暖
瞼の裏で泳ぐ白い光の筋と、つま先から這い上がってくる冷たさ、それに加え体を跳ねのけてくる居心地の悪さで目を覚ました。
上半身を起こすと厚めの毛布がぱさりと落ち、一瞬して体を震わせるほどの寒さが上半身を掴む。
少し曇り掛かっていた視界がはっきりすると、そこは背の高い本棚で囲まれていた。
電球はどこも消えているのに、読書をするには充分なほどの光が窓から差し込んで、古書独特の匂いを更に強く充満させてゆく。
本棚に隙間なく並べられている背表紙はどれも重みのある色をしている。
新しい色をした背表紙は、今視界で確認できる範囲には置いていないようだった。
足裏を床につけて丸めた毛布を膝の上にのせると、ソファの生地が顔を出す。
少しゴワゴワとする表面の下でキリキリと金属の渋い音がした。
「おはよう。」
ソファに落としていた目線をあげると、そこには涼やかな笑みを浮かべた男性が立っていた。
両手で持ったトレーの上では優しい香りが踊っている。
「よかったら、飲まない?」
小さく首を縦に揺らすと、寝かされていたソファよりも柔らかい、光の香りがする一人掛け用の別のソファへと案内される。
目の前に準備された飲み物へと手を伸ばすと、温められていたカップから伝わる熱で指先に痺れを感じた。
カップの中で揺らぐ薄緑色がほんのりと甘い香りと共に体の中へと染み渡る。
緑茶でも紅茶でもない味が舌の上をさっと通り、後には爽やかな空気だけが残るような何ともいえない複雑な味がする。
だが不思議と、その複雑な味が肩の力をすっと抜いてくれる。
「……おいしい。」
「本当?よかった。ちょっと馴染みのない飲み物だから、大丈夫か心配だったんだ。」
ぱっと大輪の花が開くような笑顔に、少女は薄く微笑んだ。
その表情に、また二輪目の大輪の花を咲かせる。
「少しは落ち着いたかな?」
二杯目を飲み終えたばかりのカップを手にしたまま、二人は目を合わせた。
じっと見つめてくる瞳を少女はそのまま見つめ返した。
男性の瞳を通して、朝方のあの瞳を思い出す。
あの灰色の目で言われた言葉が頭の中をなんども横切っていく。
それは、突き落とすには十分過ぎるほどの静かな力があった。
再び下がり始めた目線に、あっと小さい声で引き止められ、再び目を合わせる。
咄嗟に引き止めたその先の行動を何も考えていなかったのか、目線を右へ左へウロウロとさせた後、頭に浮かんだ言葉を、とにかく、ただそのまま復唱するように唇を動かし始める。
「さっきの人たちはね、君が起きる2時間前ぐらいに全員帰ったよ。
まぁ……今回は2人、自分の家とか家族とかわからなくてね、交番の近くまで連れて行って置いて来ちゃったけど。」
後は警察に任せるのが一番だからねと苦笑する男性に、今度は少女が小さい声を出す。
その反応は予測していたかのように、そのまま話を続ける。
「人によって忘れたいものって色々だからね。
周りから見たら大したことないってことだって当の本人にしてみたら穴の底に落ちたぐらいの出来事なのかもしれない。
何故そこに落ちてしまったのか、どうやったら抜け出せるかを探るより、そこに穴があったことを人って忘れたくなるものなんだろうねぇ。
まぁ、解決するのも、なかったことにするのも、どちらにしても周りを巻き込むことにはなるんだけど。
追い詰められると、そこまで考えがいかないみたいだね。人間って。」
一気に頭に入ってきた言葉の流れに、少し顔を傾け眉を寄せる。
「ねぇ、己真はどうしてあそこにいたの?」
突然の質問に目をぱちぱちとさせる。
「……え?私?」
「もう、驚いたよ。
己真が引っ越してきたその日のうちに見つけたから。
やっぱり、ソーシャルネットワークの影響力って凄いな。
信ぴょう性もないのに簡単に噂って広がるんだから。
でも、バクサマは噂の通りだよ。みんなの忘れたいことを本当に忘れさせることができる。
だから……己真はやっぱりあの事を、忘れたいのかなって。」
どこかに空いている窓があるのか、耳元にカーテンが揺れる音が届く。
その音が小さくなるのに合わせ、手に持っていたカップに目を落とす。
「ごめんね。言いたくないなら、無理に言わなくていいんだ。」
カップに添えていた手に、そっと違う手が包み込む。
「己真を僕の家に預けさせて欲しいって急におばさんから言われて、流石に身内でも独り身の男の家に置こうとするかなって思ったから理由を聞いたんだ。
……そうしたら、いじめが原因で学校に行けなくなったって言うからさ。
それに、己真から僕の家に住みたいって言い始めたって言うし。
もしかして、知ってるのかなって。」
包んでくれた手からは、少しカサついた面をわずかに震わせながら弱々しく熱を伝えてくる。
先ほどと違い、じっと見つめられることに少し抵抗を感じながら目線を上にあげる。
「……バクサマのことは、ここに引っ越すのが決まった後に知ったの。
だから、いるからここに来たいってお願いしたわけじゃないよ。
ただ、私のことを知っている人のところから離れたくなっただけで、道緒兄さんのところなら、知っている人もいないし、身内の家だから行きたいって言っても許してもらえるかなって。」
包んでいた手を離し、その手で頭をポンポンと優しく触れた。
頭を撫でられる感覚に、そのまま目を閉じると、瞼と眼球の間に暖かい水がたまるのを感じる。
それが落ちてしまわないようぎゅっと目に力を入れた。
「まずは、この家に慣れるまでゆっくりして。
転校先には僕から説明するから気にしなくていいよ。
学校に行かなくても、ここは図書館だし、それなりに勉強関係の本もあるから勉強したくなったらここでやるといい。
僕は、人に教えられるほど頭は良くないから勉強に関しては頼りにならないけど。」
ポケットからハンカチを取り出し、瞼の下をそっと拭く。
いつのまにか、我慢していたはずのものは頰を濡らしていた。
恥ずかしくなりハンカチを奪うようにしてとると、目にゴミが入ったのだとハンカチをぎゅっと押し当てる。
道緒は、その様子にふふっと息を笑わせた。