#53 時の針は業に
「時は来たれりぃぃッ!」
魔術師の波動魔術が衝撃の檻を生み出し、ラズワルドがガクンと意識を失った直後だった。
それまで一向に戦闘に参加せず、クツクツと小刻みに嘴を震わせるばかりで、不気味に静観を決め込んでいた一羽の黒鴉。
それが、まるで絶叫するように突如として歓喜を爆発させた。
途端──周囲一帯から光という光が闇の底へと沈殿していく。
小さな闇夜鴉。
恐らくは端末であろう化身から、ぶくぶくと皮膚の内側が蠢くような音があたりに響いた。
──覆われる。
それは瞬く間へと見上げるほどの威容となり、須臾と経たずに『神』そのものに。
全長は恐らく……数キロほどはあろう。
黒く、黒く、暗く、暗く。
黄昏時を越えた先に待つ彼岸の境界。
昼夜、春冬、現世幽世、人魔であれば間違いなくいずれも後者。
輪郭は捉えづらい。
だが、奇妙なことに居場所は分かった。
──闇の中に浮き上がる更なる闇というカタチで。
「術を始めよ!」
「っ……言われずともッ!」
完全顕現した夜羽の獣が魔術師に向かって命を下す。
それに、初老の男はすかさず応えていた。
儀式場の結界が鳴動を開始し、意味ある象徴として配置された幾つもの呪具──生贄たちが、強制的に術式の構成要素としてトランスを始める。
業魔転変の儀が執り行われるのだ。
「クハハハハ「クハハハハハ」「クハハハハハハハ」クハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
黒鴉神の哄笑。
よほど昂っているのか、その声はもはや山びこや雷鳴に近い。
(そんなっ!?)
握り締めたクロスボウを片手に、ゼノギアは木立の影から絶望に似た声を漏らしそうになった。
精霊女王の庭城からここまで、およそ可能な限り全力で駆けて来たが、やはり、人間の足では追いつくだけにも相当な時間がかかってしまった。
ラズワルドやフェリシアはバケモノの速度で行動できるが、ゼノギアにそこまでの速度は当然出せない。
加えて、“壮麗大地”ほどの樹海ともなれば人に優しい道などももちろん無いため、ルート選択にすら苦慮する羽目に。
結果、ようやく追いついた時には、最悪の事態が始まっていた。
憑依融合したラズワルドが敗北。
フェリシアは見たところ複数の獣神たちを相手取り、かなりの奮戦をしているようだが……さすがに多勢に無勢。
獣神たちだけでなく、普通の獣すらもがフェリシアを食い止めんと雪崩込んでいる。
優勢なのはフェリシアのようだが、数が数だ。儀式場までの距離も少なからず離されている。
ラズワルドは意識を取り戻さない。
引き摺られ、儀式場の中央へと放り投げられる──生贄にするつもりだ。
(ッ、わたくしが、止めなければ……!)
ゼノギアは身を潜めながら、静かにクロスボウを構え矢を番えた。
狙うは無論、術式の要。業魔転変を成さんとする悪業の魔術師。
信じられないコトだが、敵はあのラズワルド≒白嶺の魔女にも打ち勝った。
となると、ゼノギアごときが真正面から再び挑んだところで、無意味なのは自明の理。
ならば、戦闘の直後、掴んだ勝利が必ずもたらす僅かな緊張の緩み目。
また、術式に対して一切の雑念を排除した刹那の集中こそが、ゼノギアに与えられる唯一の勝機だろう。
手持ちの矢は残り少ない。確実に仕留める必要がある。
かつて……救えなかった五人の子どもたち。
アノス、クゥナ、ネイト、ミレイ、ヨルン。
同じ顔、同じ姿、同じ特徴。
ホムンクルスだった事実など、もはやどうでもいい。魔術師が何を想ってこんな外道を働いているのかも、そんなのは知ったことか。
救いたい。助けたい。失わせたくない。
ああ、そうだとも。大事なのはそれだけで、守りたいのはそれだけで。
あの日、あの時、この両手から取り零した尊い生命。
ただ生きたいと望み、たったそれだけのコトが叶わなかった悲しい過去。
もう繰り返すのだけはイヤなのだ。
(──思い出しました。わたくしは、たしかに善かれと思ったのです)
神を信じ、その教義を主と仰いだ。
けれどそれは、初めにそれがとても素晴らしいものだと感じたからだ。
誰もが幸福に笑い、穏やかに生きていける楽園。
神の御国、天上の楽土と同じように、地上の人々もそう在れたなら。
家を飛び出し教会の門を叩き、わざわざ聖職の道へと進んだのは、そも、そこが原点だったから。
──ゆえに。
(させて、なるものか。やらせはしない……!)
