#20 嚇怒の鉾
英雄と呼ばれる男がいる。
身長二メートルを超える鋼の肉体。
御歳百三十歳という驚異の年齢にありながら、そこいらの若衆よりもよほど生命力に溢れ、初対面の者はまずその人間が老人だとは思わない巨躯の男。
筋骨隆々。顔は精悍とし、鷹のごとき双眸は真実猛禽のそれ。
かと思えば、灰色の髪と髭は立派も立派。まるで野生の獅子のごとき鬣と見紛うほど。
加え、生まれつき常人よりも力に優れ、幼児の時分にてすでにその腕力は大人三人分はあったと逸話も残す。
人類の突然変異。
あるいは、神の気紛れによって生まれた奇跡の子。
魔法使いになる素質まで持ち合わせ、まるで天がお前は他者のために生きろと言わんばかりに才に恵まれた。
そんな男が、困窮に喘ぐ人々の姿を見て。
いつしかその両手に剣を握るようになったのは、なに、別段そう不自然な話ではなかったのだろう。
己は他人より多くのものを持っている。
恵まれた己が、持たざる者を助けるのは人として当たり前。
人は弱く、斯く言う己すらも、この世界では呆気ない塵芥。
地龍の一頭、獣神の一柱が、ほんのちょっと村に立ち寄って、軽く一息吹くだけで、明日をも知れぬ風前の灯火だ。
だからこそ、人は助け合うために群れを成し、今日も必死と汗を流す。
我々はそういう生き物で、そういう社会を作る存在。
ならば、多少変わっていても、同じ人間である己が他人のために尽くすのは口に出すまでもない道理だろう。
男は迷うことも、躊躇うことも無しにあっさりと決断した。
生まれた街の小さい頃から知ってる魔法使いの集団。
血生臭くて、いつだって陰気な雰囲気が伸し掛るそこへ、何の気負いもせずに。
──おうおうおう、悪ぃが俺も仲間に入れてくれや。
当時の刻印騎士団からすれば……きっと、さぞやバカ丸出しに見えたコトだろう。
勇気と無謀を履き違えたアホな若造か、はたまた自分の力を過信した愚かな若造か。
とにもかくにも、そんなふうに思われたに違いない。
実際、入団を希望した初日は門前払いで追い返されたと云う。
しかし、だ。
刻印騎士団にとって。
否、人類にとって何より幸運だったのは、男が正真正銘の英雄だったコト。
普通の人間なら何をしてでも避けたく思う選択。
切った張った、命の遣り取りが日常茶飯事となる殺伐とした人生を、男はそれこそが己の『生きる意味』であると本気で信じて疑わなかった。
喧嘩っ早く、礼儀も知らず。
生来の腕力に物を言わせ、粗暴な立ち振る舞いを幾度となく繰り返す。
口も悪ければ態度も悪い。
下手をすれば野盗やゴロツキの類にも等しい悪漢顔で。
然れど、暖かな陽だまりを何より愛する。
人が人として当然に持ち得る善性。
親が子を慈しむ姿。
子が親に報いんとする姿。
若者が年寄りを労り、年寄りが若者を導く。
力ある者は力なき者を助け、かつて助けられた者が同じようにいつかの誰かを助ける。
老若男女、誰しもが微笑み安らぐ世界の、なんと美しいコトか。
特別なコトなど何一つ無くていい。
ただ、当たり前に今日と同じような明日を送れさえすれば、それはこの上ない倖せだ。
男が鎧を纏う理由はそれで十分で。
名前を変え、剣を背負うのも、すべてはそんな慎ましやかな願いのためだった。
ゆえに──誰かが言った。
男はそれで何を得るのかと。
尽くし、捧げ、身を粉にする生涯。
民衆はその献身を犬死だと嘲笑っているではないか。
人生を、棒に振っているとは思わないのかと。
それに、男は笑いながら答えた。
何のことはない。見返りならばもう貰っている。
抱えきれないほどの報酬を。
この身が粉と擦り切れるまで戦う分の返礼は、すでにこの手にあるのだと。
────すなわち。
「オレが戦うことで守られる誰かの生活。そこで見られるいつかの『笑顔』こそが、この身を費やすに足る至上の宝物だ」
だからこそ!
