episode - 4 『健吾と千尋』
※誤字・脱字等がありましたら、先にお詫び申し上げます。
『その威勢があるなら、いつでも通報できるじゃない』
頭の中をぐるぐると再生されること百回。千尋は,緑色の公衆電話の前で、それを迎えた。
改築した大学病院の開けた空間は、正面出入り口から入るとすぐに待合を兼ね合わせたフロントとなっている。親子連れや、老人、男女の若者……大勢の人が診察待ちで設置された数多いソファー型のベンチに点々と座っていた。
正面出入り口のすぐそばには何台もの公衆電話があり、千尋はそこの前に立っていた。
七月一日、昼下がり。今日も今日とてからっとした炎天下だ、太陽が憎いくらい輝いていた。
(ここに立つのは四回目か……)
最初、ここへ来たのはあの日十六女が帰ってすぐのことだ。
十円玉を片手に握り締め、手すりに掴まりながら深く眠り怠けた体を引きずり、走りたい気持ちをぐっと堪えた。
なんとかこの階まで降り、公衆電話の前に立つ頃には汗だくになっていた。
投入口に十円玉を入れて110とダイヤルを押し、プルルル、という電子音が耳元でざわめく。
三コール目で繋がった。
『はい、こちら110番です。何かありましたか?』
「あ、あの!匿名で通報したいことが…――」
そこで、千尋の言葉が詰まった。しーん、とした静かで重たい空気が受理側と彼との間に停滞する。
『あのー…、どうかなさいましたか?』
口を割ったのは受話の向こうにいる警察官。
声からして、まだ若い女性のようだ。
その時。
千尋は、ガシャン、と受話器を振り下ろした。同時に、カラン、と公衆電話の中で寂しく十円玉が納められた音がする。
何も『悪い』ことをしていないのだ、なのに。
(なんだ、この『薄気味悪い』感じは……)
そう思って、早四回目の今日。
(何やってるんだ、僕は)
千尋は、その疑念を抱き続け、公衆電話の前に立っていたのだ。
頭を鈍器のようなもので殴られたせいなのか?と自嘲気味な答えがふと返ってきた。
通報しようと思っていても、なぜか踏み出せない。
結局受話を手に取り、通報手前までできたのは六月二十六日の夕方以降、全くなかった。
どう言おうか、迷ったのかもしれない。そもそも十円玉一つじゃ足りないだろうと思って、硬貨を百円玉にも変えてみた。
だが、違うのだ。
(不思議だ、腹が立ってしょうがないのに。受話を取る気になれないなんて)
公衆電話をじっと見つめるだけで、その先の行動へ移す気力が削がれてしまった。
恐怖心だろうか、ふとそんな疑問が浮かんだ。
だが、少し思い留まって、自答は変わった。
そんな生易しいものじゃない、また何か『違ったモノ』で千尋の心は一杯になっている。
それは、恐怖よりも心を引きずり込むような、底なしの沼にも似たものだ。
「やめだやめだ……、いつでも通報できるんだから別に今じゃなくてもいい」
千尋は、溜息をつくと同時に深く考え込むことをやめ、そして、公衆電話の前に立つこともやめた。
フロントを後ろ手から横切り、エレベーターホールへと向かおうとしたその時。
診察待ちのベンチ型のソファの郡列の一番最前列に設置された大画面の薄型テレビにふと目が止まった。
患者の待ち時間の退屈を少しでも解消しようとする病院側の配慮が見られる。
だが、千尋が見ていたのはその画面の中だ。
ここからでは、音はほとんど聞こえないが、画面には、キャスターが神妙な面持ちでコメンテーターと何やらやり取りをしている。
画面右上のテロップには『今だ捕まらない連続通り魔の素顔とは』と銘打っていた。
それをただ虚ろな瞳で、千尋は見つめている。
(考えたくないのに……、今日は厄日か?)
