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#45 焼けた瞳




「“夜這う瑠璃星(ラピス・ラーズリ)!」


 その魔法が発動されたとき、まず現象として起こったのは空間の塗り潰し(・・・・)だった。


 まだ幼い少年が右手に持つ黒塗りの杖。

 未熟ながらも二つの呪文を刻まれた印具は、主を中心におよそ半径三十メートルほどの距離範囲で『光』の消失を行った。

 視覚は言うに及ばず、魔法の効果が影響を及ばす空間内部であれば、そこに存在するすべての生物、非生物とを夜の暗闇(・・・)という概念的に(とざ)された世界に叩き込む。


 それは言うなれば、外界情報の遮断。


 常日頃、人も獣も草木ですらも感じ取っているありふれた外部刺激。

 太陽の明かりや体感気温など、そういった『外界』から与えられる一切の情報を瞬間的に剥奪したのだ。

 闇というモノに対して、人が根源的に避けられない恐怖心。

 まったき無明。

 そこから呼び起こされる、未知ゆえの疑心暗鬼。


 精神は混乱を来たし、焦燥はやがて脳を狂わせる。


 ゆえの──“(ノクティス)


 岩の巨匠。巌の巨人。動く岩石城。

 いま、まさにラズワルドに向けて拳を振り下ろす最中にあったスプリガンは、数瞬、自己を見失いどうしようもないほど不安(・・)に駆られたに違いない。

 ラズワルドが願ったのはそういった効果を与える魔法であったし、元来、目眩し(ノクティス)は感覚器官や精神に併せて作用する呪文として頻用される。


 だからこそ、備え持った魔力や抵抗力で解呪(ディスペル)が可能なモノを除き、その魔法の効果は確実と言えた。


 なにせ、効果範囲は使い手であるラズワルドを中心とした約半径三十メートル。

 地下も含めた魔法の影響は、結果的に空間内に球形の()を発生させたからだ。

 生物非生物。有機無機。人魔を問わない強制暗転は、当然、大気に漂う魔力にすら遮断の力を通す。

 振るうべき拳の対象をも見失ったスプリガンは、その瞬間、たしかに自らの動きを制限されただろう。


 光なき闇の円蓋(ドーム)


 それが、現象としてまず発生した一番目。


 しかし、先ほどもすでに述べた通り、ある程度の抵抗力を持つモノにとって、“(ノクティス)”の魔法は解呪するのが容易い。


 なぜか?


 理屈は簡単だ。

 自身のカラダに起きた異常が他者の魔法(魔力)に起因しているならば、不要なものは取り払ってしまえばそれで済む。

 自分自身の魔力を活性化させるコトで、他者の魔力を体外へと押し流すのだ。

 自分という色の原料(・・・・)がどうあっても減らない以上、後から被せるように混ぜられた絵の具はそれで打ち消せる。


 仮に、それが無理であったとしても、相反する魔法で丁寧にこそぎ落としてやれば支障はない。


 ただ、その場合は我が身を襲っている異常に対して、適切な理解が必要になるだろう。

 目眩し(ノクティス)を食らっているのに(グラキエース)を唱えるとか、そういったトンチンカンなコトをしても意味が無いからだ。


 したがって、ラズワルドがもし“(ノクティス)”だけを刻んでいたなら、勝負は呆気なくスプリガンの勝利と終わったに違いない。


 眩まされた視界も一瞬の後には正常に戻る。

 逸れた狙いは修正され、巨いなる拳の一撃は目標を誤たず破壊。精霊女王は可愛らしい抵抗、せめてもの足掻きでしたねと微笑みを浮かべる。

 順当な結末。

 あまりにも必然の流れ。

 想像するのにまったく難くなかった。


 けれど、


(──フ、フフフ)


 いったい、私以外の誰が知っていよう?


