#32 罅割れ
信仰とは何だろう。
ゼノギアの話を聞き終わったあと、森を抜けて再び林道へ戻り、次の帝国村へと向かう道すがら、僕はひとり物思いに耽っていた。
太陽の陽射しが薄い。
空はあいにくの曇り模様で、地面からは湿った土の匂いが次第に濃くなっていく。
木の葉に垂れる朝露はすでに重みを増していて、足元には微かな靄が。
影の中からは、日陰好きの気配が徐々に強まっている。
この様子では、急な雨が降ってくるのも時間の問題だろう。
長話の後となって、僕とゼノギアとの間に会話はない。
横で手を繋いでいるベアトリクスは、契約しているおかげでこちらの気分を把握している。
もちろん、それは僕も同じで、どうやら二メートルほど前を先に行く神父の後ろ姿を、意識から完全にシャットアウトしているのか、この時間を完全に『親子による静かな散歩タイム』と考え、ルンルンと浮かれ気分なのがヒシヒシ伝わって来ている……ありがたい。
ゆえに、軽く感謝の念を覚えながら、僕は自分の世界に集中していた。
主題はズバリ──そも、信仰とは何か?
八百万の神があり、年末になれば聖誕祭にかこつけケーキを食べて、年が明ければ神社に行ってお御籤を引く。
その他、バレンタインデーやらお盆休みやらハロウィンなどなど。
祭事に対して節操無しな元日本人としての感性から言わせてもらうと、信仰という概念はそれほど馴染み深いモノではない。
少なくとも、僕個人にとって宗教というモノは、『理解はあるが生涯をかけて真面目に取り組むほどのものではない』認識だ。
身近にも、特にそういう人種はいなかった。
だから、西洋や欧米、中東など。
かつての世界で神を信じて、日常生活の中で実際にミサや礼拝を行っている人たちのような、いわゆる本気の人への理解度が不足している自覚がある。
多様性と公平を重んじる時代に生まれた人間だ。
逆に言えば、価値観の押し付けと無理強いさえされなければ、他人は他人、という無関心が良くも悪くも普通になっている。
知識として知っていても、真の意味での理解は遠い。
……そんな僕からすると、ゼノギアは初めて直に接する宗教家になる。
神を信じ、神の愛を信じ、この世の善と正義を信じる。
他者に優しく、思い遣りの心を持ち、また過ちがあれば謝罪と反省も可能。
当たり前のコトをただ当たり前に。
命の価値が泡のように儚いこのCOGの大地で、その在り方はとても貴重だ。
一人の人間、大人として、素直に尊敬できると感じる。
だが、同時に、その生き方は至極危うい。
先ほど本人が現に語っていたように、善人が善人ゆえに非業の苦しみを負うのがこの世界だ。
人間は弱く、無力で、容易く奈落へと身を落とす。
鯨飲濁流がそうだったように、ゼノギアがそうならないとは限らない。
僕は話を聞いていて、途中から綱渡りを連想した。
目の前にいるこの男は、実はギリギリの境界線を歩いていて、あと少し何かの後押しがあれば、コロッと反転してしまうのではないかと。
善と悪。愛と憎。
どちらも表裏一体の概念だ。
片側への傾きが深ければ深いほど、ひっくり返る時の反動は激しく勢いを増してしまう。
僕はそれを、きっと誰より理解している一人だ。
ゆえに。
(サラッと流しちゃったけど、黒小人の大群を四年で殺し尽くしたんだよな、この人……)
実際の数がどうだったのかは語らなかったが、四年もの歳月を費やしている。
曰く、大罪人となった自分が今後も神父として生き続けるのならば、それは絶対に避けては通れない決断だったと。
愚かなる咎人に、神はその愛を授けてはくれない。
では、職人ならざりしすべての卑賎民は、何を以って資格を得られるのか。
血に塗れたこの両手に、神は、愛を、許してくれるのか──?
……答えは未だ遠く、我が信仰は霧中の大河を泳ぐがごとし暗黒の最中。
しかし、それでも──
(己を罰し、苦難の善行を積み続ければ、やがて必ず救済が待っていると信じています、か)
それゆえの、最厄地。
それゆえの、“壮麗大地”。
それゆえの、旅への同行。
自殺衝動とも破滅願望とも取れる、常軌を逸した信仰心。
殉教という言葉があるのは知っているが、実際に目の当たりにすると鳥肌が立つ。
口さがない言い方になるが、頭がおかしいんじゃないかと喉元まで出かかったほどだ。
だから……やはり、僕には到底理解が及ばない。
仮に千人の人間がいたとして、その内のいったい何人が自分の命を賭し、死んだ後すらいるかどうかも分からない不確かな存在を信じ続けられるものなのか。
ましてや、罪を贖うためとはいえ、自ら命を危険に晒す?
