#72 魔女と魔術師
──所変わり、ラズワルドとルカがシルバーと再会していた頃。
城塞都市リンデンから北に進み、東の最厄地から西へ遠く離れた然る渓谷にて。
岩肌と川の音に包まれた穏やかな風の中で、景色に似つかわしくない、全くもっておぞましいアンデッドたちがぞろぞろと蠢いていた。
パキパキ、ポキポキ。
聞こえてくるのは、氷がヒビ割れ、足元に深いクレヴァスが生じるような不吉を連想させる不気味の絃韻。
身の毛がよだつような凍死体たちは、壊れかけの糸吊り人形を思わせる様子でズルズルと動き回り、まさに心底からゾッとする。
しかし。
あるものは川の中に飛び込み魚を取り、また、あるものは落ち葉や枯れ枝を拾い焚き木の準備。
中には倒木を担ぎあげ、大規模な風避けや屋根を作ったり、岩を削って床や壁を整えているものもいた。
──野営。
否、ここまで来るといっそ建築と呼べる代物。
一種の城造り、砦造りにも似た拠点の構築。
この場にいるアンデッドたちは、ただひとりの絶対的支配者に従って、黙々とその命令を遂行しているのだ。
「まったく……何度見ても薄気味悪くてかなわんな。
死霊術の利便性は大昔から唱えられてきた。食事も睡眠も要らない疲れ知らず。命令に逆らうコトもなければ、文句さえも言わない。ただ黙々と与えられた仕事を全うし、対価すら要求せず、奴隷などよりよっぽど理想的な労働力。
……しかし、こうして蠢く死体どもを目の当たりにすれば、やはりどうしても嫌悪と忌避の感情が抑えられんよ」
「何かと思えば……わざわざ嫌味を言いに来たのかしら、灰色の男」
「リュディガーだ。妙なあだ名で呼ぶのはやめろ、白嶺──と言っても、貴様はやめる気はないのだろうがな」
「ハ、私がオマエを何と呼ぼうと、それは私の自由。
ラズワルドは優しいから表向き許したけれど、自分の子を生贄にしようとしたオマエを、私は絶対に許さない。
いまも必死に蓋をしているのだから、挑発するような物言いは控えて欲しいところね」
──ラズワルドからお願いされていなければ、疾うにその命、無きものと思いなさい。
羚羊の頭蓋骨から鋭く伸びた異形の角。
冷たく暗い眼窩には、金色に揺れる魔性の眼差しがあり、喪服じみた黒衣のドレス、白髏のごとき肌を妖しく飾る。
名は、白嶺の魔女。
カルメンタリス島においては、およそ三百年間に渡って恐怖を刻んだ真性の魔にして、おびただしい数の死者を生んだ伝説の人外である。
種族としては魔女にカテゴライズされるが、発生した起因からはアンデッドに近いと推察され、事実、超抜級の死霊術を操るコトから、とかく『死』との親和性が高い。
本来であれば、その逸話から一体一で言葉を交わせるだけの理性もないと想定され、子ども以外は即時に殺しにかかるバケモノと噂されていた。
そんな存在が、正真正銘の殺意を込めて自分を見下ろしている。
(たまらんな)
リュディガーはゾクリと、肝の冷える感覚につい鼻を鳴らした。
恐ろしくはある。怖いとも素直に思う。
しかし、それは状況から来る理性的な判断で、心からのものじゃない。
本能的な反応がカラダに現れても、虚ろな心は無感動に現実を受け止めている。
人としては、とっくに壊れ果てたままだ。灰色の男。そんな風に揶揄されるのも、さすがに慣れてきたと言っていい。
が、
「挑発、ね。そうは言われても、貴様の言う通り私は壊人だ。大したコトでなければ心も動かん。普通であれば、貴様のようなバケモノに好き好んで近づくバカはいないのだろう。しかし、私からすれば──」
「結構よ。そこから先は、どうせいつもと同じ。冥府の王すら利用しようとした人間ですものね。ホント、どうかしているわ」
うんざりよ、と言った様子で首を横に揺らす魔女。
「……フン。狂気に関してはお互い様だろうに」
その様子にリュディガーは再度、鼻を鳴らして眉間に皺を寄せた。
リュディガーはたしかに壊人だが、人間をやめてはいない。狂気の嵩でいえば、間違いなく魔女に軍配が上がるはずだ。
狂い果てた奈落の魂が、まったく、どの口で言っているのだろう。
まぁ、それはともかく……
「貴様の主は、そろそろリンデンで話をつけた頃合かな」
「…………ええ。そうね」
「フン。行く時もさんざん姦しくゴネていたが、まだ懸念しているのか。少しは信頼したらどうだ?
