怪奇図書館 合わせ鏡の書
鏡を覗き込む。
そこには、いつもの自分の顔が映っていた。
美しい日本人女性の体現のような凛とした顔に、思わず平井鏡花はうっとりと微笑んだ。
これが自分の顔だと思うと、未だに信じられないが我ながら魅了されてしまう。
鏡花は立ち鏡の前で、自分の裸体を眺め続ける。
顔に続いてスリムで引き締まった体の曲線美も、また鏡花の魅力を倍増しにしていた。この体型を維持する為にも、運動は毎日欠かさず行わなければならない。今までの自堕落生活ではいけないのだ。
そう、あの頃の生活とはおさらばするのだ。
一通り眺め終えて、満足し切った鏡花は妖精のようにその場で一回転。
再び鏡に映った姿に美しさは無かった。
そこに映っていたのは、醜悪なニキビと脂肪で垂れ込んだ眼、横に広い鼻。脂ぎってセットも碌にされていない長髪。そしてこれでもかというほどに肥えた贅肉の身体だった。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァ!」
悲鳴をあげても、体は目前の異常事態に硬直してしまい、目は閉じようにも閉じれなかった。助けを呼ぼうにも、鏡花は念には念を置いて、家に誰もいない時間に自身の裸体の鑑賞を行っていたのだ。誰も助けには来てくれない。
あるのは、眼前に映る昔の自分だけ。
しかし、自分は変わったのだ。こんな醜悪な姿からはおさらばしたはずだ。本来なら美しい裸体が映し出されるはずなのだ。
困惑する鏡花を、鏡の中の鏡花が極大の笑みを浮かべた。そして、他人を嘲笑う脂ぎった声が鏡越しに耳をつんざき、そこで鏡花は気を失った。
「売ってしまわれて良かったのですか?」
「何がです?」
涼やかな問いに問いで返し、シルクハットを被った小太りの紳士、怪奇図書館のマスターは一つ目の女性――助手と呼んでいる――を見た。
助手には本来、人間の目がある部分には二つの口が備え付けられており、逆に口の部分には一つ目がつけられている。
その二つの口は、答えをはぐらかすマスターに対し不満げに引き攣っており、黒曜石のように光る一つ目の瞳は不躾な主人を明らかに責めていた。
「そう、怒らないで下さいよ。ちょっとからかっただけじゃ」
「私は冗談が嫌いです」
手を上げて抗議するマスターに最後まで言わせず、助手は釘を刺した。
「はい、観念しました。私も手厳しい助手を持ったものですね」
溜め息を吐きながら、炬燵に座ったマスターに応じ、即座に飲み物が助手の手によって注がれる。しかし、注がれた飲み物はお茶ではなくコーヒーだった。
加えて言えば、今マスター達が居る部屋は洋室で所狭しと本棚が並んでいる。
和風の炬燵だけがあからさまに浮いていた。
「死神のペンダントの呪いは残念ながら霧散し、年代モノの貴重品になってしまいましたからね。私がもっていても宝の持ち腐れというものでしょう」
マスターの言葉に、助手は紫色の毛布がかかった炬燵を一瞥。
「で、ペンダントを売ったお金で買ったのがこれですか?」
「ええ。暖かくていいものですよ」
どう考えてもペンダントを売った金と釣り合わない品物に感じたが、助手はやれやれと炬燵から視線を外した。そもそも、この部屋はストーブで常に暖められているし、マスターの服は寒い時期とはいえ部屋着にしては厚着である。
しかし、奇異なマスターの行動を助手は咎めない。怪奇図書館の中では不安定なものほど安定するのだ。そのことは助手の姿そのものが証明している。
「む、むむむ?」
「どうされました?」
ぬくぬくと炬燵で微睡んでいたマスターが突然、天井を見上げた。
「近いうちにまた、怪奇がやってくるかもしれません。気のせいかもしれませんがね」
マスターの予測に、助手は何も返さなかった。
「ねえ、大丈夫?」
ふと、声をかけられて鏡花は眠っていた頭を覚醒させた。
声をかけてきたのは大学の同僚である。
「ん、ぼーっとしてた」
「ほんとに大丈夫? 何か朝から変だけど」
「大丈夫だって」
実際は昨日から眠れずじまいで、目にも深い隈が出来ていたが鏡花は同僚の心配を振り切って笑顔を見せた。
笑顔は美人の秘訣だ。
「そこ、講義を聞くか聞かないかは自由だが喋るなら外でしなさい」
教授に見咎められて、鏡花と同僚は会話を止めた。講義の真っ最中だったのだ。
しかし、鏡花の頭の中に講義の内容はさっぱり入ってこなかった。入ってくるのは、昨日の鏡のことだけ。
醜悪な自分の姿が脳裏を過ぎり、すぐさまかぶりを振って否定した。
違う。今の自分は昔とは違うのだ。
“あの頃”の自分と決別し、生まれ変わったのだ。
本当にそうなの?