「死んでくれ。ああッ、死んでくれ!」
お前らがいると世界は曇って仕方がない。
邪魔なのだ。頼むから消えて居なくなれ。
貴様ら化け物が我が物顔で地上を闊歩するその度に、人は涙を零し膝を抱えてうずくまる。
恐怖でおちおち夜も眠れない。
たとえ昼日中であっても、飯が喉を通らない!
足元ばかり見つめて明日の太陽さえ信じられなくなっちまう。
どうだ。え? こんなふざけた世界があってたまるかよ、馬鹿野郎がッ!
ゆえに男は咆哮する。全身に漲る怒りのままに。
己が名に刻みし誓いに懸けて、背中にしたすべての人々その想いを剣へ乗せて。
何故なら──男の名は、
“誰かのための怒りの剣”
自らを一振りの鋼。
すべての人の声なき声を代弁する、一本の剣と定義づけた刻印騎士であるがゆえに。
§ § §
戦いが、始まっていた。
人と魔。相容れぬ二つの存在による、生死を懸けた争いである。
見慣れた街の見慣れぬ姿。
この場所だけはいつまでも大丈夫だと、そう思っていたのに。
一体の魔性。真性の悪魔。
恨み骨髄にまで達する怨敵が、ほんの手慰みで遊興に耽った。
たったそれだけのコトで、いまや楽園は地獄に堕している。
そして──わたしは。
そんな悪夢のような現実を、この世の何より忌まわしい吸血鬼の裡側から見下ろしていた。
「ハ、ハハ、ハハハ。愉快愉快。人間たちめ、そう佳い目で俺を見るなよ。昂るじゃないか。ますますそそられてしまうなァ」
男の声が外から響く。
鯨飲濁流は大樹へと変身しておきながら、やはり人型の方が好ましいのか。それとも単に、喋れもしなければ見るコトも叶わないカラダに飽きが勝ったのか。
本体は変身させたままに、『端末』として自身のヒトガタを構築していた。
大樹から伸びた遥か上空の枝に腰掛け、ニヤニヤと眼下を嗤っている。
痩せさらばえた長駆。
老婆を思わせる白き長髪。
双眸は赤く染まり、滂沱と血涙を垂れ流す。
上半身は何故か裸だ。
浮き上がった肋骨が目に留まる。
下半身には襤褸布を纏っているが、どういうワケか両足に鉄枷のようなものをつけている。
罪を犯した囚人とでも言うつもりか。無意識に己を咎人だとでも思っているのか。
あるいは、哀れを誘う姿を敢えて形作り、そんな自分を害そうとする周囲へ罪の意識でも植え付けようとしているのか。
何にせよ、腹立たしい。早く死ねと心の底から希う。
けれど。
(コイツに食われたわたしは、もう何もできない。永遠に、狂い果てるコトすら出来ず、籠の鳥)
そう。もはや時すでに遅し。
フェリシアが何を想おうと、何を願っても、すべては死者の怨念に過ぎず。
吸血鬼の裡側で渦巻く数多の成れの果て。
五百年の間にひたすら積み上げられた濁流がごとき魂たちと同様。
自らを食らった鬼を呪い、恨み、憎しみの渦中に囚われ、安らかに逝くコトも眠るコトさえ出来ない無限の地獄の只中──ひたすらに怨嗟の合唱を謳い続けるのみ。
憎いのに、許せないのに。自分はもうこの鬼の一部。
悪魔のカラダを動かす一エネルギーに過ぎないという無情。
そして、同化してしまった以上どうしても伝わってくる絶望的飢餓感。
怨敵のコトなど一ミリも理解したくはないのに、頭の中へ強制的にズルりと入り込む衝動と渇望。
百億の魂はもはや完全に狂い果てている。斯く言う自分も気を抜けば、危うい。
それでも、他の犠牲者たちと違い、フェリシアが完全な狂気に堕ちず未だ正気を保っていられるのは、恐らく生前に契約していた使い魔の影響だ。
──“叡智”の魔法。
ヴェリタスと魂を共有し、その知性を分かち合っていたからこそ、フェリシアは死してなお狂気という名の『愚』を犯さずに済んでいる……たぶんそのはずだ。
