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「以前、美術館で絵を見たことがあるの。そしたら川を描いている作品があったけど、ようく見ると白い絵の具で描いてたわ、川の流れを。白の絵の具で描くといいと思うわ」
彼女の助言を参考に描いてみると、本当に白い絵の具で描くとうまい具合に水の流れを再現することができた。僕は彼女にお礼を言うと、やっぱりアリシアにはどんなことでもかなわないなと、ふと笑みをこぼした。しかしそんなアリシアだったが、実際の彼女の絵は思ったよりも振るわなかった。
それは彼女が絵を描くよりも、草や花や川に心を奪われすぎて、描くこと自体を忘れているようだったからだ。彼女は本当に何年ぶりかに外に出たらしく、自然の香りがとても嬉しいのか、あっちを歩いたり、こっちを歩いたり、川の水に触るかと思えば、花を摘んだり、草を引っ張ったりと、静かに遊んでいた。僕も何も言わずに黙々と自分の絵に打ち込んでいたが、そのうち彼女に声をかけた。
「そんなに外に出るのが嬉しいのなら、また今度も来ようよ」
「ありがとう。でも私が外に出るってことは、本当にとんでもないことなのよ。見つかったら本当に大変。侵してはいけない禁忌みたいなものなのよ。だからまた今度はないと思ってた方がいいわ。外は心にとってはいいみたいだけど、体にとってはあまりいいことではないみたい。なんとなくさっきから咳が止まらないし」
そう言って彼女は悲しげに笑った。
「すぐに帰ろうか。」
僕が心配になって言うと、彼女はそれを断った。
「描き上げるまでは大丈夫よ。それにこういうことでもない限り、外に出ることなんてないと思うし」
僕は彼女の言葉を聞きながら、急いで絵を描き上げた。アリシアも遊ぶことをやめると、ほとんど空白の画用紙に一本の草を力強く描き上げた。
「ねえ、セバスチャン。草って本当に自然そのものなのね」
彼女はそう言ってにっこり微笑むと、画材道具を片づけた。
そんなことがあってから、僕がいつものようにこっそりあの部屋に行ってみると、珍しくアリシアが本棚の前に立っていた。いつもならベッドに横になっていることが多かったが、その時は違っていた。彼女は慌てて一つの本を閉じると、一番奥の棚へとしまい込んで、ベッドへと戻った。
「今の本は何の本?」
「今の本は魔法の本よ」
「魔法の本?」
僕は彼女がしまった本を手に取ろうと本棚に近づくと、彼女は急いで僕を制止した。
「駄目、その本は開けちゃ駄目」
僕は怪訝そうに彼女を見た。
「なんで?」
「だってそれは魔法の本ですもの。他の人が開いたら魔法が効かなくなっちゃうわ」
彼女は大真面目にそう言った。
「魔法って」
僕はますます怪訝そうに彼女を見つめた。
「それにその本は私の母の形見なの」
「お母さんの?」
「そう、私の母の物」
僕はそれを聞いてはたと思った。それはそうなのだ。父親がいれば、母親がいるのは当然なのだ。しかしディンガム氏に子供がいるというのを聞いたことがなかったのと同様に彼に妻がいたという話も今の今まで聞いたことがなかった。なので僕は彼女の口から母という言葉が出たことに奇妙な違和感があった。
「私の母は私と同じで体が弱くて、私が八歳の時に病気で亡くなったの」
「四年前というと、ここの屋敷はまだモーリーさんのものだったよね」
「ええ、そうよ。私と父は母が亡くなってから、モーリーさんからこの屋敷を買い取って、この屋敷に引っ越して来たのよ」
「ああ、なるほど。だから誰も君のお母さんのことを知らないんだね」
僕が考え深げに過去を振り返っていると、彼女は別人のように冷ややかな表情を浮かべて静かに言った。
「あの人がそう仕向けたのよ」
「あの人って?」
「ディンガム氏よ」
アリシアはまるで赤の他人のようにそう言ってのけた。
「あの人の職業は医者なの。だから妻を病気で亡くすなんて医者の面目丸潰れなのよ。それを隠すために、私達のこと誰も知らないこの土地に引っ越して来たのよ」
僕はそうだったのかと、ちょっとびっくりした。何しろ彼女に言われるまでディンガム氏の職業が医者であるなんて寝耳に水だったのだ。娘がいて、妻がいて尚且つ医者であったなんて、それら全てはまさにこの屋敷内、いやこの土地では知られちゃいけない秘密だったわけだ。ディンガム氏らしいと言えば、ディンガム氏らしいが、しかし妻が亡くなった悲しみを忘れるために思い出のあった場所から離れるということはよくあったりする。ディンガム氏だって血の通った人間だ。そういった感情もあるのではないだろうかと僕としては思ったのだが、娘のアリシアがそうではないと妙に言い切っているのが気になった。そして彼女はこう続けた。