貴様の主は、こと荒事に限りすでに相当な場数を踏んでいる。同年代の魔法使い、魔術師に比べたら、質の面でも量の面でも雲泥の差だぞ。
この一年と半年、あの子の成長を最も間近にしてきたのは、他ならぬ貴様だったと私は記憶しているのだがな」
「だとしても。だとしてもよ、我が子を心配しない母がいるかしら? 子の安全を祈らない母親なんて、そんなのは母親じゃないわ。少なくとも、私たちにとって」
「末期に抱いた渇望は拭い難いかよ……その習性も、私はどうかと思うがな。
貴様に限らず、貴様ら転変者はどこかで人間を下に見ているだろう。
自分たちは人間であるのに耐えきれず、奈落へ堕ちるコトで強大な力を得たのだから、ある程度は仕方ないのかもしれないがな。
しかし、それは敗者の屈折だぞ?
人間が人間のまま、正道を歩んで力を手にしていく姿を見て、自分はそうじゃなかったのにと嫉妬心からくる物差しだ。自覚の有無がどうだかは知らないがな?
ただ、私としては、貴様のその過保護な姿勢は、あの子の頑張りや強さを認めず、むしろ弱いままでいるのを望んでいるようにも少なからず見える」
「……見当違いだわ」
「だといい──まぁ、所詮はまともに子育てもしたコトのない男の戯れ言だ。忘れてくれても一向に構わんさ。貴様の心の裡など、きっと貴様ですら正確には分からんのだろうし、それは私たち人間とて同じコトだ」
心の存り様など、複雑すぎて当然。
「魔法は心を映す鏡とも言われるな。私は魔術師だから、その感覚はいまいち分からないが……とはいえ、あの子の使う魔法は眩しい。『星』にしろ、『穹』にしろな。母親を気取る貴様が、その価値を忘れなければ問題などはなかろうよ」
「言われるまでもないわね…………それにしても、今日はずいぶんと饒舌ね、グレイマン。何か用があったんじゃないのかしら。混血児たちを寝かす仮の家なら、そうね、あと数時間もあればできるわよ」
「フン──そうかよ」
話題の転換。
やや露骨なそれは、これ以上は踏み込むなという警告か。
挑発をやめろと言われたばかりでもある。
古来より、見るなの禁、入るなの禁、振り返るなの禁は存在し、越えなくていい一線を越える必要はない。
リュディガーは大人しく引き下がった。
「それで、ああ、貴様の主についての話だったが……」
「ラズワルドがどうかしたの?」
「いやなに。今しがた、少しは信頼しろという話をしたばかりで何だがな。貴様はまだ、よくやっている方なのかもしれん。
出立前、主に頼まれた我々の面倒も、不承不承だがこなしているし。
今だって、我々のためになるべく快適な拠点を用意しようとしてくれている」
「あら。感謝でもする気になった?」
「いや、契約の遵守は当然の義務だ。主のためによく働いていて、見上げた使い魔だと思ってな」
「この……」
「睨むな。褒めてやってるんだ。貴様の死霊術は足りない人手をカバーするのに、この上なく役立っている。気持ち悪くても、そこは認めているということだ。それに、知ってるか? 私の配下たちには、貴様を太母と呼び始めている者もいるのだ」
「──たしか、ラズワルドのことは御子と呼んでいたわね」
「ああ。もともと寄せ集めの邪教徒たちだったが、“壮麗大地”での一件から、どうもさらに信仰心が強くなったらしい。私を宗主と呼ぶのは変わらないものの、今では貴様らを自分たちの本当の神だと信じ込んでいる」
「……まぁ、大嵐との戦いは神話も同然だったでしょうしね」
「フン。おかげで結束力が増して、以前よりさらに宗教的になってしまったがな。
まぁ、それについては特に問題でもない。彼らは変わらず私を宗主と崇め続けているし、教団としての方向性が何か変わったワケでもないしな。生きるために力を合わせる。ハミダシモノ同士、今後とも仲良くするとも。
気になっているのは──私の子、ホムンクルス=カムビヨンたちのことだ」
リュディガーは近場の岩に腰掛け、懐から一本の煙管を取り出す。
葉は入れっぱなしだ。
指を弾いて簡単に着火を行い、ゆらゆらと煙をくゆらせ、フゥと紫煙を吐いた。
