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#27 善性の条件





 世界が美しい。


 人間をやめて化け物になってから初めて思ったのは、そんな、自分でもいっそどうかと思ってしまうくらいの単純な感動だった。


 鋭敏になった五感。


 視覚はより鮮明に、聴覚はより可聴域を広げ、嗅覚はより遠く、より深く。

 味覚なんて、呼吸をすれば口内に侵入した空気の味(・・・・)すらもハッキリと分かるようになってしまって、触覚などはただ肌を晒せばそれだけで、大気を流れる風のひとつひとつをも判じ分けるコトが可能だった。


 拡張された情報取得領域。


 人間だった頃なら永遠に識らないままだっただろう高次元の光景に、わたしはただシンプルに心を揺り動かされた。

 空の青さひとつ取っても。

 水路を流れる水の煌めき、草むらに潜む虫たちの音や、梢に佇む鳥の囀り、風に揺れる木の葉。

 そういった何てことない単なる日常の背景が、かつてない色鮮やかさで目蓋の裏を焦がす。


 分かりやすく説明すれば、まるで世界が数百倍にも鈍く(スローに)なったみたいな。


 集中し、意識をグググッと傾けるだけで、空から降り注ぐ雨粒の一滴一滴をも見て取れるようになってしまったから。


 吸血鬼としての特性。


 それも半分削がれていて、尚、これほどの変化という改めて道理の通らない現実に。


(……ああ、コレが)


 人間と化け物の違い。

 そう、半ば寂寥感に捕らわれつつ、悔しくも認める他に選択肢がなかった。

 身体的な機能も、種族としての特性も、人間は遥かに劣っている。

 神様はきっと、この世界を人間ではなく、化け物にこそ都合のいいように創ったに違いない。

 なぜなら──


(だって、こんなにも綺麗なんだもの)


 人の身ではついぞ識るコトのなかった世界の真相。

 魂を奈落に沈め、魔性へと転じなければ、こんなにも美しい光景を見ることも感じることも叶わないというのなら、ああ、そんなのは認めるしかない。


 人は弱く、愚かで、そして可哀想な生き物だ。


 ……それが、皮肉なコトに、人間をやめてから痛いほどに理解できてしまった。


 ──ゆえに。


 吸血鬼でありながら吸血鬼に非ず。

 魔女でありながらも魔女ではない。

 無論、人間の魔法使いであるはずもなく。

 共に転生した以上、以前よりもさらに混合の進んだ使い魔の魂を感じて。


 自分はいったい、何物になってしまったのだろう? と。


 人間だった頃の精神と意識を保ちながら、肉体と魂は世界に類を見ないほどの化け物。

 魔力も増え、使()()()()()()()()()()()()()()()増えて、そういう意味では前よりたしかに強くなったと言えるけれど。


 いずれ、この継ぎ接ぎだらけの肉体に引っ張られて、わたしの精神は、あれだけ憎んでいた──今も憎しみが消えたワケではない──化け物どもと、まったく同じところまで堕ちてしまうんじゃないか。


(……ううん、もうすでにこうしている今にも変化は進んでいて──)


 否、否──それだけではない。


 種族も系統もまるで異なる四種の因子。

 何かの拍子でそれがバランスを崩して、普通の化け物なんかより、もっともっと、鯨飲濁流なんかよりずっと救いようのない化け物になることも十分に考えられる。


 怪異としてのワタシ。

 吸血鬼としての己。

 そして魔女としての私。


 自我の分裂化を引き起こさない保証はどこにもない。


 ……初恋を理由に恥知らずにも現世へしがみついてしまったのは、冷静に考えてみると、実にとんでもない選択だった。


 自分がいつか、身も心も破綻した化け物となって、罪もない誰かを脅かすかもしれない可能性。


 そんなの……とてもじゃないが到底耐えられない。


 やっぱり、自分はあの時、潔く死んでおくべきだった。

 ヴェリタスは抵抗するだろうけど、今からでも遅くはない。刺し違えて道連れにするのが、人としてせめて最後に果たせる責任だ。


 復活してから三日後の朝。


 わたしは一人、静かに赤鉄門の上から飛び降りようと思った。


 ──でも。



「今のフェリシアさんって、空とか飛べるんですか?」

「……え?」

「吸血鬼ってコウモリの羽とか背中から生やせますよね? いや、純粋な吸血鬼じゃないからできないのかな……?」

「え、えっと、たぶんできると思うけど……」

「あ、ホントですか? じゃあ、今度でいいので僕を抱えて飛んでみてくれません? 空飛んでみるのって夢だったんですよね」



 ──どんな景色なんだろう?


