#46 心虚しくて
この世に神はいない。
少なくとも、人を愛し救ってくれる天上の超越者なんて代物は薄っぺらな夢幻だ。
矮小で卑小な人間が、その弱々しさゆえに不条理を嘆き、現実から逃避するため、ただそれだけのために思い描いた虚構であり絵空事。
誰しも夢を見る自由はあり、ときには空想の世界で悦に入るコトもあるだろう。
しかし、おおよそ神なんてまやかしをあたかも実在するかのように信じ込むのは、酔漢の戯れ言を真に受けるよりも、なおくだらない。
妄想にしても、不埒が過ぎるというモノだ。
「私は、聖職者という人種を嫌悪する」
ありもしない妄想を抱え、現実を直視するのを止めた惰弱の徒。
自分ひとり、性根から腐っていくならばまだいい。
だが、聖職者などと呼ばれる立場と権威を得たクズどもは、己だけでなく他者をも道連れにしようと日夜励んでいる。
──神は世界を創造した。神は人間を愛している。秘宝匠よ、その業前を存分に振るうがいい。聖なる恩寵。それこそ他ならぬ神の愛の証明。ゆえに人々よ、神に感謝を捧げ。
まったく……度し難いとは、まさにこのコトだ。
妄想を真実だと思い込むのは百歩譲って許してやろう。
しかし、その狂信を他人にまで押し付けるな。ましてや、善行ぶった態度で恩着せがましく偉そうにするんじゃない。
何が教義だ。何が聖典だ。神の教えを授けてやろうなどと、片腹痛いわ死ねよクズめ。
ご大層な教義とやら。それはいったい何処の誰の妄想なのだ?
仮に神がいたとしても、神がほんとうに人間を救う有り難い存在なら、どうしてわざわざ教義なんてものを広める必要がある?
超越存在なのだろう?
人間を愛しているのだろう?
ならば救えよ。今すぐに。もったいつけるコトなどないじゃあないか。それともアレか。神様というのは、自分の価値観、主義主張を他人に同調させなければ、毛ほども救いの手を差し伸べてはくれないケチな奴なのか?
だとしたら、そんなモノは神ではない。
自らの利益のため、無知で愚かな衆人から金品を掠め取ろうとする下衆の輩。もっと言ってしまえば摺師や詐欺師の類と同列だろう。
透けて見えるぞ。下劣な本性が。
「だから、私は不思議で仕方がない。なぁ、貴様らはなぜ、いつまでも神などという嘘に踊らされたままでいるのだ? ほんとうはとっくに気づいているのだろう? 神の欺瞞性に」
「…………」
鎖で繋がれ、手枷や足枷どころか口枷すら嵌められた男は、何も答えない。
当然だ。すでに半死半生のありさまで、意識など出会った瞬間に刈り落としている。ほんとうは殺すつもりだったが、生成りというのが幸か不幸か男を生かし続けていた。生死の境が曖昧になっているおかげだろう。
なので、これでもしまともな言葉が返ってくるようだったら、またぞろ限界を試す羽目になっていたところだった。
「──宗主リュディガー」
「なんだ」
「黒鴉神様がお呼びです」
「すぐ行くと伝えろ」
「はっ」
気配が遠のき、洞窟内に元の静寂が戻る。
“壮麗大地”は霊骸柩の宝庫だ。
獣が神に成る地などと言われるが、恐らく半分は島のどこかで死して環境神と成り果てた獣どもが集まって来ている。
そのため、天寿を全うした獣神の霊骸が数キロ程度の間隔で数多く点在している。
貧弱な人間としては、安全な拠点に事欠かなくて非常に助かっているが、そのせいで常に監視の目が光っているのが気に入らない。
(神とでも呼ぶしかない権能を持っているがゆえに神の一字を与えられた)
獣神など、所詮はその程度の存在でしかない。
とはいえ、その『その程度』が無視できないがために、下手に機嫌を損ねるコトもできないワケだが。
