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あのディンガム氏がアリシアに話をするというのだからこれほどの進歩はないだろう。けれども魔法の本は返せないのかと思うとそれは非常に残念だった。アリシアもさぞがっかりすることだろう。 そうして僕は今度はアリシアからの手紙を待った。
しかし彼女からの手紙はいくら待ってもこなかった。いったいどうしたのだろう。ディンガム氏と話さなかったのだろうか。いや、そんなことよりも僕にさよならの手紙も送らずにそれで遠くに行ってしまうなんて、それはあんまりにもひどいのではないか。僕は気落ちしながらも最後の最後の日まで待った。けれど彼女からの手紙はとうとう届かなかった。
僕は胸中複雑だったけれども、それでも最後に彼女に一目会って最後の別れを言おうと思った。それもあったが、彼女に魔法の本を見納めてもらおうと考えていた。僕ができるのは、もうほんとにそれだけだった。それで僕はモーリーの屋敷を久々に訪ねた。
屋敷に行くと執事のアンドリューが出迎えてくれた。
「おお、セバスチャンか。君はいいところに来てくれた」
アンドリューが顔を綻ばしてそう言うので、いったいどういうことなのだろうと思っていると僕の目の前にアリシアが姿を現した。彼女はよそ行きの服を来て、これから出掛けようとしているところのようだった。
「ああ、セバスチャン。会いたかった! 私今からあなたに会いに行くところだったのよ」
病的だったアリシアの白い肌は少し日に焼け、頬は薔薇色に輝いていた。もう何もかも良くなったのよと言いたげに彼女は自信満々な笑みを浮かべた。
「私の部屋で少し話をしましょう」
彼女は廊下を抜け、自分の部屋へと僕を連れて行った。
部屋に入ってみると荷造りは全て終わってしまったようで、山のようにあった本棚の本はすっかりなくなっていた。がらんとしてしまった部屋の中で彼女はベッドのマットレスの上に腰かけた。僕はというと、彼女の机の椅子に腰かけた。
「本当に久々ね」
「ほんとにそうだね」
「私、健康体になったのよ」
彼女はにっこり微笑みながらそう言った。
「そのようだね。よかったよ」
僕は眩しそうに彼女を見た。
「これも魔法が効いたおかげだわ」
アリシアの言葉で、僕は持ってきた魔法の本のことを思い出した。
「そうだ、これ」
魔法の本をアリシアに手渡すと彼女は愛おしむように魔法の本をなでた。
「ああ、私の魔法の本」
「これを君に返さなくちゃって思ってはいたんだけどね」
「待って、セバスチャン。私あなたに話さなくちゃいけないことがあるの」
僕が続けて話そうとするのを彼女は遮った。
「父がね、私に話してくれたの」
彼女は遠くを見つめるような仕草をすると、声をひそめながらこう続けた。
「父がなぜ魔法を憎むのか、その訳を」
僕はじっと聞いた。ディンガム氏は約束通りアリシアに話してくれたのだ。
「私、セバスチャンから手紙でそのこと聞いていたから驚きはしなかったけど、でも、でもね。父があんまり真剣に言うもんだから、父を許そうかなって思ったの。そりゃ、許せなかったのよ。母の形見の魔法の本を私から取り上げて燃やそうとするなんて。けど父と話して父も苦しんでいることが分かったの。それなら父の苦しむ原因となっている魔法の本を私が持つのは止めようと思ったの。それで父の苦しみが解放されるなら」
彼女は何かから解き放たれたかのように、柔らかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、君はディンガム氏と仲直りできたんだね」
僕の胸は高鳴った。
「そうよ、仲直りできたの」
彼女が嬉しそうにそう言うのを聞いて僕は思った。魔法は成功したのだ。二人の仲は元通りになったのだ。こんな喜ばしいことはないだろう。
「それでこの魔法の本はどうするの」
僕は当然彼女がこの本を持って行くのだと思っていた。けれども彼女はこう言った。
「私はもうその魔法の本は必要ないわ」
「えっ、どうして」
驚いて僕は訊き返した。
「父はね、私がどうしてもこの魔法の本を手元において置きたいなら、持って行ってもいいって言ってはくれたのだけど。でもね、それは止めることにするの。私はもう健康体になったんだし、魔法はもう必要ないの。それに父が魔法を使って体を壊したらと、心配するぐらいなら、私は一切の魔法を止めることにしたの」
「お母さんとの思い出の品なんでしょ」
僕は本当にいいのかと思って再度訊き返した。
「母との思い出はここにあるわ」
アリシアは胸をとんとんと叩いた。
「今、目の前にいる人のことだけを考えたいと思ったのよ。だから、もういいの」
「そう、分かったよ」
「この本はセバスチャンが持っていてくれる?」
「僕が?」
「そうよ。私との思い出に持っていて欲しいの。セバスチャンと会えなくなるなんて寂しいわ」
「僕もだよ、アリシア」
僕とアリシアは堅い握手をした。この友情は壊れないで欲しい、そう願いながら。
それから数時間後、アリシアはアンドリューに連れられて屋敷を後にした。
僕は屋敷のところで彼女と別れた。彼女は悲しそうな顔をしていたが、馬車に乗りこむと元気いっぱい手を振ってくれた。向こうに着いたら必ず手紙を書くと彼女は約束してくれた。
僕も思い切り手を振り、彼女を見送った。残されたのは僕と僕の手の中にある魔法の本だけだった。僕はアリシアにディンガム氏とアリシアに魔法をかけたことを告げなかった。
それは魔法をかけた対象者にそのことを知られちゃいけないという魔法の掟があったからだ。せっかく仲直りできたのに、そんな些細なことで二人の仲が壊れてしまったらいたたまれない。それだったらこれは僕一人の秘密にしておけばいいのだ。あの世まで持って行く秘密だ。僕は本当の魔法使いになったような気がした。アリシアとの思い出とともに、この魔法の本を僕は大事にしよう。かつてアリシアが母の思い出とともにこの魔法の本を大事にしたように。(完)




