#55 荘厳なるや
契約者たるリュディガーが地に膝を着いた。
敗北を口にし、自らの失策を認め、業魔転変の儀がもはや不可能であるコトを態度で以って表す。
驚嘆による自嘲。後悔による苦渋。
灰の瞳が映すのは、もはやどうしようもない諦観の虚無だけなのか。
「……否、そうではないだろう」
退化の錯覚。
まるで翼が捥がれたかのごとき幻痛に苛まれながらも、黒鴉神は高き天より、小さくもハッキリと否定を告げた。
契約者リュディガー。驚天動地の魔術師。人の身でありながら、およそ神域にまで踏み込んだ轢殺の権化。冥夜の王と盟を結び、ついには対等と認められた。
そんなモノが、今さらになって、一度や二度ちょっとばかり躓いたから諦める?
馬鹿を言え。
外道を成し、業魔転変が成った暁には、リュディガーはもとより黒鴉神も大勢の人間を殺すことになる。
召喚契約とは、言わば魔術師にとっての使い魔契約のようなもの。
だが、その利便性と難易度は遥かに別種のモノだ。
なぜなら、魔力ある魔法使いと比べて、魔力持たぬ魔術師は魔性にとって余りにも取るに足らない。
玩具か食物か、あるいは害虫か。
とにもかくにも、そんな存在の言うことを聞いてやる道理などあるワケが無いのだから。
──ゆえに。
(召喚契約とは、一種の取り引きだ)
魔性が示した無理難題。
魔術師がそれをクリアすることで、はじめて了承が得られるたった一度の召喚命令権。
リュディガーはこれまでよく働いてくれた。
はじめは単なる遊び相手のつもりでしかなかったが、今ではその生き方と覚悟に尊敬の念すら抱いている。
(吾は巨龍が憎たらしい。
リュディガーは今ある人の世が許し難い)
同じだ。同じ願いだ。
だからこそ、このちっぽけな人間は“壮麗大地”に踏み入ってまで復讐を叶えんとしている。
共感と理解は其処にある。
黒鴉神は人間の世の理など知らない。
だが、リュディガーの成さんとしている道の先には、必ずや多くの落命があるはずだ。
現に、黒鴉神がこれまで数多の臣下を、己が願いのために薪と焚べてきたように。
何も知らぬ無垢なる子ども。ただ平穏に暮らしている小さき生命。
リュディガーが言及することは一度として無かったが、黒鴉神には分かる。
──この人間は、愚かだ。
復讐を叶えるためにやっているクセに、その過程で流される涙と血にどこかで心を痛めている。
それでいながら、止まるコトだけは絶対にしない。
獣でなく、人がための弱さゆえに、自らを無意識にか罰している。
立ちはだかるのなら躊躇いなく殺害の一手を選択するクセに、ならば自らもそれに見合うだけの傷を得なければと考えるその思考。
矛盾を孕んでいるのは、リュディガーの裡側に存在する常人としての理性と、心枯れ果てた壊人としての狂気が、互いにとぐろを巻きながら複雑に混ざり合っている証拠だ。
そうでなければ、どうして生贄に我が子の似姿を象らせる必要があった──?
