#63 不穏なる帰還
シーズン4 プロローグ
新キャラが二人登場します。
満月の夜だった。
煌々と月明かりの燃ゆる瓦礫街を、ひとりの男が歩いている。
白い髭と曲がった腰。
薄暗な夜道ゆえ、正確な顔つきまでは判然としないものの、杖をついているコトから老人であるのは間違いない。
──コツ、コツ、コツ、と。
老齢の男は少しだけ、慌てたように道を急ぐ。
周囲に人気はなく、また物陰も多い瓦礫街。
人によっては昼日中であっても不安に駆られる街の中、杖を突くほどの老人にとっては、いつなんどき物取りに襲われるかと、内心ビクビクしているのかもしれなかった。
地面を叩く杖音は、先ほどから段々とリズムを早めている。
……しかし。
(ん? あの爺さん、もしかして司教様か?)
寒さの厳しい北部の夜。
秘宝匠の設置した街灯のおかげで路上に雪こそ無いが、地面は固く冷たい。
吹き付ける風も相まって、冬の夜は砂熊のコートかエールでもなければ、おちおち外にも出られないというのが、北方の男たちの常識だ。
それなのに、そんな厳寒の夜道を、にわかには信じ難いコトに素足で歩く者がいる。
下手をすれば、凍傷になりかねない無茶と無謀。
ならば代わりに、さぞや上等な外套を羽織っているのかと胡乱に見据えれば、身につけているのは簡素な修道服のみ。
北部の人間として、当然して然るべき厚着を何一つとしてせず、禿げ上がった頭が余計に寒々しさを増している。
で、あるならば。
彼の老人こそは、城塞都市リンデンにて今は知らぬ者なき高僧にして変人。
かつては欲の皮の突っ張った業突く張りとして、旧黒鉄市民や貧民窟民から、大層嫌われていた教会の司教その人である。
……一年半前の吸血鬼の襲撃を受け、王都からの支援や他国からの移民など、リンデンを取り巻く状況は大きく変わった。瓦礫街と名を変えた旧黒鉄、白鉄門地域もその一部。
未だ嫌われ者であり続けている司祭とは違い、司教に関してはまるで人が変わったように心を入れ替えたと今では誰もが知っている。
富や権勢に執心していた過去を強く恥じ、清貧を体現するべく、私財のほとんどすべてを都市の復興へと投じたハゲ司教。
また、そればかりか、かつてはまったく足を運ばなかった外周居住区にも頻繁に顔を出すようになり、教会の教えを自ら語り聞かすコトもしている変貌ぶり。
無論、たった一年半で誰もに受け入れられているワケではないが、贖罪として行っている素足での苦行や、このところの清き振る舞いを通し、瓦礫街に住む市民たちからは少なくない尊敬を集めつつある。
瓦礫に塗れた街並みを裸足で練り歩き、時折り、血を流しながらも歩き続ける痛ましげな姿。
それを、変わり者と呼んで嘲笑う一部の市民もいるにはいるが、だいたいの者は彼に好意的だ。
そんな彼が、はて、こんな夜更けにいったい何を慌てているのだろう?