荒事や争い事には、ゼノギアはどう考えても向いていない性格なのに。
たまたま、ほんとうに偶然、狩りの才能があった。
クロスボウの扱いに関して他の何より天稟を有し、命を奪う技術と、決めたコトに対して最後まで為し遂げるという精神力が備わっていた。
実家が太く、財政力にも不満が無かったため、最上級の武器さえ手元に集められて。
責任感と真面目さ。
後はただ、やればいいだけの環境に身を置いていたから。
……聞いた限り、ゼノギアという男は、言ってしまえばただ運が良かったから生き残っただけの人間だ。
本来なら死んでいておかしくない。
たとえカムビヨンの仔らを招き入れずとも、ドウエル村が黒小人の大群に囲まれていた事実に変わりはないし、いつか村に魔力を持つ人間が生まれていたら、結果は変わらなかっただろう。
結局は早かったか遅かったかの違いだけ。
第三者の俯瞰からは、そう言える。
しかし、問題はやはり、その時その場所にいた当人にしか感じられない絶望があり、苦しみがあったコト。
僕が常冬の山で恐怖に囚われていたように、フェリシアが弟を失った過去をどうしても悔やみ切れないように。
ゼノギアにはゼノギアの悔恨があり、傷がある。
その傷が、信仰によって癒されるものなのか。
それとも現実からの逃避のために、信仰を建前としているだけなのかは、分からないが。
とにもかくにも、ゼノギアが今こうして旅の伴をしている現実は紛れもない真実。
そこから紐解ける解答は、彼の信仰心が本物だという証明に他ならない。少なくとも、そうすると決めてやり通さなければと信じ込んでいる部分に限っては。
でなければ、この世界のいったい誰が好き好んで地獄への片道切符を買おうとする?
僕は他人だ。
そして、ゼノギアが自分の過去をこのタイミングで少しだけ明らかにしたのは、ある種、一定の線引きとも考えられる。
──わたくしはこういう人間です。
だからあなた方は、わたくしを不審に思う必要も警戒する必要も無い。
むしろ、わたくしなど存分に使い潰してもらいたいほどです。
ほら、食事の世話だって、もう何度も役に立っているでしょう?
その調子で、わたくしを捨て駒にするでも囮に使うでも、あるいはこのまま雑用係にするのでも、大いに利用してくださって結構。
然すれば、我が罪業と穢れも、ほんの少しは雪がれるコトでしょうから──
実際に面と向かって言われたワケではないが、暗にそう告げられたような奇妙なプレッシャーはあった。
なら、僕はあくまで僕の目的を果たすため、ゼノギアという神父の生き方には決して口を挟むまい。火口に飛び込みたいなら、どうぞご自由に。
ただし、死ぬコトだけは今回の旅の都合上、許容の範囲外となるが。
それに、ここまで話を聞かされたにもかかわらず、僕の頭の中では依然として引っ掛かりは解決されていないままだ。
さすがにすべてが丸っきり嘘だとは思わないが、しかし、可哀想な身の上話程度で心から信頼できるほど、僕は根っからの善人じゃない。
逆に、その気になれば四年間でも殺害行為を継続できるヤバい奴が傍にいると判明したのだ。
ぶっちゃけ、普通に怖い。
使い潰すとかまず無理な相談だ。怒らせたら絶対撃たれる。撃たれるよね、コレ?
