002 朝ごはん
湖のほとりに、古い洋館が建っている。それはいつからあるのか、それを知る者は、もう、僅かしかいない。洋館の主人と、ある精霊、後は少しの魔術師。
洋館の主人は、書斎で本を手にしている。だがそれは、物理的に存在しているわけではない。その本は、洋館の主人の記憶を留める、ただの「記憶の書」でしかない。精神世界にのみ存在し、本人しか開くことのできぬ書物。……それが、今、洋館の主人が手にする書なのである。
洋館の主人が今、その本を手にしているのは、偶然なのだろうか。それとも、事を急いた神々の焦りの証か。
それを知るには、まだ、何もかもが、足りない。
洋館の主人、フェネ・シードゥストラは、その本を静かに閉じた。……同時に、その本がフェネの中に消える。
何千年と言う永き時を生きてきた彼女は、未だ自分が全く知らなかったことがあった事に憤りを覚える裏で、冷静に分析している自分がいることを知っている。
そして、彼女は予感する。
もう1人の魔導師が、静かに誕生したことを。……そして、その者が、大きく世界を変えることを。
「チバミズキさま。朝でございます」
澄んだ声で目が覚める。異世界最初の朝である。
……ところで、昨日カネレさんが、私の身体に睡眠は必要ないみたいなことを言っていた気がするが、どういうことだろうか。普通に寝ることができたし、そういえば、結局、晩御飯も食べさせてもらった。
「チバミズキさま、お洋服をお持ちいたしました。外にお出掛けとのことなので、上品なものを選ばせていただきました」
昨日の妖精さんが、服を差し出してくる。確かに、質素だが品のある服だ。なかなかのセンスをしている。だが、それだけに、自分が今日訪ねる相手が、如何に上にいる存在かを思い知らされた。
「あの、朝ごはんは、お食べになりますか。本日は、野菜とキノコのソテー、高原山羊の乳、野菜スープです」
私は、妖精さんに向かって頷き、少し微笑んだ。
「承知しました。お呼びに参りますので、着替えてお待ちください」
そう言い残し、妖精さんが朝ごはんの支度に言ったのを確認した後、私は、改めて服を眺めた。
多分、かなりの高級素材だ。私が前世で着ていたものとは格が違う。……恐らく、王都の老舗の店とか、その辺りでしか買えない品だろう。
私は、恐る恐る畳んであるその服に手を伸ばし、広げてみた。本当にさりげなくついたフリルのブラウスと、青に寄った紺のロングスカート。実に上品である。前世ではあまり着たことのないジャンルだが、別に嫌いだったというわけではない。ただ単に、お母さんがあまり好みではなかっただけだ。
私がスカートを広げると、深緑色の細いリボンがさらっと床に落ちた。……何処に使うのだろう。腰、では無さそうだし、髪留め、とかだろうか。
あれこれと考えているうちに、朝ごはんになってしまいそうなので、私は、素早くその服に着替えた。やはり、腰まである長い髪が鬱陶しい。どうにかならないものだろうか。
その時、ドアをノックする音が聞こえ、扉が開いた。
「朝ごはんの支度ができました。あ、そのリボンは、首のところにつけるものです。やって差し上げますか?」
あ、首、首か。確かに、いい感じのアクセントになりそうだ。私は、少し頷き、妖精さんにリボンを渡した。
妖精さんは、パタパタと飛び回りながら、器用にリボンをつけてくれた。
「ありがとう」
そう言うと、妖精さんは軽く頭を下げ、私を食堂へ案内してくれた。……食堂と言っても、客人のための部屋らしいが、そこには何故かカネレさんも座っていた。
「あ、カネレさん。一緒に食べるんですか?」
「いいえ。食べながら、外出先の説明を、と思って」
外出先、か。
「外出先、って、どこに行くんですか?」
問う私の目の前の食卓には、今朝言われた通りのメニューが運ばれてくる。
「私の友人のところ。……どうぞ、食べながらでいいのよ」
運ばれてきたのはいいが、雰囲気的に手をつけていなかった朝ごはんを指して、カネレさんは言った。
私は、ソテーを口に入れ、なんとも心地良い森の味が広がるのを感じる。私には見つけられなかったが、森にはこんなに美味しいキノコもあったのだろうか。
私がキノコを美味しく頬張っていると、カネレさんが、少し目を見開いて言った。
「あら、気づかなかったけど、左右で目の色が違うのね」
……え?目の色?
……どうやら、違うのは視力だけではなかったようだ。異常なのは右目だから、恐らく、流れ的に蒼になっているのだろう。
「右目が深い蒼で、左目が黒」
やはり。
私は、キノコを飲み込み、状況を説明する。
「異常な視力……。何かしらね。さっぱりわからない。……もしかして、あなた、左目が悪いってことは、かなり苦労しているんじゃないかしら」
見事に図星だったので、私は頷いた。
「それだと色々と不便でしょうから、眼鏡を持って来させましょう」
そう言い、カネレさんは扉のところに浮く妖精さんに眼鏡を持ってくるよう、促した。
妖精さんが食堂を出て行くのを見届けると、カネレさんは、そのまま黙り込んでしまった。
カネレさんにとって、この外出は、憂鬱なのだろうか。
そう思いつつも、私は、ソテーを口に運ぶ手を速めた。
私が朝ごはんを食べ終わる頃、先ほどの妖精さんが箱を2つ片手に戻ってきた。
「ごちそうさまでした」
私が食べ終わると、妖精さんが箱から眼鏡を出し、私にかけさせてくれた。
それは、左目だけに付けるもので、所謂モノクルというものである。……正直言って、かなり厨二心を擽られる品だ。そして、何故か度がぴったりだった。
2つ目の箱からは、髪を留めるクリップが出てきた。白にさりげなく金の入ったもので、明らかに上等品だ。色も、蒼に合うように考えてくれたのだろう。
妖精さんは、私の髪をばっちりにセットし、仕上げにカネレさんが先端の方にカールをかけてくれた。……いったいどんな術を使ったのだろうか。
そして、完全に余所行きの格好になった私は、カネレさんと共に、カネレさんの友人だという人の元へ向かった。