(まさか、今さらになって司教様をリンチにしようって奴らもいねぇだろうし)
だが、一応声をかけておいた方がいいのだろうか。
だいぶ持ち直して来たとはいえ、瓦礫街の治安は未だ安定していない。
崩れ果てた二層の壁。
瓦礫と化したかつての黒白。
その建材を寄せ集め、一時的なバリケードこそ点々と作られてはいるが、現在のリンデンで真に安全と言えるのは、やはり至高の赤鉄門のみだ。
瓦礫街に住む市民たち。
自分も含めた大勢の人間にとって、安全でない、というストレスはかなり大きい。
南部からやって来た怪しげな連中──余所者たちへの警戒もある。
自警団気取りの血気盛んな若衆など、この頃は日夜不穏な騒動を起こしている有り様だ。
……一年半前の事件を受けて、自分はどちらかというと聖職者が嫌いな部類に入るのだが。
(憐れな老人に声をかけて、助けが必要か、それすらも確かめたくないほど毛嫌いしているワケでもねぇし)
それに、司教様を助けたと言えば、怒り狂った女房もどうにかその怒りを鎮めてくれるかもしれない。
酒の飲みすぎで手先が震えるようになって以来、自分と妻の関係はあまり良好とは言えなくなってしまった。
悪いのはすべて自分だと分かっているが、それでも手が酒へと伸びてしまう。
呑んだくれで働かずのシルバー。
黒ずみだらけの灰銀とは、まさに自分のコト。
おかげで一家の大黒柱ともあろうものが、こんな夜更けに玄関から叩き出され、ブルブルと寒さに打ち震えている始末である。……ああ、まったくもって情けない。
「やれやれ、と」
シルバーは腰を上げ、よっこらしょと立ち上がった。
──その瞬間だった。
「ウッ、うァ……は、離せェッ!」
シルバーの視線の先、たったいま声をかけようとしていた老人の口から、突如として苦鳴のようなモノが発せられた。
シルバーはハッとし、思わず身を強ばらせる。
誰かの呻き声や苦悶の声。
一年半前の災いを間近で経験した者として、シルバーはそういった人の声が、ひどく苦手になっていた。いや、恐れていると言い換えてもいい。
自分でもどうかしていると思いながらも、心臓の鼓動がドクドクと音を増していき、頭の中がガンガンと揺さぶられるのを止められないのだ。
──心的外傷によるショックだと、医者は語っていた。
この発作が起こると、シルバーは足を一歩も動かせない。
立っているのも辛くなって、最悪の場合は意識を失ってしまう。
酒さえあればこの発作も止められるが、その代償は大きく、今では依存性も併発してしまった。
(っ、クッ──動け、動けよ……!)
はぁっ、はぁっ、と荒い息を零しながら、シルバーは懸命に意識を保とうとする。
だが、シルバーがそうして抗おうとしている間にも、司教は追い詰められますます苦痛の声を上げていた。
その声は尋常ではない。
明らかに、人ではない何かに襲われている。
「ぐ、ががッ、ぎぎっ、ぐがっ、ごっゴッ!?」
シルバーは見た。
顎を外され、白目を剥き、口の中へと強制的に何かを植え付けられる人間の形相。
植え付けられていると思ったのはただの直感。しかし、シルバーには確信があった。
司教の周りには何もいない。
目に見える何かは一切存在していないが、間違いなく、確実に何かが司教のカラダへ冒涜的な行いをしている。
そして、最後に──
「ぉ、ぉおぉ、おおぉぉおぉおおぉぉおおおッ!!」
「資格なし」
司教のカラダが内側から光を発し、透明で冷徹な声が、老人を一気に爆散させた。
§ § §
瓦礫街で司教が殺された。
その報告を聞いた時、アムニブス・イラ・グラディウスの心中に湧いたのは猛烈な怒りだった。
刻印騎士団に入ってからというもの、グラディウスの裡で怒りの念が絶えたコトなど一度としてない。
だが、そんなグラディウスをして、古くから付き合いのある顔馴染みが無惨に殺された事実には、どうしようもないほど胸の内で怒りの念が吹き荒れていた。
