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第10話『踊る、世界(前編)』

―――**―――


「イッッッオリーーーンッ!!」

「っ、エレナ、頼むよ」


 エレナ=ファンツェルンは、眼前で人を襲っている暴風雨を冷めた瞳で眺めていた。

 早朝であるのにきっちりと魔導士のローブを纏うイオリに、暴れているせいで乱れた普段着で頭を振り回しながら抱き着くティアの姿は、はたから見れば魔導士とそれに憧れる子供のようだ。あるいは、じゃれつく犬の方が的確かもしれない。


 この魔導士、ホンジョウ=イオリが旅に同行するようになってから1週間ほど経過している。

 その間、朝だろうが、昼だろうが、夜だろうが、時間を考えていないようなティアの大声が向かう先は、ほとんどそのイオリになっていた。


「あっし。ラッキーに会いたいです!」

「アルティア。だから、ラッキーは、」

「? あはは、おかしなことを言いますね。あっしはティアにゃんですが?」

「……騙されると思っているのかな?」


 “勇者様御一行”が訪れる宿屋は、早朝賑やかしい。

 そんな噂が既に流れている可能性はかなり高いとエレナは踏んでいた。

 そして、宿屋の主人が怒鳴り込んでくる可能性もかなり高いと思っていた。


 1週間は経つというのに、未だにティアのイオリへの関心は治まらないらしかった。

 エレナとしては、昨今自分に降りかかっていた厄災が逸れてくれたのは望ましかったのが、離れていてもやかましいとなると、流石にあの口を塞ぐべきなのかもしれない。

 起きたばかりで、機嫌も悪いから、力加減を間違えるかもしれないが。


「しかし、よく懐いているな」

「あの娘のあれは、いつものことでしょう」


 ティアとイオリから一定の距離を保っていたのはエレナだけではない。

 あの我らがアルティア=ウィン=クーデフォンにロックオンされまいと、サクが、極力気配を殺しながらエレナの隣に並び立った。


 サクは、小休止なのか、顔をタオルで拭いながらふたりのやり取りを眺めている。

 戦場では鋭い顔つきの少女だが、ティアを眺める様子は達観した保護者のようにも見える。

 難を逃れているサクには分からないかもしれないが、散々絡まれたせいでエレナは知っている。あのティアに、癒しの効果は無い。


 エレナは欠伸を手で押さえた。

 北の大陸にいたときよりはずっと気候は安定し、早朝の空気も爽やかだ。

 これで眠れたらより幸せなのだろうが、ここはティアの射程圏内だ。安眠など出来ようはずもない。


「眠そうっすね。部屋に戻った方がいいんじゃないっすか?」


 手頃な石垣を見つけて腰を下ろしたエレナを、最初からそこにいたのか、ほとんど無音な少女が出迎えた。

 顔を上げると、マリスが、今のエレナにとっては睡眠導入になりかねないのんびりとした表情で見つめてきている。

 だぼだぼの黒いマントに、いつも半分ほど閉じている目をしていて、よく人に眠そうと言えるものだ。


「あのねぇ。あんたが朝練なんてやり出してんのに、ひとりだけ寝てろって?」

「自分のせいなんすか?」


 どういう心境の変化か、今まで“こちら側”だったはずのマリスが早朝に顔を出すようになって早1週間。

 つまりはモルオールでイオリと出逢った港町にいたときからだ。

 とはいえ彼女もエレナと同じく、この場でやることは特にないのだが、マリスは全体の様子を見ているようだった。

 連携やサポートを想定し、そうした観点で面々を見ることに、マリスは価値を見出しているらしい。

 そろそろ依頼の組分けも、マリスはくじ引きにでもなるかもしれない。

 そしてそんな中、自分ひとり宿屋で眠りこけているというのはエレナとしては面白くなかった。


 結果として、“勇者様御一行”は、近年まれにみる早起き集団に変わっていた。


「……」


 エレナは、思ったよりも面倒なことになっていると自覚した。

 前の自分なら、だからどうしたと言わんばかりに、今頃寝ているか、街のどこかの民家に旅費のご協力をいただいているかだったろう。

 この面々に妙な縁を感じて、関わり過ぎたかもしれない。

 この旅は、自分にとって、何かの意味を持つものなのだろうか。


「イオリン!!」


 まどろもうが思考を進めようが、あの大声は強制的に遮断してくれる。

 視線を送ると、ティアが瞳を潤ませ、助け舟が来ないと悟って絶望しているイオリに詰め寄っていた。


「お願いします、お願いします!! 前は見せてくれたじゃないですかっ。ラッキーを!!」


 エレナも、自己紹介とばかりにイオリの操る召喚獣を見せられたことがある。

 その召喚獣は、流石に魔導士といった力を感じたが、その後の余談がよろしくなかった。

 召喚獣は流し込む魔力や手法によって同種の存在の姿ならある程度コントロール可能らしく、つまりは伸縮自在で、イオリは手乗りサイズで召喚してみせたのだ。

 エレナが見ても、まあ、可愛く見えなくもなかった。

 ただ、それが決定的だった。


ティアが、絶叫した。


「さあさあさあ、遠慮はいりません!! あの、ちっちゃいラッキーをお見せください!! あっし、今でも夢に出てくるくらいなんですよ、あのちょーちょーちょープリチーな姿が……!!」

「だから、アルティア。召喚獣っていうのは、そう意味も無く呼ぶもんじゃないんだよ」

「ティアにゃんですよ? いやいや、意味ならありますよ!! 可愛いは正義!!」

「それを意味ないって言うのよ」

「―――むぐっ!? むぐぐぐぐぐぐっ!!」


 ついにエレナは動いた。

 瞬時に詰め寄ると、ティアの口を掴み、そのままぎりぎりと締め上げる。

 藻掻くが、徐々にその力を失っていくのを確認して、エレナが手を離すと、ティアは顔を抑えて蹲った。


「……助かったよ、エレナ」

「……」


 難を逃れたイオリは、にこやかに微笑んだ。

 妙に嘘くさい。そう感じるのは、自分が土曜属性の者が嫌いだからだろうか。

 エレナは言葉を返さず、そのまま背を向けた。

 そして多分、そもそも助けていない。


「……、…………、いようっし。ふっかーっつ!! さあ、イオリン。どこまで話しましたっけ?」

「あれ。エレナ。あれ?」


 付き合っていられない。

 毎回自発呼吸できるギリギリレベルまで締めているつもりなのが、ティアはすぐに蘇ってくる。

 エレナはため息を吐き出し、のそのそと戻ろうとすると、マリスとサクが苦笑しているように見えた。

 妙に面白くなかった。


「強弱以外の属性間の相性って、本当にあるんすね」

「にしても感情制御が下手過ぎよ」


 適当に返答して座り込むと、サクが、眉を潜めていた。

 面倒な話題になった気がした。


「それは、どういう意味だ?」

「知らなくてもいことよ」


 所詮血液型占い程度の話だ。


「ああ、サクさん知らないんすね。水曜属性の人って、土曜属性の人に惹かれるらしいんすよ」

「……そう、なのか?」


 サクは改めてティアとイオリに視線を向けた。

 たとえ占い程度だとはいえ、知っていると知らないでは見方が変わる。

 ただ、ティアのあれは今に始まったことではないとサクは考えているように見えた。

 エレナは頭を振る。考えていることが何となく分かってしまうほどに深入りするのは自分の性分ではない。


「……ちなみに、マリーさん。木曜属性は、何に惹かれるんだ?」

「ちょ。何で私が最初に出てくんのよ」

「確か、水曜属性っすね」

「……ほう」

「占い程度、よ」

「エレねー、そういうの何気に詳しいっすね」


 エレナは地面を蹴って立ち上がった。

 寝ていた方がマシだった。サクが意味ありげな瞳を浮かべているのも、どうにも居心地が悪い。


「まあ、占い程度、って言っても、現にそういうのはあるじゃないっすか。“惹きつける力”、というか」


 マリスが視線を宿の外へ向けた。

 見れば、本日の早朝罰ゲーム、街一周のランニングを受けているふたりが、何故か全力疾走している。

 なだれ込むように庭に駆け込んでくると、ふたりとも膝に手を突き荒い呼吸を整えていた。


「何やってるんすか、にーさんたち」

「……こ、こいっ、こいつが、なんか、最後は、競争、しよう、とか」


 世界の希望を背負っているとかなんとか。

 勇者様であるヒダマリ=アキラの様子を見て、エレナはまたため息を吐いた。

 いつしか大所帯になっているこの一行を率いる男ではあるのだが、一緒にいるとどうにも緊張感が薄れていく。

 そういうのも悪くはないと考えてしまったエレナは、頭を振った。

 堅苦しいのは嫌いだし、真面目という言葉とは対極に位置するであろうエレナだが、そろそろ場所が場所だ。


 何せここは、最後の大陸なのだから。


「あ、あ、あんたが言い、出した、ん、じゃ……、なかった、っけ?」


 そんなアキラの隣で、ほとんど同じ姿をしたエリーが言葉になっていない何かを言っていた。

 だが彼女の前には、もっと瓜二つのマリスがいる。

 同じ背丈で、同じ顔で、色彩が違うだけの同じ姿の双子だが、息を荒げる姉のエリーと、それを涼し気に見るマリスは、エレナの目には最早双子には見えない。

 エレナは頭を抑えた。

 最初はほとんど区別できなかったのだが、長い付き合いになってしまったせいで、妙に詳しくなってしまった。


「アッキー、エリにゃん!! おかえりっ!!」

「た……、だい、……ま」


 そして当たり前のようにティアが犬のように駆け寄ってくる。やはりこいつのこれはいつものことか。

 罰ゲームの常習犯であるらしいティアは、今日は難を逃れたらしく、元気も有り余っているのかもしれない。


「そ、そう、いや、さ」

「はい! なんですか?」

「お、おま、お前、なんで、今日、早かった、んだ?」

「ふっふっふ。あっしの早起きの秘密を聞きたいんですか?」


 息も絶え絶えなアキラの前で、ティアが胸を張った。


「そういえば私も気になっていた。私やイオリさんより先にここにいただろう?」

「はっはっはっ。何ですかもう、そんなに褒めないでくださいよ」


 サクも気づいたようにティアを見た。

 その目が尊敬ではなく、不審なものを見る目をしていることにも、エレナは気づいた。

 イオリも歩み寄ってくる。不慣れな町を駆けずり回っていたせいか、アキラとエリーが戻ってくるのは随分と遅れている。眠気と騒音と戦うことになった朝の鍛錬とやらは、ふたりには悪いが、そろそろ切り上げらしい。


「ほらほら。なかなか寝付けない夜ってあるじゃないですか。横になっても、寝返りを打っても色々考えちゃって。……いやっ、変なことじゃないですよ? そりゃあ興味はありますけど、って、きゃはっ、何言わせんですかまったく」


 ゴキリ、とエレナは指の骨を鳴らして準備をした。


「それでですね、まあ、気づいたら随分時間が経っちゃっていて。ここままだと朝起きられません。そこでですよ、なんと賢いことに、逆転の発想! もしかしたら寝なくてもいけるじゃなかろうか、と」


 だが、笑うティアの様子がおかしいことにも気づいてしまい、手を下ろす。

 手を下すまでもなさそうだった。


「そんなこんなで、あっしは今日徹夜です!! 今日はめちゃくちゃ頑張りますよーっ!! なにせ、それが途切れたらあっしは終わりです。……ただ」

「……」

「いけると思ってたんですよ、数分くらい前までは。……実は、……もう、限界、……で、……きゅぅ」

「馬鹿だーーーっ!!」


 宿屋の庭に、息を整え終わったらしいアキラの叫びが響いた。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


――――――クラストラス。

 ヒダマリ=アキラ率いる“勇者様御一行”は現在、中央の大陸、ヨーテンガースを訪れていた。

 ヨーテンガース大陸は周囲を険しい岩山に囲まれ、ほぼすべての海路は封鎖されている。


 その例外とも言えるのが、北西部に位置する港町クラストラスである。

 港町ではあるが、他の大陸の港からの海路はほぼすべてこの街に集約されている結果、この街は漁業問わず大層賑わっていた。

 人口もヨーテンガースで最も多く、各地の名産品がずらりと並ぶ商店街は活気に包まれ、一方で、娯楽、居住地区、福祉施設も充実しており、住めれば夢のような生活を送ることが出来るかもしれない。

 そんな唯一無二といってもいいクラストラスだが、ここに人が集まるのには他の理由もある。


 ヨーテンガースの南部は、“死んでいるのだ”。


 このヨーテンガースを訪れた者の中でも、南部に向かうのはごく少数であろう。

 誰も、“魔王の牙城の傍”に向かいたいとは思わない。


 そして、大陸の中央には北部と南部を遮断するように大樹海が広がっている。

 その樹海を境に、北部と南部は人口に圧倒的な差があった。

 同じ大陸であるのに、2分されたかのようなそれは、決して同じ領域ではない。


 ゆえに、ヨーテンガースを、“双子大陸”と呼ぶ者も少なくはない。


「本末転倒。……分かりやすい言葉ね」


 そんなクラストラスの宿屋で、エレナは、ベッドに足を投げ出しながら、朝方まさしく転倒した隣のベッドのティアに呟いた。

 聞いているのかいないのか、掛布団に顔まで埋めている寝不足のティアの面倒をエレナが看ることになったのは何の罰か。

 寝不足だけなら放っておけば良かったのだが、ご丁寧に発熱までしていやがり、同室のエレナに白羽の矢が立ったのだった。


 割高だった宿屋の都合上、女性6名の部屋割りはペアを組むことになり、昨日エレナと同室になったのは騒音発生器のティアである。

 エレナは断固として反対したのだが、寝るときだけは静かだと、今まで相部屋を担当していたサクに丁寧に説得され、今まで謳歌していたひとり部屋生活が潰えることとなった。


 こんなことなら船旅の疲れで億劫にならず、無限を誇る自分の財源から宿代を捻出すればよかったと後悔したが、魔導士であるイオリが加わったこともあってか、あの正妻に猛烈に反対されたのだったと思い出す。


