#68 火花散る
英雄の大剣を直上へと弾き返し、隙の生まれた胴へと蹴りを叩き込む。
鎧が揺れて、微かに仰け反る老人。姿勢の変化は、たしかな驚愕を告げるもの。
しかし、所詮はたかだか体勢を崩しただけ止まり。
石柱がごとき足を一歩後退させたワケでもなければ、ましてその巨体を宙に浮かせるほどの有効打を与えたワケでもなかった。
むしろ、
「テメェの中の魔女を、完全に操ってやがるのかッ!!」
「──さすが」
わずか数秒の立ち合いで見抜かれた事実にこちらこそ驚愕する。
歴戦の猛者、バケモノ狩りのエキスパート、魔法使いとしての積み重ね。
あらゆる面で実力差は明白なれど、たった数合の剣戟で、まさかここまで見抜けるモノは人間であれば五人といまい。
堪えきれない苦笑から、僕はサッと跳躍し、間合いを取り直した。
「嫌だなぁ。どうして分かるんです?」
「バカが。俺はジジィだぞ。長生きしてれば大抵のコトは分かるんだよ」
グラディウス老はハンッ! と鼻を鳴らしながら大剣を肩に掲げた。
「それに、魔法使いにとっちゃあ別に珍しくも何ともねぇ。部分憑依も全身憑依も、どっちにしろやってるコトに変わりはねーからな。気分的な差はあっても、そんなのは極論気分の話よ。
──騎士なんざやってれば、バカがバカやってバカみてぇに死んでいくのも見飽きてる。
使い魔との融合をやりすぎちまって、テメェの身も心もバケモンになっちまったまま戻らねぇなんつーのは、往々にしてよくある話だ。南の魔国じゃ、それこそ有り触れている。
だから、そこまでなら驚きはねえ」
淡々と言葉を続けながら、刻印騎士団長はつまらなそうに憮然とする。
言うまでもないが、その鎧にはやはり一欠片の毀も見当たらない。
城塞都市リンデンを守り続ける鋼の男。その肉体をさらに守るため、きっと数多の秘宝匠が汗水垂らしたはずの一級品。
十二歳の子どもに蹴りあげられたくらいでは、攻撃として認識もされない防御力を誇っている。
(とはいえ……)
濛々と水蒸気を吹き上げながら、今なお砕けぬ左右の魔氷。
英雄の剣閃を受けて傷一つないのはこちらも同じコト。
人間の腕にしては、いささか白く変色しすぎた薄気味悪い白腕。
普通に見れば、憑依融合だと誰もが勘違いするだろう。
しかし、
「それがただの憑依融合なら、白嶺の気配が感じられないのはおかしな話だ」
「魔法使いと使い魔は一心同体ですよ?」
「吐かせ。だからこそ、俺たちはいつだってヤツらの気配に慎重じゃなきゃいけねぇ。俺は使い魔を持たねえが、持ってるヤツには必ず警告する」
人から転じた魔であれば、奈落に堕ちた魂の本質を。
生まれながらの魔なのであれば、根本から異なるその性質を。
二つ名持ちともなれば、ただそこに在るだけで空気は変わるのだ。
「視点が違う。視座が違う。俺ら人間とは世界の捉え方が大きく違う。
──ゆえに、今ここに白嶺の魔女がいるのであれば、俺はあの黄金の視線に心底恐ろしくて、まるで背骨に氷柱を差し込まれたような気分になっていただろうぜ」
「……なるほど」
それは妖精の取り替え児である僕には、たしかに分からない違いだった。
いつ如何なる時であったとしても、チェンジリングの青い瞳は彼らと同じ世界を見通してしまう。
人間として感じる危機感や恐怖感情は共通していても、純正の人間とでは、微妙にその感じ方が変わってしまうのかもしれない。
たとえば、僕の目からすればベアトリクスには共感、ないし同情できる部分が多分にある。
それは白嶺の魔女のバックボーンを知っているからでも、これまでの生活があるからでもなく、単に事実として『心の在り様』が滲んで映るからだ。
……わざわざ思い出すまでもないが、この世界、たとえ亡者であったとしても、念は残る。
死霊としての在り方も掴めず。
アンデッドとして堕ち切ったワケでもない。
けれど、そんな曖昧で模糊ともしない魂の影法師でも、恨みや辛みを地上に漂わせるコトはできる。
常冬の山は今でも亡者の念でいっぱいだろう。
ならば、
(ベアトリクスに限らず他の二つ名持ち。あるいは、大魔と区別されるモノは──)
元より周囲を異界として変貌させるだけの力を持つ規格外。
滲み出る念の総量は、ハッキリ言って、亡者などとは比ぶべくもないに違いない。
