第12話『儚い景色(前編)』
―――**―――
自分が夢を見ていることは分かった。
分からないのは、夢と現実は、どちらが本物なのかだった。
目の前にあるのは、ごちゃごちゃとした何かだ。
不規則な色で塗りたくられた、芸術的なものはまるで感じない、幼稚な絵のようなそれは、目の前で、どうにも頼りなく漂っている。
黒とも茶とも、白とも銀ともつかないそれが何かは分からない。
ただ、それが光を放ってはいないことだけは分かった。
周囲を探ろうとしたが、目の前のそれから目を背けることが出来ない。
それはそうだ。きっとそれは、自分の世界だったのだから。
どれほど醜くても、どれほどちっぽけでも、自分のすべてだったのだ。
おかしいと思った。
いつしか名もつけられなくなっているそれは、確かに輝いていて、秩序を持っていたはずだ。
では何故そうなったのか。
あるいは目の前のそれよりもよっぽど幼稚な頭では、明確な答えに辿り着けない。
だから直感的に思い浮かんだ答えが、自分の世界では正しくなる。
深追いしたからだ。あの人が。
それだけが、自分にとっての真実である。
どれほど冷静に考え直そうが、誰が何を言おうが、胸に刻まれたものは変わらない。変われない。
愚かだと思う。醜いと思う。
だけど、そういうものなのだと、ヒダマリ=アキラは思った。
「…………」
寝ぼけ眼で窓の外の日差しを眺めること数秒。アキラはようやく、自分が寝入っていたことに気づいた。
ひじ掛けの椅子に深々と座り込み、身体を預けていたせいで、わき腹と肩が僅かに痛む。身体のこりをほぐそうと伸びをすると、溜まり込んでいたような欠伸が大口から出ていった。
外の日を見るに、昼頃だろう。心地よく暖かく、眠気が襲ってきたのはそのせいかもしれない。
アキラがいるのは、宿舎の一室だった。
記憶を辿ると、先ほどまでこの新たに到着した村のアキラの部屋で、朝のミーティングを行っていたことを思い出した。
そのあと、解散となったような気もするが、微妙に自信がない。
もしかしたらアキラはミーティング中に眠ってしまい、今頃皆は思い思いに過ごしているのかもしれない。
「……ふ」
「!」
突如聞こえた声にアキラはびくりとし、辛うじて椅子にしがみ付きながら振り返った。
見ればミーティング中にふたり用の椅子として使っていたベッドに、ひとりの少女が腰掛けていた。
「寝心地悪くなかった? その椅子」
「お、お前、いたのかよ」
エリサス=アーティは、妙に穏やかな表情を浮かべていた。
いつもは束ねて1本にしている赤毛を珍しくそのまま背に垂らしている。そうしていると、彼女の双子の妹マリサス=アーティと色彩以外の差がとうとうなくなってしまう。
アキラは一瞬、寝入っていたことを咎められるのかと思ったが、彼女の表情から直感的に違うと思い直した。
エリサス=アーティとマリサス=アーティは瓜二つの双子であるが、その差は色彩の他に、あるいはそれ以上に、雰囲気だとアキラは思っている。
だから、眠気眼のアキラにとっては、目の前のエリーがそういう態度をしている方が、差が見つけられない。
「あんたの無表情ほど不気味なものは無いわね」
「俺が起きるの待ってたのかよ。起こしてくれよ」
「最近の早起きのしわ寄せでしょ。次に起きられなかったとき、あたしに昼寝を邪魔されたからだとか言い訳されたくないじゃない」
どこまで本気かは分からない。エリーは穏やかだった。こうした彼女の様子は以前も見たことがある。
これは寝起きだからなのだろうか、アキラは、妙な不安を覚えた。
「今日も妙に起きるの早かったわね。どういう風の吹き回し?」
「……遅れたら罰ゲームだろ。朝から村中走るの嫌だからな」
アキラは目を擦った。
見えていたと思っていたエリーの表情が、見えなくなったような気がしたからだ。あるいは、最初から彼女の表情など見えていなかったのかもしれない。
「嘘」
「え?」
「あんたが無茶し出したの、あの“勇者様”たちに逢ってからでしょう」
あれから10日ほどだろうか。
アキラは、初めて自分以外の勇者というものに出逢った。
白髪の大男、スライク=キース=ガイロード。
銀髪の少女、リリル=サース=ロングトン。
彼と彼女はそれぞれ違った意味で、アキラから遠い存在だった。
ほんの僅かだったが、彼らと共に行動したあの時間で、アキラは何かを感じ取った。
焦りなのか、羨望なのかは分からない。分からないが、無駄にだけはしてはいけない刺激を受けたと感じて、今日まで藻掻くように過ごしてきた。
気恥ずかしくなってくるが、エリーにも当然伝わってしまっていたらしい。
「なんだよ。だったら居眠りなんてしてんなってか?」
「自由時間のうたた寝くらいでとやかく言わないわよ。ま、もうすぐ依頼が始まるけど」
寝ぼけた頭が、朝のミーティングをようやく思い出させた。
昼からお仕事だ。
エリーはそれを伝えに来てくれたのだろうか。
ようやく目が覚めたアキラは背もたれから身体を起こし、項垂れるように背を伸ばす。
横着して座ったまま寝るものではない。妙な疲れを感じる。これでは嫌な夢も見るはずだ。
「あんたさ」
エリーが窓の外を見た。アキラもその視線を追ったが、窓の向こうには隣の建物が見えるくらいで、何も見つけられなかった。
「無茶しないでね。何かあると必死になって、無理が来ると元に戻る。いつものやつじゃない」
「ぐ」
言い返せなかった。
アキラもいい加減、自分がどういう人物なのか分かってきた。
言われた通り、短絡的に必死になって、限界を迎えると元通り。そんな自分の行動が容易に予想できたから、今度こそふたりの勇者から受けた刺激を手放さないように必死になっていたというのもある。だがエリーが言っているのは、またそれが途切れたら、今度も同じく、受けた刺激も忘れかねないという話だ。現実味がある。
またアキラを焦燥感が支配しかけた。だが、エリーの静かな声の様子が、それをゆっくりと鎮める。また、漠然とした違和感を覚えた。
「そうだ」
「なんだよ」
「あんた、あたしとの婚約覚えてるわよね?」
「っ、な、わ、忘れるわけないだろ」
そんな穏やかな不自然さの中、急に冷たい刃物でも差し込まれたような気分を味わった。
アキラとエリーは、不慮の事故で婚約中である。
その解消を目指し、打倒魔王を掲げてここまで旅を続けてきたのだ。
そんな自分たちの最大の問題を、エリーは事も無げに言った。自分ばかり動揺しているようで、アキラは面白くなかった。
「もし、よ」
「?」
「もし、“それが無くなったとしたら”、あんたは魔王を倒そうと思う?」
「……え」
エリーは大前提を覆すようなことを口にした。
アキラは理解が追い付かず、じっと彼女の顔を見る。だが、見れば見るほど、目の前の人物がアキラの知るエリーという人物とかけ離れているように感じ、漠然とした恐怖を覚えた。
「どうなの? “勇者様”」
卑怯な言い方をされた。
質問であって質問ではない。
そういう言い方をされれば、今のアキラの答えは決まっている。
「……ああ。魔王を倒すよ」
「……そう」
今日初めて、彼女が笑った気がした。
エリーはゆっくり立ち上がると、変わらず静かにドアへ向かって歩き出した。
「あたしも準備あるし、もう行くわ。あんたも準備しなさいよね」
エリーが閉めていったドアを、アキラはじっと眺めた。
分からない。彼女が何を考えていたのか分からない。
だが何故か、アキラは自分が何かを間違えたような気がした。
「どうかしたのか」
多分聞かなければならなかったはずの言葉を、アキラはぼそりと呟いた。
だが届くはずもない声には、当然、目の前の扉は何も応えない。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
―――カーバックル。
ヨーテンガース大陸の南西に位置するこの街は、北はタイローン大樹海、西はベックベルン山脈と、いずれも不可侵の領域に阻まれ、交流という点では冷遇された場所にある。加えて、東部やより南部へ進めば山岳地帯が広がっており、交通の便は不自由極まりない。
とはいえ、ヨーテンガース南部の村や町はそれぞれ存在するだけでも価値がある。経済的にも軍事的にも重要であることを物語るように、城壁とも表現できる強固な壁に周囲を覆われたその街では、昼時を過ぎた今も民間人や礼服を纏った魔術師隊が散見され、それなりに賑わっていた。
カーバックルの他にも、タイローン大樹海に沿うように造られた、似たような街はいくつか点在しているらしく、いずれもヨーテンガースの北部と南部を繋ぐ重要なパイプラインではあるそうだ。
そして、カーバックルからさらに南下し、その山岳地帯を超えた先。
そこには魔王の牙城があるという。
