#44 夜這う瑠璃星
“海獣”が解ける。
魔法によって形作られていた仮初の肉体が、まるで綻ぶように風に梳かされ消えていく。
それと同時に、全身を啄むかのごとき根の蠕動が止まり、視界が鮮やかな粉雪に覆われた。
青、白、黄、赤、紫、空色。
数え切れないほどの花びらが、柔らかな漣と化して全身を通り過ぎる。
爽やかで、どこか甘やかな、それでいてやっぱり清涼感のある香りが鼻の奥を抜けて。
気がつけば、自分が無傷で地面に座り込んでいるのをわたしは知った。
「剪嵌細工模様の乙女よ、貴殿の宿す力は凄まじい。
しかしながら、我らにとって魔法とはそういうモノではないでしょう」
頭上から男の声がする。
へたり、と座り込むこちらを優雅に見下ろし、どういうワケか優しく諭すような口調のそれは、たったいま自らを負かした地精霊のものだ。
「な、んで……」
負けた理由が分からない。
身に秘めた三種の怪物。その因子の絶大さは他の誰より理解している。
なかでも怨敵である吸血鬼。鯨飲濁流の得意とした魔法の脅威は記憶に新しい。
リンデンでもそうだったように、かつて乳飲み子に過ぎなかった弟を殺されたときもそうだったように。
あの悪鬼の強さは圧倒的で、だからこそ忌々しくは思っていても自信を持ってその象徴とも言える魔法を使った。
(ヴェリタスもそれで十分に勝てる見込みがあると、そう判断していたのに……)
だが、結果は瞬殺だ。
初対面時の消化不良を清算するべく、油断も慢心もしていなかった。
ただ単純に、魔法としての強度で押し負けたのだ。
勝たなければならない勝負で。
想い人を守らなければならない立場で。
いかに相手が太古の精霊なのだとしても、絶対にあってはならない結末。
(──あ、やだ)
じわり。
瞳に涙が浮かんできた。
それを知ってか知らずか、薔薇男爵は周囲に花吹雪を渦巻かせる。余人の視線を遮るように。
「乙女よ。もう一度言いますが、貴殿の力は凄まじい。人間から転変した魔というのは、いつだってその強さによって吾輩らを驚かせるモノです。が、貴殿はその中でも、吾輩がこれまで出会ったどんな輩より──群を抜いている」
賞賛の言葉。
しかし、ならばなぜお前が立ち、わたしがこうして膝を折っているのか。
フェリシアは滲む視界に構うことなく、キッと勝利者を見上げた。
「でも、アンタには敵わない。そうやって負けたわたしを褒めるようなコトを言っても、実際はその反対の評価が与えられる。そういう風にしか聞こえないんだけど」
“花園”という魔法によってたしかな攻撃を受けたはずなのに、今ある現実は無傷。
それすなわち、目の前の精霊にとってフェリシアは手加減が可能な相手でしかなかったというコトだ。
これほど惨めな展開があるだろうか?
「フ、フフフ。いじらしいですなぁ。しかし、焦ってはいけませぬ」
「焦る? なにが」
「貴殿はまだ生まれたばかりでありましょう。ならば焦ってはいけない。吾輩からひとつだけ助言を授けます。初心に返るがよろしい」
「……は?」
「魔法とは何か。我ら魔力持つモノのみに与えられたこの素晴らしき力は、もっと柔軟で自由なモノのはずです。そして、魔法に求められるのはいつだって『本気』であること」
まぁ、かつて魔法使いだったのでしょう貴殿には、今更の話だとは思いますが。
薔薇男爵はクルクルとステップを刻み、一礼した。
「花はときに儚さの象徴として扱われます。
風に舞う花弁。時の移ろいとともに枯れゆく姿。摘み取られ、踏み躙られ、いとも容易く折れるその美しさ。
しかし、花は何度だって立ち上がる。爛漫と、まさに華々しく在る為に。いつだってそう、咲き誇るがために」
ゆえに、どうか乙女よ。
「まずは己自身と、きちんと向き合うべきだと吾輩は助言いたしますぞ」
§ § §
「では、これで互いに一本。次の三本目で勝負の決着となりますね」
垂水の塔より劇場を見下ろしながら、精霊女王が言う。
一面の花畑にて行われた薔薇男爵とフェリシアの戦いは、悔しくも薔薇男爵の勝利という形で終わった。
その現実を認めないワケにはいかないし、後が無くなったと思う辛さはあるが、今はそれより先に、僕はフェリシアが心配だった。
(……泣いてる?)
