episode - 13『準備室の中』
七月七日――。
陽気は、依然として茹だるような暑さだ。
日を増す事に、陽射しは照りつけ、アスファルトを照射し、陽炎を生む。
何をやっているんだろう、と森川千尋はぼんやりとした意識の中で思った。
微睡みの中にでもいるような、暗く霞んだ視界。
ふー、ふー、と猿轡をされた口元から漏れる苦しげな息。
この状況とは裏腹に、遠くの方で、生徒達の談笑に勤しむ笑い声が聞こえた。
光が失われつつある瞳で見上げた先には、黒真珠のような瞳にぎらついた『欲』を孕ませ息を荒くする少女。
頬を扇情的に赤らめ、蠱惑な微笑みを浮かべて、十六女はするりと赤い舌先で下唇を舐めた。
その瞬間、
どつ、と嫌に篭った重い音がこだます。
「ぐっ…ん…」
数日前、『玩具』になると公言したあの日を境に、千尋は音楽準備室での十六女との密会を重ねた。
時間は、決まって昼休み。
クラスメイトに怪しまれてはならないと十六女が教室を去った後、遅れてそこへと向かう。
十六女と恋人なんていう根も葉もない噂がクラスに流れないようにする為に、千尋から自主的に行っている。
だが、とっくに怪しまれている可能性もあるだろう。何せ、この前まで親友の高崎健吾やその他の友人を交えて予鈴を迎えるまで笑い合い話しながら昼食を共にしていたのだ。
それが、今ではどうだろう。
適当な理由をつけては予鈴五分前まで離席しているのだから、不信に思わないのはおかしな話だ。
その変化に気づいてか、友人らは「彼女でも出来たのか」なんて冷やかすが、健吾からの冷めた疑惑の視線を向けられると、貼りつけたような愛想笑いで否定の言葉が口からついて出る。
そうしてしまうのは、一番知られたくない相手を安心させたいのかもしれない……、いや違う。
そう言い聞かせて安心したいのは、千尋自身なのだろう。
制限時間は、たったの三十分しかない。
その限られた時間の中で、四階の音楽準備室の扉を開けた瞬間から、その少女は飛びつくように白いハンカチで猿轡をかまし、突き飛ばすように埃の被った椅子に座らせると、背もたれの後ろへと両手を組み合わせてガムテープでぎゅうぎゅうに縛りつける。
その前準備を終えて始まるのは、ただの『サンドバッグ』だ。
名の通り、ただ十六女の気の済むままに、殴られるだけの時間――。
「森川くん、まだへばらないでね。私、今とっても満足しているの。私の欲求が満たされたわけじゃなくて、私が『自由に殴れる』っていうこの状況にとても満足してるし、とっても興奮してるの」
口がきけないことを良いことに、饒舌に、長々と独り言のように十六女は言う。
興奮とやらで、新陳代謝が良いのだろう、妙に汗ばんだ首筋に張りついた艶のある黒髪も相まってより一層艶めかしさを醸し出していた。
十六女のその態度と自由のきかない拘束された体に、千尋の苛立ちは隠しきれず、反抗的な眼差しを送る。が、それは最早彼女の興奮材料として上々。
「うっ…!」
的確に、狙いを定めて、腹部の少し上。人の急所とも言われる鳩尾に細くも鋭い拳が重く刺さる。
つくづく、己を馬鹿さ加減と執着心を呪った。こうした状況を能天気に提案したこと、そしてこうした状況でも今だに十六女の改心を望んでること。
そうだ、彼女もまた思春期のどうしようもない憤りと息苦しさでやり場のないエネルギーから歪んでしまったのだろう。
しかし、それは一過性のものに過ぎないのに……、と千尋はぼんやりとした頭の中で達観したような考えに至った。
「本当に…本当に…嬉しいことこの上ないわ、森川くん」
小さく呟いた優しげな声色が、千尋の鼓膜に届いた頃、俯いた視界にぬるりと伸びた白い手。
その瞬間、
喉元が強烈に締め付けられた。
「がっ…!?」
急速に酸素を失い、吸い込もうと面を上げた。その先には、危険な欲に塗れだらしなく息を吐く美しい女が見下ろしている。
(や、ばい…っ)
その危機感は、本能的な部分から来る警鐘。
ぎりぎりと絞めるその手が、まるでどこかの映画に出てくるような迫る壁のように感じられ、自らの命が閉塞感へと追いやられていく。
咄嗟、
ガンッ!と勢いよく足の裏でか細い十六女の腹を蹴り飛ばした。
火事場のクソ力で発揮された脚力は、十六女を二m弱吹き飛ばし、腰かける椅子を後ろへと自身ごとひっくり返してしまう。
「ごほっ…!」
喉が痛くなるほど強く咳き込めば、ふさがれていた気管に新鮮な空気が体内に流れ込む。
この際、準備室の少しの埃っぽさも倒れた際の背中への衝撃や握りこんだ手のひらの痛みすら気にはならなかった。
「いたたた、」
蹴り飛ばしたその先にあった木琴に背中を強打した十六女は、腰を摩りながら、徐に立ち上がる。
ゆっくりとした足取りで、今だに咳き込んでいる千尋の元に行くと、しゃがみ込んで猿轡を外した。
「こ、殺す気かよ…、」
「開口一番で随分物騒なことを言うのね。けれど、大体そうよ」
先程の乱れきった顔つきはどこへやら、すっかりいつも通りの無表情でそう言い放つ。
千尋は、苦しげな息を整えてため息をついた。
呆れた視線は、天井へと舞い、
「早く、起こして、手、外してくれ……。鬱血する」
責める気にもなれずに、たどたどしい言葉を紡いで、ただ手首の圧迫感から逃れたかった。
※※※
「さっきは、ごめんなさい」
ガムテープの締めつけで赤くなった手首を摩っていると、珍しく謝罪の言葉が飛んできた。
千尋は、豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くする。十六女が素直に謝罪…今にでも小惑星が地球に衝突するのでは、と一瞬馬鹿馬鹿しい危惧をしてしまった。
皮は古く廃れ破れてここへと運び込まれたピアノ椅子に座る十六女の表情は窺い知れることは出来ない。
しかし、妙に肩が下がっているのを見ると、本気で申し訳なさを感じているようだ。
(突然殺意に目覚めたり、落ち込んだり、)
馬鹿な奴だ、と簡単な一言で簡潔に蔑んだ。
腑に落ちないと言えば、そうなのだろう。そんな不安定な情緒に真面目に付き合っていると、こちらの身が持たないと千尋はここ二週間で知り、深い感情を持たないようにしていた。それは勿論、怒りも含まれている。
やることなすこと、呆れたような感情で辟易とした態度で彼女の狂気を受け流す。
それが、千尋なりの十六女という狂人への接し方でもあった。
「ごめんで解決できたら、警察なんていらないよ」
小学生のような反論を言えば、ふ、と少し十六女の頬が緩んだ。
先程まで大真面目に制御のできない殺意に身を任せ、それに巻き込まれ死ぬ思いをした。
それさえ除けば、と千尋は思う。
陽射しで照らし出されたハウスダストが舞う倉庫のような陰鬱さが立ち込めるこんな空間でも、この瞬間だけは十六女とただのクラスメイトになれたような気がした。
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