【第3話】
平屋で2人暮らしには丁度良い広さをしていた。広すぎず、狭すぎない。けれど、友達を呼ぶのだけは避けたかった。できれば遊びに来る友達も綺麗な方が良いと思う。
居間には真新しい制服を着たヒカリが朝食のトーストを食べている。大の甘党なためか、小豆をたっぷりのせてほうばっている。ヒカリの口元にはあずきが付いているが、当の本人はおかまいなしだ。
「高校生にもなって恥ずかしくないの?」
「だって、おいしいんだもん。」
宗教の高校までに行くのには、電車で片道20分かかる。ここで口元を拭って、歯を磨いてとなると、時間ギリギリになってしまう。
あの高校合格の発表を見た後、そのまま駅まで車で移動してで定期を購入した。
初めての電車通学、高校生、期待と不安が入り混じる。
「お母さんは今日もお祈りしに行くの?」
ヒカリの母、富悠はとある宗教団体に所属していた。毎朝、毎夕にお祈りの儀式が日課になっている。そして、富悠は大手メーカーが立ちあげている宗教団体で幹部の位置にまで上り詰めた一財だ。
ヒカリもその宗教の礼拝堂に参加したことがあるが、そのお祈りの儀式のときに、宗教の制服に身を包んで儀式に挑む母の姿は立派に思えた。
「ヒカリの高校デビューが成功するようにお祈りしてくるから。」
子どもの頃から何かあれば信仰するのが習わしだったので、不思議とも何とも思わなかった。ただ、母の影響を受けて宗教の高校を選んだのもある。
ヒカリは朝食を平らげると洗面台にいき、歯を磨いて口の周りを洗い流した。真新しい制服にしょっぱなから汚れが付いていたら一大事だ。
「うん、いってきます!」
最寄りの駅までは自転車で10分とかからない。自転車にまたがって、ペダルを漕いでいく途中、電車が見えてきた。
その時、ヒカリは重大なミスに気付いた。
「ああ!定期!」
母に定期を買ってもらった際、その時、カバンに入れっぱなしだったことに気付いた。ヒカリは今来たばかりの道を引き返した。
平屋にドタバタと忙しい足音が響いた。ヒカリが血相を変えて自分の部屋にある定期入れを探した。はたから見れば泥棒のようだ。
「あった!」
部屋に放置したあったカバンから定期券を見つけるとダッシュで自宅を後にした。その一部後継を目の当たりにした母親はただ呆れた。
「・・・高校でもその調子だと、先が思いやられるわ。」
台所でやれやれと煙草にライターで火を付けた。
***
電車には間に合ったものの、車内では自分一人だけが息を荒くしていたので周りから白い目で見られてしまった。
なんとか息を整えて空いている席を探すと、優先座席しか空いていなかった。朝から疲れてしまったので、自分を責める気持ちを抑えながらその席に座る。ウトウトとしていると、杖をついたおばあさんが電車内に入って来た。白髪に丸眼鏡、品の良さそうな桜柄の着物を着ている。
自分以外の人達は携帯の画面を見ていて、おばあさんには気づいていないようだった。
「どうぞ。」
ヒカリは立ちあがって、おばあさんに席を譲ろうと声を掛けた。
「あら、ありがとう。」
おばあさんは杖をつきながらゆっくりヒカリが元いた席に座った。代わりに天井から下りている吊革に手を伸ばして、目の前のおばあさんを見る。優しそうでおっとりしている。
(優しそうなおばあさんだな。)
ヒカリの視線に気づいたご老体が制服を見て思い出したように言った。
「・・・あの宗教の学生さんかしら?」
初めての電車通勤に緊張しているのだろうかヒカリはぎこちない返事になってしまった。目の前の相手は嫌な顔ひとつせずにヒカリの話を聞いた。
「そ、そうなんです。でも・・・きょ、今日が初登校で定期を取りに一回家に帰って。本当にドジなんです。」
ヒカリの話が周りに聞こえていたようでクスクスと笑い声がした。ヒカリは恥ずかしくなって顔を下に背けた。
