まさか来るとは思わない
暴走王子。
そんな時が過ぎ去っている間、一人の少年が迷子になっていた。
シュルツ・キフ・ヘイアン。
中位貴族の末席に名を連ねるものであり、ノストとは入試の際同じ面接の集団にいた一人だ。
「……ここは……」
シュルツが忌々しそうに、一つ舌打ちをした。彼は自分では迷っていないと思いつつも、徐々に不安な顔になって来ていた。
「う、」
嘘だろうと言いかけた言葉を飲み込んで、息をふうっと吐き出す。
その瞬間、茂みが大きく揺れて鳥がどこかへ飛んで行った。彼はその音にひっくり返って頭を抱えて、それから音の正体が呑気に鳴いているのを見て顔を盛大にしかめると、石を投げつける。
当然それが当たるわけもなく、鳥は振動で飛んでいく。
「くそッ!!くそくそくそッ!!」
石を投げ続けるが、息が次第に上がって、彼は茂みの近くの木にもたれかかる。
「……なんでだ……ここは、どこだ」
疲れからか、苛立ちが徐々に募り始める。そして彼は風で茂みがガサガサと揺れるたびに恐ろしくなり、動きを止めて息を詰める。そんなことを幾度か繰り返して、緊張で精神が摩耗する。
戦い慣れしている人間は、実際緊張するのではなく、それを高揚に変えることで頭がおかしくなるのを防いでいる。
ノストたちはまた別だが、そういう人たちでない子供などは、本当に頭がおかしくなりそうになるのだ。
だからこそ、集団で動くべきで。
「……うぁあああああああ!!誰か!!誰かいないのか!?」
臆面もなく、叫び始める。余計体力を消耗し、そして何より敵を呼び寄せる的になるかもしれないリスクを抱え込んでしまうなど、すでに彼の頭にはない。
ただただ、答える声が欲しくて。
けれどそれは、悪い方向に転がるのが世の常である。
ズン。
ズン。
ズン……ガサガサ。
パキパキパキ……。
その音に、シュルツは口を両手で覆って、今にも叫び出しそうな口を押さえた。ガクガクと震える両手足を押さえて、それから恐怖に支配された体を、無理やり押さえつける。
けれど、魔獣から逃れるためには魔力を遮断するほどでなければならないなど、彼は知らない。
ぼとぼと、と彼の肩に生ぬるく、粘ついた液体が落ちる。
「ひぅ……」
振り返る。
禍々しい歯列がずらりと覗くその口元から、体をすくませるうなり声が漏れる。
生臭い息が、前髪を浮かせた。
「ぃがっ、ぁ、ひぃい!」
四つん這いになりながら、走って逃げようとする彼に、その牙が迫る。すんでのところで動いてそして、彼の腕が食いちぎられた。
ぶちりぶちりと柔い肌に歯が食い込み、そして骨ごとぼぎっと歯が噛み砕いた。
「ぃい゛ぁああああああああっ!?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔のまま、彼は痛みにのたうちまわる。しかしそんなものを見ても、何も待ってはくれない。
特に、目の前の魔獣は。
その口が大きく広がり、そして——一本の剣に押しとどめられる。
「外傷治癒!!」
シュルツはその人物を見た。オルブライ教授——その長い髪を振り乱して、戦士の格好をしたまま、その場所に立って牙を受け止めていた。
「……動けますね!」
「は、はい」
「ここから私が背を向けている方向にまっすぐ行くと、教師用の天幕があります。そこから助けを呼んできてください!返事は!?」
「は、はいっ!!」
腕がなくなってその傷口が一時的にふさがっただけであるため、彼の走りはバランスが崩れておりお世辞にも速いとは言えない。しかしその足取りは、今度は迷うことなく進んで行く。
そして、彼の姿を見て他の教師たちが、ギョッとする。そして治癒を始めたが、やがて気絶することとなる。
一方、エシュテ・キフ・オルブライは、今までになく焦っていた。獣と植物の融合体のような、未知の魔獣。
唸り声とともに飛んでくる蔓が、彼女のほおをしたたかに打って肉を裂いた。
露出した歯が、ほおの肉を食い破ってさらに痛みを与える。
——早く。
——早く!!
