episode - 16 『回想の中』
注意
◇←過去の回想です。
※←現行に戻ります。
◇◇◇
蝉時雨が鼓膜を揺さぶる、真夏日。
クーラーの下で、その暑さをやり過ごしていた僕は、棒付きのアイスを食べていた。
後ろのキッチンで、お姉さんが皿洗いをしている音を聞いて、仕事で帰ってこない両親に開口一番どんな話題を話そうかと考えていた。
ガチャガチャ、と背後から聞こえていた食器同士がぶつかる音がいつの間にか息を潜め、きゅ、とついでに蛇口が閉まった。
忍び足で、何かが近づいてくる。その度に、僕はアイスを舐めていた舌の動きが鈍くなる。
近づいてくる気配は、僕のすぐ後ろで佇んでいた。
「…なに?おねえさん」
喋りかけてこないその人に、幼心ながらに不気味さを感じて、何か言って欲しくて敢えて振り返らずに聞いた。
でも、お姉さんは、いくら待っても答えやしなかった。
代わりに忍び足で少し前に出て、僕の隣に腰を下ろす。僕は、何でだか、お姉さんを見るのが怖くて、視線をずっと胡座をかいた足に向けていた。
そして、突然、どこに行くわけでもなく、そのしなやか手が、アイスを持っていない方の僕の小さな手を握った。
生き別れた恋人に再び会えたかのように、じっくりと、大切そうに、僕の手の甲を、手の平を撫でた。
「…千尋くんの手は、おもちみたいに柔らかいのね」
手触りが気に入ったのか、そんな感想を言った。
僕は、それに何も言葉を返せなかった。
ふー、ふー、とその女の人は鼻息を荒くして、頬を赤くさせていたからだ。何かに取り憑かれたように、ただ僕の手を触り続けた。
◇◇◇
手を握られてから数日経った頃。
女の人は、また僕を『遊び』に誘った。
「ねぇ、千尋くん。ぎゅーってしようか」
「え…?」
退屈しのぎに、ベランダの欄干から外を眺めていた僕は、あっさりとお姉さんにその身を抱きかかえられて、部屋へと連れ戻された。
部屋に戻れば、お姉さんは膝立ちになって、向き合うように僕を下ろす。
お姉さんを見て、体と顔が、カチンと瞬間冷凍されたように、固まった。
お姉さんの綺麗だった笑顔が、ぐずぐずに崩れて、目の前の餌を得た動物のように酷く昂奮していたから。
「…っ!」
がばっ、と勢いよく抱き締められた。きつく、このままこの腕から逃げられないんじゃないかと、そう思うくらい。
僕の手を撫でていたしなやかな手が、今度は僕の背中を、大切そうに…いや、嗜むように撫でていた。
「千尋くんの体って…、ふわふわしてて気持ちいいのね〜」
お姉さんの上擦った声と混じって、荒い息が僕の耳を掠めていく。
「このまま、一つになっちゃいたい」
その一言の意味を、僕は当時よく分からなかった。それでも、その口から放たれた言葉は、車酔いのように酷く目眩がして、気持ち悪かった――。
※※※
「遊び…?」
十六女がそう聞き返すと、千尋は、こくりと頷く。
続けて、
「最初は、どこに行くわけでもなく手を繋がれた。大切そうに、お姉さんは僕の手を見て、嬉しそうに笑った」
「………、」
「その次は、ハグ。抱っことかそういうんじゃなくて、恋人みたいに抱き締められた」
「変なのー…」
十六女は、疑問に思って静かにそう呟く。
千尋は、それに何も答えず、昔の記憶の先にあるものを思い出して、眉間に皺を寄せ、苦悶した表情を浮かべる。
つ、と額から顎先に流れた冷や汗を手の甲で拭った。
「……その次は、スカートの中に入る『遊び』」
ぴくり、と十六女は千尋の言葉に体を僅かに反応させた。
だらだら、と留めどなく滝のように流れる嫌な汗を千尋は、手の甲や肩のワイシャツの生地で何度も拭う。
「お姉さんは、すごく嬉しそうだったし、喜んでた。
そこへ入ると、こんな部屋みたいな、暑苦しさがあって熱気で、息がしづらくて苦しかった。
薄暗い闇の中で、お姉さんの荒い息がはっきりと聞こえて、出たくても出れなかった」
そう語る千尋の、肩が、上へ下へと徐々にその動きを大きくしていく。
眼前の景色が、過去を言葉で紡ぐ度に、薄暗さを増した。音楽準備室の籠った熱気と相まって、『あの時』と同じ……。
ぐ、と目を強く瞑った。記憶の淵から、より深く、より鮮明に、映し出し、体感する。
ここは、どこだ。ここは音楽準備室のはず、そう認識しているはずなのに、湧き上がる『記憶』が塗り替えていく。
ここは、ココは、お姉さんのスカートの中――。
体と脳が生み出す幻が、現実を侵食した瞬間、ぐ、と喉元にコルクのようなものが栓をした。
「はっ…、そこを出たら、何をされるのか、何をさせられるのか…、はぁっ…!それを考えたら目の前だけじゃなくて…ッ、頭の中が真っ暗になって…!」
そんな息苦しさで、呼吸が上手く出来ない。深い海のように、息が溺れていく。
それでも、記憶は破裂した水道管のように濁流として、流れてきた。
千尋は、止まらないそれを、つらつらと語り続ける。
「体も動かなくなって……。耳元にいるんじゃないかってくらいハッキリ聞こえるんだよ…ッ、お姉さんの息が!
お姉さんの息が、短くなる度にっ、お姉さんの息が、荒くなっていくほどに…!は、はっ…!僕は…ッ、息が…できなく…ッ――」
瞬間、ふわり、と何かが通るそよ風と共に、目の前が真っ白になった。
意識が飛んだわけでもない、かと言って強い光を浴びた訳でもない。
視界が、白に覆われた。
その『白』の正体は、学校指定のセーラー服だ。そこから、生温かい、人の体温を感じた。
こんな夏日に、サウナのような室温の部屋で、汗が滲んだ肌を寄せ合うのは、何だか気持ちが悪かった。
滝のように流れる汗なのか、それとも息苦しくて生理的に流れた涙なのか…、もしくはそのどちらかもしれない。視界が、水滴を落とされた眼鏡のように歪んでいた。
それでも、荒く短く吐き出される呼吸のまま、千尋の思考は落ち着きを取り戻して、
「な、に…してるん、だよ…、十六女…」
「…気にしないで。ただの、気まぐれよ」
頭上から聞こえる十六女の声は、相変わらず無愛想だ。
十六女は、椅子に腰掛けている千尋を、優しく抱き締めていた。
この行為に、何の他意を感じなかった。気まぐれなのだ、と。言葉通りのそれに、納得してしまう。
十六女の腹辺りのセーラー服の布地が、千尋の涙で、汗で、濡れて、透けていく。
だらりと脱力した情けない千尋の腕が、縋るように、彼女の細い腰に回した。
妙な感覚だ。子供の悪戯でただ乱暴に廻された秒針が元に戻されるかのように、千尋の呼吸は落ち着いていく。
まだ、もう少し、
このままで。
捧げる祈りのように、ただ静かに、無垢に、そう思って、千尋は、静かに目を閉じた――。
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