#57 女神ノ肉叢
──その現象を初めに理解したのは、やはり叡智の三眼だった。
無辺の夜天から降り注ぐ死の光星。
原初の胎海は地より溢れ出で、万象抱き締める蒼き大海嘯が大量の木の葉を散らす。
夜光の黒鴉と緑化の水精。
“壮麗大地”にて幾星霜もの永き時、互いに『王』として君臨し続けた二体の大魔。
そのぶつかり合いは正真正銘の天変地異であり、もしも衆人の目に留まっていたならば、間違いなく新たなる神話・伝説として語り継がれただろう。
吟遊詩人の歌になるには、何ら不足は無い規格外。
──しかし。
(時が、止まった──)
実際に大魔法の行使中であった黒鴉神も精霊女王ももとより。
恐らく、“壮麗大地”にいたすべての存在が、その瞬間、たしかにその錯覚を得た。
停滞でもなければ遅延ですらない。
現実味に欠けた荒唐無稽。
あまりにも受け入れ難い現実と直面してしまった時、人がつい逃避を選択してしまうのとも違う。
──停止。
それは、錯覚であるのは明らかに確定的なはずなのに、何故かそう感じざるを得ない問答無用の体感。
……つまり、
(黒鴉神や精霊女王をも超えた──大魔力)
“壮麗大地”全土に渦巻いていたあらゆる魔力を、瞬く間に己の色で上書きする神域の我意。
冥き夜の領域も、清水の花園たる領域も。
およそ千年単位で築き上げられてきたそれぞれの異界が、本当に、ただの一瞬で犯され塗り潰された。
──永き時を重ね、半ばその土地その空間その場所そのものにも等しい在り方を得た古き魔性は、言うなれば世界と同化する。
ゆえに、
(発生年数が千年を超えているヤツらは、程度の差はあれ、望むと望まざるにかかわらず、自分の周囲を自然と自分色に作り変えてしまう……)
滲み出る強大な魔力。
何気なしにやった行動。
そういったものが知らず知らずの内に、一種の異界領域を構築してしまうからだ。
これは何も魔性に限った話ではない。
人も獣も、生きていれば生きているだけで、その痕跡や、周囲へと与える影響、分かりやすく言えば『生活感』が出てくる。
精霊女王の庭城が、童話の森というカタチを得ていたのを覚えているだろうか?
アレは庭師である薔薇男爵による趣味も多分に混じっているだろうが、“壮麗大地”が如何に特殊で類まれな土地だとしても、アレほどまでに異なる景観、異なる世界を成り立たせている以上、やはり精霊女王の深大な存在力が、『土地』そのものに染み込んでいると認めなければならない。
獣神である黒鴉神については言うまでもなく。
……だからこそ、
「──グフッ! っ、ようやっと目覚めたか……吾が宿敵よォォッ!!」
「かハッ──」
片翼、捥がれ。
片翅、捥がれ。
己が世界、引いては己そのものをも半ば奪い取られながら、一方は狂喜し一方は地に沈んだ。
──風が、ゆっくりと、回り始める。
終末の風。
破壊の嵐。
島の自殺細胞である巨いなる龍が、永き微睡みから醒め、ついにその目蓋を開ける。
彼の意思が望むのは、自らの眠りを妨げた不遜なるモノへの怒り。
ほんの少しの身動ぎが、星と海とを横薙ぎに刮ぎ始めた。
「……バケモノめ。余計な気を遣ってくれたな」
黒鴉神と契約していた魔術師が溜め息を零すように呟く。
……そう。コレは精霊女王が恋を知り、黒鴉神が星落としを実行した時点で決まっていた、絶対に逃れられぬ既定の運命。
魂の正負。
互いに担いしは相反する方向性なれど、その本質は変わらない二体の大魔。
獣神の王と精霊の女王。
ぶつかり合えば、“壮麗大地”はかつてない驚天動地に見舞われてしまう。
──もし、精霊女王が恋を知らなければ。
(黒鴉神が星落としを決行したところで、精霊女王は自らの領域だけを守っていればいい)
馬鹿正直に真っ向から相手にせずとも、スプリガンもいるのだから王国の守備は万全だ。
それにそもそも、精霊は精神霊。
本質が肉持たぬ霊である以上は、大規模質量による破壊など大した意味は無い。
精霊にとっては、あくまで日頃の『存在証明』が霊的強度に直結する。
だから、黒鴉神がいくら暴れたところで、それは結局悲しい一人相撲。
