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青春リンチ  作者: えくぼ えみ
二章 『花と栞と脅迫と』
11/21

episode - 10 『世迷言と決壊』

 



 全くなんなんだ――。


 森川千尋は、両膝に手をついて中腰の体制で荒い息を整えていた。

 思いっきり深呼吸をして、上体を起こすと乳酸が溜まった重い足を進める。


 階段をあがり、五階にたどり着くと、その階段のそばにある段数の少ない階段を見上げた。


 その先に待っている鉛の扉を見る。


(ここって確か……)


 普段ここに来る度に通り過ぎていたが、ここは立ち入りを禁止されている屋上へと続く扉だ。


 確かにここの扉を開く音がした。

 そしてその先に『奴』も待っている。


「…………」


 その前までやって来て、徐にドアノブに手をかけた。


 重く、軋んだ悲鳴をあげて、ゆっくりと開く。

 ぶわ、と風が入り込むと眩しい陽射しが暗い場所に慣れていた目を突き刺す。


「ねぇ、教えてくれないかしら」


 そして金網のフェンスに凭れ、こちらを見据える十六女杏子と、


「何故、通報しなかったの?」


 対峙する。


 その美しい顔に無邪気な笑み浮かべて、彼女は、そう質問してきた。


 じりじりと脳天から焼けるような暑さ、しかし隔てる壁がないここは心地の良い風が吹き、それを相殺する。


 千尋は、少しの沈黙の後、


「……自首させに来たんだ、お前を」


「……?」


 十六女は、一拍置いて少し首を傾げた。


 口角はあがったまま、目はぱちりと開き、まるで聞こえていなかったような間の抜けた顔だ。


 しかし、実際に聞こえていた十六女は、千尋が言い間違えたのではないかと思っていたが、彼の強い眼差しと、訂正がないことで、間違えではないと知る。


 溜息にも似た、残念そうな吐息を吐き、十六女は徐に腹部まで伸びた艶やかな黒髪の毛先を指でくるくると巻きつけた。


 全てを飲み込んだ上で、彼女は口を開く。


「……そんなに効いた?私の栞は」


「いや、むしろムカついた。通報してやろうかと思ったよ」


「そうね、そうだと思う。だって森川くん、通報しない『理由』が他に何かありそうだもの」


「ないよ、そんなもの」


 そうきっぱりと断言する、千尋。

 その態度に面白みがなくなったのか、十六女は軽く溜息をついた。


 すると、


「更生して欲しいんだ」


 千尋の口から徐に出たその言葉に、十六女の体が、ぴくり、と少し反応した。


 続けて、


「……いちクラスメイトとして、十六女に出来ることがしたい。通報しようとも思ったけどそれだともっと

 罪が重くなるっていうか……。だから自首して欲しい」


「……そう、それで?」


「いきなりしろって言ってもしないことくらい分かってる。だから、まず十六女の良く知りたいんだ」


 千尋の顔つきが、また強い意志を持った精悍なものへと変わる。

 最初に見かけた時の、あの強張った表情ではない。野うさぎのようなびくびくとした警戒心もない。


 その様を見て、にんまりと薄ら笑いを浮かべて、十六女は聞いた。


「知って、どうするの?どうして、私を知れば私が自首すると?」


「……ない頭であれこれ難しいことは言えないけど」


 千尋は、軽く握った拳に顎を乗せるように宛がい、うーん、と少し唸ってから続けて、


「例えば、銀行強盗が立てこもって人質を取ったとしても交渉の余地はあるって考えて信頼を得て説得しようとする人がいるように、僕も十六女にはまだそういう余地があるんじゃないかって思ったんだ」