愛する妻との間に産まれた五人の混血児。
人の世界で魔性が忌み嫌われているのは知っている。
しかし、リュディガーはそういう性質の人間ではない。
そしてリュディガーほどの魔術師であれば、他にいくらでも工夫の仕様はあっただろう。
単なる肉塊、意思なき生き人形として造りあげれば、わざわざ自らが辛い思いをするコトもなかったはずだ。
術式の構築に必要な要素だった? たわけ。
業魔転変はあくまで黒鴉神が業を背負わなければ意味がない。
儀式を執り行う魔術師自身が業を重ねるのは、まぁたしかに無意味ではないのだろうが、だとしても微々たる貢献だ。
それくらい、獣である黒鴉神でも見れば分かる。
(……吾が契約者は、追放されし咎者どもを率いて、わざわざ魔術の手ほどきなんぞを行い、身を守るための手段を教導するような輩)
人手が必要だったなんだというのは、所詮は建て前。
純粋な労働力が欲しかったなら、力で支配し奴隷として扱ったっていいではないか。
そうしなかったのは、リュディガー自身の本来の性質が『善』に属しているから。これは明らかに確実だ。
──だが、それでも。
「……汝は止まらなかった。ならば、吾もまた止まらぬ。進み続ける」
嗚呼、そうだ。そうだとも。
いったいどれだけ耐えればよいのだ。
いったいどれだけ待てば、この苦しみから解放される。
簡単に諦められるものなら、とっくの疾うにこちらとて捨てているとも。
だが、それができなかったから、こんなにも辛く苦しく掻き毟るように今も頭蓋の内が騒ぐのだ。
「──たとえ者皆轢殺しようとも、この願い、この祈り、この夢を、叶えなければ意味など無い!」
業魔転変はたしかに砕かれた。
この身がドラゴンへと生まれ変われる機会は、恐らく今後二度と訪れはしまい。
契約は成らなかった。
だが、吾が契約者の献身に偽りは無い。
儀式は執り行われた。
ならば、この身はすでに龍。獣の王。冥夜の訪れを知らせる暗黒の災いだ。
「──たとえ届かずとも」
魂振り絞り、羽を広げる。
黒鴉神はバサリと羽ばたいた。
たとえ冥き夜が否定されようとも、未だこの身は健在。
望みし彼方への飛翔は叶わじとも、太古よりこの“壮麗大地”に君臨し続けた『威』には何ら陰るところ無し。
「平伏すがいい矮小卑賎」
何を終わった気になっている?
何を終わらせた気になっている?
夜とは、天地開闢の時よりただこの世に在ったモノ。
世界の半分を支配し、未だかつて一度として夜の訪れなかったコトは無い。
夜明けの光だと? 群青? 黎明? たしかに素晴らしいが──舐めるなよ。
「そんなモノは所詮、夜に比べればほんの一時。ごく僅かな幻のようなモノであろうが!」
たかが境界風情が囀るな。
吾が見据え、吾が望み、吾が挑むべきは今も昔もただひとつ。
暗く、冷たく、夜は恐ろしいと、光射す側はいつだって忌まわしげにそう言うが、
「ならば真昼の空を吾に見せてみよッ!」
それができないならせめて砕け散れ。
終末はなにも、ドラゴンだけの専売特許ではないぞ。
こんな世界、滅ぼそうと思えばいつでも滅ぼせる……!
「 “ 荘厳──鳥葬界”」
そして一千年分の魔力を込めて、黒鴉神は啼いた。
§ § §
冥夜の王が空へと溶けた。
輪郭が消え、とうとう本物の夜と見分けがつかなくなる。
深みを増していく闇の濃度。
死の冷たさがまるでオーロラのように樹海を覆っていった。
「……なにを」
するつもりなのか。
黒鴉神の突然の行動に、リュディガーは眉をひそめて空を見上げている。
業魔転変の儀式は破られ、もはや魔術師と夜羽の大願は叶わない。もはやこれから何をしようと、すべては無駄な足掻き。
この盤面から転変が成る可能性は間違いなくゼロ。
術式の構築者であるリュディガーからすれば、そんな詰んでいる状況が誰より分かっているはずだ。