精霊たちは星降る夜が過ぎ去った後、ゆるりと観劇を始めればいい。
その結果、遥か大昔がそうであったように、巨龍は黒鴉神に対して一瞥もくれず眠り続けるコトになる。
──だが、
(人と魔との間に結ばれた絆のチカラ)
ラズワルドとベアトリクス。
その他、フェリシアや精霊女王もそうであるように。
魔術師と夜羽も、自覚の有無はどうあれ心を通わせていた。
そして、想いの交わり合いは、互いの心を強くする。
だから──
「Lou、lou……louuu……!!」
La──と。
震え、透き通る、覚醒の叫びが、まるで打ち払うように『夜』を破砕した。
砕け散る夜の羽。
舞い散る漆黒の翼。
罅割れの空を、陽光が槍のように突き刺し照らす。
──そして、今や白光と燃え上がる視界の中、冥き夜の獣王はようやく……
「嗚呼、やっと、吾を見てくれたなッ!」
「Louu、laaaaaa──!!」
自分でも何故だか分からない、ほんとうに、小さな小さな満足感とともに──闇の世界へと逝った。
帰ってくるコトは、もう、二度とできない真の暗闇の中へ。
──然れど。
然れど、終末は止まらない。
大嵐はこの程度では収まらない。
動き出した巨龍の眼には、すでに懐かしくも愛おしき妖精の取り替え児が映っているから。
破壊の化身が抱く愛のカタチは、破壊だけ。
「マズイね、こりゃ……」
ヴェリタスの脳に、最悪の未来が連続する。
§ § §
黒鴉神が逝き、恐らくは精霊女王が戦闘不能になった。
太陽の光が空から射し込み、それと同時に落下途中だった隕石と、地表をまるで盾のように覆っていた大瀑布が横薙ぎに削られ、次第に霞のように消えていく。
風は緩く、しかし直ぐにでも突風に変わり、やがて雨や雹、落雷、竜巻なども現れ始めるだろう。
「……射し込んだ陽光も、分厚い暗雲に遮られる、か」
ポツリ、と零した呟きは思っていた以上に寂しさを伴った。
別に、黒鴉神に対して思うところなんて何も無い。
なにせ、ついさっきまであの獣神とはバチバチに敵対していたし、こうして厄介な状況を起こされた今、正直、死んだ後ですら好感は持てそうにないってのが素直な気持ちだ。
けれど、
(アレほどの存在が、最期は焼死──?)
遥か上空すぎて詳しくは見て取れなかったが、さすがカース・オブ・ゴッデス。
魔境中の魔境と言える“壮麗大地”において、その三大に数えられた古き一角。
冥府の王であり隕星の支配者であったモノが、ただの一撃。たった一撃で滅ぼされた。
僕も、普通の人間とは決して言えないけれど、それでも、ちっぽけな一人間として、何だか非常に遣る瀬無いものを感じてしまう。
この世界は、どこまでも力がすべてだ。
「まったく……つくづく思い知らされるよ」
「ラズワルド……」
顔を覆い、俯きながら思わず呻く。
ベアトリクスが気遣わしげに肩を抱き寄せてくれるが、コレは今後も、何度だって繰り返されるのだろう。
確信だ。
僕が僕としてこの世界で生きていく以上、人智を超えたクソッタレな不合理はこの先何度も訪れる。もちろん、頭では分かっていたつもりだ。
常冬の山。城塞都市リンデン。“壮麗大地”に来るまでの道すがら。
こうなるはずだとか。こうすればいいに違いないとか。そういう思惑を幾度も目の前で踏みつけにされ、実際に塗り替えられる度に、僕は分かったつもりを繰り返してきた。
そして今も、結局は同じコトを繰り返しているのだろう。
──分かっている。所詮人間だ。どうにもできない現実はいくらでもある。
(でも、だから仕方ないは此処じゃあ許されないんだよ)
指の隙間から周りを見る。
僕がこの場で何よりも優先し守らなければならないのは、自分を含めた『子ども』の安全。
外道な魔術儀式からせっかく助け出せたのに、またぞろ死なせる羽目になるとか、許せるワケがないだろう。
ゼノギアは無事だ。フェリシアも消耗はしているが頼りになる。ベアトリクスは使い魔で一蓮托生。
リュディガーたち他の人間たちは最悪どうなっても構わないが、現行犯兼証人としてできれば連れ帰りたい。は? オイオイ、僕としたことが欲張り過ぎちゃいないか?
