#62 雨上がりの空
──厳かな静寂だった。
雷の音、倒木の音、土砂の崩落。
荒れ狂う大嵐によって奏で上げられていた、“壮麗大地”を覆うすべての轟音。
鼓膜にこびりついた激しい残響は、未だ耳の中で谺響している。
……だが、
「────lou……」
穿たれた逆鱗。
刺し抜かれた喉。
大量の血を吐き零しながら、巨龍は小さく声を鳴らし、ゆっくりとだが、確実に地面へ倒れ込んでいた。
空を塗り潰していた積乱雲も、緩やかにだが霧散していく。
絶望的だった大魔力による威圧も、今では薄らと弱まった。
生命を蝕む『死』──生あるモノでは決して抗いようのない冬のチカラ。
それが、巨龍の身体を優しく包み込んで、もう離さない。
ベアトリクスの白い手が、完全にその魂を掌握したからだ。
文字通りに、氷雪が巨龍を覆っていく。
パキリ、ポキリ。
パキリ、ポキリ。
鈍色の鱗は見る見るうちに雪化粧を施され、黒々とした二本の巨角の内、一本が途中でへし折れる。
しかし、それ以外は鬣の一本、鱗の一枚すら逃すコトなく、全身が裏返るように凍っていった。
──縦に裂けた真紅の瞳孔も、次第に光を失って。
「ッ……ウッ!」
「ラズワルド!」
限界を超えた魔法行使。
短期間の内に連続した長時間の憑依融合。
堪え切れない吐き気と頭痛から、僕は思わず意識を手放しかけた。
集中力と緊張感の途絶。
咄嗟に憑依融合を解いたベアトリクスが身体を支えてくれなければ、僕は墜落死していたかもしれない。
大嵐の喉元から飛び降り、ベアトリクスがふわりと着地する。
「大丈夫?」
「……うん、ありがとう」
礼を言いながら地面に足を下ろす。
もはやこの場に、差し迫った危険はない。
砕け散る氷の瓦解音を背中にしながら、僕は必死になって足に力を入れた。
体力、気力、ともに限界。
ここまでの道のりで必要として来たあらゆるすべて。
それらがとうとう底を尽き、少しでも均衡が傾けば、あっという間に決壊してしまいそうになるのを自覚する。
ベアトリクスから注がれる気遣わしげな眼差しも、今に限っては受け入れたくない。
一歩、また一歩。
重たい足を動かして、少しづつ彼のもとへ向かう。
群青に犯された右腕がパラパラと破片を落として元の機能を取り戻していくが、そんなコトでは何も気休めにならなかった。
むしろ、彼の輪郭が段々と明瞭になって、その姿がハッキリと確定していくコトの方が、遥かに重大で……
「────ぁぁ」
十分に近づき、これ以上はもうどうあっても認めざるを得ないという距離まで来たところで、僕はそう、深く──深く息を吐くしかなかった。
根元から倒壊した大樹。
雷火によって酷く炙られたのか、半ば以上が黒く炭化した横倒し状態のそれ。
背中を預ける見慣れた法衣と、罅の入った丸眼鏡だけが、数少ない名残りだった。
──腕だけなんて軽い話ではない。
大嵐の魔力を、頽廃の権能を、最大限まで押し留めるには、きっと、すべてを使い尽くす覚悟が必要だった。
男の左半身は、その顔の半分まで獣と化すほどに魂を奈落に染めていて。
柔和で穏やかだった顔つきは、牙を剥き出しにした恐ろしいモノへ変わっていた。
それだけではない。
矢を番えたはずの右腕。
左腕が弓と一体化していた以上、鏃の呪いを一手に引き受けざるを得なかった人間の部分。
旅の道中、あんなに美味しいスープを作ってくれた彼の右腕は、その半身ごと犯し尽くす勢いで変容させられている。
しかも、こちらは左側ほど優しい変化ではない。
龍の怒り、龍の憎しみ、龍の怨嗟。
よりにもよって、同胞を殺害するための武器として現世に呼び戻されたドラゴンの呪いは、自らを利用した不遜な人間に対してどこまでも無慈悲だったのだろう。
それは、言葉にして形容できる姿形ではない。
骨も筋肉もめちゃくちゃにされて、人としての原型などほとんど留めておらず。
鉤爪や牙と思しきモノが、肉体を内側から食い破るように突き出ている。
だというのに、そのどれもが、あくまで人間の身体を作り替えただけなのだと分かってしまう残酷さ。
苦痛を与える──ただそれだけのための、純粋な悪意から為された復讐……
「っ…………アアァッ!」
ガクリ、と膝から下が力を失った。
全身を襲う喪失感が、ゴッソリと何かを奪い去っていく。
もう戻らない。
何もできはしない。
彼は永遠にこの姿のまま、無惨にも世界へと縫い止められた。
その理不尽を、非情を、いったい誰が分かるというのだろう。
いったい誰ならば、彼だと理解し受け止めてくれるのか。
変わり果ててしまった顔形。
人が持つあるがままの心では、あまりにも正視に耐えないというのに。
きっと、人々は言う。
何とおぞましいバケモノか、何と見るに堪えない怪物か。
──だが、だが……!
