その正体は白くない
ある意味優しい方法。
フルル・バーチェは、幼い頃から子供らしくない子供だった。
五歳のある日、母親はこっそりと贈り物を用意して、「産み季の神様が持ってきてくだすったのよ」と言った。その前の年までは、それでよかったはずなのに、フルルはその瞬間目を瞬いて、それからこう言った。
「違う。それ、お母さんたちが準備したものでしょ」
それから数年して、いたずらをしようとした集落の少年に向かって、こう言った。
「面倒な子供ですね」
その言い方に憤った少年たちは当然、フルルに対して反感を持ったが、彼女はそれを歯牙にも掛けないで笑っていた。
彼女には氷人という種族の誇りがあり、そして何よりその精神は、己の有り様を否定されることを頑として拒否していた、たとえそれゆえに死が訪れたとしてもだ。
おぞましいまでの誇り。
そしてそれは同族すら凌駕して彼女の最優先事項となった。
そしてそれが、今回は災いした。
平民の女生徒が一人廊下でスカートの群れに囲まれていた。
「ひ、ひぃ……」
その女生徒は完全に腰が抜けたように震えてへたりこんでいる。その姿を見て、周囲から笑いがさざめく様子に、フルルは足を止めた。ふと、その取り巻きの一人がそれを目に留めて、主格の女子生徒に囁いた。
「あら、なんです?特別教室ですけれど……平民の?あらまあ、それで私になんの用なのかしら?」
「何の用もありませんが、くだらないことをしていらっしゃるのですね」
その刺々しい声に、貴族の少女は苛ついたようだ。
「何を言っているの?あなたはこの子のなあに?私はただ、この子がスカートにシミをつけているから魔術で取って差し上げようとしただけよ?」
「そうですか?本当に?ではへたりこんでいるのは、なぜ?」
「あら?貴族が恐ろしかっただけよ。そうよね……?」
ぎらりとした問いかけの視線に、そばかすの栗毛の女の子は下を向いて俯いた。
「……なんとか言いなさいよ!」
取り巻きの一人が、その少女の手首を掴む。
「も、申し訳ありませ、」
「強要した証言は証拠となりえないでしょう」
割り込んだフルルに、貴族の少女はすっと袖で口元を覆い、それから取り巻きの一人に耳打ちをした。
「承知いたしました」
彼女はすっとフルルに近寄り、コートに手をかける。
「何、」
「顔も出さずにメリアリード様に口答えしようなど、いい度胸だわ!」
ヒステリックに言ったその少女は、その手をコートにかけて力いっぱい引っ張った。
「何をするのですか!?」
「薄汚い血脈が!!」
それに憤ったフルルはコートを引っ張り返そうと強く力を入れる。
「そこで何をしている!!」
そこに一つの声が飛んだ。
ニルヴァルだ。
彼はフルルの叫び声を聞いた誰かが呼んだようだった。
そして、フルルが声に驚いて、力を抜いた合間に——そのコートは奪い取られた。
青白い髪の毛がふわりと一度広がり、それから銀色のまつげが縁取る銀の瞳が、大きく見開かれる。顔の横に垂らされた髪の縁から、水晶のような氷の角が伸びて、陽光に煌めいた。
その美しさに、ニルヴァルは一瞬で目を奪われた。
「きゃああああああああ!!」
フルルの白い滑らかな肌が真っ赤に染まり、ボコボコと水ぶくれができては消えて次第に焼け爛れていく。
ぼたぼたとその隙間から血が漏れて、直ちにじゅう、と焼け焦げた。息をするたびに苦しそうにもがき、彼女は床に這いつくばった。手袋で口元を覆い、それから必死で息をする。緩和はされたが、体表面の侵食は止まらない。
ぜい、ぜいとその息の隙間から、ただコートを返すようにつぶやくが、舌が回らない。
「あ゛ぁ、ふっ、ひゅ……」
「すいませんちょっとそこ失礼!!」
叫び声に駆けつけたノストはその場所に割り込んで、その姿を見ると同時にその体を抱き起す。
直に触れないようには気をつけたが、それを見て即刻ノストはコートを手から取り落としていた少女をちらりと見た。コートを拾い、その体に巻きつけて、それから彼女を横抱きに抱える。
その間もどうしたらいいのかを考える。
今彼ら全員を敵に回さないように、なんとか彼女を治療に持ち込む方法……。
『見苦しいものを見せた』、そう言って彼女をこの場から『持ち去る』。それが今彼が思いつく最良の手段だった。