「……ふーん。つまり、森川くんは、私を知ることで信頼を得てから自首させる、ということね」


「まぁ……、そうなるかな」


 分かりやすく例えてくれたお陰なのか、十六女もすぐに飲み込め理解できた。


 しかし、それでも、彼女にとっては、とても――、


「いいわ。それじゃあお互いを良く知るためには、もっと親睦を深めないと」


「え?」


 その言葉を聞いた千尋は、豆鉄砲で撃たれた鳩のように目を丸くする。


 が、それも束の間だ。いつの間にか、彼女は目の前にいて、妖艶な笑みを浮かべていた。


「な、」


 そう声をあげた瞬間、ゴスッ、と胃のど真ん中あたりに鋭い衝撃が走った。


「ッ…!?」


 息が詰まる。気管に蓋でもされたように呼吸がうまく出来ない。

 あえなく、片膝が地面に落ちる。


「げほ…!」


 咳き込んでも、空気をうまく取り込めなかった。

 ゆっくりと面を上げ、見上げると、



『狂人』が微笑んでいた。



「私を良く知りたい?」


 だが、彼女は、彼の意見に理解は出来ていても、


「私を自首させる……」


 これっぽっちも、


「とっても良い『口説き文句』だわ、ああおもしろいおもしろい」


『納得』などしてはいなかった――。


 大根役者のような抑揚のない声で皮肉を言い終わると、いまだに鳩尾を殴られ立つことすらままならない千尋を軽く蹴り、転ばせた。


「なに、すんだよ…!」


 呼吸が正常に戻った千尋は、鳩尾の痛みに堪え、地面に両手をつき立ち上がろうとした。


「森川くんの脳ミソって小さな毛細血管にまでクソが詰まっているのかしら?」


 しかし、十六女はまるで汚物を見るかのような蔑みに満ちた視線を落としながら、押さえつけるように千尋に跨る。



「そんなおとぎ話のような綺麗事で犯罪者が自首するようなら、この世界に『暴力』なんて言葉そのものすら生まれていなかったわ」


「ぐッ!」


 独り言のように言葉を紡ぐ十六女は、とてもか弱いそうな細い体躯からは想像もできないほどの力で千尋の両腕を掴むと折り畳んだ両膝で地面に押さえつける。一見すると正座した十六女の下に千尋がいるような状態だ。


 多感な時期の少女と少年――、ここは屋上で、尚且つ今日はよく風が吹く。


 千尋の眼前には、そよ風でひらりちらりと揺れ動くスカートの裾があった。


 通常であれば、赤面して照れ隠しにも似た怒りを顕わにするところであるが、不思議にも時めきに似たものは感じない。


 それどころか……。


 千尋は、何か胸の奥で、ぞくりとする『ざわめき』を感じた。


「は、早くどけよ…ッ!十六女!」


「苦しい?それとも照れているのかしら?」


「そんなのどうでもいいだろ!どけよ!」


 いつになく声を荒げる千尋。それは怒りのような声色のようで、恐怖からなる叫びにも似ていた。


 しかしそんなことを気にも留めず、十六女は続けて、

「ねぇ、森川くん。なぜ、あなたは私のことを頑なに『通報したがらないのかしら』?」


「知らねぇよ!!」


 その怒号で、十六女は少し口を一文字に噤んだ。


 何かが、おかしい。漠然とだが、そう思った。

 知り合ってそこまで日にちは経っていないものの、ある程度の人柄は掴める。


 森川千尋が、とても、とても、動揺して、


『何か』に怯えているのが。



 自身が襲ったあの時よりも、と十六女はふと思った。


 彼をじっくり見てみると、目をひん剥き、まるでこの世のものではないものでも見たかのようにさっと血の気が引き、顔の強張りで歯がガチガチと小刻みに鳴って、過呼吸になりかねない程に荒々しく息が乱れている。


 何よりも、その視線は十六女の股座に向けられていた。


「ハァッ…!ハァッ…!」


 千尋は、胸の『ざわめき』が動悸へと変わっていく様を感じた。


 同時に両眼に映る、露出した白い両腿とスカートの奥にある『暗闇』が、ぞくぞくと背筋をなぞるような感覚を呼ぶ。


 嫌な脂汗が、毛穴という毛穴から溢れ出す。




 何かが、やってくる。得体のしれないその『何か』は、己の内側を、




 ぶちぶちと、ぐちゃぐちゃと、




 食い破ってくる。





 手足か?胴体か?内臓か、脳みそか。





 どこだ、どこだ、とても奥から聞こえる。



 嗚呼、これは『心の肉』を抉り食っている音だ。




 そう…実感した。




「壊れる」、



 ふいに出た言葉。



 耳を塞ぎたかった、この音を聞くと『死んでしまうから』。



 首元まで手を持っていきたいが、誰かの足で阻止されている。


 視線を水平に戻した、青々とした空が広がっている。



 遠くの方で、誰かが、何かを言っていた。



 しかしその声は、とても聞こえづらくて、ひどくぼんやりとしている。



 だが、



「なら、壊してあげる」



 その言葉は明瞭に、はっきりと鼓膜に届いた。


 その刹那、目の前に『暗闇』が覆いかぶさってきた――。





 .


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