奥様はさいきょう
えらいことになった。
村の男衆が、西の山に木を切りに出かけて帰ってこないと騒ぎになっていた日の夜、件の遭難者の一人がほうほうの体でなんとか逃げ帰ってきて伝えた衝撃の事実。
山中に竜が棲み着いちゃったらしい。三匹も。まだどれも年若らしいけど、これはまずい。村に降りてきたら、村が潰れてしまうし、このままじゃ、細々した交易も途絶えてしまう。
そんなわけで、救出・駆除部隊が急遽結成された。招集されたのは五人。招集したのは、冒険者ギルドの支社長。
で、俺も招集された。
冗談じゃねー! こちとらCランク四年続けてるんだ、もう上に行くのは諦めて、野良スライムとか狩ってなんとかやってるような人間だぞ! そうやってしょぼい生活続けるために、家賃の安いこの田舎の村に一月前に引っ越してきたばっかりなのに、ツイてない!
しかし、ギルドの招集に逆らうとペナルティもあるし、報酬も魅力だった。
他の面子に頑張ってもらって、腰巾着みたいにくっついていくくらいなら、大丈夫かな……。
そーんな甘い考えは、招集されたメンバーを見て、霧散した。
俺以外に集められたのは、四人。爺さんと爺さんとガキと爺さん。爺さんたちは、しばらく前に一線を退いたらしいが、今回の緊急事態に、久々に装備を倉庫から引っ張り出してきたんだとか。若かりし頃に使用していたらしい鎧は、ぶかぶかになっている。遠目で見たら、骸骨戦士と間違うこと必至だ。
ガキは、先月、冒険者デビューしたばかり。自信満々で、アックスを振り回してる。ぴかぴかの兜に羽根なんかつけていて、アックスの軌道はぶれぶれだ。
これはいかんパーティーだ。よくて重症、悪くて召される未来しか見えない。
どうにかこうにか逃げ出そうと考えていた俺の前で、無情にも支社長の点呼が始まる。順番に名前を呼ばれ、本人確認し、着任の契約書にサインする。これをしてしまうと、当然、契約したことになっちまう。なんとかしてこの場を離脱せねば。適当なことを言って。
腹が痛いとか、下痢してるとか。できれば角が立たない方がいい。で、これからもこの村にいて、肩身が狭くならないやつ。……いや、竜が降りてくる前にとんずらってのが、現実的だろうか。
必死にない脳みそ絞り上げる俺の前に、支社長がやってきた。
「アーノルド・クリックス、本人で間違いないかね」
「ええ、本人ですが……、すんません、実は昨日から古傷の調子が」
「あのー、すみません。有志の立候補は受け付けていらっしゃいますか」
のんびりした声が、俺の声を遮った。やわらかい感じの、女の声だ。
支社長と俺が振り向いた先には、――女の子が一人、立っていた。
袖の長いワンピースに、編み上げブーツ、割烹着を着て、肩から革のバッグを提げている。手には麺棒。茶色い長い髪を左右で三つ編みにして、背中に垂らし、分厚いレンズのハマったメガネをしていた。十代後半か、二十代前半か? つい彼女の左手薬指をさっと見たのは、別に昔、人妻に引っ掛かって痛い思いをしたからじゃない。自然な流れだ。そこに光るものを見つけて、この子は売約済みと頭に刷り込む。
いや、まて。そうじゃねえだろ。
立候補ってこの子が?
当たり前のように、招集された俺達のところにやってくるのは、彼女だ。同行者はいないように見える。
どうしたんだこの子。麺棒片手に何言ってるんだ。もしかして、慣れない生活に心折れちゃった若妻という設定? だとしたら、彼女が元気になるまで酒でも酌み交わしながら、いろいろ相談に乗りつつその先――じゃなくて。
「あなたは?」
「おお! ミーシャちゃん! ミーシャちゃんも一緒に行ってくれるのか? そしたら百人力だな!」
一人の爺さんがよたよたその奥さん――ミーシャに歩み寄って、手をとった。
「はい、許されるのであれば。主人が帰ってこないと、困るのです」
どうやら、奥さんの旦那さんも、山から戻ってこないらしい。そりゃ心配だろう。だが、……え? 本気でパーティーに入る気なの?