“壮麗大地”の霊骸柩は、そのどれも例外なく黒鴉神に忠誠を誓っていた獣神の遺骸でできている。
やはり最厄地の獣神ともなれば、その霊威も尋常ならざるモノがあるのか。
死してなおも残る忠誠心は、不遜な人間の一挙手一投足を少しも見逃さず主のもとへ報告してしまうから実に厄介だ。
腰を上げ、瀕死の男──金髪の神父から視線を切り上げる。
宗主リュディガー。
先ほどの伝令係にそう呼ばれた自分を、いささか滑稽だなと自嘲しながら。
神を信じず、その走狗をも蛇蝎のごとく嫌悪の対象としている自分が、こんな異邦の地で仮にもバケモノを崇める邪教の長にまで成り上がっている。
運命とはつくづく皮肉なものだと、眉間に寄る皺が止められない。
だが、あと僅か。
(あともう少しで、私の目的は達せられる……)
すべては約束を果たすため。
魔術師リュディガーの悲願が叶えられる時は近い。
研究も、それに必要な資金も資材も。術式を成り立たせるために用意した幾つもの鉱物。単純な魔力源としても、儀式を成すための必須要素としても役割を果たす宝石類に呪具の数々。
長年練った計画は、様々なトラブルを経つつも、あとほんの少しのところで、大輪の花を咲かせようとしている。
「ヒルダ……」
もはや喪われた愛しき名を呼ぶ。
そうしたところで、妻の声が、言葉が、あの笑顔が、現実に返ってくるコトなど二度とない。
だが、心の中ではいつだって、片時と忘れることなく妻が共にある。
大願成就の時は──近い。
「……」
洞窟を出ると、まだ昼日中であるはずにもかかわらず、空に夜の気配が漂っていた。
太陽は未だ中天に御座しているのに、東からも西からも空にグラデーションが生まれている。
──バケモノめ。
胸中で悪態をつきつつ黒鴉神の元へと向かう。
そうしながら思うのは、やはり自らが此処へ至る切っ掛けともなった、呪わしい過去の記憶だ。
五十三。すでに人間の寿命的には老境と言っても過言ではない歳になっているからか。
あるいは、三十年もかけてようやく結実を迎えそうな大仕事を目の当たりにし、我ながら感傷にでも浸っているのか。
「両方ともというのもありえるな」
老いたものだ。
そう感じながら、けれど意志だけは微塵も衰えさせてなるものかと。
胸の奥で蟠る想いの痼へ、薪を焚べた。
魔術とは、金である。
有史以来、人間が魔術という技術を手に入れてより、カルメンタリス島に生きる人々の間では、魔術師の才能とはそれすなわち財力である。
金をどれだけ持っているか、また、どれだけ金を工面できるかが、魔術師としての格を決定的に定めづけると云われている。
というのも、魔術というのはとんでもなく金のかかる代物だからだ。
知識さえあれば誰にでもできる、などと世間では触れ込まれているが、実態は大きく異なる。
仮に、正しい知識があり、適切な術式を構築できる優秀な頭脳があったとしえも、魔術を成立させるには、その動力源となる『魔力』をどうにかしなければならない。
そして、単純な魔力だけを用意できても、今度は術式を成り立たせるための『象徴』を集める必要がある。
天の時や星の運行にも影響を受ける場合があり、繊細な配慮と絶大な集中力をも必須とする。
そして、それらは得てして上流階級に生まれ育ち、幼少期から英才教育を受けられる環境にいなければ、なかなか揃えるのが難しい。
魔法使いと違い、魔術師はその肉体に魔力を持たない。
だから、魔法使いが苦もなく呪文を唱えて超常現象を起こせるのに比べて、魔術師はまず超常現象を果たすための魔力確保から始めなければならない。スタートとなる地点が、先ず以って違う。