 やはり関わり過ぎてしまっているのだろうか。

 気付けば窓の外の影が長くなってきている。

 他の面々はとっくの昔に宿代を稼ぎに依頼へ行ってしまっていた。


「にしても、やることねぇわ」

「いやぁ、ほんっとに申し訳ない。その上風邪をひいているとは」

「はあ。……あんた学習能力あるの?」


 か細く小さな唸り声が聞こえた。

 ティアが熱を出したのは、これで2度目だったりする。

 あれは確か、モルオールの大陸へ向かっていたときのことだ。


 モルオールの気候はアイルークとは違う。

 あの正妻が、再三注意していたにもかかわらず、ティアは今まで通り元気に駆け回っていたのだ。

 季節の変わり目は風邪をひきやすいのであれば、大陸を移動すればそれも当然であろう。

 案の定気候の変化についていけず、ティアは体調を崩したのだが、当の本人は覚えていなかったらしい。

 病気など吹き飛ばしてしまいそうで、しかしあくまで一般的な体力のティアは、一体いつまで駆け続けるつもりなのだろうか。


「みなさんは?」

「依頼よ依頼。二手に分かれて……、ああ、そうそう。今度から組分け、くじ引きになるとかなんとか」


 エレナはエリーが残していったメモ用紙を眺めた。

 依頼書の写しのそれには、それぞれ増加傾向にある魔物の討伐だの何らかの祭り事の護衛依頼だのと記されていた。


「そうですか。……エレお姉さまは?」

「誰のせいでここにいるんだと思う?」

「たはは、……すみません」

「いいから寝てろっての」


 元気のない声を聞いているとこちらまで調子がおかしくなる。

 エレナは目に留まったベッド脇の本をつまみ上げた。

 昨日、ティアがどこからか買ってきて読んでいた漫画だ。

 大方今日の寝不足も、この漫画に感化されて眠れなくなったのが原因だろう。


 ティアは、依頼の分配で得た金を、こうした娯楽に使う傾向にある。

 旅立つ際は処分するし、そもそも娯楽という意味ではエレナと同じような使い方だ、文句を言う気はない。

 だが、そうした彼女の一挙手一投足が、緊張感の無さを浮き彫りにしているような気がして、妙な悪寒が背筋を撫でる。


「お。エレお姉さま、ご興味ありますか?」

「……別に」


 ざっと見たところ、少女向けではなく、少年向けの漫画のようだった。

 都合よく力を得て、敵を討っていく、お約束物、とでも言えばいいだろうか。


 エレナはこの手の話のどこが面白いのか分からない。

 世界はそれほど優しくない。現実は、輝いたものではないのだ。

 だが確かに、こうした物語の主人公のような人生を送れる者もいることも知っている。


 つまりは、世界は、主人公以外には冷たいのだ。


 歴史を見れば、“勇者様御一行”の旅も、キラキラと輝き、ハッピーエンドに辿り着いているのだろう。

 だがその裏。その歴史に名を刻んだ勇者以外にも、“勇者様御一行”はいたはずなのだ。


 世界から称賛を浴びた勇者、“ではない勇者”は、語られもしないほど寂しい結末を迎えたのだろう。


 果たして、自分たちの旅は“神話”になれるだろうか。

 この旅の結末は、語られるほどの存在になるだろうか。


 こういう漫画をいくら読んでも、そうした不安は払拭してくれない。

 何故ならほとんどの人間が到達できない英雄だけが、当然にキラキラと輝いているだけなのだから。


「エレお姉さま、それ面白いですよ。仲間と力を合わせて、強くなって、めちゃめちゃ熱いです……!!」

「よくある話ね」

「それがいいんじゃないですか。……お金足りなくて、次の話を買えなかったのだが不覚です」


 言うほどの話なのだろうか。

 背表紙を見てみると、5巻と書いてある。通りで知らない登場人物が我が物顔で現れ、よく分からない話をしていると思った。


「私思うんですよ。どうしたらそういう人たちみたいになれるのかなぁ、って」

「なに? 現実と夢の区別もつかないの?」

「たはは」


 再三馬鹿だとは思ってはいるが、エレナが見るに、ティアもそこまで愚かではない。

 彼女も分かってはいるのだろう。


 物語の登場人物たちは与えられた役割に準じ、物語を輝かせる。

 彼らに迷いは必要ない。そのまま目の前にある道を進んでいけば、世界はキラキラと輝くのだから。


 現実世界にも、そうした役割というものは存在する。

 外的に、あるいは内的なものが作用して、自分という存在を形作る。

 それが自分の“キャラクター”というものだ。


 そしてそんな自分らしさとでも言うべきものを維持することに、皆躍起になっている。

 そしてそれと同時に、その自分の道が正しいかどうか不安を覚えるのだ。


 だからこそ、現実には存在しないからこそ、物語のような迷いのない世界を羨む者も出るのだろう。


 こうした物語に目を輝かせるのは、多かれ少なかれ現実の不満を蓄積させた者なのかもしれない。

 考え過ぎだろうか。

 ただ少なくともエレナは、自分の“キャラ”はアホな理由で倒れた人間を看病するようなものではないと思ってはいる。


「いいですよねぇ……。友達たくさんできているんですよ?」

「……」


 ストン、と本の本体だけを落としてしまった。

 手元に残ったカバーを適当に取り付けて、エレナは愉快そうに目を輝かせているベッドのティアを冷めた瞳で見た。


「あんたが羨んでいるのはそこ?」

「へへへ。そうです」


 物語に触れたときの感想など人それぞれだ。

 改めて物語にざっと目を通すと、確かに仲間が多い。

 まるで自分たちの旅のようだった。

 行く先々で出逢いがあり、主人公は確かに“刻”を刻んでいる。


「やっぱり多くの人と仲良くなりたいです。知り合って、話して、私を知ってもらって。……私は、『自分はここにいる』っていうのを残したいと思っていまして」

「なに。あんた死ぬの?」


 病気で気弱にでもなっているのか、ティアは布団を掴んでさらに潜り込んだ。


「エレお姉さまは思ったことは無いですか? 『死んだらどうなるんだろう』って」


 エレナは何も返さなかった。

 ただ、昔そのせいで寝付けなかった夜が確かにあったのを思い出す。

 もしかしたら誰もが経験していることなのかもしれない。


「私は消えるのが、すごく怖いです。ときどきそんな不安が浮かんできて……。実は、昨日の夜もそんなことを思ったりしていて」

「それで動き回っていたのね」


 布団の中からくぐもった笑い声が聞こえてきた。

 表情は見えないが、震えたようなか細い声だった。


「その漫画、話題作なんですよ。羨ましいです。その漫画家の人は、自分がここにいる、ってちゃんと“想い”を残しているんです。私はそんなことできないから、頑張って友達たくさん作りたくて」


 自分がいなくなった世界。想像もできない、だがいつかは必ず訪れる世界。

 自分のいない世界で自分を残すには、書籍か、人の記憶か。媒体は様々だ。


「…………で。私はいつまでその重い話を聞き続けなきゃならないわけ?」

「むぅ。あっしにシリアスな感じは向かないですかね?」

「“キャラ”じゃないでしょ」


 エレナが本をパタンと閉じると、ティアの顔が布団から這い出てきた。

 籠っていたせいか風邪のせいか、ほんのり赤い顔が寂しそうな瞳を向けてくる。


「エレお姉さま。イオリンのこと、あんまり好きじゃないですよね?」

「……ええ」


 ティアの中では話は繋がっているらしい。

 というより、それが本題なのかもしれない。

 エレナは思った以上に冷静に返答できた。

 水曜属性と土曜属性を、エレナは嫌っている。


「私はですね、そんなわけで、和気あいあいとしている方が好きなんですよ」

「あんたこの旅がどういうものか理解しているの?」


 エレナは自分の台詞に自分で驚いた。

 まさか自分がこの旅を崇高なものとして捉えるような言葉を発するとは。


「でもエレお姉さま。イオリン、なんか寂しそうに見えるんですよ、あっしは。アッキーと話しているのはよく見るんですけど」


 それについてはエレナも知っていた。

 つい最近旅に同行するようになったあの魔導士は、アキラとこそこそと何かを話していることが多い。

 異世界来訪者同士、何らかの隠し事をしているのだろう。

 だが例えそうでも、エレナ=ファンツェルンにとっては関係の無い話だ。

 自分と彼らの関係は、利用し利用されるものでしかないのだから。


「だから皆さん一緒にお話しでもしましょうよ。……あっしには、エレお姉さまも寂しそうに見えますし」

「は?」


 呆気にとられた。

 ティアは熱に浮かされた顔で、ぼんやりと天井を眺めている。


「私はね。エレお姉さまが本気で笑うところ、見たいんですよ」

「あ?」

「ひっ、ほ、ほら、スマイルスマイル!」


 エレナは勢いよく立ち上がった。

 これ以上ここにいると、自分の目的からすれば向かい合うべきではないものに遭遇しそうな予感がしてしまった。


「? エレお姉さま?」

「……ちょっと買い物にでもいってくるわ。このままだと眠くなりそうだし」

「おっ、いいですね。あっしもお付き合いさせていただきますよ!」

「寝てろ。うろちょろするな」

「わわわっ、今までで一番怖い……!!」


 身体を起こそうとしたティアを睨んで押さえつけ、エレナは軽く身なりを整えた。

 今までならショッピングでもして鬱憤を晴らしていただろうが、病人の面倒を任されていてはそんな気も起きない。

 これは変化かだろうか。由々しき事態かもしれない。


「もう昼過ぎね。……なんか消化の良さそうなものでも買ってくるわ」

「わ、わ、わ、エレお姉さま! あっしは一体どうやってご恩を返したら……!」

「黙れ」

「ひっ、エレお姉さま、そういう命令文は止めてくださいっ、マジ怖いですっ」


 やはり水曜属性の者も好かない。

 エレナは苛立ちを抑えながら、最後にちらりと机に放り投げた漫画の巻数を再確認した。

 確かお金が足りないから買えなかったとかなんとか。


―――**―――


「……遅くね?」

「しっ」


 ついに我慢できずアキラが言葉を漏らすと、隣のエリーにたしなめられた。

 だが、彼女以外からは咎めるような視線は送られてこず、ここに集まった全員から同意するようにため息が漏れた。


 クラストラスの船着き場には、アキラたちを含めて十数名の男女が集まっていた。

 その誰もが旅慣れた様子で防具やローブを纏い、目付きや有する雰囲気はどこかひりつくような緊張感を持っている。

 彼らは、アキラたち同様、この依頼を請けた旅の魔術師たちだ。


 このヨーテンガースは、アキラが落とされたアイルーク大陸とは比較にならないほど危険な魔物が生息しているらしい。

 そんな中で生計を立てているという彼ら旅の魔術師たちは、世に達人といわれる者たちが揃っているのだろう。

 だがそんな彼らも、潮風撫でるこの場所で数時間も立っているとなると、流石に耐えがたいらしく、険しい顔の裏腹指を擦り合わせている者もいる。


 この面々をこの場に集めた張本人、と言うと酷ではあるが、依頼の案内人を担う若い女性は、全員から無言のプレッシャーを受けながら、今か今かと海の向こうを眺め続けていた。