 極寒の冬山で、あの子とふたりきり、十年間暮らしてきた。


 相手が誰だろうと何だろうと、邪魔などさせなかったし牙を剥いた愚かな悪魔どもは総じてその命を奪ってきた。


 殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し──殺して。


 ラズワルドと一緒にいるその時間だけが暖かくて。


 だから、母親である自分を除いてしまえば、もはやこの世界には誰も知るモノがいない。


 ラズワルドが初めて魔法を使った日。


 しんしんと雪の降り頻る一面の銀世界で、生まれて初めて魔力を知覚したはずの子どもが、それは見事な火の玉(・・・)を作り出した。

 小さく、不安定で、風に揺れてすぐ掻き消えてしまう非常に弱々しい火ではあったが、分かるだろうか?


 “(イグニス)”の呪文を唱え、火を熾すコトは誰にもできる。

 だが、何の意識もせずに本来不定形であるはずの火へカタチを与える。


 それは、実際にイメージしようとしても、そう簡単にできる芸当(コト)ではない。

 当然だ。この世界のいったいどこに、カタチを持った火などがある?

 まして球状。玉として丸みを帯びたモノなど、俗人には発想さえ不可能に違いない。

 恐らく、ラズワルドは空に輝く日輪を見て、そこから着想を得たのだろう。

 余人にできる発想ではない。頭の柔らかさが群を抜いている。

 思えば赤ん坊の頃から会話能力や識字力などにも光るモノがあった気がするし、素晴らしい。天才だ。私の息子は世界一可愛い。これは後で何としてでも抱き締めてあげる必要がある。


 つまりは──


概念昇華(・・・・)


 これぞまさしく、人間がその叡智と無謀を以って編み出した刻印励起の偉業。

 夜と火。単体であればどちらもシンプル且つ基礎でしかない魔法を掛け合わせ、そこに使用者のそれまでの人生における情動と想念を注ぎ込む。

 そうするコトで、刻印をより上位、より高次の概念へと生まれ変わらせる一種の高等技術だ。


 仮に、“(イグニス)”と“(グラディウス)”という二つの刻印を施された杖か何かがあったとしよう。

 二つの呪文をともに単なる火と剣として印としたなら、それらはただの印具の域を出ない。


 しかし、たとえば使い手が過去に火災で重度の火傷を負っていたとしよう。

 そして同時に、戦災孤児という設定を併せる。


 さすれば、その魔法使いが火という概念(モノ)に対して抱く情動は果たしてどうなる? 剣という概念(モノ)に抱く憎悪や怒りは?


