行間
大人しい子供だ、と周りの大人によく言われた。
けれど、私は、その言葉の真意が大人達の表情から分かっていた。
子供らしくない子供だ、と。
私にも、喜んで笑ったり、悲しくて泣いたり、何気ない一言で拗ねたり、喜怒哀楽が備わっている。
ただ集団生活の中で、それをうまく表せなかったのは自覚していた。
ある日、小学一年生だった私は、帰り道で三人組の男子に囲まれた。
黙ってばっかりの大人しいヤツ、そんなところに目をつけられたのかもしれない。
だからか、強く突き飛ばされた。
笑い声が聞こえて、それは徐々に遠ざかっていく。
この場を立ち去ろうとしているのが、分かった。
私にも、喜怒哀楽は、ある。
でも、みんなの前では、大人しくなってしまうの。
ただ、それだけなのに――。
どうしたら認めてもらえるのだろう。
擦りむいた膝から、滲み出る血を見た。
幼稚園時代にも、確か……と思いを馳せていると、一定間隔だった鼓動が、どくどくと早まっていく。
それと同時に、心の奥から何かがゆっくりと溢れ出した。
もやもや、というより、もっと内にこもった熱を孕んだ感情——。
ぞくりと、下腹部が、疼いた。
その瞬間、『何か』が私の中で弾けた。
なんだか、どうでも良くなった、血を見て。
喜怒哀楽が人並に備わってそれをうまく発揮できない己、なんていう悩みすら小さくなって消え失せた。
けれど、どうせどうでも良くなってしまったのなら、
血が、見たいな。
教科書とノートが詰まったランドセルを欲望と劣情に塗れた片手で持ち、立ち上がる。
まるで羽が生えたかのように駆け出した足が、とても軽く感じた。
下品に笑う男子三人組が、こちらに気づいた時には遅かった。
だって、もう、私は、ランドセルを振りかぶっていたから――。
無我夢中でランドセルを振り回し、バコッ!と何かに当たったような感触が手に伝わる。
だが、案外慣れたことはしてみるものじゃない、とすぐに思った。
小さな針が追い立てるように心を、ちくりと刺す。
きっとこれが『罪悪感』というものなんだわ、と体とは別の、首の後ろの方にある意識でそう思った。
けれど、それ以上に、どうしようもなく下腹部と脳内が、ずくずくして、悦んでしまった――。
ランドセルが空回りする頃、我に返ると、そこには地面に蹲って泣きじゃくる男子だけがいた。
何をしてたのか分からなかったけれど、鼻血を出してる男子や痛々しそうに頭を抱える男子を見て、清々しい気持ちに、はなれなかった。
「もっと……」
なんて、上の空で呟く。
あの感触が…悦びが…もっと、欲しい、と思ってしまった。
※※※
「だめじゃないか、杏子。クラスメイトの男の子たちを殴るなんて」
「ごめんなさい」
数日後。
私が殴った男子らの親から学校へと連絡が入ったのだろう。
それを取り合ったのは両親ではなく、歳が五つ離れた兄だ。
自室に呼び出されて、大目玉を食らっている。
そんな話なんてどうでもいい、と頭の大半がそう言っているのかと思うほど、集中はしてない。
うずうず、してきた。
あの体の悦びを知ってからと言うもの、ここ最近ずっと熱に浮かされている。
こもりにこもった劣情の熱は、もう押さえ込んでいるだけでも吐き気がする。
はやく、はやく…、もうその感覚だけで、体が一杯になってる。
「何があったかは分からないけど、杏子からもきちんとその子たちに謝っておくんだよ。いいかい?」
「わかった……、わかったから……」
もうだめだ、と思った。
何かを我慢しているように震える私を兄は首を傾げて、不思議そうに見下ろしている。
ぞくぞく、と背中に走る電流。
そんなかわいいかおしてないで、
わたしをみないで、そんなにみつめられたら——、
「おにいちゃん、『叩かせて』」
「え?」
その瞬間、ぱちん!と私は兄の頬を、思いっきり平手打ちした。
どて、と兄は呆気なく床へと倒れ込む。
じんじん、と私の手の平が熱い。
はぁ、はぁ、と言い表し難い高揚感で息が上がる。
「な、なにするんだよぉ」
今にも泣きそうな震えた声で、兄は言った。
もう、
「だめなの」
抑えきれない、と心の内側から何かが飛び出す。
もっと、もっと、もっと!という傲慢で冷酷な『欲求』。
兄に馬乗りになって、とても小さい握り拳を振り下ろす。
拒絶する兄の声は、遠くて。
己の高鳴る心臓の音と荒い息遣いだけが、鼓膜を支配する。
拳が『肉』に当たる度に、私の下腹部が、ただただ、疼いた――。
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