タイローン大樹海を沿うように点在する街は、まともな人間が踏み込んでもいい最後の境界線でもあると思われた。
「…………」
道行く人々は、民間人と思しき人物も妙に雰囲気がある気がした。露店も疎らな整備された道は、いつでも大人数が駆け出すことを想定されているような気がした。
ヒダマリ=アキラは、ゆっくりと息を吸う。のどかにも見える街並みの中、違和感とも言えないほど小さい、しかし確かな存在感のある冷ややかな空気が肺の中にこびり付いた。
「目前、か」
アキラは街の中央にある建造物を見上げながら呟いた。
カーバックルは東西南北にのみ存在す僅か4つの門から出入りする必要がある。
それぞれからまっすぐに引かれた道がぶつかる中央には、天を貫くような高い塔があった。
ヒダマリ=アキラがこの世界に来たときに落とされたのも似たような塔だ。
もっとも東のアイルーク大陸にあるあの小さな村と比べると、殺伐としたほど強固に建てられている。
昨夜、たまには勇者の歴史でも調べてみるかと街の図書館に足を運んだとき目に止まったこの街の資料によると、この塔は監視塔でもあり、他の村への救援を出すためのものでもあるらしい。
カーバックルは、初代勇者が訪れた村を、つまりはアキラが落とされた村を模して造られたらしいが、ただのレプリカというわけではなく、こちらの方が実用性に富んだ正しい使い方をしているようだ。
そして、図書館で分かったことは他にもある。
どうやら初代勇者が落とされた村は、リビリスアーク“ス”ではないとのことだ。
勘違いが訂正されないままついにここまで来たアキラは、しかしそれほど短い旅だったのだと身体が震えた。
あっという間の旅の果て。自分たちは今、魔王の牙城の目前にいる。
「……にーさん。思い出してるんすか?」
塔を見上げたままでいたアキラに、ひとりの少女がとぼとぼと歩み寄ってきた。
長い銀の髪ごと仕舞われただぼだぼのマントに、色彩の薄い半開きの眼。
色が違うだけでエリーと全く同じ容姿のその少女に視線を移したアキラは、ようやく得心がいった表情を浮かべて頷いた。
「“マリー”、だ……!」
「…………。にーさん。まさか、今さら気づいたんすか」
「昨日ようやくだ。マリーとリビリスアークなんだよ」
「いや得意げに言われても」
マリサス=アーティの半開きの眼がじっとアキラを見てきた。睨まれているのかもしれない。エリーの双子の妹であり、瓜二つの彼女だが、もしかしたら姉との最大の違いは色彩ではなく、目に込められる力の差のような気もする。
「おかしいと思ってたんだよな、みんなそう呼んでたし」
「…………もうマリスでいいっすよ」
呆れられたか諦められたか、ぷいと顔を背けるように、マリスも塔を見上げた。
早速機嫌を損ねたらしいが、今日の依頼は珍しく彼女と組むことになる。
「早かったっすね、ここまで」
どう機嫌を取ろうか考え着く前に、マリスはぽつりと言った。この塔を見上げると、同じようなことが頭に浮かぶらしい。
アキラもまた、塔を見上げる。
リビリスアークのあの塔から落とされて、およそ2か月ほど前だろうか。
ほとんど移動時間のみに費やされたようなこの罰は、間もなく終焉を迎える。
少しでもこの世界の常識というものに触れたアキラは、旅を始めてたったそれだけの時間で魔王に挑むことがどれほど異常なことなのかほんの少しは分かってきていた。
この旅は、順調で、歪だった。道中何度も思ってきたことだ。
歪なものは、どこかで何かが狂う。
そうした漠然とした恐怖が付き纏うも、一向に旅の速度は緩まない。
「……」
アキラは強制的に思考を止めた。
これ以上考えてもこの頭から答えは出ない。これもこの旅で何度も繰り返してきたことだった。
「……お待たせしました」
そんな折、目先の武器屋からサクが出てきた。
長身で、普段は凛とした表情の彼女だが、愛刀の本格的なメンテナンスを受けていたそうで、歩み寄ってくる姿は機嫌のいい子犬のようにも見えた。
「どうだった?」
「専門家から見ても問題ないそうです。日頃の手入れが良かったそうで」
日頃武具の手入れをしているサクをよく見ている。
そのまま歩き出したアキラたちに追いつき、ふふんと得意げに腰に下げた長刀に触れるサクは得意げで、可愛らしく思えた。早く試し斬りをしたいという物騒なことを考えているのだろうが。
本日の依頼はこの3人で請けることになる。
特にマリスは久しぶりのような気もするが、改めて考えると、やはり短い旅なのだから、そんなことも無いのだろう。
「……そういやさ、その刀、なんかいいよな」
「え?」
リビリスアークのことを思い出したからだろか、改めてサクの愛刀が気になった。
アキラも先ほど、サクに見立ててもらって新たな剣を購入したばかりである。だが、サクのその刀は、出逢ったときから変わっていない。
一応は魔王を倒す“勇者様”であるのに市販品で戦っているアキラからすると、拘りの一品で戦い続けているサクが羨ましくなってくる。
「“伝説の武器”とか、欲しいんすか?」
「おう。それそれ」
いつもより閉じているような気がする瞳を浮かべたマリスに、アキラは頷いた。
伝説の武器。以前もそんなことを考えたことがある。
どうやら“勇者様”というのはそれほど特別なことでも無く、ついでに言えば先日別の勇者様に出逢ったばかりなのである程度の現実は突き付けられた気がするが、たったひとつ、というものが魅力的なのは変わらない。
せめて市販品ではなく、サクのように日々手入れをして使い続ける武器が欲しいとアキラは常々思っていた。
「サクの武器って、特殊なやつなんだろ? 俺色々武器屋見たけど、そんなの見たことないぜ?」
「ええ」
短く肯定したサクは、改めて腰に下げた愛刀に触れた。
日本刀のような形状で、しかし長身のサクが持っても非常に長く見える。
彼女の出身は、アキラが行ったことのない西のタンガタンザという大陸らしい。数日前に逢ったスライク=キース=ガイロードも見たことのない大剣を操っており、後で聞いた話だが、彼の出身もタンガタンザだという。
タンガタンザにはそうした珍しい武器が多いのだろうか。
「名前とか付いているのか? なんかかっこいいやつ」
ちなみに、アキラは自分が背負っている武器の名前どころか商品名すら覚えていない。覚えているのは、1ダースほど並んでいたこの武器の商品名だか種類だか最後に、『特化!!』という文字が付いていたことだけだ。
「いえ、名はありませんね。呼ぶ必要もないですから。この武器は、そもそも私のためだけに生まれたものですし」
「…………逆にかっこいいな……」
「でも、その武器も上等ですよ。あの値で手に入ったのが信じられないくらい」
日頃目に留まっていたサクの愛刀が、より一層特別なものに見えてきた。
方や個人のためだけに造られた刀。方やセール品だ。
サクは満足げに微笑んでいるが、アキラには勝者の笑みにしか見えなかった。
「でも、にーさんはある意味特別な武器は持ってるじゃないっすか。最近見てないっすけど」
「そ、そうですよ」
気を遣われて惨めな気分を味わったが、ふたりが言うことは事実だった。
とある意地から最近使用を控えているが、瞬時に繰り出せ、ノーリスクで敵を滅殺するあの銃は、アキラにのみ許された最強の力である。
客観的に見れば、アキラが辛うじて勇者を名乗れるのも、あの強大な後ろ盾があるからなのは、今も昔も変わっていない。
だが、そうだけど、そうじゃない、というやつだった。
「マ、マリスは武器とか使わないのか?」
深追いするとまた黒い思考に捕らわれる。
あまり刺激して欲しくない話題から気を逸らすように、今度はマリスに視線を向けた。
一応は防具を仕込んで武装しているアキラと違い、マリスはだぼだぼのマントを纏い、何も持っていない両手をしまい込んでいる。
マリスは、アキラの銃と同じく、異常とも言えるほどの力を有している。だが、その辺りを歩いている民間人と変わらない姿なのだ。
マリスの戦いぶりを思い起こせば、魔術を用いて一方的に敵を倒してばかりだから無用の長物なのかもしれないが、それでも戦力増強にはなるだろう。
アキラの脳裏に、先ほど武器屋で見た、何の効力があるのか分からない杖が並んでいる光景が浮かんだ。
「うーん……。杖とか考えたことはあるんすけど」
マリスもアキラと同じことを考えていたらしい。
眉を寄せて少し考え込んだマリスは、しかし小さく首を振った。
「ほら。杖って、使用者の魔力を増強するのが多いじゃないっすか」
「ほらって」
「多いんすよ」
「じゃあいいんじゃないか?」
この世界の杖は、アキラのイメージと同じらしい。
しかしマリスは難色を示す。
「いや。ただの荷物になりそうで」