──まただ。また、台無しにされた。
仲が良かったワケではない。
というか、むしろ騎士団と教会の過去の確執を思えば、いけ好かないとすら断言できる。
業突く張りのハゲ司教。
記憶にあるのはいつだって、ジャラジャラと装飾品をぶら下げた厚着の法衣姿だ。
しかし、それも今は昔のコト。
一年半前に起きた伝説の吸血鬼による襲撃。
それによる未曾有の災禍と、おびただしい爪痕の数々。
司教は心を痛め、名実共に立派な聖職者へと変わりつつあった。
素足での生活は危ないから止めろと言っても、過去の罪を思えばこれくらい、そう言って苦笑する。
懐に溜め込んだ金銀財宝もすべて投げ打って、豪奢な屋敷も売り払っていた。
近頃は親を失った子どもたちのため、孤児院を開くべく王都の貴族連中に頭を下げる毎日だったとも聞いている。
まさに──いい変化だと。これだから人間は愛おしいと。
グラディウスは心から嬉しかった。
……それが、ある日突然、またしても台無しにされる。
言葉すら、唇がわななくばかりで発せない。
現場には、血と肉と臓物が、まるで内側から弾けたように散乱していた。
原型などいっさい留めていない。
司教だと分かったのは、身につけていたはずの衣服から、靴だけが見つからなかったから。
グラディウスはかがみ、そっと血へと触れながら、数瞬だけ両目を瞑る。
謝罪と仇討ちの誓いはそれで済ませた。
後はただ、速やかな行動を以って結果をもたらすのみ。
「だ、団長」
「なんだ」
「は、犯人はやはり、バケモノ、なのでしょうか?」
「……ルカよ。お前さんはこれが、人間の仕業に見えるのか?」
「いっ、いえっ! ……で、ですが、私としてはなるべくなら人間であって欲しいというか……に、人間も恐ろしいですけど、バっ、バケモノよりかはマシというか……」
「──」
「ヒッ! い、いえ、なっ、なな、なんでもありません!!」
一睨みすると、ルカは慌てて顔を俯かせて沈黙した。
グラディウスは嘆息を堪え、一言「行くぞ」と命じる。
刻印騎士団は全滅し、残された団員はグラディウスを含めて今現在は四人しかいない。
ルカはその内の貴重な一人で、唯一の女性だが、かつて勤め上げていた主な仕事は専ら兵站。
ある事情を抱えているため前線には出れず、食糧や帳簿関係など、持ち前の優秀な頭脳を活かして完全な後方支援だった。
本来であれば、グラディウス自身もそんなルカを連れ歩き、危険な任務になど従事させたくない。
しかし、鯨飲濁流による襲撃から一年と半年。
魔法使いはただでさえ出生数が少なく、また、刻印騎士団へと入団を望む者も、あれ以来一向に現れない状況から他にどうしようもなかった。
人手が圧倒的に足りていない以上、たとえ非戦闘員であっても現場に駆り出さずにはいられない。
他の二人も、さすがにルカよりかは頼り甲斐があるが、一年半前の時点ですでに前線を退いた老兵だった。
彼らにも無理を言って働いて貰っている。腕利きの協力者でも見込めない限り、ルカには申し訳ないが、頑張ってもらうしかない。
「それで、たしか目撃者がいるって話だったか?」
「は、はい! 聞き込みを行ったところ、ど、どうやらシルバーという名の元秘宝匠が、現場を目撃したそうです」
「シルバー? ……そうか。で、そいつは今どうしてやがる」
「え、えっと、なんでも事件のショックから、今日は朝から寝込んでいるらしく……」
「なら叩き起してでも話を聞きに行くぞ。敵の正体が分からねぇ。目撃者がいるってんなら、少しでも情報を集める必要がある」
「は、はい! で、でも、あの、そのですね……」
「……なんだ?」
言い淀むルカ。
その表情に嫌な予感がし、グラディウスは足を止めて振り返る。
すると、
「じ、実はさっき、そのシルバーさんらしき人がこの瓦礫街から抜け出した、という情報提供もありまして……」
…………………………。