「お名前は?」
昨日、大慌てで隣町から派遣されてきた支社長は、彼女のことを知らないらしい。俺も知らない。
ミーシャ・カルテッラという彼女の名前を、支社長が名簿で探すが載ってなかった。
「失礼ですが、冒険者で?」
「ええ、昔のことですが。資格の更新もしてないので、登録が削除されているかもしれません。大した役に立てませんが、異能持ちですから、サポートはできるかもと思いまして」
なんだ、元冒険者か。それなら、まあ、一緒に行っても大丈夫か。そんなことを考えて、俺は首を横に振った。そもそも、俺は行かない方向で調整中なのだ。
話しながら、ミーシャは、手近に転がっていた小枝にむかって難しい顔をし、「えいっ」と気合を入れた。少しして、しゅぼっと湿気った音をたて、小さな炎が出現した。
念発火能力かあ。この予備動作と発動までのタイムラグじゃあ、実戦じゃ使いみちないだろうな。とはいえ、火起こしとか、獣よけにはつかえるから、サポートにはありがたいっちゃありがたい。魔法とちがって、異能は魔力を消費しないから、体力続く限り使い放題ってのも大きい。
……ついつい、昔、パーティーを組んで仕事していたときの考え方が蘇って、俺は首を横にぶんぶん振った。
「ギルドで発行した身分証のたぐいはありますか?」
「いえ、すみません。引っ越しで紛失してしまいました」
「そうですか。では、現在の職業は?」
「あ、主婦です」
見りゃわかる。
支社長は、鼻白んだ感じで唇を引き結んだ。
「支社長、ミーシャちゃんなら大丈夫だ、わしらが保証しよう。それに、こういうのは人数が多いほうがたのし……心強いだろう!」
たしか、昔Bランク冒険者だったという爺さんがそう言うと、支社長が考える顔つきになった。ていうか爺さん、今「楽しい」って言いかけたろ。遠足じゃねーんだから。
しかし、このパーティーの中では最高ランク(過去)という人間の言葉は重かったようで、支社長が「わかりました、スミスさんによく従ってください」と了承した。スミスさんってのは、さっきの爺さん。おいおい、麺棒持った主婦をパーティーに加えるって、大丈夫かよ。お気楽すぎだろ!
ミーシャはまわりの人間に握手つきで挨拶して、最後に俺の手をとった。
「よろしくおねがいします! ええと……」
「アーノルド・クリックスだ」
「クリックスさん! 私は、ミーシャ・カルテッラです。お好きにお呼びください」
ぺこりと頭を下げた彼女の、二本の三つ編みがふわっと動く。ちらり見えた、眼鏡の奥の顔は――けっこう可愛かった。水色の大きな目。つい、鼻の下が伸びそうになる。こんな田舎村に、こんな可愛い子いたんだな、と思う。人妻らしいけど。
「クリックスさんは冒険者ですよね、歴戦って感じですね! この頬、すごい傷! 一緒に行っていただけるなんて、心強いです!」
「え? いや……」
この傷、酔って転んで自分の剣で切っちゃったんだよ、とは言えず、俺はもにょもにょ口ごもった。
すごく、純粋そうな、きらきらした期待の表情で見られて、「古傷が痛む」という言い訳が口の中に消えてしまう。
結局、俺は契約のサインをしてしまったのだった。
× × × × ×
ミーシャは甲斐甲斐しかった。休憩時間には老人の脚をもんでやったり、火をおこしてお湯を沸かし、持参したお茶を淹れたり、同じく持参したパンを振る舞ったり。誰に言われずとも、通ってきた道に目印をつけたり、即席のかまどを作ったりその後始末をしたり。
いい子かよ。
たれ耳うさぎみたいに、ぴょこぴょこ髪の毛を揺らしながら、働き続けるミーシャはずっと笑顔だ。
夕刻、薄暗くなってきたなか、少し開けた場所に、各々テントを張って野営の準備を整えた。その後、みんなが休み、俺が、携帯食で腹を満たしているときだった。
