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#16 騎士の意地





「ケケケケケケケケ…………“海獣(ケェェエエ工トゥス)”ッッ!!」


 その咆哮が響き渡ったのは、僕が門を潜り、フェリシアに連れられる形で最初の一歩を踏んだ直後だった。


「なんだ!?」

「デカい……!」

「こっちに来るぞッ!!」


 ド、ド、ド。

 撒き散る轟音はまるで雪崩。

 地面を捲りあげながら真っ直ぐに突進してくる巨体。

 それはシロナガスクジラのような。

 セイウチやトドのような。

 見ようによっては、シャチやイッカクのようにも見えた。

 大口を開けてこちらへと向かってくる怪物──海の獣。


 しかし、それは純正な動物ではない。

 手や足はなく、その代わりに幾つものヒレがあちこちから生えた特異な姿。

 本来、分厚い脂肪を纏うことで水圧や寒さから身を守っているクジラなどと違い、アンバランスなまでの痩身(・・)

 爛々と狂気に走る赤眼からは、血の涙が零れている。

 ともすれば、瀕死と見紛ってもおかしくはない。


 だが、


「う、うあああああアアアアアアァァァアアァァァ!?」

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない誰か助けて──!」

「なんで! なんで! リンデンに化け物が出るんだよぉぉお!!」


 奇怪で醜悪。

 怖気と恐怖とを呼び起こす大顎。

 胴体とはあまりにも不釣り合いな生命力に富んだ底なしの陥穽(・・・・・・)を見て、人は本能から来る生理的嫌悪感を拭いきれない。


 わずか二秒。


 咆哮が轟き、人々が音の発生源に気がついてから、たったそれだけ。

 しかし、鯨飲濁流が災禍を起こすには、十分すぎるほどに十分すぎる時間。

 その間に、僕と吸血鬼との直線上にいた人々は、呆気ないほど簡単に喰われていった。


 悲鳴をあげる者も、泣き叫ぶ者も、降って湧いた理不尽に意味が分からないと憤る者も。


 皆々丁寧に差別なく呑み込まれ、幾重にも重なった口蓋と牙とに噛み砕かれる。

 鮫の歯は生涯で何度も生え変わり、一頭の鮫が死ぬまでに生やす歯は千にも及ぶと言うが。

 鯨飲濁流の『口』には、到底そんな数では比べ物にならない数の歯が蠢いていた。


 無数の牙。

 絶えず泡ぶく舌ベロ。


 ────食べるコト(・・・・・)の化身。


 刹那、全身の毛がゾワリと逆立つ。

 背筋を奔る稲妻。

 恐怖ゆえに竦む両足。

 見開かれる眼球。

 あらかじめ想定し、こんなことも有り得るだろうと予期していても、この体たらく。


 リンデンという城塞都市。


 対魔の象徴を何よりも信じていた人間にとって、目前に迫る光景は、現実感というものを根こそぎ奪い去ったに違いない。

 僕の斜め前にいたフェリシア。

 それと後ろにいた刻印騎士の面々は、押し寄せる悪夢に最初、愕然と棒立ちになっていた。

 チラリと様子を伺えば、誰も彼もが信じられないと言った表情を浮かべ。

 認め難い現実を受け入れるのに、四苦八苦している様がありありと見て取れた。


「──総員、抜杖(ばつじょう)