花吹雪によってハッキリと見て取れたワケではない。
だが、常冬の山での出会いからすでに半年近い付き合いが生まれている。
たとえ遠目であっても、肩のわずかな震えや仕草から、相手の感情を察するだけの自信はあった。
フェリシアが僕へと向ける想い。
たとえそれがチェンジリングに対する好意と親愛なのでも、彼女が抱いている気持ちに偽りはない。
好きだという恥ずかしげもない言葉。
あられもない態度で迫ってくる姿勢。
理性や正気で「これは違う。そうじゃない」と散々否定していても、僕の心は奥底で、素直に舞い上がってしまっている。
だからこそ、僕はフェリシアが好きだ。
恋とか愛だとかは置いておいて、存在として好ましく思う。
自分を好きだと告げてくれるフェリシアのことを、可能な限り傍に置いておきたいと思うし離れさせたくない。
現実問題、ベアトリクスの因子ゆえに離れ離れになることはできないけれど、そんなのはぶっちゃけ後付けみたいなものだ。
エゴである。
自分勝手かもしれないが、僕は独占欲のようなモノさえ抱いているのだから。
冷徹な思考が十中八九負けるだろうと、あらかじめ推測していても、実際、その光景を目の当たりにすれば心の中はどうしたって穏やかではいられない。
だから、グッ、と杖を握り締めた。
「三本目は当然、貴方様が出られるのでしょう?」
「ええ」
「ならば、私どもとしてはスプリガンを相手にさせたく思います」
「スプリガン?」
「はい。彼は荒事に向きませんが、私の臣下のなかでは最も頑丈なことで知られているので、貴方様がもし彼を跪かせることでもできたら、そのときは改めて貴方様の言の葉を信じようと思います──では、スプリガン」
女王の呼び掛けと同時、垂水の塔の外側から軽い地響きのような振動が足元を伝った。
振動は次第に大きくなり、何か巨大な物体が近づいてくることを教えてくれる。
窓の外を見遣れば──岩の巨匠。全身が岩石でできた巨人が歩いていた。
巨人は歩く度、その一歩を刻む度に自身のカラダを様々な形に変えている。
はじめは環状列石を繋ぎ合わせたような手足だったのが、次第に雄大なギリシャ建築を思わせる人型の神殿へと。
動く岩城。
砦の巨人。
そして、その時々で自らの姿を自在に変えられる宝の番人。
精霊ではない。
だが、人間世界に秘宝匠がいるように、あやしの世界にも職人は存在する。
COGにおけるスプリガンは、そういった『魔宝匠』の一種だ。
“壮麗大地”の精霊女王ともあれば、お抱えの職人の一体や二体、国に住まわせていたとしても何らおかしくはない。
(けど、変だな。スプリガンや他の魔宝匠種は、自分たちの仕事の報酬にだいたい厄介なモノを求めるのに)
幼児の心臓百個とか、池いっぱいの生首とか。可愛らしいものならお菓子なんかの場合もあるが。
女王や他の精霊たちがスプリガンに向ける視線は実に気安い。
果たして、どんな契約によって主従関係を結んだのやら少しだけ気になった。
──とはいえ。
「ラズワルド。大丈夫?」
「うん。任せて」
ベアトリクスの不安そうな声に背筋を伸ばし、胸を張って塔を降りる。
巨人そのものとも言っていい怪物を相手にして、ベアトリクスの力も借りない僕が当然ただで済むはずはないが、だとしても。
(いいかげん、うんざりなんだよ)
誰も彼もが僕を守らなければと考えるその思考。
敵も味方も、皆が僕を弱いと決めつけている。