「な、なんでも、まるで何かに追われるようだったとか何とか……ヒ、ヒッ!? こ、これってやっぱりマズイですか!?」
「──大いにマズイわ。このバカタレめ! 抜け出した方向はどっちだ!!」
グラディウスは額の血管を浮き上がらせながら一喝した。
§ § §
──そして。
城塞都市リンデン、最外縁部。
黒白の瓦礫街を抜け、外周居住区すら通過した文字通りの壁外世界。
いま、まさに、シルバーと呼ばれる中年の男が、泡を食いながらも駆け出したその先で、事態は急を要していた。
「はっ、はっ、な、何なんだよっ、テ、テメェはいったい──何なんだよ……!」
姿の見えない追跡者。
しかし確実に存在するあやしのモノ。
シルバーは息を切らし、文句を言いながら逃げ惑う。
朝、彼は気がつくと自宅の寝室で眠っていた。
妻に尋ねると、玄関先で倒れていたので慌てて介抱したのだと言う。
それは問題ない。
しかし、シルバーは目覚めたその瞬間からハッキリと直感していた。
──見られている。
何ものかは分からないが、恐らくは昨夜、司教を殺したモノが、ジッとシルバーへ視線を注いでいる。
背中に突き刺さる人外の眼差し。
マズイ、と思ったシルバーは、心配する女房の制止も振り切って、急いで家を飛び出した。
だが、一年以上もの間、どっぷりと酒に浸かり通しだった彼のカラダは、思っていた以上に言うコトを聞かない。
懸命に走り続けたシルバーだが、ついには足を縺れさせ、無様に顔から転んでしまう。
──その隙を、見えざる何かは容赦なく突いて来た。
「ぁッ、がぁッ……ぐぉ……!!」
見えない力に両腕を引っ張られ、ゆっくりと宙へと吊り上げられる。
両足をバタつかせ、何とか支配を逃れようと足掻くも、地面はすでに遠い。
……昨夜の司教と違い、シルバーには走って逃げ出すだけの体力がある。
どうやら怪物は、確実にシルバーを標的としているようだ。
(──ち、ちくしょう……ちくしょう……ッ!)
運がない。
あまりにも運が無さすぎる。
この一年半、シルバーには少しも良いコトなど無かった。
吸血鬼の恐怖に心を蝕まれてからというもの、シルバーが手がけた作品には何の奇跡も宿らない。
聖銀のシルバー、輝ける銀の腕。
それが今では、黒ずみだらけの灰銀と揶揄される毎日。
秘宝匠として認められた際に組合から与えられた看板も、疾うの昔に没収された。
酒に逃げ、酒に酔い、女房には管を巻いて呆れられる。
そんな、ゴミのような生活。
(挙げ句の果てには、こうして正体すら分からない謎の怪物に殺されると来たもんだ)
それも人知れず。
誰にも看取られるコトなく。
瓦礫街を走り抜け、人気の少ない外周居住区すら抜け出して、せめて周囲に他の犠牲者が出ないようにと頑張ってしまったが。
(オレはいったい、どうしてここまで頑張っちまったんだ……?)
締め付けられる四肢と喉。
酸欠による息苦しさと耐え難い激痛に、後悔と自嘲の笑みさえ溢れ出る。
怪物は、今やシルバーの口をギチギチとこじ開け、何かを捻じ入れようとしていた。
────そこに。
「“火”」
「ッ!?」
真円を描く光の軌跡。
暖かに燃える火炎の一撃が、シルバーを襲っていた何ものかへと猛スピードで直撃した。
途端、何ものかは甲高い悲鳴をあげてシルバーからバッ! と離れる。
「ゲホッ、カフッ、……な、なんだ?!」
状況の目まぐるしい変化。
空中からドサッ! と地面に墜落したシルバーは、咳き込みながら辺りを見渡す。
すると、
「居るね。見えないけど居るのは分かる。ねぇ、無闇矢鱈と人間を襲うより、どうせなら僕を選んだら?」
「な──」
シルバーは青ざめ、言葉を失った。
黒い髪。青の瞳。
それは人でありながら、人ではないモノ。
赤子の頃よりあちら側に見初められ、厄災招く呪われ子。
名を──妖精の取り替え児。
杖を片手に虚空を見上げ、シルバーの命を救ったのは十二歳ほどの少年だった。