「…………、お、おっかしいなぁ……。すぐ来るって聞いてたんだけどなぁ……」


 時折小さく、言い訳のような言葉を吐き出しながら、頼りなさげに髪を弄り続けている。

 アキラたちが到着したときに見せた愛想のいい元気な笑みは、今や見る影も無い。

 流石にこれ以上女性を視線で攻撃するのも気が引けて、アキラは日向を探した。

 到着したばかりは日も高く快適だったが、日も傾いてきたせいで流石に寒い。


「……まあアキラ。今日の依頼は一日潰すことになるとは聞いていたから、これも仕事の内だよ」


 同行者のイオリが、わざと大きい声でそう言った。

 イオリも案内役に過ぎない女性が不憫に思えてきたのだろう。


 今回からくじ引きとなった本日のアキラの同行者は、エリーとイオリとなった。

 残るマリスとサクは別の魔物討伐の依頼へ向かったのだが、あのふたりの組では今頃依頼を済ませている可能性すらある。


 対して一切の進捗が無いアキラたちの依頼は、護衛依頼。

 依頼主である部族は、例年とある“儀式”を行っているらしく、その儀式、および神具の運搬の護衛というのが目的らしい。

 ヨーテンガースにはこうした儀式を執り行う部族が多いらしく、定期的に似たような依頼があるとのことだった。

 問題なのは、海の向こうから運ばれてくるはずのその神具とやらが一向に到着しないことである。

 この人数から察するに、かなり大掛かりな儀式なのかもしれない。


「……?」


 気を紛らせるためにアキラが集まった旅の魔術師たちを流し見ていると、ふと、ひとりの女性が目に入った。


 濃いオレンジのローブを纏い、頭からすっぽりとフードを被っているせいで顔は見えない。

 寒さや退屈を紛らわせるように身じろぎする旅の魔術師たちの中、背筋を伸ばして立ち、海の向こうを眺めながら沈黙を保っている。


 妙な感じがした。

 吹き付ける潮風になびくローブが不自然に見えるほど、その少女の周囲の空間が切り取られているように見える。

 団体の旅の魔術師が多そうな依頼だったが、彼女は、この依頼をひとりで請けているのだろうか。


「……何する気?」

「え……、え?」


 エリーに呼び止められて、アキラは自分が歩み寄ろうとしていたことに気づいた。


「……断じて言うが、やましい気持ちは無い」

「どうだか」


 ジト目で見られ、アキラは女性から視線を外した。

 エリーはまだ何か言いたそうな表情を浮かべていたが、彼女の頬がやや赤くなっている方が目を引いた。


「寒くない?」


 アキラが口を開こうとすると、今度は案内役の女性の方から声が聞こえた。

 見ればいよいよ痺れを切らしたのか、ひとりの男性が女性に歩み寄っていた。

 ブロンドの長い髪を紺のローブの背にそのまま垂らしている男は、苛立つ他の者たちと違い、柔和な笑みを浮かべていた。


 あの男は確か、アキラたちが到着する前からここにいた旅の魔術師のひとりだ。

 オレンジのローブの女性と同じく、彼もひとりでこの依頼を請けているように見える。


「あ、あ、いえ、す、すみません。も、もうすぐ来るはずなんですが」

「いや、そうじゃない。寒いんじゃないかと思ってね。こっちに来ない?」


 男が差したのは、風が吹きつけてこない納屋のような場所だった。よく見れば、いつの間にか火が熾してある。

 案内役の女性も仕事の手前動けなかったようだが、男に案内されて救われたような表情で震える身体で歩き出した。


「……ラースさん、って言ったっけ? あの人。優しいわね」

「へっくし」

「今あたしは、本物の天と地ってやつを見たわ」


 そんなことを言われても、寒いものは寒い。

 エリーもやせ我慢しているようにしか見えなかった。

 こうなってくると長丁場だろうが何だろうが、魔力を何とか上手いこと駆使して暖を取れないかと画策していると、ひとつ思いついた。


「あ」

「なに?」

「いや、お前じゃない。……イオリ、ちょっといいか?」

「僕?」


 エリーが不機嫌そうに喉を鳴らした。

 やんわりと宥めながら、アキラはイオリを離れた場所に連れていく。

 彼女に訊けば、少なくともいつまで待てばいいのか分かるかもしれない。


「イオリ。お前、この依頼を“視た”か?」

「え? ……ああ、そういうことか」


 意図はすぐに伝わったらしい。

 ホンジョウ=イオリには仲間にも言っていない隠し事がある。

 彼女は未来を視たというのだ。


「船の到着時刻を知りたい?」

「ああ。流石にこれ、ティアじゃないけど風邪ひくぞ」

「先が分かるのって、面白くないと思わない?」

「お前なぁ……」

「いや、冗談だよ。……この依頼は視ていない。本当に、未来は変わっているみたいだ」


 視線を外したイオリが覗かせた横顔は、少しだけのびのびとして見えた。


「それに、僕の予知は、異常なほど長かったんだ。悪いけど、細部を完璧に覚えているわけじゃない。覚えているのは身の回りの印象的な出来事と……、後はそうだね、君が刻んだ“刻”くらいだ」

「いやいや、そんなわけないだろ」

「……君は僕のことをかなり誤解しているよね。超記憶能力とか持って無いからね?」

「んだよ」

「……そこまで残念そうな顔をされるとは思わなかったよ」


 どうやら予知から逸れた依頼らしい。

 頼りのイオリも分からないとなると、アキラもあの案内役の女性のように海の向こうを眺めることしかできなかった。

 遠くの水平線に何か影が見えた、と思ったが、どうやらあれは鳥かなにからしい。


「そういやさ」

「ん?」

「お前、あいつと話したことあったっけ?」


 ふてくされた様子でこちらの様子を伺っているエリーが目に留まった。

 その場で赤毛を弄りながらちらちらと視線を送ってくる。

 時折身じろぎしているほど寒いなら、先ほどの案内役の女性と共に火の近くにいればいいのにと思う。


「エリサスのこと?」

「ああ」


 対して北の大陸で過ごしていたイオリは、この程度の寒さを気にも止めていないようだった。それとも、今も纏っている魔導士隊のローブがそれだけ優秀ということなのだろうか。


「いや、挨拶程度かな」


 また彼女は事も無げに言う。

 だがアキラは、その表情に妙な寂しさを覚えた。


 イオリが同行して一週間ほど経っているとはいえ、彼女はそのほとんどを事務仕事に充てている。


 未来を視たという彼女は、その情報を使ってしまったことで、“バグ”を生み出したという。

 そしてその“バグ”は、モルオール魔術師隊の副隊長のカリスが、イオリに向かって牙を向けるという形で現れた。

 アキラがカリスを倒した結果、彼は一週間ほど昏睡状態となり、イオリは旅に出るために多大な引き継ぎ業務をひとりでこなすことになっていた。

 イオリはそれを、“バグ”を作った落とし前として受け入れていたが、そのせいで、他のメンバーと親睦を深める機会を失ってしまったようにも思える。


「……お前さ」


 言おうとして、アキラは口を閉じた。

 何を言うつもりだったのだろうか。

 まさか、皆と仲良くしましょう、なんてことを言うつもりだったのだろうか。


「…………ま、まあ。気を遣ってもらって助かるよ」


 そんな言葉にできなかったアキラの意図もイオリは読んで微笑んだ。

 イオリは落ち着いた雰囲気だが、沈黙が好きなわけではない。むしろよく話す方だと思う。

 だがからこうした彼女を、自分以外の誰も知らないのは、アキラは妙に惜しく思えるのだ。


「ただ、そう単純じゃないんだよ。……みんなのことは、“予知”で視ていたからね。……そのとき、自分がどういう人間だったか思い出せないんだ」


 未来を視る。それはつまり、未来の自分と、未来の自分と知り合った者を視ることにもなる。

 どういう接し方をしていて、どういうことを考えたのか。

 可能な限り予知をなぞろうとしたら、自分のことが一番分からなくなるのかもしれない。


「自慢できる話じゃないけど、友人を作るのはあまり得意じゃなくてね。その上、下手に動くと不要な“バグ”を作りそうで。……少し、怖い」

「……」


 未来を視て、未来を変えたくて、“バグ”を作って、しかしその落とし前は付ける。

 そんな彼女を見ていると、アキラは右手が疼くのを感じた。

 彼女が真摯に向き合っている“バグ”を、アキラの具現化はいたるところに作り出す。

 その落とし前をまるで付けない自分は、果たして彼女と話す資格があるのか、不安になってくる。


「まあ、極力話しかけてみるよ。結構難儀しそうだけど」

「大丈夫だろ」

「楽観的だね、本当に」


 イオリが微笑みながら漏らしたその言葉に一瞬だけ怯み、しかしアキラは悟られないように空を見上げた。

 少なくとも答えが出せない今、自分にできるのは、能天気に笑うことだけだった。


「……ふう」


 そんなアキラとイオリの様子をちらちらと伺いながら、エリーは息を吐き出した。

 白くなるかと思ったが、そんなことも無かったし、実のところ興味もない。


 一体あのふたりは、何を話しているのだろうか。


 最近、よく見る光景に、よく思うことが浮かんでくる。

 あの男がへらへらと笑っているのはいつものことだが、その隣のイオリがエリーの目を引いた。

 ああいう風に笑う彼女を、エリーは自分の前では見たことが無い。

 短い付き合いだが、エリーの知るホンジョウ=イオリという女性は、凛としていて、サクとはまた違った落ち着きを持っている人物だ。

 ティアが飛びついていくとき以外は、表情を崩すこともあまり無い。


 魔導士。

 エリーの夢の、さらにその先である理外の存在。

 誰もが憧れる魔導士であるイオリは、エリーにとって雲の上の人物だ。


 旅の仲間、ということではあるのだが、未だにエリーは実感が湧いていない。

 ただただ身が引き締まる思いである。


 だが、そんな魔導士様のしていることなのだが、勇者様とやらとふたりで話していると、面白くなかった。


「なに話してんだか」


 毒付いても、潮風に紛れてふたりには届かない。

 珍しく真面目な話かと思ってふたりを見送ったが、どうやらその話は終わっているようなのに、ふたりは戻ってこなかった。

 もしかしたら忘れられているのかもしれない。


 ますます機嫌が悪くなっていくことを自覚しながらも、しかしエリーは歩み寄ろうとは思わなかった。

 ああいう光景は何度も見ているのだ。

 一度近づいていったことがあるのだが、そのときは、ふたりの話はすぐに終わり、バツの悪いような表情を作ってふたりは分かれる。

 そういう経験をしてしまうと、忘れ去られている以上の辛さを覚え、エリーは極力ふたりが話しているときは近づかないことにしたのだ。


 イオリもアキラと同じく異世界来訪者らしく、もしかしたらそういう話をしているのかもしれない。

 だがだとしたら、自分も多少興味はある。教えてくれてもいいものではないだろうか。


 色々と悶々として、その上試しに相談してみたエレナには『正妻が浮気現場に行っちゃまずいでしょ』などと苛立った言葉を返され、最近踏んだり蹴ったりな気がする。


「ねえ君」

「……えっ?」


 途端後ろから話しかけられ、エリーはぐいと目元を拭って振り返った。


「ああごめん。そんなに驚かせるつもりは無かったんだ」

「い、いえ」


 先ほどのラースという男が柔和な表情で立っていた。

 近くで見ると、自分たちよりいくらか年上のようで、物腰が柔らかそうでそれなりの経験を感じさせる男だった。


「ええと、何ですか?」

「いや、こんなところで立っていると寒いだろうと思ってさ」

「あ。……ありがとうございます」


 気付けばラースが誘導したのか、先ほどの納屋に人だかりができていた。

 日に焼けた廃れた納屋だが、それでも潮風は凌げるであろう。

 熾した火も3カ所に増え、随分と居心地が良さそうだった。


「中にいるといい。待機も仕事とはいえ、限度がある」

「は、はい」


 ラースに誘われ、エリーは納屋を目指した。ちらりとアキラたちを視界の隅に捉えたが、こちらに気づいた様子は無かった。

 もういい。風邪でもなんでもひけばいい。


「ラースさん、ですよね。おひとりですか?」

「ん? ああ、長いことひとりで旅をしていてね。……ああ、君は、向こうの彼らと?」


 話し込んでいるふたりの邪魔をするのもはばかれるのか、ラースはほとんど顔を動かさないでアキラたちを流し見た。


「ええ。……本当は、全部で7人いるんですけどね」

「へえ。“七曜の魔術師”みたいだね」


 みたい、ではなくその通りなのだが、わざわざ訂正するのも億劫で、エリーは苦笑するだけに留めた。

 特に今、あの男が“勇者様”だどうだのという話を出す気にはなれない。


「俺は毎年ひとりでこの依頼を請けていてね。まあ、船が時間通りに到着したことなんて一度も無い。何人か帰ってしまったよ」

「ええと、今日中に始まりますよね?」

「なに。船が見えたらすぐのはずだ。なかなか上等な船を使っている」

「は、はあ」


 エリーは妙に感心した。この依頼の経験者とはいえ、あの案内役の女性よりもよっぽど気が利く。

 彼女を責めるつもりはあまりないが、例年こうなるのであれば、最初から何かしらの手は打っておいて欲しかった。


「わ」


 そのまま歩いていって納屋に近づいたエリーは声を漏らした。

 メラメラと燃える火の温かさが身体をくすぐり、頬が弛緩する。

 思っていた以上に身体が冷えていたらしい。


「この火は?」

「ここに転がっていたのを俺が勝手に、ね。ほら、中にいた方がいい」


 ラースが紳士的に納屋の戸をノックすると、先ほどの案内役の女性が迎えてくれた。

 息が漏れるほどの暖気が身体を包む。

 錆び付いた炉が点いており、壊れかけているように見えるのに、外に比べれば随分と温かい。

 大して広くも無いが、女性優先のようで、数名の女性が暖を取っており、奥に、先ほど見たオレンジのローブの旅の魔術師もいた。


「じゃあ俺はあのふたりも連れてくるよ。温まっていた方が依頼もしやすい」

「あ、あたしが」


 ラースは微笑んで首を振り、歩いていってしまった。

 エリーは頭を下げて扉を閉める。


 またどこかから、能天気なくしゃみが聞こえてきた。


 本当に天と地だ。


 エリーがため息交じりに納屋のひび割れた窓から外の様子を伺うと、水平線の向こうに、ようやく巨大な船らしき小さな何かがぽつりと見えた。


―――**―――


「っぜぇ……。着いてくんなって言ってんだろうが……!!」

「了承できません。貴方はまた勝手に……、戻ってください……!!」


 適当なものを買い込んで、かつてのクロンクランよりも賑やかな街並みを歩いていたエレナは、奇妙な集団を目に止めた。


 高い建物に囲まれつつも日通りはよく、いたるところに商店が目に付く活気付いた大通り、人混みにまみれながらも、自分と同じように、ふてぶてしくもそのど真ん中を歩く者たちがいる。

 若い男女が全部で4人、だろうか。身なりから旅人ということは分かる。


 後ろには、山吹色のローブを纏った優男と、その隣の幼いながらも簡易なプロテクターを身に着けた単発の少女が歩いている。優男の方長い杖を背負いながらも飄々と歩き、少女の方は動きにくそうにしながらも必死に大人の歩幅に着いてきている。


