1 依頼人は待つ
長編です。
懐かしい場所だという予感があった。
今にも朽ち果て塵となって空気中に霧散してまるで夢のように消えてしまうのではないかと思えるほどの古い家。
屋敷と呼ぶほど大きくはなく、小屋と呼ぶほど小さくはない。
ごくごく一般的な木造の建物。
壁を覆うほどに生い茂った草木とその隙間から覗く木が朽ち始めているような古さを醸し出している点がおよそ一般的と呼ぶには難しいかもしれない。そんな感想を僕は持った。
おおよそ固定資産とは最早呼べなさそうな建物の前に立ち尽くす僕。
手に持っているのは草刈り鎌と雑巾とポリバケツ。
さて、どうしてこんなことになった?
簡単に自己紹介をしよう。
年齢27歳。サラリーマンと呼ばれるような職業に就いていたが、現在は精神的疾患と病院で診断され期限のない休職中。同僚に話を聞いたところ復帰予定は未だ立っておらず、このまま無職となる可能性が濃厚な雰囲気が持ち味のナイスガイだ。専門分野は経理。つじつまが合うって事は嫌いじゃない。
そんな僕が憂鬱な朝をいつも通り迎え、今日は何をしようかと思案しながら部屋から居間へと向かうと朝食を用意していた母親が僕に言った。
「あんた今日は何か予定あるの?」
大体予定なんてあるはずがないと知っていながらのこのジャブ。この前置きは面倒な事案が発生する前兆であることを僕は知っている。
「今日は」
「ないなら、頼みたいことがあるんだけど」
言い終わる前に状況が進んでしまった。
事実として現在タダ飯喰らいという状況にある僕に返せるようなハードパンチは装備されていない。
最大限面倒そうな顔をして抗議しながら、渋々僕は頷いた。
「曾祖父ちゃんの家なんだけどね、人が住まなくなってしばらく経ってるから掃除してきて欲しいのよ。小さいころにあんたも何度か行ったことあったっけ? 結構近いところにあるんだけど……」
母はため息を一つ。
「で、その一番近いのがウチってことで本当に大変に面倒なことに、親戚一同から管理して欲しいってことで頼まれたわけ。まあそうなると断れないし、わかりましたって引き受けたんだけど、これがなかなかオンボロ屋敷でね。掃除も一苦労だわ、私もなかなか時間とれないわってことで」
「絶賛英気を養っている僕に仕事が回ってきたと」
「そういうこと」
そんな訳で僕は一式を持って来たわけである。
何らかの交通手段を取る必要もなく、徒歩圏内にその家はあった。本当に近かった。
こんなところに縁のある親族なんていただろうか……。
もし来たことがあるとするなら本当に幼いころだったのだろう。思い出せない。
思い出せないが……。何故だろうか。懐かしい思いがあった。
現在季節は夏。
セミが命を振り絞る音色が耳に突き刺さって痛い程だ。
「暑いなあ……」
もう既にクーラーのある自室に避難したくなってきたが、少しでもやらなければ小言というジャブの嵐が飛んで来ることは間違いない。
ため息を付きながら僕は古家の扉に手をかけた。
「あれ……?」
鍵はかかっておらず、すんなりと開いた。
一応母から鍵を預かってきたものの、すでに用済みのアイテムが一つ増えてしまった。
ゲームであればアイテム欄を圧迫するだけなので捨ててしまいたいところだったが、現実ではそうもいかないので仕方なく鍵をポケットに戻す。
「おじゃまします」
誰にともなくそう呟きながら横開きの扉を開くと軋んだ音が無人の屋内に響いた。
一歩足を踏み入れると、空気中に埃が舞って思わず咳込んだ。
顔には蜘蛛の巣までかかって散々である。
しばらく誰も立ち入っていないようなのは間違いない。
「どこから手をつければいいんだよ……」
歩けばその足跡がつくほど埃塗れの玄関で靴を脱いだほうがいいのかどうか迷ったが、この場合脱がなくても問題ないだろうと判断し、土足のまま踏み入る。
お行儀が悪いですね。道流。
踏み入った。第一歩目と同時にそんな声が何処かから聞こえた。
そうそう先程の自己紹介の時に言い忘れていた。僕の名前は時坂道流。みちる、と読む。ある意味流されるまま道を歩んできた僕を象徴する名。
そんな僕の名前を呼ぶ存在。先ほど誰もいないと確信したばかりではなかったか?
昔もそう言って一度注意したはずでしたのに。
そういえば、僕は昔この家に来るのを楽しみにしていた気がする。
それは何故?
合うのが楽しみだったんだ。
誰に?
お久しぶりね。
顔を上げる。
とても懐かしい……。そう、どうして忘れてしまっていたのか。とても大好きだった彼女が昔と変わらない姿でそこに佇んでいた。
甲高い音が屋内に響き渡る。どうやらポリバケツを落としたらしいということに遅れて気がついた。
あとは無音。
あれだけうるさかったセミの音はもうなかった。
なるべく早めに更新します。