「ひっ!?」
うつらうつらとしていた鏡花は飛び起きて横を見た。同僚が「どうしたの?」と怪訝な顔をしている。
「今、何か言わなかった?」
「何も言ってないよ」
教授に気付かれないよう、小声で返してきた同僚に鏡花はほっと胸を撫で下ろしたが、同時に、今の声が何処から聞こえてきたのか分からない不気味さが胸中を支配し始める。
吐き気がする。
「どうした?」
よっぽど気分悪そうな顔をしていたのだろう。遂に教授にまで身を案じられた鏡花は顔を上げて、何でもないですと返そうとして硬直した。
教授のすぐ後ろ。ホワイトボードのすぐ横の窓ガラスに醜悪な女性の顔が――。
鏡花は机を強く叩いて席を立ち、講義室を離れた。
(どうして……!?)
自分はおかしくなってしまったのだろうか。
鏡花は強い吐き気に襲われながら、トイレに駆け込み、吐いた。とにかく吐いて、吐きまくった。胃の内容物が無くなるまで吐き続けた。
吐瀉物によって傷ついた喉が苦痛を発し、涙がこぼれるが今の鏡花にとってはどうでも良かった。
思い出したくもない記憶が蘇る。蘇る度に吐き気が戻り、脳裏に焼き付いた昔の顔が過ぎる。
「私は綺麗になったの! もうあんな顔じゃないの!」
虚空に向かって鏡花は叫ぶ。そう、顔を変えたのだ。
「もうあんな体じゃないの!」
誰かに向かって鏡花は訴える。そう、体も変えたのだ。
「もうあの頃の私じゃないのよ!」
――本当に?
問い返されて、顔を上げる。
目前には計三つの鏡が並び、三人の鏡花が映っていた。
「ひっ!?」
じと、じと、じと。
鏡の中の鏡花が独りでに歩き出し、三重奏の足音がトイレに木霊する。やがて笑い声がそこに混ざり合い、太い五指が鏡に触れようとしたその瞬間、片手に持っていた荷物を鏡に放り投げて鏡花は走り去った。
どこでもいい。
とにかく逃げたい。
だが、何処へ? 頭のおかしくなってしまった自分に逃げる場所――居場所はあるのだろうか? 半狂乱になりながら、ただただ走る。
後ろから笑いかけてくる鏡花から逃げる為に。
それから二日、彼女は自分の部屋からあらゆる金属を撤去し、自身の姿を反射するものすべてを拒絶して毛布の中に閉じこもっていた。
外に出るのは怖い。
窓ガラス、水たまり、果てには他人の眼鏡まで。もはや、ありとあらゆるものが恐怖の対象だった。何に鏡花が映し出されるか分かったものではない。
おかげで、彼女はたった二日でげっそりと痩せ細り、美しい顔もやつれてしまっていた。
同僚からの電話が何度か携帯に着信していたが、どれも拒否している。
あの電話越しに囁くような、鏡の先に居る鏡花の声が怖くて仕方なかったからだ。
どうすればいい。
袋小路に追い詰められた彼女は自暴自棄に考える。
そもそも、どうして自分はこんなことになってしまったのだろうか?