(朝から遅刻しそうになったなんて・・・初対面の人に言うべきことじゃなかったかな。)
「・・・。」
顔が真っ赤になりそうになるのを静かに微笑みかけた。
「ちょっとよろしいかしら。」
ご老体はヒカリの右手をそっと両手で包んだ。何のことかと思い、右手を差し出した。ご老体の手は冷え切っていて、少しビクッとしてしまった。ゆっくり息を吸い込んで告げた。
「失敗は誰にでもあるからね。」
ご老体は意味深なことを告げると手を離した。
「えっ?」
戸惑うヒカリをよそにご老体は大きく頷いた。その瞳は少し潤んでいるように見えた。
そうこうしているうちにヒカリが降りる駅に到着してしまった。本当はもっと聞きたいことがあったけれど、そんな余裕があまりなかった。
「あ、ここで降りないと・・・。す、すみません!」
ヒカリは大慌ててで電車から降りると、駅のホームまで走っていった。一人取り残された老人は昔の事を思い出していた―追憶の日々は遠い日のように思える。
「がんばっていたのね。」
駅のホームを駆け下りる。ホーム内には朝の通勤ラッシュのように多くのOLやサラリーマン、他校の高校生が駅を行き来をしていた。
自分だけが焦っていることに気付いたヒカリはふと周りを見回した。ホーム内の時計を見ると、まだ間に合う時間帯だった。
(な、なんだ、焦って損した。)
落ち着きを取り戻して駅のホームから出たときだった。後ろ姿に見覚えのある子の姿が見えた。
「嗣織ちゃん!」
呼ばれた女子生徒は振り向くとヒカリを見てパァと笑顔になった。
「ヒカリちゃん。」
ヒカリの親友、愛宕あたご 嗣織しおりとは、中学からの仲だった。よく休み時間や放課後になるといろんな話をして盛り上がった。相手の事を考えてくれる、えくぼが印象的で清楚で優しい存在だった。
「同じ高校になって良かったね。」
中学の頃は一度しか同じクラスになれなかったので、同じ高校になれたことはとても嬉しい出来事だった。
「連絡が来たときは本当に同じ高校になったんだって思って、本当にびっくりしたよ。」
高校に合格したと分かったとき、一番に嗣織に連絡を入れていた。―高校に合格が決まってから、母から携帯電話を買ってもらったのだった。その一番に登録したのは嗣織ちゃんだった。
「ヒカリちゃんはお母さんが宗教に所属しているから、親に気を遣ってここにしたの?」
ヒカリの母親は、知らない間に名が知れ渡っているようだった。ヒカリ本人も一応所属はしているものの、礼拝堂でお祈りとボランティアの一環で草むしりをする程度だった。
「・・・まだ本格的なまでにはいかないけど、いつかはやらないといけない日が来るのかなって思ってるよ。」
「ちょっと、宗教ってなったらね。」
そんな会話をしながら高校までの距離を二人で歩いた。見慣れない商店街や風景が新鮮な気持ちで出迎えてくれていると思うと少しワクワクした。
肌寒い春先だが花壇の花が綺麗に咲き誇って、風に揺れている。
「担任の先生、優しい人だと良いな。」
「そうよね。ヒカリちゃん、男性が苦手だったから。」
ヒカリには男性が苦手というコンプレックスがあった。中学生の時、3年連続で男性教師に当たってしまった。・・・というのも、中学の男子生徒を目の前で叱るのを見てから恐怖になってしまった。
その場面を思い出すと涙が出そうになるが、とにかくもう優しい先生に期待するしかなかった。
教室に入ると愛宕と手毬は同じクラスになっていた。黒板に貼られて表紙には二人の席の番号が割り当てられており、顔を見会わせて安堵の表情をした。
「同じクラスで良かったね。」
教室にはちらほらと新しい顔ぶれが揃っている。二人の席は前後と離れていたが、ヒカリは窓側の席になったことに嬉しくて仕方が無かった。
(よおし、ここでなら、本を読むのに一番良い席!)