端っこのテントから出てきたミーシャが、焚き火の前に陣取った俺の横にちょこんと座る。目が合うと、にこっと笑顔。
「クリックスさん、お肉炙ったほうが美味しいですよ」
そう言って、さっと俺の干し肉を指先の炎で炙って温めてくれた。いい子かよ。
「はい、どうぞ」
白くて小さな手が差し出す肉を受け取り、俺は「どうも」と礼ともいえない言葉をかける。おまけに、温めた果実酒までくれた。いい子かよ。
爺さんたちはすでにご就寝だろう。高いいびきが外まで聞こえてくる。まだ辺りは完全に日が暮れたとはいえないのに。だが、この分では、明日の朝一番で山頂の竜たちに仕掛けられるだろう。……やっべ、不安しかねー。
運良くなのか、今日は魔物の類に一度も出くわさなかった。二交代で歩哨をする予定なのだが、先に俺が、次に例のアックス君がすることになっている。アックス君も、自分のテントに引っ込んだまま出てこない。鎧を磨くって言ってたから、作業中だろうか。
ミーシャは、自分の小さな干し肉をゆっくりゆっくり咀嚼していた。ほんっと、小動物みたいな食べ方。
メガネ外して、もっと可愛いい格好して、仕事から帰ってきた俺に「おかえりなさい」とか言ってくれねえかなあ。こんな可愛い子が家で待っててくれるなら、スライム狩りなんてしょぼいことしないで頑張るんだけどよ。旦那が羨ましいわ。
「クリックスさんは、引っ越してきてまだそんなに経ってませんよね」
狭い村だから、住民の動きはそれとなく知れているだろう。俺は住み着いたときも、ギルドに登録変更しに行く以外、特に挨拶もしなかったから、それ以上のことは彼女も知らないだろうが。
「村には慣れましたか? 私もよそ者だったので、慣れるまでちょっと時間かかってしまったんです。なにか不便なことがあったら、おっしゃってくださいね、お力になれるかも」
あー、はいはい、いい子いい子。にこっと笑って小首をかしげるミーシャは、ようやく肉を食べ終わる。
「旦那さん、心配っすね。無事に救出できるように、お互いがんばりましょうや」
非戦闘員がなにをがんばるっていうんだよと、自分で自分に突っ込みつつ、俺はもらった果実酒を飲み干した。彼女の手製なのだろうか。美味い。こんなタイミングじゃなけりゃ、もう少し味わいたいくらい。
空になった木の器を、ミーシャは俺の手から回収し、少しの水で洗うと自分の鞄にしまいこんだ。
「ええ。こうしていなくなってみると、不安で。普段はそんなことちっとも思わないのですが。この先、もし自分ひとりになったら、畑はどうしたらいいのかとか、あの家をどうしたらいいのかとか、余計なことばかり」
ふふ、と笑った顔は寂しそうで、不安そうだった。
あー、おい、それは反則だろう。人妻とか、可愛いとか可愛くないって前に、女にそんな顔されて奮起しない野郎はいない。たとえしなびたばあちゃん相手でも、なんとかしてやんなきゃって思うのが、男のサガだ。
「大丈夫だ、俺達があんたの旦那を助けてやっから」
守れるか守れないかはともかく、約束するならただである。守れなかったときは、失望されるだけ。いや、それ結構きっついけど。でも、彼女がちょっとでも気が休まるなら、しょうもない約束くらいいくらでもする。
ぱちぱち目をしばたたかせたミーシャは、ややあって、ほわっと笑った。
「よろしくおねがいします! ……でも、無理はなさらないでくださいね!」
やっぱり、いい子かよ。
何度めかの突っ込みを入れた時、だった。地面が揺れた気がした。一度目は、勘違いかと思って流した。しかし、二度目、三度目と繰り返すごとに大きくなり確かになるその揺れに、俺は立ち上がった。きょとんと見上げてくるミーシャに鋭く指示をする。
