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#47 蠢動と再会





 漆黒の無明に、瑠璃の光が刹那瞬いた。

 その瞬間、まさにこれから儀式を始めようとしていた宗主リュディガーに、一羽のカラスが制止を呼びかける。


「! 待て」

「……なんだ、どうしたバケモノ」

「今のは……」


 宗主リュディガーの口調はおよそ神へ向けるものではない。

 教団の末端。使い捨ての道具である自分が、もしもあのような態度と振る舞いをすれば、黒鴉神の配下はもとより、宗主リュディガーならざるとも他の教団員、ひいては同胞たちからすら厳しい処罰(・・)を与えられるだろう。


 しかし、追放されし者たちの集団。島の東に追い立てられ、今日をも知れぬ命だった罪人や狂人たちを率いて、今では夜羽の獣を自分たちの神と崇める教団における絶対の指導者──宗主リュディガーは誰もが認める頭目(リーダー)格だ。

 教団の教徒たちは皆、宗主リュディガーによって命を救われている。

 人里離れた僻地での衣食住。結界の張り方、霊骸柩楼の見分け方などの知識は無論のこと、魔術の手ほどきを受けた者も大勢いる。


 また、宗主リュディガーは正真正銘ただの人間でありながら、己が魔術を以って力を示し、獣神との一騎打ちの末、災厄地での安全すら確保せしめた。その強さはまさに超常。

 この頃はまるで、現人神かのように半ば神聖視する者も出始めている。

 そんな彼だからこそ、黒鴉神とも唯一対等に言葉を交わす資格があるのだ。


 樹海を切り拓き、開けた空間を作った儀式場。

 足元を埋め尽くさんばかりの宝石のプールに、幾何学模様に配置された数多の象徴呪具。その大半は生贄だ。禁忌の博覧会とも言うべき邪智の結晶が犇めいている。


 総勢六十の教徒と、その百倍の数の培養体(自分たち)が見守る中、宗主リュディガーは黒鴉神──あくまで意思疎通のための端末である一羽のカラス──と会話をしている。


 厳格で重々しい声が、(くちばし)から言った。


「おお、おぉお……妖精の取り替え児(チェンジリング)! おのれ羽虫め……隠していたなッ!」

「なに?」


 黒鴉神の常ならぬ激昂に、宗主リュディガーを含めすべての教徒がざわついた。

 否、それだけではない。

 黒鴉神の配下。その中でも儀式に参列することを許された選りすぐりの獣神たちの間からも、明らかな興奮と動揺の気配が立ち上り始める。


「先ほど一瞬、貴様の”夜”に青い光が灯ったような気がしたが……まさかそれか?」

「然り。よもや八百年振りに……まさかこのような大事を成さんとする時に訪れるとは……」

「……精霊女王がなにかしているのか」

「たわけ。吾らが取り替え児を見つけて、なにもしないワケがあろうものか。大方、お得意の緑化(・・)で早々に独り占めするつもりだったのだろう……ククッ、思わぬ反撃を浴びたようだがな──契約者」

「なんだ」

「汝の術に、取り替え児を組み込むコトは可能か?」


 黒鴉神の問いに、宗主リュディガーはピクリと片眉を跳ね上げた。


「……問題ない。だが、いいのか? チェンジリングは貴様らにとって特別だろう。殺すことになるが」

「よい。これは運命だ。取り替え児の魂をも供物とし、吾は新生する。これほどの歓喜はおよそ無い」

「貴様がよかろうと、貴様の配下はどうだ」

「吾の決定に異議のあるモノがおるとでも?」


 カラスの視線が、グルリと辺りを見回す。

 小さな、それもただの闇夜鴉──カルメンタリス島における一般的なカラス。夜行性で、光を避ける習性を持つ他はただの鳥と変わらない。昼間に活動するカラスに白昼鴉がいる──だというのに、たったそれだけの動作がいやに威圧を伴った。

 滲む汗。心臓を鷲掴みにされたかのような致命の恐怖が周囲を襲う。

 バタリ、バタリ、泡を拭きながら崩れ落ちる培養体。

 獣神たちの中にも、地響きをあげながら膝をつくモノがいる。


 ──そんな中、木立の奥から一柱の神が、ぬっと姿を現した。


「我が王」


 落ち着きのある、よく通る声。

 音もなく大地を踏み締め、巨大な影が驚くほどしなやかに儀式場へと顔を覗かせる。

 途端、半数近くの培養体が白目を剥いて倒れた。

 大気に満ちた獣臭に混じり、異界の毒気(・・・・・)が霧のように広がったためだ。


「──幽界狼」


 宗主リュディガーがすかさず結界を展開しながら呟く。

 “壮麗大地(テラ・メエリタ)”の魔性には三大を除いてこれといった呼び名が無い。

 ゆえに、人界に現れればたちまち二つ名を与えられるだろう獣神も、元となった獣の呼び名で呼ぶしかなかった。


 なにしろ、獣どもは自身の名前というのを生来持たない。


 弱肉強食。食物連鎖。森羅還元。

 野生の法にあるのはそれだけで、個体としての識別など環境神になり言語を解するようになってから、ようやく「王」とか「槍」とか「牙」だとかで呼び分けるようになったのだと云う。

