#37 素晴らしき世界
涼やかな風が木漏れ日の下を抜けていく。
湿った土、濡れた草の匂い、澄んだ空気の中で、少女が少年に笑いかけていた。
朗らかな笑顔、花のように華やぐ──魔。
姿かたちこそ村娘でも、滲み出る気配は人から遠く離れたあやしのそれ。
(──分からないものですね)
と、自分は思う。
怪物と化した人間。奈落へ堕ちた魂。おどろおどしき闇の眷属。
斯様な変化を経ておきながら、フェリシアと云う少女はいつだって、まるで恋する乙女のような表情を浮かべて少年──ラズワルドを見ている。
その視線には、他人である自分が少し観察しただけでもハッキリと分かる程度に、親愛の念しかない。
(──わたくしを見る目とはずいぶん違う)
当たり前ではあるが、だからこそ余計に意識せざるを得ない。
自分は教会の人間で、王国の上層部からの息もかかっている。
今回の旅への同行も自ら志願したのに偽りはないが、その裏に潜む政治家たちの幾重もの意図を察していないワケではない。
捨て駒も同然の役割。
リンデンの司教に司祭など、きっと死んでしまえばいいのにとさえ考えているコトだろう。
それに対し、別に何かを言うつもりも無い。むしろ好都合だと自分は思って今この場所にいる。
罪に塗れたこの身には、生と死の境界を綱渡りする人生こそ何より似つかわしいからだ。
しかし、
(まぁ、傍から見ればわたくしは単なる足枷。彼の自由を阻害する悪者でしかないのでしょうね……)
ラズワルドに好意を持ち、彼を慕っている存在にとっては、凄まじく目障り極まりない鼻つまみ者であるコトだろう。
元刻印騎士ともなれば、教会がやった嫌がらせも忘れてはいまい。
神父というだけで、嫌われる条件は揃い切っている。
(御母堂に関しては、わたくしに限らず彼以外のあらゆるものがどうでもよいのでしょうし)
自分がまだ殺されていないのは、ラズワルドが自身の境遇を正確に理解し、こちらを死なせないよう精一杯努めているからだ。
ありがたいと思うし、聡い子だとも思う。
自分の周りにいるのが、本質的に狂ったバケモノだというコトをよく理解しているのだろう。
意識してやっているのかは分からないが、少女についても母親に対しても、非常に巧みなバランス感覚で関係性を維持している。
人から転じた魔というのは、その出自ゆえ、やはりどうしても精神の影響を受けやすい。
機嫌を損ねたり、良くない方向に動揺させたりすれば、周囲には容易く地獄が舞い降りる。
ドウエル村で蛆どもを殺し尽くしたあの時より、人間に害を為す存在とは何度か対峙している。
そのため、白嶺の魔女にしろ夜族にしろ、彼女たちの精神状態がちょっとでもマズイ方向に傾けば、自分はアッサリ死ぬだろうなと覚悟はしていた。だが、
(──予想に反して、彼女たちがわたくしに牙を剥く気配は、一度としてない)
それすなわち、ラズワルドの存在は一種の鎮静剤のような効果を世界にもたらしているというコトだ。
荒ぶる怨霊たちを、彼は一手に引き受け大人しくさせてしまう。
最初はチェンジリングゆえの特性かとも思ったが……
(彼の前では、白嶺も夜族も、まるでかつてと何も変わらないヒトのようだ)
無論、これがただの思い違い。
気の迷いでありタチの悪い錯覚に過ぎないコトは重々承知している。
けれど、それでもやはり、心の中に沸き立つさざめきだけはどうしても止められない。
人と魔が隣り合う光景に、頭の奥がザリザリとヤスリで削られるような想いになる。
──どうして。
(どうしてこの世界は)
優しくないのだろう。
ほんの少し。ちょっとだけ。一瞬でもいいから、世界に優しさがあれば。
そうすれば、自分の周りにはこういう光景が満ちていたに違いないのに。
悲しみに挫けるコトがあったとしても、善なる者は必ず救われて。
すべての幼子には大勢の愛と祝福が授けられる。
そういう世界があったはずだ。
叶わない願いでは無かったと今だって信じている。
──なのに。
「神よ、あなたはなにゆえ、わたくしをお見捨てになられたのか」
我が信仰。
我が求道。
あなたの教義を素晴らしいと感じ、それは尊い在り方なのだと身を粉にして捧げて来たが……試練は終わらぬ。
神の愛を求める心。
まるでそれこそが思い上がりだとでも言うように、地獄の責め苦が終わらない。
罪に相応しい罰とその先にある救いは、いったい、どこまで歩き続ければこの手に届くのだ?