 最も騒がしいのは前方の女性だ。ウェーブがかかった髪をどこかの修道院の服にも見える装いにしまい込み、気の強そうな瞳を備えていた。

 そして、最も目に付くのは先頭の大男だ。

 完全な白髪に、金色の眼。黒いシャツにジーンズと、服装だけならどこかの勇者様のような簡易な服装をしているが、その大男の身に比しても巨大な剣を腰に下げ、見るからに危険人物だった。


 そんな彼らが、あれこれと言葉を交わしながら歩くだけで、待ちゆく人々はそれを避けて道を開ける。

 残念ながらエレナは、まっすぐ歩くのが好きだったので、そのまま歩き、必然、道のど真ん中でその集団とかち合った。


「……あん?」


 白髪の大男が、鋭い目つきで睨んできた。

 エレナは指が痛くなってきた気がしたので、買い物袋を持ちかえた。


「……まずっ」


 動かない大男の後ろから、杖の男がエレナの前に割って入った。

 じっとこちらを見ると、にこにこと愛想笑いを浮かべ始める。

 相手をするのも馬鹿らしくなったが、エレナはとりあえず後ろの大男を睨みつけてみた。


「……ええと。その、」

「マルド、下がっていてもらえますか。ここはわたくしが。……あの、貴女。察していただけますか?」


 修道服の女性が踏み出してきた。どうやら髪はウェーブがかかっているというよりくせ毛なだけらしい。

 ここまで面と向かって正面に立たれると、エレナもどうでも良かったのに動きたくなくなってくる。


「……なに?」


 エレナは視線を大男に向けたまま口を開いた。


「なに、では無いです」

「今はあんたと話してないでしょ」

「っ、なっ、ななな」

「カ、カイラ、お、抑えて……ぅぅ」


 我慢しきれなくなったのか、後ろの少女が修道服の裾を両手で掴んでいた。

 カイラというらしいこの修道服の女性は、表情が分かりやすく、どうやら憤っているらしい。

 そんな様子を冷めたまま見ていると、人だかりができ始めていることに気づいた。


「っだぁ? このアマ」


 ようやく、大男が言葉を発した。

 期待にそぐわぬ物騒な声と共に、猫のように鋭い金色の眼でエレナを睨みつけてくる。

 ここでエレナははっきりと分かった。

 自分との相性は最悪だと。


「あのさぁ。どいてくんない? 邪魔なんだけど」

「あ~? やんのか?」


 道を譲る譲らない程度のことではあっても、お互いまったく引く気が無かった。


 強いえて言えば、エレナは今、すこぶる機嫌が悪かった。

 居残りになっていた現状の憤りもさることながら、軽い気持ちで探したティアの漫画は本当に売れているらしく、3、4軒も回ることになってしまったのだ。

 興味本位で買ってしまった今までの巻もずしりと重く、一刻も早く宿屋に戻りたい。

 こんなことをしている時間も惜しいのだが、八つ当たりできる場所を探していたのも事実だったりする。


「こ、こほん。貴女」

「だから今あんたと話していないでしょ」

「ぐ……、い、いいですか」


 再三あしらっているのだが、カイラという女性は食い下がってくる。

 そしてまた咳ばらいをすると姿勢を正し、案内するように手を上げた。


「こちらのお方は、スライク=キース=ガイロード様。“勇者様”なのですよ?」

「かっ」


 カイラが晴れ晴れとした表情で言うと、大男はうんざりするような表情を浮かべた。

 スライクというこの白髪の大男は“勇者様”らしい。

 だが、エレナにとっては特に実入りのある話では無かった。


「そう。で、なに?」


 そう言うと、カイラは呆気にとられたような表情を浮かべた。

 『勇者様には最大限の敬意を』という“しきたり”の存在はエレナも知っている。

 だが同時に、その“しきたり”にまったく従わない者もいるのだ。

 そんな相手を目にするのは初めてなのか、カイラは分かりやすくうろたえている。


「あの、です、から」


 頭を振って、しかしそれでも何とか絞り出すようにしてカイラはたどたどしく言葉を紡いだ。


「え、ええと、すみませんが、貴女。わたくしたちに道を譲っていただけますか?」

「……本人の口から聞いてないんだけど?」

「どけ」

「あん?」


 最早カイラなど目にも入っていないかのようにスライクが睨んできた。

 条件反射でエレナも睨み返す。

 身体を震わすカイラと、そしてマルドと呼ばれていた杖の男が思案顔であたふたと何やら動こうとしたとき。


「ひ、……ひぐ。……ぅぅ」


 残るひとりの子供が、泣いた。


「キュール!? ほら、大丈夫ですか? しっかりして」

「だ、だって……、こ、怖く、て……」

「ちっ」


 エレナは聞こえるように舌打ちして道を譲った。

 子供が泣き出しているのに妙な意地を張っているのは馬鹿らしい。


「待てコラ」


 記憶から抹消しようとしていたエレナの背に、分かりやすい殺気が浴びせられた。

 荷物を肩にかけながら振り返れば案の定、スライクが睨みつけてきている。


「スライク様、落ち着いてください」

「黙れ」


 止めに入ったカイラは相手にされていないように振り払らわれ、スライクは緩慢な動作で一歩前へ出る。

 子供が泣いて毒気が抜けたのはエレナだけだったのか、苛立ちが頂点に上ったらしいスライクは、今にも腰の剣に手をかけそうなほどの様子だった。


「なに? やんの?」

「はっ、こっちの台詞だ」

「スライク様!!」


 それでもめげずに間に入ってくるカイラは、今度はスライクと対面してした。


「確かにあの女性は態度も大きそうで、いかにも態度が大きいですが、いつか天罰が下るでしょう。ですから、抑えてください」

「なに? あんた私に言ってんの?」

「いえいえ、滅相も無い」


 せっかく見逃してやろうと思っていたのだが、新たな標的を見つけた気がした。

 エレナは何とか堪えると、相手にしないことに決め、今の内と歩き出す。


「とにかく、いい加減機嫌を治してください」

「はっ、元はと言えば、お前が妙な依頼を請けてくるからだろうが」

「落ち着いてください。もうすぐ船も到着するはずです。それに、いいじゃないですか、有名な儀式の護衛なんて、きっとわたくしたちにとっても有益です」

「お前の趣味に付き合ってられるか。とっとと断れ。その積み荷が来ねぇのが悪いんだろうが」


 エレナはぴたりと足を止めた。

 そしてくるりと振り返り、ずかずかと4人に歩み寄っていく。


「ねえ」

「あ?」


 どうも、今カイラが言った依頼の内容が、エリーが残していった依頼書の写しにも記されていたような気がするのだ。


「今の話聞かせてもらえる?」


―――**―――


「ええと。大変遅れてしまい申し訳ありません。ただ今より、依頼をお願いしたいと思います」


 今まで針のむしろだった案内役の女性が、申し訳なさそうに全員の前に立っていた。


 アキラが思っていたよりも遅く、そして思っていたよりも早く依頼は開始されるらしい。

 錨を下ろした船は離れたここから見ても見上げるほど高い。そしてそんな船が水平線の向こうに見えたと思ったら、あっという間に到着してみせたのだ。

 この世界の船の仕組みなど分からないが、どうやら現実の世界の船とは何かが違うらしい。アキラも船に乗ってこの大陸に来たのだが、違いはさっぱり分からなかった。


「ご存知の方もいらっしゃると思いますが、サルドゥの民は、毎年この時期にバオールの儀式を執り行います」


 そんな説明は依頼書にも書いてあったようなそうでも無いような。

 案内役の女性の仕事の内なのか、懸命に説明を続けるが、ほとんど全員聞き流し、焚火の近くで話が進むのを待っている。


「そしてこちらが、サルドゥの民の方々です」


 今までどこにいたのか、船が到着するなり現れた白い装束を身に纏った集団が現れた。

 老若男女揃ったサルドゥの民とやらは、しかしその装束の上から暖かそうな上着を羽織っており、旅の魔術師たちとは違う余裕のある笑みを浮かべていた。

 大方、船の到着の遅れを聞き、どこかの店にでも入っていたのだろう。


「で、では、後はお願いします」

「おお、ご苦労様」


 そう言って案内役の女性は焚火に近づこうとしたが、旅の魔術師たちの視線を浴び、離れた位置で身体を震わせる。

 相変わらず不憫な女性に紹介されたひとりの男は、その様子を見送って、全員の前でにっこりと笑った。


「サルドゥの民の族長、ヤッド=ヨーテス=サルドゥです」


 ヤッドは恰幅のいい、しかし雰囲気のある男だった。

 野太い声は、こちらの事情を分かっているのか、やや早口でまくし立てる。


「先ほどの方が申していた通り、わたくしどもサルドゥの民は、毎年この時期に、儀礼を行います。これよりここから南西、タイローン大樹海の末端に座すベックベルン山脈の麓、ガリオールの地へ赴き、打倒魔王を願うバオールの儀式を執り行いたいと思います」


 言い慣れたような台詞の中に、聞き慣れない単語がいくつも混ざり込んでいた。アキラはもちろんすべて聞き流したが、ヤッドの方も、聞かせるつもりで話していないような気もした。

 例年やっているのであれば、船の遅れも例年なのかもしれない。すでに何組か依頼を下りたらしいし、流石にそろそろ動き出さないと、旅の魔術師たちがさらに減りかねないことが分かっているのだろう。


 だが、小難しい地名や儀式名を取り除けば、依頼内容はシンプルのようだ。

 打倒魔王の願掛けをするから守ってくれ、ということなのだろう。

 “しきたり”に準じたこの世界では、こうした儀式はよく行われるのだろうか。


 アキラはなんとなく、辛うじて聞き取れた方角の南西を眺めてみた。

 高い街並みしか見えなかったが、山脈へ行くとなると遠いのだろう。

 本当に今日中に終わるのだろうか。


「本日はわたくし共の護衛をお願いいたします。……そうだ」


 ヤッドは決まった言葉を吐き出し終え、視線を泳がせた。


「どちらの方が勇者様なんだ?」

「っ」


 ヤッドの声に、ようやく焚火の前に辿り着けた案内役の女性が背筋を伸ばした。

 仕事が終わった気でいたらしい女性は、未練がましく焚火に視線を向けながら、とぼとぼとヤッドの元に戻ってくる。

 その間、エリーから届いた視線に、アキラは首を振っていた。

 今までも依頼を請けてきた中でも、わざわざ“勇者”と名乗った覚えはない。


「あ、あちらの方です」


 案内役の女性は、身じろぎしながらそれでも何とか頭を下げた。

 しかし彼女が示したのは、アキラではなかった。


「―――、」


 隣を誰かが歩いていった。

 先ほど見た、オレンジのローブを纏った女性だ。


 ゆったりしているようで、しかし凛としたその足取りに、アキラは身体を動かせなかった。

 “勇者様”が呼ばれ、しかしそれは自分ではない。

 アキラが混乱している間にも、彼女は全員の前に立ち、静かに顔を隠していたフードを下ろす。


「リリル=サース=ロングトンと申します」


 雪のように白い肌。そして肩ほどまでの色彩の薄い銀の髪。

 姿勢正しく、大きな瞳をまっすぐに向け、彼女は微笑んだ。


「“勇者”を、務めています」


 透き通るような声は、アキラの脳髄に刻まれた。


―――**―――


「ふんふふふーんっ、とっもだっちひゃっくにっんでっきるっかなーっ!!」

「そういえば、魔術師って戦闘不能になったら爆発するのかしら?」

「エレお姉さま!?」


 今日は機嫌が悪い。

 そのせいか、色々と面倒なことになっている。


 エレナは隣で弾まんばかりに暴れるティアを冷徹な睨みで黙らせると、そのままその瞳を目の前の4人に向けた。


 荷物を下ろすためにいったん宿屋に寄ったのは失敗か、妙に注目を集める羽目になった大通りから離れて会話をしようとしただけなのに、尾行してきたティアの提案で、長話でもするようにこの喫茶店に入る羽目になってしまった。


 どうやら“勇者様”らしいスライクという男は、足を大仰に組み、最奥の椅子にもたれかかっている。

 残る3人は表情も硬く、こちらの様子を伺っていた。

 いや、様子を伺われているのはスライクの方か。

 馬が合わないと確信していたが、スライクは意外にもエレナの提案に乗って着いてきていた。


 昼をとうに過ぎたこの店は閑散としていた。

 古めかしい造りのせいなのか立地のせいなのか、すでに薄暗い。それでも賑わっているように感じるのは、隣のお子様が騒いでいるからだろうか。


「で。さっきの話を聞かせてもらえるかしら?」

「あっしはアルティア=ウィン=クーデフォンです。呼ぶときは、」

「次に私の言葉を遮ったときが、あなたの最期よ。ばーん、よ」

「ひっ、ひぃっ」

「……っせぇガキだな」

「四面楚歌!?」


 ティアはエレナとスライクの睨みを同時に受け、慌ててテーブルの下にもぐった。途中、ガンッ、とえげつない音が聞こえたが、頭を押さえて悶絶しているティアに救いの手を差し伸べる気にはなれなかった。