鏡に自分の昔の姿が映るなんて、きっと精神科医に行っても適当な薬を処方されて追い返されるだろう。
「相談に乗りましょうか?」
ふと、彼女を呼ぶ声がした。
思わず身構えたが、その声は男性のもので素直に顔を上げる。
「へ?」
彼女の視線の先にあったのは、不自然に部屋の中央を陣取る扉だった。仄かに光が差し込んでくる扉は、まるで鏡花を誘っているかのようだった。
「随分とお困りのご様子。もし、貴女が望むなら私が相談に乗らせて頂きますよ?」
扉越しに穏和な男性の声が聞こえてくる。
あまりにも非現実的な出来事だったが、既に自分は非現実的な悪夢に見舞われているのだ。答える前に鏡花は光り輝く扉を潜り抜けた。
「ようこそ、怪奇図書館へ」
男が怪奇図書館と呼んだ場所は、言葉通りに本棚をぎっしりと詰め込んだ部屋だった。しかし、本棚にしまわれている本の種類はバラバラで、お世辞にも整理がされているとは思えない。
詰め切れなかった本を横に並べた山が部屋の一角を埋め尽くしていた。
「どうぞこちらへ。暖かいですよ」
男の声に振り向いた鏡花は怪訝な顔をした。
そこには明らかに異彩を放つ炬燵が置かれており、更に似合わない格好をした小太りな紳士が暖かそうに座っていた。
あまりにも奇怪な光景に、鏡花は好意を拒否して炬燵の近くに立つだけに留まる。
「私はこの怪奇図書館の主。マスターとでもお呼び下さい。そしてこちらの女性は私の助手です」
「ひっ!?」
小太りな紳士――マスターが視線で促した先にあったものに鏡花は思わずたじろいだ。
ついさっきまで気配も感じなかったし姿も見えなかったのに、長身長髪の女性が立っていたのだ。
しかも、その女性は本来、目がある部分に口が二つあり、口のある部分に一つ目がついていた。
とんでもないところに来てしまったと思うと同時、鏡花はとうとう自分の精神が狂ってしまったのかと不安になった。これは夢なのかもしれない。夢であって欲しいと彼女は切に願う。
だが、そんな彼女の反応にマスターも一つ目の助手も気に留める様子は一切ない。
むしろ、こちらの反応を愉しんでるようにさえ感じられた。
「さて、それでは本題に移りましょうか。貴女が一体何に困っているのか、お聞きしますよ」
妙に記憶に残る笑みを浮かべながら、マスターが両手を擦り合わせた。
助手が持ってきた珈琲にはいっさい手をつけず、鏡花は今までの経緯を話した。
何故か鏡に昔の自分が映ったこと。そして鏡の中の自分がまるで意思を持っているかのように動いたことを。
「なるほど。それは面白い現象ですね」
マスターの言葉に鏡花は視線を鋭くする。何が面白いのだ。
「おっと、これは失礼しました。私の失言です」
素直に謝るマスターに、しかし誠意は感じられなかった。
「ところで、一つお聞きしたいのですが宜しいでしょうか?」
マスターが美味しそうに珈琲を啜る。
「どうぞ」
ここまでの経緯を話して、どんな問いが飛んでくるのか鏡花は大体把握していたが、それでも思わず身構えてしまった。
「貴女は昔の自分が鏡に映ると仰りましたが、今と昔とではどう違うのですか?」
問いは彼女が予想した通りのものだった。
顔が反射的に引き攣ったが、鏡花は仲の良い同僚にすら話していない自分の過去を訥々と話し始める。
「私は整形したんです」
「なるほど」
昔の鏡花の呼び名は豚のような鼻と極度な肥満体から、デブ、ブス、豚の三つだけだった。他の学生達から度重なるイジメを受け、ストレスを食べ物にぶつけていた悪循環によって、彼女は限界まで追い詰められていたのだ。
そして、高校から大学に移る期間に決意を固め、家族の合意を得る形で整形を果たしたのである。
途中、何度か脱線して凝り固まった不満や憎悪が愚痴として零れたが、マスターは態度を変えずに鏡花の話を黙って聞いてくれた。
「事情は分かりました。ですが、やはり不思議ですね。今の貴女はとてもお美しいです」
世辞ではなく本音であろうマスターの言葉に、鏡花はちょっとだけ気を良くした。
事実、ファッションにも気を配った彼女の容姿は、アイドル雑誌の表紙を飾っていても違和感の無い美麗なものだった。
「ええ。私の理想の顔と体です」
この顔と体のおかげで、鏡花は今まで築くきっかけすらなかった友好関係を築くことに成功し、むしろ他人から寄ってきてくれるようになった。