辟易とそう思いながら、溜息を軽くついた。
こういう話題になると、心にずんと重い鉛がのしかかるような感覚に襲われる。
襲われた日から今日で六日目が、今だに精神的なダメージは取り除けていないのだ。
(情けないな……)
すると、千尋のちょうど一mほど前にあるベンチ型のソファで二人の五十代くらいの婦人がいた。
耳打ちで何かを話しているようだ。
「やあね……まだ捕まらないなんて……」
「犯人の目星もついてなんでしょう?警察は何をしているのかしらね……」
「この病院の五階にも被害者の男の子たちが入院してるんですって……」
「やだ~…、その内、犯人がお見舞いに来たりして……」
「怖いわね~……」
そんな会話を聞き耳を立ててしまった千尋は、少し俯き、考えた。
(素顔……、目星がつかない……ね)
世間を震え上がらせている、今一番その存在が全国区で知れ渡っている通り魔の正体が『普通の女子高生』。
そんなこと、この目の前にいる婦人たちも、テレビの中で口を忙しなく動かしているキャスターも犯罪心理学だかのデータを元に偉く語るコメンテーターもきっと知る由はないのだ。
この世界でその犯人を知っているのは、ここにぽつんと立ち尽くす普通の男子高校生・森川千尋、ただ一人だろう。
そして、その犯人が自らのクラスメイトで、尚且つ目の前の席にいるなんて知っているのは、彼と十六女杏子との共有しているたった一つの真実だ――。
すると突然、ポン、と肩を叩かれた。
「いッ…!?」
そこそこ勢いもあったそれは、不幸にも右肩は鬼畜女による脅迫行為で負傷したところだった。
そのため、千尋の体が思わず、飛び跳ね、同時にその手も条件反射で払いのけてしまう。
「あ…!え!ごめんごめん!ここも怪我してたのか?」
右肩を咄嗟に手でカバーすると、同時に聞き慣れた声が耳にやってきた。
千尋は、勢いよく振り返って、そいつを確かめる。
「健吾…!」
「よう!元気にしてっか、へタレ千尋」
にかっと明るい笑顔で、憎まれ口を利く親友・高崎健吾がそこにいた。
千尋は、くすくすと笑いながら「ひっどいな」と返した。
そんなことを言われても、不思議と悪い気持ちにはとならないが仕返しに高崎の肩に軽く拳をぶつける。
「んだよ、そんな元気があんなら取り越し苦労ってやつだな」
「ああ…そっか、今日から普通に面会できるんだったね。心配かけて悪かったよ、僕はこの通りピンピンしてるからさ」
肩を竦めて笑いながら、そう言うと、高崎もそれに答えるようににかっと笑う。
その笑顔は、まるで暑苦しい夏の太陽とよく似ていた。
その後二人は、診察待ちのソファに座り、しばし談笑に耽った。
時には少し笑い合ったり、真剣な面持ちで「犯人、見たのか」と問われたことも。
千尋は、ややごまかすように笑いながら「突然のことだったから、さっぱり」と答えるしかなかった。高崎には「そっか……」と少し肩を落していた。
話題を変えようと、千尋は、
「そう言やさ、健吾が言ってた花火大会のことだけど……」
「ああ……。実はさ、」
と言ったところで高崎は、気まずそうに頭を軽く掻いた。
それ以降、なかなか話を続けないので、千尋は、
「なんだよ、どうかした?」
「いやぁ…、花火大会、もしかしたら行けなくなるかもしれねぇんだ」
そう言われて、千尋は『他に予定ができたんだろう』と思いながら、
「分かった。じゃあ、花火大会は取り止めな。他の友達誘って行くよ」
「悪りぃな、あとさ、夏休みの予定もちょくちょく行けなくなるかもしれねぇ」
高崎は申し訳なさそうに笑いながら、顔の前で合掌し謝った。
