6 魚の死生観
2018/10/03 文章を修正しました。
大魚から逃げたイワ士達はそのまま何事もなく安全域まで逃れることができた。
それから数日。危険なことも起こらず比較的安全な日々。
だが、イワ士は未だにイワ市とイワ児の死を引きずっていた。
それは2つの要因でだ。
1つ目は、死に別れてしまった2匹に対する深い悲しみだ。
いかに短い時間とはいえ、魚生ではその大半を共に過ごした家族である。そんな家族2匹と死に別れてしまったのだから、無理もないことだ。
イワ市は特に、魚生では初めてあった魚である。イワ士が生まれてから今まで生きてきた魚としての生き方はすべて彼が教えてくれたものだ。それにイワ士に魚としての居場所はここなのだと教えてくれたかけがえのない恩魚でもある。
イワ児も寡黙な性格であったのであまり話す機会がなかったが、群れのことを考えてくれる優しい性格と力強さで、みんな頼もしさを感じていたはずだった。
そんな群れのトップ格を一気に2匹も失ったのだから、イワ士の悲しみは相当なものであった。
2つ目はそんな2匹が死んだはずなのに、トップが変わっただけで特に悲しむ様子もない群れのみんなに対する戸惑いだった。
みんなあんなに頼っていたリーダーがいなくなったというのに、それでも平然としているのだ。
イワ士だって元はオタク気味であったとはいえ、いい大人の人間であった。
死生観に関しては元々さっぱりとしている自覚もあるし、生きている者が何年も故人に囚われていてはいけないという思いはある。群れ全体がリーダーがなくなったことを引きずってジメジメしている間に他の魚に攻撃されて全滅、では本末転倒ということは重々承知している。
だが、それを加味しても周りの反応の淡白さに驚いてしまうのだ。
「まだ気にしているの? イワ士」
「うん。でも、やることはしっかりやるよ」
「そう…」
イワ市とイワ児を見捨てた選択をしたイワ美に思うところはあるが、群れを大事にする生き様はわかる。イワ市が遺言でそれを望んだのでもあるし、イワ士もイワ市に『イワ美の補佐』を頼まれているのだから、自分の感情は割り切って群れのために仕事はする。
ただ、
「イワ矢。また外れているわよ」
「えーっ。少しくらいいいじゃない」
「そんなこと言ってて、迷子になっても知らんぞ」
「「「あはははは…」」」
いつものようにイワ矢が列からずれて、それをたしなめるイワ美姉さん。
それにイワ矢がいつものように反論して、真面目なイワ吾が忠告する。
そしてそんな日常にみんなが笑い合う。
その光景には同胞の死なんてものは初めから存在していなかったかのような反応しか見えない。
群れ全体のことを考えて心を押し殺して無理に笑っているような感じすらもないのだ。
イワ市達が死んでから1年経ったわけでも1月経ったわけでもない。
ついほんの数日前。片手の指の数だけで足りるほどの最近であるはずなのに、だ。
なんだか悲しい感じがして、イワ士は上から襲いかかってくるかもしれない魚が来る時の影に関して、目を凝らして見る仕事に集中する。
(悲しいけどやっぱり…)
イワ士は兄弟達の反応に思いつくことがある。
兄弟のみんなが『本能』といっているもの。
それは生まれた時から何の説明もなく密集して泳いでいることや、エラ呼吸にも関連していること。
生まれた時からそれが当たり前だと思っていること。
人間、佐賀 輝彦の知識をもっているイワ士だからこそ、不思議に思えることがいくつかあったけれど、そこに1つの仮説が加わる。
それは自然界で生きていく魚が、家族とはいえ群れの中のたった2匹が亡くなったくらいで動揺しているようで生きていけるのか、ということ。
自然は人間社会よりも厳しい。油断、動揺が即命取りとなる。
普段はイワ士にとってわかる言葉で会話したり、難しいことを話し合ったりすることもあるので勘違いしてしまいそうになるけれど。
(根元はやっぱり、魚なんだなぁ)
そういうことである。
人間社会のように他人を思いやる暇があるのならば、自分がどうやって生き延びるのか考えるべきである。群れが壊滅の危機にあれば自分を犠牲にしてでも群れを活かすのは当たり前である。
それを異常だ、と思えるのはやはりイワ士の根本が平和な日本の人間であることの何よりの証拠であるように思えた。
だからといってみんなを嫌いになれるか、と言われればそれは否だった。
みんなはみんなで魚として懸命に生きているのだろうし、そもそも『魚としてのイワ士』はあまりイワ市イワ児の死を気にしてはいないのだから。
勝手にどこかへ行こうとしていく悲しみの襟首を掴むように、イワ士は強く身震いをする。
みんながイワ市イワ児のことを悲しく思えないのであれば、
(人間の佐賀 輝彦が、彼らの死を覚えておこう)
イワ士はそう、強く想ったのだった。