「ありがとう、ありがとう……! 貴方のおかげで僕はっ、僕たちは生き延びたッ! 貴方が生きて歩き続けてくれたから、たくさんの命が救われたんだ!」
たとえ、多くの者に認められぬ偉業だったとしても。
たとえ、誰にも理解されない最期だったのだとしても。
その軌跡は、その苦難は、決して無意味だったモノではなかった。
……人々は知るまい。
“壮麗大地”などという最厄の土地で、人知れずひとりの男が世界を救った事実など。
ましてそれが、たったひとりの見事なまでの献身によって成された事実など。
しかし、僕は知っている。
ゼノギアという男がその人生で何を尊び、何のために頑張って来たのか。
善なるモノを愛し、それは良いものなのだと深く信仰し、実際に人々の和の中に交わるコトで、その想いをより深き確信へと変えた。
だからこそ、嘆きもしたし苦しんだのだ。
何より、自分で自分を許せないという罪悪感の檻が、長きに渡って彼自身を閉じ込め続けたから。
──けれど、そら、見るがいい。
ゼノギアの背を支える一本の倒木。
黒く炭化しかけた大樹の後ろ、見渡す限りの緑たちを。
前方には何も無い。
大嵐の巨龍が発した頽廃の力によって、ポッカリと広大なスペースが生まれてしまっている。
だが、ゼノギアより後ろ、その背後には……何ひとつとして失われたモノなど無いッ!
……その事実が意味するのは、たった一つの真実のみだ。
すなわち──
「──守り通した。ゼノギアさんは僕らを、ちゃんと守り抜いたんだ……!」
まさに、偉業。
これぞ人の成し得る臨界点。
弱く、愚かで、どうしようもない。
それでいて、時に何より誇らしく輝きを放つ人間の究極。
ゼノギアは、命を賭けて証明したッ!
人間の価値は、人間の想いは、人間の尊厳は、天にも劣らない。
たとえその命尽き果てようとも、後に残す未来を得るため。
自分のためだけでなく誰かのために善き行いをする。
それこそが、ゼノギアという男が最後に行き着いたひとつの解答。
……僕はゆっくりと、震える両手でその目蓋へ触れた。
この男が苦しむコトはもう二度とない。
ならば、せめてその死後だけでも、生きている間に与えられるべきだった安息をと希う。
彼の生き様と、その成し得たモノの意味を噛み締めて。
そして、ほんの少しの恨み言を一言。
「……なにが、諦めたワケではありません、だ」
最後の最後につかれた嘘。
大人として、子どもを守るための仕方がない方便のつもりだったのか。
あるいは、そうでも言わなければこちらが動けないと端から見透かしていたか。
どちらにせよ、ひどい話だとそう思う。
業魔に転変した魂で、取り替え児である僕に背中を向けて騙した。
これじゃあ、僕はまるで二重の意味で裏切られたようなモノじゃないか。
奈落に堕ちりて尚も不変。
生成りの状態から二度、三度と正気に立ち返った異例の男は、さすが、その生涯においても堅き信条の人だった。
ゼノギアの存在を、僕は決して忘れない。
──ありがとう、さようなら、優しかった人。
僕はそれから、しばらくの間、亡骸の傍で静かに泣いた。
雨上がりの空、どこかで遠く鳴く獣の声を耳にして──
シーズン3『神と人の天秤』──了
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