(……わたくしにはもう、分からない。わたくしの信仰は、わたくしの良心は、わたくしの善性は、わたくしの祈りは──わたくしの人生は)
ほんとうに正しいモノだったのだろうか──?
人間を愛するはずの神。
その神が創り給うた至高の芸術。
生きた奇蹟。聖遺物。灑掃機構。天の使い。
人界を脅かす悪魔を討ち滅ぼし、世界に安寧と秩序とをもたらすはずの天罰者が、人間を殺した。
それも、ただ殺したのではない。
助かる見込みがあった。
助けられる余地が十分にあった。
そして何より、彼らは助かりたいと強く願っていた。
なのに、殺した。
地を這う虫けらを意図して踏み潰すような残酷さで以って。
神の雷を振り落とし、嫌気がさすと一方的な物の見方をして一顧だにせず。
理解できるはずがない。
意味を分かろうとする努力もしたくない。
ただ度し難い。
そのうえ更には、
「……わたくしに、異教異端の祭壇を見せつけるとは」
泉の中央に向かっていくラズワルドと魔女。
フェリシアの声には『発見』による純粋な興奮がありありと宿っており、少年はなんだなんだと素直に手招きに従っているが、自分からすればようやく気づいたのかと呆れの感情が先にくる。
自分は、この霊骸柩楼を一目見たその瞬間から、それに気づいていた。
沢鹿の獣神。
霊威と神威が広がる清水の結界領域。
中央には上向きになった頭骨塔。
周りには泉を取り囲むようにして、鹿角による『陣』が敷かれている。
この辺り一帯、まるであたかもすべてが天然もののように上手く偽装されてはいるが、鹿角の一部は恐らく後から追加されて植えられたモノだ。
本物そっくりに似せて作られてはいるものの──一部、わずかに経年による劣化が見られる。
もしも鹿角のすべてが天寿を全うした古き獣神の遺骸なのであれば、そのようなコトは決して起こり得ない。
つまるところ、
(ここは、人間の痕跡に溢れすぎている)
それも、恐らくは資金力と能力に優れた魔術師か何か。
陣の構成を見る限り、霊骸柩楼を核にし、その結界としての強度と範囲を増幅させてあるように感じられる。
専門家ではないため俄か知識での判断になるが、以前、別の任務で同じような構成の結界を見たコトがある。
教会の異端審問官曰く、魔術とは仕組みさえ分かっていれば誰にでも使える技術。
魔力を用意し、求める結果を為せる術式を作り上げ、象徴となる触媒さえ揃っていれば、たとえ幼児でも容易に行使が可能。
そのため、広く知れ渡った術式であれば、術者による質の違いはあっても、島の至る箇所で似たようなモノが多々散見されるそうだ。
最低限の拠点作成。
身を守るための結界構築術となれば、どんな魔術師でも普通、いの一番に修得するものらしい。
──ゆえに、この場所に踏み入ってからというもの、自分は即座に状況を理解していた。
「大方、泉の底か頭骨塔の頂点にでも、バケモノを祀る祭壇があったのでしょう?」
誰にも聞き取られはしないほどの小さな声で、けれど確信を持って推測を呟く。
別に珍しい話ではない。
人の世界を追い出されたモノ。混血児もそうだが、犯罪者やゴロツキ、人殺しに邪教の徒。
そういった存在が居場所を無くし、島の中心部から次第に外縁部に向かって追い立てられるのはよくある話だ。
国によっては、死刑の一環として積極的に追放を取り入れているところもある。
神の愛など届かぬ無辺荒野。
バケモノどもが舌なめずりし、追いやられた人間に希望は無い。
結果、そういった人間たちは最後の最後に、『恐怖』こそを自分たちの神とし、崇め奉るようになっていく。
逆らえば死に、従っても死に。
けれど、同じ死ではあっても惨たらしい終わりよりかは、楽に終われる方が遥かに救いがあると。
そう、思考の袋小路に陥り支離滅裂な信仰を育むのだ。
……自分も大概な方だと自覚はあるが、さすがにバケモノを信仰の対象には考えられない。
災禍であり、悲劇をもたらすモノであり、何より諸悪の根源であるモノを、救世主としては断じて認められないからだ。認められるようになってしまったら終わりだとも思う。
だからこそ、
(此処を祭殿にしていた魔術師たちは……きっと、わたくしとは何もかも相容れない人種だったのでしょうね)
これだけの規模とたしかな強度だ。
単独で構築できたとは思えないし、術者がいなくなった後でも十分に効果が維持されているとなると、少なくとも十人単位での集団がここに居たと考えるのが妥当な推測だろう。
国を追われた外れモノか、邪教の果てに自分たちからこんな僻地まで集まったのかは知らないが、何はどうあれ、腕利きの魔術師だったコトは間違いない。
魔術師を見るならば結界を見よ。
そんな慣用句じみた言葉まであるくらいだ。
神父である自分の目利きにはなってしまうが、十分に腕の良さは見て取れる。
……はてさて、これは果たしていったい何の試練なのだろうか?