──加えて。
(僕とベアトリクスとフェリシアが、ゼノギアの主観上で悪になったとき)
彼の信仰心は果たしてどのような選択と決断を導き出すのか。
ドラゴンの鱗はベアトリクスの肌をも容易く傷つけるだろう。僕であれば言わずもがな。不意打ちされたら即死する自信しかない。フェリシアはもしかすると、未来予知や不死性から助かるかもしれないが。
しかし、痛いものは痛い。
だから、ハッキリ言って愚問だ。
考えるまでもなさそうというのが、相変わらずの世知辛さでもある。
§ § §
空気が冷えた。
空は完全に灰色に覆われ、シルクのような雨が霧とともに視界を狭めている。
眼下は薄暗い。
まだ昼前だというのに、朝の陽射しがまるで嘘のように天気が急転していた。
「雨とともにやって来る、か」
呟き、口角を吊り上げる。
高い矢倉。
未だ遠いが、持ち前の自慢の視力が、来たる男の姿をすでに確信を持って捉えつつあった。
二つの影、大人と子ども。
大きい方は法衣を身に着け、小さい方は質素ながらも上等そうな外套を羽織っているコトがここからでも分かる。
霧烟る薄暗い眼下で、二つの影はまるで亡霊のような揺らめきを伴いながら、ゆっくりと近づいて来ていた。
村の中央、最も遠い場所を見渡せる矢倉の中で、自分はソレを静かな興奮とともに歓迎する。
帝国軍北方百人隊。
皇帝から帝国領北方の村々を視察し、有事の際には問題解決のための戦闘行為が許可されている軍の特殊部隊。
自分はその百人隊長だが、王国にいると噂される伝説の男──蛆狩り。
一説には、人間でありながら単身で数多の化け物を殺してのけた、嘘のような男だと云う。普段はしがない神父だとも。
しかし、彼の誉れ高き刻印騎士団長が王国の表の伝説なのであれば、蛆狩りはここ一年あまりで急速に名を挙げた裏の伝説だ。
鋼の英雄が真実英雄としての輝きを以ってその勇名を馳せているのに対し、蛆狩りはその真逆。
およそ人間とは思えぬほどの執念と徹底した『暗殺』の手法によって、畏怖とともに囁かれる都市伝説のような存在に近しい。
殺し屋や傭兵稼業に身をやつす裏の界隈、一部の情報通の間では、すでに恐るべき戦闘巧者としてその威名が国外にまで轟いている。
たった一度の偉業。
ある寂れた山村での、四年間にも及ぶ静謐な殺戮劇。
黒小人という基本的に人間には興味関心を示さない怪物の大群。
こちらから何も手出ししなければ何も悪さをしてこない存在だが、当然、命の危険を察知すればその限りではない。
敵と認識されれば、圧倒的物量で以って二秒と保たず殺される。
──だから、決して気取られぬよう一体一体静かに殺し続けた。
蛆狩りはそういう伝説だ。
行商人たちの口を伝って、その芸術のような狩りと幻のような光景は、半ば御伽噺のように吟遊詩人の唄にもなっている。
「王国から報せが来た時にゃ、こいつァ何の冗談かと思ったが……」
──子どもを連れた金髪の神父がそちらに向かうはずだ。
──ある任務のためだが、帝国の問題を解決するのに使ってくれていい。
「オレらが死ねば次はテメェの家の問題になると判断したか。イヤだねぇ、脂ぎった貴族って連中は。害虫はヨソの家で叩こうってか?」
魂に清廉さが欠けている。
権謀術数、蜘蛛の巣糸のように張り巡らして。
恐怖ゆえだろうが、戦える者をとことん前線に投入し続ける。
帝国であればまず有り得ない。
上に立つ者が先陣を切らず、配下にただ死ねと命じるのは益荒男として恥だからだ。
「──まぁ、いい」
何にせよ、他国の問題。
相手方が国の垣根を超えて、同じ人類として力を合わせようというのなら、否応はない。
……子ども連れというのがやや引っ掛かるが、恐らく、どこかの貴人の落胤か何かの護衛任務なのだろう。
護衛ついでに、今現在この村で起きている問題について、ともに解決に当たってもらえれば、帝国側としては万々歳だ。
伝説の蛆狩りともなれば、戦力としては申し分ない。
「なにせ、ヤツら数が多いからな。ったく、運が無え」
淡いの異界から飛び出た膿。
数十年に一度、島のどこかで吐き出される哀れな残留者ども。
長年閉じ込められ変わり果ててしまった、かつて人間だったモノや、たまたまタイミングが悪く『掃除』に居合わせてしまった名のあるバケモノなどが、突然虚空からまろび出てくるのだから、遭遇した人間はたまったものじゃない。
淡いの異界が如何に尋常の生き物の滞在していい場所ではないからといって、まるでクソを漏らすようにこちら側へと厄介事を押しつけるのは、少々マナーがなっていないのではなかろうか。
現在、村の中には『スポット』が発生し、そこから次々とゴミが落とされ続けている。
村人たちはほとんどが餌となり、もはや百人隊も半数以下の人数しか残っていない。
心を失った異形のミイラたちは、嫉妬か羨望か、地上でカリカリと音を立て続けている。元気なようで何より。
高所に登る能がないのはほんとうに不幸中の幸いだった。
「……ヤツらに触れられるなよ、オマエら。淡いの異界の空気に浸り続けた劇物だ。少しでも接触しちまったが最後、瞬時に人間をやめるコトになるぞ」
矢倉や屋根の上。
上から一方的に弓矢で殺すことは出来ても、湧き続ける敵に対して矢の数はあまりに少ない。
籠城をするにしても、限界はそう遠くなかった。