 しかし、そこはやはり刻印騎士団。

 火傷顔の女性……ベロニカを筆頭に、表に出した動揺はごくわずかな時間だけだった。

 そして、常日頃から人に仇なす化外を相手にしているだけあって、脳の切り替えも僕なんかよりよっぽど早い。

 鯨飲濁流が自分たち──正確には僕──を目指して突進してきていることを理解すると、皆が殺意とともに魔力を解放した。


 彼我の距離はすでに五十メートルを切っている。

 僕はまだ自分の杖すら構えていない。


「……見窄(みすぼ)らしい餓鬼が。私の坊やに、牙を剥いたな」


 そんななか、突如として周囲の気温がガクンと下がる。

 晴れ渡っていた空には凍雲が現れ、肌を刺す冷たい風が、僕の隣からびゅうびゅう(・・・・・・)と音を鳴らした。


 逆巻く風。渦巻く稲光。


 魂の繋がりを通して、魔法使いと使い魔は互いの精神状態をある程度感じ取れる。

 だが、仮にそうでなくとも、ベアトリクスにとって僕へ降り注ぐ火の粉(・・・)は問答無用で排除対象だ。

 金色の双眸は静かな嚇怒に染まり、頭部から生えた二本の角からはバチバチと白雷が散った。


 ……このままいけば、鯨飲濁流VS()元白嶺の魔女(with刻印騎士団の皆さん)という大災厄が起こりかねない。それはこの場にいる騎士団の面々も十分に分かっているはずだ。


 しかし。


 ベロニカもフェリシアも他の騎士団員も、皆、一目見たその瞬間に彼我の実力差を察している。

 鯨飲濁流が持つ魔力量。

 怪物として併せ持つ膂力の脅威。

 喰らってきた命と積み重ねた業の深さは計り知れず。

 あちら側にどれだけ沈み込んでいるのか、という非常にシンプルな問題が歴然と立ちはだかる。

 白嶺の魔女と相対したばかりだからこそ、それは明白だ。

 自分と相手の魔性としての格の違い。

 奈落へ溺れた『深度』を理解してしまう。


 身を狂気に委ね、杖を抜き、殺意を猛然と滾らせたところで。


 人としての理性、本能的視点が、この怪物には敵わないと明らかに警鐘を打ち鳴らしているからだ。

 それは僕も変わらない。

 恐ろしい。怖い。助けてくれ。

 情けない弱音が、間欠泉みたく口から溢れ出そうになる。


 ──だからこそ。


「悪いが少年、君の物騒な使い魔に命令してくれないかい? そのまま大人しくしていろ。手を出すな、と」


 顔を焼かれた女。

 フライフェイス・ベロニカは言った。


「この都市(まち)は化け物が大手を振って歩いていい場所じゃないんだよ」


 城塞都市リンデンは光の象徴。

 魑魅魍魎が跳梁跋扈する魔境の地で、人々が最後の救いを求めて必死に足を伸ばす希望の聖域。

 ……それをなんだ、オマエ。ふざけるなよクソがッ!!


「総員、傾聴。少年を守れ。旧白嶺に理由を与えるな。今より此処は死地である」


 瞬間、ザッ! と。

 僕の前に、すべての騎士が背中を見せた。

 常冬の山では僕にナイフで刺され、ここまでの道中決して監視の目を途切らせなかった男さえ、なんら躊躇せずに。


「──邪魔よ。それでいったい何になるというのかしら」

「黙れ魔女。テメェもこの先、愛しいご主人様と長く一緒に居たいなら、少しは人間ってのを思い出すんだな」

「……」


 男の言葉に、ベアトリクスは黙る。


 本来、この状況下における最適解はベアトリクスをぶつけるコトだ。

 戦力的にもそれが最も確実。

 もちろん、多少の犠牲は大なり小なり生まれるだろうが、騎士団や街もそれが一番助かる見込みが大きい。


 ……なのに、人間どもはワケの分からない理屈で自ら戦おうとしている。


 その瞬間、ベアトリクスから伝わってきたのは微かな当惑と理解できないモノへの苛立ちだった。


「我らは魔法使い。人でありながら人とは違うモノ」

「然れど、決して人であるコトを見失わず」

「人を捨てるのは、憎き化け物どもと真向かう時だけ」

「命を()べよ」

「心を燃やせ」

「憎悪も怨嗟も等しく祈り」

「この身に刻んだ鋼の誓いを胸にし、いざ」


 ──刻印解放(・・・・)


「励起せよ、千の呪句(ノロイ)

「チェェンジリングウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!」


 刹那、接近した鯨飲濁流を二十五の刻印魔法(・・・・・・・)が一斉に叩き潰した。





 § § §





 轟音と衝撃。

 閃光と熱波。

 舞い散る砂塵が風に乗り薄れゆく。

 一秒、二秒。

 空気が泥のように重い。

 こめかみを伝う汗を苦く思いながら、フェリシアは一片の油断もなく眼前の巨塊を睨む。


(……間違いなく、会心の一撃だった)


 二十五人の刻印騎士団。

 全員で力を合わせた刻印励起。

 万全ではなくとも、十全を尽くしたと自信を持って首を縦に振れる──それなのに。


「こいつ……このナリでアンデッド(・・・・・)だと……!?」


 仲間の一人が忌々しげに叫ぶ。

 声音に戦慄が滲んでいるのは、きっと気のせいではない。

 そう。フェリシアたちは限りなく最善の一手を打った。

 突発的な命の危機。一瞬の判断が生死を分ける極限状況下。

 常人ならば焦りと動揺から致命的な失敗を犯してしまっても何ら不思議のないシチュエーションで、ほとんど完璧に近い対処を成功させたと言える。


 刻印騎士団ならば誰もが個別に持ちうる奥の手、刻印励起。


 魔法使いとしての人生を歩むことを決め、騎士団として生涯化け物どもと対峙する道を選んだフェリシアたちは、ただ一人の例外もなく。

 並の化け物なら『必殺』と断言して良い切り札(カード)を持っている。

 それは常日頃から愛用している杖であったり。

 懐に忍ばせたナイフや、腰から提げた剣。

 変わり物だと、書物や時計なんてコトもある。


 しかし、たとえ(カタチ)が何であれ、刻印騎士団に所属する魔法使いの印具ならば、込められた想念は狂的だ。

 虚仮の一念天にも通ず、というコトワザがあるように、どんな物であれ最低五年は所有者の魔力を刻まれている。

 つまり、仮に一日に五の攻撃力を持つ魔法しか刻印するコトができずとも、それが三百六十五日繰り返すごと五回分ともなれば。


 5×365×5= 9,125


 文字通り、桁違いの威力を発揮する。


 もちろん、これはあくまで単純な物の考え方であり、現実はそう易々と上手くいかない。

 実際の敵にきちんと魔法を当てられるか、相性は悪くないか、果たして本当に状況に即した攻撃手段なのかそうでないか……などなど。

 考えなければいけないコトは多岐に渡り、そのクセ戦場は絶えず流動する。


 だから、命の遣り取りをしている時、この技を使えば百パーセント勝てる、なんて確約は何処にもない。


 ただでさえ人は弱く、化け物は強いのだ。


 大多数の人間は化け物と遭遇した時、まず諦める。

 自らが生き残る道を。

 生存への希望は皆無になったと項垂(うなだ)れて、時には自決用の毒薬すら肌身離さず持って。

 刻印騎士団は人類の守護者。

 化け物を殺す奇跡の勇者と吟遊詩人は唄うけれど、人間の無力さを誰より思い知っているのは、他ならぬわたしたちだとフェリシアは強く思う。


 勝てないのは当たり前。

 人が一生をかけて築き上げたものを、奴らはたった一撫でするだけで簡単に台無しにできる。

 負けるのは日常だ。

 友が死に、仲間が死に、屍山血河の(わだち)を超えてそれでもなお、戦う。

 たとえ無駄な足掻きでも。

 ちっぽけな虫の抵抗だとしても。


 戦わなければ──奪われ続けるのみ。


 許せるものか。

 見過ごしていいはずがない。


 だから刻印騎士団は戦っている。


 他の誰かが諦めたとしても、自分たちだけは諦めない。

 進み続けたその先に、耐え難い絶望が待ち受けていると知っていても。

 歩みを止める理由にはならない。

 人間の尊厳は、何かを守るコトにあると信じているから。


 白嶺の魔女だってそう。


 あのまま放置すれば、被害は極北の鄙びた寒村で収まったかもしれない。

 しかし、五十年後。あるいは百年先の未来になったら?