 そんなもの、人間の立場からすれば分かりにくいコトこの上ない。

 よって、宗主リュディガーに倣って教団員は皆、獣神たちを昔の姿の呼び名で見分けていた。


 幽界狼とは、カルメンタリス島における超絶希少種。

 淡いの異界で生まれ、その毒気に抗体を持つ非常に珍しい狼のことだ。

 その生態は謎に満ち、未だ解明されない部分も多数あると言われているが、ひとつだけ確かなものがある。


 それは、幽界狼は淡いの異界を自由に行き来でき、その体毛と眼は絶えず翠緑の燐光を湛えるというもの。

 そして、その光には淡いの異界の空気──毒──を数百年は煮詰めたほどの凝縮毒が宿っているとも。


 ……だというのに。


「はっ、何度見てもふざけているな。幽界狼の獣神など、まったく馬鹿げている」


 宗主リュディガーが言う通り、ただの獣の時点でも十分以上に恐ろしい存在が、よりにもよって環境神なんぞに成っているのは悪夢でしかない。


 権能によって周囲一帯が異界化(・・・)していく光景は、まさに地獄の中の地獄だった。

 宗主リュディガーがこの毒獣と一対一で勝利したというのが、未だに信じられない。


 ……まぁ、だからこそ宗主リュディガーの不遜を黒鴉神も許しているのだろうが。


 幽界狼が唸るように言う。


「我が王の望みは、忌々しくも天より我らを見下ろすあやつ(・・・)との決着をつけることでしょう。

 そのために、この少々噛みごたえのある人間と契約まで結び、転変の儀を起こさんとしているのは承知の上」


 さすれば。


「我が牙と爪にて、必ずや極上の贄──取り替え児を此処へ連れて参ります」

「よかろう。ならば我が牙よ、存分にその忠義を示すがいい」


 主の許可が下りた直後、幽界狼は獰猛に笑い、溶けるように姿を消した。淡いの異界に潜ったのだ。


「……異形化しても術に組み込めるかは知らんぞ」

「心配は無用だ。我が牙に愚者はいない」

「──フン。だといいがな」


 宗主リュディガーは鼻を鳴らすと、儀式場の中央にドカリと座り込んだ。

 そして、偶然にもまだ意識を保っていたこちらへ向かって、一言命令した。


「ちょうどいい。あの生成りの神父も運んでこい。転変途中の魂はさぞ慟哭に満ちているだろうからな。今回の術にはちょうどいい」

「──承知しました」

「他は倒れている者を叩き起こせ! しばし待ちだ! 陣に綻びがないか再確認しろ! 言っておくが儀式の最中、私はお前たちを守れんからな!」

「ククク、吾の庇護をまるで信用していないな」

「黙れ。()()()()()()()()()()、契約は効力を発揮しないのだぞ? こうしている今でさえ恐怖で足が震えているわバケモノめ」

「クハッ!」


 背後で交わされる人と魔の言の葉。

 常人では──いいや、培養体たるこの身を常人と言うのは烏滸がましいコトかもしれないが──それでも、黒鴉神の愉悦を含んだ声音は、とても常人では耐えられない。

 あのカラスが支配する夜空の下では、すべての存在は常に己が魂を無防備に差し出しているにも等しいからだ。

 平然とどころか、むしろ憮然とさえしながら言葉を返す宗主リュディガーに、わたしは恐ろしさを感じている。


 これから始まる儀式も、その魔術も、必要とされる生贄も。


 果たして、ひとりの人間が何ゆえこれほどまでに狂うコトができたのか。

 虚無に沈んだ底なしの双眸が、まるで彼岸に通じているようで……ホムンクルスの身であっても、それがとても胸に痛かった。





 § § §





 ひんやりとした感触が全身を揺らしている。

 ゴトリ、ゴトリと。冷たく、角張った、得体の知れないなにか(・・・)

 それが、まるでおぶるようにして自身を何処かへと運んでいる。

 背丈が足りていないのか、足は地面に引き摺られ地味に痛い。

 だが、その刺激がよい気付けとなったのか、茫洋としていた意識が次第に焦点をくっきりと合わせ始めていた。


(……これは、いったい)


 薄目を開けて辺りを伺う。

 どうやら自分は拘束されてしまっているらしい。手と足、それに口にまで鉄製と思われる拘束具が付けられているが、どれも人間用ではなく猛獣用。かなりガッチリと枷を嵌められている。

 そして、そんな自分をひんやりとしたなにかは、何の遠慮もなく雑に背負っているようだ。

 そのスピードはなかなか速く、力もまた強い。

 樹海のなか、道ならぬ道を苦もなく突き進んでいく。


(……ゴーレム。いえ、ゴブリン……?)


 よく分からない。

 が、とにかく人間でないのはたしかだ。

 得体の知れないなにかはズルズルとゼノギアを引き摺りながら何処かへと向かっている。


 ──もしや、狩猟にでも遇い、まんまと巣に持ち帰られる途中なのだろうか?