「大変お騒がせしました。彼女のことは聞き間違えだったようです。正しくはこれを脱がすと焼けこげるということだったようで……お見苦しいものをお見せ致しました。以後、これを脱がすことはお控えなさった方がよろしいかと存じます」
笑顔でそう言い切って、ノストは早足で歩き始める。誰もがその場所から動けなかった。
ノストは、その足で保健室に向かおうとしてやめる。異人種の治療を、貴族の保険医がしてくれるわけがない。
「土箱、氷室」
地面からせり出した土の箱に、フルルを抱えて入る。その中は完全に冷え切って、見事に寒い。ノストは自らに外界遮断をかけると、彼女を横たえる。
その熱された体は、まだ冷たい空気だけでは冷えない。
まず全身に氷水を当てて温度を冷やして、それからノストは誰も見ていないことを確認すると、その体に手を当てた。
呼吸器官の内部が灼け爛れかけている。そこをまず魔力を流し込む。他人の魔力が流れ込むと違和感が普通は起きるのだが、今は痛い方の感覚が勝るのだろう。冷たい空気の中で叫び声が上がる。
「黙ってろ」
次いで、その部分に無詠唱で『治癒』をかけると、呼吸が一気に和らいだ。
他の体の内部は、呼気が直に当たらないからだろう、無事であった。
「あ、の、のすと、さん」
「お目覚め?……全く、無茶をする」
「だ、って……」
「今はいいから」
「ぁぐぁ!?」
その手のひらから体の表面を全て覆っていくようにノストの魔力が絡みついていく。体全体が痛みに悲鳴をあげた。
「んぎぃ、」
「治癒」
実質は外傷治癒なのだが口ではそう言って彼は治療を終えた。
はぁ、はぁと荒い息をフルルが吐き出す。
「い、たかった……」
フルルが氷の中から起きると、体を床に落として、それから肩で大きく息をした。
「が、はっ」
血を吐き出したが、すでに治癒した後の排出されたぶんだ。問題はない、そう見なしてノストは彼女の襟を掴んで立たせる。
「ふざけんなよお前、なんで突っかかっていった!!」
「な、げほっ、なんですいきなり!」
「今回のことは、頭を低くしてやり過ごせばよかったんだ。なのにどうして——」
「私が外界遮断を覚えるのと同じ理由ですよ」
ぎらりとした視線に、ノストが怯んだ。そこに畳み掛けるようにフルルがつぶやく。
「私は私であることに誇りを持っているんです。この姿も貴族に何か言われたからと言って、変える気にはなれない」
「……その誇りのためにどれだけのものを犠牲にするんだよ」
「何かを犠牲にできるほどのものを誇りと言うのでしょう?あなたにはわからないかもしれないですけれど」
そうだ。
確かにノストは討伐者であることを誇りに思っている。人生でたとい成功できるとそちらにレールを敷かれても、逃げ出すほどには。
けれどノストは納得いかなかった。
「……それとこれとは別のものだろ」
常に後戻りできない場所にいた故に、後退することができる場所にいながら後退を選ばないなんて、おかしいと。
命を犠牲にしてまで、それをする価値が誇りにあるわけがない。
今まで退けなかったノストにとって、撤退を選べることは幸せだった。
「……知り合いが死ぬのは後味悪ぃどころじゃねぇんだよ、くそったれ」
「……そうですか。ですが、私はそのために死ぬと決めています」
フルルは、冷たい手をぎゅっと握った。
「狩が上手くても、獲物を調理するのが上手くても……今まで培った『わたし』は、ここでは全て意味のないものでしかない」
ノストだって、そうだろうと暗に言われる。
魔術だって、使い続ければ第三深淵に達するのはあっという間だ。
こんな平和な場所に武力は必要ないものでしかない。
「だから私は私であることを誇りに思います。それが一番、私にとって重要なことです」
「俺だって、暴れることでなんとかなるならなんとかできる自信はある。けどな、ここは違うんだよ。ルールから何から何まで、全てが」
「……いまいち飲み込めません。貴族とは何一つ私たちと変わらないのに、何が違うのですか?」
「さあな。でもこれだけは言っておく。面倒ごとは抱え込むもんじゃねぇ——やばいと思ったら、ここから、いやこの国から逃げ出すのだって、手伝ってやるよ。幸いツテは地元にたんまりだ」
ノストはくっくっく、と悪い笑みを浮かべて、それにフルルが小さく吹き出した。
