#50 ミディアン
噎せ返るような甘い熱気。
ジリジリと焦がれるような粘性の泥。
全身に纏わり、無遠慮に胸の奥を重くするマーブル模様。
赤と黒の螺旋が、絡み合いながら少女を呑み込む。
直後──ズゥンッ! と、周囲一帯に抵抗不可の略奪が走った。
「ッ……なるほど、はじまりましたな!」
カラダに残っている魔力の内の四割。
遠慮斟酌容赦なく、ゴッソリと一気に持って行かれた喪失の感覚に、薔薇男爵は軽くクラリとよろめいた。
しかし、即座に根に力を入れて何とかその場に踏み止まる。
これでも精霊の国では女王第一の小間使いを自認しているため、敬愛する主の前で無様に倒れ伏すワケにはいかない。
薔薇はいつだって華麗に美麗に明媚に在らなければ、その価値を認めてもらえないものだ。
何より、ローズの信じるおじさまで在り続けたい。
だから、地に膝は着かなかった。
「……フッフッフ! ですが久しいですな、この倦怠感!」
精霊の中でも魔力の量にはそれなりの自信がある。
ゆえに、だからこそ驚嘆とともに称賛せずにはいられない。
女王には及ばずとも、この身は優に千年を超えた信仰の結晶体。
己から魔力をおよそ四割も奪い、それどころか女王や幽界狼、逃げ遅れた民たちからすらも軒並み魔力を略奪したというコトは、これはとんでもない大飯食らいだ。
「異形どもなど……おやおや、今の一口で全滅ではありませんか」
もともと押し付けられた形だったとはいえ、醜怪な異形木乃伊など見るに堪えない不快そのもの。
この際だ。女王の許しなく庭城に踏み入った代償として、幽界狼もろとも弾いてやろうかと思っていたところだったが……
「グッ、がァ……! なン、だ! なにが起こった!?」
「──ふむ」
どうやら当の獣神は、自身の身に何が起きたのかも把握しきれていない様子。
相対していた女王から距離を取り、苦悶の声をあげながら辺りをキョロキョロと見回していた。何ともまぁ、格が知れる。
その一方で、我らが女王はやはりさすがと言わざるを得ない。
剪嵌細工模様の少女から迸った略奪は、間違いなく女王の魔力をも幾割か奪っていった。
だが、女王は顔色ひとつ変えず、常の気品と優雅さとを泰然と保ったまま──素晴らしい。
“壮麗大地”の精霊女王とは、斯くも美しいのだと胸が歓喜に打ち震える。
「……しかし、いやはや、これはまた少々困りましたな」
敬愛する主がその超越性を顕示してくれるのは何の問題もない。
司る信仰こそ違えど、同じ精霊として誇らしさがカラダの隅々まで満ちていく。
しかし、女王の視線の向かう先。件の少女と、我らが朝露、チェンジリング。
「吾輩、たしかにヒントは差し上げましたが、こうも容易く導かれるとは……」
この場にいるすべての魔力保持者。
その中から唯一、たったひとりだけ略奪を逃れたのだろう黒髪の少年。
彼は目の前で少女が紅の繭に包まれても、何の動揺も浮かべず、むしろ、歓迎の意を表すように口角を吊り上げている。
取り替え児に惹かれるは魔物の性。
然れど──
「参りましたなぁ。チェンジリングに愛を向けられては、吾輩らどうしようもありませぬ」
狂い喜び乱れ舞う。
欲望と衝動は暴走し、世界はくるりと彼のためだけに。
芥子の実や花々よりも遥かに危うい激物。
はてさて、乙女の羽化は如何なるスガタを描くやら。
「──乙女よ、貴殿には曼珠沙華を以って言祝ぐといたしましょう」
§ § §
色とりどりの花園に、紅の彼岸花が広がった。
その途端、ただでさえ噎せ返しかねないほど甘やかで重たかった空気が、吐き気を催すほどの澱みと化す。
地面はぬかるみ、血染めの湖沼が足元を掬った。
翠緑の雫を垂らしても、トプンと沈むばかりで己が権能が通じない。
……異界の毒が、なにか別の、更なる毒のようなモノで打ち消されてしまっているようだ。
「身動きが……できんだと……!?」
異変を悟り、淡いの異界に溶け込むことで一旦離脱を試みる。
が、それも不可能。
本能が突如として打ち鳴らし始めたけたたましい警鐘に、幽界狼は思わず叫んでいた。
「羽虫ッ! いや、薔薇の悪魔か! 貴様ッ、邪魔をするなァァ……!」
この場にいる最も力あるモノ。
不遜にも女王の名を僭称し、我が王の領域を狭めた環境の破壊者。
あるいは、ここ数百年、獣神と精霊との間で行われた密かな縄張り争い。そのすべてにおいて目障り極まりなかった美しき悪夢。
戦いの最中、なにか得体の知れない攻撃を仕掛けてくるならば、それは間違いなくこの二体でしかありえない。
そして、大量に咲いた彼岸花は明らかに薔薇の悪魔が魔法を使った何よりの証拠。
一瞬にして奪い取られた己が魔力のコトも併せて、たった今攻撃を仕掛けてきたのは後者の方だと幽界狼は判断した。
ゆえに、激昂も露に吠え立てる。
目標である取り替え児はあくまでも人間。
魔女と契約を交わしていて、躊躇せず融合をも即断したのにはいささか意表を突かれた。
しかし、所詮はそれだけ。
己が権能を以って淡いの異界に放り込みさえすれば、後は通行の際に濾過を行い、魔女だけを分離した状態で儀式場まで落とす。