 そう、何気なく零した少年の、それはそれは心底期待に胸を膨らませたような横顔に、フェリシアは思わず言葉を失った。


 自分はもう不安で不安で仕方がなくて、一個人の自分勝手な感情を理由に無責任にも生き残ってしまっている。その事実が、こうして時を追うごとにますます重く苦しく辛くなっているのに。


 目の前にいる年下の男の子は、「たかがそのくらい」と。

 現実をあたかも、事も無げに受け入れていた。


 失われてしまった昨日と比べ、無惨に成り果てた今日を嘆くのではなく。


 ──その程度のコトであなたの在り様は揺らがない。信じていると。


 言葉にしてくれたワケではなく、意識しての発言だったかどうかすらも確かではないが、何よりも態度を以って雄弁に示してくれた。


 ……少なくとも、密かに自害を考えるまでに思い悩んでいたフェリシアにとって、ラズワルドの『お願い』は、真実生き続ける希望にも等しい言の葉で。


(こんなわたしでもこの子は受け入れてくれる)


 いつ爆発するか分からない。

 近くにおけば危険しかなく。

 そんな、言ってしまえば火薬庫みたいな女を、笑って傍に置いてくれる。

 魔女の因子を抱えている以上、離れ離れになるコトは絶対にできない。

 安全な内に片をつけようとするなら、フェリシアが死ぬのが一番の選択だ。


(──それを、こうまで簡単に受け止めてしまうなんて……)


 正直に言って、ますます想い(・・)が止められなくなる。


 だから──



「わたし決めたわ、ヴェリタス」

「ンン? 決めたって……何をだい?」

「この命もこのカラダも、わたしの全部はラズワルド君のために捧げるの。わたし、彼のために死にたい」

「………………えっ?」

「でも、わたしが死んだら優しいラズワルド君はきっと悲しむと思うから、できるだけ死なないようにするわ」

「そ、そうかい。そりゃ何よりだ……」

「うん。だからさ────次はない(・・・・)と思ってね」

「─────────────────────────────────────────────────────────────────」



 どちらが王でどちらが下僕か、その領分を履き違えるな。

 これから先はわたしもアンタも彼のために生きるのだから、間違えた時は容赦はしない。

 この五体砕け散ろうとも、死すら喜んで我が初恋の君へ捧げると決めた。だからオマエもそうしろ。


「わたしって尽くす女だったみたい」


 フェリシアは笑って、()の使い魔にそう釘を指したのだった。












 ──そうして今日、忠実なる使い魔は主人の望む通りにキッチリ仕事をこなしている。

 すなわち、寝ているフェリシアに夢という形で予知を授けることで。


 パチリ、と目蓋を開けて、フェリシアはテーブルで朝食を摂っている愛しき少年へ大きな声で言う。



「ラズワルド君! 結論! 出たみたい! 来るよ!」

「っ!? ……い、いつから起きて……?」

「いま!」



 答えながら、ギョッとした顔も可愛いな、とフェリシアは朝から機嫌が良くなるのを自覚した。







 § § §







「──つまり、リンデンは()()()()()()()()と。そういう理解でいいですか?」


 憤怒の騎士亭最上階、(つるぎ)の間。

 高級旅館の看板に相応しく、広々とした部屋の中央、大理石でできた長方形のテーブルを囲み。

 アムニブス・イラ・グラディウスはその瞬間「こりゃまた、ずいぶんと怪体(けったい)なガキがいたもんだ……」と胸中でひそかに唸らざるを得ないでいた。


(……俺を前にすると、大抵の人間は大なり小なり萎縮しちまうもんなんだが)


 目の前の子どもは、筋骨隆々とした強面の巨漢に、まるで狼狽える様子がない。

 こちらは帯剣し、武装もしている。

 普通の子どもならビビって喋れもしなくなるのが大半だが、ラズワルドという名のこの少年、萎縮するどころかご丁寧に敬語まで使う余裕があると来た。

 聞けば常冬の山で、十歳になるまでひたすら魔女との二人暮しだったそうだが、他人というモノへの接し方が驚くほど堂に入っている。とても世間知らずとは思えない。


(……白嶺ってのは、案外、礼儀作法とか教育とか、ちゃんと教えこむタイプなのか?)