「あの。わたしくたちはコントを見るために呼ばれたのですか?」

「だからあんたと話してないでしょ」

「わ、わ、わ、あのあの、自己紹介を……」


 涙目になりながら戻ってきたティアに毒気を抜かれ、エレナは背もたれに身体を預けた。

 多くの人と関係を持ちたいとのたまったティアだ。エレナにとって下らない出会いであっても、彼女にとっては一期一会の貴重なもの、ということらしい。


 毒気を抜かれたのはカイラも同じか、またこほりと咳払いをした。


「ええと。先ほども申しましたが、こちらの方はスライク=キース=ガイロード様。タンガタンザの“剣”の勇者様です」

「自己紹介って、自己を紹介するものじゃないの?」

「貴女、落雷とかに遭うのではないですか? わたくしは心配でなりません」


 微笑んできたので、エレナも微笑み返してあげた。

 隣のティアが固まるが、知ったことではない。

 睨み返すか、怒鳴りつけるか、殴りかかるか思案していると、山吹色のローブの男が口を開いた


「俺はマルド=サダル=ソーグです。アイルーク出身で、“杖”の魔術師なんてのをやってて」


 軽い口調で間を外された。

 マルドと名乗る男の背後には、先ほども見た長い杖が立てかけられている。

 スライクが下げていた剣の隣にあると短く見えるが、普通の武器というものに縁がないエレナにも一般的なものではないように見えた。


「……わたくしはカイラ=キッド=ウルグス。モルオール出身ですね。“召喚”の魔術師を務めております」


 流れで出身まで口にし出した修道服のカイラは、さも面白くなさそうな表情を作っていた。

 召喚がどうのということは、彼女もイオリのように召喚獣を操るのだろうか。


「おおっ、そっちのパターンですか!」

「は?」


 ティアが、にんまりと笑った。


「ふふふ、エレお姉さま、知りたいですか?」

「で、そっちのあなたは?」

「え、ええと。わたし、ですか……?」

「エレお姉さま!?」


 さして興味があるわけでもない。

 勿体付けるティアを無視して、最後のひとりに視線を向ける。

 首の位置で縛った髪は明るい茶色だが、表情は恐ろしく暗い。

 身体中にプロテクターのような防具を付けているが、ティアよりも幼く見え、旅の魔術師を名乗るには不釣り合いな様子だった。


「ほらキュール、貴女の番ですよ」

「えっ、ええ、っと。わ、わたしは、その、」

「ほら、しっかりして」

「はっ、はいっ」


 隣のカイラがあれやこれやと口を出し、少女はようやく顔を上げた。


「わ、わたし、はぁ、……キュ、キュー、ル……マグ、ウェル……です。その、シリス、ティアの、」

「は?」

「キュール=マグウェルですっ、シリスティアですっ、“盾”の魔術師ですっ」


 そこが声の限界らしい。

 精一杯か細い声を吐き出したキュールは、再び顔を伏せた。

 だが、しっかりと聞き取れた。

 何をそんなに追い詰められた様子なのかは知らないが、ティアに詰めの垢でも煎じて飲ませたい。声というのは、断じて耳を塞ぐほどの騒音を指すのではない。


「まあ、覚えらんないわ」

「エレお姉さま、駄目ですよ。あっしはばっちり覚えました! ちなみにあっしはアイルーク出身です」

「で。さっきからなに? 剣だの盾だのって」

「あれ。エレお姉さま? もしかしてあっしの声届いてないですか……?」

「黙れ」


 一向に話が進まない元凶をエレナは睨みつける。

 やはり無理にでも宿に戻してくるべきだった。時折小さくせき込んでいるのだからなおさらだ。


「ふふん。ご存じないのですか?」

「?」


 カイラが、ティアと同じように勿体付けた笑みを浮かべた。

 面白くないがこれ以上時間を使っていられない。黙っていた方が話は速く進むだろう。


「“剣”、“杖”、“召喚”、“盾”。初代の勇者様御一行で猛威を振るったと言われる4人の戦闘スタイルなのですよ?」

「……」

「そしてそして、“二代目勇者様御一行”も、そうした4人だと言い伝えられています」

「ふぅん」


 言われてみれば、そんなようなことを旅のどこかで聞いたような気もしなくはない。

 一般教養に疎いエレナも聞いたことがあるとなると、相当有名な話なのだろう。


「はあぁ……。でもかっけーですね。あっしたちもこれからは、名乗り方を考えるべきなのかもしれません」

「そう。ひとりで頑張るのね」

「それでは統一性が!」

「あの」


 ティアが喚き出そうとしたところで、カイラが遮ってくれた。


「それで、貴女は?」

「……私?」

「そうです。自分だけ言わないなんて」

「ほーら、エレお姉さま。言われちゃったじゃないですか……むぐっ!?」


 ティアの口を力任せに掴んだが、名前ひとつ言う言わないで揉めるのも馬鹿らしい。


「私はエレナ=ファンツェルン。……シリスティア、ね」

「ぇ」


 そこで、キュールからか細い声が聞こえた。


「シ、シリスティアの、……ファ、ファンツェルン。……です、か?」

「……なに?」

「なっ、なんでもないです……」

「エレお姉さま! キュルルンを虐めないでください!!」

「ぇ」


 キュールにとってはエレナに睨まれるより妙な愛称を付けられた方が深刻な様子だったが、おずおずと口を閉ざした。

 どうも彼女はエレナのような大人が苦手らしく、そしてティアのような子供も苦手らしい。生き辛そうな性格をしているようだ。


「キュール? この女性をご存じなのですか?」

「え、ええと……。違うかもしれない……です、けどぉ、」

「……」

「……な、なんでもない……です」


 エレナが視線を送ると、キュールは顔を伏せた。

 別に隠し立てしていることでも無いが、これ以上話が逸れたら目も当てられない。

 なにしろ。


「あの、あの。勇者様、なんですよね?」

「あ?」

「おっと。アルティアちゃんだっけ?」

「いやいや、あっしのことは、……はっ!? アルちゃんという新たな愛称が誕生しましたっ!」


 ティアの興味があのスライクに向き始めている。

 あのマルドとかいう男は楽し気に応答しているが、スライクは相変わらず表情を変えずに睨んでいた。

 これ以上面倒事を増やされても困る。


「で」


 エレナはテーブルをコンコンと強めに叩いた。


「さっきの話、聞かせてもらえる? なんかの儀式の護衛依頼がどうのこうの」


 今の問題はこっちだ。

 エリーが残した依頼書の写し。

 その内容も、依頼の内容は儀式の護衛であった。


「それが聞いてくださいよ」


 ティアの影響で緊張がほぐれたのか、マルドが軽い声を出した。


「俺ら依頼を請けて、船着き場で護衛する荷物待ってたんですけど、それが来なくて来なくて」


 初対面のときよりもずっと軽い印象を受けた。

 これが彼の素なのか、それともティアの影響によるものかは定かではないが、話はようやく進むらしい。


「それに寒くなってきて。……時間になった瞬間に帰ろうとしたスライクを止めてたんですけど、流石に限界で」

「かっ、それもこれも、こいつが訳の分からない依頼請けてくるからだろうが」

「……言い訳になりますが、わたくしのせいだけではありません。あそこまで時間に不確かな依頼が世に存在するとは……。きっとサルドゥの民にも、天罰が下ることでしょう」

「カイラはなんでそんなに天罰下したがるんだ? 修道院でもそんなことしてたの?」


 賑やかに語らう彼らを眺めながら、エレナは眉をしかめた。

 やはり彼らが、自分たちと同じ依頼を請けたのは間違いないらしい。


「……あなた、属性は?」

「あ?」

「日輪属性です。正統派の勇者様ですよ?」


 睨むばかりで答えないスライクの代わりに、カイラが口を挟んだ。

 だが今度は、エレナはそれを咎める気になれなかった。

 知りたいことはすべて知れた。


 エレナには、この旅を通して、知ったことがある。


 あのヒダマリ=アキラという男は、数奇な運命を背負っている。


 オカルト染みたことではあるが、認めざるを得ないのだ。現に幾度も、一生の内で1度も経験しないような事件に立て続けに巻き込まれている。

 まさにティアが好む物語の登場人物のようだ。


 そしてその運命が、“日輪属性”という力に紐づいているとしたら、件の護衛依頼が途端にきな臭くなってくる。


 つまり、この護衛依頼は、“刻”を刻む日輪属性の者が、ふたりも介入した依頼ということになるのだ。

 エレナの懸念はそこにあった。


「……なんか“意味”があるのかもね。……その儀式」

「エレお姉さま?」


 エレナは立ち上がった。

 日も傾いている。遅れていたらしい船も到着し、依頼はとっくに始まっているだろう。


「あなたたち、もういいわ。私、ちょっと用事できたから」

「は?」

「それと」


 何かを言い出しそうなカイラを遮って、エレナはティアを指差した。


「あんたは戻って寝てなさい。そんだけ元気なら、ひとりで留守番くらいできるでしょう」

「えっ」

「ちょっと待ってください!!」


 適当に財布を取り出して代金を置こうとしたエレナを、とうとうカイラが大声で止めてきた。


「貴女、先ほどから失礼過ぎませんか? この方は“勇者様”なんですよ?」

「喚くな。めんどくせぇ」

「スライク様!! 貴方も“勇者様”だという自覚を持ってください!!」

「内輪揉めなら勝手にやっておいてもらえる?」

「貴女は!! もう、……スライク様も何か言ってあげてください!!」

「喚くなっつってんだろ」

「あああっ、わたくし発狂しそうです!!」


 味方がいないことに気づいたのか、カイラは大げさに髪をかき乱した。

 僅かに不憫に思ったが、それよりも、スライクが獲物を見つけた瞳でエレナを眺めてきていることが気になった。


「なによ? 情報のお礼に、ここは私が奢るわ」

「うう、ううう……!!」


 感情が言葉にならなくなったらしいカイラが唸り声を上げる。

 スライクと相性が悪いと思ったエレナだったが、もしかしたら彼以上に、カイラとの相性の方が悪いのかもしれない。

 常識から外れていると自覚しているエレナは、自分の思考が、身なり通り修道院に務めていたらしいカイラでは理解できないのだろうと思った。

 上下があると言うつもりはない。エレナだって、カイラの思考は理解できないのだから。


「私さぁ。“しきたり”がどうってので、態度変えるの、嫌いなのよね。最近無駄に高圧的な奴に会ってさ。大して役にも立って無いのに偉いとか、イライラするのよ」


 ティアの言うところの、想いを残すというやつだろうか。

 理解してもらおうとは思わないが、少なくとも、これ以上付き合うつもりはないとはっきり伝えるのは無駄ではないだろう。


「ですが、」

「ふふふっ、カーリャン」

「!?」


 もしかしたら連れてきて正解だったかもしれない。

 憤ったカイラは、突如飛んできた妙な愛称に身体を固めた。

 そのまま去ろうとしたエレナだったが、ティアが余計なことを口走ろうとしているのがすぐに分かった。


「実はあっしたちもですね」

「余計なことを言わなくていいわ。別に私は、“そう”だからってこういう態度を取っているわけじゃない」

「……へ。は、はぁ……、エレお姉さま、かっけーです!!」

「いや、聞きたいんだけど」


 マルドが身を乗り出した。

 自然と全員の視線がティアへ向く。

 空気が変わったことに気づいていないティアは口を居ても立っても居られないという様子でもごもごと動かし、エレナを見つめてきた。

 ため息ひとつ吐き出し、エレナが頷いて、そして悟った。


 彼女を連れてきたのは、失敗だった。


「あれはあっしが、シーフゴブリンに盗まれた指輪を探しに行ったときのことでした」


 しなくてもいい説明を、ティアは時間を遡って語り出すという暴挙に及んだ。


―――**―――


「まだ言っていないのかな、アキラは」

「ぅえ?」


 久方ぶりに、隣を歩くイオリが口を開いた。


 エリーは、奇声を発した自分の口を塞いだ。

 考え事をしながら歩いていたせいで不意を突かれたようになってしまった。イオリは聞き逃したらしい。見逃されただけかもしれないが。


 クラストラスからここまで、随分と長いこと歩いてきた気がする。

 草原を行く馬車は巨大で、車輪など、エリーの身の丈ほどもある。

 先頭は黒い馬が12頭も引いており、その馬車の前後左右を囲うように旅の魔術師たちが歩いていた。

 この馬車に乗っているのは、依頼主であるサルドゥの民、及び彼らの儀式に使用する神具が詰め込まれている。長いこと待った船から降ろされたそれらは、聞いたところによると、組み立て式のやぐらや舞台だそうだ。

 物珍しくは思ったが、エリーを始め、旅の魔術師たちはさして興味を示さなかった。

 大幅に遅れた船に、通達漏れ。クラストラスに残ったあの案内役の女性の不手際に、始まる前から心身ともに消耗した気がする。

 数十人ほど来るはずの旅の魔術師たちは、今や十数名ほどとなっており、こうなってくると、それに倣って依頼を辞退した方が利口だったかもしれない。すでに日も傾いているのだからなおさらだ。