ゼノギアはタイミングを見極め、今だ! と矢を放とうとした。
──だが。
「ふぇっふぇふぇっ、待ちな。お前さんの役目はまだだよ」
「な──?!」
深淵の叡智。
かつて、およそ神のごとき全知にまで近づいたと囁かれし三眼の怪異が──ゼノギアを足元から羽交い締めにした。
§ § §
はじめに起こったのは、静かな殺戮だった。
バタリ、バタリと。
まるで糸の切れたマリオネットのように倒れていくたホムンクルス=カムビヨン。
雪豹のような特徴を持ったアノス。
皮膚の一部が突起の生えた鱗のクゥナ。
片目に黄金瞳を宿したネイト。
不釣り合いに大きい巨角のミレイ。
精巧な人形美を体現するヨルン。
夜羽の獣が持つ絶対的権能──『魂の収奪』
総勢六百体の悲劇と禁忌が、崩れるように儀式場で命を落としていた。
その中には、リュディガーを庇い、間一髪でその生命を救った個体も含まれる。
流血は無い。だが、おびただしい。
自らの子どもそのものではないと頭では理解していても、たったいま犯した非人の所業にクラクラと目眩がする。
けれど、今さら後には退けない。
この術式は、術者自身の『業』をも加味して成り立っている。
リュディガーは唸るように空を仰ぎ、黒鴉神へ言った。
「──術式は成った。貴様の望み通り、取り替え児の魂も含めてな」
だから、なぁ。
「さっさと此処に顕現するがいいッ! 私の、私だけの偽神よ!」
この世に神はいない。
少なくとも、人を愛し人を救う超越存在などは、島の何処を探したって見つけるコトは不可能だ。
そうでなければ、大恩ある養父が死に、愛しい妻が死に、子どもたちが死に、リュディガーだけがひとり生き残る? そんなコトは起こり得なかった。
この世は罪と苦罰と恩讐に満ちている。
──ゆえに、リュディガーは願った。
この世に神がいないのなら。
人を愛し、人を救う、超越存在がいないのならば。
(いいだろう。それはそれで構わない)
だが、
(人を憎み、人を滅ぼす)
悪魔は此処にいる。
ほんの少し辺りを見渡せば、すぐに見つかる距離に。
たとえ人ならざるあやしのモノどもではなくとも、人間の心の内に、悪魔はたくさん棲みついている。
……そう。かつて、リュディガーの家族が襲われ、無惨な死に様を迎えたように。
アレこそ、悪魔の実在を証明する何よりの証拠だ。
(……よって、私は考えた)
天上の玉座に相応しいのは神ではない。
地上を苦界たらしめている悪魔をこそ、その座に据えるべきだと。
愛だ救いだ何だと日頃から声高に叫んでいる教会の狗ども。
神の祝福、神の恩寵、神の奇跡と褒めそやされている秘宝匠組合。
つまりは、現在島の中央で大いに権勢を振るっている神の象徴を破壊する。
その過程でどれだけの人間が死のうとまるで構わないし、仮に黒鴉神が巨龍に敗れ、リュディガーが志半ばで死ぬコトになっても許容の範囲内だ。
どう転ぶにしたところ、終末は間違いなく目覚め、島の中央には滅びの危機が訪れる。
抗えるならば抗ってみせるがいい。
リュディガーの復讐は、ちっぽけな八つ当たりは、それで終わりだ。
「私は幸せにならなければならない」
さぁ、心の穴を埋めさせてくれ。
希望を込めて天を仰ぎ見る六十人の教団員に囲まれながら。
築き上げた骸の山の頂で、リュディガーは両手を広げて叫んだ。
──さぁ。
「さぁッ!!」
§ § §
濃闇の空で、黒鴉神は歓喜に打ち震えていた。
捧げられし六百の供物。
愛おしき取り替え児の魂。
黒鴉神の望みを叶えるため、契約者が長い時をかけて集めた極上の宿業。
悠久の時を生きる獣神の身なれど、まるで人間と同じように一日千秋の想いで、この時が来るのを待ち続けて来た。
陽光を打ち砕き、闇夜の神として獣の王と成ってから幾星霜。
“壮麗大地”を巣とし、脆弱な一羽の鳥であった頃とは比ぶべくもない強大な力を手に入れ、数多くの獣が黒鴉神に忠誠を誓った。
狼、熊、虎に獅子。
すでに散ったモノも多いが、獣の摂理においては捕食者に分類されるモノ。
それらが、たかだか夜にしか飛べない小さなカラスだったモノに、頭を垂れて膝を折るのだ。
自らが手に入れた王冠。
獣の神としての権能には多大なる自負があったし、誇りもあった。
太古の昔、夜というのはすなわち冥府そのもの。
暗く冷たい死後の世界として、多くのモノが認めていた。
ゆえに、夜を司る己は、冥府の神にして冥府それ自体。
万物に宿るあらゆる魂は、黒鴉神が翼を広げその羽の内側に鎖したが最後、冥府に囚われている。
空を覆い、地を覆う──冥き夜の羽。
畏怖とともに轟くこの威名こそ、黒鴉神が獣の王として君臨を可能としてきた他ならぬ由縁である。
だが……
(あやつは吾を見もしなかった!)