 小さな村だ。些細なコトを切っ掛けに、いつ滅びてもおかしくはない。

 そうなれば、魔女は己が領域をさらなる広域へと伸ばしただろう。


 悲劇は回転し、留まるコトなく悪夢を量産し続ける。

 人が安心して過ごせる世の中は、いつまで経ってもやって来ない。


 ゆえにこそ、刻印騎士団は無茶も無謀も承知の上で挑むのだ。今、こうして人間世界の盾たる義務を果たさんとしているように。


 ──だが。


「今この場にいる騎士団は二十五人。その内、五十年級の印具持ちが十人はいる。わたしも含めて、どいつもこいつも魔法使いとしては古株だね」


 師匠の険しい声。

 発せられた言葉には、焦燥。

 ……要するに、目の前の敵は最低でも五百年は地上を彷徨う荒御魂だと現実が語っていた。


 アンデッド。


 死霊、ゾンビ、食人鬼(グール)など。

 細かく分類すれば実に様々な代表的種族が存在するが、そのどれもが共通して『不死』という特徴を持つ。

 死した人間が最も成りやすく(・・・・・)、そして最も忌まわしいとされる化け物の中の化け物。


 大抵の人外が一個体につき大体一つから三つの魔法を使うのに対し、アンデッドは魔女と並んで複数の魔法を発生当初から使いこなす。


 その理由は、死体に染み付いた未練や呪縛、生前からの強い執着心などが変生時にそのまま引き継がれるためであり、魔法を使う素質……原動力が、最初から備わっているからだ。


 そして──


「チィッ、最悪だ! 銀十字と白樺の杭を用意しろ!

 このデカブツ……ヴァンパイアだ!」


 変身を得意とし、人を好んで喰らうのはアンデッドの中でもただ一種。

 数多くの弱点を擁しながら、それでもなお夜の王としての座を掴んで離さぬ闇の公子。

 その上、五百年を超す長老ともなれば、二つ名持ちであるは必然。


 事ここに及び、フェリシアを含めその場にいるすべての騎士が一つの名前に行き着いていた。


「ふぇっふぇっふぇっ、こりゃ伝説のオンパレードだねぇ、おっかないねぇ…………だけど、どうするフェリシアや?」


 喜悦に富んだ使い魔の声。

 淡いの異界から、すぼめられた三眼がジッとこちらを見ているのが分かる。

 声も耳障りなら視線も不快。


 ──だが、だがしかし……!




「アイツ、オマエさんの弟御を食った男だよ」




 真実(ヴェリタス)は今ここに。


 鼓動が跳ねる。

 瞳孔が開く。

 沸き立つ憤怒に体の中は加熱され、神経の一本一本がまるで茹だるように憎悪を奔らせた。


 染まる、染まる。


 視界が真っ赤に頭の中は真っ黒に。


 ガチリ、と嵌った復讐の歯車が、フェリシアの精神を呑み込んだ。


「フェリシア? まっ、待て──!!」

「あああぁぁあああぁぁあぁアアあああぁぁあああぁぁあぁアアアあああぁぁあぁアアあああぁぁアアあぁッッ!!!!」




























「生娘か、まぁ悪くない」





tips:魔女


 COG世界の人外の中で、多種多様な魔法を扱えるのはほとんど魔女だけである。

 魔女は基本的に魔法使いの完全上位互換であり、その実力には天と地レベルで差が存在する。

 たとえ刻印(印具)を使ったとしても、込められた魔法はあくまで人間が使える程度の魔法にしか過ぎず、大抵はより上位の呪文(概念)によって封殺されてしまう。

 そのため、魔女を退治するのはたとえ一桁(発生年数)級でも至難と云われている。

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