道行く男達から如何わしい視線を、時折向けられるのも最初は慣れなかったが、それも今となっては誇らしく感じられる。
「しかし、昔の自分が鏡に映ったと」
「ええ……」
話を本題に振り戻され、意気消沈した。
マスターは手を顎に乗せ、深く考え事をしていた。自身の脳内の辞書を片っ端から開き、彼女を見舞った現象に関連するものを探しているのだ。
「合わせ鏡を行った経験はおありですか?」
鏡花は首を傾げる。
「合わせ鏡……ですか?」
「ええ、鏡と鏡を向かい合せに置くことを繰り返す一種の技法です」
それなら鏡花も知っている。
美容院などで立ち鏡を見ても自分の正面しか見れない為、手鏡を用意して一方の鏡に映った背面をもう一方の鏡に映すのだ。
しかし、それと自分の災難に何の関連性があるのか鏡花には分からない。
「合わせ鏡は技法であると同時に、使いようによっては都市伝説的な不吉な意味合いを含むようになります。何か心当たりはありませんか?」
再び尋ねてくるマスターの目は、爛々と光り輝いており、その目を覗き込んだ鏡花は自分の姿が一瞬映り込んで、とっさに目を逸らした。
いつ何がきっかけで自分が映るか分かったものではない。
と同時に、鏡花は今の衝撃がきっかけであることを思い出した。
あまりに恐ろしく、狂気に溢れていた為に閉じ込めていた記憶の蓋が開いたのだ。
放課後の音楽室。外では夕焼けが校庭を赤く照らしていたが、カーテンで閉め切られているせいで微かな光しか差し込まない部屋。
そこに鏡花は座っていた。
美術室には鍵が掛けられ、制服姿の鏡花の手首は縄で縛られ、身動きが取れないでいた。
「助けて……」
か細い声が木霊するが、残酷にも音楽室の壁は外部に音を漏らさない作りになっている。計算尽くの陰惨な苛めの光景だった。
鏡花の喉から嗚咽が漏れる。
彼女が座っている場所には音楽室にはあるまじきものが描かれていた。
校庭のグラウンドで良く使われる赤色の石灰の粉によって描かれた五芒星。その上に彼女は座っていたのだ。
そして、鏡花を覆うように大量の立ち鏡が置かれていた。
まるでその光景は儀式のような――いや、正真正銘の呪いの儀式だった。
強者が弱者を甚振る為の、古来から様々な形に変容して残り続ける陰惨な呪いの光景。
「誰か……」
助けを求める声が虚空をかすめる。
代わりに聞こえてくるのは、幾重もの鏡に映る自分が助けを求める無音の声、声、声。
数えきれないほどの罵詈雑言を重ねられた自分の姿が、幾重もの鏡に反射し視界に映り込む状況は耐えられるものではなかった。
気が狂いそうになりながら、声が枯れるまで助けを求める。
声なき声が反響する。
助けて、助けて、助けて、助けて。誰か、誰か、助けて誰か。許して許して許して。呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる。
自分が何をしたというのか。
やがて、鏡花の助けを求める声は憎悪の声に変わっていた。
理不尽な現実全てに対する呪いの不協和音。
鏡に映り込む鏡花が笑う。それを見て鏡花も更に笑う。
濁流のように溢れかえった狂気に塗れながら、鏡花はやがて気を失った――。
それから助けられたのは夜遅く、巡回している教師に見つけられた時だった。その時も鏡花はずっと笑い続けていた。
「……」
頭を抱えてうずくまる。今のが自分の記憶だと信じたくない。だが、思い出してしまった時点で鏡花に否定の材料は用意されていなかった。
「心当たりがあったのですね」
優しい声でマスターが、青白い顔をした鏡花に声をかける。
「ええ……」
呪いはあの時から始まっていたのだ。それ以外には考えられなかった。
鏡花は身と魂を言葉通りに削りながら、マスターに思い出したことを全て話した。何故か、この男相手になら醜悪な過去を晒すことに抵抗をあまり覚えなかった。
「事情は分かりました。今からとてもシンプルなマジックを行います」
「はい?」
こほんと咳払いをするマスターに鏡花は怪訝な顔をする。
「私の目をご覧ください。そこに映ったものがあなたの真実です」
最初、何を言われたか意味が分からなかった。しかし、理解してから鏡花は恐怖に頭を振った。