生憎、その肝心の使い魔の姿が何処にも見えないため、フェリシア自身ハッキリと断言できるワケではないが……ともあれ。
いまの自分の状況を正しく説明するには、現状それしか可能性が思い浮かばない。
そのため、ここに囚われてすぐは、あの不気味な三眼と嗄れ声の主が、案外近くに漂っているのではないかと探しもした。
が、どういうワケか、フェリシアの付近にヴェリタスの姿はまったく無い。
フェリシアが喰らわれた以上、アレもまた共にこの鳥籠へと囚われたはず。
叡智の魔法が元をたどれば自身の使い魔から流れ出ているモノであるコトを鑑みるに。
フェリシアと同様、アレもまた、正気を保ってこの濁流の中にいると考えられるのだが──果たして。
もしかすると、ヴェリタスが存外近くにいたとしても、すぐそばで幾千幾万の魂が声を限りに張り叫んでいるこの場所では、己以外の何物かを知覚するコトはできないのかもしれない。
実際、いまのフェリシアは周囲におびただしい数の魂が居るコトは理解できても、その一つ一つが何なのかはまったく分からなかった。
人であるのか、獣であるのか。
あるいは向こう側のモノたちなのか。
とにかく、いまのフェリシアに分かるのは自分という一個の存在と、鯨飲濁流が外で何をしているのかといったコトだけ。
怨敵の一部になったコトで、怨敵がいま何を見て何を聞いているのか。
それがリアルタイムに感じ取れる。
つまり、これ以上ないほどに最悪だ。
自分は今後、この吸血鬼が行う那由多のごとき悪逆非道を、正気を保ち続けたまま見過ごすしかない。
すでに師を殺され、仲間を殺され、リンデンに暮らすたくさんの人々をも殺された。
だが、それらはまだほんの手慰みでしかないのだ。
これから先、鯨飲濁流はまだまだ殺す。厭きるコトは永遠にない。ずっと、何百年経とうとも、ゲラゲラ嗤って殺し続ける。
その度に、
(わたしを囲う鳥籠は、いっぱいになる)
もう耐えきれないほどたくさん詰まっているのに。
そして……何よりも弟。
かわいいかわいい自分の弟が、こんな風に成って奴の裡側で渦巻いているかと想像すると、頭の奥がガンガンと響いて、自分の両目を抉り出したくなる。
見たくない。こんなモノを、この先も未来永劫ずぅっと見ろだなんて、やめて欲しい。ツライ。無理なの。お願いですから、どうか。
わたしには耐え切れません。
わたしにそんな地獄は無理です。
死んだのでしょう? 愚かにも無様にも。
わたしは死んで復讐は叶わなかった。
なら、それで十分に苦しいじゃない。これ以上ひどいコトしないでよ。イヤだって言ってるじゃん。なんで笑ってるのよ……
心が冷たく雁字搦めに固まっていく感覚。
それはまるで深い深い水底で、窮屈な瓶の奥へと押しやられ、光のひとつも差し込まない闇色の泥が、全身に絡みついてくるかのような鉛の重み。
たとえ発狂せずとも、心は死んでいく。
フェリシアには自分の未来がはっきり見通せた。
──然れど。
「ほう? なかなか食い出がありそうなやつがいるな」
悪鬼はそんなフェリシアのコトなどまったく気にも留めず、さらなる悪辣を振るおうとしていた。
「なんだ? 年寄りのクセにずいぶんとはしゃいで、まるで岩漿熊か海猪のようじゃないか。前菜にちょうどいいなッ!」
吸血鬼の視線の先。
はるか眼下の地上にて、獣も斯くやと咆哮している一人の騎士。
真紅に熱光する大剣を軽々と振るい、魑魅魍魎悪鬼羅刹を鏖殺するまで我は止まらぬと怒涛する鋼の英雄。
フェリシアは当然知っている。
知らないはずがない。
彼の人物こそ、刻印騎士団がこの百年、長と仰いで敬する巨漢にして怪傑。
己をただ一振りのツルギと定めた人類最高の希望に他ならないのだから。
だが……
「ハハハ、ハハハハハハ!