「え?」
マリスは視線を泳がせ、通り過ぎたもう1軒の武器屋を眺める。
アキラの市販品と同じように、店先にセール品の杖が並んでいた。
「自分が使うと、耐えられなくてすぐ壊れるんすよ。“普通の杖”じゃ」
「……」
伝説の武器が必要なのはマリスの方らしい。
特別な武器の所有者と、特別な力を持つ人物に囲まれて、市販品の武器の男はそれきり静かに街の出口を目指した。
―――**―――
「ふー、ふー、ふー」
「……お、落ち着こうか」
ホンジョウ=イオリは自分が運の悪い方だと自覚していた。
まっすぐに腕を突っ張り、イオリは、今回の依頼のパートナーである目の前の少女を決して間合いに入れないようにしながら、自分のクジ運の無さを大いに嘆いた。
共に打倒魔王を目指す仲間に対して邪険に扱うのは悪い気もしていたが、限度もある。
目の前のアルティア=ウィン=クーデフォンは、狂気を孕んだ瞳を携え、じりじりとにじり寄ってくる。
小柄な少女ではあるが、極度の興奮状態で、妙な迫力があり、魔導士であるイオリですら貞操の危機すら覚えた。街中だから、悲鳴を上げれば誰か来てくれるだろうか。
恐怖と形容するのが正しいとは思わないが、頭の中で未知の警鐘が鳴り響き続ける中、イオリは、努めて冷静に、決して相手を刺激しないように、通じるか分からないが諭すように口を開いた。
「いいかい。アルティア」
「いいえ。あっしはティアにゃんです」
「その愛称の方が本名だと言い張るのは無理があると思うけど、ともかく」
とりあえず言葉は通じるらしい。
イオリは咳払いして、ティアの瞳を見つめた。水晶玉のように、ぞっとするほど澄んだ瞳だった。
「召喚獣は、気軽に出すようなもんじゃないんだよ」
「いいじゃないですか、減るもんじゃないし!」
「僕の魔力は減るんだけど……」
ティアの狙いは、イオリの身体、ではなく、イオリが使役する召喚獣ラッキーである。
本来のラッキーは巨大で、岩石にも勝る強固な鱗を持つ、“戦闘用”の召喚獣だ。
だが、特殊な召喚方法で、本来よりもずっと小さく召喚することができ、デフォルメ化されたようなその姿は万人受けする愛くるしい姿をしている。
極力早期に面々に馴染めるようにイオリが話題作りのつもりで召喚したそれは、ティアの心を鷲掴みにしてしまったようで、それ以来、何かにつけてはおもちゃをねだる子供のように絡んでくるようになってしまった。
そのたびに断っているのだが、それがかえってティアの心に火を点けてしまっているらしい。
実際のところ大した手間ではないのだが、ここまでくると、イオリも少し意地のようになってしまっていた。
本日の依頼は3つあり、3組に分かれて行うことになっている。
厳正なる運任せの結果、イオリはこのティアとふたりきりで依頼に当たることになったのだった。
そのときからあまりいい予感はしていなかったのだが、時間になったので、恐る恐る待ち合わせ場所に来てみれば、そのまま回れ右をしたくなるほど仕上がっているティアの感情の高ぶりを目の当たりにし、逃げる間もなく絡まれているというのが現状だ。
「……そう。……召喚というのは途方もなく魔力を使うんだよ」
「そ、そうなんですか」
「これから依頼だ、万全を期すべきだろう?」
「そう……ですね。分かりました……すみません……」
とりあえずそれっぽい理由を取り繕って説得してみると、ティアは分かりやすく意気消沈した。
今日は依頼があるというのも手伝って、随分早く説得が出来たらしい。
だが、眼前の満天の笑顔がすっと暗くなっていくのを幾度も見ていると、胸が痛んでくる。
そういうところも相まって、イオリはティアが苦手だった。
「……そ、そうだね。依頼が終わった後とかなら」
「!! うおおおーーーっ!!」
はっきり負けたと自覚した。
爆発するように笑顔になったティアは、喜びを全身で表現しているのかくるくると回り出す。
「いいんですかいいんですね!? ついに来ましたか!! ではでは、イオリンがお疲れしないようにあっしやります! やりますよーっ!! がんばっちゃいますよーっ!!」
純粋に喜びが伝わってくる。瞳もまた、キラキラと澄んだ輝きを放っている。
何も考えていないようにしか見えないし、道行く人々も、子供が憧れの魔導士に懐いているようにしか思っていないだろう。
だが、イオリのアルティア=ウィン=クーデフォンという人物に対する評価は少し違う。
彼女は考えが足りないこともあるが、さほど愚かではない。大事なところは間違えない真摯さも持ち合わせている。そしてその上で、彼女は見た目通りに元気に振る舞っているのだ。
これはホンジョウ=イオリという人物の性分なのだろう。だからこそ、目の前の少女を見た目のまま判断することに抵抗を覚えてしまうのだ。
「分かった、分かったから落ち着いてくれ」
シャドーボクシングのようなものまで始めたティアに、道行く人の不審な視線が突き刺さっている。残念ながら今更他人のふりは出来そうになかったので、イオリは肩を抑え付けた。
そこで、イオリは気が付いた。
「あれ。随分と軽装だけど、これから依頼なんだよね?」
「……は」
改めて見ると、ティアがいつもより小柄だった。
彼女もアキラ同様、遠目から見れば普段着だが、中に着込む防具を仕込んでいる。
しかし今のティアは、宿からそのまま飛び出てきたままの様子で、その辺を歩いている民間人の方がよほど有事に備えているように見えた。
「わわわ、やっば。忘れてました。あっし、イオリンと組める! って思ってそのまま勢いよくここまで来ちゃったんです!!」
自分の人を見る目は長けているとは思わないが、彼女に対する評価がいよいよ行方不明になってしまった。
ヨーテンガースの依頼に普段着で向かいかねなかったとなると、正気を疑いたくなってくる。
イオリが眼精疲労を抑えるように目頭に手を当てると、ティアは慌てて駆け出した。
「ちょっと! ちょっとだけ待っててください!! めちゃめちゃ急いで着替えてきます!!」
遠ざかっていくティアの大声と背中を眺め、イオリは、彼女が戻ってきたら改めて服装チェックをすることを心に決めた。
例え苦手でも、大切な仲間であることに違いはない。
イオリは手ごろなベンチを見つけ、その端にゆっくりと腰を下ろした。
「……」
このカーバックルは、ヨーテンガース、しかもその南部に位置するだけはあり、道行く民間人もそれなりに緊張感があるようにも見える。
だがそれは、自分の方にも問題があるのだとイオリは思った。彼ら彼女らは、強固に守られたこの街で平穏に暮らしている。
それを歪んだ形で捉えすぎてしまうのは、ホンジョウ=イオリが有する“未来の情報”のせいだ。
この街から南下して、ひとつかふたつ山を越えると、いよいよ魔王の牙城がある。
「……大丈夫だ」
祈るように呟いた。
爪を噛みながら、イオリは必死に侵食してくる黒い思考を追い払う。
この世界は、イオリの元の世界で言うところのファンタジーの異世界だ。
そして定番通り神が存在し、魔王が存在し、そしてそれを討伐する必要のある物語だ。
それに自分が巻きこまれているというのは、未だに信じられない。
だが、前人未踏ともなれば至難の業であろうが、この世界には先駆者がいる。歴代99代までの魔王は、同じく歴代の勇者たちに討伐されているのだ。
だから容易とは言えないが、神話を創り上げた先方たちに倣い、自分たちも神話になることは不可能ではない。
不安が無いと言えば嘘になる。何しろ魔族の王だ。熾烈を極める戦いになるだろう。他の面々も、あえて口に出さないとはいえそれなりに思うところはあるだろう。
だが、イオリが抱えている不安は、それとはまた別種のものだった。
自分が視た未来。時に笑い、時に泣き、それでも、キラキラと輝いていた未来。
そして、最後にすべてが黒ずんだ未来。
それをホンジョウ=イオリは、この世界のスタート地点で見せられている。
「……」
今度は心で、大丈夫だと呟いた。
自分が視た予知から、現在はすでに大きく変わっている。
ならば結末も同じく大きく変わるはずなのだ。
そうでなければ。
「……!」
いつしか目を瞑っていたらしい。
遠方に見える巨大な門が開き始めた。馬車でも通るのだろう。
どうやら随分時間が経っていたようだ。依頼には馬車を使うことになっている。
「……?」
イオリは立ち上がって周囲を見渡した。
いれば即座に分かるあの少女がいない。
大分慌てた様子だったから手間取っているのかもしれないが、いくら何でも遅すぎる。
「イッ、イオリーーーンッ!!!!」
見渡していると、小柄な少女が脇目も振らずに全力疾走してきた。
宿の方とは違う方向から駆けてくるティアは、今度は防具を仕込んできてはいるらしい。