その願いは、届かない。
そして彼女の手から、水を纏わせた剣が弾き飛ばされて、少し離れた木に当たって地面へ重たい音を立てながら落ちる。
頰の穴から、くひゅう、と呼気が漏れ出す。痛みは今は感じないが、戦いで麻痺している神経はもうすぐ痛みを訴え始めるだろう。
そこに大きく振り上げられた鋭い爪のある前脚が、振り下ろされた。
「ッがぁ!?」
けふ、と血の塊が口から飛び出た。内臓が傷つき、嘔吐とともに口の中が酸っぱい匂いと鉄錆の香りで埋め尽くされる。
胃酸で頰の肉が溶けて、痛い。
「ひっ……ぐぅ」
涙が溢れる。
生徒を守るために戦って、このざまか。
生徒に従えと言って、このざまか。
情けなくて仕方がない。
「ひゅー……ひゅー……」
よろよろと立ち上がろうとするが、足首が折れているのかダランとして動かない。
終わりか。
彼女は諦めて、血だまりの中に意識を沈み込ませた。
その一瞬の意識の間に、何かが滑り込んできた。
「っはぁ、御機嫌麗しくはなさそうねエシュテぇ!!外傷治癒、内傷治癒!」
「……はぐっ……!けほ、かほっ……た、すかり、ましたシルヴィ」
銀の髪をなびかせて、気の強そうな真っ赤な瞳を笑みの形に変えて、彼女は笑う。
「高慢なあんたのそんな顔が見れて、満足だわ!」
「攻撃は、蔓で削り取って、転がったら踏みつけてきます。そして一撃一撃が大変に重たい」
シルヴィア・レンブレイム。平民でありながら、その治癒魔術の腕を買われて魔術学院の治癒師となった、人間。しかし彼女はどこかいびつな倫理観を持っているように見えた。
治療において必要以上のことはしない。体を完璧に治すだけだ。
そこからを全て、他人に投げっぱなしにする。
「よし、逃げましょう」
「な……んですって!?」
「私、怪我人を治すのがお仕事だもの。化け物退治は別の人たちが適任でしょ」
「そんな無責任な……」
そういう人間なのだ。
原因を排除しようとせず、治すことだけに喜びを覚える人間。
ここに来たのも、彼女を治すことだけに頭が行ったのだ。
「わかりました。……私では敵わないことも知っています。一度退却しましょう」
「あんたそういえば、服破けておっぱい丸出しよ?」
「そういうことを恥ずかしげもなく口に出さないでくださいッ!」
今無謀に挑むよりは、確かに確率は高くなるし、生徒を逃がすために今、他の教員たちが奔走しているはず。森の中で逃げる方向さえしっかり考えておけば、なすりつけも起きないはずだ。
そう考えて、エシュテは袖布を裂いて胸を隠すと、武器となるものを探す。しかし、先ほどのやりとりで何かが壊れたのか、頼みの綱の魔道具すら無い。
「シルヴィ、足止めになるようなものありますか!?」
「んも、しょうがない……深き沼!」
魔獣の足と思しき器官の下に、ぬかるんだ地面が現れる。そこに足を取られて、魔獣が先へと進みにくくなることを期待したのだが……一歩か二歩進んだところで、その蔓をあちこちに伸ばし、体を空中へと放り投げた後蔓を切り離し、二人にさらに接近して来たのだ。
「ひぇあああああ!?ちょっとダメだったじゃ無いですか!?」
「いやそんなことまで予想できる!?無理よ無理無理ぃ!!」
ふと。
背後の重たい気配が、ピタリと足を止めた。
「……え?」
「……別のもっと強力な魔力を持ってる人間が、近くにいる……?」
「そういう……え?まさかあんたんとこの
氷人じゃ無いでしょうね?」
「…………あるかもしれません」
「ざけんな!!その子のとこまで先回りするわよ!!」
「先回りして?」
「もちろん生徒たちの集団から外れて時間を稼いでもらうの。常識でしょ」
「……そんな腐った常識知らないです」
ズシン、ズシンという地響きは一見遅いように見えるが、大きいということはそれだけ歩幅が大きいということでもある。そして、腕が振り下ろされても、縮尺がおかしくなって防御や反撃がうまくいかないことがある。
