【第5話】
翌週の日曜日、親友の嗣織に誘われてやってきたのは、住宅を一部改装したピアノ教室だった。
一般的な2階建ての住宅だが玄関前の看板には『ピアノ教室』と掲げられている。
初めてのピアノ教室と2階建てに思わず尻込みしてしまう。
普段は何も言わないが、母親は機嫌が悪い時と良いときの差が激しかった。平屋の家は母が選んだものだったが、あまりお金が無い事をネックに思っているようで、少しでも家のことを悪く言えば怒られてしまう。
「神様が見てるんだから。」
・・・古い家を選んだのにそれを指摘して怒るのもどうかと思うが、宗教の幹部にまでなった母親を責めたくはなかった。どちらかといえば信仰心は残っている方だ。
ピアノ教室に生まれて初めて足を運ぶので緊張してドギマギしてしまった。そんな自分を見て親友は気を遣ってくれた。
「ピアノの先生には話を通してあるから大丈夫よ。」
嗣織は幼稚園の頃から通っているので、ここに来て数年にもなる。ピアノ教室で何人も卒業した同級生を見てきたと言っていた。すぐに辞めるのは、ピアノ業界では当たり前らしい。
私が通ってくれたら嬉しいとさえ言ってくれたのが、家にはお金が無かったので、お試しだけさせてもらうことになった。
先日の楠木とのやりとりを思い出す―”向上心のある女性は好感が持てる”
あの日、私の受験票を拾ってくれた。ただそれだけのご縁だったのに、隣の席になったので、ほんの少し意識してしまう自分を許して欲しい。
(ちょっと意識しただけなのに、私ってすぐ調子に乗るからなぁ)
宗教の高校では男女共学だったが、最初は女子高を選ぼうかとさえ考えていた。が、母親が宗教の団体に所属しており、男性ももちろん混ざっているので、一概に男性嫌いと言ってしまうと母に失礼になるので言えなかった。
(・・・男性でもあんな親切な人がいるんだな。猫好きなら私と一緒なのかな。)
好きな人が一人でも欲しいと思っていた。―ファンタジー系の小説の読みすぎかもしれない。恋愛要素高めの物語を好んで読んでいたので、今回の件は独りよがりになっているのかもしれない。
だけど、楠木さんの鶴の一声のお陰で少しピアノに対して前向きになれた。
特に自分の父親が厳しくて母に冷たくしているのを見ると、ピアノをすると嫌なことが起こると思っていたので、自分の気持ちと向き合うことが出来ているのかもしれないと思った。
嗣織ちゃんもしている、楠木さんもピアノは好きだという・・・。
「楠木さんも嗣織ちゃんも努力家だよね。私も見習わないと・・・。」
楠木の成績はとにかく優秀だった。授業中、先生に当てられてもすぐに意とする答えを持ち合わせている。体育でバスケの練習があったとき、目を引くほど活躍を見せていたので、文武両道で嗣織のように育ちが良いと思った。
「ヒカリちゃんって真面目だね。そういうところが良いよ。」
「そ、そうかな。」
そんなことを考えながら、一旦ピアノ教室がある家のチャイムを鳴らした。
(今考えても仕方が無い。)
考えを一度ピアノに集中させる。どんな人でどんな体験なのだろうか胸が膨らむ。
すると、すぐにドアは開いて、礼儀正しそうな女性の先生が待ってくれていた。私を見て、驚く素振りも無く、家に招いてくれた。
「いらっしゃい。手毬ヒカリさんね。」
「おじゃまします。」
嗣織の家に来たように玄関をあがる。ピアノの先生は慣れたようにヒカリの後ろにいる嗣織も見て軽く会釈を交わした。
玄関からあがってすぐ右手にはグランドピアノが置かれた部屋があった。音楽室以外で見たのは初めてだったので、心が締まる思いだった。
「今日は愛宕さんの曲と実際にやってみてから考えてみてくださいね。」