彼女が騒ぎ立てるのはいつものことだが、妙に鋭くなっていたイオリの感覚が、その表情に不穏なものを感じ取った。
「何かあったのか?」
「たっ、たいっ、へんっ、です!! 宿で変なこと話しててこっそり後をつけていったらやっぱりそういうことだったとかで!! エリにゃんが!!」
「落ち着いてくれ……!」
イオリはまたティアの身体を抑えるように肩に手を置いた。
先ほどの比ではないほど暴れるティアに、いよいよ尋常ならざるものを感じたイオリは彼女の身体を強引にベンチに座り込ませる。
顔面蒼白にも見えるティアは必死に訴えるように見上げてきた。
「エレお姉さまが怖くて、私何もできなくて、とにかく人を呼ばないとって!!」
「最初から話してくれ。エリサスとエレナに何かあったのか?」
ティアは荒い呼吸を繰り返しながら、必死に思考を凝らしているようだった。
そしてようやく言葉を見つけたのか、泣きそうな表情で口を開いた。
「それが―――」
―――**―――
「……カピレット、あと、コアロックかしら。安いのでいいから、あるだけ頂戴」
「え。……いえ、少々お待ちください」
立ち寄った宝石店で注文を告げると、ショーウィンドウ越しの女性の店員はいそいそと言われた通りに商品を運び始める。
エレナ=ファンツェルンは、本来見向きもしないような安物の宝石をひとつひとつ状態を確認しながら袋に放り込んでいった。
購入したのは、魔力の蓄積や増長に一定以上の効果がある宝石たちだ。
ここは高級品を扱う宝石店のようだが、鑑賞や装飾に向いたマジックアイテムも売っていた。魔具専門店でも宝石は取り扱っているが、宝石専門店の方が値段も質も高いのだ。
こうした宝石店には合法非合法問わず、私利私欲を満たすために寄ることがあるが、そういうときは大抵上客が来たと店側の責任者らしき者が出てくる。
だが、どうやら今回接待は受けられないらしい。店の責任者らしき男は、遠目から恐る恐るこちらの様子を伺っていた。
エレナは思った以上に自分の気が立っていることを自覚した。
ふと、店の入り口で手持無沙汰にしている様子のエリーと目が合った。
馬鹿。
そう口だけ動かしてみると、伝わったのか伝わらなかったのか、エリーは視線を外してぼんやりと展示されている宝石を眺めた。
「お待たせいたしました」
「ええ」
この店の中では安物とはいえ、かなり値は張る。それも数が多い。
最後の宝石を袋に放り込むと、エレナは大金を放り投げるように渡して歩き出した。
港町やこの街でたっぷり“稼がせて”もらったあぶく銭だ、惜しくはない。
責任者らしい男がようやく上客だと理解して歩み寄ってきそうになったのを睨んで制し、エレナはエリーと共に店を出た。
やはり気が立っているのかもしれない。
金を払っただけでも感謝してもらいたい。
店の外に出ると、外気が頬を撫でたが、エレナは何も感じなかった。
宝石店からこんな気分で外に出たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「……止める?」
「……っ」
エリーは口をきっと結んだ。険しい視線を足元に落とし、身体を強張らせる。まるで子供を叱っているかのような感覚にとらわれ、エレナは頭をかいてエリーの手を引いた。
「ちょっといい?」
抵抗なく引きずられるエリーを連れ、路地裏に入ると、日陰のじっとりとした湿気が、より一層鬱陶しく感じた。
エレナがエリーの正面に立つと、彼女はおずおずと顔を上げる。
湿気が鬱陶しく感じるはずだ。
エレナは短く息を吸い、エリーの瞳を捉えた。
「九分九厘失敗する」
「……分かってます」
エレナはこの数日、飽きもせずに全く同じことを何度も聞いている。そしてエリーも訝しむことも無く同じ答えを返してきている。
ここまでくれば、彼女も理解した上で言っているのだ。
「九分九厘、っていうのはちょっと盛ってるかもね。ほぼ100パーセント失敗する。……私が例外中の例外ね」
自分のせいで、失敗すると断言できないのが、エレナは腹立たしかった。
「確かに成功すれば、私のように、まさに次元の違う力が手に入る。そうね、あんたらにとっては夢物語の魔族ですら討伐できるほどよ」
エレナは自分の気が立っていることを改めて自覚した。
殺気に近い気配が自分から漏れている。向き先は、目の前の愚かな少女だろうか、それとも、自分だろうか。
「そして失敗すれば……、こっちは確実ね。……死ぬわ」
自分が何をしているのか分からない。勧めもしない。止もしない。
エレナは分かりやすいことが好きだ。何事もシンプルに考えることが美容にもいい。この数日何度も味わっている何とも中途半端なこの気分は、自分とは縁遠いものであって欲しかった。
「それでも」
エリーの瞳が、何を捉えているかも分からない瞳が、ほんの少しだけ力を帯びた。
続く言葉が分かってしまい、エレナは強く拳を握った。
「『あたし、やります』」
その言葉を最初に聞いたのは、ヨーテンガースの港町、クラストラスでのことだ。
エレナ=ファンツェルンは規格外の力を有する。
自他共に認めるその理由を、エレナはエリーに話したことがあった。
細かな理屈など忘れたし、昔のことだからそもそも理屈すら理解していなかっただろう。
覚えているのはその手法。そして、大まかな効果だ。
基本的に、戦場では魔力の総量が最重要視される。
そしてその魔力のスタミナとも言えるものは、各々が有する器のようなものの大きさに依存することになる。
基本的には身体の成長や鍛錬によって広がっていくが、器の大きさは先天的な部分も大きく、エリーの妹など最たる例であろう。
優秀な魔導士という者の多くは先天的に器が大きく、そうした者たちが、基本的に才能があると言われる存在たちだ。
エレナが自らに施した手法は、後天的に、その器を強引に広げるものだ。
その器に、大量の魔力を流し込み、強引に形状を肥大させる。
エレナが理解していないだけで、もっと精緻な仕組みなのかもしれないが、知っている範囲では狂っているとしか思えない手法である。
例えば身長を伸ばしたいからと言って、身体が千切れるほどの力で手足を引き伸ばすようなものだ。
そんな説明も、この数日で何度もエリーにしている。
だが彼女の答えは、いつも決まっていた。
「……最近、頭が痛いんです」
ぽつりとエリーは呟いた。
「魔物を倒せたとき。依頼が終わったとき。朝街を走り終わったときや、夜寝ようとしたときもかもしれません。風が、背中から身体を抜けていくような感覚がするんですよ」
エレナには読み取れない表情だった。
「何をしていてもそう。いつも心のどこかで、あたしは何をやっているんだろうって思っちゃうんですよ。周りはどんどん変わっていくのに、あたしはいつも……、いつまでも同じことをしているような気がしちゃって」
「……逃避で選ぶ方法じゃないわよ、これは」
「分かってます」
分かっていないと口に出そうとして、止めた。
だから代わりに、歯を食いしばった。
「馬鹿なことだとは思います。命を懸けるなんて、怖いです。……でも、このまま置いていかれる方が、ずっと怖い。そう、思っちゃうんですよ。どうしても」
エレナは目を細める。
この手法を試した人間はこの世界にいくらかいるだろう。生きてはいないのだろうが。
だが、大抵の場合はつまらない好奇心か、あるいは“失敗の方が目当て”の人間ばかりのはずだ。
しかし、目の前の少女はすべてを理解して、そして数日時間を与えて、それでもなお答えを変えない。
何が彼女をここまで追い詰めたのか。
いつもなら興味ないと気にもしないところだが、この面々と関わり過ぎたのか、エレナにはおぼろげに理由が見えていた。
ヨーテンガースに到着し、戦闘の次元は上がった。
その環境の中でも、チートとも言われるほどの力を持つエレナ、そしてアキラやマリスは何の問題もない。そしてあのイオリも、魔導士たる力を存分に発揮している実力者だ。
他の大陸と同じく、戦闘面で課題を抱えるのはやはり残る3人だ。
エレナの視点では、何も変わらない。だが、内情を知る今のエレナには分かってしまう。
まずサクは、圧倒的な速度を有する。
攻略が困難な状況に陥っても、強大な敵が現れても、彼女はその身ひとつで切り抜けられる。
刀の扱いも長けており、余程のことが無ければ窮地に陥らないだろう。
いざとなればその速力で陽動も容易にこなせる。
そして、ティア。
彼女の場合は極端だ。
強敵が現れれば、さっさと諦めて後方支援に回ればいい。
貴重な回復魔術の使用者でもある彼女の力は、強敵であればあるほど重宝される。
だが、エリーだけはそうもいかない。
彼女が出来るのは、その身体のみで戦うことだけだ。