──ゆえに、白嶺の魔女と真正面から対峙するコトになったほとんどの人間にとって、その虚ろな眼窩と揺らぐ黄金の光芒は、正真正銘、怪物でしかないのだろう。
それはグラディウス老とて変わらず、取り替え児である僕とはそういう意味で視界が異なる。
この戦闘行為が始まる前、ちょうど今はひとりっきりみてぇだし、と分かっていたのは、要はそういうコトだ。
そこまでを踏まえ。
「僕のこの両腕が、ベアトリクスとの憑依融合でないとしたら、それはどういう理屈になるんでしょうか?」
「推測はつくぜぇ? なにしろ一年半前のあの時点で、必要な情報は揃ってるんだからな」
問い掛けに、グラディウス老は間髪入れず正解へと飛んだ。
僕は内心で舌を巻かざるを得ない。
身体能力だけでなく頭脳も切れるとか、やっぱこの人、原作で死んでたのが信じられないくらいのチートだ。
ふぅ、と息をこぼし肩を竦める。
「でもまぁ、さすがに過程までは分からないですよね?」
「……まぁな。俺が抑えてるのは起点だけで、その後にどういう経緯を辿って坊主がそんな風になったのか。脳吸いでもあるまいに、さすがにそこまでは分からねぇよ」
「僕からしたら、十分すぎるくらい頭脳明晰だと思えますけどね」
「阿呆か。こんなのは単に、歳の割に物覚えがいいってだけの自慢話だろうが」
「自慢話なんだ……」
「オイオイ、俺だってボケんのは怖ぇんだぞ?」
鋼の英雄から飛び出る老人らしい冗談に、苦笑が度合いを増す。
思えばヴェリタスも老婆であるし、僕の身近にいる年寄りたちは、揃ってボケの二文字とは程遠いようだ。
とはいえ、
「──じゃあ、そろそろ僕の話をしましょうか」
グラディウス老の言う起点。
それは僕が常冬の山でベアトリクスと契約した際、欠損した肉体を再構築されたコトを指す。
本来、使い魔契約によって死の淵から蘇りを果たした事例は無い。
僕とベアトリクス。互いに互いの魂をすべて明け渡した関係だからこそ、アレは叶った奇跡の契約だ。
ゆえに、そこから始まった僕のこれまでは、常に『魔女』と共にあった。
「俺の剣を弾いたんだ。合格点は余裕で出せる。あとはその力が外法でないか──聞かせてもらおう」
静かに重く、事の是非を見定める騎士の眼差し。
僕は頷き、丁寧に説明を開始した。
──時は大嵐の巨龍撃滅から一週間ほどの頃まで巻き戻る。
“壮麗大地”で起こった動乱が少しばかり落ち着き、東の最厄地を実質治めていた三大の内、『夜羽』と『大嵐』が消え失せた後。
荒れ果てた大樹海、暴れ出した有象無象、巨龍の残した一部の霊骸──そういった種々の問題を差し当って解決し、一時の秩序を取り戻せたのは『緑化』あってのコトだった。
大嵐による頽廃の権能が吹き荒れた後、“壮麗大地”には混沌が生じ、倒れ伏した三大に代わって我こそは大樹海の新たなる王とならんと、それまで精霊や獣神に頭を押さえつけられ、内心快く思っていなかった他の怪物たちが、一斉に暴れ出したのだ。
人面獣心の王。
双頭の蟻男。
馬頭蠍尾の群れ。
いずれも精霊女王や黒鴉神から相手にすらされなかった──相手にされるほどの存在は例外なく殺されているため──格下なれど、人間にとっては等しく脅威。
取り替え児である僕を狙って、三者三様の事件を起こしてくれた。
しかし、詳しいコトは割愛するが、黒鴉神が消え巨龍が消え、それでもなお精霊女王は健在。
片翅を捥がれ霊格に瑕を負えど、薔薇男爵という女王に次ぐ力を持った臣下もいれば、騒乱が鎮圧されるのに、そう大した時間はかからなかった。
広大なる“壮麗大地”その全域は、斯くて精霊──偉大なる生命の母──の支配下となったワケである。
そして、しばしの休息を経て、ある程度の回復を果たした精霊女王は、当然のように一つの問題へと目を向けた。
「──ラズ様の魂は限界です。度重なる憑依融合によって、このままでは自我を失ってしまうでしょう」
如何に互いが互いの魂を完全に明け渡しているとはいえ、白嶺の魔女と人間ひとりの魂とでは規格が違う。
時間が経てば小さい方が呑み込まれ、大きい方が残るのは自明の理。
まして、ラズワルドはただでさえ全身憑依を繰り返してきた。
記憶の混濁や精神の入れ替わり、優先順位の変化。
すでに見過ごせない症状は現れていて、大嵐の巨龍との戦いで致命的なラインまで進んでしまった。
ラズワルドという個。
