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#56 獣神と精霊




 星が、迫る。

 光が、迫る。

 逃れ得ようのない大質量。

 煌々と燃えながら、しかして何処か薄ら寒い。

 死というモノが持つ暗闇の美しさ。

 死というモノだけが許された冷たい輝き。


 黒鴉神の魔法は、まさに荘厳だった。


 夜空より飛来する流星群がごとき死の雨。

 悠然と大気を炙り、人の視覚ではスケールが違いすぎて、およそその速度すら真逆に錯覚してしまう。

 実際はとてつもない勢いで落下しているはずなのに、一つ一つの接近が、まるで視界をミシミシと圧迫するみたいで脳の処理が間に合わない。

 そして、脳の処理が追いつかないというコトは、傍目には棒立ちしているようにしか見えない思考の停止状態だ。


 ──マズイ、と理性が警鐘を鳴らしても。


 迫り来る巨大な危機に、頭蓋の奥は錯覚したまま。

 錯覚を錯覚だと正しく認識しているはずなのに、身体が目の前の錯覚を、あくまでも現実と誤認しているせいで筋肉が上手く動かせない。

 心の中では焦りが生まれ、どうにかしなければと(しき)りに火を焚いている。

 だが、燃え上がっているはずの焚き木とは裏腹に、身体の方は濡れた地面に深く沈み込んだまま。──マズイ。


(動け)


 そう。動け。

 恐怖で身を竦ませるのは仕方がない。

 大きな音や激痛を感じれば、人は誰しも一瞬は硬直してしまう。

 それは生き物としての条件反射であり、危険に対する正しい防衛本能が働いている証だ。

 だから、恐怖ゆえに身が凍ってしまう事実を、僕はすでに諦観とともに受け入れている。

 どれだけ死線を潜り抜け、どれだけ超常のチカラを身につけようと、恐ろしいモノは恐ろしい。

 自分の中の臆病な気質を、今さら治せるとも思っていない。


 ──でも。


(僕はもう、知っている)


 恐怖に膝を屈し、辛い現実からどんなに目を背け続けたところで、その先に待つのは袋小路の底なし沼。

 あの常冬の山で、罪に怯えていた頃とは違う。


 生きると決めた。寄り添うと決めた。


 共に暮らし、共に過ごし、共に守っていくのだと。

 ああ、この先きっと何度だって繰り返し、この胸に刻みこもう。

 ならば恐怖を笑い、暖かな幻想を現実へと変える努力をしなければ。


「──夜這う瑠璃星(ラピス・ラーズリ)


 瞬間、パリンッ! と。

 身体を覆っていた闇が砕けていく。

 それは周囲にいた自分以外もどうやら同様で、皆、黒鴉神の魔法によって少なからずカラダを支配されていたようだ。


「クッ、やってくれるね」

「い、いまのは……」

「チィッ、ワタシとしたことが!」

「死の荘厳。それによる畏怖の強制?」

「さすがだな」


 ベアトリクスとリュディガーのおかげで、理屈はなんとなく分かった。

 なるほど。どうやら敵は、完全にこちらの上位互換といったところらしい。

 僕の”夜這う瑠璃星”が火球を放つ前に、周囲一帯に概念的な夜を発生させ、束の間とはいえ『情報の途絶』を引き起こすのに似ている。


 外界情報の遮断によって誘引される戸惑いや怖れ。


 恐らく、黒鴉神の場合は隕星落下と同時に、『死』という概念が備え持っている偉大さや神聖さ、()()()()()()()()()というモノを、強制的に想起させるのだ。