たしかに、人間は弱い。チェンジリングにとってカルメンタリス島は悪夢のような場所だ。
そして実際、僕はべつに強くはないし、使える魔法も未だに“火”と“夜”しか自信がない。
契約によってベアトリクスの魔力と存在が流れ込み、再構築された肉体は、やや魔女化しているとも言えるだろう。
そのおかげで、魔力こそ多少は増えたが、それだってズルみたいなものだ。僕本来の実力じゃない。
僕が僕として。
僕の強さをどれだけ証明しようと世界にイキがってみせたところで、本物のバケモノには到底及ばない。
相も変わらず吹けば飛ぶような命だし、ベアトリクスやフェリシアが守ろうと思ってくれるその思い遣りの気持ちには、とてもありがたいものを感じてもいる。
当たり前だ。
異世界に転生したからと言って、僕は最強でもなければ英雄でもない。チートの代わりに授かったのは人外に愛される祝福。
誰もが見惚れ息を飲む。
根が小心者で臆病だから、そんな勇者ですらありはしないのだ。
けれど──それでも。
(居心地の悪さはある)
女性。それも、片方は母親だ。
僕は男であり、息子であり、彼女たちに胸を張って愛される自分でありたい。
守られるばかりは嫌なのだ。
守りたいし、その想いに報いたいと常に思う。
そも、今あるこの現状だってそうだ。
僕に他者から有無を言わせないほどの力があれば。
僕が差別や迫害に屈さないほどの精神力を端から備え持ってさえいれば。
わざわざ“壮麗大地”に足を運んで、ベアトリクスやフェリシアに要らない苦労を掛けさせる必要も無かったはずだ。
彼女たちと一緒にいて、願わくばできるだけ平穏に暮らしたいという、そんなわがままを叶えようとし続けた結果が今のこの状況を生んでいる──まったく。
「ほんとうに、忸怩たる思いだよ」
花畑に立つ巨人を見上げる。
岩の巨匠、スプリガン。圧倒的質量感が目の前にはある。
これから僕は、このテコでも動きそうにないデカブツを相手に、たったひとりの力で立ち向かおうとしているのだ。
殺される心配はたぶんないと思うが、だからといって恐怖が消えるワケではない。
万が一にも踏み潰されたら?
力加減を求められると、そう考えるコトすら愚かしく思えてくるのに。
普通に考えれば、こんなバカみたいに大きい存在には勝てるワケがない。ははははは。僕は頭がおかしくなってしまったようだ。
「健闘を祈りますぞ」
「ラズワルド君……」
同じ足場まで着いたことで、男爵とフェリシアがそれぞれ声を寄越してくる。
それに軽く首肯を返し、僕はそのまま巨人と正対できる位置まで向かった。
巌の圧が、呼吸を乱す。
──そして。
「では、始め」
「██████████──ッ!!」
女王の許しとともに、天の失墜が始まった。
重力の奔流にも等しい拳圧。
僕はただ無言で、右手に握る杖に全魔力を注ぎ込んだ。
大丈夫。難しいはずはない。失敗することなんか考えない。人はこういうときのために刻印を編み出した。
──さぁ、励起しろ……!
「“夜這う瑠璃星”!」
それは、この世界で初めて与えられたたったひとつの究極。
どれだけ暗く救いのない夜の闇のなかにあっても、一条の光は必ずそこにあるのだと教えてもらった。
黒塗りの杖に散りばめられた我が名と同じ輝石。
夜空を這ってでも進む火球は、瑠璃の尾を引き輝く。
さながら────小さな流れ星みたいに。