そして、生徒の集団めがけて突っ込んで行くと思いきや……そこには逃げかけの生徒の最後尾と、二人だけ残った生徒が立っていた。
「ノスト・サフラマ!?逃げなさい、あなたの実力では——」
「フルルがいるから、問題ないよ」
「そんなバカなこと、」
その場所に棘のある蔓が殺到して、ノストは思い切りエシュテを掴んで放り投げる。
それをシルヴィアがあやまたずキャッチして、「あんたたちが死んでも謝らないからねー!」と叫びながら走り去って行く。
「あなたはここに残っていていいんですか?」
「バカ、俺が逃げたらそっち行くだろ」
フルルがクッと唇をへの字に歪める。
「全く、どうしようもない阿呆ですね。蔓邪魔ですから、全部なんとかしておいてください。私、ぐねぐねした虫とか生き物とか、嫌いなんですよ」
「へいへい。んじゃ本体の方は、お任せしますよ」
バーチェ地方は、極寒ゆえに人が住めるような環境ではなく、夏のみ多人種の出入りがかろうじてできる程度の、極限状態の場所だ。
そしてそんな中で、フルルたちを含めた他の魔獣も生息している。
当然フルルは、それを日常的に狩って暮らしているわけだ。
「氷結狼より、あくびが出るくらいに遅いです」
外界遮断は現在、ノストがかけているために維持は必要でない。フルルは純粋に戦うことのみに集中する。
ノストはただ一言、そのツタが伸び出している場所めがけて、無属性の魔力弾を打ち込む。魔力弾は急速に持ち主の魔力をを打ち込むことで、細胞の壊死を起こしその器官を壊す。
たとい魔素を求めてさまよう魔獣でも隔絶した力の差があれば、それは可能だ。
そしてノストが振り返ると、ちょうど硬化を行なったフルルが、その魔獣のあぎとにしたたかな蹴りをくれているところだった。魔獣はその場から勢いよく吹っ飛んでいき、木々をめしりと三本ほどなぎ倒して止まった。
グゥルルル……といううなり声が、フルルが近づくにつれてその激しさを上げて行く。
「……堪え性のない狼ですね」
前脚が飛んで来たのを、膝で跳ね上げて手を添え、ごきりと折る。
けたたましいほどの叫び声があたりに響き渡ったが、フルルはその攻め手を休めることもなく、ただ無心に蹴りや拳を叩きつけて行く。
「フルル」
「はい?」
「もう死んだ」
「あら本当ですか?すごくちょうどいいサンドバッグだったものですから、つい」
視線があらぬ方向へ向いているのは指摘した方がいいのだろうか、とノストは迷いつつも、これだけはと口を開く。
「原型がねぇじゃん。素材取る気なかったなさてはお前」
「……殴った感触とか、血しぶきとかが欲しくって……ノストさんだけずるいです。魔闘鶏狩ってるし、もう!!」
それをずるいと言えるのも割とおかしいことに気づいていない。
じり、とノストのうなじが薄く焦れる。
「あぁ……まだ全く終わりじゃないんだな」
さすがに、あんなに弱い魔獣一匹で終わらせないか。
それにしても見え見えでバレバレな作為なのは気のせいではないだろう。
「フルル!喜べ、おかわりはいっぱいあるぞ」
「本当ですか!一緒に、ぜひ!!」
「あー、それなんだけどさあ。俺ちょっと組合のお手伝い?っていうかご報告?」
その言葉になんとなく嬉しそうな表情になって行く。
「え?……そうですか?じゃあ私一人で食べ放題ですね!」
「フルル、ちょっと手ェ出して」
その体に外界遮断を目一杯の時間付与して、彼は走り去る。
「ありがとうございます」
その後ろ姿をすでに視界から外して、フルルはその周囲に氷筍が生えた範囲を形成する。
冷気に含まれた魔力に反応して、植物が悲鳴を上げるように凍りついて行く。それを感じ取って、その場に魔獣がちらほらやってくる。
そしてその場に突然、してはならない声がした。
「た、すけに来たぞ、フルルッ!!」
フルル・バーチェがその瞬間額に手を当て、近くの氷筍によろめいてもたれかかったのは仕方がないと言えるだろう。
——護衛を連れもせず、ニルヴァルがやって来ていたのだ。