群青の輝きに目を奪われたモノとして、それは余りにも度し難い。
魂に干渉する“生”の使い手として、精霊女王は断固とした姿勢でベアトリクスへ言った。
「──ハ。ならばいったい、どうすると言うの? 私とラズワルドの契約は破れない。もう一生離れるコトはできないの。だって、魂で結びついているのよ? オマエたちとは違って」
「…………」
ピクリ、と眉を震わせ表情を消していく精霊女王。
傍にいたフェリシアも同様に、空気が一段階重くなったのを今でも覚えている。
「ムムッ! 吾輩、退散が吉と見受けました!」
様子を見ていた薔薇男爵が騒がしく距離を置き、僕はひとり爆ぜる火の粉の只中へと取り残された。
ベアトリクスはそんな僕をわざと引き寄せ、まるで見せつけるように背中から抱き締めて言った。
「──勘違いしないでもらえるかしら。ラズワルドのコトなら私だって分かっている。いいえ、私が一番理解しているわ。なにせ文字通りの意味で一心同体ですし。
精霊や神擬きに今さら言われずとも、魔女たる私にはあらゆる魔法があるのだから、愛しい息子の安全には、真っ先に気を配って当然でしょう?」
「おや……では、すでに対策を施しているとでも? そうであれば、是非ともお聞かせ願いたいものですね。私の目には、ラズ様の魂に何の防御も掛かっていないように映っていますが」
「ヴェリタスの眼にも何も映ってないわね」
その構図は、まさに常冬の山での十年間を思わせた。
ベアトリクスは僕を独占し、その優越性に明らかな笑みを浮かべ。
使い魔契約を結んでいない精霊女王とフェリシアは、嫉妬の炎を燃え上がらせる。
僕というチェンジリングを巡って、まさに一触即発のバトルロイヤルが始まりそうな雰囲気さえあった。
「──気に入りませんね。お母君はラズ様を独り占めしたいがあまり、わざとその魂を取り込もうとしているのでは? こと魂の領分に限り、私の目を誤魔化せると思わないで欲しいですね」
「あら、嘘だと決めつけるの? 居丈高な物言いは、時に自らの品位を貶めるものよ。それとも、精霊女王ともあろうものが最低限の礼儀すら身につけていないのかしら」
「否定なさらないのですね」
「──ク。だって、わざわざ否定するまでもない、実に愚かな言い掛かりなんだもの」
「……そうですか。狂った人間上がりには、論理的な話も叶いませんか」
「ちょっと、その発言は差別だわ。この骨頭が極まってるだけよ」
「子鼠……」
(……怖ぁ……)
渦中にいるはずなのに置き去りにされて進む三つ巴の争い。否、煽り合い。
議題は僕の『魂』のはずだが、本質は想い人を巡っての嫉妬や羨望、苛立ちというのが主たるところらしかった。
素直に告白すれば、満更でもない。
しかし、放置しておけば、本当に暴力的展開にもなりかねない。
やれやれ、と僕は嘆息した。
「精霊女王。貴女の目から見て、僕の自我にはどれくらい猶予がありますか? 僕が僕として真に自分を保てるのは、あとどれくらいなんでしょうか」
「ラズワルドまで!」
ベアトリクスが声を上げて抱擁を強める。
「心配は要らないの。ラズワルドのコトは私が絶対に守ってみせるから、キミは不安に思う必要なんてない。そんなコトを気にする必要はないのよ? 私は決して……」
「うん。それは疑ってない。
でも、せっかく女王が僕を気にかけてくれてるんだから、話だけでも聞いておいて損はないと思う」
「ラズワルド様……!」
頬を染めて感動する精霊女王。
ベアトリクスはギッッ、と歯噛みしていたが、程なくして「分かったわ」と頷いてくれた。
その間、フェリシアは横で「ラズワルド君? わたしは? わたしは?」と顔を覗き込んで来たが、適当に喉をくすぐって相手にはしない。
「それで、女王?」
「はい。私の目から見て、ラズ様はあと一回でもお母君と融合を行えば、かつてのご自分ではなくなってしまうかと思われます。
ただでさえ、今の貴方様は危うい。本来のラズ様であれば、ご自分の身命が懸かった際、他人を優先することは無かったのではありませんか?
──魔術師との対決、大嵐との対決。
そのいずれにおいても、ラズ様はお母君の衝動に引っ張られ、自身よりも『子ども』を守るために行動していた。少なくとも、私にはそのように見える余地があった」
果たして、それは本当にラズワルドの意思だったのだろうか?