「みんなを起こしてくれ、なんか来る」
さすが元冒険者。彼女はさっと立ち上がると、片っ端からテントを開けていった。
そうこうしているうちに、俺の胸中の切迫感は強くなる。振動の間隔は短くなり、寝静まりつつあった薄暮の森が騒がしくなる。獣や鳥がぎゃあぎゃあ悲鳴とも歓声ともつかない声をあげ、逃げ惑う。俺の足元を野ネズミがすばやく駆け抜けた。
巨躯がぬっと木々の隙間から顔を出した。正確に言うなら、木の上からにょきっと顔を出した。
額に一本角、牙があり、緑がかった黒色の鱗。
剣を抜きながらその前足を確認し、爪が三本であることを見て、亜竜、と俺は結論づけた。二頭いる。小山ほどの大きさのそいつらは、つがいか兄弟かわからないが、息の合った動きでこちらへ突進してきた。
悲鳴があがった。ミーシャの声――にしては野太すぎる。アックス君が、本体である斧を放り出し、亜竜に背を向け走りだしたのだ。懸命な判断と褒める気はない。そもそも来なきゃよかったのだ。
テントからまろぶようにして出てきた爺さんたちは、「竜だー! でかい、でかいぞう!」「こんな獲物、はじめてじゃあ」「腰抜けた」とてんやわんやだ。
まず、亜竜と気づいてない時点でだめだ。
「退避しろ! 二頭同時なんて、Aランクじゃなきゃ無理だ!」
「クリックスさんは?!」
俺の言葉に叫び返したのは、ミーシャだ。指示を待たずに、爺さんたちを退避させようと誘導をはじめている。判断力は十分。しかし戦力になるのは――俺だけ。
「足止めする! いいか、まっすぐ山を降りろ!」
「クリックスさん!」
本当は、俺こそまっすぐ山を降りたいんだが、仕方ない。爺さんやアックス君はともかく、ミーシャだけはちゃんと逃してやらねば。彼女の旦那が家に帰った時、無人じゃ可哀想だからな。
変に抵抗したり追いすがったりしてこないミーシャは、本当に判断力があると思う。――あっさり背中を向けられて、ちっと悲しいが。だがそれも、俺が指示したことだ。
その重量だけでじゅうぶん凶器の亜竜たちは、体躯にしては短い足をばたつかせ、あっという間に距離を詰めてきた。
俺は短い気合をいれ、先頭の一頭のひげを切り落とす。俺の中指くらいの太さの、長いひげが、ぶつんと地面に落ちた。
咆哮がこだまする。痛いのだ。亜竜たちは外皮は硬く、剣などで斬るのは一苦労だが、眼球、ひげ、喉元の逆鱗は柔らかい。そしてそれらはたいてい奴らの重要な器官だ。ひげは、やつらが魔力を放出するときのブースターなので、これでこの個体の魔力由来の攻撃力は格段に下がる。
急所狙いで格好悪いとか言われても平気だ。万年ランクC、のんべんだらりと毎日を送るために田舎に引っ込んだ元騎士にして、怠惰な冒険者である俺には、こういうせこい戦法がよく似合ってる。安全だし。
切り抜けた勢いを殺さず、後続の亜竜が振りかぶってくる前足の横薙ぎの一撃を、滑り込みで回避すると、その巨躯のふところに飛び込んで、伸び上がりざまに逆鱗に剣を突き立てる。ざり、という嫌な手応え。耳をつんざく悲鳴が、頭上から降ってくる。
激痛にのたうって暴れまわるそいつの間合いから、退避する。逆鱗ごと削いだ肉片を、一振りで払い飛ばす。ずしんという重い音とともに、そいつは横倒しになった。しっぽが苦しげにばたついているものの、あと少しでそれが止まるのはわかっていた。一頭、やってやったぜ。
調子がいい。亜竜は何度か相手したことがあるが、そのときは組織的に狩った。複数を一気に、単身で相手するのは初めてだ。久々にこんな仕事をするから、腕も錆びついているかと思ったが、なんとかなりそうだ。