 報酬が割高だったから請けたのだが、失敗したかもしれない。

 そんな風に依頼への姿勢が崩れているエリーだが、今気になるのは、馬車の中だった。


「……はあ。まあ、どうせ中でさぼってるんですよ。何考えてんだか」


 エリーは声量を抑えなかった。


 今馬車の中には、サルドゥの民に馬車の中へ招かれて、“勇者様”が乗っている。

 リリス=サース=ロングトンと名乗った、色白の女性。

 依頼が始まる前、全員に挨拶した彼女は威風堂々とした佇まいで、勇者という贔屓目なしでも好印象の女性だった。

 自称かどうかは知らないが、そんな存在がいてくれることは同じ依頼を請ける身としては心強い。


 ただ、問題なのは、数時間前、自分たちと共に歩いていたひとりの男が馬車に乗り込み、戻ってこないことだった。

 アキラは初めて逢う、自分以外の“勇者様”にしきりに興味を示していた。

 少し様子を見てくると言ってはいたのだが、未だに戻ってくる気配がない。

 話好きで女好きのあの男のことだ、あのリリルという女性に鼻の下でも伸ばして話し込んでいるのだろう。

 依頼中に馬車に乗り込んでいるというのもサルドゥの民は歓迎しないかもしれないが、面倒なことにあの男には人の心を開く日輪属性の力がある。

 エリーたちは延々と歩かされているというのに、アキラは馬車の中ですっかり打ち解けて語らっているような気がして、それもこれもまったくもって面白くなかった。


「どうかな。疲れてない?」

「あ。大丈夫です」


 憤りの吐き出し先を探していたエリーは、前から近づいてくる男を見て飲み込んだ。

 ラースという、共にこの依頼を請けている旅の魔術師だ。

 エリーとイオリに軽く微笑みかけると、そのまま馬車の後部へ向かい、別の旅の魔術師たちに声をかける。

 彼が様子を見に来たのも何度目か。

 彼は馬車の周りを周るように歩いて、全体の様子を確認してくれているようだ。


「ほんっと天と地。馬車の中でサボってる奴もいるのに」

「“勇者様”もそこにいるんだけどね」

「…………彼女も、同じです」


 エリーは、あえて断じた。

 あのリリルという女性は、様子からして、立派な勇者なのかもしれない。実際この目で見ても、確かに好印象だった。

 だがエリーは、それでも、どうしても、あのリリルという女性が好きになれなかった。


「……まあ、この依頼は護衛なんだ。サルドゥの民の護衛。アキラも、それに、さっきの彼女も、サルドゥの民を中で守っているって思えば、それほどサボっているというわけでもないさ」

「イオリさん、包容力あり過ぎですよ」


 アキラの愚行に憤りを感じているのは自分だけなのか。また面白くなかった。イオリの様子を見ると、エリーは自分が、つまらないことに腹を立てている子供のような錯覚に陥る。

 依頼は順調そのもので、定期的に魔物は現れるのだが、この人数に太刀打ちできず馬車の足も止まらない。

 事実だけを追うと、自分が難癖付けているだけではあったりするのがエリーの機嫌悪化に拍車をかける。悪循環だった。


「まあ、一応“勇者様”という地位を考えれば、それくらいの待遇はあってもいいんじゃないかな。僕たちが特殊なだけさ」

「……でも、どうせあいつ、自分が“勇者様”ってことは言ってないと思いますよ」

「?」


 馬車の中で交わされているであろう会話を想像して、エリーは口元を歪ませた。


「そういうの隠して、後で驚かせる、みたいな感じにしたいとか思って」

「…………なんだ」


 イオリが苦笑して、面白そうにエリーを見てきた。

 邪推し過ぎかもしれないが、子供に向ける視線に思えた。


「分かっているじゃないかって思ってね。アキラが考えていそうなこと」


 エリーはぷいと顔を背けた。

 それは違うと思ったが、イオリにはっきり言うのは憚れた。


 馬車の先頭に、また1周して戻ってきたラースの姿を見つけた。

 彼はエリーの視線に気づくと、軽く微笑み、そのまま前方の護衛に就いた。


 アキラがまだ馬車の外にいたときのことだ。

 エリーはしばらく、ラースと話しながら歩いていた気がする。

 彼の知識は豊富で、思った以上に会話が弾み、魔術や出身のことにも話は及んだ。

 楽しかった、と思う。長年旅をしているらしく、雑学にも長けていた彼の話は面白かった。

 だがそんな中、ときおりアキラに視線を投げると、彼はこちらを全く見もせずに、エリー以上に笑ってイオリと話していた。

 こういうときは、何を話しているか気にならないものなのか。こちらはしっかり気になったというのに。


「ほんっと。何考えてんだか……」

「エリサス?」

「……エリーでいいですよ」

「いや、人を愛称で呼ぶのは慣れなくてね」


 イオリはまた苦笑しながら、おもむろに魔導士のローブから投げナイフを取り出し、背の高い草むらに投げ込んだ。

 グレーの光が漏れたかと思えば、小さな爆発音が聞こえる。

 他の旅の魔術師は、緩み切った空気に振り返りもしなかった。


「この大陸だから気にしていたけど……、この分なら“ヨーテンガースの洗礼”は受けなくて済みそうだね」

「……今から行くベックベルン山脈は結構危険ですよ。……侵入だけはしないでくださいね」

「ああ、気をつけるよ」


 “ヨーテンガースの洗礼”とは、この地にいる魔物の力量が生み出した言葉だ。

 アイルーク大陸は言うに及ばず、モルオール大陸と比してすら魔物のレベルは格段に上がる。他の大陸で見たこともある同じ魔物ですら、筋力や魔力が違うほどである。

 油断から生まれる隙という意味でも、手痛い洗礼を受ける旅人は決して少なくない。


 眼前に迫っている険しい山脈は、その代表格になり得るであろう。

 だが隣を歩くイオリからは、流石に魔導士とも言うべきか、凛として、微塵にも油断を感じない。

 エリーがよく見るイオリの表情だ。しかし、エリーは彼女のもうひとつの顔も知っている。

 彼女はもっと、笑うのだ。


「そういえば、エリサスの地元はここなんだよね? マリサスも、か」

「……ええ」


 旅の途中でそんな話をしたが、肯定するのに時間を要した。

 ほとんどおぼろげな、遠い記憶。生まれも育ちもアイルークだと言って差し支えないほど、この地の記憶は薄らいでいる。


「この辺りなのかな?」

「いえ、もっと南です。タイローン大樹海を超えた先」

「…………魔王の牙城の近くで?」

「いや、流石に結構離れていますよ。山に囲まれた、小さな村です」


 淡々と言葉を返した。

 知っているのか、聞いただけなのか、自分の過去は、ほとんど忘却していた。

 断片的な記憶しかないが、再びあの場所を訪れれば、何かを思い出したりするだろうか。


「それで、なんでまたアイルークに?」

「ええと……、両親が、その、いなくなってから、縁があったらしい孤児院に」

「……すまない。変なことを聞いた」

「いえ、もう終わったことですから」


 イオリの気に病んだ表情に、かえってこちらが申し訳なくなってくる。

 両親の他界は、もう済んだことだ。とっくの昔に乗り越えた出来事でしかない。

 だからエリーは、それよりも、出身の話から連想してイオリの顔をじっと見た。

 よくよく見ると、確かに、少し、似ているような気がする。


「イオリさんは、あいつと同じ世界から来たんですよね?」

「ん? アキラのことかな。……そうだね、今となっては世界というものがいくつあるのか知らないけど、……うん。話を聞く限り、彼がいた世界と僕がいた世界は同一のものみたいだ」


 特に意味のない会話だと思った。

 イオリはアキラと雰囲気が似ている気がする。強いて言えばサクが近いが、この世界の人間とは何かが違う気がするのだ。

 だが、エリーが気になっていることはそれに留まらない。

 イオリはいつも、アキラと何かを話している。

 彼女には、あるいは彼女たちには、何か“隠し事”がある様子なのだ。

 その元の世界とやらでは何の関係もないふたりだったそうだが、話して本当にそうなのだろうかと訝しんでしまう。


「僕らの世界に興味ある? アキラからは聞いてないのかな」

「……ええ。あいつはそういう話は本当に下手で」

「はは。彼らしいね」


 胸の奥にしこりが出来たような気がする。

 エリーが思わず唸りそうになったところで、イオリが滑らかに短剣を取り出した。

 前を見ると、草むらが、不自然に揺れている。

 また魔物が出現するらしい。


「まあ、機会があったら話すよ」

「ええ、お願いします」


 エリーは肩を回し、気を落ち着かせた。

 尊敬すべき魔導士様だが、話せば話すほど、胸のわだかまりは大きくなる。

 発散する意味でも、今は依頼に集中した方がいいだろう。


 エリーは誰にも見えない角度で精一杯馬車を睨み、駆け出した。


―――**―――


「いやあ、やっぱり兄ちゃん面白いねぇっ」

「あの」

「はははっ、おっと、カップが空だ……、マーズ! お代りを!!」


 これは馬車の中でサボっている代償を払わされているのだとアキラは思った。

 目の前にどかりと座り込んでいるのは、依頼が始まる際に全員の前で名乗ったヤッドというサルドゥの民の族長だ。

 大柄な体躯に、無精髭。見た目そのままに豪快なこの男は、先ほどからお茶と称する液体をぐびぐびとあおり続けていた。


「ごめんなさいね、うちの人。話好きで」

「ええと」

「おっとアキラ君。君もお代わりを貰いなさい。マーズ!」

「はいはい」


 アキラが何かを言う間もなく、マーズと呼ばれた女性がアキラからカップを手早く奪い、また馬車の隅の樽へ向かっていった。

 悪い気はしないが、馬車に入ってから流れるようにヤッドの前に鎮座させられているアキラは、せめてマーズが運んでくるお茶にアルコールが入っていないことを祈った。


 自分がこの馬車に乗り込んだのはいつのことだったろう。初めて見る自分以外の勇者様に、ひいてはその勇者様の姿勢や、周囲の人々の態度を見られると思っていたのだが、無駄骨に終わりそうだった。

 馬車に入ったときはその勇者様がヤッドの前に座っていたように思ったのだが、いつしかヤッドの前にいるのはアキラひとり。

 日輪属性は人の心を開くスキルがあるという。好意的な態度は増幅され、ヤッドのような社交的な人物を相手にすると留まることを知らない。このまま行くと、自分は到着するまでヤッドと話し込むことになりそうだった。

 ちらりと背後を伺うと、ちゃっかり安全圏で件の勇者、リリル=サースロングトンが背中を預けて座っている。自分がここに来る前は、彼女がヤッドに捉まっていたのだろう。

 他のサルドゥの民は、馬車の隅にある儀式で使う道具とやらを抑えるように離れて座っており、沈黙を守るリリルの様子を知る機会は完全に失われているように思えた。


 助け舟を求めて馬車の中を視線で追い、アキラは、馬車の最奥の大荷物を見た。

 巨大な白い布で覆われたそれは、ヤッドの話によると、儀式で最も重要なやぐららしい。


「いやぁ。俺も乗るとき見たが、今年も見事な造りだなぁ、タンガタンザ製は」


 幾度か聞いて、アキラが聞き流してしまった話を、ヤッドがまた繰り返した。

 今頃外では何が起こっているのだろう。

 前方についている窓から外の様子を伺おうにも、運転手の背中しか見えなかった。

 時折、誰かの声や魔物の爆発音が聞こえてきているのだが、馬車の足は止まらない。どうやら依頼は順調に進んでいるらしい。


「そうか、アキラ君。君は、タンガタンザに行ったことが無いんだったね?」

「あ、はい」

「あそこの技術は凄いぞぉ。製鉄に関しては世界一だ」


 それも随分と聞いた気がする。

 隣に立てかけてあるアキラの剣を見ては、是非1度は行くべきだと何度言われたことか。

 都合上アキラはアイルーク出身ということになっているのだが、もう今後、ヤッドに自分の出身を語る機会は訪れないだろう。


「そうだ。見てみるか? やぐらの中にはな、」

「あなた!」


 ふらつきながら立ち上がろうとしたヤッドに、鋭い声が飛んだ。

 今までお茶汲みに準じていたマーズがヤッドの肩を上から押さえつけ、睨みを利かす。


「あれは儀式のときに出すんです! さっきも勇者様への非礼といい、いい加減に、」

「分かってる分かってる。俺を誰だと思っている? サルドゥの民を束ねるヤッド=ヨーテス=サルドゥだぞ?」


 怒られているらしいのに、ヤッドはからから笑っていた。

 いよいよ酔いが回ってきているらしい。

 良識人を見つけたアキラは助けを求めてマーズに視線を送ると、彼女は申し訳なさそうに頷いた。


「ほら。アキラさんも勇者様に挨拶に来たんでしょうから」

「う、お、おい」


 マーズは手慣れた様子でヤッドを引きずっていく。

 それを大人しく見送って、ようやく解放されたアキラは姿勢を崩した。

 硬直していた身体がパキパキと鳴り、アキラは心の底から、依頼を真面目にこなさなかったことを後悔した。


「はあ」

「……助かりました」


 足を投げ出したアキラの背後から、小さな声が聞こえた。

 振り返ると今まで沈黙を守っていた勇者様がゆっくりと近づいてくる。

 銀の髪に、同じ色の瞳。肌は輝くように白く、精緻な造形物を思わせる彼女は、アキラの隣に腰を下ろすと、それを壊すように悪戯っぽく微笑んだ。


「私も動きが取れませんでしたから。あなたが来なければ」


 目が離せなくなるほど魅力的な表情だった。

 ヤッドの会話に消耗し切り、素直に喜べないことが悔やまれる。

 やはり彼女も、アキラが来るまではヤッドの被害に遭っていたようだ。


 だが、とはいえ、ヤッドの話がまるきり無駄話だったというわけではない。

 この依頼に関するそれ相応の話を聞くことは出来たのだから。


 今から向かうベックベルン山脈のガリオールの地で、この馬車で運んでいる大荷物のやぐらやら舞台やらをセットする。それをもとに行われるバオールの儀式は、打倒魔王を願うもので、毎年行われているそうだ。