嗣織は慣れた様子で鞄から楽譜を取り出してページを開いた。ヒカリは傍にあった椅子に腰かけて、嗣織が演奏を始めるのを見ていた。傍で楽譜を確認していた先生が指を指して嗣織に何かを伝える。そして、嗣織はゆっくり鍵盤に両手を置くと一曲弾いてくれた。まるで手だけが意思を持っているかのように動くのを、ただ唖然として見ていた。
(すご・・・)
一曲奏で終わるとヒカリは無意識に拍手を送っていた。
家に古びたオルガンがあるので、やろうと思えばできるかもしれなかったけれど、自分には無理かもしれないと思った。
「最初から完璧を目指さなくてもよいのよ。」
自分の気持ちを察してくれたようにピアノの先生が語り掛けてくれた。
「愛宕さんも最初は『無理無理!』って投げ出していたんだから。」
「せ、先生!」
そのやりとりに冗談を言いあえる仲だと分かり、ヒカリの緊張が和らいだ。気持ちに若干の余裕が出来てか、これでピアノが弾けて、叶ったのなら見せたい相手を思い出した。
楠木さんにとっては、きっと、普通のことだったのかもしれない。
「ヒカリさんもどうぞ。」
先生に促されて嗣織と交代してピアノの前に座る。楽譜には嗣織と先生が手直しをした跡や筆跡が残っていた。
「が、がんばります。」
今さっきの簡単なバージョンを先生がひとつひとつ教えてくれた。嗣織の真似をして一音一音確実に弾いていく。
「ご自宅のオルガンでも少しで良いからやってみてね。」
ピアノに消極的だったがその言葉が嬉しかった。とにかく厳しいイメージがあったが先生は優しかった。
傍で見守っていた嗣織もこんな風に習っていたのかもしれないと思うと、やる気が出て嬉しかった。
今まで頑張ったけど結果になったことなんてほとんどなかったのだから。
「習うより慣れろよ。」
ピアノの先生もきっと厳しい環境で今があるのかもしれない。ヒカリは―
***
その頃、楠木は都心部から離れた場所に位置する墓地を訪れていた。今日は命日ということもあり、喪服を着ている。
その墓石の前に線香を立て、ライターで火を付ける。また、花束を添えると両手を合わせて頭を垂れた。
楠木には、一人大切な人がいた・・・いつも天真爛漫でこっちの考えなんかおかまいなしで、ワガママで短気ですぐに怒って相手を困らせるのが得意な奴だった。
生まれつき身体が弱かったようで、持病が見つかって、医師から寿命は長くないと聞いた日のことをよく覚えている。
母親はそいつを入院させて延命治療も視野に入れていたが・・・。そいつがそれを断った―余命宣告よりも数か月は命を長らえたが遂に息を引き取った。
「ご家族の支えがあってのことですよ。」
医者は慰めるように言ってくれたが、楠木は納得していなかった。母親も相手の死を受け入れる覚悟が出来ていたようだが、それでも、現実を受け入れるのに時間がかかった。
その日、楠木は学校で授業を受けていたが、いきなり職員室に呼び出された。今すぐに病院に行くようにと言われて、先生の自家用車で病院に着いたころにはそいつの身体は冷たくなっていた。
そいつに・・・もっと笑ってやれば良かった、もっと構ってやれば良かった・・・。
ふと、墓石に水をかけながら、最近起こったことを振り返っていた。
ただ、拾い物をしただけで、頭の中がお花畑のような疑う事を知らない女を思い出した。
(よく、似ているな。)
同じクラスでしかも隣り合わせ。図書室で勝手に猫好きの偏見を持たれた。
俺としゃべってるとき、周りの女子の視線はアイツを見ていた。
アイツさえ・・・どうにかしてやれば。いや、好きなのか。そんな訳が無い。
(学校で力を使うのに何とも思ってないみたいだな。)
「・・・。」
アイツの物覚えの悪さは学校一のように思う。わざわざこんな方法取らなくて良かったのにな。
高校3年間、守ってやりたかったんだ。
※一部修正しました。