見たくない。自分の姿なんて見たくない。
どうしてマスターがそんなことを言うのか、訳が分からなかった。
「さあ、私に出来ることはこれだけです。後は貴女の意思ですよ」
しかし、マスターに促されて鏡花は心を決める。いや、まるで自分の意思を操られたかのように彼の言葉に従った。
視線がマスターの双眸を捉え、凝視する。
そこに映ったものは――、
「何が見えましたか?」
一呼吸置いてから答える。
「“私”でした」
その答えに満足したのか、マスターは静かに頷いた。
「合わせ鏡は確かに不吉な意味合いを持ちますが、それなら私達は他人という映し鏡を使って自分の姿を見るという禁忌を常日頃から侵していることになります。人間は常に禁忌を侵して生きる生き物なのかもしれませんねぇ」
マスターの語る言葉の意味が分からず、鏡花は首を傾げた。
「つまり、何事も捉え方次第ということです。さて、私達に出来ることはここまでです。貴女が今ここで見たものは全て夢物語とでも思って下さい」
最初から準備していたのか、背後で助手が元来た道の扉を開ける音がした。
「夢物語……ですか?」
「ええ、ここは怪奇の夢。貴女の夢の中の光景です」
鏡花はその言葉を聞き入れて、凝り固まっていた体を動かし、夢の中のように、それが絶対だという意思を以って扉へ向かう。
「その、ありがとうございました」
最後に一度、振り返って頭を下げる。
「どういたしまして」
マスターも丁重に頭を下げる。何故かその姿は何処か申し訳なさげに映った。
だが、これは夢なのだ。
鏡花は夢の終わりを迎える為に扉の先へ、自分の部屋へと戻っていった――。
「あれで良かったのですか?」
来訪者が立ち去った後、マスターが予想していた通りに助手の責める声が室内に木霊した。
「あんな帰し方で……本当に良かったのですか?」
明らかな怒気を含んで、助手の一つ目がマスターを睨み付ける。主の無責任さを責める強い眼差しだった。
「ええ。あれは私達にはどうしようも出来ない類の呪い。謂わば、現代に生きる最も厄介な呪いでした。前回の死神の呪いは物理的な形とルールを持っていましたが今回は別です」
珈琲の最後の一口を飲み干して、苦々しげにマスターは語り出す。
「合わせ鏡というのは先程も私が言った通り、ごく身近にあるものです。自分を見つめるという行為を私達は常に他者を経由して行っているのですよ。ですが、自分という存在は人間にとってある意味、最も恐怖する対象なのかもしれません。だからこそ、合わせ鏡は都市伝説として人から人に渡ってゆき不吉な意味を――呪いを手にしたのです。だからこそ……」
そこでマスターは口ごもった。
「最後は彼女自身が解決するしかないのですよ。自分で自分にかけてしまった呪いをどうするか、それは他人ではどうすることも出来ません」
助手は主の言葉を聞いて押し黙ったが、やがて小さく口を開く。
「良い方向に向かうといいですね」
それは月並みな、だが心からの願いを込めた言葉だった。
周りには部屋を所せましと埋め尽くす立ち鏡が円形に置かれていた。
鏡に取り囲まれる中で、彼女は静かに笑みを浮かべる。反射した鏡花も静かに笑う。
彼女の手には大きな角材が掲げられていた。足元にはあの時と同じ五芒星の魔法陣が真っ赤な液体で描かれている。
「死ね」
大きな音を立てて立ち鏡が一枚割れる。と同時に彼女の唇から微かに笑いが零れた。
「死ね、死ね」
次々と、次々と割られていく鏡の中で鏡花が歪んだ笑いを浮かべる。
「死ね、死ね、死ね」
機械的な手つきで、しかし野性的な感情を込めて振り上げられた角材が鏡を割っていく。鏡の破片が皮膚に突き刺さり、血が流れ出すがそれでも止まらない。
「死ね、死ね、死ね、死ね」
今の彼女を彩るのは愉悦だった。これですべてが終わるという狂気の願望が今の彼女の全てを形成していた。
極大の破片が突き刺さり、電撃が奔るような痛みが全身を駆け巡ったが、彼女の口から出たのは悲鳴ではなく嬌声だった。更に角材を振り下ろす勢いが増し、鏡の破片と血が舞い散る幻想的でありながら怪奇な光景が彼女を包み込んでゆく。
「死ね」
そして、最後の鏡に角材が振り下ろされる。
その中で、鏡の中に映る鏡花は笑っていた――。
こうして怪奇は終わりを告げる。
(完)