#58 叡智邪視
紫電が爆ぜ、肌を引き裂くような突風が、拳とともにやって来た。
鈍色の中に轟くような稲光。不思議な光沢を持つ龍の鱗。
この世の物質の何よりも硬く、何よりも鋭いその体組織は、触れただけでも容易く生命を削り取る。
──ゆえに、その瞬間、僕の脳には一欠片の迷いも躊躇いもありはしなかった。
(ッ、ベアトリクス!)
口にするより早く想いは生じる。
生じた想いは癒着した魂を通じ、すぐさま半身まで。
比喩でも何でもなく、純然たる事実として生命を共有している使い魔に向けて、僕は願いを伝えた。
後のコトなど考えている余裕はない。やらなければ死ぬ。だからやるのだと。
──子の覚悟に、母は応えた。
「Lou──la──!」
「ッッッ!!」
奔る紫電の焦熱に目を見張る。
数瞬遅れて訪れた凄まじい風をギリギリで避ける。
纏う黒衣は最強の鎧。
被った骨面は最強のペルソナ。
文字通り母の愛に包まれて、それでもなお背筋を襲う破壊の恐怖。
あとほんの少し憑依融合が遅れていたら、自分は間違いなく今ので終わっていた。
嫌な確信についクソがと悪態をつきそうになるも、しかし現実は遠慮斟酌などせず、依然、続いている。
人間では感じ取れないスローの世界。
女神のカタチを真似た『大嵐』が、上気した頬を裂けんばかりに歪めている。
どうやら、久方ぶりの本能の遂行に、よほどテンション高く舞い上がってしまっているらしい。
振り抜いた右拳の勢いそのまま、回転するように龍尾が来た。
「ヒトガタ取るなら尻尾も外せよな……!」
しなる鞭に見えるが実態はそれより酷い。
高圧電流が常時流れる有刺鉄線つきの破城槌みたいなものだ。いや、もっと最悪。
(とにもかくにも……!)
僕は死ぬ気でそれを躱した。自分でも信じられない瞬発力だった。瞬発力ついでに、大きく跳躍し脱兎のごとく駆ける。
すると、大嵐はやはり思った通りにグルリ! とこちらを追った。
顔だけなら笑顔の美女。
けれど本質は殺人鬼とかと変わらない。ヤバい。
「ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいッ!!」
言いながら一目散に目指すのは“壮麗大地”の南側。
もともと大嵐が眠っていたはずの方角目掛け、僕は全力で疾走する。
黒鴉神を殺し、精霊女王を叩き潰したいま、現在の大嵐にあるのはチェンジリングへの執着心だけだろう。
すでに樹海は計五つを超えるスーパーセルに囲まれ逃げ場が無い。
囲んでいるだけなのはありがたいが、竜巻や落雷もランダムに発生しているし、こちらはもう袋の鼠だ。だから、そういう意味では、この逃走に根本的な意味なんかは無い。
(──けど)
背中にした守るべきモノを想う。
培養混血児。ホムンクルス=カムビヨン。総勢六百の無垢。
この思考は、間違いなく僕でなくベアトリクスの思考だが、だとしても否定はない。
子を想う母親の気持ちが無ければ、かつても今も、とっくに終わっている。
ならば報いよう。
自分の中の大事なモノと、彼女の抱く大事なモノとが重なり、結び付き、ともに向かう先を同じくしている限り、僕らの想いは何にも負けないのだから。
──だから。
「頼んだッ!!」
「ラズワルド君!!」
「っ、まさか!?」
フェリシアの声にも振り向かない。
唖然とするゼノギアには心の中でそうだと頷く。
必要以上の言葉は要らない。
深淵の叡智が無事である限り、最適解は必ず導き出される。
時間が足りないというのなら、その時間を何としてでも用意してやろう。
「だから来い天災……!」
僕はこっちだ。
お前たちの大好きなチェンジリングはここにいる。
「壊したければ、ついて来い──!」
「Louu──!」
生死を賭けた地獄の時間稼ぎ。
ベアトリクスとふたり、僕は最大限まで同調を深くした。
§ § §
大嵐がラズワルドを追っていく。
木立に紛れ、黒衣を翻す魔女の寵児。