すごいな! そろそろ俺の枝に抗う輩も種切れかと思っていたが、まだオマエのような戦士が残っていたか! おぉ、おおおぉお! 美味そうな目をする!」
刻印騎士団による総攻撃。
リンデン城に備え付けられた秘宝匠特製のバリスタ。
祝福儀礼済みの聖銀でこしらえられた矢や砲弾。
白樺の杭による包囲網。
弱点をふんだんに突く攻撃を散々っぱら浴びせられ、それでもなお依然として余裕を保つ──巨体ゆえに削り切れない──吸血鬼の王に対し。
肉体の鋼鉄化。
感情をエネルギー化して放つ憤怒の一閃が、果たしてどれほど功を奏し得るものなのか。
……アムニブス・イラ・グラディウスと言えば、己が類稀な肉体を利用し、通常は不可能に近い生身への刻印を唯一可能とした伝説の男。
人が生き物であり、魔法使いとはいえども必ず成長し、老いて衰えゆくからには必ず生まれる時の変化。
刻印は気が遠くなるほどの積み重ね。
魔法使いは暇さえあれば器物に己が魔法を刻み込み、その効果を高めるべく邁進する。
すべては、この世の魔力が永遠ではないがために。
時が経てば霧散し大気へ溶けゆく魔力を、少しでも長く固定し留まらせるためには、魔法使いは比較的変化の緩やかな器物をこそ印具へ選ばなければならない。
寿命や劣化の概念が強いモノに印を刻んでも、刻印したその先から効果が薄れゆくならば、そんなのは意味がなくなる。
分かりやすく言えば、風化や波食と理屈は同じだ。
紙やガラスに印を刻むよりも、岩や鉄に印を刻んだ方が長持ちする。簡単な話。
だから、自分の身体や他の動植物に刻印を行おうとするのは、普通は考えられないし、やろうと思っても非効率すぎてバカバカしくなる。
──それを。
(団長は自らの体内に直接呪文を書き刻むコトで通常の印具と同等、いえ、それ以上の質で成し遂げた)
骨や筋肉は無論、皮膚にさえ。
まるで刺青を掘るかのような気軽さで焼印を行ったというのだから、その覚悟と誓いがどれほどの重みを持つか窺い知れる。
刻んだ呪文は名の通り──“誰かのための怒りの剣”
これにより、刻印騎士団団長は文字通りの鋼と化した。
剣という人類が最も初めに作り上げた文明の利器の一つ。
そこに宿る神の恩寵、当人が四六時中常に抱えている怒りの念。
これらを力にし、彼の人物はついに鋼の英雄へと至ったのだ。
魔法が想念を元に形作られるモノであり。
印具が持ち主の魔力を付与されて完成するモノならば。
我が怒りと魔力を常に宿すこの肉体は、最強の刻印を施されたモノである。
鋼は傷つかない。
何度打たれても砕けはしない。
我が身は剣だ。
炎の中より生じる、人が鍛えしモノの頂点なれば!
これぞまさに──鋼鉄の人。
フェリシアを含め多くの刻印騎士は、彼が化け物を殺すその姿を数え切れぬほど見ている。
何度攻撃され、幾度致命傷を浴びようとも、たった一言その名を宣言するだけで不死鳥のごとく蘇る戦士の中の戦士。
けれども──
「残念だなぁ! あともう少しだったのになぁ!」
十本。二十本。いや──すでに五十を超えたか。
それだけの数の巨大な枝を斬り落とし、襲い来る働き蟻をも蹴散らしながら。
並のドラゴンなら百は狩ったであろう進撃をすれど、
「んーむ。惜しい! ゆえに言わせてくれ。ひょっとしてなんだが……」
憤怒が足りていないんじゃあないか? オマエの刃。
ちゃんと研いでおかなきゃダメだろう──なんて。
そんな風に嗤う悪魔が、肩を震わせ健在している。
遠くから、声が聞こえた。
獣のような怪物のような、人の咆哮が。
鯨飲濁流には敵わない。
鋼の英雄さえも、藻屑と散る。
(なのに、いまのわたしには絶望の涙さえ流せない)
フェリシアは怨敵の裡側で、声もなく崩れ落ちた。
──瞬間。
「いいかげん、その汚い口を閉じろよヘドロ野郎。クサすぎて吐き気がする」
「──ん? んんんッ!?」
フェリシアの耳元へ、少年の冷たい声が届いた。
「────“死”」
「ゴフッ、っ」
それは黒衣と白骨を纏った、金色の瞳の────
「……妖精の取り替え児」