あれだな。可愛い子が待ってるから、帰らにゃならんっつー、よくわからない使命感。きっとミーシャは、俺が帰らなかったら泣くだろうし。勝手な想像だが。しかも、あの子が待ってるのは俺じゃなくて、自分の旦那のことなんだが。でも、ちょっとは悲しんでくれるだろ、たぶん。まあ、そのくらいの勘違いがないと、こんな割に合わない仕事やってらんねーわ。爺さんたちとひよっこの引率とか。
あーあ、やっぱり嫁でももらうかな。あそこまで可愛くなくてもいいから、俺のこと大好きで毎晩俺の帰りを待っててくれる、一途な嫁。お帰りなさい待ってたのっ、とか言って抱きついてくるような。
などとくだらんことを考えつつ、振り返ってすぐに、大きなあぎとに胴を真っ二つにされるのを跳び下がって避け、突きを繰り出す。ひげを切られた方の亜竜の鼻先の硬い鱗に当たって、剣ががちんと鳴った。やっぱり硬い。また逆鱗を狙うか。あるいは目玉。
亜竜は仲間を殺され怒り狂ったのか、連続で噛みつき攻撃を仕掛けてくる。一回でも回避をしくじったら即死だ。だが、今日の俺は冴えてた。木々の中に逃げ込めば、亜竜の動きは鈍る。やつが方向転換に手間取ってるうちに、死角に回り込む。
いただきだ! これでもしかして、ランクあがるんじゃねーか。本当は昇格はあまりしたくない。つーのも、こういう非常時の対応や危険な任務を優先的に回されることが増えるからだ。なーんて、もったいぶってみたが、所帯持つならやっぱりAは目指したい……。ガキできたときに自慢もできるし。
逆鱗めがけて剣を突き上げ、ほくそ笑んだ。ちりっと項が焼けるような、変な予感がして、剣を放り出したのは、俺の中に残っていた生存本能のようなものによるのかもしれない。
全身に、声も出ないような衝撃が走る。眼の前が真っ白になり、舌が硬直する。いや、全身がこわばって、言うことを聞かない。気づけば、暮れなずむ空を見上げて、俺はひっくり返っていた。林立した木の間にいたのに、さっきテントを張った場所にいる。吹き飛ばされたんだ。辺りには、テントの残骸。衝撃波でやられたのか。
赤とも紫とも言い難い、複雑な色に染まった夕空をバックに、黒黒した威容を見つけた。翼を広げて飛んでいるのは、竜だ。亜竜なんかとは違う。翼があるし、たぶん、爪も五本ある。くそ、目がかすんで詳細がよく見えない。見えたところで、何ができたかもわからんが。
俺はきっと、竜の発した一撃を受けた。属性はおそらく、雷。剣を避雷針にしたから、即死しなかったが、――残念ながら行動不能だ。助けを呼ぼうにも、喉からはごぼごぼ変な音しかしない。ま、助けとか、そもそもいないしな。
あんだけ、楽して生きていたいとか思ってたくせに、諦めが付くのはあっさりだった。こら、死んだな。そう思っただけ。家族がいたり、恋人がいたら死に物狂いで足掻いたろうが、あいにく、そういう「背負うもの」なんて一切ない。気楽なもんだ。
やっぱり、嫁なんてもらわなくて正解だった。俺みたいなうだつの上がらん低ランカーの嫁は、可哀想だからな。旦那のことを心配して顔を曇らせたミーシャを思い出す。自分の嫁さんにあんな顔をさせたくねーし。や、いないんだけど。
そういえば、ミーシャとの約束、果たしてねえわ。死ぬ間際にそんな些細なことを思い出す。
ちっぽけな俺をあざ笑うように、巨大な竜が木々をなぎ倒して地面に降り立ち、眷属の仇をとろうと喉の奥に雷気をため始めた。青くスパークするそれを見て、俺は目を閉じる。
来世は可愛い嫁さん――もらおう。
「ご無理なさらぬよう、忠告しましたのに」
凛とした声がした。少し、困っているような、怒っているような。聞き覚えがある。
目を開けると、俺と竜の間に立ちふさがるように、小さな影が仁王立ちしていた。