破壊の王。
荒ぶる獣の王者。
冥府がなんだ。夜がなんだ。
そんなモノ、世界を滅ぼす終末には麩菓子も同然。
──脆すぎるわ矮小。
獣神と成ってからついぞ忘れていた許し難い運命。
擬態などという惰弱極まる手段で以って生きるコトを余儀なくされた忌まわしき過去。
本物の強者とは、本物の王者とは、つまりはあるがままにあるコトを許される存在。
太陽をも呑み込んだと、誰もが畏怖し褒め讃えた。
しかし、実態は違う。
黒鴉神は、かつて陽の光に焼かれ羽毛の一片までも燃え尽きた鳥は、未だ真の意味で光の世界を知らない。
夜を統べ、夜を広げ、他のどんなモノより夜を手中に収めても。
それは、ほんとうの意味で『自由』を獲得したとは言えない。
なぜなら、黒鴉神は結局……
(そう。吾は夜しか知らない)
太陽の明かりとはなんだ。
陽の当たる暖かさとはなんだ。
温もり、輝き、生命を照らすもうひとつの世界。
どれだけ生きようと。
どれだけ強くなろうと。
(吾は、世界の半分しか知らない──!)
だから負けたのだ。
だから敗れたのだ。
初めから世界そのものと向き合っている存在に比べて、我が身のなんと欠けているコトだろう。
王者として見渡している視点が違う。
翼を広げ、そして収める世界の大きさがまったく以って異なっている。
だから、そんな不出来を晒していては、届かないのはそも当然なのだ。
(千年、いや、二千か三千か? もはや永すぎて……汝に向けるこの想いが何なのか)
もはやそれすら判然としない。
──けれど、ドラゴンになれば。
同じ種族、同じ存在、同じ空の下。
憎き太陽をこの身が真の意味で克服したその時こそ──
「吾は、汝を越えた『王』であるコトを示そうぞ……!」
声が聞こえる。
契約を結んだ人間が、さっさと転変を終わらせろと吠えている。
気持ちは痛いほどによく分かる。
ゆえに、
「GRRaaaaaaaaaaAAAA ッ!!」
黒鴉神は胸を衝く想いのままに産声を上げた。
積み上げた宿業が己の裡側で渦潮のように渦巻くのを感じている。
悲劇と禁忌と厄災が、鳥を龍へと変えていく変化の痛みが心地いい。
万願成就。
「「さぁ──さぁッ!!」」
重なる声は奇跡を微塵も疑っていなかった。
──だが。
「ヒ、ヒヒヒャ! ァ──アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
「「!?」」
嘲笑う声が響く。
地獄の底より溢れ出す女の声。
パキパキと、ポキポキと。
ケタケタと、ズルズルと。
這い出ずる母親たちの絶叫が、その瞬間、たしかに時を止めた。
「ああ……まただわ」
「そう、またなのね」
「ふ、ふふふ、ふふふふふふふふふふ!」
「イヤ、イヤよ……絶対イヤッ」
「愛しているの。こんなにも可愛いんですもの」
「なのに奪われる? 奪わせるッ?」
「いいや」
「違う。違う、違う、違う違う違う違う違うッ」
「……許さない」
「ダメ」
「そう、ダメ」
「あげない」
「私の、ワタしの、わたしたちのだもの」
「……そう。なら、仕方ないわね」
「仕方ない」
「仕方がないの」
ぐるんッ!
と、勢いよく白嶺の魔女が首を回した。
金色の瞳が言う。
「──悪魔はいつだって、選択を誤るのだからなぁ!!」