一撃の威力は相当なものだが、敵にしてみれば警戒するのはそれだけである。
敵が強くなれば強くなるほど、エリーが出来ることは極端に減っていき、究極的には何もせずに遠くから見ていることしかできなくなるのだ。
エリーは、その結果をおぼろげにでも察してしまったのかもしれない。
「……行きましょうか。それらしい場所、見つけてあるわ。なんかの避難所とかっぽいやつ」
勧めない。止もしない。
出来るのは、相変わらず口いっぱいに広がる苦々しい空気を飲み込んで、いつものように振る舞うだけだ。
たったふたつの依頼を3つと偽り、クジを操作してサボろうとしているだけだ。
足取り重く、しかし力強く、エレナはエリーと共に路地裏を出た。
向かう先は、人里離れた岩山にある、昨夜見つけたおあつらえ向きの洞穴だ。
気が立っていたせいかもしれない。
その路地裏に、いつもは騒がしい少女が声も出せずに潜んでいることには最後まで気づかなかった。
―――**―――
アキラたちの依頼主が指定してきた場所は、タイローン大樹海に入り、北東に数キロほど進んだ地点だった。
このタイローン大樹海には、港町で出会ったサルドゥの民たち同様、何らかの主義信仰を持った民族が複数存在しているらしい。
ヨーテンガース大陸の凶暴な魔物がいる自然の中で生活を続けるというのは街や村に住む者たちにとっては狂気の沙汰と思われがちだが、その民族たちはそれぞれ生きながらえる術を習得しているという。
戦闘力といった基本的なものから、魔物の生態を熟知して危機に敏感であるなど、民族によって様々らしい。
そんな民族たちは、時折町や村を訪れ、自然の中で採れた食材や鉱石などを卸している。そして、サルドゥの民たちと同じく、大きな町で物資の補給を行ったり、民族内で解決できないことを依頼したりしており、ヨーテンガースの経済の一役を担っているとのことだ。
アキラたちが今回受けた依頼は、その民族からの依頼である。
そしてようやく、依頼主が指定した場所に到着した、のだが。
「…………静かだな」
「ええ」
歩けど歩けど木々の形式が変わらない樹海をやっとの思いで進んで到着したのは、見晴らしのいい丘の上だった。
開けた木々の中、ずらりと整列するテントは数多く、まるで祭りの露店のようにすら見える。そのテントたちの中央にある巨大なたき火の跡もそれを助長させた。
今回の依頼主の民族は、随分と人数がいるらしい。
だが、規模の大きい野営地にアキラが面食らったのも束の間、人の姿がまるで見えないのでは冷静にもなる。
いくつかのテントの前には洗濯物と思われる衣服が干され、奥の大きなスペースでは食材と思しき赤い作物が木の板に吊るされ干されている。
明らかな生活痕の中、物音ひとつしないこの空間は、自然の中というのも相まって一層不気味に思えた。
「……これ、なんかまずいか?」
「いえ。人の気配はしますね」
サクがいくつかのテントに視線を投げた。アキラも倣ってみたが、気配などというものはまるで分らない。
どうやったら察知できるのかと軽口を叩こうとしたところで、半分の眼をじっと手元の依頼書に落とすマリスが目に留まった。
「マリス。ここで合ってるよな?」
「そうっすね。カトールの民。依頼内容は、魔物討伐らしいっす。……移動民族らしいっすね」
「移動民族、ね」
改めてテントを見ると、妙に年季が入っていた。各所に設置されているたき火も、奥に見える作物を干す仕掛けも、手早く解体できるようになっているようだ。
だが、地面に打たれた杭は随分としっかりしている。ある程度の期間はこの場所にいるつもりらしい。
そうしてしばらく様子を伺っていたが、しかしその間も誰ひとりとしてテントから出てくることは無かった。
「……歓迎されてないのか?」
「でも、呼んだのはこの人たちっすよ」
ややむくれたように言って、マリスは依頼書をだぼだぼのマントの中に仕舞った。
このままこうしていても仕方がない。
「すみませーん!」
アキラは恐る恐る一番大きなテントに近づくと、遠慮がちに声をかけた。
すると、テントの入り口が、少しだけ動いた。誰かいるのは間違いない。
「俺たち依頼を請けてきたんですが」
「“本当ですか”?」
「は?」
ようやく人の声を聞けた。
だが、テントから聞こえた男の声に、アキラはぴたりと足を止めた。
震えたようなその声色が、それ以上近づくなと言っているような気がした。
「依頼書もあるっすよ」
「……」
マリスが首をかしげながら、改めて依頼書を取り出し、見せつけるようにしながら近づいていく。
するとようやく、テントの布がゆっくりと開いた。
「……本当、みたい、ですね」
顔を覗かせたのは、40代ほどに見える白髪交じりの男だった。
胸板は厚く、テントの入り口をめくりあげる腕も逞しい。流石にヨーテンガースの樹海で生きる移動民族というだけはあって、半身しか見えていなくとも屈強さが伝わってくる。
だが、そんな体格のいい男は、やはり怯えたように叫んだ。
「は、早く入ってください! 外は危険です……!!」
―――**―――
「その、それで、私は何をしたらいいか分からなくてっ、とにかく誰かに知らせなきゃって、その!!」
「落ち着け!!」
あるいはそれは、自分に向けていったのかもしれない。
イオリは、慌てて喚き散らすように騒ぐティアの言葉を断片的に聞き取り、ようやく状況が把握できた。
どうやらエリーとエレナはただならぬ雰囲気で、何やら危険な“何か”を行うつもりらしく、ふたりで村の外へ向かったという。
盗み聞きしたらしいティアは、パニックになりながらもイオリを頼って戻ってきたらしい。悪くない判断だ。彼女たちがその気なら、ティアがその場で何をしたところで意味は無かっただろう。
「……ア、アルティア。すまないが、依頼所で僕たちの依頼のキャンセルをしてきてくれ。それと、アキラたちの依頼も確認してきてくれ。場所を知りたい」
「はっ、はい!!」
居ても立っても居られなかったのか、ティアは弾かれるように駆け出した。少しは情報を整理する時間が欲しい。
イオリは自分の頭をこつりと叩いて、努めて冷静に考える。
拳には、いつしか額に浮かんでいた冷や汗の感触が残った。
この世界に来てからというもの情報収集に執着していたイオリは、エレナが語っていたという“それ”の噂を聞いたことがあった。
魔術師としての力を急激に高める儀式。
詳細までは知らないが、断片的なものだけでも、それが自殺に等しいものだと確信できる。
イオリは睨むように遠方の街の門に視線を向けた。馬車が出入りしている。あのふたりは、とっくに街の外へ出てしまっただろう。
いっそ今からラッキーを召喚して空から探すべきだろうか。だが、あのエレナがいる以上、見つけたところで自分ひとりでは何も出来ないかもしれない。
「……」
定刻通りに止まった馬車の近くをうろつきながら、イオリは爪を噛んだ。運転手が訝しんだ視線を向けてくるが、見返すと、乗る気はないと伝わったようで、慌てたように走り出した。
ホンジョウ=イオリは、この世界の未来を視ている。
過剰なまでに頼ることはしなかったが、そのせいで、部分的にでもイオリの行動は変化し、その未来も徐々に変わりつつあった。
その変化をイオリは世界の“バグ”と呼び、“あるべき物語”を歪なものとする存在として認識している。
今回は、その“バグ”だ。
“こんな未来は存在しなかった”。
ティアの聞き間違いと楽観視したかったが、そうはならないのがこの世界である。
そしてそれを前にしたとき、イオリはいつも、自分の身体が必要以上に重くなるのを感じていた。
時には自分で狙って作り出す“バグ”もあるが、身体中が金縛りにあったような感覚だけは、意図したものでも意図しないものでも変わらない。
ティアの話では、その儀式の危険性はエリーもエレナも把握していたという。
だが、エリーはそれでもなお、その儀式を選択したらしい。
一体何が彼女をそこまで追い詰めたのか。彼女は決して愚かではない。意地を張ることはあっても、地に足の付いた思考をする。夢物語に憧れることはあっても、縋るようなタイプではないはずなのだ。
だが、心当たりもある。
イオリが認識している最大の“バグ”。今この面々では、予知には存在しなかった、“チート”とすら呼んでいいほどの過剰な力の存在がある。
その力の隣にい続けることは、それほどまでに心を痛めるものなのかもしれない。
だがそうなると、この“バグ”の正体は、
「……、まずは、アキラたちと合流、だ」
彼女たちの捜索だけならイオリひとりで出来るかもしれないが、説得や、あるいは力尽くにでも止めるとなると、アキラやマリスの力が不可欠だろう。
イオリは苦々しく笑った。結局また人頼りになってしまう。