さすがに千尋は、何かあるのかと思ったが、深く追求することなく、
「分かった分かった、行けなくなったらまた言ってくれればいいからさ」
何にしても大げさにリアクションする高崎に、くすくすと笑いながら千尋がそう諭すように返す。
「ありがとうな!」とまたにやたらと明るい笑顔で言う高崎を見て、千尋もまた笑顔になった。
そんなことを話し合っていると、ふと高崎の足元にあったにあるものが見えた。
「健吾、その紙袋は……」
「ああこれか?お前が入院してからの三日分の課題プリントと授業を書き写したノートだ」
他愛のないように返答した高崎の言葉に、千尋は少し顔を苦そうに歪めて「うげ」と呟いた。
元来、あまり勉学は得意な方でない千尋にとって、それが苦行のように感じる。
すると、そんな千尋を見た高崎は、
「そう言うなよ~、お前のためにノートは一日目だけは女子たちがまとめてくれたんだぞ」
「だけ、を強調して言わなくていいよ」
千尋は、声を出して笑った。
高崎は、そんな千尋を見て悔しげに「ちくしょー!羨ましいぜまったく」などと遠吠えをあげていた。
しかし、千尋には気にな点が一つあった。
「二日目、と今日の分って誰が書き写してくれた?」
「お?えーっと、確か十六女さんだよ」
その名前を高崎が口走った時、千尋の表情は一瞬にして凍りついた。
同時に、今ここに居もしないはずの女の影が、千尋の脳内を駆け巡り、肌の上をまるで蛇に舌なめずりされたようにざわと肌が粟立った。
「お、おい、大丈夫か?すごい顔色悪いぞ…、病室戻った方が……」
「ああ……す、少しまた頭が痛くなってきた」
ごまかすように笑って、包帯を巻かれた痛くもない頭に片手を優しく添えた。
その嘘は、信憑性の高いもので、
「ばっ!それなら、早く横んなれよ」
「はは…、そんな慌てなくても大丈夫だよ。そこまで重いもんじゃないからさ」
焦ったように心配する高崎を宥めながら、千尋は彼の手に持たれた紙袋を掠め取る。
高崎は、少し驚いて、
「あ、ちょっ……辛いなら、俺が病室まで持っていくぞ?」
「僕は、そこまで貧弱じゃないよ。これくらいなら大丈夫だって」
「本当かよ」
「嘘ついたって仕方ないだろ?」
さっきの嘘とは矛盾してるような、千尋の言い分。
高崎は、渋々「わーったよ」と剥れて返すばかり。
その後、高崎はエレベーターホールまで千尋に同行した。
千尋は、一刻も早く病室へ戻りたかった。
この紙袋の中に収められたものを、親友から遠ざけたかったのだ。
何が記されているのかも分からない、ノートの数々。
脅迫めいたものを記しているなら、それを見た高崎はきっと何かしら訳を尋ねてくるはずだ。
(この件に、健吾を巻き込むわけにはいかない……)
そう思いながら、苦虫を噛んだように唇を噛み締める。
そして、ポン、という電子音と共にエレベーターが到着した。
すると、千尋はその表情を明るいものへと変えて、
「それじゃあ、また。今日は、ありがとう」
まるで決められた定型文のように言いながら、千尋はエレベーターに乗り込む。
たった一人で。
「おう、じゃあな。また、ノート持ってくるぞ」
「はは。ああ、待ってるよ」
そう笑顔で言葉を交わしている間に閉まっていく、エレベーターの扉。
そして、閉まる直後、高崎は一瞬思った。
薄暗い蛍光灯の下で、不健康そうに見える千尋が、まるで『どこかへ行ってしまう』ようなそんな一抹の不安を覚えたのだ。
「千尋、」
そう呼びかけた時には完全に扉が閉まったその瞬間だった。
あいつは、笑顔を終始壊さなかった。
それが、余計に脳裏に焼きついたのは言うまでもない――。