その晩のことだった。フルルの部屋の扉は、全てが氷でくっつけられている。ドアノブは触れれば手がくっつくほどに冷たい。
けれど、今日は扉を開けた形跡がドアにあった。
部屋の冷たさに辟易して帰ったのかどうかはわからないが、大金は討伐者組合の預け入れ施設に入っている。問題はないはずだ。
「……なくなったものはないようですけど、なぜ入ったんでしょう?」
ふと、その机の上に一枚の手紙がある。
「……ふっ」
その実ただの脅迫。フルルの机の上に置いてあった手紙には、『学院をやめろ。さもなければ痛い目を見るぞ』と書かれていた。
「そんなもの、とっくに見た後です。鍛錬を続ければじきに、コートを奪われても問題はなくなるはずですし」
そして、もう一度隙間風全てを綺麗に塞ぐように氷を張り直し、それから青いコートを体に巻きつかせて眠りについた。
その夜中、低い音の一の鐘が鳴ったころ。
「……開かない?なぜだ」
フルルの耳元に、人の声が聞こえた。正確には、窓際から忍び寄って来た音声。
ブツブツと独り言を連ねて、ようやくその窓が軋んだ。そして、ゆっくりと開いて行く。フルルは密かに水色のコートの前を留めて、それから身体強化を始める。
例の訓練の成果なのか、『加速』だけならば余剰魔力がごくわずかで済むようになった。
「……寝ているのか」
手紙が開かれた形跡を見て、その人物は次第にフルルの方に近寄って行く。
そして、その枕元に、ナイフを差し込んだ。
フルルはその瞬間自分の体を少々ずらして、頰を切りつけさせる。そして体をがばりと起こすと、窓を『風』であっさり閉じたのち、すぐさまその黒ずくめの人物を全力で取り押さえる。
「な、なんだいきなり!!」
「……こんばんは、侵入者」
その手足には、冷えた床から突き出た氷の杭が突き刺さる。
ナイフを突き立てたのは、さらなる脅迫のためだろうとフルルは思う。
「ゔっ!?」
「あら?痛いのに叫ばないのですね。まあ、構いません」
彼女はうっそりと笑い、それから冷え切った空間で静かにその頰を撫でた。白い革に覆われた手は、なめらかに這って唇に触れる。
「あなたに命令をした人は、だれ?」
「……」
「答えたくないならいいのですよ。この状態のまま叫べば、男が侵入したと言えます。幸いにしてあなた、男のようですし」
フルルはニッコリと笑った。
「あなたがどう思おうと、恥ずかしい汚名を背負ったまま死ぬなんて、とても阿呆らしいことだと思いません?」
「な、にを言ってるか、知らないがな……俺は、ぅぐっ……俺の誇りにかけて!主人の名を答えることはない!」
フルルの瞳が、すっと閉ざされた。
「残念です」
その艶やかな唇が、詠唱を紡いでゆく。
「属性・氷、効果範囲・三、継続時間・一、魔術式・柩砕」
その瞬間、男が苦悶の表情を浮かべたまま凍りつく。そしてフルルがそれをつま先でコン、と蹴ると同時に何もかもが綺麗に砂のようになって消える。
人間一人分の痕跡すらなくなり、後に残ったのは雪。
白い雪は、フルルの前に積まれてその山を晒している。
「これを使うのは族長には止められていたのですけど、後腐れがない方がいいでしょう?私も、あなたも」
貴族の私兵に怪我を負わせてどうなるかわからない以上、弱みを作るより全てを消し去る方が都合がいい。
痕跡すら無くなるならば、それにも増して。
「血痕も全部雪に変えたから問題ないと思うのですけど」
自分の姿も問題なく、ベッドの下なども全く普通だ。フルルはそれを確認すると、雪の前で跪いた。
「八の眷属神と天空の守護者ラズィエル、地底の守護者ニョルヴィに只今一つの欠片が返上された。完全なる世界へお導きを」
宗教の授業で習った、国教ベルグフォル教の霊を鎮める祝詞を唱える。
フルルの地方では、六本の蹄のある鹿のようなものを無名の狩の神として信仰していた。
彼女はベルグフォル教の話を聞いて、どうも信じられないでいた。
彼らは他人種は世界の破片であり、そして死ぬたびに破片が天地に返上されて完全になっていき、そして純人種の終末を迎えた時に楽園と化した完全なる世界を生きるのだと、そう言っていた。
けれどそこに至るためには、一度死なねばならないのだ。
死ぬなんて、まっぴら御免である。
ただ生きるのでさえ、こんなに苦しいのだから。