吹き抜ける風に、丈の長いスカートが揺れる。そして、その背中の二本の三つ編みも。
おい馬鹿、なに戻ってきてるんだ。旦那が泣くぞ。
しかし、言葉は形にならなかった。くそ、くそ、こんな情けない。ミーシャにさっさと逃げろと伝えたいのに、目を開いているのだけで精一杯だ。指一本動かない。
彼女の向こうの竜は、小馬鹿にしたように口を開いた。
一直線にほとばしる青い閃光。それに俺たちは貫かれ、体を溶かされながらばらばらにされる、はずだった。
俺の想像は、現実にならなかった。竜はなぜか、苦しげに身悶えして、首をぶんぶん横に振る。口から青い光が漏れているが、発射されない。よだれを垂らしながら、もがいたあと、青い閃光がやつの口の中で弾けた。
凄まじい臭気が満ちる。竜の口内組織が焼ける臭い。人間の体とは比にならないほどの頑健さを持つ竜でも、体内での超高温には耐えきれないのだろう。
そこでようやく、俺は、ミーシャが竜に向けて両手を突き出していることに気づいた。その手には、ぱりぱりと青白い燐光がまとわりついている。竜の口内の閃光なんかよりずっと弱々しいそれ。だが、俺はそれを見たことがあった。かつて一緒にパーティーを組んでいた念動力の異能持ちが、力を発動したときによく似てる。かすむ目をこらしてよく見ると、竜の口の周りにも同じものが見えた。
竜は、口を強引に閉じられていたのだ。俺は驚きで目を見開いた。
直後、我に返ったらしい亜竜が、咆哮とともに突進しようとした。親分の危機を察したのだろう。それも、結局成し得なかった。すっと振り返ったミーシャが腕を振ると、亜竜は見えない壁に激突し、地面にくずおれる。
やはり、念動力か。しかも、超強力な。この巨大質量二体をねじ伏せるほどの。
それに気づいて、俺ははっとした。
念発火能力だと思ったのは、俺の早とちりだ。ミーシャが木の枝に火を点けてみせたあれは、木の枝の先を念動力で細かくすばやく振動させ、発火させたのだ、もちろん、そんなことができるのは、破格の異能持ちだけだ。断じて、ただの主婦の、生活の友になるちんけな異能ではない。
あんた、一体何者だ?
問いかけたくても、俺は声もでない。
振り返ったミーシャが、にこっと笑う。仕方ない人ね、とでも言いたそうな、大人びた笑み。彼女はメガネを外し、麺棒とともに鞄に入れて地面に置いた。場違いな、のんびりした動きで。
――おぉおおおんっ!
怒り狂った竜が、焼けただれた口を威嚇するように大きく開けて吠えた。
それを、ミーシャがきっと睨んだ。水色の目が、ぼんやり、緑っぽく光ったように見えたのは、俺の目の錯覚か?
彼女の両手足に、先ほどと同じ青い燐光が包み込む。
とん、と軽く地面を蹴ったミーシャの姿が、一瞬あとにはもう竜の真下にいた。念動力で手足周辺の空気を凝縮させたのか、なんなのか。俺は事態がまだ飲み込みきれず、ぼんやり考察しながら、その小さな勇姿を眺めるだけだった。
急に間合いを詰められたことで驚いた竜が、反撃に出る間もなく、ミーシャは動いていた。
編み上げブーツに包まれた細い脚が、竜の首を刈り取るようにうち据える。俺の体重の五十倍はある巨体が傾ぎ、四本の足、それから引きずる太い尾っぽが地面から離れる。
しかし、横凪ぎに繰り出されたミーシャの蹴りにより、ひっくり返ることすらできずに、浮き上がる。それを狙ったように、顎下から打ち上げるような蹴り。さらに、蹴り、もう一度蹴り。弧を描くように青白い光をまとったミーシャの脚が、竜の着地を許さない。おい重力、仕事しろ。
打撃による轟音? そんなものしない。可聴域を越してるのかなんなのか、衝撃波が肌をびりびり痺れさせるだけ。まさか俺の鼓膜、いつの間にか破れたのか?