 黒鴉神ほどの存在力があれば、それは極自然的で、違和感なく他を圧倒する威容となろう。

 自らが魔法にかけられた気づき(・・・)すら与えず、気づいた時には塵と残らない。

 五月雨となって降り注ぐ隕星の衝撃波は、きっと地上を舐めるように平にするはずだ。


 ──だが。


「狙いはコッチじゃなく、あくまで向こうか!」


 星の落下が行き着く先。

 辛うじて予測できた隕星の軌道は、“壮麗大地(テラ・メエリタ)”の南方を目指している。

 アレだけの大質量。

 どのみち樹海の何処にいようと巻き添えは免れないだろうが、それでも、敢えて恣意的な意図を感じる程度には一途な傾きだった。


 ──つまり。


「挑むつもりか。負けると知っていて──!?」

「否ッ! 勝利するのは吾である!」


 驚愕を滲ませた確信に、重苦しくもけたたましい声が空を震わせた。


 否、否、否であると。


 黒鴉神はまるで雷鳴を轟かせるように言葉を続ける。


「吾が苦節。吾が積年。あまりにも永すぎた雌伏の時は、思えば今宵この刹那のためだけにあったのだ」


 力を手にし、獣として堂々と胸を張れる強さを抱え、それでもなお、日の目を見るコト能わじとされた屈辱の連夜。

 あの日、天を舞う己がたしかに仰ぎ見ざるを得なかった彼方の場所で、偉大なる真王はただ素晴らしかった。

 だからこそ、同じ世界、同じ空の下、同じ視座を手に入れられるなら何をしても構わないと、心の底から焦がれ身悶え続けてきた。


 けれど、


「……吾は、思えばすでにその時点で二度、負けていた」


 ドラゴンに成りたい。

 あの恐ろしく、偉大で、とてつもなく美しい怪物に生まれ変わりたい。


 それは、認め難いがたしかな憧憬と羨望ゆえの渇望で。


 だが、同時に、()()()()()()()()()()()()()()()()()と、現状の己を自ら諦めているのも同然だった。


 なぜ、諦めてしまったのだろう?

 なぜ、これほどまでに時間がかかってしまったのか?

 素の自分のまま、再び挑む気概を取り戻すのに千年以上も費やすなど、所詮は小物の器と嘲られても仕方のない醜態だのに。


「吾が契約者よ。吾は汝に感謝する」


 脆弱な人の身でありながら、人たるを捨てずに最後まで人として悲願を達成しようとしたその無謀。

 実物を知らぬモノなら間違いなく愚かと断ずるに違いないが、この夜光が声を大にして認めるとも。

 自らの願いを叶えるために、自分自身という等身大の姿のまま、最大限に努力を重ねたその極限。まさに気高し。


 それに比べて、吾が身のなんと腑抜けたザマか。


 吾は、なぜ……


「一度として本気を出さぬ内から、こんなにも負けた気になっていたのやらッ!」


 獣としての格が足りぬ?

 王としての器がそも違う?

 身に宿した魔性の業も、秘めたる想いの丈も、嗚呼、そうだろう。きっと届かない。そんなコトは遥か昔に重々承知している。


 引き剥がされた夜。

 捲り上げられた死。

 闇夜の帳は容易く打ち破られた。


 ──しかし。


「吾が存在、吾が深淵、吾が世界のすべてを叩きつけて、それでも届かぬなら」


 獣の本懐はいずれにせよ果たされる。

 弱肉強食の理は天下の法だ。


 ゆえに──


「邪魔立てするなら大嵐もろとも容赦はせんぞッ!!」


 黒鴉神は地より吹き上がる大瀑布(・・・)へ向けて、過去最高純度の殺意を視線に乗せた。

 魔女でも鬼女でも群青でもない。

 この千年、ついぞ目障り極まりなかった蒼き羽虫が、魔力を引き絞り『翅』を拡げている……





 § § §





 そして。


 そして、地上ではラズワルドたちから数十キロ遠く。

 壮麗大地の西側、精霊たちが棲まう秘密の花園。

 童話の森を体現する、いと畏れ多き庭城、その中心。

 岩の巨匠(スプリガン)が鍛えし垂水の塔から、精霊女王がこちらもついに大魔法を発動していた。


「──“生命・( アニマ)・溢る(  アニマ)るは原初の海(アニマ )”」


 空気中の水分。地中に深く染み渡る水。

 生き物の血や体液、花々が持つ蜜に植物の樹液。

 己が統治する領域のすべて。

 ありとあらゆる万物万象から、女王は武器となる水(・・・・・・)をありったけに掻き集めていた。

 自らの翅から滴り落ちる霊水は無論、およそ水気を少しでも帯びているモノは、問答無用で徴収する。

 民であり同胞。司る信仰は違えども、水精であるなら躊躇なく、その魂を足しにして。


 睨み、見据えるは、“壮麗大地”を覆う古の夜。


 永年の雌伏を終え、彼の黒鴉がついに大嵐へ向けてその牙を剥こうというのなら。

 雄々しき殿方たちに比べれば、この身、所詮はか弱き一介の女に過ぎないなれど、女王として終末だけは何としてでも回避せねばならない。


 奇しくも。


「抗う力を持つのは私だけ」


 力あるモノがその力を振るわず、いたずらに世界へ混沌をもたらしては、いったい何が精霊だろうか?

 我々は世の理によって性格を得て、森羅万象が掻き抱く、精神(こころ)の中のイメージによって姿かたちを手に入れる。


 世の終わりとは、すなわち絶滅。


 誰も見てくれなくなった舞台の上で、踊り子が、役者が、いったいなぜ劇を続けていられる?


