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青春リンチ  作者: えくぼ えみ
三章 『スカートの中』
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episode - 15 『森川千尋の独白』

 



 塵埃が、鼻腔を(くすぐ)る。


 空調設備もないここでは、蒸し暑さだけが立ち込めていて、鍋で茹でられ赤く染まる蟹の気持ちすら理解できそうだ。


 つまり、それくらい、暑い――。


 どっ、とくぐもった重音。

 その度に、椅子は揺れ、ぎっ、とその脚が後ろへと下がり、床から不快な音を上げた。


 千尋は、いつものように、十六女と音楽準備室で密会していた。


 苦しげな声が漏れ、噛み締める白いハンカチの猿轡に唾液を染みて、口元を湿らせる。


 執拗に、一定間隔で殴られ続ける千尋には、痛みなど、とうに意識下にはなかった。


 それは、むしろ、今は考えにより深く耽ることができる適切な環境だ。被虐的な体質になっているわけでない。ただ、殴られている時は、どうしようもなく暇と感じるだけなのだ。


 それと同時に、じくじく、と切り傷のように痛む自身の心。


 健吾から、恋人が出来たことを告げられて、数日が過ぎた。


 その日は、彼にその祝言を言えず別れて、それを言おうとして、何度も言葉が喉元で引っかかり、言えなかった。


 その原因も、千尋には分かっている。


 素直に喜べない己がいて、その度に背筋を凍らせたからだ。


 それから、悩んで、出題した自問と答案する自答を破り、捨て、繰り返す脳内。


 そんな自身を、日に日に、薄気味悪く感じて、吐き気がした。


 この、苦痛を伴う時間だけが、何も考えなくて済む。考えて、答え切る前に、拳がやってくるのだ――。


 室内の気温で、十六女の額からは、たらりと汗の筋が流れた。先日のように乱れきった惚けた顔は、していなかった。


 言ってしまえば、普段と変わりない人形のような能面さ、無に近い表情。


 様子をおかしくさせているのは、十六女の目の前で、椅子に縛られている千尋の態度…いや、反応だろう。


 この間まで鳩尾を殴られる度に、反抗的な眼差しを向けていたにも関わらず、それが今ではどうだ。終始顔を伏せて、落ちた視線の奥には、この状況よりものめり込んでいる『考え』にご執心で上の空。