だからこそ、黒鴉神の突然の行動に理解が及んでいないのだろう──しかし。
「あのバケガラス……!」
「おぉ……我らが王よ……!」
「……ッ、マズイよこれ」
周囲にいる人間以外。
つまりは魔力の波動に殊更に敏感なバケモノたちが、一斉にザワついた。
それにより、僕の方も辛うじてだがすぐに事態の重大さに気がつく。
「! 始めるつもりか!」
「ふぇふぇふぇ、相変わらず坊やはココの回転が早いねぇ」
「ヴェリタス!」
「ぐ、ぐぉぉ、お、重たい……!」
「──と、ゼノギアさん!」
醜怪な三つ目の老婆が、神父の背中に跨りながら登場した。
「──フェリシアと分離可能だったんだ」
「まぁねぇ。そこは契約のおかげで融通がきいたみたいだよ。ふぇっふぇふぇ!」
「た、たすけ……」
二メートルを超える老婆にまとわりつかれ、ゼノギアが悲痛な声を上げている。
だが、今はそんなことより──、
「やっぱり、女王からの贈り物を届けてくれたのはゼノギアさんか。ありがとうございます。おかげで生き返れました」
「えっ? あ、あぁ、いえ……ははは、お役に立てたなら、わたくしはそれで……」
「ふぇっふぇふぇ! まぁそれも、このワタシの指示があってこそだったワケだけどねぇ?」
「ひっ、し、しし尻を撫でないでくれますか!?」
「……そっか! ヴェリタスも、ありがとう」
「いいよぉ! お礼なんざ。坊やのことは好きだしねぇ。それに、ワタシゃ助けなきゃ今頃、フェリシアにどうされていたやら……」
そこで、一瞬だけ恐怖の色を浮かべるヴェリタス。
横にいたベアトリクスが「やるじゃない、子鼠」と呟いた。
(……なんだろう。人がちょっと死んでる間に思わぬペアが仲良くなってる)
ゼノギアは「あ、あの、離れて……」と呻いているが、しがみついているヴェリタスは嫌に上機嫌だ。
とりあえず特に気にせずサッと流してみたが、微妙に気になる。
(けど、まぁ……)
人とそうでないモノが仲良くなるのは実に良い事だ。
ヴェリタスはなぜかゼノギアのことをとても気に入っているようだし、貴重な“叡智”に機嫌を損ねられても困る。
ゼノギアの方も、顔色を見るにどうやらギリギリで何とか立ち直ってくれたみたいだし、ひとまず安心した。
(……それに、依然としてこの場は死地の真っ只中だし)
蘇生直後でふらつきがあるとはいえ、いざとなれば憑依融合がある僕とは違って、本当に単なる人間でしかないゼノギアやホムンクルスたちは、ちょっとのことで命を落としかねない。
けれど、そこにヴェリタスが傍にいてくれるなら、こちらも負担が減って大助かりだ。子どもたちは絶対に守らないといけない。
「──よし」
「それで、お婆ちゃん。アレをどうにかする手立てはあるの?」
僕がひとり力強く頷くと、ベアトリクスが遥か頭上を見上げたままヴェリタスに問うた。
黒鴉神がこれから何をしようとしているのか。
無論、この僕ですらも空からのプレッシャーを感じている。
魔女の中でも最上位だろうベアトリクスが、上空で発動された大魔法に気が付かないはずはない。
そして、気づいてしまったからこそヴェリタスに手立てがあるのか訊いている。だが──
「……残念だけど、ワタシゃ全知かもしれないが全能じゃあない」
「そう。なら御託はいいわ。全力で回しなさい」
「ふぇっふぇっふぇっ! 魔女様は思ったよりヒト使いが荒いねぇ……! 言われずとも、さっきからずっと走らせてるよ!」
(やっぱり、演算が間に合いそうにないか)
叡智の魔法を使いこなすヴェリタスは一見万能のように思えるが、しかし、魔法であるからには当然のように魔力を消費する。
そして、恐らくだがヴェリタスの使う“叡智”は求める解答によって必要となる魔力に差が出てくる類の呪文なのだろう。