精霊女王は心から憂いた面持ちで、自らの懸念点を口にする。
「…………」
「もちろん、力なき幼子を守ろうとする行いは、とても素晴らしいものです。特に、あのような終末に立ち向かわなければならない場であれば、尚更に賞賛されて然るべき決断でしょう。
また、お母君の逸話については遠く離れた“壮麗大地”でも噂は耳にしておりました。ラズ様がその背景を慮り、愛する使い魔のため勇気を振り絞ったのだとしても、問題はありません」
ですが、
「もし、もしも──それがご自分の意思ではなく、あくまでお母君の激情に身を委ねるコトを良しとした上でのものなら──たとえそれが最善の選択だったとしても、私は許せません。貴方を想うひとりの女として、そのような倒錯的愚行は断じて看過不可能です」
なぜなら、
「ラズワルド様は、ラズワルド様であるから愛おしいのです。魔女と成り果てたラズワルド様など、私は見たくありません。……きっと、そうなる前に殺してしまいます」
今や“壮麗大地”を統べる唯一となった精霊は、赤い瞳を湿らせ潤んだ殺意を口にする。
片翅を失い、霊格に瑕を負い、それでもなお永久不滅を誇る不死の蝶は、手負いだからこそ譲れぬ本心を打ち明けている。……まったく、真っ直ぐな心というのは、そのベクトルが何であれ美しい。
けれど、
「でも、残念ながら僕がチェンジリングである限り、ベアトリクスの力を借りなきゃいけない機会は、今後も必ず出て来る」
突発的災害。
通り魔的アクシデント。
鯨飲濁流のような話の通じない手合いに遭遇した際、僕が最も頼りにしているのはベアトリクスとの融合だ。
加えて、そもそもの話、これまで憑依融合を封印する、という選択肢を選べるだけの余裕が一度でもあっただろうか。
いざとなれば、僕は生き残るため迷わず融合を選択する。
それは自分じゃどうしようもない。
スイッチを押さなければ死んでしまう、という極限状況下で、果たしてスイッチを押さずにいられる人間がどれだけいるのか。僕には無理だ。
だから、女王の思い遣りはありがたいけれど、どうしようもない。
僕がそう、やんわりと告げようとした瞬間だった。
「隙あり」
「「────!!!!!????」」
一瞬の隙を突かれ、唇を奪われた。
それどころか、舌を入れられ丹念に口内の肉を味わわれる。
自分の舌ではなく誰かの舌が口の中を蠢く快感。
気がつくと、女王は艶やかに睡液の糸を垂らしながら、満足そうに真っ赤になっていた。
ベアトリクスとフェリシアは口をパクパクさせて停止している。
「……え?」
え?
戸惑うこちらに、女王はシュッと宙を舞って、片翅がないためバランスを崩してしまい転倒。
慌てて起き上がり、パッと残った翅で顔を隠しながら、誤魔化すように言った。
「かっ、簡易的にですが、契りを結びました!
本来は身体を重ねる必要がありますが、唇でも効果は多少ありますっ!
これで私と霊的な経路を繋げられたので、お母君と融合しようとすればすぐに分かりますから! も、もう好き勝手はできませんよ?
解除もさせませんっ、私がラズ様を守ります!」
驚くほどの早口だった。
「……えーっ、と、つまり?」
「憑依融合は禁止です!」
「「こッ、この羽虫ッ!!」」
ベアトリクスとフェリシアの奇跡のようなシンクロ。
フェリシアは単純に恋敵の暴挙に対して激昂し、ベアトリクスの方は……どうやら、本当に霊的な経路を繋げられたコトに怒っているようだ。魔女としてどうにか解除しようとしているのか、ペタペタと僕の身体をまさぐってくる。
しかし、
「ふふふ。お母君の力ではどうにもなりませんよ? だって、お母君は結局のところ死者ですから、あの黒鴉神と同じで、私の霊水との相性は最悪です。……まぁ、それは私にとっても同じですが」
「……やっ、て、くれたわね……!」
片や勝ち誇り、片や歯軋り。
……どうでもいいが、キスはともかくとして、勝手に人の身体をいじったり変なモノを流し込んだり、そういうの止めていただけません? これ、僕の話だよね?
「というか、マジか。本気でもう憑依融合できないの?」
「できません」
「できないわ……」
「マジかよ」
「わたしにもキスさせて!」
色ボケフェリシアをベアトリクスが放り投げ、薔薇男爵がボーリングのピンのように吹き飛んだ。
遠くから「なんとォ!?」という典雅な声が谺響する。
──斯くして。
「憑依融合の代替案。すでに僕の身体の中にあったベアトリクスの因子。便宜上、第三の腕とか呼んでましたけど……それを、自分の意思で完全制御する訓練が始まったんです」