加えて、魔力を知覚する感覚すらも、魔術師は魔法使いに比べて遥かに劣っていると言わざるを得ない。
生来備わっていない力。
つまりは、生き物としては別に必要のないエネルギーであるため、はじめは世界の何に魔力が宿っていて、何に宿っていないのか。それがまったく分からない。
空気中に漂う極小の魔力に至っては、たとえ熟練の魔術師であっても素の肉体では感知するのも不可能だ。
ゆえに、魔術師を志す者は誰もが優秀な師と、魔力の気配を覚えるために必要な宝石類とを求めるコトになる。
師に関しては特に言うまでもないだろう。何事も先達の指導があれば熟達も早い。
では、なぜ宝石なのかというと、それは魔力を貯めやすい物質として、宝石が一番一般的だからだ。
大地の熱と圧力により、非常に長い年月をかけて緩やかに、だが少しずつ生まれ育つ宝石類は、その過程で島の霊脈から魔力をも集めて凝固する。
結果、小さな石ころに過ぎなくとも、宝石には必ずと言っていい確率で高純度の無色の魔力が宿るのだ。
そして、無色の魔力というのは、とかく周囲の影響を受けやすい。染まりやすい、と言い換えてもいい。
人間やあやしのモノどもが備えている魔力は、まず先に本体の情動や想念が優先される。
管理権限。否、命令権限が常に持ち主をトップに据えているからだ。
だが、宝石に備わった無色の魔力には、本体と呼べる上位権限者が存在しない。
よって、周囲にある何もかもが平等にその魔力を自由にできる権利を持っている。
単純な魔力源とするもよし。
抽出して加工を施すのも、触媒にして術式の助けにするもよし。
無色ゆえにどんな術式にも応用が効く。
基本としては、紅玉を火の象徴に見立てて自在に発火させられるようになれば、魔術師としては見習い卒業だ。
……無論、宝石以外にも魔力を宿した物質はたくさんある。
月光を蓄えた湖底の砂。虚空より来たりし星屑。霊脈上に育った樹木や花。ドラゴンの鱗や水棲馬の蹄なども、もし手に入れられたら最高だ。
しかし、これらは宝石に比べて、あまりにも入手するのが困難。ハッキリ言って、不可能に近い。
なぜなら、調達するのが絶望的に難しいからだ。
人里離れた秘境や深山まで仮に足を運べたとしても、帰ってくるコトはまずできない。バケモノの餌食になるのが目に見えている。
だからこそ、魔術師は皆、比較的容易に入手しやすい宝石こそを親しい友に選ぶのだ。
が、しかし──
(……宝石は高値い)
なにせ宝石だ。宝の石だ。
庶民の生まれでは早々拝められる縁も生まれないと来ている。
かと言って、自分の手で採掘などして調達しようにも、すでに人類の生息圏で採れそうな粗方の鉱脈などは、教会と秘宝匠、一部の豪商がガッチリと抑えてしまっていて難しい。
採掘権などの利権問題も絡んできて、身分の低い魔術師は下手したら裁判沙汰からの投獄にまで発展する。
なので、魔術とはやはり金なのだ。
魔術師として大成しようとするなら、資金が潤沢であるコトが真っ先に求められる。
名家に生まれ、親の七光りでも豪商との癒着でもいいから使えるものは何でも使う。
金が魔術師の生命線だ。
リュディガーは宝国──血と汗と涙の鉄火場、レグナム・アッキデンス。
職人たちの楽園とも呼ばれる西部の出身なのだが、景気の良さが売りの宝国では珍しいことに、非常に貧しい家の生まれだった。
まぁ、それも当然といえば当然。
よりにもよって、リュディガーは秘宝匠の権威が国の隅々まで行き届いている国で、魔術師の家系に生まれたのだから。
魔法使いの刻印──印具などの呪具を商売敵と嫌っている職人たちの国で、神聖な神の恩寵とは程遠い魔術妖術の使い手が、日の目を見ぬのはあまりにも至極真っ当な流れ。