考えてみれば当たり前だが、「いついかなる時もどんな状況でも必ずその場における最適解を導き出す」なんて都合のいい魔法に、およそ何の制約も限定もかかっていないはずがない。
難題であれば難題であるほど、不可能に近ければ近いほど、演算に要する魔力は多くなっていき。
次の演算、次の演算と、一日の内にリソースがどんどん減っていけば、必然的にパフォーマンスは低下してしまう。
無論、羽化を果たしたフェリシアの魔力量は余裕で並の吸血鬼を超えているだろうが……
(フェリシアはフェリシアで魔力を消費してる)
瀞み融け蕩う夜の娘。
あれは間違いなくフェリシアにしか使えない魔法だし、見るからに規模もデカかった。
加えて、魔力の使用優先権は主体であるフェリシアに違いないことも鑑みれば、ヴェリタスの限界はすでにかなり際どいところだと思っていていいだろう。
“壮麗大地”にいれば、ただでさえ不測の事態は増えてくる。
そういった数多の可能性をも拾い上げながら、たったひとつの理想の未来を掴もうとするのは文字通りに生半じゃない。
「となると──マズイな」
夜羽の獣、黒鴉神、冥夜の渡鴉──そして夜光。
“壮麗大地”の三大。
その一角として、島の人類史にその存在をしかと刻みつけたバケモノ中のバケモノが、いったいなぜその名を冠するに至ったのか。
精霊女王はすべての生命を緑へと還す──ゆえに緑化と呼ばれ。
暴風と雷、嵐そのものの巨龍はまさに大嵐と呼ばれた。
──では、冥き夜を司る黒鴉の神は、なにゆえ『夜光』と?
冥府、冥界、死後の世界。
自らを彼岸と化した一羽の闇夜鴉。
太陽を知らず暖かさを知らず温もりを知らず、およそ|光《》の何たるかというモノを何一つとして知り得ない存在が、どうしてその二つ名に光の一字を与えられたのか。
「眠れ、眠れ、かわいい子
一夜、二夜、三夜とこえて
真昼の花を咲かせましょう」
夜は暗く、冷たく、恐ろしい。
闇夜鴉は夜の鳥。出歩くモノは、魂運ばれあの世行き。
おお、稚児よ。愛しい子よ。
お前を悪魔には連れて行かせない。
「──古来より、カラスという鳥は不吉の象徴でもあるがゆえに神聖な動物ともされた」
それはカラスが鳥葬などの文化にも代表されるように、魂をあの世へと運んでいく神の遣いと信じられたから。
また、戦場などで骸を啄み、屍体に集る姿などがどうしようもなく死神を連想させたというのもある。
渡り鳥としても知られ、その頭の良さから伝書向きの鳥と今でも各国で親しまれ、日の出や日の入りなどの時間によく空を飛ぶことなどからも、太陽と結び付けられた。
カラスには、実に多様な側面があると言えるだろう。
「しかし、古き神の御代において、カラスはその色と性質とを明確に二つに分かたれた」
すなわち、白昼鴉と闇夜鴉。
「そういう進化を辿る運命だったのか。あるいは、両極端な性質を併せ持つコトをいずれ島の一部と化さなければならない獣としての本能が嫌ったのか。どちらかは分からない」
けれど。
「白昼鴉が陽の光、生命の熱、暖かさを担う人気者の鳥となったのなら、闇夜鴉は無明、死の冷たさ、恐怖などを担う嫌われ者となった。つまり──」
大昔にカラスという獣が備えていた内の負の側面を、一手に引き受けざるを得なかったのが闇夜鴉だ。
「魂をあの世へと運ぶ不吉の鳥」
もし、もしもそんな獣が自然霊として霊格を高め、環境神と成ったのなら。
夜羽の獣の夜羽とは、ただ獲物を冥府の底へ落とすだけの天蓋ではなく。
同時に、ただ純粋な『夜空』でもあるのでは──?
「曰く──夜羽の獣。行き過ぎた回帰。世の半分を治めてしまったがゆえ、高貴なる冠を我が物とする……行き過ぎた回帰ってのはこういうコトか」
“荘厳鳥葬界”
「満天の星そのすべてが、お前の奪って来た魂であり武器──!」
「然り。そして、これら光のすべてが吾が王権の源」
隕星落下による絶対的破壊だと、黒き鴉は咆哮した。




