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「じゃあ、これとこれ貸してもらおうかな」
僕が喜んで本を取り出していると、アリシアは更に訊いてきた。
「ねえ、なら勉強とかも好きなの?」
「好きな教科ならいいけど、嫌いな教科は嫌だな。授業中は居眠りばかりだよ。あと宿題も嫌だなあ」
「だったら今度一緒に宿題やらない」
彼女にそう言われ、僕は一瞬躊躇した。宿題をやると、この部屋にいる時間が長くなってしまう。長くなると誰かに見つかる確率も高くなる。どうしたものかと思っていると、アリシアが宿題は二人でやった方が絶対早く片づくし、勉強になる、だから一緒にやるのが一番だと強く言ってきた。具合の悪い彼女が妙に熱心に言うものだから、結局僕はまた断り切れずに彼女の意見に従うことになった。
こうして僕は仕事が終わると、あの部屋で宿題をするようになった。アリシアは僕より三つ年下の十二歳だったが、たくさん本を読んでいるせいか、いろんなことを知っていて、よく勉強ができた。僕は彼女から教えてもらうことが多かった。なので二人で勉強したのは、どちらかというと僕に有益に働いたような気がした。彼女にとってはどうだったのかというと、それは彼女に訊いてみないと分からないことだったが、宿題が終わって帰ろうとすると、決まって明日も来て欲しいと頼まれた。きっとアリシアにとっても有益に働いていたのだろう。
宿題をやる日々が続いた中で一回だけ困った宿題を学校から出されたことがあった。それは風景を絵の具で描いてこいという課題だった。さすがにそんな宿題をアリシアとすることはできないだろうと僕は思った。なぜなら彼女は部屋の外に出ることを許されていなかったからだ。
僕は仕事が終わると、彼女の部屋に行き、今日は一緒に宿題ができないことを告げた。それを聞いた彼女は最初がっかりしていたが、そのうち何かを思いついたのか、使用人の着るエプロンドレスをどこからか引っ張り出してきた。そうして僕に、着替えるから部屋の外に出ていてくれと言うと、彼女はあっという間にエプロンドレスを身につけ、頭の上から大きな白いボンネットを被って僕の前に現れた。ぱっと見アリシアであることは誰にも分からないように思えた。
「それってひょっとして変装なの」
僕が驚いて尋ねると彼女は自信満々に、
「そうよ」と言った。
「この格好で外に出れば、誰にも分からないと思うの。これで外に行きましょう」
彼女は意気揚々そう語ると、画材を揃え、不安げな僕を押しのけて部屋の外に出た。そのまま階段を下りると、重そうな玄関扉を開け、例のよく刈り込まれた庭の芝生を堂々と歩き始めた。僕は慌てて彼女の後を追うと、芝生の上を一緒に並んで歩き出した。
「周りに見つかっちゃ大変なのに。辺りを全く気にせず歩いて平気なの」
僕が小声で訊くと彼女はじっと真正面を見据えたまま、こう答えた。
「おどおどしてたら、余計怪しまれるわ」
「で、どこに行く」
「屋敷の外の草原に行きましょう」
それで僕らは、先日少年達が野球をしていた草原に行くことにした。庭の芝生を通り抜けると、屋敷の門を後にして塀の側を通りながら、草原へと向かった。塀の側にはポプラ並木があって、青々とした葉が僕らの背後に影を落としていた。なんとなく後ろめたさを感じていたが、それでもアリシアは久々に出た戸外ということもあってか、気持ちよさそうに大きな深呼吸を一つした。
「外に出たのは本当に久しぶりだわ。見てお日様の光がこんなにたくさん」
僕がポプラの木の影を見たのとは正反対に彼女はその合間の日の光を見つめて、にっこり微笑んだ。しかしそれでも彼女は一瞬にして冷静さを取り戻すと、僕にこう言った。
「できるだけ早く行って風景を描きましょう」
僕は彼女の勢いに引きずられるように早足で並木道を通り抜けると、すぐ側の草原に足を踏みいれた。草原には人はなく、いるのは僕ら二人だけだった。空には雲のない空が一面に広がり、下には敷き詰められた緑のじゅうたんのような草が生い茂っていた。草原の一角には野球をしやすいようにみんなで草を引き抜いて作った空き地があったが、その空き地はその草原の広さに比べれば、ほんのちょっとした隙間にしかすぎなかった。あとはもう人の手があまり加えられていなそうなたくましい雑草や野花があちこち伸び放題となっている。その草原の向こう側には小さな小川があった。
少年達は、野球に飽きると、釣りをしたり蛙をつかまえたりと川遊びに興じたりしたが、今日は川にも彼らの姿はなかった。僕はこれは良かったと思った。もしいたら、アリシアと一緒にいるということでからかわれたかもしれない。そう思いつつも、使用人の着る服装ならそんなに冷やかされることもないかとアリシアの姿を見て思った。やはりどうみても使用人にしか見えない。僕は安心すると、その小川に向かって歩き出した。ここから先は僕の案内が必要だろう。アリシアは川の知識などないに違いない。
「ねえ、アリシア。あっちに小川があるんだけど、そこで描こうよ。筆を洗うにも小川の水は便利だからね」
僕がそう言うと、彼女の顔はぱっと輝いた。
「まあ、本当。小川があるなんて知らなかったわ。是非そこで描きましょうよ」
僕はアリシアの知らないことを教えることができて、得意な気分になった。いつもだったら、アリシアに教えてもらってばかりなのに、僕にも教えることができたことはこの上なく、嬉しいことだった。そうして僕らは小川にたどり着くと、画材の準備をして、自分の描きたいものを写生し出した。僕は小川の入った風景を描くことにした。小川は見ていると、とても楽しげに見えた。流れの速いところもあれば、遅いところもあって、その間には葉や草がくるくると舞ったりと、いろんなことが起きる小川は生き物そのもののように思えた。だから僕は描こうと思ったのだが、水の流れをどうやって絵の具で描けばいいのか、さっぱり分からなかった。それを見ていたアリシアはこう助言してくれた。