けれど、
(それを貫き通せなけりゃ、どのみち終わりだ)
よし。ここで把握していてもあまりどうにもならない原作知識を開示しよう。
大嵐の巨龍は超巨大積乱雲を同時に複数生み出し操る。
副産物として竜巻や落雷、豪雨、雹も自由自在に操ってくるし、およそ『嵐』に包括される概念は完全にヤツの忠実な手足だ。
加えて、カルメンタリス島のドラゴンが持つ『自殺細胞』としての特性。
破壊の化身であり終末の権化。
ドラゴンならたとえ猫くらいの大きさでも一国を滅ぼせる。
カース・オブ・ゴッデスでは、何故これほどまでにドラゴンが恐れられているのか。
大半の怪物は人間にとって等しく脅威なのに、何故ドラゴンだけが特別扱いされる?
答えは──そう。
「おお、神よ……女神カルメンタよ……!」
ガクリと膝を着き、感に堪えないといった顔で嵐を仰ぐゼノギア。
他にも、数人の人間が地面に額をつけたり茫然自失となりながら、同様に『神の名』を口にし始める。
神、カルメンタ。
これまで僕は、この女神に対してできるだけ詳細な思考を避けて来た。
それは、僕がこの世界をカース・オブ・ゴッデスの世界と認識しているからで、カース・オブ・ゴッデスがファンタジーであるからには、神と呼ばれる高次存在がたしかに実在している事実を理解していたからでもある。
──カルメンタリス島。
そもそもの話、僕たちが今こうして足を下ろしている島は、創造神カルメンタの名にあやかり名付けられたとされている。
しかし、教会が布教している教えの通り、神カルメンタが本当に万物の創造者であるのならば、世界そのもの。
すなわち、天と地も、あらゆるすべてが創造神カルメンタの生み出したモノというコトになってしまう。
──では、当の神カルメンタ自身はどのようにして?
無から有は生まれない。
言っておくが、そこだけ都合よく「まぁ、神話なので」と誤魔化すようなら、人間もバカじゃない。
賢い何人かは必ず疑問を持つし、疑問は疑念となり、やがて不信となって人々は教会を弾劾するだろう。
あるいは、異なる学説、異なる意見として、異端の勢力がもっと勢力を強めているはずだ。
だが、この世界、教会は人類社会に広く受け入れられ、多くの信徒がその教えを正しいと認めている。
つまりだ。
(神の名にあやかってカルメンタリスってのは若干語弊があるんだよ。より正しくは──)
──島それ自体が神そのもの。
「別名、女神ノ肉叢──カルメンタリス」
今なお生き続けている島のカラダの上で、僕らはたまたま呼吸を許されている。
ゆえに、島の自殺細胞──アポトーシスたるドラゴンとは、女神が自らの肉体に飼う島の調律師。
島の状態をより長く、より健全に保つため、自ら滅びを招く『女神細胞』でもある。
(……まぁ、そんなコトを言えば他の種族も多かれ少なかれ女神の細胞みたいなモノだけど)
下手をすれば神のカラダに寄生する細菌も同然。
……ここだけの話、そも神が人間を己の似姿を象って創ったのなら、人間が魔へ転じるのは果たして何故なのか? という話にも繋がる。
とはいえ、ドラゴンはその中でも群を抜いて、女神の因子が強い。だからこそ、
「──忘れてた。ドラゴンは、皆どれも美しい女のカタチを取り得るんだったな」
「Lou、lou、|louuuuuuuuuuuuaaaaaaaaaaaaaaa──!!」
着地と同時に地盤を踏み抜いた女神の切れ端。
美しい女のカタチを取っていても、その身から生じる魔力と禍々しさは、到底隠しきれるモノではない。
角のように揺らめく髪。艶めかしくも厳かな鱗肌。縦に裂けた瞳孔はまさに魔性のそれ。
どこかの小川で、神父は言った。
其は鉄よりも硬く、黒曜石よりも鋭い、偉大なる……
「──神の獣!」
tips:カルメンタリス島
別名、女神ノ肉叢。神の聖体。
教会に曰く、「世界とは神であり、神とは世界である」
カルメンタリス島に棲まう人間は、カルメンタリス島以外の場所を知らない。
否、正確には知り得る術を持たない。
脱出は現実的でなく、たとえ死んだ後とて魂は安息の外。
魔へ転ずるか、魔の餌食か。
どちらにしろ、島の理から魂は逃れられない。
ゆえにカルメンタリス島人類にとって世界とは島そのもの。
女神(島)の敷いた法理の中で、人も魔も生きるしかないのである。