紫電纏う破壊の王は、高らかな喜悦を携えその背を追った。
「────そう」
こちらのコトなど振り向きもしない。
黒鴉神も精霊女王も、大嵐は歯牙にもかけなかった。
だから、同じドラゴンの中でも、間違いなく上位に来るはずの伝説のドラゴンとしては、それはきっと、あまりに当然すぎる振る舞いなのだろう。理解はできる。
スケールの差はあれ、同じような光景は何度も見ているからだ。
フェリシアは識っている。
強大な力を持った存在というのは、得てしてああいうモノだ。
人間が蟻を、そうと知らずに踏み潰してしまうのと一緒。
たとえ視界にこちらが入り込んでいたとしても、向こうにとってそれが足元の小石やダニのようなモノでしかないのなら、意識の内側には入らない。
人間が常日頃、無意識の内に重要な情報とそうでないゴミ情報とを見分け、瞬時に選択・判断しているように。
チェンジリングでもない限り、大嵐はフェリシアたちなど眼中にすら収めてくれないのだ。
それこそ、宙を舞う木の葉や風に揺れる雑草程度、背景も同然に。
「────そう」
かつてであれば、仕方がないと素直に受け止めた。
人と魔のパワーバランスは後者に傾きがあり、人間は弱く、立ち向かったところで一方的に嬲り殺される。
少なくとも、大半の人々にとってはそれが常識だったからだ。
……しかし、
(今のわたしは、もうその枠にはいないのよ)
大半の人々?
もはや人ですらなく尋常の魔ですらない。
この身、この魂に刻むのは、たったひとつきりの想いだけ。
好きで、好きで、好きで好きで。
どうしようもないほど好きで愛おしくて、彼の微笑みも穏やかな幸福も全部が全部独り占めしたくて堪らないのに、でも、それはイケないコトで。
型に嵌めた怪物像。
そうした上辺だけの形をなぞるように留めていたら、彼の方から『許し』をくれた。
だから止められない。もう抑えられない。溢れて溢れて、零れて零れて、堰き止めようとしたって際限なく湧き出て燃えるように噴き上がってしまう。最後はきっと、ドロドロのトロトロだ。
そんな自分だからこそ、
「────敵ね」
明確に、完全に、認識の歯車がカチッと切り替わっていた。
終末の化身? 破壊の権化? 神の眷属?
大嵐司る滅びの巨龍。なるほど、たしかにそれは凄まじいけれど、
「で?」
だから何だ。それがどうした。
ご大層な肩書きばかり並べたところで、アンタの愛はつまらない。つまらないし足りていない。このわたしの、身悶えるような『愛』に比べれば……ははは、なぁにそれ。塵?
失わせ、喪わせる。
そんな想いにいったい何の価値があるのやら。
「だから」
瞬間、フェリシアは更なる奈落へ、身をトプリと沈み込ませた。
無論、比喩である。
だが、ラズワルドも言っていたように、人から転じた魔の強さは想いの強さ。
恋敵に対する怒りと嫉妬、憎悪と怨嗟は魂を奈落色に深めゆく。
──夜の女王とは、御伽噺の魔物。
悪魔たちの母、悪霊たちの女主人、貪欲なる魂喰い。
一説には血を啜り、万物の生命を奪うとも囁かれる。
大昔に退治され、その肉体、精神、魂とが三つに分かたれ、それぞれ吸血鬼、淫魔、蛇乙女の因子へと変わったと云われている。
ゆえに。
「“瀞み融け蕩う夜の娘” ──持って行きなさい、そして働くのよ!」
フェリシアは溶かし喰らった獣神たちの魂を、純粋なる魔力に換えて己が使い魔へと供給した。
さっきまではできなかったコト。しかし今ならできる。
本来であれば、我が身を削り潰してでも守らなければいけない想い人に逆に守られる。
そんな不甲斐なさを一刻も早く拭い去るには、足りていない魔力を他所から持ってきて補うしかない。
ラズワルドはヴェリタスの“叡智”を頼り、囮になった。
ならば、彼の恋人として、フェリシアは必要なコトをするだけ。
現状、掻き集められるだけの魔力はすべて掻き集めた。
だから──!