高校生にあがったら図書委員になろうと決めていたので、期待に胸が膨らむ。窓の外は高校の中庭だった。中庭には桜の大木が、3階のからの窓からでもしっかり見えた。ヒカリが小さな文庫本を取り出して、少しの間だけでも読もうと思ってページを見開く。
隣の席の椅子を引く音がしたので振り返ると―
「あっ」
そこにいたのは、高校の合格発表の時に出会った男性だった。
「おまえ・・・。」
堀が深い外国人のような顔をしていた。―楠木偉月だった。
楠木はヒカリを見ると驚いたがすぐ椅子に座り直した。自分の鞄から必要な教科書類を取り出して机の中にしまう。
「偶然だね。」
「うん、ああ、まあな。」
楠木は驚いた表情も見せず、そっけない態度だった。ヒカリ自身は困惑してしまう。偶然とはいえ親切心のある男性はいままで周りにいなかった。
人ともあまり接してこなかったのだから、恐縮してしまって緊張が走る。
高校初日に緊張しているのは自分だけでは無いにしても、楠木の堂々とした態度にヒカリはたじろいでしまった。
楠木はヒカリの手元を見ると、文庫本の表紙をジッと見て言い放った。
「絵本みたいなの読んでるんだな。」
「―・・・。」
クラスメイトが聞こえていたようで一瞬だけ周囲が凍り付いた。
(楠木って奴、やるな。)
(あんまりストレートに言うと、失礼になるの、分かってないんじゃないか)
(いや、でもな。)
手毬ヒカリは硬直状態になった・・・好きな本を否定された訳では無い、ただ、自分の容姿が童顔だっただけだ。
家系は代々童顔だったのだから、母からも子どもの頃はよく可愛がってもらったなどと、実年齢よりも若く見られることなんて普通だった。
ヒカリ本人はいたって普通だと思っているが、世間体から見れば本当に幼いのかもしれない。
(もしかしから高校デビューに失敗したかもしれない。)
なんとか相手の機嫌を損ねないためにも一旦意見を尊重する。
「ほ、本当だよね。私が持ってると、この本が絵本になっちゃうよね。」
しばらく沈黙が流れるが、クラスメイトが口々に”可哀そう”と言っているのが耳に入ってくる。
高校生初日になんでこんなこと言われるんだろう。
(絵本って・・・。)
「・・・悪い、言い過ぎた。」
ヒカリはもともとしゃべる方だったが、傷つくことを言われると沈黙してしまう癖があった。
気まずくなってしまったので、文庫本を鞄にしまうか悩んだ。
「朝読に持ってきただけだから。」
少し反論するが、男性が苦手な分、静かにやり過ごすしかないと思った。
本当は朝から晩まで読書をしていたいくらい好きだった。
本が苦手な男子の方が多いことを、中学で学んだのだからあまり気にしない。中学にも読書週間があったが、図書室で本を借りない、本屋で買って来ない人が何人かいた。その半数以上が男子だった。ヒカリの中に、男子は読書嫌いという偏見が出来上がった。
「本、嫌いかもしれないけれど、・・・私は、本を読んだら心がスーッとするんだよ。」
楠木は肘をついて流すように横目で手毬ヒカリを見る。一応謝ったんだからいいだろうという素振りだ。
「ふうん。」
(興味無しか!)
手毬ヒカリの初恋の相手になりかけていたが・・・その妄想は一瞬で崩れ落ちた。
(あの日の楠木さんは何だったんだろう。・・・二人いるのかな。)
そっと楠木の機嫌が悪くなっていないか心配になるが眠たそうに黒板を見ていた。
ヒカリは窓辺の後ろの席だったので、クラス中が見渡せる。
担任の先生が教室に入ってきたので、ヒカリの中に緊張が走った。中学の頃と同じように怒鳴ると怖い先生だったらと不安が頭を過った。
女性教師だったが、漆黒の上下に赤い口紅・・・某ドラマの教師を思い起こさせた。
「今日からこのクラスの担任になった、村沢 梢です。一年間、お願いしますね。」
担任の村沢先生は見た目、気が強そうだが線の細い先生だった・・・ただ、怒らせると強烈に怖い気がしてならない。
(優しそうな先生で良かった)
担任の先生が黒板に何かを書いて後ろを向いた時だった。楠木が手毬ヒカリに向かって小声で質問した。
「なぁ、手毬、どっかで会ったことあったか。」
「うん?」
雰囲気的に察するに高校の合格発表以外という意味で聞いたのだろう。
担任の先生を見て何か楠木が思い出したのかもしれなかった。もともと男性が苦手なので、友人も女の子の嗣織ちゃん以外にはいなかった。
いろんな場所でいろんな人との出会いを思い出してみるが、どうしても楠木とはあの日以外あったことは無いように思える。
「高校の合格発表以外は会ったこと無いと思うよ。」
「そうか。」
なんだか腑に落ちない様子で楠木は前に向き直る。
ヒカリも申し訳ないと思いながら黒板を見る。―何か大事なことを忘れてしまっているような。
(まぁ・・・いっか。)
これから高校デビューをするのだから、あまり小さな出来事には捕らわれないようにしなければ。
何かと忘れっぽくて焦りやすい性格だが、そこを意識して直していけばいいだけの話だと思った。
・・・その甘い考えが楠木は大嫌いだった。
※一部修正しました。