あれやこれやと、嫌な予感だけが頭を駆け巡り、そして身体が動かなくなる。ずっと繰り返してきた、毒々しい感覚だ。
その感覚ごと思考を追い払うように呟いて、イオリは懐から自分たちの依頼書を取り出した。
樹海で生活を営む、何らかの民族からの魔物の討伐依頼。彼らには悪いが、ざっと見る限り緊急性はなさそうだ。我慢してもらおう。
「! ラッキー!!」
「―――イッ、イオリィィィイイイン!!!!」
ティアが依頼書か何かの紙を掲げるように駆けてきたのが視界に入った瞬間、イオリは即座に召喚獣を呼び出した。
イオリの操る召喚獣ラッキーは、見た目だけなら巨大で獰猛な魔物である。
そんな存在の突然の出現に周囲の民間人が慌てふためくが、気にはしていられない。
「行くぞ!! すぐに乗ってくれ!!」
「はっ、はい!! こっ、これ、アッキーたちの依頼です!!」
ティアの手からひったくるように依頼書の写しを奪い、イオリは素早く目を通す。
ほとんど反射でラッキーを飛び立たせると、周囲の露店の商品の棚が倒れたような音がした。今は有事である。
イオリは構わず方向を定め、樹海に向かって空を突き進んだ。
その速度で突風のような衝撃がラッキーの背に乗るイオリたちを襲い、ティアの短い悲鳴が聞こえたが、速度を緩める気はない。
「……」
ふと違和感を覚え、イオリはラッキーを操りながら、改めてティアが持ってきたアキラたちの依頼書の写しを見た。
彼らの依頼は魔物討伐。依頼主は、樹海に生きるとある民族のようだ。
見間違いかと思ったが、どうやら正しいらしい。
自分たちと同じような依頼である。この辺りはそういった依頼が多いのだろうか。
―――**―――
魔物の襲来。凶悪な魔物の巣食うヨーテンガースの大樹海を生きる民族の叫びに、アキラたちは即座にそれを連想した。
言われた通り、迷わずテントに飛び込もうとしたアキラが、その直前に振り返ると、マリスとサクはテントを守るように臨戦態勢に入っていた。
慌てたせいで転びかけたアキラは、テントの前に立てかけてあった物干し竿に痛烈に脛をぶつける羽目になり、最後の自尊心で悲鳴を上げるのを抑え込むことになった。
そしてどうやら、魔物の襲来ではなかったらしい。
だから、アキラは機嫌が悪かった。
「ええと。危機管理は重要ですから」
「…………」
サクのフォローは聞き流した。まともに聞いたらより一層心が痛む。
危機を前に、まず周囲を守ることを優先できたマリスとサクには、この心の痛みは分かるまい。
「実は」
アキラたちを自らのテントに招き入れた男は、カルドと名乗った。
彼らはカトールの民というらしく、港町で出会ったサルドゥの民たち同様、この樹海で生活を営んでいるらしい。
テントの中は思いの外広く、中央に大木を切り倒したようなテーブルが置かれ、アキラが座っているのもその木の枝の椅子のようだった。そう思うと、テントの中の簡易な棚や、カルドが腰を下ろしているベッドのような台も同じ木から造られているように見えた。いずれも真新しく、それでいて、長く使うようには見えない間に合わせの品のように思える。彼らは移動民族とやらで、所詮ここはひとつの野営地でしかないのだろう。
「依頼を出せていただいたのは、魔物の討伐をしていただきたいからです」
「……」
カルドは、それなりの体格の男だったが、テーブルの向かいで縮こまりながら声を絞り出す様子から、妙に小さく見えた。
袖から覗く腕も太く、この自然の中で生き抜いてきた逞しさを感じる。だがその雰囲気は、アキラが知るあのサルドゥの民の族長と比べると、妙に大人しかった。あれが例外だったのだろうか。
「魔物っていうと……、ええと、どんな魔物なんですか?」
「……その、魔物、ですよ。魔物」
「へ?」
アキラの言葉に、カルドは相変わらずの様子で、要領の得ないことを言った。
この世界の常識力を試されているのかとサクに視線を送ると、彼女もまた神妙な顔をしてカルドをじっと見ていた。
「色んなところにいるじゃないですか、魔物は。それを、こう、上手く討伐していただきたくて」
「……ええと、あれ。まさかとは思うけど、樹海の魔物全部倒せとかじゃないですよね?」
「で、出来るんですか……!?」
話を理解するためにスケールを大きくしてみたら、思った以上に食いつかれた。恐らくそれができるくらいなら、魔王を倒す方が絶対に早い。
一応、その夢物語が可能かもしれないマリスに視線を向けてみたが、彼女は半分閉じた瞼の奥で、瞳を乾かしていた。表情からは感情が分かり辛いが、若干呆れているようにも見える。
「その、何でそんなことを? 魔物なんてそこら中にいるってのに」
「何で、って、その、……怖いじゃないですか。襲われたら、一体どうなるのか」
こちらの意図は伝わらなかったし、カルドの意図はもっと伝わってこない。
浅くはあるが、アキラもそれなりにこの世界で生活している。
ファンタジーな世界だが、長年この世界で暮らしている者たちにとって、魔物とは元の世界の自然動物のようなものだ。
獰猛であり、危険性は元の世界の比ではないが、世界の中の環境の一部である。
討伐依頼として出されるのは、過剰繁殖などで環境のバランスが崩れるようなものや、運搬や町作りの都合でのものばかりで、討伐自体とは別の目的が依頼主にある。そこら中にいる魔物をすべて討伐して欲しいなどという依頼は聞いたことが無い。
むしろ、そうした夢物語は、まさしく“勇者”に頼むような事案である。
「あれ。じゃあ合ってるのか……?」
「にーさん?」
納得しかけたところでマリスに正気に戻され、アキラはカルドに改めて向き合った。依頼前のヒアリングは、エリーやイオリに任せっぱなしだったから妙にやり辛い。自分よりずっと上手くできそうなサクは、残念ながら変わらずカルドの様子をじっと伺っているだけだった。
「とにかく、樹海の魔物を全部倒すなんて無理ですよ。みんなテントの中に隠れているのって、魔物が怖いからってことですか?」
「え、ええ。だって、命あっての物種でしょう」
「……その、それでどうやって今までこの樹海で生活を?」
「そ、それは…………、そう、ですね。今考えると恐ろしい。何故魔物が出現するような場所で生活していたのか」
「それなら、樹海から出て行った方がいいんじゃ?」
「それは出来ません。我々カトールの民は、この樹海で生きるものなのですから」
話すたびに、どんどん頭が痛くなってくる。
カトールの民とは、まさかこの数日間で生まれた新しい移動民族とでもいうのだろうか。いざ樹海で生活してみようと思ったが想像以上に自然の中で生きるのは厳しく、依頼所に泣きつくことになったとでもいうのだろうか。
だが、年季の入った身辺の道具や、規模を見るに、どうやら違うらしい。
「……いつから、そんなことを思うようになったんすか?」
完全に手詰まりになりつつあったところで、マリスが口を挟んだ。
表情は、呆れたものから訝しむような様子に変わっている。
「そう、ですね。……ぞっと背筋が冷えるようになったのは、この数日です。確か…………、夜の遠吠えが気になるようになって」
「遠吠え?」
「ええ。…………あった、この」
カルドは奥の戸棚から、使い古したボロボロの地図を取り出した。
この大樹海の一角を表しているその地図は、要所に書き込みがあり、内容を見るに食料や町で売れる産物の場所が記されているようだ。彼らの主な活動範囲なのだろう。
そしてカルドは、地図の上で指を滑らせ、地図の西部で止めた。ベックベルン山脈の一部のようにも見える山岳地帯のようだ。
「ここから……、ですかね。そう、4日、いや、5日前ほどだったか。この場所から魔物の遠吠えが聞こえるのです」
「この場所? こっちの方、とかじゃなくてですか?」
「……え、ええ。恐らく、魔物が叫んでいるのはこの場所かと。……獣のような。うっ」
樹海で生きているからなのだろうか。その遠吠えとやらの場所だけは掴めているらしい。アキラが訝しみながらカルドを見ると、しかし彼は思い出しているのか、カルドはぶるりと身体を震わせた。嘘を吐いているようにはやはり見えない。
「獣って……、そんな雄叫び、樹海で生活していたら、それこそ毎晩聞こえるんじゃないっすか?」
「ええ、ええ。だから怖くて」
「……変な遠吠えなんすか?」
「……い、いえ。そうですね、それほど妙な声では」
「ちなみに、この場所。何かあるんすか? これから行く予定とか」
「え? いや、山脈には近づきませんよ」
冗談じゃないとでもいうようなカルドの言葉に、マリスの表情が険しくなった気がした。
アキラも自分が浮かべている表情が分からなくなる。困惑しているのか、苛立っているのか。