 概念昇華とは、言ってしまえば人生の象徴だ。

 だがそれゆえに、たとえ刻印歴が短くとも多少のブレイクスルーは必至(とはいえ、やはり刻印であるからには地道な積み重ねが物を言うが)。

 かつて、城塞都市リンデンに着いたとき、ラズワルドは鯨飲濁流を迎撃する刻印騎士団を目撃している。


 そのときから、恐らくヒントはあったのだろう。

 加えて、幼い頃から──今も幼いが──ラズワルドにとって“(イグニス)”はファイヤーボールだ。

 理由は分からないが、あの子は昔から特に意識しなければ自ずと火球を生み出す子だった。


 そして、火球とは一般的に空にて輝くモノ。


 広大無辺な闇の天蓋を、瑠璃色の線がまるで穿つように走る事が時折りある。

 流星。隕石。あるいは隕星。

 夜空を裂き、一等星をも霞ませる紺碧の綺羅星は、ともすれば宝石のように美しい。


 発生した刹那の暗黒を、その内側から瑠璃の火球が軌跡を描いて貫く。


 ……誕生日を祝うために贈ったハンノキの杖が、群青の光を溢れんばかりに湛え出した瞬間、胸中を満たしたのは狂おしいばかりの愛おしさだけだった。


 その気持ちを、胸の上でギュッと両手を握り締めるコトで大切にする。


「────ぁぁ」


 見れば、ともに塔から戦いを見下ろしていた精霊の女が、目を見開いて見惚れていた。

 拳を吹き飛ばされたスプリガンがガクンと膝を着く。

 地響きとともにたくさんの花弁が舞うが、きっと、それすらも気づいてはいない。

 妖精の取り替え児(チェンジリング)だからというだけの感動ではない。

 ラズワルドという、一個の存在だからこそ可能としたジャイアントキリング。業腹ではあるが、自慢も兼ねて認めよう。


 今この瞬間、また新たな魔性がその目を『群青』に焼かれたのだ。





 § § §





 ……起き抜けの感覚というのは、よく浮上(・・)に喩えられる。

 対し、睡眠や気絶などはよく遠のく(・・・)だとかブラックアウトする、などと表現されるが、魔力を限界まで使うと、そのどちらでもない感覚に襲われるコトを僕は知った。


 まず、全魔力を使い尽くすと、幽体離脱のような感覚に陥る。


 夜寝ているとき、たまに自分の身体が下へと沈んでいくかのような落下の錯覚に囚われることがあるが、感じとしてはそれに近い。

 詳しい原理は覚えていないが、たしか寝ている間に脳が誤った信号を筋肉に与えて、そのせいで全身がビクッとしてしまうというやつだ。

 魔力がスッカラカンになると、それに似た感覚が全身に起こり、まるで幽体離脱したかのような気分になる。

 実際の身体はそこにあるのに、感覚──意識だけが離れていって、思わずハッと。

 その直後に、意識が置き去りにしていた身体のもとへ急速に戻ろうとするアレだ。

 たぶん、ウトウトしているときに首がうつらうつらしたコトのある人間なら誰でも分かるだろう。要はそれの全身版である。


 ただし、ハッとした瞬間に意識が再び身体へと重なり合うように戻ってくるコレとは違い、魔力を急激にすべて使い切ってしまうと、幽体離脱の『振り幅』はとても大きくなってしまうようだ。


 擬音的には、ブゥン!


 固めのバネやギターの弦を爪弾いたときの震えとも言うべき音と同時に、肉体と精神が一気に剥離する。

 それによるショックと架空の嘔吐感、頭痛はかなり激しく、僕は白目を剥いて──倒れてしまっていたらしい。


 スプリガンの拳を爆発と衝撃波で破壊したところまではギリギリ記憶していたが、“夜這う瑠璃星(ラピス・ラーズリ)”を放った後、まるで糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちたと聞かされた。


 ──すわ負けたのか!? 


 覚醒後、恐る恐るベアトリクスに確認し、三本勝負の行方を改めて教えてもらったが……我ながら、ほんとうによく一か八かの賭けに出たものだ。

 勝つ気はあったし、あくまで三本勝負なら勝てると見込みもしていたが、もし負けていたらと考えるとゾッとする。


 およそ三十分。


 僕が意識を剥離させていた時間はそれくらいだったが、再び身体を動かせるようになった頃には、スプリガンの拳は何事も無かったかのように再生していた。


 つまり、本物の殺し合いだったら間違いなく僕の敗北だったというコトだ。


 肉体と精神に篭っていた焦りの熱が強制的に冷まされたため、目覚めの直後は鳥肌が止まらないかと思うほど生きた心地のしないものだった。


 ──とはいえ。


「約束は約束。どんな形であれ、互いが納得のもとに始めた勝負で決着がついた以上、貴女には僕の意思を尊重してもらいます」

「……はい」


 垂水の塔、再度の謁見の場。

 どういうワケか自分の翅で顔を隠している女王に、僕はやや気まずさを覚えつつも、努めて何も気づいていないかのように勝利宣言を行っていた。


「貴方様はお強い。ほんの戯れのつもりではありましたが、スプリガンに膝を着かせられる人間はそうはいないでしょう。ゆえに、認めるほかありません。私は貴方様に従います」