竜はあっという間にズタ袋のような不格好に変形して、声すらあげない。
ひげを切断された亜竜の一頭は、茫然としてるのか、硬直してる。
亜竜の眼前に、ぺしゃんこになった竜の亡骸が、地面を抉る勢いで落ちてきた。一瞬遅れでようやく轟音。俺の鼓膜が死んだ訳じゃないのだと、意味不明なことで安心した。
とっ、と軽妙な着地音をたて、ミーシャは地面に降り立った。
彼女が地面に安置していた麺棒を手にし、残るもう片方の亜竜目掛けて構える。片方の手で、狙い済ますように。半身になって、凍れる水色の目をぎらぎらさせて。
ミーシャに干し肉炙って貰う前に小便済ませておいてよかった。じゃなきゃ、ちびってた。こんな冷たい殺気を放つ女、俺は初めて見た。心臓がきゅっとなり、自分の余命の短さを悟らせるような。
震え上がった亜竜は、天に向かって吠えた。ながくながく、唄うような声。
まずい。これは、助けを求める遠吠えだ。竜の眷族を呼び寄せている。この山には、まだ他に二頭の竜がいるんだ。流石に竜が二頭も集結したら――。
しかし、亜竜じたいは、次の瞬間、鼻面がまあるくなるほどの打撃を浴びて、地面に伏していた。ミーシャの手の中の麺棒は傷一つ見当たらない。……亜竜の鼻面のほうが、たぶん硬いと思うんだが。伝説の樹から切り出した聖なる麺棒かなにかなの、それ。
「ふう、久々だったので、緊張しました。クリックスさん、今、回復を」
言うなり地べたにしゃがみこみ、俺の頭を自分の膝に乗せてくれるミーシャ。あー、太腿……。じゃなくて。
「おい、あんた、すぐ、にげろ。アリュウが、なかまを、よんで」
「無理してしゃべらないでください、体力を消耗してしまいますから」
ミーシャがかけてくれる回復魔法はすごく効きがいい。痛みがすっと引いていく。喋れるようになったのもすぐだった。彼女、前衛職だったんじゃないのか? あれだけの攻撃力があって、回復もこのレベルって、なんなんだ。太腿最高にやわらけえし。
メガネ無しで見る彼女は、文句なしに可愛かった。こんなシーンじゃなきゃ、そのまま一晩、膝枕お願いしたいくらい。
だが、がさがさ草を掻き分ける音がして、そんなゆっくりしてるわけにもいかない。
なんとか身を起こし、「クリックスさん! だめですよ」と非難の声を上げるミーシャを背後に押しやって、俺は警戒する。いや、まあ、形だけでも、ね。丸腰ですが。
「おおー、ミーシャちゃん、無事だったかあ!」
「スミスさん」
草をかき分け飛び出してきたのはスミスさんをはじめ、さっき逃したパーティーメンバーだった。それに加え、どこかで見たような顔ぶれ。男が七人。こいつら、救助対象だった村の男衆か?
なぜか奴らは、でっかい荷物を背中にも腰にも括り付けて、大儀そうに歩いている。
ミーシャに歩み寄った連中は、彼女の肩を叩いたり、ねぎらいの言葉をかけて盛り上がりだした。俺は地面で胡座をかいて、それを呆然と見ているだけ。
気づいたのだ。連中が担いでいる荷物、――でっかい爪、紐でまとめたでっかい鱗、ぶつ切りにされた太い尾っぽ――あれは竜をばらした戦利品だ。
おっさん一人が担いできた牙の数が、ちょうど竜二頭分だと計算し、俺は天に向かってため息をついた。なんだよ、おっさんたちで竜退治して、それどころかばらしてんじゃん。俺、なんのためにケガしたの。
そして、その竜退治を二頭分したのだと思われる人物は、遅れてやってきた。小山ほどの竜肉を担いだ、クマみたいな男だ。短く刈った髪の下の顔は、男臭い感じだがなかなか整っている。いわゆる偉丈夫ってやつか。なんか、どっかで見たことある顔なんだよな、こいつ。
彼を見るなり、ミーシャはしゃべってた爺さんたちの元を飛び出して、そいつに体当たりをかました。
ああ、あれが旦那か。まあ、そうだろうな。念動力ブーストつきのミーシャの体当たり受けて、「やあ、ミーシャ、二日ぶり」とか言ってる余裕があるわけだし。
ミーシャは頬を膨らませ、精一杯怒った顔を作っていた。旦那の胸を、拳でぽかすか殴る。衝撃波でいちいち俺の髪の毛がぶあって揺れるのは、ご愛嬌。
「心配させないでよ! 連絡なく夕食にも帰ってこないし、農具は出しっぱなしだし、朝になってもまだ戻ってこないし……。ドジって死んじゃったのかと思った」
「いやいや。竜の解体に手間取ってなあ。なにしろ、ナイフしか持ってなかったからな。それに、一人、脚をくじいてしまったから、ゆっくり下山したんだよ。一頭取り逃したから、下手に連絡役を走らせるわけにもいかなかったしね。腕が鈍ったなあ、俺も」