 この儀式の由来は定かではないが、諸説ある。

 それは、と思い起こそうとなったところでアキラは頭を振った。

 5、6回は聞かされたせいで、今では軽くガイドの真似も出来そうだが、頼まれたとしても断るだろう。今一番聞きたくない話だ。


「ええと。アキラさん、でしたっけ?」

「あ、ああ。…………はい。勇者様、ですよね?」

「止めてください。そこまでの敬いは求めません。…………そう言ったら、彼は嬉々として語り出したんですけどね」

「……災難、だったな」


 リリルは悪戯っぽく笑って小さく頷いた。

 こっそり向こう側でマーズに怒られているヤッドをふたりで盗み見て、共犯者のような感覚を味わった。

 やはり同年代のようだ。

 勇者様には最大限の敬意を。そういう“しきたり”とやらがあるが、過剰なまでの敬いはくすぐったくなることをアキラは身をもって知っている。

 勇者を名乗るほどだからどんな相手かと思っていたが、もしかしたら案外、自分と同じく、それなりに普通な部分も持っているのかもしれない。

 船着き場で見たときは凛としていて、近づき難いような印象を受けたが、彼女は普通に話し、普通に笑う。

 勇者だろうが同じ人間。

 今のアキラと同じように、彼女が勇者と名乗らなければ、気づきもしないものなのだろう。


「ひとりで旅をしているのか?」

「ええ。“三代目勇者”、レミリア様をご存知ですよね?」

「……ごめんなさい」

「何故謝るんですか……?」


 いかに普通だとしても、それはこの世界において、なのだ。

 彼女の話しぶりからして有名らしいそれを、アキラは知らない。

 勇者にまつわる話で知っているのは、“初代勇者”がアキラと同じく“七曜の魔術師”のパターンだったということだけである。なんなら、サルドゥの民の歴史の方が詳しいくらいだった。


「ええと。ご存知、なかったですか……?」

「ごめん……ごめん」

「……謝られると、私の方が悪いことしているみたいになるんですけど……。そう、ですか」


 気落ちしたように表情に影を落としたが、リリルはこほりと咳払いし、指を1本立てた。


「レミリア様。レミリア=ニギル様は、たったひとりで魔王を討った女性です。証も無く、誰の力も借りずに、ですよ」


 すごいでしょう、とでも言っているように、リリルは胸を張って得意げに笑った。気迫のようなものを感じ、アキラは頷いて肯定する。知識も旅の経験も浅いアキラには、正直ピンとこない話ではあるが、逆らう気にはなれなかった。


「じゃあ、リリル……も、凄いってことか」

「あ。……レ、レミリア様ほどじゃないです。“自称勇者”、ですし」


 謙遜しながらも、しかし彼女の言葉には力があるように感じた。

 “自称勇者”という言葉は、アキラも知っている。

 勇者といっても、何らかの形が無ければ所詮はいち旅の魔術師でしかない。つまりは証が無いと、特に“神族”には勇者として認められないのだ。

 現に小心者のアキラは、あの神に出逢ってから、勇者と名乗ることを積極的にはしていない。

 しかし、となると妙な違和感を覚えた。

 過度に敬われることも嫌うリリルは、何故わざわざ勇者と名乗ったのか。


「……言わないと駄目なんですよ」


 アキラの疑問を察したのか、リリルが遠い目で呟いた。


「誤解している方も多いですが、“勇者様”の名の持つ意味は、人から敬われるだけのものではありません」


 ふと、アキラの脳裏に、ヘヴンズゲートで見た光景がかすめた。

 神に祈り続けるあの民衆の光景を見て、アキラは“勇者様”の旅というものがどういうものなのか理解した。


「勇者と名乗れば、敬われます。ですが、それと同時に、大きな期待がかけられるんです。勇者は自称すれば事足りますが、その暴利を貪る者も、その重圧で逃げ出すほどですから」

「……」

「でも私は、その期待を受け止めたい。受け止めて、ちゃんと期待に応えたい。だから勇者と名乗るんです。…………その、異常なまでに敬われるのは苦手ですけど」


 アキラは妙に胸が痛かった。

 自分が勇者と名乗らない理由を、ズバリ言われたような気がしたからだ。

 気恥ずかしいとか、面倒だからとか、そういうことではなく、アキラは大きな期待をかけられることに苦痛を覚える。

 勇者の意味。勇者を名乗る意味。この世界を知れば知るほどに、口が重くなっていく。


「まあ、馬車の中でくつろいでいる今はあまり説得力がありませんね。依頼の“本番”に備えてしまっています」

「……あ」


 リリルの言葉で、ヤッドの言葉が蘇った。

 依頼の“本番”。

 外のエリーやイオリは知らないだろう。聞いたときにも話に行こうと思ったが、すっかり忘れてしまっていた。


「すみません、私ばっかり話しちゃって。…………不思議ですね、妙に話しやすくて」

「あ、ああ。よく聞き上手って言われる」


 立ち上がろうとするも、リリルに引き留められた。

 人を惹きつける日輪属性。流されやすいアキラが有していると、思うように行動できないらしい。


「ともあれ、依頼ではよろしくお願いします。私も誠心誠意、頑張ります」

「偉いっ!!」


 ぐっと拳を握り締めたリリルの背後に、もう解放されてしまったのか、笑いながら近づいてくるヤッドが見えた。

 足元がふらついているのは馬車が揺れているからだと信じたい。


「いやいや流石勇者様だ! 必ずや魔王を倒してくれ!!」

「はい。そのつもりです」


 リリルがまっすぐに応え、ヤッドが座り込んだ。

 リリルの表情が固まる。

 奥ではマーズが諦めたような表情を浮かべて額に手を当てていた。また長い話が始まるのだろう。


「ところで、ふたりとも、こんな話を知っているか?」

「……」


 アキラは諦めて座り込んだ。エリーたちには後で伝えればいいだろう。どうせ“手遅れ”だ。


 だが、ヤッドの話を抜きにしても、居心地が悪かった。

 勇者への期待をすべて受け止めるリリル=サース=ロングトン。

 今のアキラは、そんなまっすぐな彼女といると、胸の奥が妙に痛くなるのだ。


―――**―――


「…………じゃ、じゃあ。あんた、知っていたわけ? 知っていたのに、」

「何言ってんだ。伝えようとは思ったよ。それに、抜け出すタイミングが見つからなかったし」

「ぐ……」


 パチパチと燃える焚火の前。エリーは何が悪いかを理解していない風なアキラに、拳をわなわなと震わせた。


 港町から向かうと、ベックベルン山脈の周囲は、深い樹海に覆われている。

 そこをカリオールの地と呼び神聖なる儀式の場とするサルドゥの民たちと、その護衛を請け負った旅の魔術師たちは、粛々とそれぞれの仕事を進行していた。

 樹海のとある地点ではサルドゥの民たちが儀式の準備を進め、そしてそれを囲うように東西南北には旅の魔術師たちが配置されている。

 その南部を請け負ったエリーたちは、一部樹海が開けた場所を見つけ、中央のサルドゥの民たちに魔物が近づかないように見張っていた。


 すでにどっぷりと日の沈んだ夜空には無数の星が浮かんではいるが、光源としては心許ない。

 自然の中で焚火やら護衛のための配置やらに気を回すことになるとエリーが思ったのも束の間、焚火の跡やらその周囲の腰掛け用に倒された大木やら、ほとんど何もせずに護衛に付けるほど、現場は整っていた。

 どうやら毎年行っているというのは本当らしく、去年この依頼を請けた旅の魔術師たちが、簡単に拠点にできるように整えていったらしい。他の方角も同じような状態なのだろう。

 別段気を回すまでも無く、あとはただ儀式を待つだけになったのだが、問題だったのは、バオールの儀式とやらの開始時刻だった。


「バオールの儀式は夜明けと共に」


 焚火を挟んだ目の前の男が、穏やかな表情で言った。

 エリーは素直に腹が立った。


「俺たちは今からここで野宿しながら、夜の見張りをするんだ」

「…………随分詳しそうね」

「ああ……詳しいだろ。……詳しくなったんだ」


 皮肉交じりにエリーが言うと、アキラが遠い目をした。

 馬車の中で何があったかは知らないが、深追いしない方が賢明な気がした。


 だが、どうあっても動かせない事実にエリーは頭を抱えざるを得なかった。

 自分たちは、どうやら依頼の一日中、という表現を誤解していたらしい。

 朝始まって夜終わるのも一日中。だが、この依頼は朝から朝までのことを一日中と言っていたようだった。

 エリーの脳裏に、依頼の案内を務めたあの要領の悪そうな女性の顔が浮かんでくる。

 ただ、他の旅の魔術師の中にも知らない者もいるにはいたようだが、それほど大きな混乱が無かったことからすると、承知の上で依頼に臨んだ者も多かったのだろう。

 どの道、ここまで来て依頼を辞退する者はエリーを含め、誰ひとりとしていない。延々歩いてきたせいで足も痛いし、サルドゥの民に文句を言いにいく労力を払うのも馬鹿らしかった。


「はあ。どうしよう。マリーたちに何も言ってないのに」

「向こうは向こうで何とかなるだろ。それにしても魔物とか出ないなぁ、静かな森だ」

「……魔物には道中何度も遭ってるんだけど」


 相変わらず楽観的な様子のアキラは、いつもの調子でへらへらしている。

 延々と歩かされたこちらに比べ、馬車で移動していたこの男は、どうやら体力も有り余っているようだ。

 同じく馬車で移動していたあのリリルという勇者様は、東西南北を守る旅の魔術師たちと違い、樹海の中を異常がないか見回る遊撃に志願していたというのに。


「まあ、今さら言っても仕方がないよ。アキラ、テントを組み立てるのを手伝ってくれないか?」

「ん? ああ」


 どうしようもない憤りを目の前の男にぶつけそうになったところで、イオリがアキラを呼んだ。アキラは素早く立ち上がると、身体を動かしたいのか必要以上に腕を回してイオリに歩み寄っていく。

 イオリは簡単な寝袋を足元に置き、気に繋げれば風よけの囲いになりそうな大きく分厚い布を持っていた。先ほどサルドゥの民たちから夕食と共の支給された、簡易テントだ。


「ある意味“ヨーテンガースの洗礼”だね。魔物だけじゃなく、依頼でも苦労しそうだ」

「……あ、イオリ。そっち持ってくれ」

「分かった」


 テキパキとテントを組み上げていくふたりを見ながら、エリーは小さく口を尖らせた。

 移動中ずっと馬車に乗っていたアキラは元より、イオリは表情ひとつ変えずに働き続けている。朝の鍛錬ですらエリーよりもイオリの方が早く始めていたようなのに、彼女からはまったく疲労というものを感じなかった。

 ここまでの移動で疲弊し、手伝いに出遅れたエリーは、妙な恥ずかしさに加え、自分が不平不満を言っているだけの子供のような気分を味合わされた。


「それで、どうだった? “勇者様”は」

「そうだなぁ……、“勇者様”って感じだった」

「会話を成立させる気があるのかな?」


 呆れたようにイオリはため息を吐き、ほんの少しだけ、笑った。この場所に来るまで、イオリとずっと歩いてきたエリーが、1度も見なかった表情だった。


「あの、イオリさん。あたしも手伝いますよ」

「いや、大丈夫だよ。エリサスも疲れただろう。もうすぐ休める……ってアキラ。何故その木にそれを結んでいるのかな?」

「え? あ。お前こういう感じにしようとしていたのか」

「そうだけど……、いや、もうそれでいいや」

「なんだよ。やり直そうか?」


 エリーが介入する間もなく、テントは完成したらしい。

 もはやテントというより単なるしきりだが、一応遠目には中は覗けないし風避けにはなりそうだ。それだけでいっぱいになってしまうほど小さいが、中にはふたつ分の寝袋が適当に転がされていた。