「寂しいのは、イヤなのです」


 土も石も草木も水も。

 鳥や獣、月に星。

 生きとし生けるこの世のすべてが、精霊にとっては母であり父だ。

 そこには無論、人間だって含まれる。

 時には殺しもするし、痛ぶるコトや弄ぶコトもあるが、だとしても、それは己の存在意義を証すため。

 そうと望まれ、そうと生まれた。


 だから、そうしている。


 ──けれど、摂理を捻じ曲げるコトだけは決してしない。


 世界の土台を揺るがし、その枠組みを歪め、自分たちを産み育てた世界の在り方まで変えてしまっては、後の世に何も残らない。

 自分たちが生きた証拠。精霊という存在を成り立たせるに至った元々の概念。

 それらを破壊し、一度でも無かったモノとされてしまえば、その先に待つのは忘却の荒野だ。


「世界とは、こんなにも素晴らしく美しいモノなのに」


 生まれて初めて恋を知った。

 それも、今あるこの世界がこういうカタチをしていたからこそ、味わえた衝撃と感動なのだ。


 ──邪魔立てするなら容赦はしない?


「笑止。それはこちらのセリフです。……というか、前々からひそかに思っていたコトなのですが」


 巨龍、巨龍、巨龍、巨龍。

 大嵐、大嵐、大嵐、大嵐。

 口を開けば馬鹿の一つ覚えのようによくもまぁ飽きもせず、いったいどれだけ大昔のコトを未だに引き摺っているのか。


 しつこい男は嫌われる。


 獣も精霊も関係なく、雌雄の概念を解する存在ならばおよそ全種族共通の常識だと思うのだけれど、もしや、いや、まさかまったくご存知ない?


「まったく。そんなだから、貴方はいつまでも日陰者なのです」

「羽虫──!」

「図星を突かれて怒りましたか」


 震える肩の力を抜いて。

 精霊女王は舞うように翅を羽ばたかせた。


 ──直後。


「ンンンッ! お・美・事ッ!」


 傍に控えていた薔薇男爵が、歓喜とともに賞賛した。

 天より降り注ぐ隕星を、下から突き上げる大瀑布。

 生命を、魂を、母なる海──つまりは“壮麗大地(テラ・メエリタ)”という樹海へ強制的に還す霊水の波濤。

 緑化による浸食が、黒鴉神の放った隕星を遥か上空にて堰き止めたがために!


「冥府の神にして夜を統べる獣の王よ。

 貴方の羽が見せるその輝きの空は、たしかに大半のモノにとっては脅威でしかありません」


 しかし。


「お忘れですか? 彼のドラゴンが眠りについて以降、この“壮麗大地”で貴方に比肩し続けたのは、後にも先にも私だけ」


 古き神秘の差で言えば、間違いなく先発である黒鴉神にこそ軍配が上がるはずなのに、後発である精霊女王が何ゆえ黒鴉神からその領土を奪うコトができたのか。

 答えは奇しくも──本当に奇しくも(・・・・)、互いが互いであるがゆえ。

 獣神と精霊。異なる存在同士であれども、担いしチカラは同質だった。


(アニマ)という言葉には多くの意味が内包されます」


 純粋なる生命。成長、発育、時の流れ。

 水なくして生きられぬ動物は多く、ゆえに水は生命そのものとも。

 そして、今も昔も生命と魂とは切っても切り離せない関係性を秘めている。


「──ならば」


 隕星としてカタチを変えられていようと、元は冥府に囚われた一つの魂。

 生命とは、廻り廻りて流転するモノ。

 骸は土に、土は果実を結び、やがて獣が喰らい、生と死は繰り返される。


「ならば、霊妙なりし水精……ええ、つまり私のことですが。貴方の星に対して、そのチカラの及ばない道理はありませんよね?」

「──この淫婦めがァァッ!」


 激昂とともに連続する隕星の雨あられ。

 それらを片っ端から大量の木の葉へと変えながら、精霊女王は己が魂をも注いで星々を堰き止める。


 この世に発生して幾星霜、これほどまでに全力になったコトは一度として無い。


 当たり前だ。

 黒鴉神も精霊女王も、互いが互いに同格であるのを本能で理解していた。

 だからこそ、これまで一度も本気で殺し合う道を選んでこなかったのだ。

 大嵐を不用意に目覚めさせてはならない。

 暗黙の了解によって敷かれたルール。

 しかし、それは獣神も精霊も、どちらもが気づいていたからこそ。


 ──この敵を斃すなら、“壮麗大地(テラ・メエリタ)”全土を巻き込んで殺し合うしかない。


 そうなれば、忌まわしき巨龍は必ずや覚醒し、我々は諸共に滅び去るだろう。

 ただでさえ同格同士の争いで、勝つか負けるかはどちらにも分からないというのに。



「今さらッ、自殺紛いの特攻を仕掛けるなど……一時の感情に任せた愚行でしかありませんッ!」

「吐かせ! 吾が誇り──所詮女には分からぬわッ!!」



 新たなる神話を綴りながら、二体のバケモノは互いに殺意をぶつけ合う。

 大魔法と大魔法。

 相克するチカラの拮抗は──だがしかし……






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