2
「そうさ。ここの主のロバート・ディンガム氏さ。あの人の機嫌の悪さは天下一品。気にしてちゃ、仕事にならないよ」
なんてことないといった表情でアンドリューは肩をすくめていた。僕は内心確かに誰も務まらないわけだ。むしろ務まる方がおかしいというか、そんなことを思いながら、ついついアンドリューの顔をまじまじと見つめてしまった。
実際の仕事が始まったのは次の日からだった。朝は学校に行く前に鶏と馬の世話をし、学校から戻ると屋敷の近くの畑や庭の手入れをした。最初辛かったのは、家の誰よりも早起きして家を出ないといけないことだった。まだ日が昇り切らないうちに跳ね起き、一人でパンを頬張ると適当に服をひっかけて、寝癖もそこそこに家を後にした。外は気温がまだ低いせいか、辺りは一面朝靄に包まれていた。そのうちモーリーの屋敷に向かう途中から朝靄は晴れ、大きな朝日が突然顔を出したかと思うとまばゆい光が四方に散らばっていった。その光に照らされながら、また新しい一日が始まったことを実感し、いつも新鮮な気持ちになっていた。
けれども、実際のモーリーの屋敷に着いてしまうと、けたたましい鶏の声やら臭い馬の糞の片づけや餌の用意といったことに忙殺され、一瞬でもそういった気分になったことを忘れてしまうのはしょっちゅうだった。
朝早くから起きているせいか、学校での授業時間の眠いことといったら半端なく、たまに先生に頭をぽかりとやられることもしばしであった。それでも学校が終わるとしっかり予定通りモーリーの屋敷に行き、畑の種まきや草取り、庭の花への肥料まきや、水まきと、いろんなことをこなしていき、少しは手伝いらしい手伝いができるようになっていった。
五月に入ると自分の分担の仕事もそれなりにできるようになって、屋敷の他の使用人とも話をしたり彼らの仕事を手伝ったりして、それなりに彼らの輪の中に入り始めていた。なかでも庭師のマイク爺さんは庭の手伝いをしていることもあって、お互いの家族のことや屋敷内の噂話についても、ちょっと話をするような間柄になっていた。
その一方で、主人のディンガム氏については最初に会った時から二、三回見かける程度で、話をするような機会は一度もなかった。僕は最初に顔を合わせた時に言われた『二階の一番左端の部屋』のことがとても気になっていた。
あの部屋にはいったい何があるのだろうか。入っちゃいけないと言うぐらいなのだから、よほど人の目に触れてはいけないものがあそこの部屋にはあるのだろう。一度マイク爺さんにそこの部屋には何があるのかと尋ねたことがあったが、マイク爺さんはそのことに関しては一言もしゃべろうとはせず、違う話題に話を持っていってしまった。
そこでいったん諦めたのだが、やはり気になってアンドリューにも話を振ってみたことがあった。けれどもその部屋については今後しゃべらない方がいいとたしなめられてしまった。そんな風にされると余計気になってしまうというのが、心情というものだ。眠れない夜などは、思わずあの部屋のことを思い出しては、中にはいったい何があるのだろうと考えることがよくあった。きっと気難しいディンガム氏のことだ。人間関係がうまくいかず、言い争いになってかっとなって、あやまって殺してしまったとか、その死体が今もあそこの部屋にあるとか。と、良からぬことばかりが頭に浮かび、返って余計眠れなくなっていた。それぐらい僕の中ではあの部屋はとても不気味で秘密めいていた。
そんなある日。僕はマイク爺さんの代わりに庭の芝生をきれいに刈るように頼まれていた。ちょうどその日はマイク爺さんが休みをとっていて、僕がやることになっていたのだ。僕はマイク爺さんから分からないことがあったら、アンドリューに訊いてくれと言われていた。芝生をきれいに刈ると言っても、単に手押し車のような刈り機を、芝生の上でごろごろ押していけばいいだけのことだった。押せば、自動的に手押し車の下についている鋭い刃がぱりぱりと刈り取っていってくれる。ただ屋敷の敷地があまりにも広いので、刈り残しが出てきてもおかしくなく、なるべくそうならないようにしなければならないとのことだった。何しろディンガム氏はそんなことは一切許さない性分ときている。単に芝を刈るだけでも慎重の上に慎重を重ねないといけない。マイク爺さんも、もし終わりそうもなければ、次の日に彼が引き続いてやってくれると言ってくれていた。
僕は常に慎重を心がけようということで、結構ゆっくりとしたペースで芝生の芝を刈っていた。たまに芝が刈り機にからまってしまうこともあったが、そんな時は落ち着いてその芝を取り払って、元の通りに動くようにした。そうしてまたごろごろと押して行くのだ。それは何もかもが単調な作業だった。
お昼も過ぎた午後二時頃の作業は心地よい眠りを誘うには十分過ぎるものだった。側では少し背の高い菜の花がゆらゆらと揺れ、その合間を蜂がぶーんと飛び交っていた。黄色のパンジーや深紅のバラは空から降り注ぐお日様の光を浴びてにっこり微笑み、花壇でゆったりと過ごしている。その様子はひどく穏やかな情景で、僕の瞼はうっかりしていると、すぐさま閉じそうになっていた。だが、僕の睡魔をたまに破るものがあった。それは屋敷の近くの草原から響いてくるバットにボールが当たる音、走る音、少年達の歓声だった。
そこの草原はたまに少年達の野球場と化す場所だった。以前は僕も彼らと一緒に野球をして遊んだが、この仕事が始まってからはそうはいかず、たまに彼らの元気の良い声や、かっ飛ばすボールの音を頭の隅の方で捉えていた。その日もまた彼らは野球をやっていて、僕の眠気は時々中断されていた。しかし、そのうちのっぴきならないことが起きてしまった。
僕が芝を刈っているとその草原の方から鋭い音が響いてきた。
「カキーン」
誰かがまさに素晴らしい打撃を披露したらしい。本当に気持ちの良い音だったが、僕が上を見あげた瞬間、その打たれたボールは気持ちよく大きく孤を描き、すっとこちらの屋敷の庭すらも飛び越え、一つの開かれた窓の中に、まさにベストショットといった具合で入ってしまったのだ。
その球が入った部屋は紛れもないあの二階の一番左端の部屋だった。少年達は歓声をあげて、ボールを見上げていたが、ボールの行った先がこのいわくつきの屋敷であることを知ると、たちまちのうちに意気消沈してしまった。そうして庭先で僕の姿を見つけると、皆が皆、懇願して僕にボールをとってくるように頼んできたのだ。