家族揃って、日銭を稼ぐ仕事にも苦労する毎日だった。
若き日のリュディガーは、そんな生活が嫌で仕方なく、いつか必ず南の魔国へと移り住むのだと。才能のある自分は、そこでなら必ずいい暮らしができるに違いないと考えていた。
(だが、移住をするにも路銀は必要不可欠。食糧や宿代。それにそもそも、魔国に行ったところで上等な服がなければ信用が得られん)
人は見た目で判断する。
信用が得られなければ、こなせる仕事も貰えない。
だいたい、宝石がなければロクな魔術も使えないのだ。
何をするにも結局は金、金、金がついて回ってくる。
──だから。
「お嬢様の病、この私が癒して差し上げます」
「頼むぞ魔術師。もはや儂は貴様らに縋ってでも娘を救いたい。救えなければ殺す」
「お任せを」
十六の時、国の豪商で秘宝匠の名家でもあった大商人の屋敷で、そこの一人娘が有名な心臓の病に罹って重篤だとの噂を耳にした。
病は深刻で、豪商の父親は一人娘を溺愛しており、娘を救うためならどんなことでも──魔術師の操る妖しげな業に縋るほど困窮しているとも。
娘の病魔を取り除き、その命を救いさえすれば、どんな願いでも叶えてやるという触れ込みもあった。
まさに、千載一遇のチャンス。
命を懸けるのはまるで惜しくなかった。
貧しい暮らしは人間を極限まで追い詰める。
父も母も耐え切れず、ついには邪法に手を出し自ら命を絶った。
自分はああはなりたくない。
魔術師として成り上がるためならば、たとえそれが命の危機を伴うモノでも、絶対に掴み取ってみせる。
覚悟は疾うの昔に済んでいた。
全力で、本気で、人生を賭して。
救える保証など何も無かった。
豪商一家の一人娘というコトは、当然、名のある名医や貴重な薬、治療法などには片っ端から当たっているはず。
それでもなお病状が快復しないというのなら、それは未だ人類が克服し切れていない不治の病。
魔術の腕に自信があり、自らの才能を微塵も疑っていなかったとはいえ、たかだか二十歳にも満たない若造の自分が、ほんとうに治し切れるものなのか。
確証は無かった。自信も、実を言えば半分も無かった。
けれど、だとしても……道はこれしかないのだと。
己を救うように、娘を救おうと全霊を注いだ。
(──魔術は、大きく分けて『象徴』と『因果律』の二要素によって超常現象を可能にする)
第一に、高純度の宝石──動力源となる無色の魔力。
第二に、自分がこれから何を為したいのか。思い描く理想像、最も欲する未来と強く結びつく最適な触媒──すなわちは象徴となる材料・道具の準備。
第三に、準備した触媒を使っての術式の構築。具体的に、どういうプロセスを経れば望む結果に至るのか。今度は静的な象徴ではなく動的な象徴となる擬似行為を以って架空の因果律を創造する。
そうすることで、世界に一種の暗示をかけ、無色の魔力に色を与えてもらう。
分かりやすく説明すれば。
(ポピュラーなところを挙げれば、雨乞いや生贄の儀式と要は同じだ)
天から水を降らせるため、象徴となる水を用意し、それを葉のついた枝で地面へと振り撒く。
干ばつや不作に対し、生き物を地に還らせるコトで生命の象徴を大地に与える。
どちらも古来より人が神や悪魔へと願掛けとして行う非常にポピュラーな風習だが、元をただせばこれらも立派な魔術だ。
悪しき風習、低俗な迷信とハッキリ違う点があるとすれば、それはただ求める結果に対してきちんと必要なだけの魔力を用意していたかどうかが鍵になるだろう。
あとは術の担い手が、どれだけ術式を巧みに作り上げているか。