(抵抗は……できませんね)


 全身が痛い。

 鈍るような重い痛みが四肢を封じている。

 辛うじて指先は動かせるが、少しでも力を入れようとすると途端に脳が拒絶反応に震えた。


(っ、く……そうか。わたくしは、負けたんでしたね)


 ザァザァと皮膚を打つ雨垂れの中、ついに見つけた魔術師に向けて、ゼノギアは殺意の矢を番えた。

 絶対に殺す。是が非でも殺す。赦しはしない。

 猛る怨みと憎しみから、半ば狂気に身を委ねて灰色の男──典型的なローブ姿の魔術師を討とうとした。


 しかし、接触の瞬間。


 魔術師はパチンと指を弾くと、ゼノギアを徹底的に痛めつけた。

 起きた現象としては、音の破城槌。

 こちらが矢を撃ち放つよりも圧倒的に早い衝撃波の奔流。

 それにより、ゼノギアは文字通り一矢として報いるコトも叶わず、実にあっさりと意識を手放す羽目に陥ってしまったのだ。

 通常、魔術は用意している象徴の数が少なければ少ないほどに威力や効果を減じてしまう。

 なのに、たかだか指の鳴らす音だけで人ひとりを昏倒せしめる衝撃波を生み出すなど、尋常ではない。

 あれは、間違いなく熟達した魔術師でなければ為し得ぬ技だ。


(そのうえ、資金も潤沢ときた)


 魔術師はゼノギアを圧砕すると、嵌めていた指輪のすべてをパラパラと投げ捨てた。

 地面へ散らばる十の宝石。

 そして、懐から新たに十の指輪を取り出すと、それらをゆっくりと自身の両手に嵌めていったのを覚えている。


 魔力(宝石)を完全に使い捨ての道具と割り切っていなければ、この時代、ああはできない。


(……なるほど。わたくしなど、歯牙にもかけないワケです)


 禁忌とされるホムンクルスを何年にも渡り培養し続け、挙句、人工的に混血児を生み出すほどの男。

 魔術師としてもそうだが、人間としての狂気の桁からしてゼノギアを遥かに上回っている。

 役者が違う。格が違う。想いの丈が違うと身に染みて感じるものがあった。

 刹那にも満たない邂逅ではあったが、交わした視線はハッキリと覚えている。深い深い灰の奈落。ああいう眼は、目的のためなら周囲を躊躇なく轢殺できる人種のモノだ。

 ゼノギアにはそこまでの外道は為せない。


(……時間も、今はもう普通ですね)


 生死の境を彷徨い、体力がかなり失われているからか。

 それとも、復讐相手に敗北したのが切っ掛けか。

 雨も止んで、今はむしろ酷く緩慢とした時の流れを感じている──恐らく、死が近いのだ。


(当然です……あの魔術師はわたくしを殺す気だった)


 法も倫理も道徳も(なげう)ち、災厄地で何かしらの企てを目論んでいるような危険な男。

 そんな奴が、突如としてクロスボウを構え、自分に殺意を向けてきた他人などに中途半端な情けをかけるはずがない。

 ゼノギアが未だ生きているのは単なる偶然か、予想外の回復によるものだろう。

 しかしそれも、厳重な拘束と現在進行形で怪物の巣に持ち運ばれているコトを鑑みるに、泡沫(うたかた)だ。

 もしも仮に、もうじきこの怪物に食われるようなコトが無かったとしても、ゼノギアはその前に力尽きて死ぬ。


(ははは──まさに、ゴミのようなわたくしには何とも相応しい最期ですね)


 思えばこれまでの人生、真に価値ある何かを成せたコトがひとつでもあっただろうか。

 信仰に生き、信仰に裏切られ、助けようと関わった誰かはみんな助けられなかった。

 我が両手。我が十指。その隙間から零れ落ちた命のなんと多いことだろう。

 それに比例して、我が背。我が双肩。伸し掛る罪は計り知れない。


 もはや幕だ。人生という名の舞台を終わらせるには、不評の数があまりに十分すぎる。


 無為に無意味に無価値に死ぬ。

 それこそが、ゼノギアという男の人生の総決算。


(──フ)


 目蓋を閉じ、意識をゆっくりと曖昧に溶かす。

 この世で最後に味わうものが、まさか怪物の冷たい背中になるなんてまったく予想だにしていなかった。これでは神の御国など到底望めるべくもない。

 だが、地獄の中でもきっと有数の咎人であるに違いない自分にとって、死出の旅路が魔物と共にあるというのは……良い。安心して、地獄まで身を任せられる。


 ゼノギアは小さく息を漏らすと、身を思うままにそっと委ねた。

 怪物はゼノギアを勢いよく地面へ落下させた。



「ごっ、ごフッ?! な、なにゆえ!?」

「よし! 生きてる!」



 硬い地面と濃厚な抱擁を交わし、痛む身体に鞭を打って頭上の声を見上げた。



「救・出・成・功! 食らえ霊水!」



 頭から滝が降って来た。





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