 タチの悪い冗談みたいな考えに、自分で自分を否定する。


 というか、そもそもこれは()()()()()で済ませていい違和感なのだろうか?


 あれから一ヶ月ほどの時を経て、元刻印騎士の女将や女中から定期的に観察報告を受けてはいたが……まるで大人を相手にしているようだと聞いても、にわかには信じられずにいた。


 しかし、実際にこうして直接向かい合ってみると──


(なかなか、どうして)


 頭の巡りが早すぎる。

 十歳のガキにしては異常とも言えるほどに。

 まるでこちらの考えをあらかじめ推測していたか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、というのを初めから分かっていたみたいに感じる。


 相手の立場と境遇に理解がありすぎるのだ。


 つまりそれは、知っているというコト。


 知るはずのない情報を。

 分かるはずのない背景を。

 推測や当てずっぽうとは明らかに言えない確度で。


「────」


 チラリ、と思わず視線を運んでしまう。

 対面に座る少年の右側、こちらからは左手に座っている少女を。

 正確には、その奥底に潜む三つ目の怪異を気にして。


 ……フェリシアは思いも寄らぬだろうが、グラディウスは刻印騎士団の団長として、組織の一員はたとえ末端であっても全員頭の中に叩き込んでいる。


 ゆえに無論のこと、今や化け物へと堕ちた少女の素性もその使い魔も、当然のように把握していた。


 “叡智(ソフィア)”の魔法ならば、たとえ人智をどれだけ超越していたとしても何ら不思議はない。


 幼い子どもに、もしもその恩恵を授けているのだとすれば、それは幼年期の剥奪。子どもから子どもとしての在り方を奪うという悪にも等しい──が、しかし。


(もはや時は逸した。俺の手はまたしても救うべき誰かを救えなかった。救うべき時に救いを必要としたはずのこいつらも……)


 ならば何も言うまい。

 言える資格も権利もない。

 チェンジリングの一生はチェンジリングにしか分からない。

 この少年が生きるためにソレを必要とするのなら、いったい誰が口を挟めよう。


 グラディウスは微かに吐息を零すことで、意識を切り替える。


「悪ぃな、坊主。俺としちゃ、テメェとそこにいる旧白嶺、それにフェリシアの嬢ちゃんともども、刻印騎士団の新たな名誉騎士として迎え入れてやりたかったんだが…………あのバカどもかなりブルっちまってな!」


 白嶺の魔女討伐作戦。

 元はアレも、教会の一部が刻印騎士団の更なる失墜を目論んで決議した作戦だった。

 言うなれば、刻印騎士団がその性質上、どうしても復讐者の集団となってしまう事実をいいように利用された形だ。

 教会からすれば、刻印騎士団がまたも犬死しましたよと民衆に喧伝(けんでん)し、求心力をいつものようにググンと強めたかったのだろうが……


(けしかけたはずのイヌコロが、白嶺の魔女そのヒトを連れて帰って来やがった)


 挙句の果てにリンデンは黒鉄と白鉄を失い、残るは赤鉄のみ。

 鯨飲濁流の脅威こそ取り除かれたが、取り除いたのは自分たちの味方ではなく厄災の象徴。

 しかも、白嶺の魔女とベッタリ絆を結んだチェンジリングだというのだから、この3週間は生きた心地がしなかったに違いない。おかげでいい(きゅう)になった。


「テメェさんらの処遇については、結局、俺の下でじきじきに『監視』するってのが一番だと言ってやったんだがな。どうにもだ。あのバカどもはやはりバカゆえにか、俺やテメェさんらに報復されんじゃねえかと不安で仕方ねぇらしい」