一流の魔術師。熟練した老魔術師などは、小さな紅玉一つと指の擦り合わせる動作だけで、自由自在に火を操ってみせるらしい。
燃えるような赤に摩擦の熱。
たったそれだけのピースを揃えた暗示で、世界を見事だまくらかしてしまうのだ。
さしずめ魔術師は、超一流の詐欺師とでも言えよう。
──であれば。
「病魔が巣食っているのは心の臓」
悪性の腫瘍。
それを取り除きさえすれば、豪商の娘──ヒルダは助かる。
しかし、胸部を切り開き患部に直接刃物で処置を施すなど、そんなコト現実的にできるワケがない。
人道的に許されぬし、失敗すれば患者を無為に傷つけて終わるだけだ。
何より、教会勢力の目に留まれば、一発で異端の認定が下るだろう。国の法も許しはしない。
「……けれど、魔術を使えばその限りではない」
重要なのは象徴と因果律。
必要な魔力はヒルダの父親が金に糸目をつけず用意してくれるし、触媒も同じだ。
あとはただ、組んだ術式を自分が無事に成功させるだけでいい。
病魔に犯されたヒルダ自身の血。
腕のいい職人に造らせた精緻な心臓模型。
魔力をふんだんに使い、ヒルダの鼓動と同じタイミング、同じ大きさ、同じ悪性腫瘍をも再現しながら、三日間片時も離れず、飲まず食わずでようやっと、霊的な共鳴──本物の心臓と模型の心臓とのシンクロを開始させるに至った。
そして、そこからは集中力との戦い。
シンクロを始めた以上、模型の停止や破壊は娘の死へと直結する。
細心の注意と、失敗が許されないという圧倒的プレッシャーに全身を押し潰されそうになりながら、リュディガーは丁寧に丁寧に……悪性腫瘍を切除する作業に臨まなければならなかった。
三日間の不眠。それと疲労。
途中からは、自分がいったい何故こんなコトをしているのか、それすらもまったく分からなくなってしまうほどに、厳しい時間が続いた。だから、
(……成功したのは、単なる奇跡だった)
文字通り、命を削る魔術を行使した。
術式の完了と同時に意識が途切れ、目を覚ましたのはそれから一週間後。
そこでリュディガーを待っていたのは、純粋な驚きと思いがけぬ光景。
揃いも揃って魔術師という人種を下に見ていた豪商一家が──とりわけヒルダの父親である当主が、涙を流しながら地べたに頭を擦り付けて自分に感謝を口にした。
──ありがとう、ありがとう……ッ! 君は儂の恩人だ……! すまなかった、ほんとうに、すまなかった!
出会ったときは失敗すれば殺すとまで言っていた人間が、魔術師である自分に頭を下げて、感謝と謝罪の言葉を口にしている。
意識が戻ったばかりの直後では、その光景がどうしても夢のように感じられ、なかなか目の前の現実を受け止め切れなかった。
当主は語った。
リュディガーが全身全霊を注ぎ、精も根も尽き果てる様子で身を削りながら愛娘を救おうとしている姿を見て、感動したと。
これまで頼りにしてきた医者や薬屋は、誰も彼も娘の病に匙を投げるばかりで、口を開けば諦めろと言うばかりだった。
けれど、そんな言葉を受け入れられる親が何処にいよう?
大切な我が子を助けてあげたい。代われるものなら自分が身代わりになって、その苦痛を取り除いてあげたい。
藁にも縋る思いで、ここ最近は少しでも可能性があるならと広く人を呼んだ。
だが、我が家が名家であることと、報酬に大金を積んだのが逆効果になって、近頃は狐狸野盗の悪党ばかりが現れるように。
魔術師であるリュディガーのことも、はじめから信用してはいなかった。
しかし、蓋を開けてみれば今ある現実はいったいどうだ? 君は見事、その真摯な姿勢と誠実さで以って、我が娘を救ってくれた。これほど感謝と慚愧に堪えないコトはない……!
