秦康成(1)
「それでさー、皆結構飲んでたんだけど、ぱっと福本の奴見たらあいつ畳の上に転がっていつもの有様だよ」
「出た、サイレントリバース」
「店員バチギレ。俺らに雑巾投げつけて後始末させられたよ」
「それは腹立つけど、まあ悪いのこっちだしな」
「居酒屋のバイトって大変だよな。なあ、ヤス」
「ん? ああ。そうだな」
「何だよー。カワイイ店員さんにでも見とれてたか?」
「はは、悪い悪い。お前らの話よりも美人を眺めてる方が体に良いからな」
「おいおい俺らの存在は病原菌並みかよ」
「で、どの子だよ。名札つけてっから名前分かるだろ?」
「あー、だめだめ。お前らにあの良さは分からないよ」
「んだよそれー。情報共有が大事だろ? ホウレンソウはしっかりと」
「大学生の癖に社会人ぶんなよ」
「でも、もうすぐ始まるんだよな」
「新社会人。お遊びは終わりだな」
聡史、宗太。いつものサークルの飲み仲間といつもの居酒屋。
こいつらと過ごす楽しい時間。
四年間。多いに楽しんだ。
面白そうだと思って選択した経済学部の授業は予想以上に面白くはなかったがその中で出来た新しい人間関係は大きな財産となった。
もともと高校でベースを弾いていた事もあり、その流れで入部した軽音サークル。
実際に演奏する楽しさは、聴くだけでは味わえない充実感があり、仲間達と苦楽、感動を共にした。
ほとんど遊んで過ごした毎日にどれだけの学費がかかっていたかを考えると親には申し訳なく思うが、それでもこの大学で得た多くの仲間達は何ものにも代えられない一生の宝だと俺は本気で思っている。
しかし、そんな生活も後数か月で終わる。
就職氷河期なんて言われて出鼻を挫かれた同世代達。俺もその一員だった。
確かに苦労はした。
何も分からない中で、自分が進むべき方向を模索し、何度もエントリーシートを提出した。その結果に一喜一憂しながら進んだ面接で結果が出せない苦汁の日々。
時間はかかった。だが、ひとまずの結果を出す事は出来た。
俺も、聡史も、宗太も。晴れて来春から新社会人だ。
そしてそれは、こんな無邪気で自由な生活の終わりでもあった。
「あーあー、金の雨でも降ってくれないかねー」
「宝くじでも当たったらなー」
「やめようぜ、そういうの。虚しくなる」
「ヤスは現実的だよなー。夢がねえぞー」
「そんな叶わない夢なんて幻にすらなれないよ」
最近飲めば必ず最後にこうやって学生の終わりを嘆くのがお決まりだった。
気持ちは大いに分かる。自分もしんどい思いをせずに金銭を得て暮らしたい。というよりも今の生活がずっと続いて欲しいというのが一番正直な気持ちだった。
こいつらとずっと馬鹿をやっていたい。
ふらふらと夜道を三馬鹿が歩く。日中であれば迷惑千万な千鳥足揃いだが、皆が寝静まった深夜の街路がそれを許してくれる。
ふわふわした気持ち良さと荒立つ胃の気持ち悪さが混在した感覚の中で足を動かす。
その時、酒で暖まっていた体が一瞬身震いするほどの冷気に包まれた。
――ああ、またか。
酔っていた頭が冷静に働く。どんなにアルコールが回っていようとも、その感覚は急激に自分の頭を切り替える。
“……さむい”
はっきりと耳元で聞こえた女性の声。
気付かれないように振り返ると、白いセーターとデニム姿の女性がそこにいた。足元は素足で、その肌はペンキで塗ったように真っ白だった。踵がこちらに向いている事を確認し、長く伸びた髪の毛が顔を隠している前髪ではなく後ろ髪である事に俺はひとまず安心する。後ろ向きという事はおそらく彼女は気付いていない。
だが、そこで思い直した。
――いや、待てよ……。
――あいつ、さっき耳元で囁いたよな……。
視線を前に戻す。あっと思った時には、真っ白な肌と血走った目が視界を覆い尽くしていた。
“キヅイテルヨ”
悲鳴をあげそうになった次の瞬間には、もう彼女の姿は眼前から消失していた。
「はー……はー……」
鼓動の速さに伴って荒れた呼吸を何度も繰り返す。
前を歩く二人はそんな俺の一部始終を何も知らずじゃれあっていた。まったくいい気なものだ。その後ろでこんなにも怖い目にあっているというのに。
「ふー」
やがて呼吸が落ち着く。
呼吸が落ち着けば心が落ち着く。こういうパターンはいつまで経っても慣れないが、落ち着いてしまえばどうという事もなく、決してそれを引きずる事はない。
「まったく……」
これが初めてであれば、俺は恐怖に震え二人にすがりつくだろう。だがそんな事はしない。こんな不条理な出来事も、俺にとっては日常の一幕に過ぎない。
俺にはどうも、幽霊が見えて仕方がない。