9 慢心
2018/10/14 文章を修正しました。
尾びれが水を蹴る感覚、目を通して見る世界、肌を通して感じる水の冷たさ。それらが隅々まで冴え渡っているのをテルは自覚していた。
イワシレベル99。
その力強さは素晴らしいものだった。
そして、その力強さはテルの自信となっていた。
「最近のイワ士はすごいな。ウロコの艶からして違う」
「みんなもいっぱい食べたほうがいいよ」
「お前そんな大食いキャラだったっけ?」
みんなと泳ぎながらテルの体を見たイワ吾が褒めると、テルが答え、イワ矢がツッコむ。
今はみんなと次のエサ場に向けてのんびりと移動中だった。
あまり自分から話かけないテルではあったが、話かけられれば普通に受け答えはしていた。
ちなみに、ノエはテルの周りに他の魚がいるときは喋らない。テルが独り言をしているように聞こえないよう配慮しているらしかった。気の利く寄生虫である。
その時、不意に大きな影が頭上を横切ったのを視界に捉える。
影を感じた瞬間、テルはその時がきたことを悟った。
「敵だ!」
テルの叫びに群れに緊張が走る。イワ美姉さんがこちらに向かって急いで泳いでくるのが見えた。
「イワ吾! みんなを頼む!」
「イワ吾! 先頭について!」
テルとイワ美の叫びに、緊張しながら1度頷くと泳ぎ始めるイワ吾と他の兄弟たち。
2匹だけになってからイワ美がテルに尋ねる。
「相手は?」
「大きいのが1匹だけ。突っ込んでくるよ」
「そう」
イワ美姉さんの顔に影が走る。テルの目はこちらに泳いでくる大きなブリを捉え、その大きな口を開けてすごいスピードで迫ってくるのを確認した。
「行くわよ」
「わかった!」
テルとイワ美の2匹は凄い勢いでブリに突っ込んで行く。
テルには自信があった。
チラリとイワ美を見た後、そのまま矢のように突き進むテル。いかにブリと言えど自分はイワシレベル99。最高レベルの自分であればそこらの魚には負けないという自負があった。
ブリの大きく開いた口をギリギリで避け、すれ違いざまに体をぶつける。
バシンッ
鈍い音と衝撃で生まれる気泡。キラキラと宙を舞う銀色の鱗。
そして弾き飛ばされるテルの体。
(なんだって!?)
テルの体に驚きが走る。
ブリは悠然と身を翻したが、テルはぶつかった衝撃で体が痺れてすぐには動けなかった。それがすべてだった。
テルは当たり負けしたのだ。レベル99だというのに。
テルはそれまで持っていた自信が、実はなんの根拠もない慢心だったと知り、その体が恐怖で震える。
迫ってくるブリの口から身をひるがえす。体のウロコがすれ違う時の水流で吹き飛び、またもや宙にキラキラと舞う。
それは大きな質量が通り過ぎる恐怖。すぐ近くを電車が全力で走り抜けたかのような戦慄だった。
(当たったら、死ぬ!!)
疑問の入る隙のない真実だった。
大きさは純粋に力となる。それを思い知った。
思い知ったから? じゃあ、勝てるのか?
残念ながらそんなことはない。
今のところはギリギリで小まわりに優れるテルが避けているが、ブリの攻撃がいつ当たるかわからない。 きっと持久力も最高速もブリの方が優れているのだろう。テルが疲れて動きが鈍ればその場で終わりが決定する。
目前に迫る死に焦り、焦りがミスを生む。
それは必然だったのだろう。迫る口に対してわずかにテルの背びれがかすめた。それだけで鋭い痛みが体を走り、硬直してしまう体。
そこをめがけて襲いかかるブリに、テルは対処ができなかった。
バンッ
バクンッ
閉じられた口に、体の肉が食い込んで行くのが見える。
「姉さん!」
テルとブリの間に無理やり体をねじ込んだイワ美が、ブリに食べられていた。
とっさに体をブリの口に対して横にしていたため、一口で頭から丸呑みということは避けられたが、体には痛々しくブリの口が食い込んでいる。
ブリの食い込んだ口からイワ美の血の臭いが濃厚にあふれ出ていたのが、傷の深さを物語っていた。
イワ美はテルを見るとかろうじて声を絞り出して伝える。
「に…… 逃げな、さい…」
「そ、そんな……」
イワ美の伝えようとしていることが、テルには正しく伝わってしまった。
それはとてもとても残酷な内容だった。
イワ美はおそらく、逃げろと言っているのだ。『逃げて他の仲間が逃げ切れる時間を稼ぎなさい』と。
そこにはリーダーとしての判断があった。自分の命さえ目的のために捨てる判断が。
ゴキリッ
目の前でまだ何か言おうとしているイワ美がブリによってくの字にへし折られる。
そして器用に向きを変えられると頭からパクリと食べられる。そのブリのなんの感情もない目がテルを見た時、テルは脇目も振らず逃げた。
「う、うああああああああ!!!!!!!! 姉さん!! 姉さあああん!!!!」
自分が口から何を喋っているのかさえ、もはやテルにはわからなかった。すぐ真後ろには死の臭いがしていた。
果たして、イワ美の言ったように時間稼ぎをしようとしているのか、ただ自分が死にたくないだけなのかすらも考える余裕がなかった。
泳いで、泳いで、泳いだ。
本能だったのだろうか? 海底に向かって泳いでいたテルは岩場の間をくぐり抜けて行く。時折ブリの息づかいを尻尾の先に感じているような気がして、生きた心地がしなかった。
(死にたくない! 死にたくないよ!)
心の中で叫び逃げた先の岩に、ブリには小さい暗い穴があった。
その中に入りたい。入って隠れたい。そんな本能に、ブリは穴に隠れさせたくないだろうからここで勝負をかけてくる。という理性がほんの少しだけブレーキをかける。さらに、
「テルさん! 避けてっ!」
急に発せられたノエの叫びに、穴の中に入るコースからとっさに脇にそれる。
ゴボンッ
またもや大きな音と衝撃。
衝撃に弾き飛ばされたテルが振り返ると、驚きに目を丸くしたブリと穴の奥から突然出てきたシマシマの虎がぶつかりあっていた。
虎は凶悪な牙と怖い顔に細長い体をしていた。
海のギャングと呼ばれる、ウツボである。
ウツボは体の大きさでブリに負けているが、住処に乱入してきた余所者と戦う気は十分であった。かたやブリは予想外の相手に驚いていたものの、意識を瞬時に切り替えた。
テルを追うのをやめてウツボと争い始めたのである。
たまたまの偶然であった。
たまたまの偶然であったのだが、
「あ、ああ……」
震えながらこっそりと岩の間をすり抜けてその場を離れるテル。
テルはなんとか命を永らえることができたのであった。