君さえ良ければ、ヒルダの夫として家族に迎え入れたいと思う。
「──ぁ、わ、私のような、ま、魔術師を……?」
「構わん。ヒルダも君に惚れている」
「ぇえっ!?」
「リュ、リュディガー様……」
「──な」
人生が花開く。
それは、思いもしていなかった方向からの、幸福の始まりだった。
ヒルダは箱入りの令嬢で、幼い頃から蝶よ花よと育てられ、礼節や気品にも申し分ない可憐という言葉が実によく似合う美少女。
彼女の赤く染まった頬と、恥ずかしそうにチラチラと上目を遣う仕草に、若き日のリュディガーは一撃で心を奪われた。
魔術を行っている最中や、それ以前はまるで魅力的な異性であるなどと、頭の中にはこれっぽっちも無かったはずなのに。
(──我ながら、恥ずかしいほどに純情だった)
周囲から注がれる視線が暖かなものに変わり、親愛と絆、優しさと気遣い、人の手の温もりといった、そういう幸せを感じてしまったコトで、自分の中で張り詰めていた糸がそっと緩んでいったのを感じた。
貧しさゆえの卑屈さ。
恵まれぬ境遇ゆえの強くならなければならぬという強迫観念。
しかしそれらは、もし、たったひとりでも己を認めてくれる人が傍にいれば、もうそれだけで……簡単に取り払われてしまう、なんとも薄い虚勢だったのだろう。
リュディガーは、新たな人生を歩み出した。
もちろん、魔術師という出自ゆえ、すべての人に最初から受け入れられたワケではない。
妬み嫉みやっかみは多く、口さがない者からは卑しい成り上がりだと陰口を叩かれているのも知っていた。
けれど、そんなものより遥かに、今ある現実が尊くて。
心清らかな妻と、頑固ながらも情に厚い義父一家。
ある日、妻ヒルダが五人の子どもを身ごもったと報せがあったときには、世界が眩しすぎて立っているのも覚束ず──泣いた。
感動のあまりに全身がカッと熱くなり、溢れる愛おしさが涙を滂沱と流れさせたからだ。
南の魔国へ行き、魔術師として大成するという夢は、もうその時には忘れていた。
子どもの頃からアレほど修練を積んだのに、これからは自分も商人として生きていこうか、なんて。帳簿の付け方や金勘定の勉強まで始めていた。
もしかすると、神様はほんとうにいるかもしれないとまで考えるほどに。
──だが。
(妻が……ヒルダが産んだ子どもたちは──カムビヨンの仔らだった)
隔世遺伝。
遠い昔、リュディガーとヒルダのどちらかの祖先が魔と交わっていた。
早い内に父母を失ったリュディガーは、自分の家系がどういう流れを汲むものなのかを詳しく知っていたワケではない。
しかし、片や秘宝匠の名家と片や下賎な魔術師とでは、そのどちらかを考えた時、あまりにも答えは明白だった。
アノス、クゥナ、ネイト、ミレイ、ヨルン。
祝福されて生まれ、またリュディガーたちに幸福をもたらすはずだった五人の子どもらは、一転して忌み子へと変貌した。
そして、卑しい成り上がり者だったリュディガーを内心好ましく思っていなかった人間──ヒルダの家とは競争相手であった他の豪商たちや、一部の魔術師の手によって、噂は立ちどころに宝国中に広がっていった。
──悪魔の血が混ざった秘宝匠。
──聖なる血統を穢した邪悪なる魔術師。
──清純な顔の裏側はやはり淫売だった。
──悍ましい怪物が五匹も国の中に。
──殺せ。
──そうだ。
──悪魔は殺して、首を吊るせッ!