神を信じ、神の愛を信じ。
すべては教義にあるように、人として正しくあるコト。
悪心を罪とし、善心を徳と考え、為すべきを為すがために誰かを救おうとしてきた。
しかし、この世は辛く厳しく残酷で、救おうと手を伸ばした誰かはいつだって両の五指から零れ落ちるばかり。
無知蒙昧は害であり、愚かしさの代償には命が支払われる。
無論、贖おうと努力した。
神を信じ、神の愛を信じるがために、罰を欲したからだ。
なのに、そんな自分に与えられるのは、いつまで経っても救いようの無い非情な現実。
挙句の果て、自分の人生とは対極に位置する信仰をまざまざと突きつけられる。
生きるのが疲れたと、そう思ってしまうのは無理からぬコトなのでは?
「ふ、ふふふ……」
何もおかしくなどないのに、ふと笑いが漏れる。
いっそのこと、こんな首、今夜にでも吊ってしまうのが良いだろうか?
割と本気で、そんなコトさえ考える。
と──そのとき、
「ゼノギアさん」
「……」
旅の主が、数歩ほどの距離からこちらを呼ぶ。どうやら、またしても少しばかり己が思考に埋没してしまっていたらしい。
気がつけば、白嶺もフェリシアも集まり、自分を真剣な面持ちで見下ろしている。
空気が重い。
「……なんでしょう? 皆様そのような顔でお集まりになられて、いよいよ愛想でも尽きましたか?」
わたくし、陰鬱な男ですし。
さては少年の忍耐も我慢の限界に達したか。
苦言の一つでも呈されてしまうのかな、と半ば投げやりにラズワルドを見上げる。
すると、
「見て欲しいものがあります」
少年はおもむろに、頭骨塔の方を一度見遣り。
「……アレは、恐らくは貴方の人生に関わる物だ」
苦虫でも噛み潰したような口調で、そう言った。
そして──
「馬鹿、な──そんな、どうしてッ……!?」
「たしか、五人でしたよね。貴方がかつて救おうとした子どもたちは」
「ああ、ぁああっ、ぁあああ、な、ぜだ──なぜ、嘘だと。嘘だと言ってくれッ! こんな……どうして……ッ、こんなところで──!」
自分は見た。
頭骨塔の裏。おぞましくも忌まわしい魔術師たちの研究成果が、アリアリと記され残され続けたままの記録を。ラベルの貼られた硝子瓶を。
「アノスッ、クゥナ……ネイト、ミレイッ、ヨルン……ッ!!」
祭壇は無かった。
しかし、それよりももっと認め難いモノが、そこには横たえられていた。
──培養体。
魔術と錬金術の合作によって産み出される禁忌の被造物にして、邪法の極みと忌み嫌われる悪徳の落胤。
神ならぬ人間が、女の胎からでなく、培養槽を以って新しき命を作らんとする、禁呪の中の禁呪。
いま、自分の目の前には、かつての五人と同じ顔かたちをしたモノが、眠っている。
時間が停まってしまったように、この手で土の中へと埋めた時と同じだ。
あの日と何ら変わらない。
幼いまま、小さなまま、硝子の棺にプカプカと浮かび──けれど死んでいる。
「……どういうコトだ? これは? どういうどういうどういうどういうどういうどういうどういうッ!! 答えろ! これは、どういうコトだああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああッ!!」
ぐにゃり、という音と同時に、何かが歪む。
カチリ、という音とともに、止まっていた何かが動き出す。
さようなら、さようなら。
世界は今日も、神の愛に満ちている。