 多数決は辛いよなァ、と思わずごちる。

 すると、ラズワルドはキョトンとした顔で、


「『保護』って言わないんですね」

「あん? んなもん取り繕ったって無駄だろうが」

「そういうものですか?」

「応よ」


 多少明け透けに言いすぎたせいか、苦笑のような色を顔に映し出していた。


「ハハ……まぁ、城主さんらの考えは当然です。僕だって同じ立場ならそうすると思います」

「マジかよ、意外と根性ねえなっ! 鯨飲濁流をぶっ殺した時のテメェはかなりカッコ良かったぜ?」

「見てたんですか?」

「おう。半分頭割れかけてたがな。ありゃスカッとした。今度マネしていいか? ほら、あれ。『残ね──」

「うわあああああああああ!?」


 遊び心で揶揄ってみると、予想以上に良い反応が返ってきた。

 朱の差し込んだ頬、赤くなった耳。


(ハッ、なんだよ。子どもらしいとこもあんじゃねえか)


 これなら、まだ十分に人間だ。

 安心がドッと胸に押し寄せる。


「──ウッ、ウゥン! 話を戻します」


 思わず口角を吊り上げ歯を剥き出しにして笑っていると、ラズワルドが照れを誤魔化すように言葉を放った。


「つまり」


 一拍の間を挟み言葉を続ける。


「──つまり、僕とベアトリクスとフェリシアさんについて、リンデンは無害認定を下せるほどの勇気がない」

「恥ずかしい話だぜ」


 その決定が人類全体にとって絶対の安全だという保証がなく、同時に太鼓判を押せるほどの信頼がラズワルドに無いために。

 鯨飲濁流を殺害しリンデンを間一髪で救った事実があろうとも、それ以上の負い目と恐怖が猜疑心を膨らませている。

 そして疑心は暗鬼を生じさせ、そも鯨飲濁流がリンデンを襲ったのはチェンジリングが居たからなのではという意見さえも出始めた────ゆえに。




「東の古き大樹海。千古万古の深山幽谷。

 精霊と獣、巨龍の棲まう帰らずの森……伝え聞くその名は──」




 “壮麗大地(テラ・メエリタ)




「その土地その場所そのものが、神の創った魔法と呼ばれる永遠の禁足地に……」

「近頃、異変があると王都より報せがあってな。なんでも魔術師どもが絡んでいるらしい。俺も心苦しいが、調査をお願いする」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()……?」

「違う。神父だ」

「力が無いのは同じです」

「俺だって反対だとも。だが、業腹なコトにこの決定は覆らん」


 王都からの使者は宰相だった。

 紛糾する議論に「ではこうするのがよろしいでしょう」と上役から言われてしまえば、これから先、復興支援を申し願う立場のリンデンは強く反対できない。


 つまり政治の力だ。


 刻印騎士団は人望と名誉を取り戻したが、団員はグラディウスを含めてもはや片手の数にも満たない。

 数の力の前には、やはり圧倒的に無力と言うしかなかった。


 加えて、



「教会の連中どもは、自分たちの身内をきちんと守り通して帰って来さえすれば、その時こそ喜んで認めると吐かしやがった」



 ──すなわち。



「坊主、テメェがこのクソッタレな世界で自分の我意(エゴ)を貫き、旧白嶺や嬢ちゃんみてえなヤベェのと今後も共に在り続けようってんなら────今一度、その行動を以って自らの善性を証明する他に道はねえ」



 足掻け続けることでしか、この世は前へと進めないのだから。



「っ」





tips:命の三要素について


肉体を瓶。精神をジャム。魂をラベルと仮に考える。

瓶にヒビが入るなりして壊れれば、中身は零れ出しジャムは台無し。ラベルもバラバラになってしまう。


ジャムは新鮮であれば新鮮であるほど状態がよく、良い環境で保存されていれば高品質で長持ちするが、時とともに劣化するのは免れない。


ラベルは通常、その瓶に何のジャムが入っているのかを示す記号に過ぎないが、この世界では瓶とジャムの状態によって随時名前が更新され、質の経過遷移についても記録されていく。


人が死亡時に人外へと転生する理屈(人魔転変理論)とは、その瓶が壊れる前にジャムが別物に変化し、ラベルが「人」から「魔」へと変わってしまうコトが原因のひとつと考えられている。

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