だが、カルドの指す地点は、例の何らかの産地を表すような書き込みがまるでない。たまたま地図に記されているだけで、彼らカトールの民には縁遠そうな場所にも見える。確かに近くはあるが、本当に行く予定はないようだ。
「……」
アキラは小さく息を吐き、じっとカルドの様子を見た。
彼は本当に、例の遠吠えとやらに怯えている。依頼すら出すほどだ。少なくとも単なるいたずらではないだろう。
聞いた限り、この民族は、この依頼は、どうにも不審な点が目立つ。
要領の得ない依頼主。荒唐無稽な依頼内容。そして何の変哲も無いらしい、“怖いだけの遠吠え”。
依頼主の気が早く、依頼内容をまとめきれずに出された依頼は、たまにある。そうした依頼は、報酬すらも不確かだと考えて避けることが多いと聞くが、ここはヨーテンガースで、魔王の牙城は近い。
アキラの属性の影響なのかもしれないこの依頼、これをただの違和感として見逃すことは許されないだろう。
ならば真面目に向き合って、彼らがこうなってしまった原因を探る必要がある。
そこでふと、アキラも震えた。
自分は、そんな面倒なことを考える人間だったろうか。
ただの依頼だ。この世界に来てから、自分の日常となった仕事である。
そんな細かなことに気にせず、それこそRPGのテキストを読み飛ばすように進んで、この世界の生活を存分に味わえばいいだけのはずだ。
何らかの矛盾があったとして、小事である。何も気にせず、前へ進んでいけばいい。
そのはずだった。
だが、一度考え出すと、以前のように簡単に割り切ることが出来なかった。
徐々に嫌な予感が頭を侵食してくる。
ゆえに、どうしても、こう考えてしまう。
“どれだ”。
この話は、所詮この依頼にある、物語上の単なる謎。
それとも、“バグ”から生まれた異変なのか。
腰が浮きそうになる。イオリを探して、この依頼を“予知”で視たかを聞くべきだろうか。
だが、本当に単なる小さな問題だったとしたら、どうなるのか。
この先自分は何に出遭っても怯えて過ごすことになる気がした。イオリが、視たという来を多くは語ってくれないのは、そうした理由があるからだと言われた覚えがある。変わりつつある未来に依存するのは、あまりに危険なのだと。
だから今、アキラは自分で、この異変と向き合う必要がある。
「……アキラ様」
「ん?」
サクの小声に視線を向けると、彼女はちらりと出口に視線を走らせた。話があるということなのだろう。
泥沼にはまりそうだったアキラも、外の空気が吸いたくなった。
「悪いマリス。ここ頼めるか?」
「……了解っす」
サクに続き、アキラはテントの外に出た。
すると、いつしか覚えていた圧迫感のようなものが和らいだような気がした。だが、すぐに間違いだと気づく。奇妙な話を聞かされたせいか、来たときは感じなかった、姿も見せずに各々のテントからじっと見てくる他のカトールの民の視線が、まとわりつくようにアキラを襲う。
ようやく気配というものの一端を感じ取れた気がした。どうやら彼ら彼女らは、警戒心むき出しで自分たちを見ていたらしい。
前を行くサクは気後れせず、野営地の外れへ向かっていく。
ひとり取り残されるような感覚を覚え、アキラは足早に彼女を追った。
「どう思われましたか」
テントからの視線を感じなくなったほどまで歩くと、サクは落ちていた小枝を拾い上げ、珍しくも投げやりに藪の中へ放った。
「どうって、そりゃ、わけ分からん」
アキラは素直に感想を言う。もう少しへらへら笑いながら言った方が自分らしいと思ったが、どうにも今は、眉間の皺が取れない。
彼女も同じような感想だろう。だが、振り返った彼女は、アキラ以上に迷いを感じる表情を浮かべていた。
「……私も同じです。もっと言うと、ああいう様子に心当たりが」
「は?」
「覚えていませんか? その、……モルオールのカリス副隊長を」
確証はないのだろう。ほとんど思い付きに近いのかもしれない。
だがアキラは、僅かばかり胸のつかえが取れたような感覚を覚えた。
「言っていることは支離滅裂。しかし、彼にとってはそれが“真実”。そういう妙な感覚です」
屈強そうなカルドは震えあがっていた。そしてモルオールのカリスは、聡明な様子だったのに、愚直な計画を立てていた。
端から見れば矛盾を感じるその様子は、しかし彼らの中では筋が通っているのだ。
「……?」
「? 何か?」
「いや、何でもない」
気付けばアキラは、サクの顔をじっと見ていた。
また何か、脳裏に掠めた。だが、その闇を前に、アキラは足を止めた。これ以上進むと、物語が濁る何かが襲い掛かってくるような悪寒がしてしまった。
「……ま、深追いしてもしょうがない。依頼は請けるんだよな? ……なんか罠とかじゃなきゃいいけど」
「え、ええ。彼は本当に怯えているようですし、放り出すのも気が引けます」
あえて言ったのは、自分を奮い立たせるためだったのかもしれない。
罠。
口に出せば軽くなるかと思ったが、抱える違和感は何ら払拭されなかった。
嫌な予感と、同時に覚える、“それに背を向けてしまうことの危機感”に挟まれ、身動きが取れなくなりそうだった。
だからアキラは、気を逸らした。
「それにほら、マリスもいるしな。ま、何とかなんだろ」
「ええ」
アキラの軽口を、サクは即座に肯定する。
いつもは内心咎めるような表情を浮かべるサクにしては珍しい。
「それなりに共に行動していますが……、私は未だに彼女の底が見えません」
それを言ったら皆そうだろう。だが、アキラが言うそれと、相当な実力者であるサクの言葉とでは重さが違うことは分かった。
「前に彼女と組んだときのことです。……話しましたっけ?」
「前にって……、ああ、港町でか。そういやそっちどうだったんだ?」
アキラは、あの別の“勇者様”たちと出逢ったときのことを思い出す。
あのときマリスとサクは別の依頼を受けに行っていた。だが、様々なごたごたに巻き込まれた自分たちの話題ばかりで、結局マリスとサクがどんな依頼をしていたのか聞いた覚えがない。
「魔物の討伐です。討伐対象が洞穴の奥にいたせいで時間がかかりましたが」
「へえ。でも、問題なかったんだろ?」
「……“問題はありましたけど、問題なくなりました”」
「は?」
サクの言葉に、アキラはまた頭が痛くなった。矛盾だらけの言動は、先ほどのカルドだけにして欲しい。
「私たちはその洞穴を見つけ、進んでいき、そこで、」
「終わったっすよ」
そこで、いつしかテントから出てきたマリスがとぼとぼと近づいてきた。
手には先ほどの地図の写しを持っている。依頼の手続きはとりあえず終わったらしい。一応はカルドからの依頼を、正式に請けたことになる。
だがそのカルドは、見送りも無くまたテントの中に引きこもっているようだ。
「じゃあ行くか。西って……こっちか? あの山らへんだよな、結構遠くね?」
「そうっすね。まあ、遠いと言えば遠いっすけど、大した距離じゃないっすよ。それに、あの辺は魔物も大人しいし。……まあ、比較的、っすけどね」
「それなのに怖い、ねぇ……ん?」
早速歩き出したマリスの背を追って、アキラは眉を潜めた。
「マリス。そこ知ってるのか?」
マリスはわけもない様子で頷いた。
そこでマリスは今気づいたように顔を上げる。
「自分とねーさんの生まれた村。その辺にあるんすよ」
「え」
「あれ。言ってなかったっすか?」
―――**―――
配置は、さして正確でなくともよい。
使用する器具も、代用できるものがほとんどである。
だが、エレナは鮮明に残っている記憶通りに、正確に準備を進める。
ペンタグラムを形作るように、中央に人ひとり分が寝転べる距離を保ってコアロックを5カ所に、数も均等にして配置。それを囲うように、カピレットで円を描く。
丁度一周したところで、空になった袋を放り投げると、ムラのある場所を丁寧にならしていく。
魔術的な意味を除けば、火料理をやっているようなものだ。使用する器具は一定以上の力を持っていればよく、配置は中央に向かってどの方向からも均等な力が加わるようになればいい。
こうした面倒な作業は嫌いだが、どうやら得意らしい。多少は時間がかかるはずだったのに、思ったよりもすんなりと手はずを整えてしまった。
「これでいいんですか?」
「ええ」
使うのは火ではなく、魔力。受けるのは食材ではなく、人間。
その対象であるエリーが、エレナが放り投げた道具の残骸を丁寧に片付け終えていた。
「随分おあつらえ向きね、この場所」
「避難所なんです、緊急用の。もっとも場所が場所なだけにほとんど使われないらしいですけど」
ふたりは今、ベックベルン山脈の麓の洞窟を訪れていた。
カーバックルの町から数時間ほどかかるが、道中のことをエレナはほとんど覚えていない。鬱陶しくも絡んできた魔物を何度か血祭りにあげたような気はするが。
