」

「そうそう、感謝して欲しいわ。その娘の秘術、直前で止めて上げたんだから。“たまたま”ぎりぎりまで苦しんで、苦しんで、全部無駄になるところになっちゃったけど」


 音が遠い。サーシャが現れてから現実感の無かった光景が、より一層遠いものになっていく。

 分かったことは、この目の前の“何か”が、エリーに命を賭けた秘術を選ばせたらしいということだ。


「……もういい」

「あら? どうかしたのかしら?」


 アキラは“作業”を開始した。

 不穏なものを感じ、イオリの言う“バグ”の温床としてしか思えなくなった力がある。

 だがそんな細かな事情は、心の奥から燃え上がり、いよいよ抑え切れなくなった怒りによって消し炭になる。


 本当に、もういい。

 これからアキラは、相手が何をしていようが、どんな思惑があろうが、何者も逃れられない“結果”を作り出す。


 心残りは、精々サーシャの恐怖に歪んだ顔を見られないことだろうか。

 だがそれすら構わない。一刻も早く目の前の存在を抹消することだけが、アキラの頭を支配した。


「……いいんすか?」


 燃えるように茹だった頭に、ひんやりとした声がそよいだ。

 夢物語のようだった景色が徐々に現実的なものになり、アキラの戻った思考が、その声の主を思い出させる。


「……マ、マリス?」


 とぼとぼと、だぼだぼのマントを纏い、緩慢な動作でアキラを追い抜くと、マリスは、袖から出切らない指でサーシャの足元を指す。


「それ」


 まるでふたり以外の時間が止まっているかのように感じた。

 目の前のマリスは、いつものようにのんびりとした様子で立っている。

 だが、膨れ上がっていたアキラの怒りは、いよいよ収縮してしまう。


 今感じるべきは、恐怖だった。


「“リロックストーン”。設置している場所に移動できるマジックアイテム。便利っすけど、その場所からほとんど動けないし、魔力も大分減るじゃないっすか」

「……。……物知りね」


 目の前のサーシャは、この場所に足を運んだわけではない。

 遠隔地から、そのリロックストーンとやらで移動してきているに過ぎない。

 マリスが言うところによれば、その代償でサーシャは魔力が削られているということになる。


 そんな事情をおぼろげに理解しながらも、アキラは声すら出せなかった。


 サーシャは気づかないのだろうか。

 それとも、共に旅する仲間だからこそ気づけるのか。


 いつも無音なマリスから、鈍いアキラですら察せるほどの、斬り割くような殺気が漏れていることに。


「……で、何が言いたいのかしら?」


 サーシャの挑発的な笑みは変わらない。

 だがアキラは、ゆっくりと、確かに、1歩ずつ後ずさる。


 生物としての自然な行動だ。

 先ほどの暴れ回るルーファング、あるいは、サーシャ=クロラインという存在すら、アキラの目にはあまりに矮小に見える。


「だから」


 マリスは、また、のんびりとした口調で呟いた。


「そんな状態じゃ、死んでも死にきれなくないって思ったんすよ」

「―――ッ、ディセル!!」


 反応できたのはサーシャだけだった。

 マリスは動きが見えないほどの速度でマントから手を突き出し、サーシャに銀の矢を放っている。

 サーシャはとっさに両手を付き出して銀の縦のような光を展開させると、弾けるような荒々しい音が響いた。


「流石に、これは……。こればっかりは、自分も、無理っすね」


 肩を膨らませ、冷え切った口調で呟くマリスの瞳は、氷のように冷え切っている。

 アキラも怒りに頭を支配されたが、もしかしたら彼女はそれ以上。

 実の姉を襲った目の前の“何か”を、当然許すことは出来ないのだろう。


 本格的に参戦するマリスとの戦闘で、今までアキラが出来たことなど何もない。

 彼女もまた、“結果”を手にする力を有している。


 アキラは身体を震わせ、可能な限り距離を取った。


 そんな中。


「……」


 マリスの攻撃を防ぎ切ったサーシャの口元が、静かに、今まで以上に吊り上がっているのが、妙に目に焼き付いた。


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