「煙は苦手よ。子どもの健康に悪い気がするから」
「知っている。安心しろ。これは私が作ったオリジナルだ。健康に害はない。むしろ体内の不純物を浄化してくれる非常に優れた代物だ」
「どうだか……」
白嶺の魔女は懐疑的な視線で三歩ほど離れた。
どうやら、煙の匂いが服につくのを嫌ったらしい。
リュディガーは苦笑し、一言「すまんな」と詫びる。
「雪豹、甲鱗、黄金瞳、巨角、人形。
あれから成長し、だいぶ個人差も出てきたが、それでも百二十人ずつの、総勢六百体の培養混血児。
私の子どもを素体とし、錬金術と魔術によって産み出された悲劇と禁忌の子ら」
「みんな、個性があって可愛いわ」
「はははははは! ありがとう。だがそう思うのは、貴様がやはりイカれているからで、大多数の人間にしてみれば、私の子どもたちは到底受け入れられる存在じゃない」
「だから、ラズワルドがいま頑張って、いろいろと人間たちを説得しようとしてるワケでしょう?」
「そうだ。しかし、考えてもみろ。帰ってくると思っていなかった妖精の取り替え児がいきなり戻ってきて、しかも六百以上の混ざり物も連れ帰ってきたと云う。何も知らない人間としては、バケモノが背後の戦力を窺わせて、脅しに来ていると受け止めてもおかしくない」
「ラズワルドなら上手くコトを運んでくれるわ。お婆ちゃんの入れ知恵もあるもの」
「脳吸いか。たしかに行く時はそれで納得した。
しかしな、深淵の叡智に算出できるのは、あくまであらかじめ把握している前提条件に則ってのもの。
壁が二つ崩れ落ちたとはいえ、人類最高の退魔都市であれば、たとえ跡地でも下手な怪物は寄ってこない。
あのヴェリタスは、心配せずともそう危険な目には遭わないだろう、と言っていたがな」
リュディガーはそこで、敢えて言葉を途切り間を空ける。
眉間に寄った皺の深さ。
それはあるひとつの、憂慮によって刻み込まれた懸念の顕れだ。
人間社会の脆弱さと危うさを知り、かつてそれゆえに人間社会への報復を決行しようとした男は、当然、始めからそうだったワケではない。
元より生まれは西の宝国。
秘宝匠ならざりしとも、商売人として培ったスキルや経験は今も身に備わり、金勘定や算術にはそれなりの自信がある。
だからこそ、
「人の世は、所詮は『縁』がものを言う。金を効率よく集めようとすれば、どうしたって人付き合いは避けられん。私も始めは大いに苦労した」
「それで? ツラい話なら聞きたくないのだけど」
「ああ。だからこそ言えるのだがな……人付き合いも増えていけば、自ずと色んな話が耳に入ってくる。雑談。これが意外とバカにできないコネクションを築き上げたりするからだ」
「前置きが長いわねぇ」
「許せ。でだ。私はこれでも人界を出る前はそれなりに準備を重ねた。なにせ、魔術はいかんせん金が掛かって仕方がないからな。雲霞のごとき宝石類を集めるために、危ない橋を幾つ渡ったかも覚えていない。俗に言う、闇取引というヤツだ。で、そんなコトを繰り返していると……分かるだろう? 自然と耳に入ってくるんだよ」
仄暗く、血に塗れた噂話のひとつやふたつ。
「裏社会。闇社会。そこに潜む、その手のヤツらと接触すれば、臭い話とは必ずブチ当たるものだ。私はある噂話を聞いた」
──鯨飲濁流。
「吸血鬼の王。悪辣なる悪鬼。尽き果てぬ食欲の化身。
五百年を超すヤツの伝説に、貴様らが終止符を打ったと聞いた時、私はなるほど、大したものだと密かに舌を巻いたものだが……思い出したのだよ」
「なにを」
「ヤツを信奉する大魔の一団があると」
「──なんですって?」
「無論、与太の類であるのは分かっている。貴様ら魔性は、自我の塊だ。
ゴブリンやトロールといった低脳連中ならいざ知らず、二つ名を持ち、一定の存在力を得ている大魔ならば、己以外は目障り。根本からして相容れぬ。
少なくとも、精霊女王や薔薇男爵のように、両者に隔絶した力の開きがあり、また共存が可能な同種でもなければ、異種同士の大魔に融和の選択肢は端からない──そうだな?」
「…………ええ。異論はないわ」
「なのに、だ!