「…つまらないわ…」


 十六女は握り拳を解いて、そう呟いた。


 苛立ったように千尋の猿轡を引っ張るようにして取り去り、彼の背後に回って、縛りつけていたガムテープを外す作業に取り掛かる。


「森川くん、やる気、あるのかしら?夏バテにでもなったの?」


「やる気もクソもないだろ、ただ殴られることに」


 吐き捨てるように呟いた千尋の言葉に、ペリペリ、とガムテープを外していた十六女の手が止まる。


 反抗的とは違う、どこか諦めたような…いや、この状況に対して不満は大いにあることは、十六女にも分かっていた。


 しかし、どこか、何かが、違う。


 自棄になっている、そんな印象を受けた。


 十六女は、残りのガムテープを外し終えると、千尋の前に立つ。


「…ねぇ、森川くん。あなたが屋上で私にバカな望みを話した時のこと、覚えているかしら?」


「なんだよ、急に」


 ようやく自らに目を向けた千尋に十六女は、少し微笑んで、


「一度、聞いてみたかったの。どうして、あの時、私のスカートを被せられて、あんなに発狂して失神したのか…てことを」


 自棄になってふてぶてしかった態度が一変し、千尋は、徐々に目を見開いた。


 十六女は、より一層嬉しそうに微笑んだ。彼の表情が、見る見る内に色を変えたことに。


 そして、やはり、とも思った。


 きっと、千尋には、知られたくない秘密があるのだと――。


 千尋が、十六女を暴いたように、十六女は千尋を暴いてやろうと興味本位で思った。


 ガッ、と突然十六女は、千尋の股の間に僅かに空いていた椅子に足を置く。


 そして、


「な、なにしてるんだよ…、お前…」


「男の子って、女の子のスカートの中が気になるものじゃないのかしら?見たくて、見たくてどうしようもないでしょ…?」


 甘く囁くように言いながら、十六女は、椅子に置き、上がった足からスカートの裾を徐々に自身の方へと引っ張っていく。


 千尋は、その様子から目を離せなかった。



 拒絶、からガタガタと肩が震える。


 恐怖、から顔は緊張で強張り、下唇を噛み締めた。



「可愛い、ガチガチに固まっちゃって」


「や、めろ…、」


「もしかして、あの時も…スカートの中を見て、嬉しくって、失神したのかしら?」


 そんな様子など微塵もなかっただろうに、十六女は揺さぶりをかけるように、わざと挑発する。



「ヘンタイ」



 甘美な声色のそれは、千尋を逆上させる言葉でしかなかった。


「やめろって言ってんだろッ!」


 千尋は怒鳴り声をあげて、十六女の足首を掴み、そのまま引っ張り上げ、


 どん、と態勢を崩した彼女と共に床へと倒れ込む。


 栓でもされていたかのような気管は、強張りが解けたことで、新鮮な酸素を取り込もうと千尋の息を荒くした。


 四つん這いになっている千尋の眼下には、今だに彼に片足首を掴まれ、仰向けで倒れた十六女がいる。


 荒い千尋の息と彼らの態勢が相まって、その情景は、婬靡(いんび)に見えた。


 しかし、そこにあるのは妖しげな雰囲気ではなく、ただ一人の少年の怒りだけだ。




 ※※※




「なんで、そんなこと、聞こうと思ったんだよ」


 立て直して、縛りつけられていた椅子に再び腰を下ろした千尋は、開口一番にそう言った。


 少し離れた向かい側で、十六女は、ボロボロになったピアノの椅子に座ると、


「だって、ずるいじゃない」


「…なにが」


「森川くんだけよ、私の『秘密』を知っているのは」


 蠱惑的な笑みを浮かべて、十六女はそう言うと、足を組んだ。


 千尋は、そんな興味であんな真似をされたことに怒りを通り越して、呆れた。

 ふ、と軽く溜息を吐くと、


「…別に、大したことじゃない」


 妙に冷静になってそう言うと、ガムテープで縛られ、赤くなった左手首を擦る。


 興味をなくそうと、敢えて言ったつもりだったが、十六女は、尚も食い下がる。


「大したことじゃないって?どういう意味なのかしら」


 彼女の言葉を聞いて、千尋は、少し視線を落とした。


 重く、不純物が沈殿するかのような静黙が訪れる。


 そんな中でも、十六女は、心地よさそうに薄ら笑みを浮かべていた。


 彼女の興味は、千尋がはぐらかそうとするほど、より増した。


 千尋は今度は諦めたような溜息をついて、触りだけでも語らおうと、口を開く。


「…五歳の時。共働きだった両親が、昼下がりから夕方までの間に、ベビーシッターを雇ってたんだ」


「随分と…、働き者のご両親だったのね。まだ幼い森川くんを置いて、仕事に行くなんて」


「おい。両親を悪く言うのはやめろ」


 千尋は、十六女の嫌味を睨みながら諌めた。


 十六女は、微笑を崩すことなく、冗談だとでも言うように肩を竦める。


 口を挟まなくなった彼女を見て、千尋は続けた。


「小さかったけど、両親が仕事に行くことは理解してた。それに、冷めきった家庭なんかじゃない。むしろ、父さんも母さんからもちゃんと愛情を感じてた。


 仕事から帰ってきたら笑顔で、僕を抱き上げてくれたし、たまの休日は家族で色んなところに連れてってくれた。


 忙しかったのは、父さんは真面目な平社員で、母さんはフラワーアレンジメントの講師だし、お互い家族のためを思って、働いてたんだ」


「…理想的な家族ね」


「ああ、今でもそう思う」


 どこか、哀愁に満ちた千尋の眼差しは、静かに揺れていた。


 十六女は、それを見つめて、優しい声色で聞く。


「誰かに…、壊された?」


「壊されたのか、壊したのか、よく分からない」


 静かに答えると、千尋は、ふー、と息を吐いて、何かを思い出して、顔を顰める。

 続けて、


「手の離せない母さんと父さんに変わって、昼下がりから夕方までの間にやってくるそのベビーシッターの人は、綺麗な人だったんだ。


 保母さんみたいな可愛らしいエプロンだけど年相応の装いで、女性らしさを忘れずに長めのスカートをよく穿いてた。


 愛想も良くて母さんと父さんとも、すぐに打ち解けて…、でも僕は、最初から好きになれなかった」



「どうして?」


「なんだか…、目の色が、怖かった」


 千尋のたとだとしい言葉の意図を汲めずに、十六女は、少し小首を傾げる。


 千尋は、思い悩んだように、膝に肘をつき、口元に手を宛がった。


「言葉では、上手く表せない…。僕を見る時のその人は、目の色が変わったんだ。違和感だらけで、その人の明るい笑顔も作られたような感じがして。


 とにかく…、その人が家に来て一ヶ月くらいは何事もなかったんだよ。すごく仕事もしてくれて、母さんも嬉しそうだったしいつも助かるって言ってて……」


 サウナのような熱気が籠った、音楽準備室。


 十六女と千尋の首筋や額には、汗が滲んでいた。


 話に一旦区切りをつけるように、千尋はまた押し黙る。


 十六女の顔には、いつの間にか、貼りつけたような笑みは消え、ただ真っ直ぐに彼を見つめていた。


 千尋は、また徐ろに口を開く。


「変わったのは、二ヶ月経ったある日だ。突然『お姉さん』は、僕を『遊び』に誘った」





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