「よし。エリサスは先に休みを取っていてくれ。次はアキラのテントを作ろうか。最初の見張りはアキラでいいだろう?」

「いや、俺のテントはいいよ。なんかさ、俺寝なくてもいけそうだし」

「朝のアルティアの話を覚えていないのかな……」

「あの!」


 思った以上に大きな声が出た。

 だが、次のテントを作り始めていたふたりは、穏やかな表情で振り返るだけだった。


「あたしも手伝う」

「……お前疲れてそうじゃん。最初の見張りは俺やるし、もう休んでた方がいいじゃないか?」


 2度も断れたとなると、エリーは座り込んで呆然とふたりの作業を眺めることしかできなかった。

 完全に蚊帳の外だった。

 今までもこんな疎外感を幾度も覚えたが、今回はこれが夜明けまで続くらしい。


 ふたりの様子を伺っていると、イオリは流石という他ないが、アキラも随分と手際がいい。

 初めて野宿したときは、目も当てられないほど役に立たなかった。翌朝、身体が痛いだのなんだのと不満を言っていた時期もある。

 それが安心して任せられるようになったのはいつのことだったか。

 そう考えると、それが、野宿だけに限らないことに気づいた。


 旅然り、依頼然り、戦闘然り。彼はこの世界に慣れ、経験を積み、当たり前の成長をしてきた。

 それを望ましいと思ったのは、他ならぬエリーだ。そしてその経緯から、その成長をエリーは補助しようとしてきた。

 だが、魔術はともあれ旅の知識などエリーもアキラと似たようなものだ。差があるとすれば、この世界の慣れ具合だろう。

 その慣れの差が埋まりつつあり、そして、魔術に関してはエリーなどよりもずっと詳しいイオリがいる今、彼にとって、自分は。


 エリーは思考を払うように、目の前の焚火に枯れ木を強く投げ入れた。


「こっちは大丈夫かな……?」

「……!」


 パチリと火が跳ねたと同時、落ち着いた声が聞こえた。

 エリーが首だけで振り返ると、樹海からブロンドの長髪の男が姿を現した。

 男は、肩にはズタ袋のようなものを下げ、イオリのように疲労を感じさせない柔和な笑みを浮かべていた。


「ラースさん。なんでここに?」

「いやなに。見回りをしていただけだよ。……もしかして、君たちも知らなかったクチかな」


 ラースはざっとエリーたちの持ち物を眺め、困ったように肩を落とした。


「たまにこういう年があるんだ。泊りだったことを知らない人が多い。配られる夕食も必要最小限だしね」

「ラースさんは、“勇者様”たちと同じ遊撃担当でしたよね」

「ああ。中央で護衛をしていたんだけど、少し息抜きにね」

「あれ? えっと……?」


 ラースに気づいたらしいアキラが歩み寄ってくる前に、エリーは立ち上がった。


「ラースさん。あたしも見回り手伝いますよ。また色々お話し聞かせてもらいたいですし」

「休んでいた方がいいじゃない?」

「大丈夫です」


 この場に居辛くなっていたところだ。

 渋るラースを半ば強引に促し、エリーは森林へ歩き出した。


「お、おい。お前、どこ行く気だよ? 休んどけって」

「大丈夫よ。見回り、行ってくるから」

「というか、その人って……?」


 日中馬車にいたアキラはラースのことなどほとんど知らないだろう。

 小気味良さと妙な虚しさを感じながら、エリーは逃げるように歩を進めた。


「……見てなきゃ、分かんないわよ」


 最後に。捨て台詞を吐いて、エリーはラースと共に森林の闇へ消えていった。


―――**―――


「へえ」


 港町の夕暮れ時は、冷えた潮風に撫でられる。

 クラストラスの町の外、エレナ=ファンツェルンは冷えた風にも、そして目の前に現れた巨大な存在にも、ただ淡泊に一言漏らした。


 傾き切った太陽に照らされたそれは、スカイブルーの鱗に覆われた巨竜だった。

 イオリの操るゴツゴツとしたラッキーよりは流線形に近い身体つきをしているが、大きな翼が生える背中は広く、乗り心地は良さそうだった。


 鼻が尖ったような竜種の顔付きに、大きな瞳。

 しかしその瞳は丸く、温厚そうな表情に見える。竜種の割には太い牙も無く、爪も丸い。

 竜から攻撃能力を奪えば、丁度こういう姿になるのかもしれない。


「ワイズ。ご機嫌いかがですか?」


 修道服に身を包んだカイラが、その巨竜の鼻を優しく撫でている。

 ワイズと呼ばれたその存在は、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らし、カイラの愛撫をされるがままに受けていた。


 エレナは、まずい、と思った。


「わっ、わわわっ!! カッ、カーリャン!! あっし、あっしも、いいですか!?」


 騒ぎ出す子供がいるのだ。こういう愛玩動物に。


「おっきーなぁ……、かわいいなぁ……。召喚獣……。いいなぁ……いいなぁ……!!!!」

「グルルッ」


 興奮状態のティアが撫で回しても、ワイズは変わらず気持ちよさそうに喉を鳴らした。

 召喚獣がどういう仕組みかエレナは知らないが、本当に生物に見える。


「カイラのワイズなら、6人でも行けると思いますよ」


 ティアの様子を呆れながら見ていたエレナに、長い杖を背負ったマルドが囁いてきた。

 その隣には、今にも欠伸しそうな大男のスライクと、その影におどおどしながら隠れている小さな少女のキュールもいる。


 先ほどの喫茶店で熱弁を振るうティアを止める気も失せ、気づかれないようにその場を後にしたエレナは、ひとりでアキラたちの元へ向かおうとした。

 しかし、時間も時間な上に僻地となれば、交通手段など存在しない。

 その辺りの馬車の持ち主に色目でも使おうかと思っていたところで、運悪くエレナを追ってきたティアたちに捉まってしまったのだった。

 だが、どう話をまとめたかは知らないが、エレナが労力を払うまでも無く、召喚術士のカイラが全員を運んでくれることになっていた。


「俺たちスライク以外の勇者様、ってのに逢ったことが無くて。楽しみだよな?」

「かっ」

「あ、悪い悪い」


 マルドの軽口に、スライクは威嚇するように舌を打った。

 理由は知らないが、彼は、その言葉を拒んでいるようだった。


「……はっ。ご丁寧にも魔王を殺そうってんだ。マメな野郎だろうよ」


 スライク=キース=ガイロードという存在の、態度から、言葉から、どうも勇者としてのそれが感じられない。

 そもそも世界を救うという使命に燃えていないように見えるし、何より魔王に対する興味もほとんど無いように思えた。


 エレナは深く考えるのを止めた。

 少なくとも、アキラという存在への興味は少なからずあるらしい。

 それならば、彼が何者であるかなどエレナは興味もないし、足を貸してくれるのであれば遠慮なく使わせて貰うだけだった。


「でもどうする? 威厳たっぷりの勇者様だったら」

「……ぅ、ぅぅ」


 そして、彼らの中では、彼が勇者としては異質なことは共通認識なのかもしれない。

 スライクの言葉を特に気にした様子も無く、マルドとキュールは話を続けていた。

 ふたりの中のアキラ像は、時間と共に膨らんでいくらしい。

 膨れていく限り、それはアキラから順調に遠ざかっていくのだが、エレナは放っておいた。


「……」


 だがふと。

 エレナは改めて考える。彼らの想像するアキラ像は、果たしてそれほど乖離しているだろうかと。


 威厳は無いと言い切れるが、最近のアキラの様子は、以前とは比較にもならない。


 “あの力”以外は、ただの一般人以下だったヒダマリ=アキラという男。

 だが今は、集中力も、魔力も、体力も、すでに一介の旅の魔術師と呼んで差し支えないほどになっている。

 今朝の様子ひとつとっても、以前のアキラがエリーと競争しようものなら、開始直後に追う気も失せるほどの差が生まれていただろう。


 いつまでも飄々としているように見えて、しかし戦闘力に限って言えば、彼は“勇者様”と呼べる存在になってきている。

 となると、後の問題は。


「エレお姉さまエレお姉さまエレお姉さま!! ワイズ見ました触りました!? めちゃめちゃめちゃめちゃ可愛ぃぃぃいいいっって感じで!! はっ!? 待ってください待ってくださいね……。あれ。イオリンのあのラッキーと並んでいたら、あっしは一体どうしたら!?」

「そうね。アイルークに帰ったら?」

「うわわわっ!? つっ、冷たい!! 寒いですよっ、エレお姉さま!!」

「さむ……って、あんた震えてんじゃない!!」


 夕暮れの潮風に当たるティアの表情は、蒼白になっていた。

 エレナは羽織っていたカーディガンをティアに投げつけ、そのまま街を指差した。


「いいからあんた戻りなさい。いい加減にしないと、」

「えっえええっ!? エレお姉さまから施しを受けられるとは!! ぅぅぅ、ぅぇ、あ、ありがどうございまず……、ずずっ」

「……ちっ」


 朝の“占い”のことが脳裏にちらつき、エレナは顔を背けた。

 ティアは風邪をぶり返したのは見ただけで分かる。


「……これから飛んでいくんでしょう。今よりずっと冷えるわよ」

「ああ、それなら俺が何とかしましょうか」


 こちらの様子を伺っていたらしいマルドが、杖を取り出した。

 余計なことを。杖から銀の光が漏れ出したのを見て、エレナは小さく呟いた。


「……フリオール」


 銀の光がゆったりと動き、全員の身体を包み始めていく。

 この色の光がこれほど“低速”で展開されたのは初めて見た。いや、きっと、これが普通なのだろう。

 銀の光で身体が覆われると、エレナの身体を打っていた潮風が、嘘のように納まった。


「あれ。すっご、え、あったかいです! マルドン!! ありがとうございます!!」

「……結構負荷があるんだけどね、まあ、寒いよりマシでしょ」


 幾度か見たこの魔術、いや魔法は、あの数千年にひとりの天才とやらがよく使用しているものだ。

 外部影響の選択遮断。

 時には音を、時には風を、果ては重力すら遮断し、宙を飛び交うことすらできる。

 月輪属性のことはまるで分らないが、他の月輪の魔術師と比べると、彼女の異様さが際立つ。


「ふ。月輪属性の魔術師に会うのは初めてですか?」

「おあいにく様。七曜の魔術師は、もう全員集まっているわ」


 召喚を終えて近づいてきたカイラに一言返し、エレナは大股でワイズに近づいていった。

 ワイズは、自身よりもずっと小さい存在の接近に、小動物のように身を振るわせた。


「ちょっと。ワイズを威嚇しないでいただけますか!?」

「何もしやしないわよ。……私を運んでくれるんでしょう?」

「ぐ」


 カイラがピクリと眉を潜めた。

 会ってからずっと、妙に突っかかられている。やはり不徳が許せないタイプなのだろう。


「まあ、そうですね。私たちのついでに、ですが。一応はお引き受けした依頼です。とっくに出発してしまっていますが、儀式は夜明け。十分に間に合うでしょう」

「……? 夜明け?」


 エレナは胸元から依頼書の写しを取り出した。

 どこに目を走らせても、そんな言葉は書いていない。だが今気づいたが、依頼書の中に、一日中とあるだけで、時間に関する記載がどこにもなかった。

 随分といい加減なことをする。


「バオールの儀式は夜明けと共に。そう伝え聞きます」

「カイラはそういうことには詳しいからね」


 エレナは依頼書を握り潰した。

 アキラたちもこの事実を知らない可能性がある。

 知っていたら、流石に一言くらいは伝えてから行くだろう。


「ま、そこだけ間に合ってもとんだ遅刻ね。それで依頼料ふんだくる気?」

「っ、そんなつもりじゃありません。わたくしたちは、善意での協力をするだけです。誰か様と違って、わたくしは他の“勇者様”にも敬意を払いますので」

「そう、それは諸君な心掛けね。お陰で助かるわ」


 何か言われそうだったが、エレナはティアに視線を走らせた。

 流石にもう、限界だ。


「ティア」

「は! 何でございましょう!?」


 やや頼りない足取りで、ティアが犬のように駆け寄ってくる。

 エレナは目を細め、努めて冷たい声を出した。


「今の話を聞いたわね? あんたに任務を与えるわ。あの天才ちゃんと従者ちゃん、そろそろ戻ってきているでしょう。このことを伝えといて」

「おうさっ!! わた……あれ。ええっ!? あっしお留守番ですか!?」


 喚くティアにいよいよ殺気を込めた睨みを突き刺し、エレナは再度街を親指で差した。

 ティアは、銀の光に包まれているにもかかわらず、やはり身体を震わせ始めていた。


「つべこべ言わずに風邪を治しなさい。あんた……、“間に合わなくなっても”知らないわよ」

「…………、は、はい。……分かり、ました」


 ティアは名残惜しそうにカイラのワイズを見上げ、とぼとぼと街へ向かって歩いていった。

 分かっているのか分かっていないのか。

 エレナの身体がぶるりと震える。風に当たり過ぎたかと思ったが、それは今、マルドの魔法で遮断されているはずだった。


「……さ、行きましょうか」

「ちょっ、えっ!?」


 ワイズが乗りやすいように頭を下げる前に、エレナは身体能力にあかせて飛び乗った。一般的な建物の、2階ほどの高さだろうか。

 一応は自分を運んでくれるワイズを気遣い、負担を与えないように優しく着地したエレナは、無表情にぽかんと口を開けるカイラを見下ろした。

 高くなった視線の先、もう日も落ちかけた遠方に、目的地である樹海がかすかに見える。


「……よう。随分乱暴だなぁ、おい」

「!」


 エレナの背後で、いつの間にか同じようにワイズに飛び乗っていた男が鋭く嗤っていた。

 ほぼ同時に跳んだのだろうか。エレナはほとんど気付くことが出来なかった。


 エレナの行動に、身体能力で追従出来た人間を見たのは初めてだった。流石に“勇者様”と呼ばれていただけはある。自分と同じく、そういう態度を取るに足る“何か”を持っているのかもしれない。


「ふぅん」


 エレナは、それだけ呟き、改めて遠方の山脈を眺めた。

 そしてそこでは、ふたりの“勇者様”が介入しようとした依頼が始まっている。


 杞憂であればそれでいいが、やはり、妙な予感がする。

 妙なことが起こるのはいつものことと言ってしまえばそれまでだが、特に今は、それを避けたいとエレナは感じていた。


 モルオールの港町に着いてから、正確に言えば、あのホンジョウ=イオリと出逢ってから、アキラの様子が変わった気がするのだ。

 彼らが副隊長のカリスを探しに行ったリオスト平原。そこで何が起こったのかは、重症のアキラと意識を失っていたカリスを見て、おおよその察しは付いた。

 だが、分かったことは、起こったであろう事実だけだ。そこで彼が何を見て、何を聞き、何を想ったのかはまるで分からない。


 そして、まるで分らないことが、エレナは気に入らなかった。


 多くを惹きつける太陽。

 今沈みかけているあの太陽には、表も裏も無く、ただ同じように輝いている。

 だが、ヒダマリ=アキラは人間だ。表も裏も無いように振る舞っていても、必ず陰りを持っている。

 そしてその陰りは、今彼が苛まれている何かなのかもしれない。

 それなのに、エレナには、それが、見えない。

 エレナはギリと歯を食いしばった。


「ちょ、ちょっと。貴女、今何をっ!?」

「そこの白髪も同じでしょう」


 正規ルートからよじ登ってきたカイラに、エレナは苛立ったまま返した。

 自分を運んでくれる、一応は恩人の彼女だが、どうにも彼女と友好的な関係を築くことは出来そうにない。


「……そうだ。あなた、水曜属性なのよね?」

「え? ええ。それが?」


 おずおずと頷くカイラの後ろで、残るふたりもワイズを登り始めている。

 エレナは肩にかかった髪を払い、適当な場所を見つけて座り込んだ。


「いえ、別に」


 やっぱり占いは、あてにならない。


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