噂によると、鯨飲濁流にはその昔、おかしな行動をしていたフシがあると云う。
都市呑みと呼ばれた太古のトレントとの、七日七晩に及んだ熾烈なる闘争を経て、ヤツはある時期から、食い残しをするようになったそうだ」
「嘘よ」
「ああ、もちろん嘘だろう! 鯨飲濁流の二つ名は、ヤツがそんな中途半端をするような手合いじゃないからこそ、付けられた異名だ。
──しかし、ならばなぜ、私たちは鯨飲濁流の伝説を知っているのか?」
「…………」
「そう。ヤツには悪癖があった。文字通り最悪の趣味嗜好が。フェリシアから話を聞いた時、私は愕然としたよ。
自分を憎悪するよう仕向け、復讐という負の想念に憑りつかせるため、敢えて生き残りを作って将来の楽しみにするという悪辣さ────まさに、最悪の吸血鬼に相応しい悪行と言える」
すなわち。
「鯨飲濁流には前例があった。生き残りも食い残しも、そこにどういうニュアンスの違いがあるにしても、ヤツには過去、殺さずに済ませたモノが少なからずいるのだ」
そして、
「その中に、どうやらいるらしい」
「いるって……なにが」
「私の子どもたちと同じ、元混血児の大魔だよ。あくまで噂だがな」
リュディガーは煙管から灰を落とし、すっくと立ち上がる。
仮に噂が事実だったとして、鯨飲濁流を信奉していたバケモノたちが、自分たちの主を殺した敵がノコノコと舞い戻って来た場合、果たしてどう動くものか。
悪辣なる悪鬼との関係も、確かなことは何にも言えない。
しかし、
(九割の確率で杞憂だろう。
だが、残りの一割を引き当てない保証など、この世の誰にもできはしない──ならば)
「念の為の保険は、やはりかけておくべきだろうな」
「何をする気?」
「フン。我らが御子どのに、ささやかながら役に立つ贈り物をとね」
「あら──過保護なのはオマエも同じじゃない」
「吐かせ。これは打算というんだ。貴様の愛と同じにするな。それとも──よもや否やはあるまい?」
「笑止」
驚天動地の魔術師は口角を吊り上げ、白嶺の魔女はコキリと首の骨を鳴らした。
魔法の最高位と魔術の最高位。
ともに世界を見遣る視座は違えども、払う敬意に濁りなし。
「ちょうど、教団の中からも不満が溜まってきていたところだ。自分たちのために大役を背負った御子様に対し、何の力添えもできない自分たちが不甲斐ないとな。世話係として、使えそうな者を何人か選出しよう」
「一応言っておくけど、子鼠や蝶女は論外よ」
「心得ている。彼女たちは大魔だ。そんなのが急に現れたら、リンデンは大パニックに陥る。アムニブス・イラ・グラディウスは健在なのだろう?
それに、今は貴様らに此処を離れられるワケにはいかない。ラズワルドからも言い含められているし、特に貴様は労働力として欠かせんからな」
「子鼠はこの近辺の外敵駆除にかかりっきりだし、蝶女は限界の近い子どもたちの維持で目が離せないものね」
「……そうだ。すでに術式はできている。あとは必要な宝石と設備さえ整えれば、生贄としての活動限界など、どうとでもできるはずなのだから……」
そこで、わずかに焦燥の色を浮かばせるリュディガーに、ベアトリクスは小さく「人間」と呟いた。
リュディガーは自らを壊人とのたまうが、こういうところで人間性が滲み出る。
丸眼鏡の優男もそうだったが、罪悪感と良心に揺れ動く余地がこんなにも残っているなら、まだまだ人間をやめられる境地には達しない。
自分たちの場合は、こうじゃなかった。今だって、ラズワルドとの契約がなければこうは保てない。
ゆえの──羨望。
「それで? 選ぶのは誰にするのかしら」
「候補は決めてある。ただの人間を送り込んでも足でまとい。となれば、必然、我が子たちの中から未だ活動限界が近くなく、選りすぐりの五人を……」
「幻術はかけてあげるわ」
「助かる」
魔女と魔術師は頷き合い、以って、そういうことに話は落ち着いた。