洞窟の中は、存外広く、しかも随分と道が長い。最奥のこの場所は開けているが、そこに至る道は細く、気も紛れず、洞窟に来るまでより長く感じるほどだった。
天井は吹き抜けのように高く、数十人規模で寝られるほど広い空間だが、天然物の岩石がむき出しになっているせいで圧迫感を覚える。
中途半端に加工されているが、元は動物か魔物の巣か何かだろう。こうした洞窟はこの世界のいたるところにある。だが、灯台下暗しとでも言うべきか、ヨーテンガースで特に危険なベックベルン山脈の近くというだけはあり、中途半端な魔物は絶対に近づかない。確かに避難所としては有用だろう。避難する側にここに逃げ込む勇気があればだが。
「あんた、前にも来たことあるの?」
「多分、無いです。普段は村から外に出ませんでしたから」
エリーの出身地はこの近くにあるらしい。
幼少期に過ごした村だそうだが、本人もほとんど覚えていないという。
その後はアイルークの孤児院で暮らしていたというのだから、何があったかはある程度想像がつく。
アイルークで暮らしていたときは思いもしなかっただろう。この場所に来て、こんなことをやろうとすることになるとは。
「……っし。始めましょうか」
「はい」
エリーの返事の声色は、気にしないことにした。
「あたしはどうしたらいいですか」
「そうね。……あんたはそこ。今からこの中央に座り込んで、“ひたすら耐えなさい”」
「え?」
「他のことは私がやるわ」
「わ、分かりました」
やることは至ってシンプルだ。
対象者の魔力の器とも言えるものを、強引に押し広げる。そのために、周囲から過剰なほどの魔力を注ぎ込み続けるだけなのだ。
エレナは改めて自らが作り上げた儀式の場を流し見た。
気が狂っている。こんなものはただの“攻撃”だ。どれほどの恨みがあればここまで念入りに息の根を止めようとするのか。
だが、それを超えた先、常軌を逸する“力”が手に入る。入ってしまう。
「……それと」
「はい」
「服、脱ぎなさい」
「えっ!?」
後ずさりそうになったエリーに詰め寄ると、エレナは彼女の手を掴んだ。
「常軌を逸した辛苦よ。“のたうち回ることになる”。こんなプロテクターなんて仕込んでたら、身体中ズタズタになるわよ。それに服も。首なんて締まったら下らない理由で死ぬことになるでしょう」
「そ、そう、です、ね」
事務的に伝えると、エリーはおずおずと服を脱ぎ始めた。
羞恥心は強いようで、動きが鈍い。
だが、エレナは黙ってそれを見ていた。彼女の迷いを見ると、また止めそうになる。だが、流石にこれ以上迷わせるようなことを言うのは過剰だと感じていた。
ようやく服を脱ぎ終わり、日に焼けた健康色の四肢を露出させたエリーは、素足でゆっくりと近づいてきた。
桃色の下着をさり気なく手で隠しながら、エレナが言った通り中央へ向かおうとする。
欲を言えば下着も脱いだ方が良さそうだが、半ば投げやりになって、エレナは見逃した。
「……髪も切った方がいいかもね」
「あ」
背中で束ねているとはいえ、エリーの髪は長い。
下着は見逃したが、首の近くとなると危険に見えてくる。
「こっち来なさい。肩くらいまで切れば大丈夫でしょう」
「……」
一瞬躊躇したようだが、エリーは素直に歩み寄ってきた。
エレナはあれこれと準備のために持ってきたバッグから霧吹き、そして櫛と鋏を取り出し、彼女の背後に回る。
エリーの赤毛を濡らし、櫛でならす。
すると、形容できない感覚がこみあげてきた。エレナは頭を振る。また余計なことを思い出しそうになった。
「……あんたさ、なんで髪伸ばしてるの?」
「へ?」
気を紛らわせるために、適当に訊いてみた。
するとエリーは真面目にも、思い出すような所作をして、呟いた。
「願掛け、みたいなもの、だったはずです」
「願掛け?」
「ええ。マリーと一緒に、伸ばそう、って」
「……」
深くは聞かなかった。
マリサス=アーティ。エリーの妹で、数千年にひとりの天才と言われる少女。
彼女と姿かたちが同じの姉は、今、命を懸けることになっている。
何故こんなことになっているのか。答えは分かりきってしまっている気がした。
適当に振った話だったのに、またエレナは気を紛らわせなければならない羽目に陥った。
「…………こんなもんでしょう」
パラパラと赤毛が幾度か落ち、ようやくエレナは出来栄えに納得した。
肩ほどまでカットするつもりだった髪は思ったより短くなってしまったが、毛先は可能な限り揃えた。ついでに前髪や側道部のバランスも整ええてみた。
本職ではないが及第点の出来だろう。
こんなときにでも容姿というものは気になるのか、エリーは不安そうに振り返ってきた。今まで感じてきた頭の重さが変わった違和感もあるのかもしれない。
「大丈夫大丈夫。似合ってる似合ってる」
「そ、そう、ですか?」
あまり信用されていないのは瞳の色から感じ取れた。
だが、ほんの少しだけエリーが笑ったような気がして、自分も微笑んだような気がした。
エレナは頭を振る。また余計なことを思い出しそうになった。
「……じゃあ、説明するわ」
止めるなら、ここが最後のチャンスだ。
一瞬浮かんだノイズを強引に頭の外へ放り出し、エレナは儀式の場へエリーを促す。
「あんたがやることはたったひとつよ。中央で楽な姿勢を取って、“絶対にそこから逃げないこと”。どれだけ辛かろうと、そこにい続けることだけを守って」
「はい」
「私は外から“発動”させるわ。それと、不測の事態が起こったら何とかする。だから、あんたは気にせずもがき苦しみなさい」
「……」
道具の代用は可能なこの儀式だが、常人では準備すら困難なものがある。
端的に、“発動”させるための膨大な魔力だ。
どれほど市販の物品を揃えたところで、発動させることが出来なければこの儀式は行えない。
だが、エリーにとって幸か不幸か、その膨大な魔力は目の前に立っている。
「始まると、コアロックが1ヶ所ずつ砕けていくわ。5ヶ所だから、計5回ね」
捲し立て、エレナはもう一度儀式の場を眺める。落ち度はない。記憶通りに再現できてしまっている。
「タイマーみたいなものだと思えばいいわ。そのたびに、襲う苦痛は強くなる。強く光り始めたら合図だから、それに耐えなさい」
もっとも、まともに意識できるのは1回目か、精々2回目くらいまでだろう。
そこから先は、あらゆる感覚が敵に回る。
エレナは身体を震わせた。経験者だ。何が起こるか実体験として知っているが、思い出したくもない。
震えているのがエリーに分からないように、懐から取り出したものをエリーに投げた。
「あとこれ」
「マウスピース、ですか?」
「そ。気休めみたいなもんだけど、舌とか噛まないように。呑み込まないようにしなさいよ」
これで、自分が出来る準備はすべて終わった。
結果がどうなるかは、まさしく神のみぞ知る。
儀式の場の中央に座ったエリーは、じっとこちらを見つめてきていた。今さら何を言ったところで、もう止まらない。
「エレナさん」
「なに?」
「エレナさんは、誰に協力してもらったんですか?」
最後の世間話だろう。
思い出したくもないが、エレナは素直に答えた。
「私はひとりでやったわ。今日は私のことを魔具だとでも思って。大量に魔力を有する儀式の装置ね」
「……」
それきり、エリーは口を閉じた。
エレナは儀式の場に近づくと、すっと息を吸う。
もともとは、対象を滅するためだけの術式だという。
指数関数的に威力の上がるこの術式は、しかし時折異常事態を引き起こす。
過去、伝説級の魔物が生み出されたせいで闇に葬られたという説もあるそうだ。
今から自分たちは、狙ってその“異常事態”を引き起こす必要がある。
「―――、」
エレナは呟き、魔力を発動させる。最後に呟いたのは、いつだったか。
それと同時、1ヶ所目のコアロックが輝き始めた。
―――**―――
「……凶悪な魔物ひしめくヨーテンガース。命は何よりも大切にしなければならない」
喜悦にまみれた声が、小さく響いた。
「……凶悪な魔物ひしめくヨーテンガース。少しでも強く。何をしてでも強くならなければならない」
誰かに囁きかけるように、小さく響いた。
暗闇の洞窟内。入り口が違う隣の空洞からは、現在膨大な魔力が感じ取れた。
岩壁の向こう。彼女に宿る意思は強い。
ちゃんと、強くなってくれた。
「急ぐ必要がある。いえ、慎重に動く必要がある。……ううん、いえいえ、まあ、“ちょうどいいくらいで来て欲しいわ”」
暗闇の中、淡く漂う光が、囁き声を発していた。
その“何か”は、笑う。嗤う。
すべては思い通りに進んでいた。
間もなく夜が訪れ、月が昇る。
きっとそれは、不気味なほど巨大な満月だろう。