§ § §
主の声を、使い魔は聞いた。
送られてくる魔力に不足はない。
額の真眼はかつてないほど未来を模索している。
必要な燃料は揃った。
あとは演算に必要な時間だけ。
ゼノギアの背中にしがみつきながら、ありとあらゆる知識を総動員し魔法を解き放つ。
叡智を求め、叡智を欲した。
その昔、未だ自分がヴェリタスではなかった頃。
ある学院を騒がせた脳吸いの怪異でもなく、本当に、ただの人間の一学者に過ぎなかった大昔。
物語の賢人に憧れて、実在する賢者の偉業を聞く度に、己もまたそうならんと道を欲した。
人から転じた魔は、ほとんどの場合、前世の記憶を大なり小なり欠損する。
しかし、“叡智”を手に入れ“真理”すら修めた己は、聡明すぎる世界で何も忘れられない。
仮に忘れたとしても、ほんの少し「何だったかな?」と想うだけで、過去はたちまち詳らかになっていく。
だから、今も昔も、ヴェリタスはずっと覚えたままだ。
はじめは簡単なコトだった。
書物を読み、知識を蓄え、物事の道理を弁える。
時には誰かに教えを乞い、師事しながら、世界の仕組みをひとつひとつ勉強していった。
そうすれば、人々の生活をより良く変えていけると信じていたからだ。
氾濫する川には堤防を作ろう。
干魃に対してはそれまでの農耕のやり方を変え、土から変えていこう。
蝗害が厳しいなら訓練した鳥を放てばいい。
魔物だって、いつかは適切に対処できる。
賢くなれば、人は強く生きていけるのだ。
そのために、叡智を求め叡智を欲した。
──しかし、
(どれだけ学び、どれだけ時間を費やそうとも……)
崩れる時は一瞬。
無駄な足掻きだと、無意味な努力だと、世界は嘲笑い腹を抱えて哄笑するばかり。
生まれ育った村も何も、抗い難いチカラの前ではどうするコトもできなかった。
別に、特段劇的な悲劇だったワケでもない。
世界中、どこにでもある、ただ運が悪かっただけのコト。
親も友だちも、たぶん好きだった幼なじみも、皆ゴブリンに殺された。ゴブリンにだ。
だから分かった。
人の身では足りない。人のままでは届かない。
生きて世の中を変えるには、人間はあまりに脆くて儚すぎる。
頭の良さだけが取り柄のヴェリタスは、じゃあどうすればいいのかが分かってしまった。
分かってしまったから、在籍していた学院の同僚たちを殺し、その頭を噛み砕き、脳を啜った。
人の叡智が届かぬなら、魔性の叡智で以って届かせよう。
魔術師リュディガーは業魔転変を人の手で叶えるまでに至っていたが、ヴェリタスは人魔転変を独力で叶えている。
意図的に、たしかな意志を持って。
それを狂気と罵るならば、否定はできない。
たしかに狂気なのだろうと自分でも認めている。
人の道を外れた行いには、必ずや断罪の正義が訪れるとも。
──しかし、だとしても……
(ワタシゃ、死ぬワケにはいかないんだ)
死んでしまえば夢を叶えられない。
生きていなければ義務を果たせない。
ゆえに──!
「──視えた。走りなッ、小僧!」
「え、えっ!?」
巨龍などというフザケた存在に、ヴェリタスは許容を認めない。
神が敷いた摂理など、積み上げた叡智で必ず解体してみせる。
万象紐解き万物見透し、我が真眼は邪悪を以って『希望』を見出すのだから!
ヴェリタスはゼノギアに言った。
「勝利の鍵は、オマエさんが握ってるッ」