「ずいぶん殊勝になったわね」


 やおらしおらしさを増した女王に、ベアトリクスが揶揄を含んだ言葉を放つ。

 すると、女王はさらに翅を高くして顔のガードを厚くした。

 気のせいか、僅かに見える二の腕が赤い。


「恋ですなぁ」

「死になさい」


 突如、薔薇男爵が窓から転落した。

 しかし、落ち際も何枚かの花弁を舞うように残していくのは、なんというか妙なところでさすがと言わざるを得ない。


「……コホン。さて、それで貴方様方のお望みは、たしか“壮麗大地(テラ・メエリタ)”での安全と……失せ人探し、でしたか?」


 顔を隠したまま話が続行した。

 あからさまに不自然な状況が続くが、下手につついて機嫌を損ねてもアレなので、こちらもそういうものだと捉えて話を続ける。


「ええ。名をゼノギア。長い金の髪をした神父であり、今は恐らく半怪異化している大切な旅の仲間です」

「はぁ……ゼノギア……」


 己の支配領域内であればどんな生命の気配も逃さない。

 生命の源流たる水を司る精霊女王ともなれば、肉体の約七割が水でできている人間など容易に感知可能だろう。

 仮に驟雨の獣としてでも、不自然に雨が降っている場所を探せばいいだけだ。女王にとっては簡単なはず。

 僕は期待の眼差しで女王を見つめた。

 だが、


「……申し訳ありません。たしかに人間の痕跡は幾つか感じ取れますが、残念ながらどれも私の領内ではなく……」

「黒鴉神と巨龍の領域内ですか」

「はい。ですので恐らく、すでに死んでいるのではないかと思われます」

「…………」


 精霊とて、別に人間に容赦があるワケではない。

 が、精霊はその本能ゆえに外界に対して積極的な攻撃性を持たない。無論、結果的に災禍を振り撒くコトはある。


 が、それはあくまで副次的なもので、主目的(メイン)は存在の証明だ。

 自分を見て、聞いて、知ってくれる人間(モノ)に対して、余程不穏な信仰を受けている精霊でもない限り、会っていきなり皆殺しにしようとはしない。


 けれど、獣神や巨龍は違う。


 アレらは初めから人とは相容れない存在。

 生きている世界の理が違うし、互いの境界線を踏み越えたが最後、待っているのは純粋なる生存競争だ。

 理性など存在しない。あったとしても、それは獣と龍の理性(本能)だ。

 ゆえに、人がもし黒鴉神や巨龍の領域内に足を踏み入れているのなら、その死は遠からずして確実のものとなる。

 第一、黒鴉神や巨龍以外にも脅威はあるのを忘れてはならない。


「でも、あの神父は生きてる」

「……と、おっしゃいますと?」

「だって、狂気の淵に立っても、それでも復讐(・・)を願ってるんだから」


 断罪が完遂されるまでは、死という救いすら拒むはずだ。

 フェリシアは女王に向かって呟いた。


「……」


 女王は沈黙を返したが、しばらくして翅の向こうから声を発した。


「……人魔転変。だとしても、およそ短き生涯にはなるのでしょうけれど……そういえば」

「? そういえば?」

「気のせいかもしれませんが、この頃、獣どもが妙に静かなのがもしかすると……それに、民たちがおかしな噂話をしているのを最近はよく聞きます」


 黒鴉神の棲息する樹海の東北側。

 そこから、ごく稀に見たこともない謎の怪物が姿を現すのだとか。

 精霊たちがヒソヒソ話しているのを女王は耳にしたと云う。


「あれはそう……たしか、まるで淫魔と夢魔の間の子のように醜い……呼び名は──」

「──カムビヨンの仔ら」

「そうっ、それです」

「繋がったわね……」


 ベアトリクスがおもむろに唸り出す。

 ゼノギアを苦しめ、またその殺意の矛先となっている魔術師の尻尾。ひいては、ゼノギア本人の発見にも繋がる道標。


 どうやらそれは、夜羽の獣──黒き大鴉が縄張りとする、“壮麗大地”の更に奥深くにあるようだ。






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