それで王命は恙無く完遂だ。
戦闘の途中でうまく門を開けて目的地まで繋げるコトさえできれば、十秒とかからない簡単な仕事でしかない。
邪魔をする羽虫と薔薇の悪魔は、眷属どもを使って足止めしよう。
ただ、その前に少しだけ積年の鬱憤を幾許か晴らさせてもらっても別に責められはしまい。
何なら、我が爪と牙にて今の内に精霊どもを皆殺しにし、後顧の憂いを断っておくべきではないのか。
我が王には万全の状態で、憎きあやつとの決闘に臨んでもらいたい。
忠義と私心の両方が入り混じった衝動に身を任せ、幽界狼はそうして開戦の火蓋を切った。
……その選択が、過ちだったとは思っていない。
否、課せられた王命を全うできなければ申し開きようもない咎となるが、しかし、私心なくして忠義はありえず。
あの王に仕えたいと思った。あの王の羽ばたく先を見てみたい。
獣として生まれ自然に還り、環境神として死ぬ悠久の果て。
心あるからこそ、あの王者の背中に憧憬を抱いたのだ。
(我らは結局、擬態などという惰弱な手段を以ってしか生きられなかったモノ)
カルメンタリス島に潜む数多といる絶対強者に立ち向かえば、待っているのは絶滅の定め。
種族保存のためには、身を隠し、息を潜め、恐怖に苛まれながら死ぬまで怯えるしかない。
土に還りて霊となり、やがて神にも等しい権能を得たとしても、その過去だけは永劫変わることがない。
(我ら皆総じて生まれながらの負け犬よ)
獣になど生まれなければ良かった。
獣神になど成らなければ良かった。
はじめからただ在るだけで強いそんな別の何かでさえあれたなら、どれほど良かっただろう?
けれど王は──あの闇夜鴉は、違う。
小さく非力な、たった一羽の鳥でありながら、島に還るという本能すら捩じ伏せて、その運命に最後まで抗い続けた。
太陽が憎い。夜にしか生きられぬ己が憎い。いつか必ず真の自由を手にしたい。
渇望は止め処なく、ついには正真正銘の創造神にさえ慈悲を賜り、夜羽の名に相応しい強大な王となるまでに至った。
──その生き様を、その雄大なる飛翔を、同じ獣としてどうして認めぬままでいられよう。
王のために働き、王のために全霊を燃やす。
それはあまりにも当たり前のコトで、少なくとも己にとっては何の疑問も差し挟まらない。
精霊は、虫だ。
王が歩んだ栄光の道を、後からやって来たクセに図々しくも我が物顔で汚している。なんと傲岸な虫けらども。
そも、“壮麗大地”は貴様らのものではない。
この森も、この空も、この大地さえも、すべては王がその飛翔で手にした掛け替えのないもの。
巨龍さえ現れなかったならば、貴様らなど王の敵ではない。
貴様らはただ巨龍という脅威に救われているだけの単なる虫でしかないのだ。
我らが王の縄張りに、本来ならば存在するコトすら許されぬ。
それを……なんだ。いったい何を傲慢にも思い上がっている?
精霊。精神霊。初めから霊として生まれ落ちた貴様らに、我ら獣の鬱屈と果てなき慟哭が分かるのか!
数百年貯めに貯めた悪感情。
今さら覆い隠すのもバカバカしい。
邪魔なのだ。鬱陶しい。さっさと死ねよゴミ虫め。
幽界狼の胸中に広がる精霊への想いなどそんなもの。
だから──
「──王の翼がついにこの空を舞う」
いと貴き獣の王が、冥き夜の羽が、獣神たちの希望が、我々の自由はいつだってそこに在ると示してくださる。
──ならば。
「貴様ら虫が、軽々しくも立ち塞がろうなどと……身の程を知れッ!」
大嵐、死すべし。
巨龍、死すべし。
偉大なる王の伝説の前に、羽虫の出る幕はなし。
幽界狼は自壊も厭わぬ全霊で、己が身を縛る謎の拘束から脱しようとした。
その眼差しに、自らが薔薇の悪魔と呼んだ精霊の姿だけを収めて。
────だが。
「“瀞み融け蕩う夜の娘”」
しゃんなりと唱えられし魔の呪言。
幽界狼が拘束から逃れるコトは永遠に無かった。
翠緑の毒光は真紅の泥に呑み込まれ、狼はたちまちトロリとした液状に。
原型留めず、霊格崩れ、魂まで融解した。
恋という名の甘やかな毒。
欲望を解放し繭を突き破った少女──いいや、少女のカタチをしていた怪物が、両手を広げ口を円弧にして笑った。
貪欲・恍惚・淫奔・羞恥
心の海に広がった瀝青がごとき情動は、マーブル模様に瀞みをもたらした。
綯い交ぜになった感情は融け合うように熱を産む。
そして継ぎ接ぎだらけの鋳型、燃えるように蕩けて。
淫らに貞淑に、熱の篭った肌を薄布の奥で燻らせる。
嗚呼、見るがいい──羽化転生、蛹は蝶に生まれ変わった。
「アハッ」
成長した女の肢体。
髪は絡みつくような金糸に、装いは吸い込まれそうな鮮血に。
額に浮かんだ真眼。側頭部より伸びる魔性の角。
肌は白く、艶を秘めた肉体が見るものを邪へと駆り立てる。
血を啜る悪鬼ではない。凍える魔女でも、叡智の三眼でもない。
其は恋情。あるいは色情。もしくは痴情。
羞じらいながらも舌舐めずる少女の怪。
甘く甘く胸焼き尽くす女の奈落。
夜の女王の眷族はいざ此処に。
少女はもはや、溺れる恋そのものであった。