「そう思うんなら、無理しないで。あなたが死んであの家だけ残されたら、誰が虫退治や屋根の修理するの、あんなボロ屋」
「悪かった、悪かった。今後は気をつけるよ。ところで、今日の夕食には間に合うかな。久々に君の料理が食べたいんだが」
「しばらくご飯抜きですっ」
ぷいっとそっぽを向くミーシャをなだめつつ、旦那は、未だ立ち上がろうとしない俺を見て、目礼してきた。俺も目礼を返す。
「あっ、ごめんなさい、クリックスさん、治療の続きを」
思い出したように駆け寄ってきたミーシャが、俺の背にその手を当てる。
俺はさっと身を引いて、ようやく立ち上がった。
「いや、もう歩けるし、大丈夫だ。それより下山しよう。もうすぐ日が落ちるが、ここからならなんとか帰れるだろ。遭難者たちも疲れてるだろうしな、早く村で休ませてやろうぜ」
「はい。もし途中で辛くなったら言ってください、治療しますから」
言って、にこっと微笑むミーシャに、俺は曖昧な笑顔を返す。
彼女の背後でこっちを見てる旦那から、さっきのミーシャに匹敵するような冷たい殺意――俺の嫁に手を触れたらすり潰すというような、鉄の意志――を投げかけられているからだ。
ミーシャは可愛い子だが、ナイフで竜二頭バラすような旦那と争ってまでどうこうしたい相手ではない。や、さっきの膝枕は最高によかったけど。あれはこの旦那には黙っておいたほうが身のためだな。見られなくてよかった。
こうして俺の、久々の大舞台は、締まりなく幕を閉じたのだった。
× × × × ×
後日、酒場で事情通のマスターにそれとなく話を聞いてわかったこと。
ミーシャは元々、他国の暗殺者で、その標的が、この国の騎士団長をしていた旦那だったのだという。だが、なにがどう転んでそうなったのかまったくもって謎ではあるが、二人は恋仲になり、転職して、二年ほどであっという間にSSランク冒険者になった。そこで十分金を稼いだので、田舎に土地買って暮らそうぜと言い出した旦那に付き合い、この村に根をおろしたのだとか。
彼女の冒険者登録がなかったのは、旧姓で登録していたのと、本人が言う通り、引っ越してきた段階で登録の移動手続きもせず放置してしまったかららしい。二つ名の「烈火の徒花エグレラ」と、「豪腕の騎士カルテッラ」って聞いて、さすがの俺も「ああ、あいつらね」と思った。
他国の少女暗殺者が転身してSSランク冒険者になったって、相当騒がれたしね。国同士の軋轢とかそういう小難しい問題にもなったしね。つーか、旦那に至っては、元上司だしね。俺はヒラだったから、相手はこっちのこと知りもしないだろうし、俺もなんかの機会で顔見ただけで喋ったことすらないわけだが。世界ってせまい。
それにしても。他国の暗殺者受け入れるって懐広いのか警戒心ないのかわかんねーけど。なに飼ってんのこの村。というか、知らなかったの、俺と支社長だけ? だからあんなに村の連中はのんびりしてたんかと思うと、腹立つというより、諦めがわいた。やっぱりよそ者には冷たいのね、田舎って。誰か教えてくれよな。
× × × × ×
竜の亡骸を売った臨時収入で、村では宴が催された。俺の首には、花輪。一応、竜討伐の英雄扱いで、報酬も満額もらえた上に、こうして宴の主賓扱いでもてなされている。
その主賓の一人になるべきミーシャは、「私はサポートしてただけなので!」と言って、他の村の女達と同じように、男どもに酒を注いで回っていた。今日は三つ編みじゃなくて、ポニーテール姿だ。カワイイ。しかし、中身が可愛いという言葉でくくれないこと、というか劇物的なアレだってことを知った俺は、彼女が酒を注いでくれても、鼻の下を伸ばすことはなかった。……ほとんどは。
「クリックスさん、今回は本当にありがとうございました。また何かあったときは、よろしくおねがいします。頼りにしてますね!」
メガネをの向こうできらきらしてる、水色の目を見て、俺はつい「なあ、俺とパーティー組んでみないか?」なんて言いかけた。
あぶねえ。
俺に話しかけたミーシャの背後で、彼女の旦那がじっとこちらを見てる。目が、笑ってない。
さいきょうの奥さんが惚れた相手は、さいきょうの旦那である可能性が拭えないので。
俺はニヒルに笑って「任せろよ」と軽く杯を傾けるに留めるのだった。