民衆の声はまるで大火のごとく一瞬で勢いを増し、その熱と狂的な悪意は轟轟と燃えていた。
屋敷には火をつけられ、刃物や棍棒を持った人間が怒号をあげてリュディガーたちを襲った。
魔術師である自分を家族にしてしまったために、心優しいひとつの一家が皆殺しにされてしまったのだ。
「行けぃッ、リュディガー! ヒルダを守れ!」
「当主様! しかし!」
「儂らは君を受け入れたことを後悔などしておらん。あの日、君が娘を助けてくれた事実は変わらない! だから逃げろ! 子どもたちも連れて、家族で幸せを掴め!」
恩返しくらいさせろ。
そう言って背中を見せた義父の覚悟を今でも覚えている。
だから、
「あなたッ」
「クッ……行くぞ!」
ヒルダの手を引き、子どもたちを馬車に入れ、飛んでくる火矢や石礫に晒されながらも懸命に手網を握りこんだ。
走り、走り、ひたすらに走り続け、
「ハァッ、ハァッ、やっ、やった。ついに追っ手を撒いたぞ! ヒルダ! ヒルダ! もう大丈夫だ! 助かったんだ!」
夜が明け、日が昇るほどの時間、馬を走らせ続けたその先で。
御者台から降りて、強く握り締めすぎていたせいで皮が裂けていた両手をひそかに隠しながら、馬車の扉を開けた。
「────ヒル、ダ?」
そして知る。
もうすでにそこには、愛する妻も子どもも何処にもいなかったコトを。
考えてみれば、当たり前だった。
追っ手は後ろから馬車を追っていたのだから、御者台にいる自分より、屋根と壁があるとはいえ後ろにいる妻と子どもたちの方が、遥かに的になりやすい。
リュディガーは馬を走らせ、前へ前へと向かうその一心に囚われすぎていた。
後ろの壁が、もしも攻撃に耐えきれず壊れるようなことがあれば、吹き曝しになった馬車の中、妻と子どもたちはどうして無事でいられる?
突き刺さった矢。投げ込まれた石。中には汚物の塊も、槍の穂先のようなモノさえ……
事切れたカラダは、とっくに冷たくなっていた。
ヒルダは最後まで子どもたちを守ろうと身を呈していたのだろう。
その背には実に十以上の矢が刺さり、頭からは血が流れていた。
なのに、それでも結局、子どもたちも息をしておらず。
「わ、私は……なんだ?」
守るべき倖せを守れず、それどころか優しい誰かをたくさん傷つけて喪わせて、そのうえ自分ひとりだけ助かっている。なんだそれは。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
「……ァ、あァあッ、ぅあああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
死のうと思った。
もう何も見たくない。
世界は苦しいだけ。
人生は辛いだけ。
両親がなぜ自ら命を絶ったのか、今ならばはっきり分かる。
こんな現実には耐えられない。一秒だって長く留まっていたくない。
ゆえに死のう。終わりにしよう。
リュディガーは両手で、衝動的に自分の首を絞めた。
指が首に埋まるほど。
爪が皮を破り肉を抉り、目から血が出て口から泡が零れても。
それでいい。ここで死ね。
気道を潰すつもりで手に力を入れ続けた。
(──だが)
リュディガーは死ねなかった。
愛する妻の光を失った瞳が、じっとこちらを見つめていたからだ。
死ねない。死ぬワケにはいかない。
そんなコト、ヒルダや義父が望んでいるはずがない。
だから────
「……来たか、契約者」
「来たぞ、バケモノめ」
「儀式の準備に問題はないか」
「愚問だな」
「ならば術を始めよ。汝の欲するところを為すがいい」
「言われずともそのつもりだ────私は、倖せにならなければならないのだから」
たとえこの島の人間を全員殺し尽くすコトになっても、復讐を果たすまで人生は取り戻せない。
あれから三十年。胸の中の穴を埋められるものは何も無かった。
味覚もない。どんな娯楽に手を出しても、ちっとも楽しくないし喜べない。
復讐は虚しいと誰かが言う。
けれど、復讐でもしないと、今あるこの虚しさはやはりどうにもならない気がするのだ。
……だから、なぁ、いいだろ別に?
「これより、『業魔転変の儀』を執り行う」
夜羽の獣。“壮麗大地”の三大。
神にも等しい権能を持つバケモノでさえ、叶えたい願いがあるのだ。
たったひとりの人間のちっぽけな復讐くらい、叶えたって別にどうってことはありはしない。
さぁ──黄昏を始めよう。




